こんばんは、茅野です。
わたくしは Wikipedia の編集もたまに行うのですが、最近、ごく簡単な修正を数カ所しただけですけれども、とうとうロシア語版にまで手を出しました。Wikipedia からロシア語でメールが届くようになりました。怖い。
「 Wikipedia は間違いだらけだから信用するな」という意見は、Wikipedia が誰でも自由に編集できるものである以上尤もだと思いますし、某氏じゃないですけれど、何が正しいのかを見極められないうちはそのようなスタンスで宜しいと思います。
しかしながら、「間違いだらけ」なのがわかっているのだとしたら、何故自らその間違いを正そうとしないのでしょうか? 無邪気に全てを信じ込む純粋な人を恐ろしく思う一方で、斜に構えるだけで何も行動しようとはしない怠け者にも懸念があります。
皆でよりよいインターネット環境を作り上げましょう。
さて、今回は当ブログで初めての試み、「ファクトチェック」で御座います。
対象とするのは、サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ著『ロマノフ朝史(The Romanovs)』です。
↑ 鈍器×3。伝説のスペース泥棒たちである。
4年くらい前に原著(英語版)を買っていたのですが、邦訳が出たとのことで、近代ロシア史オタクとしましては、一応課金をば、と……。高かった……。
しかし、正直なところを申し上げると、何故今更になってこの本の邦訳を出したのか、その意図がよくわかりません。
と申しますのも、確かにモンテフィオーリ氏はイギリスでは大人気の歴史家さんですが、ロシアでは「事実誤認が多すぎる」として、多くの批判を浴びている人物でもあるからです。
幾ら内容が面白おかしくとも、「歴史書」を名乗る以上は、事実に基づいた記述をして欲しいものです。
ロシア語圏では、ニコライ2世について数十ヶ所にもわたる指摘がされている、なんて恐ろしい噂も耳にしますが、ニコライ2世についてのファクトチェックが進められているのなら、彼の同姓同名の伯父に関しては、僭越ながらわたくしがお引き受けしようかと思いまして……、たぶん他に誰もやる人いないですし……。
わたくしは近代ロシアの政治史の中でも、特に皇太子ニコライ(ニクサ)・アレクサンドロヴィチ殿下(1843-65、アレクサンドル2世の長男でアレクサンドル3世の兄)に関心があり、この人物についての史料を集めることを趣味の一つとしているので、幾つか気が付く点も御座いますものでして……。
↑ これまで書いてきた殿下関連記事はこちらから。
というわけで今回の記事では、『ロマノフ朝史』(下巻)の記述の中から、ニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下に関する記述を細かく確認し、その正誤をあきらかにすることを目的とします。
全ての記述に対して、一次史料に記載があるか否かを提示し、否定的な場合は、信頼できる研究者が類似の内容を記述しているか否かも確認します。
邦訳、原著(英語版)の双方を確認します。
とはいえ、ネガティヴキャンペーンをしたいわけでも御座いませんので、同書を読んでいなければ意味を解せない記事にはなっています。同書を読んだ人向けです。
また、当記事では、断りがない場合、暦はユリウス暦で表記します。
細かく、容赦無く参ります。
それでは、お付き合いの程宜しくお願い致します!
- ファクトチェック
- 73ページ 8行目
- 117-8ページを跨いで
- 122ページ 1-4行目
- 124ページ 18-19行、125ページ 1行目
- 125ページ 2-14行目
- 125ページ 15-20行目
- 126ページ 1-6行目
- 126ページ 7-14行目
- 127ページ 18-20行目、178ページ 1行目
- 128ページ 2行目
- 127ページ 3-7行目
- 128ページ 8-18行目
- 128ページ 19-20行目、129ページ 1-10行目
- 129ページ 11-20行目
- 130ページ 1-14行目
- 130ページ 15-20行目
- 131ページ 1-8行目
- 131ページ 20行目、132ページ 1-8行目
- 139ページ 12-17行目
- 総括
- 最後に
ファクトチェック
73ページ 8行目
>~と皇帝は書いている。
→多少語弊がある。事実、ニコライ1世の署名付きの政府による1843年9月8日のマニフェストに以下のような一文が含まれている。
Таковое Императорского Нашего Дома приращение приемлем Мы новым ознаменованием Всевышнего, на Нас и на Нашу Империю благодати изливаемой.
但し、「書いている。(原文: wrote the tsar.)」という文からは日記か手紙が想像されるが、皇帝ニコライ1世は日記を好まず、即位時など特定の期間しか書き記さなかった。
この表現から公式の声明文書に対する署名と解するのは困難であり、誤りとまでは言わないまでも、不親切であると感じる。
117-8ページを跨いで
>コンスタンティン大公の日記
→1861年2月19日のコンスタンティン大公の日記は以下の通りである。
19 февраля
Собрались к обедне в Зимний, после чего был молебен с чудными молитвами по случаю дня восшествия на престол.
После завтрака все разошлись, а я остался, чтоб посмотреть, как Саша подпишет Манифест, и попросил его, чтоб он к этому позвал и Никсу. Тут была еще Мария.
Сперва он его громко прочел, и, перекрестившись, подписал, а я его засыпал песком.
Потом в течение дня он подписал и все положения, и перо, которое он при этом употреблял, подарил на память Никсе.
С сегодняшнего дня, стало быть, начинается новая история, новая эпоха России.
Дай Бог, чтобы это было к вящему ея величию.
Катались с жинкой в коляске на колесах. На санях уже нет возможности ездить.
На сегодняшний день пророчествовали революцию и разный вздор, а город был так тих и спокоен, как всегда.
Обед был семейный у Саши, а вечер провели дома.
『ロマノフ朝史』に於ける当パラグラフについて指摘したいのは以下の二点。
第一に、「朝食(原文: breakfast)」という表記だが、恐らくロシア語の завтрак を指していると推測できる。確かに現代ロシア語に於けるこの語は「朝食」を意味するが、アレクサンドル2世期の皇家の「завтрак」は13時から開始するため(出典: В. А. Семёнов )、ここでは「昼食」とする方が適切である。
尚、早朝には、皇家は珈琲又は紅茶と、フルーツや白パンなどが食され、これが現代に於ける「朝食」であると見做してよいだろう。更に、現代ロシア語で「昼食」を意味する обед が、皇家の「晩餐」に相当する。
第二に、コンスタンティン大公の日記には「新しい時代が始まった瞬間だった。革命的変化が起ころうとしていた。(原文: A new era has begun. They predicted revolution.)」とある、と記載されているが、前述のように、実際には ≪ начинается новая история, новая эпоха России. 新しい歴史が、ロシアの新しい時代が始まる。≫ としか書かれていない。
寧ろ、革命に関しては、その後に ≪ На сегодняшний день пророчествовали революцию и разный вздор, а город был так тих и спокоен, как всегда. 今日は革命だとか、ばからしいことが色々起こるなんて予想されていたが、しかし街はいつも通り、静かで落ち着いている。≫ と続いており、意味するところは殆ど真逆である。
ロシア史に於いて、революция / revolution / 革命 という語は特別な意味を持っていると言っても過言ではないだろう。全く不正確な引用・翻訳(露→英)である上に、意訳としても、この語をわざわざ登場させることは不適切であると言わざるを得ない。
コンスタンティン大公には「赤き大公」という二つ名があり、皇族にして社会主義的な考え方にも理解があったと言われている。彼に対するこのような評価が、著者に偏見を与えたのではないかと邪推するものである。
122ページ 1-4行目
>毎朝、朝食が終わると~
→ここでの「朝食」は、 завтрак ではなく、前述の早朝の珈琲・紅茶の類いであると推測できる。何故なら、アレクサンドル2世が閣僚に接見するのは10時過ぎからだからである(出典: И. В. Зимин )。
>家族への愛
→当人以外が「本当に愛しているか」ということを証明する術は存在しない。しかしながら、アレクサンドル2世の家族に対する態度は、お世辞にも模範的であるとは言えないだろう。
確かに、彼は事ある毎に家族に対し「愛する云々」のような文句を書き連ねているが、側近の記録などを読む限りでは、寧ろ「無関心であった」と捉える方が一般的な尺度に沿うと思われる。
また、「長男を贔屓した」という旨の記載があるが、それを裏付ける史料は存在しない。
寧ろ、長男ニクサ(ニコライ)の友人であった В. П. メシチェルスキー公爵や、同じく С. Д. シェレメチェフ伯爵によれば、「皇帝は長男に嫉妬さえしていた」と供述している。(参考: 弊ブログ『メシチェルスキー『回想録』1863年31節 - 翻訳』、『皇太子拉致未遂事件 - 1861年晩夏の反体制派たち』)。
逆に、皇帝が長男を偏愛したことを裏付ける史料をご存じなら、ご教授頂きたいものである。
但し、皇帝は、長男の側近や教師から、彼に関しての肯定的な文書を多く受け取り(例: О. Б. Рихитер, Ф. А. Оом の報告書)、それに対しての感謝を表明している為、彼の能力にある程度満足していたことは事実であろう。
124ページ 18-19行、125ページ 1行目
>皇太子評
→明らかに Б. Н. チチェーリンの回想録からの引用である。(以下を参照のこと: 弊ブログ『ガデンコ『皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ』⑵ - 翻訳』)。
又、彼が絵を描くことが得意であることは、オリガ・アレクサンドロヴナ大公女や、П. А. クロポトキンが証言している。
125ページ 2-14行目
>フランス語の勉強について
→エピソード自体は記録されているが、対話の相手が違う。1855年10月3日の А. Ф. チュッチェヴァの手記には、以下のようにある。
3 октября.
Императрица, между прочим, передала мне один разговор, который у нее был с наследником.
Императрица требует, чтобы во время прогулки наследник говорил для практики по-французски. Он это большей частью исполняет очень неохотно.
Императрица сказала ему: «Но подумай только, когда ты вырастешь, как тебе будет стыдно, если ты не будешь в состоянии разговаривать с иностранным послом».
«Эх, — ответил ребенок, — у меня будет переводчик».
— «Но вся Европа будет над тобой смеяться».
— «Ну что ж, я буду с ней воевать».
Тут императрица прочла ему отменную проповедь на тему о том, что император не имеет права воевать из-за личных обид.
Но эта черта и тысяча других дают повод надеяться, что время исключительного влияния Запада миновало безвозвратно.
Россия направляется к другим судьбам, она постепенно вернется к своей национальной жизни и исторической миссии…
この記述から、会話の相手は皇帝(ニコライ1世)及び皇太子(アレクサンドル・ニコラエヴィチ)ではなく、母マリヤ・アレクサンドロヴナであることがわかる。
しかし、相手を皇帝・皇太子とする、同じ内容のものを歴史家 Э. С. ラジンスキーらも記載しているため、別所にそれを裏付ける記述が残っている可能性は存在する。出典を書いて欲しい。
また、「フラン語」は「フランス語」の誤植か。
>枕投げのエピソード
→部分的には正しい。原注によると、ここで引用されているのは1856年3月7日の А. Ф. チュッチェヴァの手記であるという。確かに、そこには以下のようにある。
Маленькие великие князья, Николай и Александр, меня очень позабавили. Маленький великий князь Николай говорил с важным видом: «Папа теперь так занят, что он совершенно болен от усталости. Когда дедушка был жив, папа ему помогал, а папе помогать некому: дядя Константин слишком занят в своем департаменте, а дяди Никс и Миша слишком молоды, а я слишком еще мал, чтобы помогать ему».
На что его брат Александр с живостью ответил: «Дело совсем не в том, что ты слишком мал, ты просто слишком глуп».
«Это неправда, что я глуп, – возразил наследник с сердцем, – я только слишком мал».
– «Нет, нет, ты просто слишком глуп». Наследник престола, выведенный из терпения этим непочтительным утверждением, схватил подушку и бросил ее в спину своего брата.
Великий князь Алексей счел уместным принять сторону оппозиции и в свою очередь стал кричать во все горло: «Ты глуп и просто глуп».
Возникла драка, и няням пришлось вмешаться, чтобы восстановить мир, и наследник удалился, сильно обиженный недостатком доверия со стороны братьев к его способностям к управлению…
一方で、1855年の Н. П. グロートの手記によると、以下のようにある。
Так, однажды, вскоре по восшествии на престол Императора Александра II, Николай Александрович в присутствии брата сказал бывшей их наставнице Скрыпицыной, что "ан-папа -- так еще по старой памяти называли внуки покойного дедушку -- не столь тяжело было царствовать, как теперь будет "нашему папа", потому что "наш папа" ему много помогал, а кто будет помогать папа?"
"Дядя Костя, -- рассуждал Цесаревич, -- занимается все своим Морским министерством; дяди Коля и Миша слишком молоды. Вот я бы мог помогать, но я тоже очень молод"... "И очень глуп", -- заносчиво прервал его Александр Александрович.
"Совсем не глуп", -- обиженно отвечал старший брат, -- этого никто про меня сказать не может, а молод..."
"Нет, и глуп еще", -- задорно настаивал меньшой.
Горячий спор этот кончился, как и все такие же споры между братьями, тем, что Саша, заметив, как любимый брат близко принял к сердцу его непочтительную выходку, бросился к нему на шею и, крепко обняв его, восторженно воскликнул: "Ах, Никса, как я тебя люблю! Когда ты будешь царствовать, я буду твой первый и самый верный слуга".
これらの記述は、明らかに同じエピソードについて語っている。恐らく、チュッチェヴァとグロートは同じ場に居合わせたのだろう。
しかし、皇太子が語りかけたのはチュッチェヴァではなくスクリピツィナであると記されていることから、モンテフィオーリが「チュッチェヴァに本心を打ち明けている。(原文: Nixa sincerely told Tyutcheva.)」としているのは誤りである。
尚、В. Н. スクリピツィナは、ニコライが3-5歳と幼い頃に養育を任されていた女性である。
125ページ 15-20行目
>軍隊の訓練
→事実。軍人気質の祖父・ニコライ1世期にあたる幼少期から軍事には慣れ親しんでいたが、16歳で成人を迎え、С. Г. ストロガノフ伯が主要教師になると、更に軍事演習に積極的に参加するようになる。このことは、側近や皇帝など多くの人が記している。
一方で、ストロガノフ伯によれば、« Холожное и равнодушное отношение, если не отвращение к военному деле.(皇太子は)嫌悪感とまでは言わないまでも、軍事に対し無関心で冷淡な態度を取っている。» と述べている(出典: С. С. Татищев )。
>コンスタンティン大公からの評価
→出典不明。少なくとも1860年代の日記や、皇帝宛ての手紙には記載が無い。情けないことに、リサーチしているが情報を掴めていない。恐らくモスクワの文書館に行かない限りはわからない(=インターネット上で読める論文や、日本へ輸入できる書籍には記載がない)。
但し、ロシア国立歴史博物館の研究部門副長である А. Д. ヤノフスキーなど、信頼できる研究者もこの件について言及している他、コンスタンティン大公は手紙や日記に皇太子の能力を高く評価する旨を多く記載している為、これを裏付ける記録は存在するものと思われる。求む出典。
>歴史を教えた家庭教師
→事実。皇太子にロシア史を教えた С. М. ソロヴィヨフのこと。原文は以下の通り。
Соловьев говорил, что если бы из Московского университета выходил раз в десять лет один студент с познаниями русской истории, какие имел цесаревич, то он считал бы своё призвание исполненным.
(出典: Е. П. Толмачев )。
126ページ 1-6行目
>国内査察
→一部誤り。彼が国内査察を行ったこと、そのメンバーの中にポベドノスツェフを伴ったことは事実だが、国内査察旅行は1863年の出来事である。
原注曰く、この手紙は1862年6月のものであるため、「この国内旅行の途中(原文: wrote the boy from his travels,)」という表記は誤り。但し、原文では his travels となっているため、邦訳にのみ掛かる問題と捉えることも可能だが、いずれにせよ紛らわしい表記である。
また、彼がリーバウに滞在したのは1862年7月7日から8月1日であるため、原注の「62年6月」という表記に関しても懐疑的だが、残念ながらこの手紙は文書館以外での確認の術がない。仮にグリゴリオ暦で表記すれば6月となるものであったとしても、モンテフィオーリの『ロマノフ朝史』の日付はユリウス暦で記されているため、その場合は暦の混同が認められる。
(参考: 弊ブログ『ガデンコ『皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ』⑴ - 翻訳』)。
126ページ 7-14行目
>ダーグマル王女に関する手紙(1863年8月3日)
→事実。原著の英訳は、А. バルコヴェーツ『Kejserinde Dagmar』(1997) に載っているものと殆ど同じで、カンマを複数抜いている他、have not→haven't になっている程度の差しかないため、この訳をそのまま引用しているのだろう。これより後、皇太子と王女の書簡は全て同書からの引用。
皇太子は、成人を迎え、宣誓を行った後、即ち結婚が可能になると、両親からデンマークのダーグマル王女の写真を見せられ、婚姻の最有力候補と聞いたときから、会ったこともない彼女に対して、謂わば "操を立てた"。皇太子の鑑。
>訪問先
→イタリア、ドイツ、デンマークが挙げられているが、デンマークに次いで重要視されていたのはオランダである。彼は7月から8月に掛けて、一ヶ月間オランダに逗留した。
結局、彼はこの旅で、ドイツ、オランダ、デンマーク、イタリア、フランスに訪れた。
127ページ 18-20行目、178ページ 1行目
>ダーグマル王女に関する手紙(1864年)
→邦訳版のみ、一部誤訳(或いは意訳がすぎる)。1864年8月24日付けの皇太子から皇后宛ての手紙には、以下のような文章が含まれる。
Если бы ты знала, как я счастлив: я влюбился в Dagmar.
Но, как же мне не быть счастливым, когда сердце говорит мне, что я люблю ее, люблю горячо...
Как мне описать ее? Она так симпатична, проста, умна, весела и вместе застенчива. Она гораздо лучше портретов, которые мы видели до сих пор. Глаза ее говорят за нее: такие добрые, умные, бойкие глаза.
邦訳の「それだけで幸福な気分になれる。」は、原文の ≪ Но, как же мне не быть счастливым, когда сердце говорит мне, что я люблю ее, люблю горячо...(直訳: しかし、心が僕に、彼女を愛している、熱烈に愛していると言うのに、どうして幸せになれないなんてことがあるだろうか……)≫ に相当するため、意訳が過ぎるのではないか。
128ページ 2行目
>ダルムシュタットで
→邦訳版の誤訳。ダルムシュタットで皇太子が会ったのはダーグマルの両親ではなく、自身の両親である。
原著では、 ≪ Afterwards Nixa met his parents in Darmstadt, ≫ になっているため、ここは邦訳版の誤訳。
127ページ 3-7行目
>手紙
→事実。1864年9月19日付けの皇太子から皇后宛ての手紙には以下の文章が含まれる。以下、バルコヴェーツによる英訳。
Her father, mother and brother walked ahead of us, and the two of us lagged behind. I wanted the earth to swallow me up. Bit by bit, I confessed my guilt: I was building up to say I love you in a roundabout way but she understood clearly. A heartfelt Yes was finally said and we kissed and squeezed each other's hands.
尚、弟アレクサンドル宛てにも同じ出来事について綴っている。以下にこの手紙の全文と、アレクサンドル宛ての手紙を邦訳しているので、参照のこと:弊ブログ『婚約を巡る書簡集 ⑵ - 翻訳』。
128ページ 8-18行目
>医師たち
→複数形になっているが、主にフィレンツェの医師ブルチによる診断。
皇太子の主治医のシェストフは無能で、まともな判断を下せなかった。
>日光浴
→要出典。水浴の誤りでは?(そちらに関しては記録がある)。
>ロシアの軍艦
→ Фрегат Витязь(勇士)号のこと。
>詰問の手紙
→事実。原文(フランス語)は文書館にのみ現存。
1865年4月7日(グレゴリオ暦)付けの手紙に記述あり。バルコヴェーツによる英訳は以下の通り。
I greatly fear that you have become enamored of a lovely Italian girl with big, black eyes who has made you forget your poor little fiancée in the north!!!!!
かわいい。
>返答の手紙
→事実誤認。皇太子は上記の手紙に対する返答を書いていない。
彼は4月には病の進行により眼筋の機能が衰え、酷い乱視状態であったため、文字の読み書きは不可能になっていた(参照: Ф. А. Оом 他)。
>オーストリア人の医師
→ヨハン・フォン・オポルツァーのこと。
彼は、皇太子の死の前日の4月11日の朝、皇太子が患っていた病は結核性髄膜炎であると診断した。(以下参照のこと: 弊ブログ『ガデンコ『皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ』⑵ - 翻訳』)。
>波の音
→事実誤認とは言わないまでも、懸念のある表現。確かに、Ф. А. オームの回想等には、「医師シェストフやハルトマンが、波の音が患者の神経に障ると診断した」という記述があるが、それはシェストフら能の無い医師たちが、皇帝夫妻を安心させるために皇太子の病を軽く見て、己が皇太子を治せない理由をでっち上げただけにすぎず、夜に眠れなかった理由は激しい頭痛にあったと考えられている。
事実、皇帝は妻に対し、長男の病とその治療に関して、以下のような言葉を書き送っている。
Это только убеждает меня лишний раз в том, что медики, когда они сами не знают более, что делать, приписывают климату состояние своего пациента, другими словами, что они в важных случаях только доказывают свою некомпетентность.
医者というのは、これ以上何をしたらいいのかわからなくなると、自分の患者の病状を気候のせいにしてしまう、言い換えれば、重要な時に自分たちの無能さを証明しているだけに過ぎないのだと、改めて確信したよ。
>ヴィラ・ベルモンド
→英語読み。現地フランス語、及びロシア語では語末は発音せず、ヴィラ・ベルモン(ベルモン荘)となる。
ところで、この『ロマノフ朝史』で気になる点に、固有名詞の音写の揺れが挙げられる。例えば人名だが、何故「ニコライ」「アレクサンドル」のようにロシア語読みの表記もある一方で、「アレクシス」と英語読みの表記が混在しているのか? 極めて不自然であり、可能ならばロシア語読み、そうでなくとも英語読みのどちらかに統一することが望ましい。
>半身不随
→脳出血を起こした後の数時間のみ。側近らの間でも、右側と書いている人と左側と書いている人がおり、どちらが正しいのか不明。
128ページ 19-20行目、129ページ 1-10行目
>電報
→個人的には原文(フランス語)は未確認。しかし、そのような内容の電報が送られたことは疑いない。
>「可哀そうなママ」
→事実。表記が歴史家によって多少異なる。С. С. タチシチェフは以下のように書いている。
« Бедная Ма! Что ты будешь делать без твоего Никсы? »
一方、 Ю. В. クードリナの記述は以下の通りである。
« Бедная Ма, что с тобой будет без твоего Никсы? »
違いは下線部のみ、意味は殆ど同じ。
>「サーシャ!」
→精確な出典(一次資料)不明。但し、歴史家 Ю. В. クードリナも同じ台詞を書いている。そちらでは以下のような表記(ロシア語)。
« Саша, Саша! Что ты тут делаешь? Быстро подойди и поцелуй меня. ≫
>「思いはただ一つだった」
→全く同じ表現が存在するため、歴史家 Э. С. ラジンスキーのものをそのまま引用しているのだろう。しかし、ラジンスキーの筆自体が不正確である。
ラジンスキーは、これを「帝位継承者の養育者が書いている。(原文: записал воспитатель наследника.)」、と記載しているが、そもそも "帝位継承者の養育者" はニースにいるはずであり、「アレクサンドル大公(ニコライの死後に立太子することになる、後のアレクサンドル3世)の養育者」とする方が正しい。
更に、邦訳版『ロマノフ朝史』では、皇太子を指して「ニクサ」と書いているが、家族以外が彼をこの愛称で呼ぶことは有り得ない。原著では単に him となっている。
また、その「養育者」とは、内容から考えて Н. П. リトヴィーノフを指すと考えて差し支えないだろう。彼の手記にはこの件に関しての記載があるためである。
但し、「神が存命の彼に再び会わせてくれるかどうかわからない」という表現はヴラディーミル大公の発言であり、「列車は恐ろしい勢いで進み」の部分はリトヴィーノフの発言である。(出典: 弊ブログ『ガデンコ『皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ』⑵ - 翻訳』)。
>皇帝ヴィルヘルム、ナポレオン三世
→事実。С. С. タチシチェフは、以下のように書いている。
Несмотря на это, на Берлинском железнодорожном вокзале встретил его Король Вильгельм, горячо обнял и расцеловал его и слезы свои смешал с его слезами.
それにも関わらず、ベルリンの駅では、ヴィルヘルム王が彼(アレクサンドル2世)を迎え、熱く抱擁し、彼に何度も強くキスし、両者の涙が混ざり合った。
プロイセン王ヴィルヘルムは、ロシアの皇太子ニコライを「自分の孫であったなら」と公言する程可愛がっていた。
ナポレオン3世も、皇帝の御用列車が迅速にニースに向かえるように手配するなど、クリミア戦争後初めてロシアに同情的な態度を示した。
129ページ 11-20行目
>母の回想
→要出典。殆ど同じ内容のものを、その場に居合わせた人は皆書いているが( Н. П. リトヴィーノフ、А. Ф. チュッチェヴァ、Ф. А. オーム、ルイーズ王妃他)、皇后が書いたものは個人的には見たことがない。
>ミニーに対して
→事実。原文(ロシア語)は以下の通り。
« Мой Ангел, не правда ли, какая она милая? »
ニースでは、家族や側近との会話はロシア語、医師や客が混ざった場合はフランス語が用いられている。
ダーグマルは既にロシア語を勉強し始めており、65年4月頃には、婚約者にロシア語で簡単な恋文を書き送ったり、簡単な日常会話が可能になる程に上達していた。
皇太子もそれをわかっていて、意図的にロシア語で会話に引き込んだものと推測できる。
>父親への手紙
→事実。1865年4月26日(グレゴリオ暦)のクリスチャン9世宛ての手紙に記されている。原文(デンマーク語)は以下の通り。
Dog kan jeg ikke noksom takke Gud for, at jeg endnu har truffet ham, min elskade Skat, i live og vœret kjendt af ham til det sidste Øieblik; Du kan ikke troe, kjœreste Papa, hvor taknemlig jeg er Vor Harre derfor.
Aldrig, aldrig vil jeg kunde glemme det Blik, hvormed han saae paa mig, da jeg kom til ham, - nei aldrig!!!
かわいい(二回目)。
>スラヴ民族
→事実。Н. П. リトヴィーノフによると、彼は譫妄状態ながらに以下のように発言した。
« Как нравяться им Черногорцы? Это прекрасный народ, что они стоять того, чтобы на них обратили внимание. »
「モンテネグロ人はどのように評価されるでしょう? 素晴らしい民族ですから、注目する価値があります。」
皇太子の鑑(二回目)。
>ミニーは書いている。
→事実。前述の父宛の手紙の続きが以下のような文章である。
Stakkels Kaiser og Kaiserinde! de ere saas elskelige imod mig i deres Sorg;
130ページ 1-14行目
>死を願い始めた。
→誤りではないが、懸念ある表現。
彼が希死念慮を打ち明けたのは友人の В. П. メシチェルスキー公爵に対してのみで、それは1864年8月のことである。皇太子は、キリスト教徒として、大罪である希死念慮を抱いたことを深く恥じており、人前でそれを披瀝するようなことは一切なかった。(参照: 弊ブログ『メシチェルスキー『回想録』1864年33節(前編) - 翻訳』)。
但し、死の前の痛悔にて、懺悔聴聞僧を務めたプリレジャーエフに、自分の主な罪としてこのことを打ち明けていることがわかっている。(参照: 弊ブログ『ガデンコ『皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ』⑵ - 翻訳』)。
>四月十二日の夜明け方
→事実誤認。正確には4月11日。
よく勘違いされているが、彼が亡くなるのは4月12日の0時50分で、日付変更をしてすぐである。従って、12日の夜明け方には既に死亡している。
>ヴィラ・ヴェルディー
→英語読み。フランス語ではヴィラ・ヴェルディエ(ヴェルディエ荘)。
>嘔吐
→事実。その場に居合わせた А. Ф. チュッチェヴァは、以下のように記述している。
И она с 7 1/2 ч. до 1 часу ночи вытирала черную пену, выходившую изо рта умирающаго после каждой икоты.
そして彼女は7時半から深夜1時までの間、瀕死の男が噦りする度に口から溢れてしまう黒い泡を拭いていた。
>ミニーの回想
→事実。前述の「>父親への手紙」の項参照(原文前半部がこの件に関して)。
更に、毎年の命日の日記にも類似の表現が何度か現れる。
>従者の記録
→ Н. П. リトヴィーノフのこと。従って、皇太子の従者ではなく、「アレクサンドル大公及びヴラディーミル大公の従者」にあたる。
原文は以下の通り。
Часу в третьем Он подняль руки и правой рукой поймал голову Александра Александровича, а левой искал как-будто голову принцессы Дагмары.
Тут язык у Него сталь значительно слабеть и скоро Он произнес последнюю фразу, сказанную с полным сознанием, а именно, взяв за руку Императрицу и, указывая на нее Гартману, сказал: « Soignez... la... bien ».
>接吻
→事実。1865年5月4日付けのデンマーク王妃ルイーズから英国女王ヴィクトリアへの書簡に記載がある。原文はドイツ語だが個人的には未確認、歴史家 C. ホールによる英訳は以下の通り。
She (Dagmar) never left his bedside, kneeling by him day and night until 1 o'clock when she kissed him and he breathed away his young life!
内容については弊ブログの以下の記事参照:『婚約を巡る書簡集 ⑺ - 翻訳』。
>サーシャの苦悩
→事実。前述の「>父への手紙」「>ミニーの回想」と同じ手紙の別の箇所に記述がある。原文は以下の通り。
og hans stakkels Brødre, isœr den œldste Sacha, som han elskede saas høit ikke alene som sin Broder, men som sin eneste og bedste Ven, det er tungt for ham Stakkels, og nu at maatte blive det, som hans elskede Broder var, er ham skrœkkeligt!
130ページ 15-20行目
>「仮に」
→わかる、ほんとそれな(※個人の感想です)。
>進言する者
→原注によると、歴史家 C. ホールからの引用であるとのこと。遡ってホールの記述を確認すると、それも E. コルティという歴史家の引用であるという。従って、孫引き。
わたしも E. コルティの書籍は確認できていないが(1934年出版の古いドイツ史の本を指していると思われる)、ホールによれば、この「進言する者」とは、皇后の兄アレクサンダー王子であるという。一次資料についての出典を記載すること。
>アレクサンドルの返答
→同上。 C. ホールからの引用で、孫引きに相当する。
131ページ 1-8行目
>「愛する兄であり~」
→事実。研究者 Ф. И. メレンティエフの論文などに断片的に原文が引用されている。完全な原文は文書館のみ(ダーグマル=マリヤ・フョードロヴナとの書簡に関しては近年出版されたが、情勢の変化により現在入手不可)。
>顎髭
→事実誤認。当時の写真を見ればすぐにわかること。彼が顎髭を生やすのは壮年になってから。
>ロシア語の綴り
→諸説有り。研究者の М. ソロカによると、亡き皇太子の側近であった О. Б. リヒテルは、新たに立太子したアレクサンドル大公がロシア語を殆ど正しく綴れないことを知って「恐怖した(ужас)」という。一次資料不明。
但し、このソロカを含め、В. Г. チェルヌーハなどの最新の研究によれば、「言う程には酷くな」く、「十分なロシア語運用能力を有していた」とも言われている。
→不正確。確かに、アレクサンドル大公は家族から「ブルドッグ(Будьдожка)」「パグ(Мопс)」などの渾名で呼ばれていたが、それを兄が名付けたとする根拠は存在しない。寧ろ、両親或いは皇太后が付けたという説の方が一般的である。
131ページ 20行目、132ページ 1-8行目
>「廷臣たちの全員が~」
→原注によると、R. S. ワートマンからの孫引き。但し、原著(英語)はワートマンと表現が多少異なる。更にワートマンの方を遡ると、К. Я. グロートの手記からの引用であることがわかる。
手記によれば、65年に兄の危篤の報を受けたアレクサンドル大公が泣いていたので、グロートが慰めようとしたところ、彼はこのように言ったという。
« Нет, я уж вижу, что нет надежды, все придворные страшно переменили свое обращене со мною и начали за мной ухаживать! »
「いいえ、もう(兄が生き長らえる)希望がないということがわかってしまいました、全ての宮廷人は己の態度を急変させ、私に対して媚びへつらい始めたんです!」
これは発言であり、彼自身が書いた言葉ではないので、「書いている」という表記は誤りである。
>友人
→ В. П. メシチェルスキー公爵のこと。こちらも R. S. ワートマンの孫引き。
こちらも同上で、アレクサンドル大公が手紙に書いたとするのは誤りで、会話上の発言に過ぎない。メシチェルスキーの『回想録』第二巻によると、大公は以下のように発言したという。
«... Вы говорите: люди; да, я знаю, что есть и хорошие и честные люди, но и немало дурных, а как разбираться, а как я с своим временем управлюсь? ...»
「あなたは人々について仰いましたね。ええ、善良で正直な人たちが存在することは私もわかっています。しかし、少なからず悪い人々もいますし、そしてそれをどうやって見分ければいいのか、どうやって皇帝になった時に支配したらいいのでしょうか?」
>好感を持っていた
→語弊有り。皇帝アレクサンドル2世は、政治に介入しようとするダーグマルを疎ましく思い、1864年に長男ニコライに対し叱責する手紙を書いている(彼からしたら、とんだとばっちりである)。
しかし、65年4月にニースで初対面を果たすと、王女の息子への愛に心を打たれ、64年の出来事はなかったかのように著しく関係が改善される。
>ロシア語とロシア正教の勉強
→事実。ダーグマルは、И. Л. ヤーニシェフにロシア語とロシア正教を師事していた。皇太子が死に、縁談が破談になると、一次的に授業は中止になるが、彼女は婚約者の死の直後に「ロシア正教に改宗することを断念するつもりはない」と宣言し、授業が再開されるまで独学でロシア語を学び続けたという。(出典: ルイーズ王妃の手紙)。
>ミニーの魅力
→出典不明。寧ろ、この書籍の中でも、後の記述と矛盾してはいまいか。
アレクサンドル大公は、婚約する直前まで、ダーグマルのことを特別好意的に捉えていなかったことは日記からも伺える。
139ページ 12-17行目
>「将来、君は~」
→事実。当人の日記によると、原文は以下の通り。
« Может ли Вы любить еще после моего милого брата? »
心を打つプロポーズの言葉とその返答である。
総括
取り敢えずこの辺りにしておこうかと思います。
数えてみたところ、56ヶ所(!)確認しました。そのうち、明確に事実であると認定できるものは、数え方にもよりますが、約1/3ですかね……。はい。
これを多いと思うか少ないと思うかは皆様次第で御座いますね。
勿論、わたくしの方が間違えている可能性もありますので、お気づきの点が御座いましたら遠慮なくご指摘を下さい。議論をしましょう。(お手柔らかにお願いします……)。
早く資料の輸入ができるようになったり、文書館に行けるようになったりしますように。
このようなファクトチェックを行いましたが、何も著者を貶めたいのではありません。寧ろ、同じ文字書きとして、このような鈍器本長大な著書を書き上げることは疑いない偉業であると思います。事実、わたくしがこの記事で指摘した部分は、この書籍のほんの数ページ分にしかなりません。
しかし、わたくしの考えでは、「一人で精確で長大な通史を書く」というのは、不可能であると思います。精確さを求めるのならば、専門の研究者が時代毎に担当する方が、学術的な質の高さを担保できることでしょう。
我らがニコライ殿下は、帝位に就くことなく早逝してしまったことから、現在ではあまり知名度の高くない人物です。従って、記述の内容が、悪く言えば「手抜き」になることもあるのかなあ、と邪推します。
しかしながら、彼についての、たったの数ページで、これほどの指摘が可能ならば、他の人物に関しても推して知るべしではないか……と感じもするのです。
他の人物に関しましては、他の有志に委任します。是非とも宜しくお願い致します。
最後に
通読お疲れ様で御座いました!! 引用ばかりとはいえ、久々に2万字代に乗りました。疲れました。
「あれ、これ絶対読んだことあるぞ、しかしどこでだっけ~!?」が多発し、書くのに丸二日掛かりました。なんということだ。休日返上。
資料整理が下手くそであることが見事に露呈しました。どうしたら良いのでしょうね。
殿下に関心を持ったとき、日本語や英語で読める資料の余りの少なさに絶望したことを、随分昔のように感じます(当時は『ロマノフ朝史』の邦訳も出ていませんでしたし)。読めたとしても、事実誤認が多く、途方に暮れました。
痺れを切らして、語学学習に多大な苦手意識を抱えている癖に、ロシア語やデンマーク語の勉強を始め、「もう一次資料と査読論文以外何も信じないぞ……(ガンギマリ)」モードに突入して、今に至っております。今思えば、それでよかったのだと思います。
一緒に語学を勉強しませんか。
他にも、日本語の書籍で、大分内容が怪しいロシア史の本は幾つかあるのですけれども、このファクトチェック作業は骨折りなので、他の書籍でも行うか、ということは少し考えさせて下さい。気が向いたらまたやります……。
殿下関連の記述でご質問があれば、わたくしで宜しければ可能な限りお答えしたいとは思っております。
かなり大変だったので、評価を頂ければ嬉しく思います。
それでは、今回はここでお開きとしたいと思います! また別の記事でもお目に掛かれましたら幸いです。