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フィルソフ『皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチと若き日の皇帝アレクサンドル3世の想い出』抜粋 - 翻訳

 おはようございます、茅野です。

またすっかり夜行性物書きと化している今日この頃です。夜更かしって楽しいですよね。

 

 さて、先日、重めの連載をめでたく完走したので、今回は少し気軽に一本単発を書いて遊ぼうと思います。

↑ 完結したもの。全5回です! 宜しくお願いします。

 

 というわけで今回は、ニコライ・ニコラエヴィチ・フィルソフの『皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチと若き日の皇帝アレクサンドル3世の想い出』の一部を読んでみようかと思います。

 

 最初に当ブログで皇太子ニコライ殿下をご紹介した記事にも記した通り、わたくしは元々、近代ロシア史を調べる中で、「彼が帝位に就いていれば、ロシアはよりよい国になっていたのではないか」と感じ、深掘りすることを決めました。従って、調べる内容は全て政治に関してでした。

 しかしながら、彼自身が驚くほど魅力的な人物であること、そんな彼に狂っていく周囲の人々の怪文書記録を楽しむうち、殿下という存在そのものに惹かれ、今ではわたくしもすっかり「沼」の住人です。流石「水の妖精(※殿下の愛称「ニクサ」は、「水の妖精」の意)」、人間を水底に引き摺り込むのが上手い……。

 

 今回ご紹介する文献を書いた、文筆家ニコライ・フィルソフは、政治家でもありながら、そんな殿下に「堕ちた」同時代人の一人。

作中にもあるとおり、この回想録では、政治とは無縁の、人物としての皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下、及び弟のアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公の記録を書き残しています。

 従って、資料としては興味深くも、学問的な価値は然程ないのですけれども、殿下を賛美する文書はいくらあってもよいので、今回はこちらをご紹介して参ろうかなという次第です。

 

 それでは、お付き合いの程宜しくお願い致します!

 

 

皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチと若き日の皇帝アレクサンドル3世の想い出

 私がアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公殿下(後の皇帝)に初めてお目に掛かったのは、1857年から58年に掛けての冬、彼のお兄様の元に伺った時のことです。

ミハイロフスキー砲兵学校を卒業した私は、皇帝陛下の第一軽砲部隊に入隊しました。アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公も在籍していた隊です。

既に彼が帝位継承者となっていた60年代後半から70年代初頭、私は貴族団長として、その後には地方議会の議長としてペテルブルクを訪れた際、何度も彼の前に出頭する機会がありました。

 

 1874年、万博博覧会にて、私はロシア政府代表委員として財務省からロンドンへ派遣されました。

展覧会でのイギリス展示委員会の代表はウェールズ公(現国王エドワード7世)、そしてロシア部門の名誉委員長がアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ殿下でした。

同年の夏、エディンバラ公に嫁いだばかりのマリヤ・アレクサンドロヴナ大公女(※殿下兄弟の妹)に会いに、彼はマリヤ・アレクサンドロヴナ皇后(※母と娘は同姓同名)と共にイギリスに訪れていたのです。

皇后は、皇太子と共にロシア部門を訪問され、私は来賓の皇族の案内を担当させて頂く巡り合わせとなりました。

彼らとの交流した時の私の印象や感想を、簡単に書き記しておきたいのです。

これは政治とは無縁のものであると注記しておきます。

 

 私が未だミハイロフスキー砲兵学校で曹長の位にあった頃(1857-1868年)、私は殆ど毎度のことニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子を訪ねていたのですが、彼が当時16歳前後のアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公と共にいらっしゃるところを拝見したことがあります。

 お二人の間の厚い友情に気付かないはずはありません。

アレクサンドル・アレクサンドロヴィチは、概して人の話に全く無関心でしたが、ご自身の兄の言葉にはいつでも熱心に耳を傾けておられましたし、兄弟として愛に満ちた優しい眼差しを交わす様子も度々拝見しました。

皇太子だけが、彼を会話に引き込むことができたのです。それにも関わらず、お二人は、思わず比較してしまう程に容姿も物腰も正反対でした。

 ニコライ・アレクサンドロヴィチは、すらりと痩せていて、上品でしなやかな肢体をしていました。端正で洗練された面長のお顔立ちは、素晴らしく美しいのです。

彼は知人たちに囲まれ、意のままに会話を盛り上げました。好んで冗談を口にされ、大変楽しそうにされていることもあれば、博識さが垣間見える、極めて知的なお話をなさることもありました。

一方で、宮廷育ちの必然なのでしょうが、稀に、ご自分の主張を譲らない一面もありました。しかし、そのことは、反対意見に注意深く耳を傾けることを妨げはしなかったのです。

 しばしば、会話に熱中していると、彼はまるでご自身の高い地位をすっかり忘れてしまうようでした。

彼がどれほど誠実に行動したのかは計り知れませんが、その誠意は周囲に伝わっており、すっかり和やかな雰囲気になってしまうのです。

公的な事情が何もない親密な場では、彼は、あらゆる尊称や敬称を付けずに単にニコライ・アレクサンドロヴィチ(※ロシア語の名前+父称呼びは、日本語だと「さん付け」程度に相当し、最も一般的な呼び方)と呼ばれることを望まれました。

それは前述の、彼のロシアの旅に於いても同様でした。

 

 彼を変身させるには、公式の訪問者が来たことを報告するだけで充分です。

彼の表現力に富んだ、類稀な美しさの瞳と顔は(当時はまだ病で窶れてはおりませんでした)、一瞬にして冷静で真剣になり、ごく稀に、礼儀正しくも、冷ややかにさえなりました。

彼は通常、立ち上がって(公式の訪問者相手に、彼が着席のまま対応しているところを私は見たことがありません)、細い胴を軽く前に倒して、相手の話に耳を傾けられるのです。

そして、訪問者が去るや否や、大公は再び魅力的な対話者に戻ってしまうのでした。

 

 当時、アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公は、少年と言って良い年頃でした。

(原注:私は80年代初頭より不治の病に冒されており、南国での生活を余儀なくされたため、帝位に就いた後のアレクサンドル3世にはお目に掛かったことがないのです)。

しかし、皇帝について私がお話を伺う次第では、彼の姿はいずれもイギリスの諺「子は大人の父」を想起させるのです。

 

 宮廷では、彼の祖母であるアレクサンドラ・フョードロヴナ皇太后(当時はまだご存命でした)が、彼を「私のお百姓さん」と呼んでいたことで知られていました。

まだそれほど背は高くないものの、既に肩幅が広く、胸板が厚くて筋肉質で、顔も身体付きも大変丸みを帯びていました。

気の良い方で、例えば、朝食の席で、兄の元に訪れた客人たちにフルーツや水を配膳したりするのです。一度など、彼が差し向かいの人に水を注いでいるところを拝見したことがあります。

そして彼はそれを黙って行うのです。

概して彼は対話を好まず、恥ずかしがって決まり悪そうにしていることもしばしばでした。

 

 皇帝アレクサンドル3世として即位して以降も、彼を多少なりとも知っている人によれば、この内気な性格は残ったままだったといいます。

即位して間もない頃、ある大学のある街を通りすがった際、アレクサンドル3世は教員と面会されました。

皇帝は、かつての己の教師を書斎に引き留めました。

かつての老教師を差し向かいに座らせ、皇帝は公式の場で感じていた恥ずかしさから解放されて、嘆息しながら、気楽に話せることを喜び、教授に問いを投げかけました。

「暫くぶりですが、会わなくなってから、あなたには私がどれほど変わったように見えます?」

老教師は誠意を込め、反論しました。

「それどころか、陛下、帝位に上り詰めたにも拘わらず、以前と全く変わらぬご様子に、私は驚いておりますとも」。

「えっ、先生ってば」、アレクサンドル・アレクサンドロヴィチは答え、微笑みながら、親しげに教授の肩を叩きました。「皇帝という立場に慣れるなんて、簡単じゃないですって……」。

 

訳者雑記

 通読お疲れ様でございました。まだまだ続くんですが、この後暫くアレクサンドル大公の失態の話が続くので、ここら辺で切り上げておこうかと思います。

(ちなみに、軍隊で恥ずかしがりを発揮したエピソードや、授業で間違ったまま覚えたものを直そうとしなかった頑固な側面などが語られています)。

 

 殿下は亡くなるのが早すぎるので、なかなか関わる機会がないのですが、確かに19世紀後半って万博の時代だよなあ、と感じたり。専攻していた近代フランスではよくお目に掛かったものの、こちらでも遭遇するとは、と、何かが繋がったような気分になりました。

 

ニコライ・ニコラエヴィチ・フィルソフ

 著者フィルソフに関して、改めて簡単に記しておきます。

ニコライ・ニコラエヴィチ・フィルソフは、作中にもあるように、軍学校の出身ですが、州議会議員を務めたり、文筆活動も行うなど、多方向で活躍した人物です。

↑ 老年期の画像しか見当たらず。この特徴的なお髭の形は、20世紀初頭の流行です。

 彼は1839年の生まれで、殿下の4歳年上。

ということは、殿下のガチ恋友人でお馴染み、メシチェルスキー公爵と同い年ですね。

↑ すっごい「濃い」殿下が語りが読めます。

 

 公爵の「濃さ」は、これまで色々ご紹介してきた通りですが、フィルソフもなかなかです。

ここでは詳しく描写されておりませんけれど、文中にもありますように、殿下は1863年に帝都ペテルブルクを出て、広大なロシアを旅することになります。

その先でもフィルソフは殿下に出会っているのですが、その時のことに関しては、なんと逆に殿下の方が日記に書き記しています。

なんでも、「フィルソフは貴族・商人・農民の代表として、大きな声で演説を読み上げたばかりか、僕に原稿を渡す際には平伏して忠誠を誓った。それは、少し度が過ぎるのではないか。」とのこと。本人に困惑気味に指摘されているの、流石に面白すぎる……。

 

皇太子ニコライ殿下

 さて、本文は主に大公兄弟の容姿と立ち振る舞いに関してです。

ツーショットのなかでは圧倒的に一番画質が良いので、兄弟を紹介する時には何度か貼り付けていますが、このお写真が撮られたのが、丁度作中で描写される時期である1862年です。

兄のニコライ殿下(左)が18歳、弟のアレクサンドル大公(右)が16歳頃ですね。

作中の描写と合うでしょうか。

 

 殿下とフィルソフが知り合ったのは1857年冬とのことでしたが、つまり殿下は14歳。

10代半ばの殿下は本当に美少年なので、容姿を褒め称えたくなる気持ちはとてもよくわかります。

↑ なるほど、これは確かに「稀に見る素晴らしい美しさ」。

あの異様なまでの能力の高さ、人道的で社交的な性格、大帝国の皇太子という出自に加えて、容姿までもこの美しさなので、それはまあ当然と言えば当然、皆様堕ちるわけで……。これが「完成の極致」か。

 

 しかし、作中でも描写されているように、20歳で病に倒れて以降はどんどん窶れていってしまって、美貌が損なわれゆくのが見て取れます。

この間、初めて1865年(!)に撮られたお写真を拝見したのですが、頬の輪郭が明らかに凹んでしまっており、痛々しすぎて少々引いてしまいました……。何故そんな状態で仕事させてるんだ……。

65年4月、鏡を目にした殿下は、自嘲気味に「なんて私は醜いのでしょう」と仰ったといいますが、この美しい人に何てことを言わせているんだという気持ちになりますね。

 

アレクサンドル大公

 一方、アレクサンドル大公です。数十年後、皇帝アレクサンドル3世として即位すると、彼は「巨人皇帝」と呼ばれるようになり、身長193cmに体重120kgの堂々とした巨漢に成長します。

しかし、10代の頃は、先程のお写真を確認しても、言う程「丸みを帯びている」かなあ、と思ってしまいますね。

 

 これはとてもマニアックな情報なのですが……(今更すぎますが)、青年期のアレクサンドル3世のお写真に関しては、ちょっとした「見分け方のコツ」があります。

アレクサンドル大公は、先程のお写真にもあるように、幼少期には髪型が殿下とお揃いで、所謂七三分けです。

しかし、アレクサンドル3世の肖像を見ればわかるように、成長すると髪型を変えていますね。

 ヒントは殿下の日記です。殿下は、1863年10月19日に、「サーシャは髪を分けるのをやめ、後ろに流す新しい髪型にしていて、よく似合っている。」という旨の日記を書いています。大公と数ヶ月ぶりに再会した時の日記なので、10月19日に、というわけではないことは留意してください。

従って、お写真を撮った時期がわからなくても、少なくとも髪型が七三分けだったら63年以前、後ろに流していたら63年以降、ということがわかるのです。

↑ つまりこちらは63年10月以前(19歳未満)。

↑ 後ろに流しているこちらは63年以降(19歳以上)。

参考になれば幸いです!

 

 同時代人の誰もが指摘するように、痩せ型の殿下と比較すると、確かにアレクサンドル大公はがっしりした体型なのですが、前述のように、10代の頃は然程そのようには見えません。

アレクサンドル大公は、20歳で帝位継承者になった後、所謂「激太り」します。ストレスで飲酒と過食を重ねたようなので、やはり皇太子、及び皇帝という地位が重荷だったのだと推測されます。

望まずに、準備もなく、急に重たい責務を任じられる辛さが、お写真からも伝わります。

 

最後に

 通読ありがとうございました! 6000字弱。

 

 探せば探すほど殿下のファンたちによる拗らせた記録が見つかるので、宝探しがやめられませんね……。これで実在の人物だというのだから恐ろしいことです。

 

 さて、次回なんですけれども、次は逆に政治の方をメインにした単発を書こうかなと考えていて、準備を進めております。そちらは少しボリューミィになりそうな気配があるので、気長にお待ち下さいませ。

 

 それでは、今回はここでお開きと致します。また次の記事でお目に掛かれれば幸いです!