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ロマノフの兄弟 - 限界同担列伝6

  こんばんは、茅野です。

芸術の秋、読書の秋、食欲の秋! 皆様は如何お過ごしでしょうか。わたくしは専ら、ロシア史の秋です。

 

 さて、今回も「限界同担列伝」シリーズです。ロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下(1843-65)のことが好きすぎて奇行に走る周囲の人々をご紹介しています。

↑ 第一回の画家ボゴリューボフ篇はこちらから。

 

 いよいよ大詰め! 第六回となる今回は、殿下の弟であり、未來の皇帝アレクサンドル3世である、アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公を取り上げます

殿下は勿論、家族からも愛されていましたが、特に熱を込めて彼を愛していたのがすぐ下の弟であるアレクサンドル大公です。

アレクサンドル3世は、今では「巨人皇帝」という異名を持ち、ロマノフ朝の皇帝の中でも勇ましく力強い印象を持たれていますが、意外なことに、幼少~青年期は兄である殿下にべっったり甘える気弱な弟という側面を持っていました。今回は、そんな兄弟の記録をご覧頂こうと思います。

 

 今回引用しますのは、今世紀最大の供給クリエイターこと我らがフョードル・メレンティエフ先生の記事『1863年夏のサーシャとニクサ(Саша и Никса летом 1863 года)ロシアの雑誌『歴史(История)からです。皇帝というだけあり、間違いなく資料の量だけで言えばトップクラスにあります。有り難いことです。もっと増えてもいいんですよ!!

 それでは、お付き合いの程宜しくお願いします!

 

 

アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公

 今回の主人公をご紹介します。

とは言っても、今回の主人公は皆様ご存じ、皇帝アレクサンドル3世です。愛称は最も一般的な「サーシャ(Саша)」です。

アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公は、皇帝アレクサンドル2世と、皇后マリヤ・アレクサンドロヴナの次男として、1845年に生まれました。兄である殿下とは1歳半差で、年が近いことからも兄弟仲は大変よかったと申しますか、実際の所、猛烈にブラザーコンプレックスを拗らせております

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↑ 殿下(左)、アレクサンドル大公(右)。まだ痩せている大公、激レアでは!? というか、殿下、加工無しでその波打ち方にはならんやろ普通……整髪剤おしえてくれ……。

 殿下が長男で、皇太子だったことから、元は皇帝になる運命にはありませんでした。同時代人の言では、勉学が不得意で、かといってスポーツ万能というわけでもなく、酷く人見知りをする引っ込み思案な性格で、聡明で社交的な兄とは正反対だったと言われています。

 但し、お伝えしておきたいのは、アレクサンドル大公をただのステレオタイプで捉えることには反対したいということです。大公は、確かに、20歳を過ぎた頃(殿下が亡くなった後ですね)から恰幅がよくなり、がっしりした体格で、一時は体重120kgを記録し、身長は193cmありました。

皇帝になってからは、ストレスからかお酒を飲むのが好きでしたし、外国語が苦手だったゆえか(と言いつつ、フランス語とドイツ語は普通に使いこなせました)、ロシア国有のものを愛しました。力が強く、「素手で蹄鉄を曲げた」だとか、「列車の車両の壁を一人で持ち上げた」というような伝説まで残っています。

 

 しかし、だからと言って、粗野で教養がない人物だった、ということは全くありません。よく勘違いされていますが、アレクサンドル大公は芸術を心底愛していました。寧ろ、皇族という立場でさえなかったら、芸術家になっていたかもしれない、という程です。

文学を愛し、日記や書簡にも詩をよく引用していて、ドストエフスキーとも文通していましたし、文学への興味は兄である殿下を凌駕します。音楽やオペラ鑑賞も好きで、ロシア帝国初の文化人の国葬として、国を挙げてチャイコフスキーの葬儀を行うように取りはからったのも彼です。

また、オペラ『エヴゲーニー・オネーギン』がボリショイ劇場のレパートリーに入ったのは、皇帝アレクサンドル3世がこのオペラを愛しており、彼の力添えがあってこそ、とも言われています。ありがとう陛下! お陰様でボリショイ劇場のオペラ上演回数ランキングは今でも『オネーギン』が一位なんです! 心から感謝しています(※筆者はこのオペラを人生を賭けて推しています)。

絵画鑑賞や、絵を描くことも好きで、第一回で紹介したボゴリューボフに絵画を習っていました。アレクサンドル大公は、芸術を心から愛し、支援した、教養溢れる人物です。

 

 また、アレクサンドル3世は頑固者だという印象を持たれることが多いですが、大変心優しい人物としても知られていて、それは我らが殿下もそう仰っておりますし、同時代人も同意しています。

確かに、「これと決めたことは変えない」という意志の堅い所はありましたが、それは必ず彼の道徳観に基づいており、例えば、強く反対したのは父アレクサンドル2世の不倫などについてです。

それにも関わらず、最近の簡単な歴史書などでは「粗野な頑固者」とステレオタイプでゴリ押されることが多く、深く懸念しています。

 

   前回ご紹介したメシチェルスキー公も含めて、全ての同時代人が、「亡くなったニコライ殿下とあなた(アレクサンドル大公)は常に比較される運命にありますが、その評価は常にあなたに優位ではありません」と述べています。大公自身、そのことを認めています。

 しかし、殿下ファンの一人であるわたくしが申し上げておきたいのは、殿下は他の人を下げて比べなくたって、充分すぎるほど、というかこれ以上無いくらい素晴らしい人物なのだ、ということです。第二回で纏めたように、殿下は国や人々を心から愛していました。これまでご紹介してきた人々に対しても、(不法侵入したりストーカーしたりするほどではないにせよ)、信頼を寄せ、深く慕っていました。

 それはアレクサンドル大公に対しても同様です。このようなシリーズを展開している以上、わたくしもあまり人のことを言えないかも知れませんが、歴史書などでは、アレクサンドル大公が我らが殿下を盲愛していたことばかりが取り上げられ、殿下が彼に対してどう思っていたかは蔑ろにされがちです。

殿下は、弟のことを深く愛していました。出逢って2週間だったとはいえ、自らが求婚したダグマール姫と比べて、母皇后に「ダグマールとサーシャ、どちらがより好きか、と問われると、正直なところ困ってしまいます」とさえ書いています。また、自身が帝位に就くことなく若くして亡くなるという確信を深めた際には、父皇帝を含め、周囲のあらゆる人に「サーシャは誰よりも善良な人ですから、彼を支えてあげてくださいね」と説いて周り、特に前回のメシチェルスキー公など、殿下のことをとりわけ深く慕っていた人々にとって、この言葉は絶大な威力を発揮しました。

 

 わたくしは殿下のことが好きですし、歴史や政治を勉強していく中で、「もし彼が帝位に就いていたら!」と考えます。多くの人が言うように、殿下が統治した方が、ロシアはよりよい国になっていたことでしょう。

しかし、だからといって、アレクサンドル3世の努力が全て蔑ろにされてよいわけではありませんし、そのことで彼を非難するのは筋違いであると思います。というか、あの化け物じみた才能の塊である殿下と生涯ずっと比較され、不当な非難をされ続けたのに、皇帝としての職務を真っ当したアレクサンドル3世は大変立派だと思います。同担の方々に申し上げたいのは、殿下のことを真に慕っているのであれば、彼が愛した人々も尊重するべきではないか、ということです。

 なんだか初っぱなから説教くさくなってしまいましたが、アレクサンドル3世に対する誤解というのが広く横行しているのが少々腹立たしいので一筆やってしまいました。

 

幼少期の兄弟

 さて、気を取り直して! 殿下はあまりにも早く亡くなってしまうので、これまでのこの限界同担列伝シリーズでは、主に19-21歳頃(1863-65年頃)のエピソードを中心に見ざるを得ませんでした。しかし、殿下とアレクサンドル大公は1歳半差の兄弟ということで、幼少期を共に過ごしております。最初に、幾つか幼い兄弟の記録を見てゆきましょう。

 

 成長した殿下は、誰もが「聡明ながらに謙虚な人」と彼を讃えましたが、立太子し、将来は自分が国を背負うのだという覚悟を決めるまで(11歳頃まで)は、年相応に生意気な少年でした。幼少期には己が優秀であるという自覚があったようで、それを誇りにしていたようです。

最終的には何に於いても最優秀の成績を叩き出す殿下ですが、幼少期は身体が弱かった影響もあってか、軍事学や体育などでは弟に負けることもあり、弟だけが褒められるとあからさまに拗ねるという可愛らしい一面もあったようです。

 

 殿下とアレクサンドル大公は、昔から仲が良く、滅多に喧嘩もしませんでしたが、したとしてもすぐに仲直りできたそう。喧嘩になる切っ掛けは、殿下が原因のものだと、殿下は幼い頃から「自分が優秀であらねば」と思っていたようで、その焦りから稀に不用意な言動をして、弟の怒りを買うことがあったようです。大公が原因の場合は、幼少期特有のやんちゃな性格ゆえ、殿下に悪戯を仕掛けることもままあり、それがエスカレートしすぎると兄と対立することがあったとか。

 

 幼少期は同じ部屋で眠っていたそうですが、殿下が7歳の頃、本格的な帝王教育が始まります。殿下には一人部屋が与えられた他、普段着も楽なものから軍服に変わり、兄弟で遊ぶ時間は無くなり、勉強漬けの日々が始まります。殿下はそのことに幼い自尊心をくすぐられ、大喜びだったようですが、一方で当時6歳のアレクサンドル大公は、兄が別部屋に移った初日、彼がいないのが寂しくて、夜通し大泣きしたそうな。

尚、ロマノフ家には朝一で紅茶を飲む習慣がありますが、大公が殿下を呼んだとき、彼がすぐに来てくれたので、何とか精神的に持ちこたえたとか。ブラコンの根は深かった……

 

 二人の幼少期のエピソードとして、一般的な歴史書でよく引用されるのが、枕投げのエピソードです。殿下が11歳の頃、彼らの祖父である皇帝ニコライ1世が崩御したことで、父アレクサンドル2世が即位し、同時に殿下は立太子し、皇太子になりました。

その際、殿下は「皇帝となったパパを助けたいけど、まだ自分は幼すぎるので、役に立てないのがもどかしい」と述べました。その際、弟アレクサンドル大公は、冗談で「幼いからじゃなくて、ばかだからでしょ」と返しました。殿下は「そんなことない!」と抗議しますが、次第に口論はエスカレートし、幼い殿下はとうとう本気で怒ってしまい、大公に枕を投げつけたといいます。

引用は大体ここで終わってしまうのですが、実はこの話には続きがあって、兄が本気で気分を害していることに気が付いた弟は、自分の言った冗談を反省し、彼の首に腕を回して強く抱き締め、「ああ、ニクサ、どれほど君を愛していることか! 君が皇帝になったら、僕は君の一番の忠実な下僕になるからね(«Ах, Никса, как я тебя люблю! Когда ты будешь царствовать, я буду твой первый и самый верный слуга».)」と叫んで、二人は和解したんだとか。

この、殿下が皇帝になった際に「一番の忠実な下僕になる」という大公の表明は、幼い頃からよく行っており、また心からそのように思っていたようで、兄が亡くなった後も、「ただ兄の下僕になれればそれですっかり満ち足りたのに」と言い、あまり二人の兄弟仲を知らない人からは驚かれた、と言われています。

 

 アレクサンドル大公は陸軍が好きで、将来は陸軍を指揮し、そのことによって皇帝になる兄を助けたいと願っていました。従って、彼に施された教育も、陸軍士官用のもので、皇帝になるためのものではありませんでした。そのことは、最終的に帝位に就くことになった大公を苦しめただけではなく、徐々に二人の間に溝も作ってゆきました。

 

親愛なるニコライ様!

 幼少期から仲が良く、それは生涯変わらなかった二人ですが、成長するにつれ、特に殿下の方が多忙になったことで、顔を合わせる時間がめっきり減り、少し疎遠になってしまいます。しかし、その絆を取り戻したのが、1863年の殿下の国内旅行中に交わした書簡でした。最初のやりとりを見てみましょう。

 «Между нами, — признавался он, вернувшись, в письме матери, императрице Марии Александровне,-устанавливается настоящая, братская дружба». Ведь ещё двумя годами ранее «Александр Александрович не подрос ещё к тому возрасту, когда он мог сделаться его другом: их разделяла система воспитания и различие в летах». 
Путешествие цесаревича по России стало поводом для нахождения общего языка.
Характерны обращения братьев друг к другу.
«Милый Николай! писал Александр 5 июля. -Пусть братья называют Тебя Никсей, но Мама и я, мы решили, чтобы тебя не называть больше так».
В ответ наследник, стремившийся к сближению с братом, разразился целой отповедью: «Милый Александр!!! Ха! Ха! Ха! ну-с, покорно благодарю. Это ещё что выдумал. Одумайся: «милый Николай», а Николай -милый Николай, как это вам нравится? Уж почему тогда не «почтенный Николай Александрович!» 
Это важнее, не правда ли?» Юмор позволял Николаю делиться с братом впечатлениями без помощи шаблонных фраз, которые любил Александр II.
В переписке с отцом наследник нередко использовал устоявшиеся обороты и слова, но в общении между братьями это казалось ему лишним.

«Пожалуйста, пиши просто, если хочешь, чтоб я тебе отвечал»,-просил он брата. Тем не менее до получения ироничного послания старшего брата Александр продолжал называть его полным именем.

 「私達の間には、真の友情が築かれようとしています」。帰宅後、彼は母である皇后マリヤ・アレクドロヴナに書いている。二年前に関しては、「アレクサンドル・アレクサンドロヴィチは幼すぎたし、教育と年齢の差で隔てられていました」と述べた。

皇太子のロシアの旅は、共通の話題を見つけるのに役立った。兄弟の互いへの呼び掛けは特徴的だ。「親愛なるニコライ様!」 アレクサンドルは7月5日に書いている。「弟たちは兄さんのことをこれからもニクサと呼ぶだろうけど、ママと僕はもうそのように呼ばないことに決めました」。

これに対し、弟ともっと親しくなりたいと考えていた帝位継承者は、全面的な反駁を開始した。「親愛なるアレクサンドル様!!!  ハッハッハ! そうですね、謹んで感謝申し上げましょうか。全く、何を思いついたんだか? 『親愛なるニコライ様』、か。或いは単にニコライ、と―――如何でしょうか、殿下? でしたら、何故『尊敬するニコライ・アレクサンドロヴィチ様!』ではないんです? こちらの方が大仰で良いでしょう、ねえ?」。ユーモアに溢れたニコライは、アレクサンドル二世が好んだ紋切り型の定型句の力を借りずに、弟に己の感じた印象を伝えることができた。父との文通では、このような言い回しをすることも多かったが、兄弟間の連絡にそれは不要だと思ったようだ。

「気取らずに書くようお願いしますよ、もし返信が欲しいのならね」。彼は弟に求めた。しかしアレクサンドルは、このような皮肉の効いた文書を受け取るまで、兄をフルネームで呼び続けた。

 幾らなんでも煽りすぎでしょ! 

 殿下のユーモアのセンスって、ちょっと皮肉っぽいんですよね……。これが京言葉ならぬペテルブルク言葉なのか……(?)。殿下からしても、生い立ちに反して少々垢抜けず、純粋で、空回りすることが多い弟を可愛く思っていたようです。ついついイジリたくなっちゃうんでしょうね。やりすぎには注意して下さいね。

 

 このお手紙を書いたのが、第一回や第二回でご紹介した、絶大なカリスマ力を発揮していた国内旅行中というのを考えると、殿下の「素」はこちらなんだなあ、年相応(?)なところもあるんだなあ、ということが伺えます。これがギャップ萌えなのか……。

 

 ちなみに、彼らの往復書簡の中で、最も盛り上がったといいますか、アレクサンドル大公が興味を惹かれていたのは恋バナです。お年頃ですからね。

幾つかありますが、例えば、殿下は、査察で訪れた聖アナスタシア修道院で、美女として高名なマリヤ修道女にお世話になったそうで、帰り際、サプライズで彼女に「私との想い出として取っておいて貰えませんか」とワイルドジャスミンを手渡したそう。そしてそのことについて、『我ながら気障すぎるかとも思ったけれど、彼女はロマンチストで、僕のオリジナルの振る舞いを気に入ってくれたようだ』という旨の手紙を書いています。出た! またそうやって人をタラシて!!

これをアレクサンドル大公は面白がり、弟のヴラジーミルやアレクセイ、友人のメシチェルスキー公に見せたそうで、殿下はそういうことをされるのがわかっていたのか、冗談めかして『ねえ、人のプライバシーは守るべきでしょ?』と軽くお説教しています。特にメシチェルスキー公はガチ恋勢なので、もしかしたら嫉妬していたかもしれません。知りませんけど。

 ここまでは笑い話ですが、殿下が亡くなった後、アレクサンドル大公もロシア国内査察の旅に出掛け、同修道院に訪れ、マリヤ修道女のお世話になることになります。その際、殿下が手渡した花を、恐らくは押し花かなにかにして大事に持ってくれていたそうで、アレクサンドル大公はそれを目にして感極まって泣いたといいます。

 

フィンランドの統治について

 第一回でも軽くご紹介していますが、殿下と大公の書簡の内容は多岐にわたりますが、政治など高度な内容のものもありました。少し読んでみましょう。

 Зная, что Александр II собирался взять с собой на манёвры в Финляндию Владимира и Александра Александровичей, наследник просил последнего подробно описать эту поездку, «провоцируя» брата на политические рассуждения.
«Теперь Финляндия переживает любопытную эпоху, размышлял цесаревич, - я думаю, обнародование манифеста о сейме должно было придать особенный характер этой поездке».

Однако то, что интересовало цесаревича, не сильно трогало его брата.
По крайней мере, описывая посещение Финляндии в ответном письме, Александр политических вопросов не затронул.

 アレクサンドル2世がフィンランドでの軍事演習にヴラジーミルとアレクサンドル・アレクサンドロヴィチを連れて行こうとしているのを知っていた帝位後継者は、後者に旅の詳細について尋ねた後、弟に政治的な議論を促した。

『今、フィンランドは興味深い時代を経験している』。皇太子は思案する。『僕が思うに、国会での政権公約の公布は、君たちの旅に特別な意味を与えているんじゃないか?』。

一方で、皇太子が興味を持っている事柄について、彼の弟は感心がなかったようだ。少なくとも、アレクサンドルはフィンランドへの旅についての手紙で、その問いに言及することはなかった。

 ちゃんと返事書いてあげて!! まあ、「いきなりそんなこと訊かれても……」と思う大公の気持ちもわかるのですが、一方で殿下からしたら、数年から数十年後には自分がフィンランドの統治をどうするか決めなければならない立場になるわけです。特に身近な弟の意見を聞いておきたいという気持ちもよくわかります。

 

 フィンランド大公国は1809年より、ロシア帝国の所謂「属国」(同君連合)であり、ロシアが統治していました。他に、当時のロシア帝国の「属国」は、時期にもよりますがポーランドなどがありました。

ロシア帝国は長年に渡って絶対主義統治を行っていましたが、フィンランドポーランド政治的な「実験場」としていました。ポーランドでは反発が厳しかったため、強く弾圧しました。殿下自身、「敵(ポーランド人革命家)の殲滅を強く願っています」という書簡を書いたことがあるほどで、ロシア帝国政府からは目の敵にされていたことがわかります。

一方、フィンランドではロシアの統治が(比較的穏健に)受け入れられたため、ロシア帝国は段階的に束縛を緩めてゆきます。殿下たちの父であるアレクサンドル2世は、強要していたロシア語だけではなく、公用語としてフィンランド語の使用を認め、遂には議会が設置されました。殿下が手紙の中で仰っているのは、このことです。

 19世紀中頃では、ナショナリズムが高揚し、リベラルな思想が噴出してゆきました。絶対君主制ロシア帝国にとっても、その勢いある「第九の波」には逆らいがたく、国内でも「憲法を発布し、立憲君主制とすべきではないのか」という議論が毎日のように行われていました。第四回で見たように、殿下もこのことについて書いていますね。

しかし、人口は既に1億人近く、世界2位の広大な領地を持つロシア帝国です。いきなり憲法を発布して、仮にそれが頓挫したらその損失は贖いがたいものとなり得ます。従って、ロシア帝国政府は、フィンランドで議会制を採用し、暫く様子を見て、それがロシア帝国に適応しても問題がないものなのかどうか、見極めようとしていたのでした。殿下が関心を持つのも当然と言えます。

 

 ちなみに、将来、アレクサンドル大公が帝位に就いた際には、彼はフィンランドに対し、有無を言わさぬ徹底的な弾圧を行います。壮年になった彼は、聡明な兄とこの地についての議論を交わさなかったことを悔やんだでしょうか。

 

人生で最良の日

 1865年4月、アレクサンドル大公は、愛する兄の容態が悪いと聞き、父皇帝に懇願し、彼らよりも一足先にニースに向かいました。しかし、彼が到着した翌日の4月5日(ユリウス暦)の深夜、殿下は脳出血を起こし、回復は絶望的なものとなってしまいます。その一週間後の12日、殿下は帰らぬ人となります。

前回の記事では、アレクサンドル大公のこの日のメシチェルスキー公爵宛の手紙を引用しました。この手紙は有名で、よく引用されるものですが、前回はメシチェルスキー公が主人公ということで、最も有名な部分は省いていました。今回は、この手紙の別の箇所を見てゆきましょう。

 Любезный Владимир Петрович, вчера наступил для нас всех, а для меня в особенности, ужасный день смерти брата и моего единственного друга. Этот день останется для меня лучшим днём моей жизни. Приятно было быть всё время у постели умирающего. Я и его невеста стояли всё время на коленах у его постели.
Он держал всё время меня за руку и крепко жал её, хотя был уже без памяти.
Утром ещё он разговаривал со мною и так радовался видеть меня, дал мне руку и долго держал её. Но самое трогательное было свидание его с невестою, как он её целовал, ласкал и был совершенно счастлив.
К счастью, он, кажется, не очень страдал, хотя дышал очень тяжело и всё время его рвало порошками мускуса, которые он принимал 5 или 6 раз.
Какая тоска теперь у меня на душе, не знаешь, что делать, куда деваться.
Жить без брата, которого любил больше всего на свете, тяжело, и я не думаю, чтобыя когда-нибудь утешился; мысль, что моего милого друга и брата нет уже на земле, не даст мне покоя.
Teперь все выехали из виллы Bermont, где лежит мой милый брат, остался пока я один, и то думаю перебраться в другой дом, когда перевезут тело в церковь. Пока он здесь, отрадно быть в одном доме с ним, — а потом будет грустно возвращаться в пустой дом.

 親愛なるヴラジーミル・ペトローヴィチ、昨日は私達全員にとって恐ろしい日でした。特に私にとっては、兄でありただ一人の親友の死が訪れた日です。この日は、私の人生にとって最良の日であり続けるでしょう。私は常に病床の傍に居ました。私と彼の婚約者は、常に彼の病床の傍に膝を突いていました。彼は既に意識がないにも関わらず、常に私の手をしっかりと握ってくれました。

朝、彼は私に話しかけ、私に会えたことを喜んでくれ、長い間私の手を握っていました。しかし最も感動的だったのは、彼と婚約者との逢瀬でした。彼は彼女にキスして、愛おしそうに撫で、完全に満ち足りた様子でした。

幸いにも、彼は酷く苦しんでいる様子はありませんでしたが、それでも呼吸するのが大変辛そうで、いつも麝香の粉薬を戻してしまい、5, 6回も飲まされていました。

今、私が魂に負っている絶望は、何をしたらいいのか、どこへ行けば良いのか全くわからないということです。世界中の何よりも愛していた兄のいない人生は苦しく、時が経てば慰められるということはないと思います。私の大切な友人である兄が、既にこの世にはいないのだという考えは、私に安息を与えません。

今や、誰もが私の愛する兄の眠るベルモン荘から出て行ってしまい、私一人が残っています。私も、遺体が教会に移されたら別の家に移ろうと思っています。彼がここにいる間は彼の傍にいたいと思いますが―――、空虚な家に戻るのは、辛いですからね。

 大公が、殿下の亡くなった日を、「人生で最良の日」と表現したことは、送り先のメシチェルスキー公や後世の研究者を驚かせました。それは勿論、殿下が亡くなったことが喜ばしかったのではなく、彼が心残りなく安らかに旅立てたこと、そしてそれを近くで看取ることができたことに感謝する、という意味ですが、このインパクトある言葉は、メシチェルスキー公の心に響いたようです。

同じ単語や表現が何度も連続して繰り返され、心理的に動転しているのが見て取れるのも特徴です。

 

 どうでもいいのですが、わたくしは一番最初に「ベルモン荘」という語に出逢ったのがこの手紙だったので、このお屋敷の綴りは Bermont だと思っていました。しかし、正しくは Bermond で、大公はスペルミスをしています

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↑ ニースの古地図。

 フランス語では、語末の子音は発音されず、日本語でも「ベルモン荘」と転写しますし、それはロシア語も然りで、«Вилла Бермон» と転写します。そのことで混乱したのでしょうね。その気持ち、わかります……(※筆者の専攻はフランス語)。

 ベルモン荘に関する解説は既にしているので、ご興味があればこちらからどうぞ。

 

片時も離れず

 先程の手紙でも、大公は一人ベルモン荘に残ってでも殿下の傍に居続けたわけですが、この「片時も離れず」というのは誇張でもなんでもないということがわかります。別の資料を読んでみましょう。

 Когда цесаревич Николай Александрович в апреле 1865 г. умирал в Ницце, его младший брат был рядом с ним, а затем он присутствовал при обмывании тела, помогая обряжать покойника в чистое белье.

 ニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子が1865年4月にニースで亡くなった時、弟はずっと彼の傍にいて、遺体を洗う時も立ち会い、清潔な下着を着せるのを手伝った。

 推しの遺体に同担がパンツ履かせる文献読んだことあります? わたしはあります

すみません、今年最大のパワーワードが出てしまいました。いや、あの……、所謂「アイドルうんこしない理論」みたいな感じで、無意識にあんまり考えてませんでしたけど、そりゃあ誰かが衣服を脱がせ、湯灌をして、死に化粧を施しているわけですよね。大公……貴公だったのか……いつも殿下に付いていたのは……。

 

 ついでにこの辺りの解像度を上げておくと、殿下は死後に洗体、病理解剖、防腐処理を受けるのですが、婚約者のダグマール姫は殿下の亡骸に「しがみついて」まるで離れようとせず、医師たちが数人がかりで「力尽くで」引き離したと言います。その姿を見て、両親の皇帝夫妻は、この王女が息子を心の底から愛していたことを実感し、好感度が急上昇したらしく、彼女を殿下亡き後もロシア宮廷に迎え入れられないか、と考えるようになります。

 歴史書などではほぼ全く触れられませんが、当時敗戦を経験したばかりで、経済的状況が芳しくなかったデンマークは、殿下と婚約した王女を通じてロシア皇帝政府に援助を申し入れており、幾ら政略結婚とはいえそのやり口を快く思わなかった父帝は、婚約後彼女に不快感を示していました。それを知った殿下は、デンマークの戦争時の「外交努力」が稚拙なものであり、手段・時期・内容を分析し、全てが不適切であると非難した上で、彼らの傀儡にすぎない王女を擁護する手紙を書いています。主観ですが、内容がド正論過ぎて笑えます。20歳の外交官、強い……。

その数ヶ月後、始めてニースで対面したロシア皇帝夫妻とデンマーク王女は、殿下への愛によって結束力を強め、その際の諍いなど思い返されもしませんでした。

 

 一応訊いておきたいのですが、アレクサンドル大公は殿下の病理解剖の際には流石にその場から離れた……んですよね……?? 「解剖」というとお腹を切開するイメージが強いとは思いますが、殿下の場合は背骨と脳に炎症があったので、それだけではなく、頭蓋骨を割って脳を取り出したり、背中側からもメスを入れて背骨を引き抜いたりと、かなり本格的に「解体」していることが医師達の記録からわかっているわけなのですけれども、「片時も離れず」という語が意味するのは、つまり……? …………、こわいからやめておきましょう、そうしましょう、ね!

 

世界中の何よりも

 殿下が亡くなってから長い時が流れても、アレクサンドル大公が限界同担であることには変わりがありません。極端な例では、皇帝アレクサンドル3世は、死の間際にまで殿下の話をしたことがわかっています。では、後の記録を読んで参りましょう。

 Позднее, уже став императором, Александр III в письме жене вспоминал, что одним из немногих, кто повлиял на его «жизны и характер», был «дорогой брат и друг Никса», которого он (как писал 12 апреля 1865 года Мещерскому) «любил больше всего на свете».

 Вспоминая в 1866-м о его кончине, Александр писал в дневнике, что если бы не ранняя смерть, то именно от него старший брат «узнавал бы многое, что от других он не узнал бы».

 後に皇帝となったアレクサンドル3世は、妻に宛てた手紙の中で、己の「人生と性格」に影響を与えた数少ない一人が「愛する兄であり友人のニクサ」であり、(かつて1865年4月12日にメシチェルスキーに書いたものと同様に)「世界中の何よりも愛していた」と書いている。

 1866年、アレクサンドルは彼の逝去を回想し、日記に記している。『もし兄の早すぎる死さえなければ、私は他の人からは学び得ない数多くのことを彼から学んだだろう』。

 妻にそれを言うのはどうなの(正論)しかも皇帝になった後ということは、殿下が亡くなってから20年近く経ってますよね……

アレクサンドル3世の妻とは、そう、殿下と婚約していたデンマークのダグマール姫です。前述のように、ロシア皇帝夫妻、そして殿下の死にも立ち会った王女の母ルイーズは、殿下への愛と、彼の死がこの二国の皇室を強く結びつけたことを実感していました。元々は政略結婚ということもあり、皇太子の称号のみならず婚約者まで「引き継」がれ、アレクサンドル大公と王女ダグマールは婚約することとなりました。

 

 これはよく引用されるエピソードですが、より詳しく解説します。殿下は亡くなる前日の夕方(ユリウス暦4月11日)、数時間にわたって昏睡状態に陥りました。その際、両親や医師、側近などは病室から出たのですが、弟のアレクサンドル大公と、婚約者ダグマール姫は、殿下に意識があろうとなかろうとずっと病床に寄り添っていたため、このとき三人になる時間が生まれました。長い間、大公は殿下の右手を、王女は左手を握っていたというので、二人は病床を挟んで向かい合う形になっていたのだと思います。

密室での出来事で、真相は定かではありませんが、このとき、殿下が少し目を覚まして、三人で何か言葉を交わしたのではないか、という説があります。特に、殿下が自分が死んだ後に、二人が結婚するように促したのではないか、と考えられています。これはあくまで仮説なのですが、同時代人には広く信じられていました。

但し、ただの同時代人のメランコリックでロマンティックな妄想、と一刀両断することもできなくて、アレクサンドル大公とダグマール姫の日記には、明確な言及はないものの、それらしい「仄めかし」が散見され、完全に否定することはできませんし、実際にそういう会話があった可能性も低くはありません。最終的に、アレクサンドル大公とダグマール王女は世界史上でも稀に見る仲睦まじい夫婦となるので、殿下のいつもの百発百中の未来予知が発動したのかもしれません。

 

 アレクサンドル大公がダグマール姫に求婚したときの文言は非常に有名です。大公がデンマークに訪れた際、王女は殿下から貰ったお手紙や、婚約した際に殿下と撮ったお写真などを色々と大公に見せ、二人は殿下についての話を長くしていたと言います。その途中で、ぽつりと、大公は尋ねました。

あなたは、私の愛しい兄を亡くした後でも、他の誰かを愛することができますか?(«Может ли Вы любить еще после моего милого брата? »)」

彼が愛した兄弟を除いて、決して(«Никого, кроме его любимого брата.»)」。

こうして、始めて二人はキスをして、婚約が成立したといいます。

 そう、つまり、この会話には特によく現れていますが、この二人、現代でもなかなかない、同担婚なのです。ブラザーコンプレックスを拗らせている大公は、「兄の愛したものなら何でも愛した」と言います。ロシアへの愛は、元は兄譲りのものだったのかもしれません。一方、ダグマール姫も、同じスタンスであることはこの会話から見て取れます。彼らは超高火力の同担ですが、同担拒否の真逆を行く、心の広い同担です。ほんとに見習いたい。

 

もう一人の「ニコライ・アレクサンドロヴィチ」

 現代で、「ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ」といえば、誠に残念ながら基本的には殿下を指さず、同姓同名の別人を指します。そう、ご存じニコライ2世です。ニコライ2世は、殿下の「同担婚」で成立したアレクサンドル大公と、ダグマール姫(マリヤ・フョードロヴナ皇太子妃)の間に生まれた長子です。どうして彼がこの名を冠すことになったのか、見てみましょう。また、前述のエピソードでお伝えした「仄めかし」は、ここで引用されている手紙からも伺えます。

 Появление на свет долгожданного сына наследника престола воспринималось не только как рождение будущего цесаревича и императора, но и как своего рода восполнение той страшной потери, которая постигла царскую семью тремя годами ранее. Тогда в Ницце во цвете лет скончался другой Николай Александрович — наследник цесаревич, старший брат великого князя Александра Александровича и первый жених великой княгини Марии Фёдоровны, в то время ещё датской принцессы Дагмары. Дело в том, что старший Николай, горько оплакиваемый родителями и всей Россией, словно бы соединил нового наследника и свою безутешную невесту. Александр Александрович однажды писал своему отцу, императору Александру II: «Никса совершенно как будто завещал мне свою милую невесту как своему лучшему другу и как самое драгоценное свое сокровище, которое он имел на сем свете».

 Александр и Мария, искренне полюбившие друг друга и ставшие мужем и женой, не мыслили назвать сына иначе как в честь усопшего. «Ты можешь себе представить, как мы счастливы с Минни, что могли назвать первого нашего ребенка Николаем, — рассказывал цесаревич в письме к великому князю Михаилу Николаевичу, — и как нам обоим дорого это имя после стольких грустных воспоминаний о бедном Никсе».

 Александр II вторил сыну в письме к Христиану IX: «Рождение маленького Николая стало и исполнением всех наших молитв, и Вы наверняка поймете, почему мы дали ему это имя, которое вдвойне дорого нам». (Напомним, что это имя носил и отец царствующего государя и любимый дед цесаревича, Николай I.)  И, хотя за вторым в императорской фамилии Николаем Александровичем уже в детстве закрепилось семейное имя Ники, неудивительно, что на первых порах его, по-видимому, называли также Никсой — как в своё время его рано умершего дядю. Об этом, к примеру, свидетельствует письмо Александра II к наследнику престола, написанное им в августе 1868 года, которое император заключил словами, что «обнимает» сына, «милую Минни и маленького Никсу от глубины сердца».

 待望の帝位継承者の誕生は、ただ将来の皇太子と皇帝の誕生となっただけではなく、三年前に皇室を襲った恐ろしい喪失の補填として理解された。皇太子で、アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公の兄であり、当時はデンマークの姫でダグマールと呼ばれていた大公女マリヤ・フョードロヴナの婚約者であった、別のニコライ・アレクサンドロヴィチが、花の盛りにニースで逝去したのだった。実際、ニコライは、両親と全ロシアから大変悼まれていたが、一方でそのことが新しい帝位継承者と悲嘆に暮れる婚約者を結びつけたようだった。アレクサンドル・アレクサンドロヴィチは、一度父である皇帝アレクサンドル2世に宛てて書いている。『ニクサは、己の愛する婚約者を、一番の親友として、そして彼が有していた世界で最も貴重な宝物として、私に遺贈してくれたのです』。

 アレクサンドルとマリヤは、心から愛し合って夫婦になったが、自らの息子に故人の名前を付けること以外に考えもしなかった。『ミニー(ダグマール=マリヤ・フョードロヴナの愛称)と私が、初めての子供にニコライと名付けることができてどれほど幸せか、わかってくれますよね』。皇太子はミハイル・ニコラエヴィチ大公に対して手紙で語っている。『哀れなニクサの悲しい想い出がある中で、この名前が私達にとってどれほど大切であることか』。

 アレクサンドル2世は、クリスチャン9世に宛てた手紙の中で、息子と同じことを繰り返している。『小さなニコライの誕生は、我々にとって悲願の成就であり、私達が彼に二倍も愛しているこの名を付けた理由をご理解頂けていることでしょう』。(この名は皇帝の父であり、皇太子の大好きな祖父であるニコライ1世の名前でもある)。

 皇家の二人目のニコライ・アレクサンドロヴィチは、幼年期から「ニキ」という愛称で呼ばれていたが、初めは死んだ叔父と同じく「ニクサ」と呼ばれていたようだ。その証拠に、アレクサンドル2世は1868年8月、帝位継承者に対し、息子と、『愛らしいミニーと小さなニクサを心の底から抱き締める』と書いている。

 ニコライ2世が殿下と同じく優秀であったなら!!(禁句)。いや~、もう呪いですよね、それは。アレクサンドル3世自身、殿下と比較され続けて苦しんだはずなのに、同じ運命を息子に託すとか、もう鬼畜の所行ですよ。殿下の再来となればまだよかったものの、ニコライ2世時代の統治は、皆様ご存じの通りです。泣けますね。

 

 ミハイル・ニコラエヴィチ大公と申しますのは、殿下と大公の叔父(父の弟)です。

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陸軍で活躍し、カフカース地域の総督を務めていました。

 

 クリスチャン9世は、デンマークで、ダグマール姫=マリヤ・フョードロヴナ皇太子妃の父です。

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アレクサンドル2世とクリスチャン9世は、二人ともニコライ2世の祖父にあたるので、孫が生まれたことを報告する書簡を出した、ということですね。

 

 殿下がもしあと半年でも長く生き、ダグマール姫と結婚していたら(※殿下と王女の結婚は夏を予定されていました)、ニコライ2世は生まれなくなり、それだけでロシア史は大きく変動することになります。たったの半年です。どう転ぶのが彼らにとって、ロシアにとって、世界にとってよかったのかはわかりません。しかし、賽は投げられ、ロシア帝国は滅亡しました。皆様は、「仮に殿下がもう少しでも長く生きていたら」という想像に、どのような未來を思い描くでしょうか。

 

最後に

 通読お疲れ様でございました! 前回の記事に引き続き2万字を記録していまいました。いつもながら長文ですみません。 

 肉親ということで、資料も豊富で、熱も篭もりますね。アレクサンドル3世、すぐ歴史書なんかでバカにされますけど、殿下が大好き、『オネーギン』が大好き、チャイコフスキーも好き、レールモントフも好き……と、わたくしと趣味が限りなく似ており、寧ろこの世界で最も趣味が合う人間だと思っているので、彼がバカにされると自分もバカにされているようで悲しくなるんですよね。趣味が似すぎなので前世まである。あ、であれば前世の記憶をもっと引っ張り出したいところですね……(?)。

 さて、それでもまだ限界同担はいるのです。次回、(現段階では)最終回予定。ラスボス……というより、それは弟である皇帝アレクサンドル3世の方が相応しいので、そうですね、謂わば「裏ボス」にご登場頂きます。その「限界同担」というか、正に「変質者」としか言いようがない奇行をとくとご覧あれ。

 長くなりましたので、これにて閉めさせて頂きます。最終回でお会いしましょう!

↓ 最終回が上がりました。こちらからどうぞ。