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ガデンコ『皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ』⑸ - 翻訳

 おはようございます、茅野です。

いつの間にやら今年も誕生日を迎えまして。U25(劇場で25歳以下は割引料金で観劇することができるチケットのこと)の期限がそろそろ怖くなってくるお年頃です。いつの間に……、恐ろしや。

 

 さて、今回は、ガデンコ著『皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ』を読むシリーズの第五回最終回で御座います。

↑ 第一回はこちらから。

 

 最終回となる第五回では、最終章・第四章皇太子の歿地に建つ新しいニースの大聖堂』を完訳してゆきます。所謂「ニースの聖ニコラ大聖堂」についてですね。

 

 それでは、最後までお付き合いの程宜しくお願い致します!

 

 

第四章『皇太子の歿地に建つ新しいニースの大聖堂』

 ニースに、ミラの奇蹟者聖ニコライの名を冠したロシア正教の大聖堂が新しく建てられる。

 

 1903年4月12日、南フランスのニースにて、新たにミラの奇蹟者聖ニコライの名を冠すロシア正教の大聖堂の起工が始まった。所在は、1865年4月12日に、帝位継承者ニコライ・アレクサンドロヴィチが亡くなったベルモン荘の庭に位置する。

ニースにあるロシア正教会といえば、1859年に建てられた、邸宅のような小規模のものしかなかった。

 

 フランスのリヴィエラにロシア人入植者が増加するにつれ、従来の教会では祭典を催すには手狭となり、もっと大きな教会の需要が高まったのである。

 

 皇后マリヤ・フョードロヴナは当時、故皇太子ゲオルギー・アレクサンドロヴィチと共にニースの近く(ラ・テュルビー)に滞在しており、旧来の正教会では不足であるという知らせを受け、彼女自身の後援の元、ニースに新たな教会を建設することに同意された。

 

 「ニースの教会建築特許委員会」の初代委員長はレイフテンベルク公ゲオルギー・マクシミリアノヴィチ・ロマノフスキー殿下だった。

教会は、 М. Т. プレオブラジェンスキー博士の計画に沿って建築されることが決定した。

 

 委員会の構成。

初期の1900年時点の委員会は、委員長の他、以下のメンバーで構成されていた。上院議員 В. А. ゴトフツェフ、領事バトゥーリン、С. М. ゴリツィン公爵、М. П. アルノルディ、長司祭 С. Г. リュビーモフ、そして輔祭 А. Д. セリヴァーノフ。

1902年には、 В. А. ゴトフツェフと領事バトゥーリンが委員会を去り、領事 А. Н. デレヴィツキー、副領事ユラーソフが加入した。

1903年に、Л. В. イスラーヴィンが А. Н. デレヴィツキーに代わった。

1904年、メンバーに教会執事 Д. Н. グーバレフを招待。

1906年、教区信徒代表 А. П. ガデンコ、副領事オッフェンベルクが、Л. В. イスラーヴィンに代わって領事 С. А. カンシンが加入。

 

 レイフテンベルク公ゲオルギー・マクシミリアノヴィチ・ロマノフスキー殿下は、1907年に健康上の理由で委員長職を辞され、名誉委員長に就任された。

 

 勅令により、委員長には在パリ大使の А. И. ネリドフが、副委員長には С. М. ゴリーツィン公爵が就任すると定められた。

委員長、副委員長のみならず、次のような委員会規約も作成された。

 

 常任委員会として、領事、教会の主任司祭、そして教会執事。実行委員会として、教区信徒代表 А. П. ガデンコ、М. П. アルノルディ(1910年に逝去)を書記官に、当時輔祭で今は司祭の А. Д. セリヴァーノフを主計官として招待した。

その後、委員には、1909年に В. Н. ブトーヴィチ、1910年に П. Ф. スマローコフ=エルストン伯爵、そして1911年に П. А. デミドフが加入した。

 

 国外の教会を管理している間、クロンシュタット主教ヴラジーミル猊下は建築委員会のメンバーでもあった。

主な指導者は計画の著者でもある М. П. プレオブラジェンスキー教授であったが、現地の法に従い、建築強度の問題に関してはフランス人の建築家が監修する運びとなった。従って、フランス人建築家バルベー氏、次いでマルス氏を招待したが、双方とも持病があり断られた。そうして、現在の管理者である建築家ステクレン氏が加わったのである。

1909年春、委員長 А. И. ネリドフが健康上の理由で辞任を申し出た為、勅令によって委員長は С. М. ゴリーツィン公爵に定められた。

 

 委員会の活動。

第一回会議は、1900年12月13日(26日)に開催された。

最初の議題は、既存の教会の拡張と増築の検討だった。その結果、教会の隣の建物の所有者が、その建物よりも高い建築物を建てることを禁ずる地役権を持っていることが判明したのだった。

 後になって、この地役権は部分的に消失したが、既に新しい教会の建築が始まった後のことだった。

 

 最初の会議では、新たな教会を建設するための敷地を購入することが決定された。

1901年6月、ヴェルディ通りに1800平方メートルの土地を購入した。

地質や地盤の調査も完了し、残すところ後は建築に着手するのみという段階であった。

しかし、この土地が大きなホテルの裏手という見窄らしい場所であったことから、教区信徒から非難の声が出てきた。特に、新しい教会が街の中心部から離れていること、鉄道が通って居らず交通の便が悪いことなどが不満の種となった。

 

 1903年4月、委員長である殿下は、新しい教会を皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチが亡くなったベルモン荘の庭に建築する許可を求め、皇帝はそれを承認した。

この場所も中心街からは離れていたが、路面電車が幾つか通っていたし、何より1865年に、皇家と我ら全ロシアが経験した痛ましい事件によって、この一角はロシアにとって異質なものではなくなっていた。

 

 1903年4月12日、皇太子の命日に、聖ニコライの名の下、新しい正教会が起工された。

起工の祝賀会には、多くの皇族が列席された。ミハイル・ニコラエヴィチ殿下(※皇太子ニコライ殿下の叔父)、ミハイル・ミハイロヴィチ殿下(※殿下の従弟)ザクセン=コーブルク=ゴータ公妃マリヤ・アレクサンドロヴナ殿下(※殿下の妹)、アナスタシア・ミハイロヴナ殿下(※殿下の従妹)とその娘である現ドイツ皇太子妃(※ツェツィーリエ殿下)、委員長であるレイフテンベルク公ゲオルギー・マクシミリアノヴィチ・ロマノフスキー殿下(※殿下の従弟)ブルガリア王子フェルディナント殿下、地元の政府関係者、及び無数のロシア人と外国人が列席した。

 委員会の懸念の一つは、建築に対してのみならず、新しい教会に続く広い通路を確保できるかという点だった。

皇帝アレクサンドル2世がベルモン荘を購入した際、この土地は未だ市域に含まれていなかった。建設計画を立てるにあたり、ベルモン荘は別の所有者の土地に囲まれ、幅4メートル、長さ50メートルの小路によって、新しい通り(ツェサレーヴィチ大通り)へと繋がっていることが発覚したのだった。

 

 そこで、委員会は、新しく建った隣の豪華なホテル(インペリアル・ホテル)の所有者ゲー氏から、教会への広い通路の為の土地を寄付してもらうこととなった。

この贈り物は、委員会にとって少し課題が残った。ゲー氏から贈られた土地は、南側の主要な通りではなく、教会の東側の狭い路地に繋がっていたからだ。

しかし教会の隣の土地の所有者は、法外な値段を付けてきたため、委員会には、教会からツェサレーヴィチ(皇太子)大通りへの広い通路を通すための土地を購入することができなかった。

最後に運はとうとう委員会に味方した。新しく偶然にも教会とツェサレーヴィチ大通りの間の3000平方メートルの広大な土地を所有することになった人が、以前委員会が購入したヴェルディ通りの土地との交換に応じてくれたのだ。

この土地の一部は、委員会が売却しようとしたが、余りにも安い値段しか付けられなかったので、売れ残った。

 

 現在、ツェサレーヴィチ大通りから教会へと続く広い通路、そしてニースでは非常に価値がある南向きの残りの2400平方メートルの土地は、委員会から教会管理局に引き渡された。

後者に関しては、もし売却する必要が生じた場合、教会よりも高い建物を建てないこと、そして品位を損なうような施設を建設しないことを定めることが肝要である。

教会管理局がこの土地を保持し、聖職者の為の住居ないし他のロシアの施設を建てることが望ましい。

 

 新しい教会への通路は委員会が資金を調達したが、ニース市は、市内のロシア人街を斯様な美しい建築で飾ったことに謝意を表し、大通りの整備を引き受けた。

この大通りは街の道路のリストに載り、皇帝の許可を得て、「ニコライ2世通り」と命名された。

 

 建築に、一種の大理石のような高価な白い艶消しレンズ状鉱石の使用、窓やドア、コーニスへの彫刻など、プレオブラジェンスキー教授の計画の忠実な実行は、非常に費用が嵩んだ。

委員会は、計画を削減したり簡易化することは叶わなかったし、ロシアにとって記念碑的な建物を歪めることも望まなかった。しかし、資金が底を突くという難しい状況に陥った。

1908年に、皇帝は惜しみない援助を下さったが、内装完成には至らず、外装の一部にその資金は用いられた。

委員長である С. М. ゴリーツィンも多額の寄付をしたため、委員会は1912年春までに教会を完成させたいと考えている。

建設される教会は、我々の教会建築の歴史の中で最も輝かしい時代の記念碑となり、世界中の人々が訪れる場所となるだろう。そして、ロシアと聖なる正教会の偉大さを示す明瞭な証拠ともなろう。

 

解説

 通読お疲れ様でございました!! これにてガデンコの『皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ』は全訳となります。短いとはいえ、一冊丸々というのは清々しいですね。

 

 あの聖ニコラ大聖堂がこのような経緯で建ったとは。概要はともかく、詳細までは存じ上げなかったので、書いていてとても勉強になりました。

 それにしても、委員会のグダグダっぷりはなんなんでしょうかね。ガデンコも、委員会の書記官を務めながら、この惨状を書き残しているのは顔の皮が厚いというかなんと申しますか。いえ、どこぞの政府のように、改竄したり闇に葬るよりずっと良いと思いますけれども……。

 ちなみに、このグダグダの最中、「ベルモン荘の庭に大聖堂を建てよう」という解決案を出したのは、皇后マリヤ・フョードロヴナ自身だったといいます。何十年経てども、大事な初恋であり婚約者だったのだなあと思うと、嬉しさと切なさを感じますね。

 しかし、殿下が亡くなって40年も経っているのに、結局殿下の名を借りなければ成功しないとは。没後であっても、殿下はいつでも正しい。

 

 さて、それでは軽く解説を入れて、終わりに致しましょう。

 

聖ニコラ大聖堂

 今章で題材となっているのが、ニースの聖(サン=)ニコラ大聖堂です。

↑ 相変わらずのデ○ズニーランド感。

 概要につきましては、作中にある通りです。

 

 我らが殿下の甥である、皇帝陛下の「惜しみない援助」について、簡単にレートの計算をしてみたんですけれど、現在の日本円にして、ポケットマネーで約 7 億円融資しておりますね。怖……ロマノフ家の財力、怖……。

当時、ロマノフ家、特に皇帝ニコライ2世は世界で一番資金力のある個人でもあったわけなのですが、勿論それは主に税金からくるものであり、出費に関しては宮内省による厳しい監査を受けました。従って、「世界一のお金持ち」と言えど、我々が想像するよりもずっと、出費に関しては窮屈であった、と現代では考えられています。

いやしかし、ポンと 7 億円出せるならそれはもう全然窮屈とかそういう次元ではないのでは。わたくしは認識を改めさせて頂きます……。

 

 そして、この約 7 億円は、全体の建設費用の約半分ということでしたので、従って教会建設の費用は約 14 億円ということに。

 「 14 億円」と言われても全然ピンと来ないので、比較用に調べてみたのですが、現代で 14 億円の建物を建てようとすると、小学校とか、スポーツ用のスタジアムなどが建つそうです。恐ろしや。

 

サン=ニコラとサント=アレクサンドラ正教会

 ニースの小さな「既存の教会」とは、サン=ニコラとサント=アレクサンドラ正教会のことです。

また「ニコラ(イ)」かい! と思われるでしょうが、ここでのニコラ、アレクサンドラとは、殿下の祖父母である皇帝ニコライ1世と皇后アレクサンドラ・フョードロヴナを指します。(ちなみに、「ニコラ」がフランス語読み、「ニコライ」がロシア語読み、というだけで、勿論同じ名を指します)。

 

 確かにこの教会は比較的こぢんまりとしており、街並みに溶け込んだ「家のような」外観です。

↑ 19世紀に撮られたお写真。

 

 また、当時ニースでの唯一のロシア正教会ということからもわかるように、殿下の葬儀が営まれたのも、ここサン=ニコラとサント=アレクサンドラ正教会でした。

↑ 左手奥に教会の丸屋根が伺えます。中央の豪奢な馬車(カレスニーツァ)に棺が乗せられていて、護送されている様子ですね。

前々回でも記述がありましたが、4月14日から16日の二日間、この教会に安置されていたようです。

 

 教会は現存しているので、ニースに聖地巡礼の際には、殿下の歿地ベルモン荘付近だけではなく、こちらにも脚を伸ばしてみてください。わたくしも行きたい。

 

ラ・テュルビー

 皇后マリヤ・フョードロヴナ(殿下の婚約者ダグマール王女)が滞在されていたというラ・テュルビーは、ニースより東に位置するフランスの都市。

↑ 右側の赤線で囲われた部分がラ・テュルビー。

 ちなみに、ニースの海側にある「マセナ美術館」は、殿下がベルモン荘に移る前に滞在していたギースバッハ荘のすぐ近くにある美術館ですので、位置情報の目安としてください。

尚、ベルモン荘跡地、現礼拝堂及び教会の位置は、「ラピッド道路」の上部に一部緑の部分(テニスコート)が見えると思うのですが、そのすぐ東側です。

 

 ラ・テュルビーと隣接するすぐ南の国家はモナコ公国

余談ですが、モナコ公国からは、殿下が皇后マリヤ・フョードロヴナ、つまり当時のダグマール王女に宛ててニースから書いたお手紙が見つかっています。

普段、カリグラフィのお手本のような字で、長く修辞的な文章を書く殿下にしては非常に珍しく、筆跡が乱れており、短く、果てはフランス語とロシア語が混ざってしまっているという、全く殿下らしからぬお手紙で、65年、かなり病状が進行してしまった状態で書かれたものであろうと推測できます。

 少なくとも殿下はモナコには訪れたことがないですし、どういう経緯でモナコに? と疑問に思っていたのですが、もしかしたら、デンマーク王女からロシア皇后となった彼女が、40年前に婚約者から貰った手紙を持参していたのかもしれませんね。

 

ゲオルギー皇太子

 そんな皇后マリヤ・フョードロヴナと共にラ・テュルビーに滞在していたというのが、ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ大公。アレクサンドル3世と彼女の間の三男で、ニコライ2世の弟です。尚、次男は出生して間もなく夭折してしまっているので、実質的には次男の扱い。

ニコライ2世が即位したての頃、帝位継承者の称号を保持していました。

↑ 軍服がかなり近代的に。お顔立ち、かなり兄に似ていらっしゃる。全員がとは言わないまでも、殿下もそうですが、耳の先が尖りがちなのがロマノフ家の特徴。

 

 「故」とあるように、ゲオルギー大公も28歳の若さで早逝してしまっています。ロシア帝国に於いて、殿下に次ぎ、皇太子時代に亡くなった三人目の大公です。

とはいえ、彼はニコライ2世男児が生まれるまでの「繋ぎ」の皇太子であり、元より帝位継承の準備はしていなかったので、社会にとっては、殿下の死ほどの衝撃はありませんでした。

 

 ゲオルギー大公は結核を患っており、チフリスで療養していたのですが、ある日一人で出掛けていた際、突然膨大な量の血を吐いてしまいます。そしてそのまま道端に倒れ、己の大量の血で喉を詰まらせ呼吸困難になって亡くなってしまうという、皇太子らしからぬ凄惨な最期でした。

皇帝夫妻である両親は、息子たちの中ではこのゲオルギー大公を一等愛していたので、そのショックは非常に大きかったとか(ゲオルギー大公よりも前に父アレクサンドル3世は亡くなっていますが)。

 

レイフテンベルク公ゲオルギー・マクシミリアノヴィチ

 膨大な量の人名が登場する今章。皇族に関しては、殿下との続柄を本文中に記しましたので、ある程度省略させて頂くこととしますが、委員会の委員長であったゲオルギー・マクシミリアノヴィチ大公については簡単にご紹介したいと思います。

 

 アレクサンドル2世の妹、マリヤ・ニコラエヴナ大公女は、レイフテンベルク公マクシミリアンと結婚するのですが、彼もまた35歳という若さで亡くなってしまいます。呪われてんのかというくらい短命な人が多いロマノフ一族。

 マリヤ大公女は、夫の死後、殿下の教育責任者であるあのセルゲイ・グリゴリエヴィチ・ストロガノフ伯爵の甥、グリゴーリー・アレクサンドロヴィチ・ストロガノフ伯爵と貴賤結婚。貴賤結婚は罪であるため、国外追放となってしまいます。

アレクサンドル2世と妹マリヤ大公女は兄妹仲がよかったようで、皇族にして孤児となってしまった妹の子供達を憐れみ、彼らを引き取ることに決めます。

 

 従って、父称マクシミリアノヴィチ世代は、我らが皇太子ニコライ殿下の従兄弟にして、殆ど兄弟同然の関係で育っているわけです。尤も、このゲオルギー大公は末子で、殿下とは9歳差ですから、「仲が良い」というような関係ではなかったでしょうけれども。

↑ ゲオルギー・マクシミリアノヴィチ大公。

 殿下は、彼ら兄弟のうち、二つ年上の次女マリヤ・マクシミリアノヴナ大公女(愛称「マルーシャ」)や、同い年の長男ニコライ・マクシミリアノヴィチ大公(愛称「コーリャ」)と大変親しく、空いた時間にはよく三人で出掛けていたようです。

コーリャ大公は、数多い殿下の友人の中でも一際心を許せる親友であり、ニースにも来て、最期まで一緒にいたことが前々回の描写からもわかります。

 

 尚、このゲオルギー大公、なんと妻は「あの」オリデンブルクスキー家の末娘テレーザ。しかも、ゲオルギー大公の姉エヴゲニアと、テレーザ公女の兄アレクサンドルも結婚しており、レイフテンベルクスキー家とオリデンブルクスキー家の繋がりの強さが伺えます。

 「あの」とはなんぞやと申しますと、このオリデンブルクスキー兄弟は、殿下への愛を異様に拗らせていることで知られているからです。

 

 長男のニコライは、殿下の3歳年上ですが、所謂放蕩息子であって、貴賤結婚をしたことから、皇帝アレクサンドル2世から手酷く嫌われ、所属していた軍を追放されます。真面目な殿下も、本人の前では態度にこそ出さないものの、国家の利に反する行動ばかり行う彼のことを内心好いていなかった様子です。

しかし、彼の方は殿下のことが大変好きで、1865年のニースで、殿下が死に瀕していると知り、どんな手段を使ってでも殿下に会いたくなり、従者に紛れ込んで不法侵入を試みるという大胆な行動に出ます。なんで殿下のファンってみんなこうなんですかね?

父である皇帝は、このニコライ・ペトローヴィチが紛れ込んでいることに明らかに気が付いたらしいのですが、「最期だし、そんなにも息子を愛しているならば」と、寛大にも見逃したのだとか。そうやって軽率に許すからストーカーがどんどん増えるのでは……。

殿下はその時には既に瀕死の重症にあり、意識すら戻らない状況でした。恐らく殿下は、近くに彼がいたことに気付くことすらできなかったでしょう。それでも、彼は殿下の寝室から離れようとせず、看取るまでそこに居たとのことです。

 

 兄も大層に「ヤバい」のですが、妹も「ヤバい」です。このニコライ・ペトローヴィチの妹には、エカテリーナ・ペトローヴナ・オリデンブルクスカヤ公女がいます。そう、あの殿下に恋し、彼の死に耐えきれず「自殺」した乙女です。

↑ 詳しくは「限界同担列伝」シリーズ第三回をどうぞ。

あらゆる周囲の人々を恋に突き落とし、沼底へ引き摺り込む「水の妖精」ニコライ殿下ですが、何やらオリデンブルクスキー家には殊更強く作用したようです。

 

 ゲオルギー・マクシミリアノヴィチ大公は、殿下の従弟である上、殿下の親友であったマルーシャ、コーリャの弟であり、更に、妻の兄姉には、前述の不法侵入者ニコライ、ガチ恋勢エカテリーナがいるのです。(ニコライさん多すぎ)。

濃すぎる!!!

 

プレオブラジェンスキー教授

 最後に、聖ニコラ大聖堂の設計図を書いた、ミハイル・ティモフェーヴィチ・プレオブラジェンスキー氏をご紹介して終わりにしたいと思います。

 プレオブラジェンスキー教授は、数多くのロシア正教会の設計を手掛けた、著名な建築家です。

 

 ニースの聖ニコラ大聖堂の設計図なども残っています。

↑ 直筆の設計図。字、美しすぎません?

 

 他にも、例えばフィレンツェの聖ニコライ大聖堂も彼の手になるものです。また聖ニコライか……。

↑ こちらもなかなかにディ○ニーランドしておりますね。

前回登場した、レヴィツキー長司祭がお勤めをした教会でもありますね。

殿下はフィレンツェには訪れているものの、この教会が完成したのは1903年と没後のことなので、当然訪問もしておりません。

 

 他にも、国内外問わず多数のロシア正教会を建築しています。しかし、中でも一際豪奢で美しいのは、このニースの聖ニコラ大聖堂でしょう。

 

最後に

 通読有り難う御座いました! 楽しく解説を書いてしまい、9000字強となりました。

 

 これにて、ガデンコ『皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ』を読むシリーズは完結となります。重ねて、お付き合いを有り難う御座いました。

 コロナ禍、戦争と、情勢の悪化に伴い、暫くロシアの大地を踏むことは叶いそうにありませんので、先にニースでの聖地巡礼を目指し、ニースにフォーカスした資料を読むことを目的に開始した当シリーズ。

伝記、歴史書でしばしば引用される、殿下の死についての記録の大部分も書くことができましたし、個人的には大変満足しております。

第四回のイコン一覧や、今回の委員会員のリストなど、普段であれば絶対に読み飛ばすので(すみません)、こういう機会にしっかりと向き合うことができて良かったなと思っています。

 相も変わらずにマニアックな内容となってしまった気が致しますが、皆様の何かしらの実りになっていれば幸いで御座います。

 

 さて、今後の予定ですが、殿下に纏わる記事に関しては、数本単発を書いたのち、次の連載に移りたいと考えております。書きたい題材は決まっているので、あとはひたすら原文と向き合うのみ……!

濃ゆい内容をご用意しておりますので、気長にお待ち頂ければ幸いですね。

 

 それでは、今シリーズはここでお開きとなります! また別の記事でもお目に掛かれましたら幸いです。