世界観警察

架空の世界を護るために

ガデンコ『皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ』⑴ - 翻訳

 こんばんは、茅野です。

五月も終わろうとしている事実に戦慄しております。

 

 さて、今回から新連載を開始致します。

前回は、ヴラジーミル・ペトローヴィチ・メシチェルスキー公爵の『回想録』を読むシリーズを連載していたのですが、先日めでたく完結致しました。

↑ 前回のシリーズ。ガチ恋勢な友人の初恋の記録です。是非どうぞ。

 殿下に纏わる文献を読むシリーズは、書いていて楽しいですし、こんな形ながら一応は初の邦訳となりますし、個人的にロシア語や翻訳の学習にもなるので、今後も積極的に文献読解・翻訳系の連載を進めていこうと思いまして……。

 

 というわけで今回からは、ガデンコ著『皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ大公(Наследник Цесаревич и Великий Князь Николай Александрович)』という、ド直球タイトルの本を読み進めてゆこうと思います。

 この本を選んだ理由は幾つかあります。こちらの本は、100ページ弱の短いものなので、全文を訳出するのも不可能では判断したことが第一です。

そして、こちらは1911年に発刊されたもので、殿下の死後50年近くが経過しています。生前の殿下と関わりがなかった人物が書いた殿下の最初期の研究書であることを興味深く思ったことが次点です。

更に、タイトルではわかりませんが、副題が『皇太子の病と死の目撃者の回想録』となっている他、著者ガデンコはニースに滞在し、ニースでのロシア正教会建設に携わった人物です。従って、この本では主に殿下のニース滞在にフォーカスされています。情勢の変化に伴い、暫くロシアには聖地巡礼の旅に出られそうもない為、今のうちにフランスのニースと殿下の関わりについて学んでおこう、という計画です。

 

 病と死について、ということから察されるように、内容は興味深いながらも非常に暗く重たく、文字通り「痛ましい」です。

しかし殿下は最期まで彼らしく、相変わらず人間離れしたエピソードも満載ですし、後世の研究書ということで公式記録などの引用も多く、歴史的・研究的価値もあるため、今回はこちらに取り組んでゆこうと思います。

 今回は、元々が研究書ということで、わたくしからの長い解説を書かない分、本文が長くなります。是非ともガデンコ先生の筆をお楽しみ下さい。今のところ、全5回程度の連載を予定しております。長い翻訳を書く分、投稿速度が落ちますがご了承下さい。

 

 第一回となる今回は、前書きと、タイトルと同題の第一章「皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ 1843-1865.」を訳出します。

第一章では、殿下の生い立ちが簡単に述べられており、弊ブログによく訪れてくださる方、殿下ファンの方々には百も承知な内容かもしれませんが、わかりやすく完結に纏まっている良い史料です。

 

 それでは、お付き合いの程宜しくお願い致します! 是非とも楽しんで頂ければ幸いです。

 

 

『皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ(1843-1865)』

皇太子の病と死の目撃者の回想録

皇太子の歿地ニースの礼拝堂と教会

編集者 А. П. ガデンコ ニースに於ける教会建設高等委員会員

 

前書き

 ニースは、その例外的な気候の為、冬になると世界中の人々が訪れる。

1864年12月、快癒の為に、解放者皇帝(アレクサンドル2世)の長男である帝位継承者ニコライ・アレクサンドロヴィチもまたこの地に訪れた。

南の太陽と快適な気候も、彼の身体を深く蝕んだ病に打ち勝つことはできず、1865年4月12日、ニースのベルモン荘にて皇太子は薨御された。

 

 この痛ましい事件の目撃者となった П. ヴャーゼムスキー公爵は、1865年4月20日に、ニースから第一印象を綴った手紙を書いている。

 『深く魂に穴を開けたこの忘れ難く悲しい印象と想い出の地として、ニースの地は永久に記憶されるだろう。この出来事によって、この地は我々の年代記に書き込まれた。今後はロシアの歴史に属することだろう。

この屋敷を見ると、一連の出来事を全て思い出す。そしてそのとき、この屋敷が今後誰によりどのような目的で使用されるのかは神のみぞ知ると考えると、胸が痛む。否、断じてそうあってはならないのだ! ロシアの一大悲劇が起きたこの神聖な場所を、ロシアにとって異質なものにしてはならない。

ベルモン荘はロシアが所有し、亡くなった皇太子への愛と想い出により聖別し、神の御心に沿うようにする必要がある』。

 

 実際に、豪奢な庭園に囲まれたこのベルモン荘は、皇帝アレクサンドル2世によって買い取られ、皇太子が永眠した屋敷の跡地には、科学アカデミー会員グリムの設計によって礼拝堂が建てられた。

 

 1868年3月26日、後のアレクサンドル3世となる帝位継承者アレクサンドル・アレクサンドロヴィチの列席の下、礼拝堂は厳粛に聖別された。

 

 この街の都市整備の際、ニース市はベルモン荘の近くの美しい大通りを「皇太子通り(Boulevard du Czarewitch)」と命名し、ベルモン荘の近くの豪奢な公園と、ニースで最良のホテルの一つを、それぞれ「インペリアル・パーク」と「インペリアル・ホテル」に、そしてその隣のホテルは「Hôtel du Czarewitch」と命名した。

ロシアにとって大切なこの場所に対するフランス人のこのような態度からは、皇太子の滞在、彼の薨御、皇家の到着、そしてヴィルフランシュからロシアの御用船での遺体の搬送が、現地の住民に対しても深い印象を与えたことを物語っている。

現在、ベルモン荘の庭園には、礼拝堂に並んで、ミラのニコラオスの名にかけ、17世紀のモスクワ・ヤロスラヴリ様式の新しく豪奢な正教の聖堂が建設された。そして、新しい聖堂へ至る道には、皇帝の許可を得て、「ニコライ2世通り(Avenue Nicolas II)」と名付けられたのである。

 

 この地は最早不朽のものとなった。しかし、事件が起きたのはずっと昔のことで、多くは既に忘れ去られている。従って、この地で起こったロシアの不幸の回想を再生することは、新しい聖堂の何よりの補遺となるであろう。

その想い出を収集することが、我々のささやかな課題である。

 

А. ガデンコ

ニース 1911年

 

第一章『皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ 1843-1865.』

 1843年9月8日、後にアレクサンドル2世となるロシア帝国皇太子アレクサンドル・ニコラエヴィチとその妻マリヤ・アレクサンドロヴナの間に、長男ニコライ・アレクサンドロヴィチ大公が誕生した。

 

 この慶事を記念して、幸運な両親は、債務者の救済と両首都の貧しい住民の為に 10,000 ルーブルを寄付された。

 

 1855年2月18日に皇帝ニコライ1世が崩御されると、アレクサンドル2世が先祖代々の帝位に就かれた。

 

 2月19日、至高の皇帝のマニフェストを傾聴した参議院は、以下のように定めた。『皇帝と彼の帝位継承者ニコライ・アレクサンドロヴィチ大公に忠誠を誓う』。

同日、宮殿の聖堂にて、皇帝と皇后の立ち会いの下、皇家、国家高官、武官、文官、司法大臣が即位宣言を読み、両陛下の主司祭バジャーノフが、皇帝と帝位継承者ニコライ・アレクサンドロヴィチ大公に対する忠誠を誓った。

 

 1859年9月8日、帝位継承者ニコライ・アレクサンドロヴィチは成人を迎えた。宣誓は冬宮殿で行われた。

この際、皇帝は次のようなマニフェストを発された。

『神意に護られ、正教の規則を堅く守り、祖国への暖かい愛を抱き、己の義務を自覚する我が国の殿下は、法定成人年齢に達し、本日、神へ感謝の祈りを捧げ、余の前で、厳粛に余と国家に仕えることを宣誓された』。

 

 皇太子の初めての養育者は副官 Н. В. ジノヴィエフと二人の助手だった。学習を初めて監督したのは Я. К. グロートである。

その後、皇后の要望により、教育責任者に В. П. ティトフが指名された。彼は大公が高位の貴族と共に学ぶ学習院を計画した人物である。計画は、皇帝からも皇后からも支持を得ることができなかった。

 

 最終的に、皇帝の選択は С. Г. ストロガノフ伯爵に下され、彼は皇太子の薨御まで仕えた。

 

 皇太子の教師たちには、以下のような人物が居る。К. Д. カヴェーリン、М. М. スタシュレーヴィチ、Я. К. グロート、К. П. ポベドノスツェフ、И. К. バブスト、Ф. М. ブスラエフ、С. М. ソロヴィヨフ、А. И. チヴィリョフ、クリアル、Н. Х. ブンゲ、Б. Н. チチェーリン、クドリャフツェフ、И. Е. アンドレーフスキー、プラトフ将軍、ドラゴミロフ将軍。

 

 チヴィリョフ教授は、己の偉大な教え子の性質について以下のように述べる。「帝位継承者ニコライ・アレクサンドロヴィチ大公は、聡明で、知的労働に掛けては天賦の才があり、全ての国益に共鳴しているが、心が柔らかすぎる嫌いがある。経験を積めば少しは堅くもなろう、苛酷な将来が待ち受ける彼にとって、それは必要なものだ」。(А. В. ニキテンコの日記より)。

 

 1861年、皇太子はロシアを旅した。

1862年7月7日から8月1日まで、皇太子はリーバウに滞在した。当時、そこにはアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公とヴラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公、マリヤ・マクシミリアノヴナ大公女とエヴゲニア・マクシミリアノヴナ大公女、彼女たちの若い兄弟たちが滞在しており、7月15日から27日には皇帝と皇后も訪れられた。

 

 皇太子は仲間達の間で人気者だった。彼との別れについて、Н. П. リトヴィーノフは日記に書き残している。

 

 『8月1日。水曜日。朝食の後、私達は写真家の所へ集まり、集合写真を撮った。勿論、大公、大公女をはじめ、リーバウに居た人全員の写真である』。

 『正餐の後、私達は皆、帝位継承者である大公と共にバルコニーに腰を掛けた。彼との別れが差し迫っていることを覚悟しなければならなかった。彼との最後のビリヤード、彼とのシュノーベル公園での最後の散歩、彼とリーバウの民謡を歌う最後の機会、そして終いに、庭の隅々までもが別れを告げて、彼の出発を見送りに行った。

始めに私達はマリヤ・マクシミリアノヴナの元へ行き、一時間ほど滞在した後、「シュタンダルト(帆船)」の所へ行き、彼に別れを告げた。

その後、出発する汽船を見るために岸にまで向かったのだった』。

 

 1863年、皇太子は再びロシアを旅した。ポベドノスツェフとバブストが彼に随行した。

ポベドノスツェフは統治機構について、バブストは国の経済状況について説明する義務を負っていた。

芸術的側面も忘れられておらず、画家ボゴリューボフが招待された。

その後、ストロガノフ伯爵は、皇太子の国外への旅を計画した。それは、科学的な教育的見地からだけではなく、皇太子が花嫁を選ぶことも目的の一つだった。

 

 1864年4月末、Б. Н. チチェーリンはストロガノフ伯爵から「帝位継承者の旅の決行が決まった」という通知を受け取り、この旅に同行するように誘われた。

チチェーリンの他、旅に同行した帝位継承者の従者たちは以下の通りである。О. Б. リヒテル、Ф. А. オーム、П. А. コズロフ、В. А. バリャティンスキー、そして医師シェストフ。

 

 『私には直ぐに理解できた』、チチェーリンは書いている。『私は旅に必要な要素なのだと。何故なら、私とストロガノフ伯爵のみが知的な会話をすることが可能で、帝位継承者は理解の早い彼特有の知性で、常に我々との会話に生き生きとした関心を持っていたからだ』。

 

 1864年7月12日、帝位継承者はツァールスコエ・セローを離れた。

 

 出発の数日前、皇太子はペテルゴフで、アレクサンドリアの自宅のバルコニーからオームに言った。「もし外国で一目でもこのような美しい景色を見ることができるなら、私はそれだけですっかり満足致しますのに」。

「見るに」、オームは書き留めている。「皇太子はペテルゴフや、祖国との別離を望んでおられないようだ」。

 

 皇后が療養の為に滞在しており、皇帝も訪れていたキッシンゲンに滞在した後、帝位継承者はハノーバー、ワイマールを越え、海に近いスケフェニンフェン(ハーグ近郊)に到着した。

一ヶ月の滞在の後、皇太子はプロイセンデンマークの間の戦争が休戦したという報知を受け取り、皇帝の許可を得て、デンマークへ向かった。

ダグマール姫に魅了された帝位継承者は、数日の滞在の後、両親から婚約の許可を得る為にダルムシュタットへ発った。

 

 1864年9月3日、皇太子と従者たちは、キールから再び帝室の帆船でコペンハーゲンに向け出発した。

従者たちはコペンハーゲンに残ったが、皇太子、ストロガノフ伯爵とリヒテルは、王家の滞在していた郊外の宮殿へ向かった。

 

 『夕方までに』、チチェーリンは書いている。『彼らは私達に送付してきました。祝賀の為に来るように、と』。

 

 婚約は1864年9月20日に行われた。

ダルムシュタットでは、皇帝からサンクト・ペテルブルク総督に、次のような電報が送られた。「首都の住民に対し、101発の大砲で帝位継承者とデンマークの王女の婚約の成就を告げよ。余は、我が忠良な臣民が余の喜びを共有し、若い夫婦に神の祝福があることを確信するものである」。

祈祷の前、リガのプラトン大主教(後のキエフ府主教)は、聖イサーク大聖堂で、己の言葉で以下のように述べた。「全く、我々の皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチと、彼の愛する妻という愛らしい夫婦に対し、幸福と神の祝福を願わずにいられるはずがありましょうか? 彼の壮麗な容姿と寛大な魂は輝ける月の如く、一方彼女の美しい顔立ちと心は、まるで朝日のようなのですから」。(「ダグマール」はデンマーク語で「朝日」を意味する)。

 

 1864年10月の始め、皇太子はシュトゥットガルトニュルンベルクミュンヘン、チロルを経由してベネツィアへ向かった。

 

 『ベネツィアにて、初めて彼を墓に引き摺り下ろすことになった病の兆候が現れた』、とチチェーリンは書いている。

―――『彼は強く疲労を感じているようで、最後の数日間は、既に明らかに絵画への関心が薄れていた』。

ベネツィアからミラノを経由して、皇太子はトリノへ向かった。彼はそこで国王ヴィットーリオ・エマヌエーレと、ウンベルト王子と共に会食をしたが、しかしチチェーリンの言葉によれば、彼らは全く帝位継承者の知識欲を満たせなかったという。

皇太子は、近々導入される可能性があるイタリア式の裁判制度について、王子から詳細を聞きたいと思っていた。しかし、彼が受けた返答はこのようなものだった。

「あなたは私が理解していないことについてお尋ねになります。あなたの国、絶対君主制の国では、王子が法や制度を熟知している義務があるのでしょう。しかし、私達は―――それは、議会の仕事ですから」。

 

 皇太子は、トリノからジェノヴァとニースへ向かった。ニースには、冬に皇后が滞在されていた。

ニースからリヴォルノを経由し、ロシアの軍艦で帝位継承者はフィレンツェへと進んだ。

 

 この時、皇太子は己の人生に希望と夢を抱いていた。

В. メシチェルスキー公爵は、『回想録』に書いている。

『皇太子は私に、花婿としての彼の新しい美麗な心情を語ってくれた。

「私は今、岸辺にいるわけです」。皇太子は私に言った。「冬の間のイタリアでの休暇、それから婚礼、そしてその後、家庭や勤めなどの新しい生活を、神が与えて下さいます……」』。

 この傾向は皇太子がフィレンツェから Н. П. リトヴィーノフに宛てた手紙にも現れている。

彼は他にも書いている。『素敵なひとときを過ごすことができて、心から神に感謝しています。長く望んでいたものを手に入れることができました。つまり、愛し愛される、ということです。幸せになることができたら良いのに!』。

 この間、帝位継承者は友人であり最も親しい弟であるアレクサンドル・アレクサンドロヴィチに多くの手紙を書き送っている。

1865年5月1日のリトヴィーノフの日記にはこのようにある。『夕食の後、アレクサンドル・アレクサンドロヴィチは私を呼び、亡くなったニコライ・アレクサンドロヴィチの手紙を一緒に読まないかと誘ってきた。

18通の手紙全てに目を通したが、全てに興味深さと深い感動を覚えた。最後から二番目のものは、恐らく3月に書かれたと思われるもので、アレクサンドル・アレクサンドロヴィチは読みながら涙を流していた』。

二人の兄弟の間の友情と愛は感動的だ。ニコライ・アレクサンドロヴィチの臨終の言葉は正にこのようなものだった。「父様、サーシャを大切にしてあげて。こんなにも正直で、立派な人なのだから……」。

 皇太子は皇后に、「サーシャ」に宛てたような優しい言葉は他の誰にも書いたことがないということ、そして自分でも「サーシャとダグマール」、どちらをより愛しているか説明ができない、とさえ語ったことがある。

 

 アレクサンドル・アレクサンドロヴィチは、一分でも暇があれば最愛の兄と共に居た。疑う余地なく、兄は彼にとっての権威だった。

教師の意見に対し、アレクサンドル・アレクサンドロヴィチは無邪気に答えた。「こういう風にニクサ(ニコライ・アレクサンドロヴィチ)もやってたから」。

 ニコライ・アレクサンドロヴィチが国外へ旅立った後の1864年6月18日、教師は日記に書いている。『アレクサンドル・アレクサンドロヴィチは今や独りぼっちです! 神よ、愛すべき兄の不在を、彼が不誠実で有害な友人で代用することがありませんように!』。

 

 フィレンツェで、帝位継承者は激しい発作に襲われた。

1864年12月20日、息子をとても心配していた皇后の滞在していたニースに療養の為に向かうことになった。

 

 ニースでは、皇太子はプロムナード・デ・ザングレのギーズバッハ荘に滞在されていた。

3月になると、帝位継承者の容態は悪化した。医師会は、恐らく海の近くの気候が原因だろうと考えた。そこでオームを派遣し、コモ湖の岸辺の傍の別荘を借り、皇后の滞在されていた屋敷にほど近く、海からは遠く離れたベルモン荘に移された。

 

 帝位継承者の健康状態は悪化の一途を辿った。

1865年4月4日、アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公がニースに向けて発ち、6日の夜には皇帝とヴラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公も出発した。

道中、ダグマール姫が彼らに合流した。

 

 1865年4月12日0時50分、皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチは薨御された。

4月14日、帝位継承者の遺体はロシア正教会に移された。4月16日、遺体はヴィルフランシュに停泊していたフリゲート艦「アレクサンドル・ネフスキー」に搬送された。

5月21日、遺体はクロンシュタットに到着し、5月25日にペトロパヴロフスク要塞に移され、その後の28日、ペトロパヴロフスク要塞の皇家の墓に埋葬された。

 

 1865年4月12日、ロシアに皇家の長男の逝去を告げる皇帝のマニフェストが公布された。

『至高の神は余を恐ろしい災厄で打ちのめすことを尊ばれた。我が愛する息子であり、我が帝位の継承者である皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ大公は、4月12日にニース市で痛ましい苦しみの後に薨御した。

去る冬、当時イタリアを旅していた殿下を襲った病は、一見したところでは我々の宝石の人生を脅かすものではないと考えられていたが、しかしながら、治療と南部での療養がゆっくりと改善へ向かわせたように思われた時になって、突然明白に危険な兆候が現れ、余のロシアからの出発を急がせた。

彼の死は我々の祖国から遠く離れた異国で訪れた故、我が国と我が一族全員に対してとりわけ強い打撃を与えたが、この恐ろしい不幸に際し、余は愛する息子の死に目に会うという慰めを得た。

下された神意に忍従しながら、余は万有の創造主である万能の神に、この深い悲嘆に耐える力を与え賜えと祈るものである。

余は、我が忠実な国民が、余の心からの悲嘆を共にするという確信を唯一の慰めとし、余と全ロシアが託した希望を現世に残したまま去った我が息子の魂の安息の為に、余と共に熱心に祈ることを呼び掛ける。

至高の神が、苦しみも悲しみもない世界の光で彼を包みますように!』。

 

 『余の直系の跡継ぎである長男は奪われ、帝位の後継者である皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ大公は、今や神の御許で眠っている。余は、帝位継承法に則り、余の次男である大公アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ殿下を、我が帝位の継承者であると宣言する』。

 

 皇太子の埋葬の翌日、冬宮にて、皇帝はアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ皇太子を伴い、全階級の夥しい人数の代表団、ペテルブルクの貴族や各県知事らを前に、以下のような演説を行った。

「諸君、余は我が家の悲嘆を全ロシアが共有してくれたこと、皇后の分も代わり直接御礼申し上げる。この絶望的な瞬間に、全階級が一致して余に同情的であったことは、余を深く感動させ、唯一の慰めとなった。この団結こそ我々の強みであり、これがある限りは、外敵も内敵も恐るるに足らない。

亡き息子は、1863年にロシアを旅した時、敵によるロシアの古き遺産と国家に対する侵害が引き起こしたこのような団結を目にしていた……。この団結が末永く続くよう祈る!

諸君、今や我が帝位の継承者となった彼に、彼の亡き兄への想いをどうか移してやって貰えないだろうか。彼から諸君への想いは、余が保証しよう。彼は余が諸君を愛すように、亡き息子が諸君を愛したように、熱烈に諸君を愛すだろう。

ロシアの幸福と栄光の為、神に祈る」。

 

訳者雑記

 通読お疲れ様で御座いました! 本文は8000字弱で、原文のページ数だと12ページ程になります。これからどんどん長くなることを覚悟しなければ……。

 

 日付の記載が多く登場しますが、全て帝政ロシア時代に用いられていたユリウス暦となっております。我々が用いるグレゴリオ暦で考える場合は、日付に+12日してください(例: ユリウス暦4月12日→グレゴリオ暦4月24日)。

 

 過去の記事と重複する点がいくつかあります。

冒頭で引用されているのは、ピョートル・ヴャーゼムスキーのエッセイ『ベルモン荘』で、弊ブログ初めてのロシア語翻訳記事がこちらでした。

↑ こちらから全文が読めます。

 また、前回連載していたメシチェルスキー公爵の『回想録』からの引用もありましたね。

 

 皇帝政府や皇帝からの公式文書が沢山載っていて、書いていて大変興味深かったです!

 ロマノフ朝で成人後に亡くなった皇太子は、ピョートル大帝の長男アレクセイに次いでたった二人目なのですが、皇太子アレクセイは国外逃亡の末に死刑(獄死)という非常に例外的なケースなので、殿下に対してのような弔文は史上初且つ唯一のものであり、記録としても非常に興味深いものです。

 皇帝アレクサンドル2世の一人称を、「朕」にするか「余」にするかで大分迷ったのですが、今回は「余」を採用してみました。如何でしょうか。

 ロシア語は敬称の活用がフランス語と酷似しており、英語などと比べると「敬語」という概念が確立している言語です。

当然、殿下自身や、彼に話しかける人々は、多くの場合最上級レベルの敬語を使うため、普段の一人称は「私」を採用しています。メリハリを付けるため、砕けた口調の男性の一人称は「僕」に変えるなど、人称のみならずちょっとした工夫をしているので、その辺りの差異も楽しんで頂ければ幸いですね。

ちなみに、殿下が砕けた口調を用いるのは、親族と恋人ダグマール王女に対してだけで、友人に対しても敬語を用いています。皇帝・皇后である両親に対しては砕けた口調を用いますが、手紙など文面上では敬語になる場合が多いです。

 

 弟アレクサンドル大公及びヴラジーミル大公の側近であるリトヴィーノフ中尉の日記が引用されています。ちなみに、しっかり反映させて頂きましたが、全ての枕言葉に「彼(殿下)との最後の」がついていて、限界感が面白いです。今生の別れじゃないんだし。

恐らく、殿下から手紙を頂いた人々のなかでその手紙を公開しているのはリトヴィーノフ中尉くらいで、殿下が彼に宛てた手紙は、直筆のものを幾つか読むことができます。達筆です。

 1862年の記録が引用されていますが、ここに登場する「集合写真」は、非常に画質が悪いながらも一応確認することができます。それがこちら。

↑ 中列左から二番目が殿下。左隣の女性が従妹のエヴゲニア、右隣がその姉マリヤ。その右隣が弟アレクサンドル大公です。後列、殿下の左後ろ(左から三番目)の若者が弟ヴラジーミル大公。

 

 お写真といえば、この本の扉絵は当然ではありますが、殿下の肖像です。

 殿下の一番有名な肖像画はザリャンコによるものですが、同じ写真を元に描かれたのか、こちらの鉛筆画と酷似しているので、殿下といえばこの写真、或いはそれを元にした何れかの肖像画を連想する方が多いのではないかと思います。

 これらは1864年5月に描かれたもの(精確には、この時に撮られた写真を元に模写したもの)ですが、殿下は先4月末に一度倒れたばかりで、謂わば病み上がりの状態なので、わざわざこの時期に撮らなくても……と思ったりもします。少々可哀想。

病み上がりでも十二分にお顔立ちが整っていらっしゃるんですけど、メシチェルスキー公爵が描写するように、確かに頬に影が入ったりしているので、やはり健康な時の方がより美しいと感じますね。まだまだ上振れ狙えます。

 

 無学ゆえデンマーク語は一切わからないので、王女の名が「朝日」を意味することなど、個人的にも初めて知りました。「水の妖精」と「朝日」なのか……。殿下が月に喩えられているのも初めて見ました。どちらかというと太陽属性(?)と認識されているのかと思っていました。どちらもお似合いになります。

 

 コモ湖は、イタリアのロンバルディア州にある湖で、ここで何故登場するのかというと、次の滞在地としてここに訪れる予定であったためです。それは叶うことがなかったのですが……。

 

 ちなみに、前書きの地名やホテル名などに関してですが、「ツェサレーヴィチ(ロシア語で「皇太子」)通り」などを筆頭に現存しております。特にフランスは道路の名前をころころ変えるんですけれども、150年以上変わっていないというのは、殿下ファンからしても喜ばしいことですね。住所にこの通りの名を書きたい。

 

最後に

 通読ありがとうございました! 11000字ほどです。

初回からかなり話重めでしたが、実はこれから更に重くなります。こちらが精神やられそうなくらい重くなります。注意喚起は致しますが、それでもお付き合い願えれば幸いですね。

 

 次回は、いよいよ本題、第二章『皇太子の病と死の目撃者の回想録』に入ってゆきます。こちらがメインで、長いので、ある程度切りの良いところで前後編に分けたいと考えております。宜しくお願い致します。

 

 それでは、今回はこの辺りでお開きとしたいと思います。また次回にお目に掛かれれば幸いです!

↑ 続き書きました! こちらからどうぞ。