世界観警察

架空の世界を護るために

メシチェルスキー『回想録』1864年33節(前編) - 翻訳

 こんにちは、茅野です。

未だ4月にも関わらず、冷房が必要なほどの熱気に包まれております。どうしたことでしょう。どこへ、どこへ去ったのか、我が適温の春の日々よ……。

 

 さて、今回は、メシチェルスキー公の『回想録』を読むシリーズ第五弾です。

↑ 第一回はこちらから。

 

 第五弾となる今回は、1864年編の第32節の一節と、続く第33節の前半をお送りします。第33節ですが、非常に長いため、流石に分割します。今回は前半の16ページを全訳出します。長いです。しかもこの間、毎日べったり殿下にくっついているので、長い上に内容も濃いです。胃もたれを起こさないようにお気を付けて下さい。

 

 それでは、お付き合いの程宜しくお願い致します!

 

 

32節

 私に別れを告げる際、皇太子は言った。「私がどれほどあなたを羨んでいることでしょう。当分の間、私達はここで舞踏に興じていなければなりませんが、あなたはそんなことよりもずっと良い仕事―――ロシアの探究に出掛けられるわけですからね」。

 「あの旅以来、」大公は付け加えた。「ここにいると、私はビバーク(野営)でもしているような気分なんです。こちらが家だと申しますのに」。

この会話の中で、皇太子は大変精確にペテルブルクと地方の違いについて明確化した。つまり、ペテルブルクは言葉と文書でロシアを愛すが、後者では心の底からロシアを愛しているということである。

 

解説

 まずは32節の一節から。

1864年前半に、公爵は上司たる内務大臣ヴァルーエフの指令により、キエフへの出張を敢行します。

一方の帝都ペテルブルクは、社交シーズン真っ盛り。殿下は連日開催される舞踏会に晩餐会に……と、こちらもこちらで大忙し。しかし、根が真面目な殿下は、社交界での雑談よりも、キエフに行き、地方ロシアの探究をする方が良いと思っていたわけですね(※当時はキエフロシア帝国領)

 

 省略させて頂く公爵のキエフの旅の物語は、主にニコライ・ニコラエヴィチ・アネンコフ総督に出逢ったことで占められています。

↑ アネンコフ総督。

 アネンコフ総督は、何の因果か、殿下が亡くなった際、ニースから帝都ペテルブルクへの遺体運搬の責任者になります。皇帝から打診され、殿下の遺体を載せたフリゲートアレクサンドル・ネフスキー号を指揮したのがアネンコフ総督です。尚、アネンコフ総督自身、同1865年に肺炎で亡くなっています。

 

 ビバーク(野営)は、登山などではよく用いられる単語ですが、ここでは主に陸軍用語として用いられています。行軍の際、拠点まで辿り着けない時は、野営を行うことがありました。殿下も軍事演習に参加しているので、ビバークを行った経験があったのだと思います。

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↑ 19世紀ロシア帝国陸軍のビバークの様子。テントを張っていますね。

 軍事演習は、同世代の青年達と一緒になるため、酒に煙草に猥談にと、少々下品な「男子高校的」雰囲気があります。この雰囲気には、あの内気なニコライ2世も抗えず、大いに羽目を外したと言われております。

一方、同姓同名の伯父である殿下は、ご想像の通り、そういった話が全くありません。どこへ行っても品行方正。それでいて陰気で付き合い辛い人ではないという、バランス感覚。相変わらず恐ろしい人です。

 

 さて、次は非常にボリューミィな第33節を見て参ります。33節は、前32節でキエフへ旅立ったメシチェルスキー公爵が、ペテルブルクに帰還するところから始まります。ちなみに、帰ってきたその日は、疲れ果ててすぐに寝てしまったのだとか。

 それでは、驚異の16ページ、楽しんで頂ければ幸いです。

 

33節

 翌日、いつも通り夜十時過ぎに皇太子の元へ向かった。大公は両親と共にいた。十分ほど待っていると、皇太子は弟アレクサンドルを伴ってやってきて、最初に、帰ってきたその日に会いに来なかったことについて、私は二人から怒られた。

深夜一時頃まで談話は続いた。皇太子は私の帰還を祝ってシャンパンを持ってくるように命じた。皇太子は私の物語について詳しく話すよう求めてきたので、会話の席で私は主役を演じなければならなかった。

 

 この夜が私の皇太子との最後の期間の始まりだった。私達はほとんど毎日顔を合わせていたが、嗚呼、すぐに皇太子の体調不良を思わせる最初の印象を得てしまった。

パスハ(復活祭)が過ぎ、聖週間が過ぎた。皇太子は健康そうに見えたし、快活に振る舞っていた。ツァールスコエ・セローに移る時が訪れた。しかし、宮廷が移動しようとしていた時、皇太子は初めて病み臥せってしまい、彼はペテルブルクに居残らねばならなかった。

一体何が彼を襲ったのか―――それを知ることは難しかった。何故なら、彼の傍にいた医師シェストフが、ただの些細な風邪だろうと推測していたからである。

しかし、皇太子の寝室に入ると、狭い寝台に横たわった彼の顔がシーツのように真っ白になってしまっているのが目に入り、私はすっかり怯えてしまった。ただの些細な風邪が、彼の顔にこのような恐ろしい変化をもたらすだろうか。

皇太子自身は、己の病状について、倦怠感と、時々起こる腰痛を訴えるだけだった。

三日後、彼は起き上がれるまでに快復したが、残念ながら病は彼の顔から永遠に若々しさを奪ってしまった。黄みがかった影が落ち、特に下半身は酷く痩せてしまった。

一見何でも無いように見えるこの疾患は、破壊的な力を及ぼし始めた。四月末の発作は、その運命的なサインだった。

医師シェストフは、皇太子を襲った段階的な症状に気付かなかった。彼は無思慮で、経験も浅く腕の無い医師で、しっかりした見解を形成することもままならず、診察の習慣さえなかった。

そして私は、医学界が一般と比較しても最悪の状態にあることを発見したのだった。主治医制に関してである。

このような医師は、その地位にあるせいで、一方では裕福であるために、生きるための手段を探そうとせず、他方では保身のために、権力者の更なる贔屓を獲得しようとして、医師としての方針よりも、その人の言いなりとなることを優先する。彼は主を退屈させないよう努力し、患者を機械的に診るだけである。政治的な本能から、患者の急激ではない変化には目を瞑り、慢性疾患については推測することすら許さず、一過性の病気だと思い込む。

このような方針は、患者の全面的な賛同を得られるために、宮廷医はいとも簡単に実現させてしまう。彼は聴診も研究も嫌いだし、制度が押しつけてくる任務も好かない。ただ、医師という立場を都合の良い閑職だとしか見做していないのである。

 

 嗚呼!―――正に皇太子と彼の医師シェストフはこのような関係だった。親切で陽気な人ではあったが、真面目な医師として彼を推挙することはできない。

 

 皇太子は国外へ行く前、ツァールスコエ・セローに滞在していたが、前述のように、そこでは健康そうに見えた。しかしながら、一度ならず、私は彼が「気分が優れない」と言っているのを聞いた。

そこで、シェストフが皇太子の健康の為に唯一提案したのが、スケフェニンフェンでの海洋療法だった。この旅が、彼の破滅の始まりだった。

 

 皇太子の国外への旅は、ストロガノフ伯爵の教育計画の仕上げであり、そして皇太子が花嫁を選ぶことが目的だった。

 

 同世代の旅の同行者には、皇太子は幼少期の遊び仲間の中から、胸甲騎兵パーヴェル・アレクセーヴィチ・コズロフと、近衛兵ヴラジーミル・ヴラジーミロヴィチ・バリャティンスキーを選び出した。この人選は、謂わば皇太子の最初の副官であり、誰でも彼らに好感を覚えた。

コズロフは、皇太子の初めての主な教師であったニコライ・ヴァシリエヴィチ・ジノヴィエフの甥で、当時の若者の中でも突出して魅力的な人物の一人だった。騎士道的な高貴さと、青年特有の熱しやすさを除けば、彼は才能ある、知性と良識の理想像だった。

バリャティンスキー公爵は、慇懃で、コズロフのように騎士道精神に富んだ善意に満ちていたので、誰もが一目で好意を持つだろう。

二人の同行者に加え、ストロガノフ伯爵はボリス・ニコラエヴィチ・チチェーリンを招待した。彼は皇太子の法学教師であり、芸術の権威としても名高かった。

 

 この夏、アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公を除いた全ての皇室の人々が国外へ出掛けた。皇帝と皇后は、幼い子供達を連れてダルムシュタットへ。ヴラジーミル・アレクサンドロヴィチは療養の為にシュトゥットガルトへ。皇太子は海洋療法の為にオランダのスケフェニンフェンに直行した。

 

 ツァールスコエ・セローを発つ前の彼に、スケフェニンフェンを訪れるように招待された。

 

 「あなたは国外へ出るべきですよ」。皇太子は言った。「そうすれば、旅先で、気晴らしと仕事を両立できる、そうでしょう」。

ストロガノフ伯爵は、更に強く、「もし国外に行かないのであれば、あなたは無学な野蛮人であり続けるでしょう」と、皇太子の願いを躊躇無く実行するように迫った。

ヴァルーエフは、私に国外へ出ることを許可した。しかしその前に、ロンドンへ行って警察庁に接近し、『ピアレージ(ゴータ年鑑のようなもの)』という本を持って帰ってくることを条件付けた。

ニコライ・マクシミリアノヴィチ・レイフテンベルクスキー公爵は、私をイギリスのセント・レナーズで水浴できるよう招待してくれた。成すべきことは理解した。

それは私にとって初めての国外への旅だった。

 

 そこで、私は人生で初めて国境を越えた……。

 

 最初の目的地は、ハーグにほど近い、皇太子が滞在していたスケフェニンフェンだった。幾人かの芸術的な耕作者たちが働くオランダの野原を擁す村を見たとき、プロイセンの新しく利便性の高い郊外の印象が強くなった。

ハーグには一日半ほど滞在したが、この街に関しては二つの印象を得た。

一つ目―――極端に清潔な街だということである。街のどこでも、毎日のように家の壁や舗道の至るところまで石鹸で洗い、磨き込んでいたのには驚かされた。

そして二つ目―――退屈だ。他の街に赴いた後では、より一層強くこの倦怠の念は心に沈み込む。私には、空気のように退屈さが漂っているように見えた。街の住人たちにとっては、話すのも退屈、歩くのも退屈。家にも庭にも、退屈という概念が巣くって、息づいているように見えた。

それと同時に、ハーグは美徳と道徳の街でもあると感じられた。以前の大使であった、親切な老人である副官マンスーロフに挨拶をしてから、私はスケフェニンフェンに向かうためハーグを発った。

海沿いの大きなホテルに部屋を取ってから、皇太子の屋敷を訪ねた。

屋敷の主人は私を非常に温かく迎え入れてくれ、即刻ホテルを引き払うよう命じ、海の見渡せる上階を提供してくれた。

皇太子の一行は、以下のように構成されていた。ストロガノフ伯爵、侍従武官リヒテル、ボリス・ニコラエヴィチ・チチェーリン、プレオブラジェンスキー(近衛)連隊員バリャティンスキー公爵、副官として胸甲騎兵コズロフ、秘書官フョードル・アドルフォヴィチ・オーム、そして医師シェストフ。加えて、絶えず皇太子に付きまとっている副官が一人いたが、なかなかどうして好感は持てたものの、しかしどうにもつまらない大尉だった。

 

 この日は皇太子と二人で海沿いを歩いた。

大公は再び私に言った。「あなたが来て下さって、私がどれほど感謝していることでしょう。私はあなたと率直にお話するのが好きですし、それに、正直に申し上げて、ここは大層退屈ですから」。

嗚呼、この最初の散歩での皇太子との会話で、私は寧ろ心底悲しい気持ちになってしまった。彼は痩せて、顔色が蒼白になってしまっていることに私は気が付いた。また、大抵は気分が悪く、しばしば滅入ってしまうと、彼自身から聞いた。

 

 「国を出てから、どれほどの時が経ったでしょう」、皇太子は私に言った。「既に心は家に引き寄せられています。郷愁に駆られてしまいまして。それに、サーシャがいないと、なんだか退屈で」。

 

 翌朝も、その次の朝も、私は水浴の後に皇太子が紅茶を飲みに向かう時、顔色が殆ど真っ青になってしまっているのを見た。また、彼が、寒気がして、幾ら歩いても少しも暖かくならないのだと言っているのを聞いて、私の胸を不安が襲った。

確かに、天候は忌まわしく、寒かった。しかしながら、私は水浴が大公に対し、寧ろ害をもたらしているように思えてならなかった。

この予感は四回目の水浴で確信に変わった。私自身がそれによって気分を害したばかりか、全く同じ経験をコズロフもしたからである。

わかったことは、一行のうち、我々三人――――皇太子、コズロフ、私―――がスケフェニンフェンの海によって体調を崩し、他のメンバーは良くなったということだった。明らかなのは、冷たい海はある種の人間には害をもたらし、一方には効果があるということである。

そこで、水浴の回数を制限したところ、気分は遙かによくなった。私は皇太子に私の例に倣うように助言し、医師シェストフに海水浴は害を及ぼすので中止すべきではないかと尋ねた。しかし運命は、この世の優れた人々である医師たちにも容赦はなかった。

シェストフは、この問いには深く考える必要もないと感じ、私に対し、「それはあなたの仕事じゃないでしょう、この点に関してわかっているのは私一人なのですよ」とでも言いたげだった。

そして可哀想な皇太子は、私の進言に、「それが私のアスクレピオスの意志ですから」と答えた。

ストロガノフ伯爵にも私の危惧について話したが、伯爵は効果はすぐにではなく、後になって現れると言って、取り合わなかった。後になって、私はこれらの返答の意味を理解したのである。

 

 一般人であれば、その治療法が効果を為さない、或いは害になると悟れば、直ちに中止するだろう。しかし、皇太子の場合は国家的で複雑な事情があった。スケフェニンフェンに行くという解決案を出したのは宮廷医師評議会であり、シェストフはその代理人に過ぎなかったのである。

その結果、シェストフは、突然一人でその計画の変更や中止を決定することが不可能になり、ただ予定通りに事を進めることしかできなかったのである。

これらは全てとても考えられないようなことで、犯罪的でさえあり、伝統的儀礼に対しても極めて不作法であったため、私とコズロフは毎日のように、この大公に対し疑いなく害をもたらす災禍についての悲しい印象について語り合っていた。

 

 平穏な日々が続いた。朝、散歩の後に皇太子の元に全員が集まり、紅茶を飲む。また、昼食、夕食、夜に紅茶を飲む際にも集合した。

その合間に、各々の仕事をしていた。私は夕方に大公の散歩に随行し、私達はどこかしらのベンチに腰掛けて、遠くの診療所の大広間から聞こえてくる音楽や、波音を聞きながら会話したものである。

皇太子は、明るく快活な日もある一方で、身体も精神も病み果て、私を深く悲しませる夜も度々あった。

時折、列車で近郷を旅することもあった。ザーンダムのピョートル大帝記念館を表敬したり、ロッテルダムの定期市に出掛けたり、アムステルダムへ行くこともあった。

これらの大公の旅行は、完全にお忍びで行われた。未亡人の王太后アンナ・パーヴロヴナの城を訪れたり、一度国王と会食を行った以外は、皇太子は公式行事への参加を謹んでいた。

 

 当時、私達の話題になっていたのはオラニエの王子のことだった。この絶望的なまでに悪党な「ドン・ジュアン」は、気高く道徳的なオランダを恐怖に陥れていた。

彼は30歳ちょっとで、外見はハンサムではないにせよ、エレガントではあった。そして何より、彼は己の人生の全てを快楽、ロマンティックな冒険、性的快感に捧げ、それらに理性を失っているとしか思えない額をつぎ込み、それに見合った、返済不能な負債をぎっちりと抱え込んでいた。

その悪評は酷く有名だったが、私達は気高きオランダ人から彼の話を聞くだけに留めねばならなかった。というのも、彼と一緒にいるところを見られただけで、公の名誉を毀損する恐れがあったからである。

しかし、王子はそんなことを歯牙にも掛けなかったばかりか、このエピクロス的生活を続行した。オランダの敬虔な官僚たちが、不道徳な行為を理由に彼から王位継承権を剥奪しようとしても、王子はそんな彼らを嘲笑いさえしたのである。

 

 我々の平和な生活は、ストロガノフ伯爵の人生に降り掛かった一つの悲しい事件によって破壊された。

О. Б. リヒテルは、ストロガノフ伯爵の長男であるアレクサンドル・セルゲーヴィチ伯爵の急死を知らせる電報を受け取った。彼は、老伯爵にこの不運を受け止める準備をさせるよう要請してきた。

 

 私はここで、皇太子に対する尊敬の念を更に強くした。彼の善良な心だけではなく、彼の優しく敏感な心の深い陰影を感じ取ったからだった。

リヒテルはこの電報を持って皇太子の所へやって来た。

彼はリヒテルに、 「夜にこの凶報をお伝えして、彼の眠りを悲しみで妨害することは本懐ではありません。伯爵には、明日の朝にお伝えすることに致します」、と言った。

 

 私は、この夜のことをよく覚えている。忘れられるはずもなかった。

私達は二人で出掛けたが、皇太子は、この不幸によって老ストロガノフ伯爵がどれほど心を痛めるかについてずっと考え、苦しんでいた。そして私は、彼が如何に己の監督官に愛着を抱いているか、そしてこの愛着が、若者の間では非常に珍しいことに、純粋な感謝の気持ちから来るものであることを理解した。

 その時、不意に皇太子の口から言葉が漏れた。暗黒の夜、陰鬱な海の波音、そしてもの悲しい雰囲気に包まれた彼に影響されて、迷信深く沈んだ気持ちになっていた私は、そこで全く悲しい気分で我に返ったのである。

 

 「私は時折、死について考えることがあります」、唐突に皇太子は私に言った。「果たしてそれはそんなにも恐ろしいものなのでしょうか? 私には、それはこの苦しみからの解放であるべきだと思えてならないのです」。

「何だってそんなことを仰るのです」、私は答えた。「これからの人生を愛す理由が、こんなにもあります時に」。

 

 「私がこのようなことを考えますのは、私はもう死からそれほど遠くはない所にいると感じることが、度々あるからなのです」。

 

 彼の考えについて、私は大公を叱責した。―――話題を変えたが、しかし彼の言葉に、私の魂は凍り付いてしまっていた。

 

 次の朝、皇太子は彼の困難な使命を遂行した。

哀れなストロガノフ伯爵は、驚くべき堅忍不抜の態度を以て、弟子を助けた。この堅忍主義は、ストロガノフ伯爵を最もよく知っている大公さえも驚かせた。

 

 皇太子が、電報で彼の息子の病についての知らせを受け取ったことを話し始めると、老人はそれを遮り、皇太子をじっと見つめながら言った。「殿下は、私の倅が死んだと、そう仰りたいのですね?」。

 

 皇太子は絶句してしまった。このような一幕が全てだった。

老人は、一滴たりとも涙を零さなかった。彼はこの一撃を、驚くべき意志の力で耐え、痛みを隠し通したのである。

私には、一種のプライドが、感情を表に出さないように、この並々ならぬ老人を駆り立てているように思えた。

この出来事で受けた印象について、皇太子は、ストロガノフ伯爵が彼の人生のこの恐ろしい瞬間にストイシズムの喜劇を演じ、何事もないかのようにこの悲劇について話しているのを見聞きしてどれほど胸が痛んだかと、その日中に私に語った。

 

 三週間ほどスケフェニンフェンに滞在した後、彼らと別れる時が来た。皇太子は旅を継続する時が迫っており、一方私はイギリスへ向けて発つことになっていた。

 

 スケフェニンフェンでの最後の日は、私の魂に重くのし掛かってきた。

何故なら、第一に、この三週間で健康状態が間違いなく悪化した大公と別れなければならなかったからである。第二に、この三週間で、ペテルブルクに居ては何年も実現しないような、この飾り気のない環境の中で、私達は親しくなり、毎日心から会話をすることができたにも関わらず、彼と別れなければならなかったからである。第三に、別離の前の最後の夜の、最後の会話が、私の魂に悲痛な印象を残したからである。

 

 この時の会話で、私にとって、初めて皇太子のメメント・モリについて考えさせられた。というのも、最近の私は、彼の未来について、輝かしく煌びやかな栄光以外に全く考えられなかったからだった。

そこで初めて、突然にこの輝かしい希望と夢の地平が後退し、ひんやりとした冷たさが魂に滑り込んできた。そして、死そのものではないにせよ、なにか痛みを伴う、恐怖のような、絶望のような、予感のような、恐ろしい幻の前兆が、私の目の前に拡がっていることに突如気が付いたのだった。

過去の彼の明るさや微笑みに満ちた想い出が、ぷっつりと断絶されてしまったように感じられた。私は突然それらから隔絶されて、暗黒の谷底が拡がる断崖の上に立っていた。そして、未来は災厄の予感から始まる漆黒に塗り潰されていった。

 

 いつものように、私達は夜に散歩に出掛けた。その夜は寒く、海は恐ろしく不機嫌にざわめいていたことを覚えている。

この「最後の」対話について―――嗚呼、悲しいかな―――私は、己の旅行記に記している。

 

 『魂に筆舌に尽くせぬ悲嘆を背負ったまま去らなければならない。皇太子と一時間以上話したが、彼の言葉の一言一言が、私の魂に言いようのない痛みを与えた。

間違いなく、医師が見ても、疑ってさえもいない、何かしらの病が彼の中に秘められている。彼はそのことに気付いていながら、己の苦痛を隠しているのだ。

更に、他の人は誰も気付いていないようだったが、パヴリク(コズロフ)と私は、大公が尽き掛けの蝋燭のように窶れてきたことに気付いたことを補足せねばなるまい。

 

 この時ほど、皇太子が私に優しく親切に語りかけてくれたことはなかった。

 

 「このような退屈な片田舎に居る私達の元へ来て下さって、どれほど私があなたに感謝しているか、ご存じないでしょう」。

私は、こんなにも心の底から楽しく過ごせたことなどないのだから、感謝の必要などないのだと返答した。

皇太子は私に言った。「もしあなたが、私の心に時折湧き上がる感情をご存じなら、私の感謝の気持ちもご理解頂けると思うのですが……。私はあなたをよく存じ上げておりますし、あなたも私のことを理解して下さっておりますでしょう。いつかあなたに率直に打ち明けた際、私は心が軽くなるのを感じたのです……」。

その言葉に動揺し、私は皇太子に、何を感じているのか、何に苦しめられているのかを尋ねた。

それに対し、彼は答えた。「説明するのは難しいですね。恐ろしく苦しい時が度々あり、そこから逃れられないのです。冷汗が溢れて、なにか支離滅裂な幻聴が聞こえてきます。暫くして漸くそれらが過ぎ去ったかと思うと、今度は、ああ、もう私は長くないのだと悟ってしまって……。でも、幾らか楽になりましたよ」、皇太子は付け加えた。

 

 「何故お医者様にお話にならないのです。何しろ、ここには優れたお医者様方がいらっしゃるのに……」。

 

 「何を仰いますか。彼らは、海水浴が神経に障るのだろうと言って、取り合って下さいませんよ」。

 

 「であれば、シェストフと、オットン・ボリソヴィチに話すことは許して下さいますか」。

 

 「いえ、決して。あなたにお願い申し上げたいのは、私の魂の秘密を打ち明けられる腹心者であり続けて頂くこと、ただそれだけです……。全ては過ぎ去り、私は再び立派にやっていけるはずです。一つだけ、私にとって辛いのは、このような時にサーシャが傍にいないことです。彼の清く柔和な魂は、私には非常に有り難いんです……」。

 

 私は、その時偶然にも頭に閃いた考えで、皇太子を励ました。それは、この暗い気分について、単に海に責任を被せることだった。実際、それは私自身も経験していたことでもあった。

 

 「ええ、きっとそうなのでしょう」、皇太子は答えた。「しかしながら、それでも私には何か悪い予感が致します。そのことで私をお叱りにならないでくださいね。予感したことを話しているにすぎないのですから……。さあ、話を変えましょう。イギリスでは、コーリャ(ニコライ・マクシミリアノヴィチ)に会うんですってね……」。

 

 皇太子は彼への言付けを頼んできた。会話は全く明るいものになった。

しかし、おお、神よ、どれほど心は陽気さから隔たっていたことか。別の暗い事柄を考えながら楽しげに話す時、どれほど最後の十五分で疲れ果てたことか。

 

 家に近付くと、皇太子は立ち止まり、私に手を差し延べ、しっかりと握りしめてくれた。

「いずれにせよ、」彼は言った。「あなたの友情に感謝致します。スケフェニンフェンでお目に掛かれたことに関しても、お礼を述べさせて下さい……」。

同じことばかりを考え、何という苦しい夜を過ごさねばならなかったことか。風は不気味に吠え立てていた……。』

 

 翌朝、私達は何事もなかったかのように集まって朝食を摂り、全てが順調に進んだ。

 

 別れ際、皇太子は再び私にその美しく繊細な魂を見せてくれた。

私が都市部の警察機関の研究をする為に出発すると話したところ、ストロガノフ伯爵は私が芸術の道の傑作を学ばなかったことに対し、危うく私を野蛮人だか何とかと罵倒しそうな程に激昂した。

この朝食の後、皇太子は私を脇に呼び寄せ、窓の傍に寄って、優しい声で私に言った。「私共のセルゲイ・グリゴリエヴィチのこと、私からお詫び申し上げます。ご存じのように、彼は芸術の熱狂的な愛好家でしょう。彼に対して、どうか腹を立てないであげて下さいませんか」。

 

 そして、遂に別れの時がきた。嫌な瞬間だった。

皇太子は、彼がデンマークを訪れた後、ダルムシュタットを訪ねてくるように私を誘ってくれた。

 

 昼、ブリュッセルへ向かった。

 

 馬車に乗っている間、私は思索と想い出に身を委ねていた。

その時の私は、皇太子の病状について何一つ理解していなかった。具合が悪そうな彼の病的な印象は私を悩ませ、胸を騒がせたし、彼の酷く苦しげな心境も、私の魂に重くのし掛かってきた。全てが不安を搔き立てたし、何より痛ましかった。しかし同時に、それは不明瞭かつ曖昧であった為に、彼に生命の危機が迫っているという思いは過ぎらなかったのだ。

私は、この地の空気が彼の気分を害しているのだと信じ、彼が海辺を離れれば苦痛は終わるだろうと希望を持っていた。皇太子は快復する。

 

 しかし、すぐさま惨劇は演じられ、皇太子の病の進行に連続的な意味を見出した時、ああ、残念ながらそれは余りにも遅すぎたが、このスケフェニンフェンでの滞在が、彼の病の歴史に於いて運命的な意味を持っていたことを初めて理解したと言わざるを得ない。

 

 春にペテルブルクで彼を襲った数日間の発作によって、皇太子の顔色が酷く変わってしまったことに私が恐怖したのは間違いではなかったのだと、全てが終わった後になって痛感した。

それは明らかに、彼が隠しきれなくなった病の最初の現れだった。既に病に打ち勝ち難く、致命的な運命が避けられなくなったことが明らかになって、漸くそれが結核が進行する過程であったと診断されたのだった。

春から初夏に掛けて、ツァールスコエ・セローに滞在していた皇太子は、病を患っているとは思えないほど快復しているように見えた。

 

 しかし、そこに宿命的な海水浴があった。

 

 明らかに無思慮、無警戒、そして無頓着な医師達は、身体を強化する術として、海水浴を無害な手段だと考えていた。そこには、精密な聴診も、長期的な診察も、皇太子の晩年の健康状態に関する考慮や知識さえもなかった。

それでいて、彼の逝去の後に話題になった、落馬した際に頭を打ち、恐らくは脊髄か脳髄に損傷を与えたであろうエピソードについては、医師達は慎重に判断を避けたのである。

 

 そしてあの海水浴である。

前述のように、大公にとって水浴は端から荷が重すぎたということに、医師達は気付けなかった。正にスケフェニンフェン滞在中に、これまでにはなかった症状が現れた。憂慮すべき不眠は、神経の沈静化ではなく、寧ろ直接神経を刺激した証拠だった。

この運命の五週間に、一体何が起こったのか?……。

後になって、賢明な医師たちとの会話の中で、この治療法の謎を理解することになった。それは人体を強化するのではなく、潜んでいた病を顕在化させ、寧ろ病を強化するのに役立ってしまったのだということだった。

それがスケフェニンフェン滞在がもたらしたものだった。それは若い身体にさえ有効な、病の破壊的な力を呼び出したのだ。

この医師達との会話で、私は一つ質問をした。「もし、海洋療法を行っていなかったらどうなっていたのですか?」。

彼らは、確定的なことを言うことはできないと留保した。しかしながら、オポルツァー博士(ウィーンの医師)の診断によると、もし大公が二、三年の間、温暖な気候の元で療養していれば、病の進行を遅らせ、或いは峠を越え、延命できていた可能性は否めないということだった。

その時の彼の言葉を繰り返そう。「真に残念ながら、この世の高位の方々は、医学的誤解の犠牲となる、不幸な特権をお持ちでおいでなのです」。

 

解説

 お疲れ様で御座いました!! 本文だけで11000字ほどです。長すぎる。骨折りでした。

途中の『旅行記』の引用は、ほぼ同じ箇所(一部に差異あり)を既に「列伝」シリーズの方で訳出しているのですが、今回、折角なので書き直してみました。「列伝」の方は対訳形式だったので直訳風でしたが、今回はより情感豊かに、意訳風にしてみました。また、採用しなかった訳語を積極的に採用したりしたので、お好きな方でお楽しみ下さい。

↑ 「列伝」シリーズの第五回、メシチェルスキー公爵編です。

 

 今回も特濃でしたね。スケフェニンフェンを離れたくない理由が当たり前のように全部殿下で、書きながら笑っていました。

別れの前に、公爵は芸術の勉強をしなかったことについてストロガノフ伯爵から罵られていますが、何故勉強をしなかったって、勉強の時間を惜しんで(?)、殿下に張り付いていたからに他なりません。

そんな元凶とも言うべき殿下ですが、フォローの言葉がまた人たらしすぎますね。

 

 心情を語る地の文は、余りにも文学的で、わたしはいつからスタンダールの恋愛小説を訳していたのだろう……と思っておりましたとも。ありそうじゃないですか?

馬車の中で物思いに沈む公爵、映画化不可避かと思いましたよ。情景が脳裏にありありと浮かぶ、素晴らしい文才です。それを忠実に日本語にできていればよいのですが……。

 

 1864年4月からは、殿下がいよいよ体調を崩していってしまいます。既に後半にはネタバレもありますが、本人が察しているように、殿下は不治の病を患っており、余命幾ばくもありません。

 殿下の体調不良に関しては、実は公爵の記録は最重要級のものです。と言うのも、公爵自身が書いているように、殿下は公の場では己の体調不良を隠し通して快活に振る舞い続け、医師や家族さえをも欺いていましたが、友人の公爵にだけは、己の辛い心身の状態を打ち明けているからです。この点に関しては、ガチ恋勢な公爵の自惚れなどではなく、実際に殿下が心の内を打ち明けた唯一の「腹心者」であることに間違いはありません。

 しかし、そんな公爵でさえも、殿下に死が差し迫っていることは信じることができませんでした。

確かに、医師の診断もなく(公爵が散々罵倒しているように、医師の能力不足によるものが大きいのですが)、殿下自身、普段は渾身の演技によって体調不良を隠していたわけですから、公爵が信じられなかったのも無理はないと思います。

更には、公爵だってシェストフやストロガノフ伯爵に誤った治療法を辞めるよう一度は掛け合っているのであり、仮に信じたところで、周囲に言っても信じて貰えなかった、ということもあるでしょう。

また、公爵が殿下を深く愛し、信じ切っていたということもあるでしょう。我々だって、恋しい人から突然に「死にそう」と言われても、第一声には、つい「そんな、まさか。……冗談だよね?」と言ってしまうのではないでしょうか。

それでも、モヤモヤした感情を抱いてしまうのは、歴史を学ぶ上で逃げられない事項なのでしょうね。

 

 さて、それでは、ここからは各項目に分けて簡単に解説を入れていこうと思います。

 

パスハ、聖週間

 「パスハ」は、キリスト教正教会の行事です。「復活大祭」とも呼ばれます。

ハリストス(キリスト)の復活を祝うもので、正教の行事の中でも最も重要なものです。西方教会イースターに相当します。

パスハの日付は年によって異なるのですが、1864年5月1日(ユリウス暦4月19日)だったようです。

尚、聖週間とはパスハまでの一週間のことです。

 

 ちなみに、殿下は一年後、1865年のパスハ(グレゴリオ暦で4月16日、ユリウス暦で4月4日)の翌日に脳卒中を起こして危篤状態になり、一週間後に亡くなります。

↑ その辺りのことについては、詩人ヴャーゼムスキーのエッセイ『ベルモン荘』に詳しいです。

従って、殿下が病を隠しきれなくなってから(「発病」ではない、というところが恐ろしいところですが)、丁度一年後くらいに亡くなっていることになります。

 

宮廷の移動

 「宮廷」というと、お城や、会議室のようなものを漠然と思い浮かべる方が多いですが、実は、宮廷の定義は、「皇帝のおわしますところ」です。皇帝と共に周囲の側近や大臣ら重鎮も一緒に移動したため、このようなイメージがついたものと思われます。

ロシア皇帝は、春・秋はツァールスコエ・セローに、冬はペテルブルクに住まったため、「宮廷(皇帝)が移動する」わけです。

 皇帝の子息である皇太子ニコライ殿下も、勿論父皇帝と共に住まいを変えたため、「宮廷の移動」に随行していました。

 

 しかし、1864年4月末、皇帝一行がツァールスコエ・セローに移る前日の夜になって、殿下は突然卒倒してしまいます。翌日も身体を起こすことができず、ツァールスコエへ移動することができなくなり、ペテルブルクに残ることになります。公爵が描写しているように、顔色が失せて痩せ、ここで倒れたことを皮切りに、殿下は体調不良を隠せなくなってゆきます。して、公爵、寝室へは合法的手段で入ったのであろうか(衝立に穴を開けて覗きをしていた側近を横目に)。

三日後、漸くなんとか快復し、ペテルブルクを発ちますが、体調を尋ねた側近に、「気分が悪い」と答えていたといいます。

 

 公爵は、殿下がツァールスコエ・セローに移った後は病気だとは思えないほど快活だった、と書いていますが、別の記録を読んでみるとそうとは思えません。

たとえば、弟アレクサンドル(サーシャ)大公の側近だったリトヴィーノフ中尉の日記によれば、翌五月に殿下は痙攣発作を起こして倒れ、一日中苦しんでいたという記録もあります。それ結構ヤバくないですか?

公爵がこのようなことに言及していないことを鑑みると、自身が「腹心」と呼んだ公爵にさえも、彼のいない間に卒倒した事実などは伏せていたのではないかと思われます。

 

ニコライ・アレクサンドロヴィチ・シェストフ

 殿下の主治医、シェストフについてです。

奇しくも殿下と同名・同父称の「ニコライ・アレクサンドロヴィチ」さんです(物凄くポピュラーな組み合わせなので……)。

↑ 功績を反映するかのように、低画質の肖像画一枚しか見当たらず。

 

 彼は、宮廷医師として当時有名だった医師イヴァン・ヴァシリエヴィチ・エノーヒンの甥で、所謂「コネ」でその地位を手に入れたと言われています。

↑ エノーヒン。

 公爵のみならず、殿下の海外旅行に同行した、同じく限界同担で知られる殿下の法学教師チチェーリンもシェストフのことをボロクソに扱き下ろしており、自明ではありますが、殿下ラヴァーの間での評価は最悪でした。

 彼ら曰く、「何故あのような無思慮で能の無い人物が殿下の傍に近づけたのか、全くわからない」とのこと。あなた方がわからないのであれば、わたくしにわかるはずもありません。

 

スケフェニンフェン滞在

 1864年夏、宮廷医師評議会の決定で、殿下はスケフェニンフェンに5週間ほど滞在します。

別の資料によると、殿下とその同行者たちが滞在されていたのは、コスタ荘とアマーレ荘というお屋敷です。公爵が滞在していたのも、どちらかの二、三階だったはずです。

↑ 右手前の建物がコスタ荘とアマーレ荘らしいです。

 

 位置関係から推察するに、恐らく現在はグランド・ホテル・クールハウスさんが跡地に一番近いと思われます。

 ザッと調べたら、一泊約3万円~11万円くらいですね。機会があれば泊まってみたいところ。ニースのディースバッハ荘跡地もホテルになっていますし、殿下の足跡を辿ってのヨーロッパ旅行も楽しそうです。

 

海洋療法

 殿下が施されていた海洋療法についてです。

先に申し上げておきますが、たった150年前とはいえ、当時の医療は全くもって悲惨です。恐らく、皆様が考えている数十倍は悲惨です。

 

 19世紀、「海洋療法」なるものが大流行しました。我々からしたらインチキ療法にしか聞こえませんが、その内容とは、「海で泳げば病気が治る!」というもの。

しかし、これが一部ではしっかりと効果が出たというのだから驚きです。何故でしょうか。

 19世紀は、場所や場合によっては非常に不衛生でした。王侯貴族であったとしても、お風呂なんか入ったこともない、という人もいたほど。

そんな人に「海洋療法」を施すと、あら不思議。海に浸かった後、真水で身体を流すため、身体に付着しまくった雑菌が洗い流されて、身体が清潔に。あれ? 病気も治っちゃった! ……ということが結構あった、というわけです。ビックリですね。

 

 一方ロシアでは、「バーニャ」といって、歴史的にサウナのような蒸し風呂に入る習慣が定着していました。民衆レベルでも、最低週に一回は入浴したと言われています。

 更に言えば、ロシアの宮殿(特に冬宮)は、当時の宮殿の中でも群を抜いて清潔で、とんでもなく広大なのに、ネズミや虫が出ないことで有名でした。

 国内に幾つもある宮殿には、それぞれ蒸し風呂や浴槽などが揃った風呂場があり、いつでも入浴が可能でした。世界で初めて宮殿内に現代風のシャワーが設置されたのも冬宮で、殿下の祖父ニコライ1世が最初に使用したと言われています。

 殿下の弟サーシャ大公はバーニャが大好きで、よく友人家族を連れて一緒に入ったと言いますし、殿下自身も水泳が好きで、身体を水で洗い流す機会は当時としてはかなり多かったはずです。

 ……であるならば、「海洋療法」の効果はほぼ全く無いと言ってよいでしょう。公爵の意見は全くもって正しいものです。

 

 更に言えば、「冷たい海」などの描写で嫌な予感がした方もいらっしゃるかと思いますが、基本的には「寒中水泳」です。

「慢性的な症状は見て見ぬ振りされていた」というような話も出てきますが、スケフェニンフェン滞在中の殿下は、不眠、倦怠感、頭痛、微熱などが常にあったようで、そのような人を冷たい海に放り込めば何が起こるかは、考えるまでもありません。寒気が止まらないことなんか、必然としか言いようがないでしょう。

 

 文学の世界でも、海洋療法の描写があるものもあります。

ロシア文学では、チェーホフの『決闘』などがわかりやすいです。

 海水浴は、男女に分かれ、「水浴小屋」と呼ばれる海にせり出した小屋の中で行います。基本的には小屋の中で服を脱ぎ、そのまま小屋の中で温泉のように一定時間海に浸かって、上がった後は真水で海水を洗い流し、服を着て終了です。

 

パーヴェル・アレクセーヴィチ・コズロフ

 副官コズロフは、公爵の言うように、元教師ジノヴィエフの甥です。

殿下の副官をしていましたが、殿下亡き後は、弟アレクサンドル大公に仕え、彼とも親友として上手くやっていけたようです。ちなみに殿下より1歳年上(1842年生まれ)。

ネット上では、お写真が全く見つかりませんでした……。

 

ヴラジーミル・アナトリエヴィチ・バリャティンスキー

 もう一人の副官、バリャティンスキー公爵も、コズロフと同じように、殿下の副官を担当した後、アレクサンドル大公の副官となります。

↑ 若い頃のお写真見つかりません! 勲章の数エグい。

 ちなみに、文中では В. В. (ヴラジーミル・ヴラジーミロヴィチ)になっているのですが、恐らくヴラジーミル・アナトリエヴィチ(В. А.)の間違い。誤植かもしれません。

 殿下と同い年どころか、お誕生日も一日違い(バリャティンスキー公爵の方が一日早い)。71歳まで生き、同姓同名・同肩書きの甥、「ニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子(つまり、ニコライ2世)」の国外旅行にも同行するという、運命的な人生を送ります。甥の方は、国外で亡くなることはありませんでしたが、日本滞在中に暴漢に頭を斬り付けられる事件(所謂「大津事件」)の際、公爵はどれほど動揺したことでしょうね。何と申しますか、お疲れ様です……。

 

ゴータ年鑑

 公爵が輸入を命じられていたという『ピアレージ』という本。公爵自身が「『ゴータ年鑑』のようなもの」と注を入れています。それがなければわたくしも迷子になっていたかもしれません。

 『ゴータ年鑑』と申しますのは、ヨーロッパの王侯貴族の系譜などを纏めた本です。それのみならず、軍や行政府の組織図やセンサスなどの統計も載っており、たしかに、内務大臣としては手元に置いておきたい本だったはずです。

 

マンスーロフ

 アレクサンドル・パーヴロヴィチ・マンスーロフは、当時の在ハーグ・ロシア大使です。

 1864年には既に76歳と高齢で、「老人」と描写されています。この年齢からもわかるように、アレクサンドル1世やニコライ1世など、殿下の祖父世代(この二人の皇帝は親子ではなく年の離れた兄弟)の皇帝の寵臣として活躍していました。

 

 18世紀生まれとしては信じがたいことに、なんと92歳まで生きました。エカテリーナ2世時代に生まれ、パーヴェル帝時代に育ち、アレクサンドル1世、ニコライ1世時代に活躍、アレクサンドル2世にも仕えたわけです。実に5人の皇帝を見たことになります。(尚、マンスーロフの死の翌年にはアレクサンドル2世も暗殺され、アレクサンドル3世が戴冠します)。

そう考えると、殿下は例外的に短いですが、全体的に考えてもロマノフ家ってやっぱり短命な運命だなと感じてしまいますね。

 

ピョートル大帝記念館

 殿下がお忍びで訪れたという、ザーンダムのピョートル大帝記念館についてです。

ピョートル大帝が若い頃、オランダで街や造船について学んだ、というのは有名な話です。従って、オランダには「船を作るピョートル大帝像」が幾つかあります。

↑ すごい手作業感。

 そのため、当時は「オランダ風の街に住み、ドイツ風の服を着て、フランス語を喋るロシア人」と揶揄されていたことも有名な話ですね。

 

 そんなピョートル大帝がオランダで住まったとされるのが、ザーンダムに現存するピョートル大帝記念館です。

↑ 入り口結構いかめしい。

↑ 中は木造建築。

 自国の偉大なる皇帝の足跡を辿った、というわけですね。

ちなみに、地図を確認してみたところ、殿下たちの滞在していたコスタ荘付近からザーンダムの記念館まで、約70kmほど。殿下たちは列車で向かったそうですが、現在では電車で約1時間45分ほどで着くようです。当時ではどれくらい掛かったのでしょうね。

 

 ピョートル大帝と殿下と言えば、この間資料を漁っていたら、「ニコライ殿下は、ピョートル大帝の再来、ピョートル大帝に次ぐ皇帝になるだろうと思われていた」というような記述があって、余りの期待の重さにひっくり返ってしまいました。流石にそれは言い過ぎだろうとも思ったのですが、殿下の能力の高さと、そこから生まれる周囲の期待、彼の築く未来への「信仰」を思えば、当時からそのようなことを言われていたとしてもおかしくありませんね。

そのような期待を寄せられていた殿下自身が、ピョートル大帝の足跡を辿り、何を思ったかは、我々には想像することしかできません。

 

太后アンナ・パーヴロヴナ

 オランダの王太后、アンナ・パーヴロヴナについてです。

オランダ王ウィレム2世の王妃であり、公爵の言う通り、既にウィレム二世は没していたために、王太后にあたります。

↑ 時代を感じさせる肖像画

 前述のように、アレクサンドル1世とニコライ1世は兄弟。アンナ・パーヴロヴナは、その間、アレクサンドル1世の妹、ニコライ1世の姉にあたります。殿下からしたら、祖父の姉(大叔母)ですね。

 1864年には69歳で、翌年、殿下の死の一ヶ月前(3月)に肺炎で亡くなっています。

 

 アンナ・パーヴロヴナは、気高く良心的な女性だったそうですが、晩年になりますと、懐古趣味とでも申しましょうか、周りの人間全てに19世紀初頭の古めかしい礼儀作法の徹底を求めていたといいます。それは勿論訪問者にも適用され、堅苦しい風習がだいきらいな人々からは敬遠されていたとか。

 秘書官オームによれば、殿下はその作法に則り、王太后が一人座っていても起立し続け、王太后がロシア語を話す間は黙って聞いていたといいます。王太后は、そんな又甥を歓迎し、大いに可愛がったとのことです。

 

ラニエ王子

 公爵から散々な書き方をされている(殿下以外は大体扱き下ろされているとも言う)、オラニエ(オランダ)の王子についてです。描写から、ラニ王太子ウィレム殿下のことであると目されます。先程のアンナ・パーヴロヴナの孫にあたりますね。

 『回想録』では、当時30歳強とありますが、ウィレム王子はニコライ殿下の3歳上(公爵の1つ下)でしかなく、当時24歳であるはずです。公爵の記憶違いではないかと思われます。

 

 公爵が描写しているように、酒、煙草、セックス、ギャンブル……といった絵に描いたような放蕩生活をしており、道徳的なオランダの民からは恐れられていたといいます。

国内での批評が最悪だったこともあり、晩年は主にパリで過ごしています。そこでは、オラニエの別名が「オレンジ」であることから、「プランス・シトロン(レモン王子)」という愛称で、新聞のスキャンダル欄の主役になっていたとか。

 そんな遊び呆ける生活が祟り、彼も王位を継承することなく、38歳で亡くなります。

 

 ウィレム王子は、殿下の滞在していたコスタ荘・アマーレ荘のすぐ傍の城に滞在することもあったようですが、殿下に招待状を出すことも、殿下の屋敷を訪れることも一切ありませんでした。

一方の殿下も、基本的には公式行事を避けていたこともあり、自らウィレム王子に接近することはありませんでした。

 しっかし、悪徳の王太子と、品行方正な皇太子の対面、見てみたかったですね!

我らが殿下は、会うとなれば確実に相手を堕としに掛かるので、所謂「即落ち2コマ」が成立して、非常に面白いのですが……。

それに対し、「会うだけで名誉を失う」とまで言われるウィレム殿下も強いですね。道徳の街ハーグに悪徳の王太子、もう物語性がありますね。ここも掘り下げてみたら面白いかもしれません! もし王位継承できてしまっていたら、オランダはどうなってしまったのか……。

 

アレクサンドル・セルゲーヴィチ・ストロガノフ伯爵

 アレクサンドル・セルゲーヴィチ・ストロガノフ伯爵は、公爵の述べているように、殿下の師であったセルゲイ・グリゴリエヴィチ・ストロガノフ伯爵の長男です。

 父は皇太子の師となり、知識ではロシアで右に出る者はいないと言われたほどの博学者。それと同時に、ストロガノフ伯爵家は莫大な財産を持つ大富豪でもあります。その跡取りアレクサンドルは、聡明で優しい人物であり、とにかく女性に大人気だったとか。

 家庭も築き、キャリアも申し分なく、正に順風満帆な人生を送っていましたが、1864年8月7日(ユリウス暦7月26日)、45歳で就寝中に突然死。朝、家族がベッドで冷たくなっているところを見つけたとのことです。特に予兆も何もなく、本当に急死でした。

 

 長男の葬儀に出席するため、ストロガノフ伯爵はスケフェニンフェンを離れ、帰国します。その間、代理の監督官として殿下の元に遣わされたのがマトヴェイ・ユーリエヴィチ・ヴィエリゴルスキー伯爵です。

↑ 彼は高名なチェリストでもありました。この肖像画めちゃくちゃ良いですね。

 彼は殿下の父・アレクサンドル2世の幼馴染み兼学友であったイオシフ・ミハイロヴィチ・ヴィエリゴルスキー伯爵の叔父です。

イオシフ・ミハイロヴィチは、殿下にとってのバリャティンスキー公爵やコズロフのように、アレクサンドル2世が皇太子時代に国外旅行をした際に同行していましたが、途中、ローマで喀血して倒れ、結核で亡くなってしまいます。その様子が、彼を愛した作家ニコライ・ゴーゴリの『別荘の夜』に綴られていることで有名です。

 尚、このマトヴェイ・ヴィエリゴルスキー伯爵も、殿下の死の翌年、同ニースで亡くなっています。

 

 前述の「大津事件」なども然りですが、皇太子の国外旅行はどの代も、死や、死に瀕する事件が発生しますね……。当時の「グランド・ツアー」が、綱渡り的に行われていたことがわかります。

 

結核髄膜炎

 殿下が罹患していた病が「結核」である、という記載があります。「結核」といえば、『椿姫』などでお馴染み、肺結核を思い浮かべますが、殿下が患っていたのは精確には「結核髄膜炎」で、脳に作用する病気です。

 医療設備の整った現代でも予後が悪く(致死率が高く、生き延びたとしても重篤な後遺症が残る蓋然性が高い)、当時では完全に不治の病でした。

 

 19世紀では、「身体が弱いことは恥ずべきこと」という考え方も根強かったため、皇太子として理想的な地位にあり続けたかった殿下は、己の不調を隠し込んでしまいます。その隠し方が余りにも「完璧」すぎたため、実は、未だに罹患のタイミングや原因がわかっていません

当時から噂されていたという、軍事演習中の落馬事故が原因として最も有力視されていますが、他にも要因と成り得そうな怪我もあり、確定には至っていません。

 殿下は、背骨が謂わば「アキレス腱」だったようで、なぜか何度も背中を打つ怪我をしています。そのうちのいずれか、或いはその蓄積で生まれた傷に結核菌が入り込み、脊髄を通って脳へ至り、髄膜炎を発症した、というのが真相のようです。外傷性であり、怪我がなければ、このような事態には至らなかったでしょう。

 

 結核髄膜炎の資料と、殿下の側近や友人の書いた記録を読み比べてみると、その症状が完璧に合致していることがわかります。(参考資料: 日本神経治療学会「標準的神経治療:結核性髄膜炎」など)。

それでいて、危篤状態になるまで判断を下せなかったというのだから、公爵らが医師たちを扱き下ろすことにも、共感を覚えてしまいます。

 

オポルツァー博士

 最後に、公爵が意見を求めた「賢明な医師」ウィーンのオポルツァー博士ですが、ヨハン・フォン・オポルツァー博士のことと目されます。

 オーストリアの医師であり、特に当時の東欧~北欧に掛けて、非常に高名でした。

 

 殿下の死を巡っては、ロシア内外の著名な医師が総掛かりになりました。伝説的な外科医ニコライ・ピロゴフ、「ロシア医学の父」と評される臨床医セルゲイ・ボトキン、特に感染症治療の分野で活躍した帝国医学アカデミー教授ニコライ・ズデカウエルらです。

 しかし、主治医シェストフが「命に別状があるものではない」と強硬に主張したことなども相俟って、適切な処置は取られず、避けられえぬ悲劇を招いてしまいました。

とはいえ、結核髄膜炎は、前述のように、不治の病だったため、当時為し得る治療を施しても、早逝は免れ得なかったと思います。それでも、数ヶ月から数年は延命が可能だったと思いますし、ともなれば、その数ヶ月から数年で大分ロシア史のみならず世界史が書き換わってゆくため、やはりシェストフら許すまじという結論が出ますね。

 

最後に

 通読お疲れ様でございます! 22000字です!! 長々とお付き合いありがとうございました!

 

 長くなってしまった為、今回は次回予告のみで切り上げたいと思います。

次回は、中略の後、33節の後半、公爵が殿下と再会する4ページをお届けしようと思います。今回の 1/4 ほどの量ですが、その分内容も濃く、ギュッと凝縮されておりますので、お楽しみ頂けると信じております。

 

 個人的に、現代でどのようにこの物語が受容されるのかに強い関心があるので、感想等頂けると喜びます。宜しくお願い致します。

 それでは、お開きと致します。また次の記事でお目に掛かれれば幸いです!

↑ 次の記事書きました! こちらからどうぞ。