世界観警察

架空の世界を護るために

メシチェルスキー『回想録』1863年31節 - 翻訳

 こんばんは、茅野です。

明日4月12日はユリウス暦での殿下の命日です。実に157回忌。今でも歿地となったニースでは、命日に追悼ミサを行うそうです。是非とも一回参加したいですね。

 

 というわけで今回は、メシチェルスキー公爵の『回想録』を読むシリーズ、第四弾となります。

↑ 第一回はこちらから。

 

 第四回目となる今回は、1863年編の第31節を見てゆきます。今回は完全に弁解不能な熱烈「殿下語り」が全文に渡って展開されているため、全文訳出です。正にお手本のような推し語り。これぞメシチェルスキー公爵。

従って、大変長くなっております。ご理解下さいませ。

 

 それでは、お付き合いの程宜しくお願い致します!

 

 

31節

 12月6日の朝は、私にとって忘れ難いものとなった。

 

 その前日、私はタヴリーチェスキー庭園で皇太子を見かけ、彼に問うた。「明日、お祝いに伺いたいのですが、何時頃が宜しいでしょうか?」

 

 「朝に来て下さったら、珈琲をご馳走しますよ」、皇太子は答えた。「遠慮なさらないで。家族もおりますし、楽しんで頂けると思います」。

 

 私は朝八時に出頭した。しかし、食卓には皇太子の弟たちと、その教師達しかいなかった。

 

 そこで、皇太子は私に言った。「私と話がしたいと仰せなら、夜十時過ぎにまた来て頂けますか。劇場にいなければ、家にいるはずですから……」。

 

 皇太子はエルミタージュと冬宮殿の間の館に住んでいた。極めて質素な家具に囲まれた三つの部屋を所有しており、真ん中に大きな客間が、右手に書斎が、左手に寝室があった。

彼の一日は規則正しかった。朝早くに起き、八時には既に着替えて珈琲を飲んでいる。その後、教授と勉強し、日によっては大臣たちの皇帝への報告に立ち会う。そして食事を摂って、正餐まで散歩をする。正餐の後は、皇后と紅茶を飲むか、劇場へ行くのだった。

 

 皇太子から招待を受けるのはこれで四度目だった。私達は三人で談話した。皇太子、彼の弟アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ、そして、恐れ多くも私……。

話題は政治のことだった。二人の魅力は、あらゆる問いに対しても、真剣に考え、関心を持つことだった。そして、皇太子のロシアの問題に関する見解は、一音たりとも不協和音はなく、迷いも不安定さもなく、当時影響力の強かったコスモポリタニズムの影響も見られない、彼の考えをよく反映していた。

 

 ここで、皇太子の知性について少しばかり述べておきたい。彼はこの時たった二十歳だったが、その知性の発達に於いては誰もが目を見張るものがあった。鋭い知性と、生まれ持った非常に豊かな感受性が結びついたことが、この驚異的な発達の主な要因であろう。それに加えて、彼は人の話をよく聞くという、価値ある希少な才能を持ち併せていた……。

 

 特に後年のストロガノフ伯爵による教育は、彼の才能と完全に調和し、ストロガノフ伯爵が帝位継承者に求める非常に高い要求を十分に満たしていたことは事実だ......。

 

 皇太子に対する教育は、大公自身の説明や、資料から情報を得る限りでは、非常に多様性に富んでいた。

 

 最初の養育者はニコライ・ヴァシリエヴィチ・ジノヴィエフ副将軍と、それを補佐するゴーゲル将軍、そしてカズナコフ将軍だった。ジノヴィエフは、皇太子と二人の弟を深く尊敬すべき素晴らしい女性スクリピツィナの腕に託した。彼らは彼女に心からの愛を抱き続けた……。

ジノヴィエフは尊敬すべき人物の模範であり、皇帝の忠実な下僕で、不屈の老貴族だった……。しかし、二つのものを欠いていた。彼に教育者としての才能はなく、それと同時に、人を選び出す才能も無かった。その結果、初期の間は、実質的に誰も教育を主導せず、帝室の教育者たちはニコライ・ヴァシリエヴィチ・ジノヴィエフのような煌びやかな人間に対する子供じみた尊敬の念を抱いていたのである。

丁度1863年頃、私は帝室の子供達の以前の養育者であったジノヴィエフの助手たちと知り合う機会があった。ニコライ・ゲンナジエヴィチ・カズナコフは、当時キエフ県知事であった。彼らは優秀で、好感も持てる人々だったが、教育者としての素質を見出すことは叶わなかった。それはゴーゲル将軍も同様であった。彼らは無教養で一本調子の将軍らしく、精神的な多様性は微塵も無かった。

 

 このことから、ジノヴィエフは専門的な教育部門を設ける必要があると考えるに至った。そして、若きロシア文学教授ヤコヴ・カルロヴィチ・グロートを任命した。彼に教育を託したのである。

極めて良心的な人間である彼は、己の才能を以て全身全霊でこの事業に取り掛かった。彼は年長の二人の大公の完璧な学習のプランを組み立て、彼らの信頼を得て、実際に行動に移した。

しかしグロートにも本質的な欠陥が存在した。彼にとって、そこは全く親しみのない環境であった。彼は研究者気質で、若者との交流が少なく、生徒達との密接な関係を築くことが難しかった。良くも悪くも、そういう人物だったのだ。グロートは真面目な衒学者であり哲学者だったが、彼には弟子を惹き付けるような、快活な親しみやすさが欠けていた。それでも、前述のように、彼は誠実にその事業に取り組んだのである。

しかし、皇后は大公たちの教育により権威ある人物を就けるべきだと考え、我が国の外交官ヴラジーミル・パーヴロヴィチ・ティトフを選び出した。彼はカラムジンや私の家族の友人の一人だった。ティトフは明朗な話者であり、同様に知的でもあったが、養育者としての素質は微塵も無かった。

ところが彼は自尊心が強く、己が選ばれたことを正当化しようと考え、最悪の教育計画の作成に着手した。大公たちの養育におけるティトフの独裁の最初の結果は、謙虚で温順なグロートが保持していた独立性を失い、ティトフの曖昧で混乱した考え方に服さなければならなかったことであった。

ティトフは、己の思想を持たず、ドイツやフランスなど同時代の異なる教育学の至る所から貼り合わせた。当時の潮流は自由主義一辺倒で、何よりも伝統の規律を蔑ろにしていたため、大公たちに対するティトフの教育期間は、ある種の混乱が生じたのだった。

この混乱は、ティトフが「自分は天才的なものを発明した」と本気で思い込み、大公たちが貴族や高貴な子女と一緒に学ぶ特別な教育機関となるギムナジウムあるいはリツェイを計画し、これを通じて普遍的な教育を受けられるよう一計を巡らせた程である。

ティトフはこの案を、一部はイギリスから、或いはドイツの大学の歴史から取り入れたのであろう。彼は、帝位継承者に対するこのような教育が、我が国とは調和しないことを全く失念していたようだ。

そもそも、三人の将軍による体制から、文官への移行が、現実味の無い風変わりな夢想であったのだ。

 

 いずれにせよ、この奇妙な計画は皇帝からも皇后からも一切の賛同を得られず、ヴラジーミル・パーヴロヴィチ・ティトフを選んだ皇后から見ても、彼の教師としての信頼を失墜させるものでしかなかった。

ティトフの思いつきと気紛れに振り回されたグロートは、彼が辞任する前に去ってしまっていた……。

 

 ティトフは辞任の際、尊敬のもと、更なる任務と称号として国家評議会員に選出された……。ティトフの後には、以前コンスタンティン・ニコラエヴィチ大公を養育していたグリムが選ばれた。ティトフが後任を探していた際に、大公から指示があったという。

グリムは若き日のコンスタンティン・ニコラエヴィチの教育者の一人であったが、ドイツの裕福なロシア人居住区に滞在した20年を経て、皇太子と彼の弟の元に召集された時には全くの別人となっていた。彼は、ロシアのものは大公の教育の役に立たないという思想の元、ティトフよりも更に奇妙なドイツ流の教育計画を組み立てた。彼はロシア語は野蛮であり、ドイツ語こそ文化的だとさえ言ってのけた。

こうしてグリムはティトフとグロートが築いた大公の教育を徹底的に破壊しに掛かったが、その治世は長くは続かなかった。

グリムは、生徒たちの愛着も、信用も、尊敬の念をも得ることができなかった。こうした長続きしない教育制度を繰り返した挙げ句、とうとう皇帝の決定はセルゲイ・グリゴリエヴィチ・ストロガノフ伯爵に下され、皇太子の教育責任者となったのである。

そして、彼ら兄弟は引き離され、弟にはかつての教育者に変わってボリス・アレクセーヴィチ・ペロフスキー伯爵が任命されたのだった……。

 

 ストロガノフ伯爵が皇太子の教育責任者に、ペロフスキー伯爵が彼の二人の弟の教育責任者に任命されたことにより、新しい教師の人格から得られる直接的な利益だけではなく、大公たちに対する教育実験の期間が永遠に終わるという本質的な利益が生まれたのである。

規則正しく、落ち着いた、そして堅牢な秩序が築かれたのだった。

 

 これらの経験について、皇太子はユーモアを交えて語った。

「神に感謝します」。彼は言った。「顔ぶれの変化の全ては、私達にとって表面的なものに過ぎません。彼らは私達を服従させたり、深刻な影響を与えることには失敗したわけです。ある人は―――例えば、グロートですね――――私達に無関心でしたし。いずれにせよ、神に感謝しているんです」。

 

 実にその通りであった。神に栄光のあらんことを。大公たちが、この影響を受けやすい年頃に、教育者たちの変更から強い影響を受けていたとしたら、その結果は想像に難くない。

 

 例えば、ヴラジーミル・パーヴロヴィチ・ティトフは、高名な民法学者であり、政治評論家であるカヴェーリンを呼び寄せた。議論の余地無く、カヴェーリンは法律学の尊敬すべき権威であったし、素晴らしい人でもあったが、それと同時に、彼の思想が極端に前衛的であることは誰もが知るところであった。ティトフは、カヴェーリンが自由主義者の間で人望厚く、名声があるから、よくも考えず彼を採用したのであろう!

今考えてみると、亡くなった皇太子がこの時期の教師達の本質について的確に表現しているように、カヴェーリンが若く多感な彼に強い影響を及ぼすことができていたとしたら、彼の若い心に欺瞞と縺れが入り込んで、混乱を来していたことだろう。このような状況では、彼の知性は正しく発達しなかったであろうし、統治の才能に溢れた輝かしい見解をしっかりと習得するには至らなかっただろう。

 

 ストロガノフ伯爵は、その点立派であった。彼の考えに混乱がある場合、或いは混乱するまでには至らなくともその萌芽がある場合は、その疑いの全てを摘み取った。そして、一方では自分の足でしっかりと、他方では政治上のあらゆる思想を明確に理解させることで、無秩序立って不明瞭なものが彼の魂に忍び込み、彼の思考の基礎を密かに揺さぶることがないよう教育したのだった。

 

 ストロガノフ伯爵は皇太子の教育に於ける真の支配者であり、絶対の自信を持ち、彼に与える影響力と、その権利についても疑うことはなかった。皇太子は白黒の判断を彼から与えられ、当時流行していた自由主義の見解や理論の土台を揺らしたのである。

そこにストロガノフ伯爵の、計り知れない、極めて貴重な功績があった。彼は大公の精神世界を、外部の危険な影響から自衛することのできる、強固で、広く、静かで明瞭なものに仕上げた。そればかりか、彼の知性を豊かで満ち足りたものにしたのである。

 

 ストロガノフ伯爵は、政治的教義の真理と、当時流行していた空想的思想が相反していることを大公に隠そうとしなかった。彼は弟子に真理を確信させ、あらゆる企てを論破することができた。皇太子に対する正しい精神教育は、少しの努力もなしに、ごく自然に、気づかないうちに、同時にしっかりと行われていたのである。

彼は、沢山の冗談や皮肉を織り交ぜて、論理と経験に基づいた話をした。そうして大公を教育するという日々の仕事を全うしたのである。

教師と生徒の間では常に意見が交わされ、ストロガノフ伯爵と助手の教授たちが皇太子の中に育んだ世界は、立派で鮮やかなものになったのだった。

 

 一方、二人の大公、アレクサンドルとヴラジーミルの教師となったボリス・アレクセーヴィチ・ペロフスキー伯爵は、ストロガノフとは全く異なる人物だった。

彼は皇帝の提案した義務を受諾しようとしなかった。曰く、教育に携わった経験はなく、準備ができていないと。

しかし、皇帝は己の選択は正しいと主張した。これ以上の選択はないと。当時、第二のストロガノフ伯爵とも言うべき人物はいなかったが、ペロフスキー伯爵のように教育の能力や才能がなくとも、この任に就きたいと狙っていた将軍は沢山いたのだ。皇帝は、彼の素晴らしい魂について心得ており、この選択に固執した。

彼の魂は正直で誠実であり、騎士道精神に富み、温かく、開放的で、同時に良い意味で大変ロシア的であり、そして全ての嘘、全ての不誠実さを憎んでいた……。

その為、ペロフスキー伯爵は両弟子の心に明るく柔和な精神世界を創り上げることに成功したのだった。この清く壮健な雰囲気は、帝室の子供達の魂に響き、経験豊富なモスクワの教授チェヴェリョフの指導の下、教育は順調に進んだ。ペロフスキー伯爵は二人の弟子を深く愛した。傍らには、同様にアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公を愛していた皇太子がいたのだから、当然の成り行きであろう。彼らの教育は分かたれたが、兄との親密な交流によって、大公は二倍にも教育されたのである。

ペロフスキー伯爵は、この謂わば二重の学校に愛と素晴らしい魂を以て協力した。後に、このことが歴史的な意味を持っていたことが判明するのである。

 

 ストロガノフ伯爵は皇太子を帝位継承に向けて教育したが、一方の皇太子は彼の友人でもある弟を、彼の運命に向けて鍛えていたのである。

 

 前述のストロガノフ伯爵による教育の素晴らしさは、1863年から1864年に掛けての冬の間の皇太子との会話に集約されていた。

彼の興味深さや魅力は、単に聡明なことではなく、知識に人生観が息づいていることがその理由だった。

夏に行われた皇太子のロシアの旅は、帝位継承者にとって未知に溢れていたが、だからこそ無知から彼を解き放した。ペテルブルクと地方の人々の違いを認識し、彼のロシアへの愛にある種の変容をもたらした。つまり、抽象的だったものが具体的になり、以前には知識のみから発せられていた疑問が、胸底からのものになったのである。

この若い胸を打つロシアへの新たな愛は、私達の冬の対話の主な美点となったのである。

彼は、自分にとって身近な事柄を知るようになり、そしてロシアの生活の多くが彼の身に染み付いていった。旅の前には、若き皇太子は質問に知識で答えていたが、旅の後には、知性は独りでに語り出すのを辞めた。全ての言葉には、鼓動が胸打っていたのである。

 

 この冬、皇太子を近くで見ていて、彼の地位は一見すると煌びやかで鮮やかだが、それと同時に、困難が付きまとい、彼は如何に精神的な忍耐を要求されているかを理解した。私は帝位継承者という立場の難しさをはじめて理解したのだった。

ここで彼の立場、彼の内外の世界に細心の注意を向けると、僅かな抜け道のようなニュアンスから、彼が行動のプランを練らねばならなかったことがわかった。

この影の世界は皇帝との関係に起因した。宮廷では、皇帝は自身の次男を贔屓し、皇太子は母である皇后の寵愛を受けていると考えられていた。

とはいえ、私は告白せねばなるまいが、そのような事実を裏付けるものは一つとして確認できなかった。私には、皇帝が次男を特別扱いしているようには全く思われなかった。皇帝は本能的にそのように振る舞ったのだろう。しかし同時に、私は、皇太子が意識して人を惹き付け、役割を演じ、奔走していることに気が付いた。彼は、帝位継承者として、一見しても、実際にも、理想的な地位にあることが己の義務だと考え始めていたのである。

これが顕在化すれば、皇帝のよく知られた繊細な糸に触り、その誠実な関係性が崩れることにもなるだろうと私は思った。

皇太子は、その鋭く繊細な感覚で、義務ではなく、義務の裏にある世界を、誰よりも明確に感じ取っていた。そして、家庭、宮廷、従者の前、軍部と、あらゆる場所で要求された努力とその厳格さは、決して彼を屈服させなかった。

どこであっても、誰の前であっても、彼は謙虚であり、それでいて同時に全く自然体でもあった。

私は、その時彼を包んでいた光を想起すると、今日までの長い記憶を点検しても、これほどまでに己の地位を輝かせ、支配した人物には出逢ったことがないと言わねばなるまい。

ところが、それこそ正に皇太子が己に対して絶対に許さなかったことだった。

 

 この自然な、けれども同時に意識的な慎み深さは、彼の内部の謙虚さに端を発していた。それは不自然でも、わざとらしくもなく、彼の洗練された良識に基づいていた。

そして注目すべき彼の性質として、彼は一種のコケティッシュな振る舞いを好み、それでいて同時に機知に富み、嫌味や皮肉を言うのも好きだった。

これら全てが共存していることが、彼を惚れ惚れする人物にしていた。このような魅力的な人物が22歳で帝位継承者の高みにあるとき、周囲からの崇拝と共に忍び寄る数々の誘惑にどれほど晒されたかは余りに想像に容易い。彼はこれら多数の誘惑に屈することがないよう、他に心を明け渡さず、常に己の精神の主であり続けた。

 

 皇太子は、いつものように謙遜して自分の長所を否定し、「単に非活動的な性格なんです」と釈明したが、しかし彼の長所は、主に有り余るほどの良識に基づいていたのである。

 

 二人の兄弟を見れば、この態度が皇太子とアレクサンドル・アレクサンドロヴィチに共通しているものであることにはすぐに気が付くだろう。

全ての記憶を検討しても、私は恐れ多くも兄の皇太子と同意見だ。彼の魂は清く、本能的でありながらも意識的に無垢であり、皇太子が何故弟の魂に対して尊敬の念を抱いていたかは、彼と親しい人にとっては明白であった。

ところが、彼は当時19歳で、嗚呼、残念ながら、誰もが理想から離れ、粗野になる時期に達していた。一方で、彼と皇太子は、自由に振る舞う権利を充分に持ちながらも、道徳を尊重しながら生きていたという点に於いて、他とは完全に異なっていた。従って、彼らと偶然にも知り合う機会を得た人々は、彼らの清浄な魂を穢しはしないかと恐れていたのである。

勿論、この功績は教育者たちの手によるものも大きい。しかしながら、大公の教育者の一人は、アレクサンドル・アレクサンドロヴィチの道徳的な純粋さは、改善を要さず、己で台無しにするようなこともない、と私に告げた。それは全く正しいことだった。

 

解説

 お疲れ様でございました! 本文だけで8000字を超過という……(原文の書籍では13ページ)。恐ろしき熱量。

 些細なことながら、当ブログの翻訳記事のパラグラフ分けについては、常に原文と揃えているのですが(改行に関しては見易さを重視して適宜行っています)、本節は一文で変えるところと非常に長いものが混在していて、書きながら少々疑問に思っておりました。この空白から何を読み取ればよいのでしょう。

 

 初っぱなから、家族がいるから楽しんで貰えると思っている殿下と、殿下に会いたいのであって他はどうでもいい公爵、面白すぎます。というか、殿下から誘って貰った回数、一々数えていたんですかね。乙女か。

 

 殿下の素性(受けた教育)を調べ尽くしている公爵、滲み出るストーカー感愛。そして相変わらずの殿下へのベタ褒めと周囲の人物に対しての毒舌。

一日のルーティンまで公表しているのは、存命中ならばセキュリティの問題などからも問題だったのでは……。公爵は殿下に朝8時前と夜10時以降ならば会えることを心得ていて、度々お邪魔していたようです。

 

 後半、同担ながらに首を傾げたくなるくらいの推し語りでした。読みながら、「わたしこれ書くのか……」と思っておりましたとも。驚くべきことに、こちら、わたくしの妄想ではなく、翻訳です。

 途中から箍が外れたのか、殿下のことを「コケティッシュ(色気があり、科を作る様子を表す。性的で少々下品なニュアンスを含む。通常は女性に対して用いられる)」だとか、「艶めかしい(本文では文脈に合わせ "惚れ惚れする" にしています)」だとか、限りなく黒に近いグレーゾーンを突いております。公爵よ、やはり殿下を "そういう目" で見てはおるまいか。

 

 ロシアの(特に当時の)好ましいとされる人物像について、殿下に纏わる文献を読む中でお気づきかもしれません。アメリカではマッチョイズムが人気であったり、西欧では謙遜せず自己アピールする方が望ましい、というイメージをお持ちかと思いますが、この点に関してロシアはアジア的とでも申しましょうか、日本に近い感覚があるようで、男性でも色白で細身で……というような中性的な外見が一般的に(特に貴族社会で)好まれたり、ある程度謙虚な性格の方が好まれていたようです。正に殿下。

 

 さて、それでは解説の方に移ってゆきたいと思います! もう暫くお付き合い下さい。

 

タヴリーチェスキー庭園

 1863年12月5日に公爵が殿下に出会ったという、タヴリーチェスキー庭園について。ペテルブルクにあるタヴリーダ宮殿の庭園です。タヴリーダとはクリミアのこと。人工池があるイギリス式の庭園です。

ちなみに、簡単に言えば、「フランス式の庭園」が綺麗に刈り込まれた人工的な庭園のこと、「イギリス式の庭園」は整備しながらもできるだけ人の手が入っていないような雑多な自然さを追求した庭園のことです。宮廷・貴族社会に纏わる文献や文学では頻繁に登場するので、覚えておいて損はありません。

↑ 画になる。

こちらは秋の画ですが、冬だと雪で何も見えなくなってしまうので……。恐らく、公爵が殿下を見かけた際には、辺り一面、雪化粧をしていたと推測されます。

 

お祝い

 さて、公爵は殿下に「お祝いをしに伺いたい」と述べ、殿下もそれに応じていますが、そもそも何のお祝いなのでしょうか?

全くヒントがなく、暫く頭を捻りましたが、正解らしきものが閃きました。十中八九、それは「名の日の祝い」でしょう!

 

 ロシアでは、「名の日の祝い」という文化があります。馴染みがないと聞き慣れないかとは思いますが、誕生日のお祝いに近いと考えて頂いて結構です。誕生日もお祝いしますが、場合によっては名の日の祝いはそれよりも盛大にお祝いします。殿下の場合は、名の日の祝いはささやかだったようですね。

 

 伝統的に、ロシアでは子供に聖人の名前を付けます。各聖人には、生まれた日、奇跡や偉業を成し遂げた日、亡くなった日などがあるわけで、ロシア正教ではそれを記念日としています。

 ご承知のように、殿下のお名前はニコライ(Николай)で、聖ニコライ(聖ニコラウス)に因みます。この聖ニコライの亡くなった日が12月6日で、この日がニコライさんの「名の日」とされているわけです。従って、「ニコライ」というお名前の男性は、12月6日にお誕生日のようなお祝い(友人達を招いて豪華な食事をしたり、プレゼントを貰ったり)をします。

同じお名前だとそれだけで親しみが湧くものですが、ロシアの場合は名の日のお祝いも一緒に行う関係で、「同名者」は特に親近感を覚えるようです。

 殿下のお名前に関しては、既に一本書いているので、更に掘り下げたい方はこちらからどうぞ。

↑ 殿下はみず・フェアリータイプ。特性はたぶんメロメロボディ。

 

 ちなみに、わたくしが蒙愛する作品『エヴゲーニー・オネーギン』では、ヒロインのタチヤーナの名の日の祝いについての精細な描写があります。原作では、第5章のタイトルが正に「名の日の祝い」ですし、オペラ及びバレエ版では、共に第2幕1場が該当します。関心があれば是非ともご確認ください。

↑ 最も入手し易い池田健太郎先生訳の原作です。

 

殿下の部屋

 殿下のお部屋についてです。今回は、春・秋に滞在されていたツァールスコエ・セローのズボフスキー棟のお部屋ではなく、冬に滞在されていたペテルブルクの冬宮のものについてです。

間取りなどは過去の記事に纏めていますので、こちらからどうぞ。

↑ 「列伝」シリーズの最終回です。

 

 島や街そのものが宮殿、というような、豪奢を極めたロシアの宮殿。しかし、その中で、殿下のお部屋は確かに、皇太子の部屋としては非常に質素なものでした。

 例えば、ロシアの木製家具の高級路線といえばマホガニー材ですが、殿下のキャビネットウォールナット材でした。

 また、王宮のベッドといえば、天蓋付きのキングベッドを思い浮かべますが、殿下のものは幅が椅子一脚分しかない、まともに寝返りすら打てなそうな狭いものでした。

 壁紙も模様はなく、一色で統一(書斎はベージュ、居間は緑、寝室は青)されています。調度品に関しても、中国の間で見られたような煌びやかな品はありません。

 

 推測にはなりますが、恐らく、父皇帝は、殿下を厳しく、陸軍士官のように育てたかったのだと思われます。後半に、皇帝は殿下よりも弟のアレクサンドル大公を愛していたのではないか、という話が出てきますが、それもこちらに起因します。

 弟アレクサンドル大公は、幼少期から身体が頑健で、純粋な力比べでは一歳半年上の殿下が相手でもほぼ負け知らず。それは、殿下が弱いというよりも、大公が強すぎるのです。

 大公は「素手で蹄鉄を曲げた」だとか、「列車の横転事故の際、車両の壁を一人で持ち上げた」というような、ギリシア神話ヘラクレスか、とツッコみたくなるようなエピソードが多々有り、化け物じみた怪力の持ち主として知られていました。父皇帝は、その点をかなり高く評価していたようです。

 一方の殿下は、軍事演習を全うし、スポーツも好むなど、文武両道ではありながらも、体力に関しては人並みでしたし、太りもせず筋肉質でもなく、同一の画家による家族の肖像画を拝見しても、群を抜いて一人色白で、こちらは白雪姫も斯くやという程。

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↑ イヴァン・アレクセーヴィチ・チューリンによる皇家の肖像画の一部。左から、父皇帝アレクサンドル2世、弟アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公、ニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子殿下、母皇后マリア・アレクサンドロヴナ。殿下、肌白すぎませんか?

そのような「女性的な」体質は、前述のように概ね評価が高かったのですが、「皇帝は男らしく在るべき」と考えていた皇帝にとっては不満だったようで、叱責することもままありました。宮廷は、その様を見て、皇帝の贔屓についての意見が生まれたのではないかと推測できます。

 尤も、勿論皇帝も長男の高い能力は正しく評価しており、「贔屓などなかった」と述べる公爵の意見も単なる色眼鏡ではありません。双方ともに真実の欠片は存し、それぞれ一側面にすぎないのでしょう。

 殿下が父からの評価を気にしていたことは公爵の描写した通りですし、ひいてはこのことが病を隠して無理をしてしまうことにも繋がります。

 

珈琲と紅茶

 「珈琲をご馳走します」と応じてくれた殿下。しかし、幼少期の記録や、前回の手紙では、殿下は朝紅茶を飲んでいます。いつから珈琲派に!?

 

 当時、珈琲は高級な飲み物でした。今回、折角なので軽くリサーチしてみたのですが、当時ロシア帝国に輸入されていた最高級の珈琲豆は、現在のイエメン(オスマン帝国)産で、1ポンド30ルーブル程度でした。ここから色々計算した結果、現代の日本の相場に直すと、原価で1杯1000円程度になります。原価率にもよりますが、お店で飲んだら一杯5000円近くするかもしれません。

 

 「ロシアンティー」などで名高いロシアでは、エカテリーナ2世の頃から喫茶の習慣が生まれました。この頃から、隣国中国(清)から茶葉を大量に輸入するようになります。皇帝政府が、アルコールや珈琲などよりも健康的で安価な紅茶を飲むよう促したのが始まりだと言われています。

 一方、前述のように、当時珈琲は高級品でした。時期にもよりますが、貴族でも相当な高給取りでないと、毎日飲むことはできなかったようです。そう思えば、「うちに珈琲を飲みに来ないか」って、結構な口説き文句足り得たのかもしれません。

 

 当時、珈琲を淹れるには専用の用具が必要で、紅茶よりも手間取りました。殿下が旅の間に紅茶を飲んでいたのは、サモワール(ロシアのお湯を沸かす道具)くらいしか手元になく、人数分の珈琲を用意することが難しかったからではないか、と推測されます。

 また、冬宮では珈琲がよく供されたようで、父アレクサンドル2世が冬宮で珈琲を飲んでいる絵があります。貴族の間では、「珈琲が日常的に飲める財力」を誇示するため、肖像画に珈琲を入れて描くことが流行したくらいなのですが、皇帝の場合は、日常を切り取っただけに過ぎないのでしょう。

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↑ 冬宮殿で珈琲を飲むアレクサンドル2世。

 従って、今回は紅茶ではなく珈琲だったのではないか、と推測されます。殿下がどちらがよりお好みだったのかは、今のところわかりませんね……。

 珈琲では身体が温まらないと申しますし、そもそもロシアで紅茶と共にジャムを供すのは、冬の間新鮮な野菜や果物が手に入りづらく必要な栄養素を得るため、という側面も強いため、何故よりによって冬に珈琲なのか、という疑問も個人的にはあるのですが……。

 

教育者たち

 殿下の教育係たちについて簡単にご紹介してゆきます。素性などについては、既に公爵が仰っているとおりです。

側近や教師については、過去に簡単な一覧を作っているので、適宜ご確認下さい。

 

 最初に教育を担当したのはニコライ・ヴァシリエヴィチ・ジノヴィエフ、グリゴーリー・フョードロヴィチ・ゴーゲルニコライ・ゲンナジエヴィチ・カズナコフの「三銃士」ならぬ「三将軍」です。

↑ 左からゴーゲル、ジノヴィエフ、カズナコフ。

 人格者ではあったようですが、後進的で教育者としての力量は今ひとつだったようで、それは公爵だけではなく同時代人も概ね同意見です。

 

 ヴェーラ・ニコラエヴナ・スクリピツィナは、由緒正しい名家スクリピツィン家の女性で、貴族女学校に勤めていました。幼少期の殿下の養育を担当しました。殿下を養育していたのは、彼女が45~48歳の頃です。

 

 ヤコヴ・カルロヴィチ・グロートは、ヘルシンキの大学教授でした。殿下には、歴史、地理、ドイツ語を教えていたようです。

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↑ お写真もなんですが、こちらを軽く不安にさせるほどのつぶらな瞳。

 人付き合い、特に若者の相手が苦手だったのは殿下も仰っているので、きっと正しいのでしょう。但し、深い尊敬に値する人物だったようで、皇帝も彼が亡くなった際には「彼を愛し、尊敬することに慣れていた」と書いています。

 

 ヴラジーミル・パーヴロヴィチ・ティトフは、文学にも明るい政治家です。在イスタンブールオスマン帝国)ロシア大使などを務めていました。

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 公爵からの評は散々ですが、高名な詩人チュッチェフも同意見だったようで、概ね見解は共通しているようです。

 

 コンスタンティン・ドミトリエヴィチ・カヴェーリンは、ティトフが招いた教師の一人です。公爵の言うとおり、非常に高名な法学者です。

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 カヴェーリンはロシア自由主義の始祖と言われ、前衛的な思想で知られていました。後に、ストロガノフ伯爵の元で殿下の法学教師となるボリス・ニコラエヴィチ・チチェーリンは、彼の後継とも言うべき存在です。個人的には、「チチェーリンはよくてカヴェーリンはダメなのか……」と思ってしまいますが、確かにキャリア前半期のカヴェーリンは皇室と関わってよいのか、というくらいに尖っていたので、致し方ないのかなとは思います。

 ちなみに、そんなチチェーリンは強火の同担だったりします。

↑ 「列伝」シリーズ第四回。忠誠心さえあれば感染症なんて何のその!

 

 殿下からも嫌われたという、ある意味レアなアヴグスト・テオドール・グリム氏。

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ドイツに滞在し、完全にドイツ被れとなってしまったようです。それにしても、ロシアの皇太子に対して、「ロシアのものは野蛮で役に立たない」と言うとは……。

 どうやらニコライ1世夫妻に恩義を感じていたらしく、上皇后アレクサンドラ・フョードロヴナ(殿下の祖母)が亡くなった際には追悼文を執筆し、職務を離れています。

 

ギムナジウム、リツェイ

 学校制度についてです。

ギムナジウム」はドイツの中学校のようなもので、ドイツ第二帝国皇帝となるヴィルヘルム2世(ニコライ2世の従兄弟)も通うなど、確かにドイツでは皇家も通学することがありました。

文学の世界では、ブロマンスの聖地(?)のような扱いで有名で、ヘルマン・ヘッセの作品を筆頭に、数々の名作文学があります。

↑ コロナ禍で一気読みした思い出。名作です。

 

 一方の「リツェイ」はロシアの中高一貫校のようなものです。語感で察される方もあるかとおもいますが、フランスの高校にあたる「リセ」のロシア版です。

リツェイは原則的にツァールスコエ・セローにある貴族の為の学習院である一校を指します。ちなみに、第一期生に前述の『オネーギン』を執筆した「ロシアの詩聖」ことアレクサンドル・プーシキンがおります。

 

 ティトフは、このようなギムナジウムやらリツェイのようなものに殿下たち兄弟を通わせたらどうか、と計画したわけですね。

ちなみに、情勢の悪化に伴いすぐに打ち切られてしまいましたが、殿下はペテルブルク大学の講義を聴講していたこともあります。フィクションですが、例えば殿下が亡くなった1865年が舞台となる『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフもペテルブルク大学の法学生だったりします。もしかして、作中では元同級生だったり。

 

 

コンスタンティン・ニコラエヴィチ大公

 若い頃にグリムに師事していたというコンスタンティン・ニコラエヴィチ大公は、殿下の叔父(父の弟)です。愛称はコースチャ、或いは「ココ叔父さん」かわいい

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 ポーランド総督や、海軍総督を務めていました。大変聡明な人物でしたが、支持率はかなり低迷していたといいます。

コンスタンティン大公も相当強火の同担で知られており、殿下の時間が空くと直ぐに劇場に連れ回し、日記を読む限りでは、妻や息子を差し置いて常に隣の席に座らせていたようです。そもそも殿下に「完成の極致」という二つ名を付けたのも彼だと言われています。一方、殿下の弟アレクサンドル大公とは大変な不仲であったことでも知られています。

 

 殿下は、無意識にも意識的にも周囲の人物を惹き付ける人物であったことはこれまで見てきた通りです。「ココ叔父さん」も聡明ではありながら、支持を得られなかったところを拝見するに、やはりカリスマ性と申しますか、人の心を掌握する術というものは、統治に不可欠なのかもしれませんね。

 

殿下の弟たち

 殿下の資料を読んでいると、殿下の弟といえば、未来のアレクサンドル3世、アレクサンドル大公! というイメージが付くかと思います。しかし、殿下の弟は彼だけではありません。簡単にご紹介してゆきます。

 

 そもそも殿下は「長男」ですが、「長子」ではありません。しっかり者の長男の印象が強い殿下ですが、実は幼少期には「弟」でもあったのです。殿下には、丁度一歳ほど年上の姉アレクサンドラ(愛称リナ)がいました。

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↑ めちゃめちゃ可愛い。

 しかし、6歳で急逝してしまいます。死因は髄膜炎で、これは殿下も同様です。父皇帝は、殿下が髄膜炎に罹患した疑いがあるという報を受けてすぐさまニース行きを決意するのですが、娘の記憶が蘇ったのかも知れません。

 当時5歳だった殿下が、どれほど姉の記憶を有していたかは不明ですが、家族の間では毎年命日は教会に行く習慣があったようです。大公女は7月に亡くなっているので、1863年は殿下はロシアの旅の最中でした。この日、殿下は体調が優れず、伏せってしまい、教会に行くことができませんでした。母皇后はそれを知って怒り、「もう姉のことは忘れたか、どうでもよいとおもっているのか」とかなり激しく糾弾。それに対し、殿下は行けなかった理由などには触れず、真摯に謝罪する手紙を書いていたのが個人的には印象的でした。

 

 殿下の代は男児が多く、現在ではフェミニズムの問題に触れそうですが、母マリア・アレクサンドロヴナ皇后は、帝位継承法により男性しか帝位を継げなくなっていた19世紀のロシア帝国の皇后として素晴らしい仕事をしたと言えます。

 殿下の次が次男アレクサンドル大公、三男ヴラジーミル大公、四男アレクセイ大公と続き、次女マリア大公女、五男セルゲイ大公、六男パーヴェル大公と、八人兄弟でした。一番下のパーヴェル大公と殿下はなんと17歳差です。

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↑ 幼少期の写真。左からアレクサンドル大公(次男)、アレクセイ大公(四男)、ヴラジーミル大公(三男)、ニコライ皇太子殿下(長男)。みんな面影ありますね。殿下、脚長。
 兄弟仲は大変良かったようで、殿下も幼い弟を肩車してあげたり(身長190近い人に肩車されるのちょっと怖くないですか?)、手紙ではよく勉強の進捗を尋ねては激励していたりと、面倒見の良い兄だったようです。

 それでもやはり、最も親しかったのはすぐ下のアレクサンドル大公であることに変わりはありません。

 

最後に

 通読ありがとうございました。なんと16000字超え。長文お付き合い頂き感謝申し上げます。お疲れ様です。

 

 先日、買ったまま積んでしまっていた『模索するロシア帝国』という19世紀末のロシア政治に関する書籍を読み始めました。そこで、我らがメシチェルスキー公爵についての記述を見つけたのですが、あまりの評価に思わず笑ってしまったので、引用させてください。

 アレクサンドルを支援したもう一つの重要なメディアが、アレクサンドルの近しい友人であるメシチェルスキーによって1872年から発行されていた雑誌『市民』である。メシチェルスキーは多くの言論人から敬遠されていた。彼の反動的なスタンスが嫌われていたというより、その性的志向もあり、いかがわしい人物として疎まれていたと言ったほうがよいであろう。それにも拘わらず、アレクサンドルは彼と交友を続け、特にカトコーフが死んだ1887年以降、メシチェルスキーはアレクサンドルに対して最も強い個人的影響力を持つ言論人となった。

                     『模索するロシア帝国』 竹中浩著.  p.42

↑ 良書です! 殿下についても一言だけ。

 「いかがわしい人物として疎まれていた」、声に出して読みたい日本語ですね。

真面目な話をすれば、当時は同性愛が禁止されていたので、同性愛者として知られていた公爵がこのような評価になってしまうのでしょうが、我々からすれば、「殿下のストーカーをして、日記に限界推し語りを書き溜めていたのがバレたのでは……??」と思ってしまいます。殿下が好きすぎてキモがられていた公爵、申し訳ないけれど面白いです。

ロシアでは未だ同性愛に対する偏見も根強いので、払拭されることを願いつつ。万人に生きやすい世界になるとよいですね。尚……。

 

 さて、次回予告ですが、1864年編に突入します。こちらもまた大変長くなります。また、殿下の体調が悪化し、話が重くなって参りますが、是非とも最後までお付き合いくださいませ。

 

 それでは、お開きと致します。次回でまたお会いしましょう!

↑ 続き書きました! こちらからどうぞ。