世界観警察

架空の世界を護るために

1843年9月20/8日の話

 こんばんは、茅野です。

大分遅くなってしまいましたが、今日は何の日でしょうか。

普段、記念日などには余り執着しない方なのですが、今日ばかりは一筆やっておきませんとね。

 

 そう、本日は我らが殿下ことロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下お誕生日グレゴリオ暦)、しかも生誕180周年記念ということでね! 一本企画記事です。

↑ 「殿下ってだれ?」という方はこちらから。関心を持った人間を全て虜にする怪物です。

↑ 殿下関連記事群。いつの間にか記事数が凄いことになっていて怖い。

 

 特にネタを用意しておらず、どうしようか迷ったのですが、折角のお誕生日なのですから、お誕生日の話をしようと決めました。先日、バレエ『眠りの森の美女』を観て、王家(皇家)の新生児への贈り物が気になったこともありまして。リラの精来てくれ頼む

 というわけで今回は、殿下が生まれ落ちた、1843年9月20日の物語です。

殿下自身は新生児で、流石の彼でも泣くことくらいしかできなかったと思いますので、主にこの日に何があって、どのように祝われたのか、ということを纏めていきます。ほぼ自分用資料。

ロシア帝国のスケールの大きさをお楽しみ下さい。

 

 それでは、お付き合いの程、宜しくお願い致します!

 

 

公式のマニフェスト

 まずは、殿下の出生に関しての、皇帝政府の発布したマニフェストを見てみましょう。

 モンテフィオーリ『ロマノフ朝史』のファクトチェック記事にも軽く書いていますが、当時は殿下の祖父・ニコライ1世統治下なので、彼の署名入りのマニフェストが出ています。

 

 この記事に辿り着いている方は皆様ご承知のことと思いますが、ロシア帝国では「ユリウス暦」という暦を使っています。これは、現在我々が用いている「グレゴリオ暦」とは、19世紀では12日ズレています

従って、殿下は本日20日がお誕生日なのですが、帝政ロシアの文献では「8日」と記されています。暦の表記法が違うだけで、同じ日です。ご了承下さい。

БОЖИЕЮ МИЛОСТЬЮ 
МЫ НИКОЛАЙ ПЕРВЫЙ, 
ИМПЕРАТОР и САМОДЕРЖЕЦ ВСЕРОССИЙСКИЙ
и прочая, и прочая, и прочая.
объявляем всем верным Нашим подданным: 

神の慈悲により
皇帝にして全ロシアの独裁者等々である
余、ニコライ1世は、
全ての忠実な我が臣民に告ぐ。

 В 8-й день сего Сентября любезная НАША невестка ЦЕСАРЕВНА и ВЕЛИКАЯ КНЯГИНЯ МАРИЯ АЛЕКСАНДРОВНА, супруга любезного НАШЕГО Сына Наследника ЦЕСАРЕВИЧА, разрешилась от бремени рождением НАМ внука, а ИХ ИМПЕРИТОСКИМ ВЫСОЧЕСТОВАМ Сына, нареченного НИКОЛАЕМ.

 この9月8日、余の愛する息子であり皇太子の妻である、我らが愛すべき皇太子妃マリヤ・アレクサンドロヴナ大公女が出産し、余に孫を、そして彼らに息子を授け、ニコライと名付けられた。

 Таковое ИМПЕРАТОРКОГО НАШЕГО Дома приращение приемлем МЫ новым ознаменованием благодати Всевышнего, на НАС и на НАШУ Империю изливаемой, и, возвещая о сем верным НАШИМ подданным, пребываем удостоверены, что все они вознесут с НАМИ к Богу усердные молитвы о благополучном возрасте и преуспеянии Новорожденного.

 我が皇家への新たな人員の増加は、余と余の帝国への神の新たなる恩恵であると受け止め、そして、この告知により、我が忠実な臣民が、余と共に、新生児の健やかな成長と幸福を神に熱心に祈ることを確信する。

 Повелеваем писать и именовать во всех делах, где приличествует, сего Любезного НАМ Внука, Новорожденного ВЕЛИКОГО КНЯЗЯ, ЕГО ИМПЕРАТОРСКИМ ВЫСОЧЕСТВОМ.

 適切な如何なる場に於いても、余の愛すべき孫であり、新たに生まれた大公を、「殿下」の敬称で記載し、称することを命じる。

 Дан в городе Варшаве в 8-й день Сентября в лето от Рождества Христова тысяча восемьсот сорок третье, Царствования же НАШЕГО в восемнадцатое.

我が治世の18年目、西暦千八百四三年夏、九月八日、ワルシャワにて。

На подлинном Собственною ЕГО ИМПЕРАТОРСКОГО ВЕЛИЧЕСТВА рукою подписано:Николай.

原本には陛下直筆の署名がある:
ニコライ

 称号や敬称が全部大文字になっていて大仰ですね、流石公式マニフェスト

 っていうか、「全ロシアの独裁者(САМОДЕРЖЕЦ ВСЕРОССИЙСКИЙ)」ってこれ自称しちゃうんですね……改めて価値観の違いを感じるというか、いやすんごいな……。

ゆくゆくは殿下もこの称号を自称する(はずだった)わけですよね。まあ殿下なら他の誰よりも上手く統治する(だろう)から、いいか(?)。

 「同姓同名の有名人がいるし、愛称で呼ぶのもなんだか恐れ多いな~……」と思い、弊ブログでは「殿下」と呼んでいましたが、このマニフェストを読むと、「殿下」呼びでよかったな、という気がしますね。陛下の命令に従っています。

 

 殿下が生まれて直ぐに、皇太子アレクサンドル(後の2世)の三人の弟(つまり殿下の叔父)、即ちコンスタンティン、ニコライ、ミハイル・ニコラエヴィチ大公の三人は、揺り籠の中の彼に対して忠誠を誓わされたといいます。

 この時の、ミハイル大公の日記には、以下のようにあります。

Сегодня у Саши родился сын Никса, очень миленький.
После молебна мы стреляли с нашей крепости из двух орудий 101 выстрел.

今日、サーシャのところに息子ニクサが生まれた。とても可愛らしい子だ。

祈りの後、私達の要塞から二つの大砲で101発撃ち鳴らした。

 格式高いマニフェストを出していますが、実際のお祖父ちゃんは超大喜びだったそうです。(ニコライ1世の統治は否定的に語られることが多く、実際擁護できない件も多々ありますが、家庭人としてはアレクサンドル2世よりもずっと良い夫であり父であり祖父ですね。まあ、それでも浮気や体罰がゼロだったわけではないので、やはりアレクサンドル3世しか勝たん)。

 弊ブログで「サーシャ」といえば殿下の弟のアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公(後のアレクサンドル3世)ですが、父もアレクサンドルなので「サーシャ」なんですよね。

ニコライさん達はニックス、ニクサ、ニジ、ニキ、ニコラなどと呼び分けているのに、どうしてアレクサンドルさんは全員サーシャで通してしまったんだ。誰のことなのかわからずに混乱することがよくあります。何でも良いから分けてくれ。

 

 ロシア帝国では、皇室から何か発表がある際は、大砲(空砲)を打ち鳴らして国民に知らせます。

殿下の婚約の時も撃っていますね。

ダルムシュタットでは、皇帝からサンクト・ペテルブルク総督に、次のような電報が送られた。「首都の住民に対し、101発の大砲で帝位継承者とデンマークの王女の婚約の成就を告げよ。余は、我が忠良な臣民が余の喜びを共有し、若い夫婦に神の祝福があることを確信するものである」。

ガデンコ『皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ』⑴ - 翻訳

 伝統的に、ロシアでは、奇数は縁起が良く、偶数は縁起が悪いとされています。現代でも、誰かロシア人に花束を贈る際には、お花の数が奇数なのか偶数なのかは、お花の種類よりも重要視されるので、気をつけて下さい。プロポーズで偶数の花束を持っていったら、高確率でフラれますからね。

 従って、奇数(101発など)が生誕、婚姻などの慶事、偶数(100発など)が訃報などの弔事を表します。恐らく、65年の4月12日は100発撃っているはずです。

 

 とはいえ、当時の軍事新聞『ルースキー・インヴァリード(ロシアの傷病者)』によると、以下のようにあります。

 Вчера в четверток, 9-го сентября, в десять часов утра, во всех церквах здешней столицы, при многочисленном стечении народа, принесено было благодарственное Господу Богу молебствие по случаю благополучного разрешения от бремени Ея Императорского Высочества Государыни Цесаревны Марии Александровны рождением Сына, нареченного Николаем.

 昨日の9月9日木曜日、午前10時、多くの民衆の立ち会いの下、首都の全ての教会で、皇太子妃マリヤ・アレクサンドロヴナ殿下の、ニコライと名付けられたご子息の無事なご出産に関して、神への感謝が捧げられた。

Сие радостнейшоссии событие, 8-го сентября утром, в день праздника Рождества Богородицы, возвещено было жителям столицы 301 пушечным выстрелом с Петро-Павловской крепости.

この喜ばしい出来事は、9月8日の朝、生神女誕生祭の日に、ペトロ・パヴロフスク要塞から301発の大砲によって告げられた。

Вечером весь город был иллюминирован.

夕方には、町の全てがライトアップされた。

 101発なのか301発なのかハッキリしてくれ~!

このように、一次史料扱いのものでも、記述が揺れている場合があるので、「史実とは何か」という問いは非常に難しいのですよね。

 

 地味にこの記述が有り難いのは(内容が正しいと仮定すると)、「9月8日の朝」とあるということは、殿下が産まれたのは深夜~朝であると時間を絞り込むことができる点ですよね。これを読むまで、わたくしも知りませんでした。

殿下は、産まれたのも亡くなったのも夜~朝なんですね。ちなみに、我らがお姫様の名前は「朝陽」という意味なのですが……とこじつけてみる

 

 また、9月8日(ユリウス暦)が生神女誕生祭の日であることもわかります。

生神女誕生祭」は、ロシア正教の祝日で、文字通り聖母マリアの誕生を祝うものです。

つまり、ロシア正教の信仰と暦では、聖母マリアと殿下はお誕生日が一緒なんですね!

(ちなみに、干支や星座でいうと、殿下は兎年乙女座になります。愛らしすぎる……と思うわたくしは寅年獅子座の猛獣統一)

 

 また、ここには記載がありませんが、殿下の生まれた9月8日(ユリウス暦)は、中世は1380年に行われた「クリコヴォの戦い」の日でもあります。

 クリコヴォの戦いは、ルーシ(ロシア)タタール(モンゴル)が交戦したもので、双方夥しい死者を出しつつも、モスクワ公国連合軍が勝利しています。

こちらは、ロシア史では一般的に、約200年にもわたるロシアに対するモンゴルの支配・通称「タタールの軛(くびき)」を脱し、ロシアが自立する第一歩となった戦いとして受容されていて、国民からも人気のある日です。

↑ 詳しくはこちらなどを。かなり話題になった、タタールの軛に関するブックレットです。

 実際、殿下の同時代人の中でも、スラヴ派(スラヴ民族の連帯を中核とする政治思想)の信奉者たちは、殿下のお誕生日とクリコヴォの戦いの日が同じ9月8日であることを何かの啓示のように感じ、「殿下がスラヴ諸民族を統一するんだ!」みたいな論考を書いていたりもしますね。

 殿下がスラヴ派から支持されることをどう感じていたのかはわかりませんが、彼は亡くなる直前のうわ言でさえもモンテネグロ人の救済を訴えているような聖人なので、スラヴ派の思想の是非はともかく、彼らが殿下に期待を懸ける気持ちも理解できます。

 

 殿下の洗礼は、10月10日に行われたようです。この時も大砲を301発撃っているとか。

臨席したのは、両親、祖父母、叔父・叔母に加えて、レイフテンベルクスキー公(義理の叔父)ヘッセンのアレクサンダー王子(殿下の母の兄、つまり母方の伯父)とのこと。

執り行ったのは、府主教アントーニー(ラファーリスキー)さんと思われます。

 

 洗礼時には、早速勲章を与えられていて、アンドレイ勲章アレクサンドル・ネフスキー勲章白鷲勲章聖アンナ第一等勲章聖スタニスラフ第一等勲章の5つを得ています。産まれただけで偉い!

 殿下って、勲章をジャラジャラ付けたお写真や肖像画が地味に全然無いんですが、聖スタニスラフ第一等勲章は幼い頃から付けていることも多いですね。

 この日は、夜に宮廷主催の晩餐会が開催されたとのことです。

 

 皇太子夫妻(殿下の両親)からは、殿下の生誕を記念して、首都の貧しい住民に 10,000 ルーブルが寄付されています。

(ちなみに、殿下が亡くなったときも恩赦や寄付が期待されましたが、父皇帝は「するわけないだろ!」と大変お怒りだったそうで)。

 

 殿下の生誕を記念して、幾つか詩が詠まれています。ここでは2篇紹介します。

 

 一つは、詩人ボリス・ミハイロヴィチ・フョードロフによって詠まれたもので、10月10日に雑誌『サンクト・ペテルブルク報知』に掲載されました。

題は『大公ニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下の生誕に寄せて』で、7スタンザの四行詩です。

На рождение Его Императорского Высочества Великого князя Николая Александровича 

 

Небеснаго круга Верховный Зиждитель 
Новым светилом Россию венчал; 
Господь Всесоздатель, Господь Совершитель, 
От века до века надежду Ей дал.

 

Над Русской землею звезда 
Николая Высоко и светло вселенной горит.
И что же? Восходит еще и другая, 
Ему соименная взорам блестит.

 

Привет тебе, новый земли посетитель, 
Наследника трона младой первенец, 
Святой благодати для нас возвеститель, 
Надежда отечества, радость сердец! 

 

Родился ты в день Пресвятые Рожденья, 
В день светлой победы над грозным врагом: 
Сияй же Россия как луч утешенья, 
Венчай же Россию еще торжеством!

 

В сей день вознеслася честь Русской державы, 
Бессмертен в веках им Димитрий Донской; 
И ты будь Отечеству вестником славы! 
Князь Русской земли, за Отечество стой! 

 

О, сын Александра! тебе мы желаем: 
Будь счастьем России в позднейшие дни! 
Зовися достойно Вторым Николаем 
И доблести предков в себе съедени! 

 

Возвысил твой жребий вселенной Создатель, 
И славой, и честью тебя Он облек; 
Пусть с ними сравнится твоя добродетель, 
И веком златым назовется твой век.

 

 もう一つは、А. П. というイニシャル署名のみで、匿名での投稿のものです。『ヴェドモスチ(報知)』紙に掲載された詩で、こちらも10月10日付けになっています。

Русская песня на 10 октября 1843 г.

 

To не зорюшка беззакатная
В небе заиграла,
To не по морю перекатная
Волна пробегала:
Взвеселила-то радость светлая
Соколины очи,
Понеслася ли весть приветная
К полудню с полуночи,
Как дождались мы дня отрадного,
Денька золотова,
Да послал нам Бог ненаглядного
Гостя дорогова,
Не заезжаго, гостя званаго
К себе принимаем,
Радостно встречаем.
Божья мира гость, рода славнаго,
Царственннаго рода!
Ты прими привет православнаго
Вернаго народа.
Сердцу русскому любо, сладостно
Царское веселье;
Уж как справим мы тихо радостно
Гостю новоселье.
Перед иконою помолившися,
Справим пир раздольный,
Да придем к Тебе, поклонившися
Русским хлебом-солью.
Ты прими хлеб-соль, Царский гость родной.
Правою рукою,
Улыбнись нам на привет простой
Свелою зарею.
Хитросложнаго, да цветистаго
Слова мы не знаем,
А от вернаго сердца, чистаго,
«Здравия желаем».
Богатырь ты будь, молодец-удалец,
Радости обнова,
Чтобы в дедушку ты крепчал, мужал,
Да в отца роднова.
Благодатию послан Божею
Ты семье державной,
Ясным солнышком и надеждою - 
Руси Православной.

 

 詩の翻訳は難しいですし、まだ彼は産まれたばかりで史上稀に見る化け物であることはバレていないので内容としては健康や治世の繁栄を祈る、言ってしまえば月並みなものなので、取り敢えず原文を置いておきます。

 ただ、前者の最後の « И веком златым назовется твой век. あなたの治世は黄金時代と呼ばれるだろう » とか、後者の « Ясным солнышком и надеждою 輝かしいお日様であり希望 » というフレーズに、既に期待の強さが伺えますね。

 

教会の建立

 ロシア帝国の皇太子クラスになると、生誕を記念して教会が建ちます。マジでスケールが違う。

 

 それがシベリアの都市クラスノヤルスクの「生神女誕生大聖堂」です。

↑ めちゃくちゃ美しい。

 建築設計はコンスタンティンアンドレーヴィチ・トーンという、当時のロシア帝国で教会や宮殿のデザインをしていた高名な人物が担当しました。

 

 1843年10月、クラスノヤルスクでは、労働者会議が開かれ、人口の増加に伴い、教会を増やした方がよいのではないか、という議論を行っていました。

その時丁度、殿下が生誕したというニュースが届き、歓喜に沸いた参加者たちは、「それでは大公殿下を記念した教会を建てよう!」という話で合意し、建設用に96,400ルーブルを寄付で集めます。

 

 最初は、殿下、そして彼の名の由来である守護聖人・聖ニコライから取って、「聖ニコライ大聖堂」とする予定でしたが、次第に、前述のように彼が生神女ロシア正教での「聖母」の意)マリアと同じ日に生まれたことが重視され、「生神女誕生大聖堂」という名に変わったそうです。

奇しくも、殿下の母の名前もマリヤですしね。殿下が「神の子」だと言われても信じられますが、実際の父は神とはほど遠いのが悲しいところだ……

 

 しかしですね、この教会の建設ではかなり紆余曲折あったようで……。

建設は6年後の1849年9月には大体終わっていたそうなのですが、同月29日、なんと丸天井が崩壊。壁にも亀裂が入り、完成間近にして半壊……。

ニースの大聖堂といい、どうしてロシアの教会建設はこんなにガバガバなんですかね!? 美しいけれども、こう、建築費用や労力が勿体ないという感覚はないのか……。

 

 建築を指揮したクラスノヤルスク市長イシドール・グリゴリエヴィチ・ショーゴレフは、なんと560,000ルーブルもの私財を投入し、修復を行います。これは、現代の日本円に換算すると、1億円弱に相当すると考えられます。

この寄付の功績により、彼は後に受勲することになります。

 

 最終的に、1861年の殿下のお誕生日に完成したようです。

殿下はシベリアには行ったことがないので、当然この教会を訪れたこともありませんが、この教会で奉られているイコンは、殿下が贈ったものなのだとか。彼のお誕生日が彫られた、生神女マリアの図柄のものだそうです。

 

 また、殿下の死後、彼の母マリヤ・アレクサンドロヴナ皇后は、この教会に寄付をし、そして彼の弟(四男)アレクセイ大公も訪れたそうです。

 

 それでは我々も是非とも聖地巡礼をしたい! ……ところですが!

こちらの教会、ソ連時代に破壊されています。それも爆破です。

↑ 見るも無惨な姿に……。

 ソヴィエト連邦は、無宗教イデオロギーの一つとしていたので、ロシア正教会は邪魔なものでした。多くの反対があったにも関わらず、1936年に爆破されます。

 歴史遺産の破壊は本当に辞めて欲しいですね……。戦争や自然災害は当然のことながら、最近のニュースだと、自称・環境保護団体の、実質的な環境破壊行動にも懸念があります。

最近読んだ本に、

確実に言えることだが、歴史について本気で考えない人間は、政治を真剣に受け止めることができない。

という一行があり、大変良い言葉だなと思いました。本気で歴史と政治を学びましょう。

 

 尚、10年前の2013年から、当時の場所からは少しだけズレるようですが、こちらの教会を再建しようという動きがあります。

 それだけ聞くと望ましいような気もしますが、新たな建築用地には豊かな自然があり、建築にあたってそれを破壊しなければならないこと、またこの土地が川沿いで、地盤が緩いことなどが地元住民から懸念されています。

色々と難しいですね。

 

 取り敢えず、こんなところでしょうか!

他にも、他国などからの祝電なども色々あるでしょうし、(日本から軽く調べた程度では出ないかも知れませんが)、出生に関してもリサーチを深めたいですね。

改めまして、殿下、お誕生日おめでとうございます。

 

最後に

 通読ありがとうございました! 1万字程。

ネタ集めがそこまで捗らず、今回はボリューム不足でどうしよう……と思っていたら、意外にも五桁乗っていました。感覚の麻痺!

 

 先日リサーチをしていたら、偶然、殿下の周囲をモデルにした同人小説を見つけました。ロシア語圏では三件目ですね!

ロシアの歴史オタクは文章が長い! 今回も大作で、読むのに一晩掛かりました。殿下のリサーチを夜に始めると貫徹が確定する罠。

 題材としては、殿下・エカテリーナ大公女・シェレメチェフ伯の三角関係、ダグマール姫との婚約、そしてアレクサンドル大公とメシチェルスカヤ公女の恋愛など、主に恋愛の要素を集めた物語です。やはり恋物語は人気が高いのか……。

 史料を元に、それをそのまま小説風に書き起こした、という感じで、フィクション要素はほぼ全くなく(一部史料が足りていなくて想像で補われているな、という点が極稀にある程度)、完全にノンフィクション文学になっています。ほーいいじゃないか、こういうのでいいんだよ、こういうので。

まあ、殿下周りの恋物語は、現実が小説を超えているので、逆にこれが史実であるという事実に驚かされてしまいますが……(ターコイズの指輪を巡る失恋の物語、童話の如く一目で相思相愛になった話、婚約者と弟に結婚を促した話など)。

 

 ノンフィクションの小説に書き起こされることで、改めて、周囲が全員殿下に惚れているという魔境の中で、彼を恋敵であると認識してしまったシェレメチェフ伯は大変だったんだろうな、と思いましたし、そのような環境だからこそ、殿下への好意はカモフラージュが容易だったんだろうな、とも思いました。

 史実では、殿下の先生チチェーリンは、弟子のことを「優れた君主の素質を全て備えた人物」と評しています。詩人のチュッチェフは、彼が亡くなった時に、「彼には、ロシアの帝冠よりも、天の栄冠が相応しかったということだろう」と書いています。

作中では、この辺りが意識されているのか、「彼のような人物が地獄に落ちるなんてことは有り得ないのだから、今は悲しみも苦しみもない天国にいることだろう。それでは何故彼の不在を悲しまなければならないのか?」「それは、結局のところ、我々は彼の幸福よりも、彼によって統治される理想のロシアを希求していたということに他ならず、その姿勢は真に彼を愛しているとは言えないのではないだろうか。」という旨の会話が出てきて、非常に興味深く読みました。

 殿下は産まれながらにして帝位を継ぐ運命にあり、その「帝位継承者」という役割を切り離して考えることは最早不可能です。このような階級制社会にあって、真の愛とは何か、という問いは、今だからこそ客観的に考えられる、重要なものでしょう。非常に良作です。

 題材が同じでも、書き手が違えば全く別のものになるので、最早万人がこの辺りが題材のノンフィクション文学に挑戦して欲しいまでありますね。挑戦をお待ちしております(?)。

 

 このところレビューラッシュが続いていましたが、漸く殿下関連記事を書けました。嬉しい!

とはいえ、週末にとあるリサイタルの席を取ったので、次の記事はまたレビューになるかな、と思います。

 殿下関連記事もまた書きたいですね。暫くは単発を書こうと思っていますが、「この点が気になる」のような疑問があれば気軽に投げて下さい。

 

 それでは、今回はここでお開きとします。殿下の生誕を祝して。