世界観警察

架空の世界を護るために

婚約を巡る書簡集 ⑺ - 翻訳

 おはようございます、茅野です。

東京の最高気温は37度を記録し、世の中には暗いニュースが溢れ、殊更惨憺たる世界と化しておりますが、皆様如何お過ごしでしょうか。身体にも精神にも気を配って生活したいところです。

 

 さて、今回は「婚約を巡る書簡集」の第7回ロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下と、デンマーク王女ダグマール姫の婚約に纏わる手紙を読んでいくシリーズです。

↑ 第1回はこちらからどうぞ!

 

 シリーズも佳境。第7回となる今回は、殿下の死を扱います。ここでも暗い話かよ! というところですが、避けては通れないので許して下さい。殿下の死は、物語としては美しいので、物悲しいオペラでも観るような気持ちで読んで頂ければと思います。

 婚約からたった半年で訪れた予期せぬ別れ。17歳の愛らしいお姫様は、早くも、苛酷な挑戦を受けることになります。

 

 今回ご紹介するのは四通です。

一通目は、婚約者の死の直後、姫が父クリスチャン9世に宛てて書いたお手紙。

二通目は、同時期に、彼女の母ルイーズ王妃が英国のヴィクトリア女王宛てて書いたお手紙。

三通目は、姫が殿下の母マリヤ・アレクサンドロヴナ皇后に宛てて書いたお手紙。

四通目は、ルイーズ王妃が皇后に宛てて書いたお手紙になります。

 

 哀しいお話ですが、お楽しみ頂ければ幸いですね。

それでは今回も、お付き合いの程、宜しくお願い致します。

 

 

殿下の死

 1865年4月22/10日、ニースに御用列車が到着します。搭乗していたのは、ロシア皇帝アレクサンドル2世、彼の息子であり殿下の弟であるヴラディーミル大公(三男)、アレクセイ大公(四男)。道中では、デンマークから、王妃ルイーズ、ダグマール姫、そしてフレゼリク王太子が加わりました。

 

 同日、殿下はベルモン荘というお屋敷の病床で休んでいました。その二日前(20/8日)に二度目の脳出血を起こしてしまった彼は、この日の日中は殆ど意識が戻らず、彼らが見舞いに来ても全く反応が無かったといいます。

 

 彼が患っていたのは「結核髄膜炎」という病でした。これは『椿姫』などで有名な肺結核よりも恐ろしい代物で、結核菌が冒す人体の領域で最も危険性が高いのが髄膜です。

 早期発見し、現代の最新医療を用いて治療しても生存率は7割程度、生き延びたとしても後遺症が残る可能性が非常に高く、現代でも予後の悪い病であることがわかります。化学療法が無かった殿下の時代には、文字通りの不治の病で、為す術もなく急速に死に至りました。

結核髄膜炎は、病の進行の過程で脳卒中を起こしやすく、事実殿下も2回脳出血を起こしています。

 この病はかなり珍しく、日本感染症学会によると、結核患者に占める割合は僅か0.3%程度であるといいます。稀なのに加え、初期症状が風邪に似ていることから、早期発見が難しく、病名が判明した頃には既に手遅れ、というケースも多いそうで、殿下の時も正にそのような経緯がありました。

 秘書官のオーム曰く、「大したことはない」と口を揃える医師たちに対し、ストロガノフ伯爵は近くで殿下を見ていて彼の病が重いものであると確信し、「彼のあの様子で絶対にそんなはずはない、もっと真面目に診察してくれ」と強く主張していたと言います。博学で知られる彼も医学は修めていなかったので、自分で判断を下すことはできず、歯痒い思いをしていたとか。師は正しかった……。

 

 殿下には特別持病はなかったものの、幼少期は身体が弱く、特に十代前半の頃はよく貧血を起こしていたといいます(しっかり栄養管理されている皇族でも貧血になるんだ……という感じですが)。

そして16-7歳頃、背骨を強打して怪我を負い、そこから脊椎結核に罹り、長いことそれを隠して生きてきました。母であるマリヤ・アレクサンドロヴナ皇后が肺結核だったので、もしかすると感染源はこの辺りなのかもしれません。愛が仇になっている……。

 治療せず放置したことから、結核菌が髄膜に転移してしまい、取り返しの付かない事態に発展してしまいました。

 当時の医学は酷い代物で、また主治医シェストフが無能だったことから発見が遅れに遅れ、更に殿下自身が生真面目で無理をしがちな性格だったことが合わさって、避けられ得ない悲劇が起こってしまったのでした。

 

 ニースに話を戻しましょう。

 夜になって、殿下の意識が戻り、上体を起こして家族と言葉を交わします。ダグマール姫にも別れを告げ、抱き合ったりキスしたりといちゃついていたようです。また、この時彼は、父に対し、姫について「彼女は本当に素敵でしょう?(Какая она милая?)」と言ったり、弟サーシャ大公を自身の後継と認め、大切にするように進言したりしています。

 しかし、このことは彼には既に荷が重かったようで、談話の途中で気を失ってしまい、それを見て姫は泣いてしまったとか。その場はお開きとなります。

 

 翌日の早朝(23/11日)、殿下の意識が戻ったので、再び家族が呼ばれます。尚、サーシャ大公を起こしに行った殿下の従兄ニコライ・マクシミリアノヴィチ(コーリャ)大公によると、殿下の意識が戻ったのは、「心拍数が減ったことにより脳圧が下がったから」なのだとか……。恐ろしい。深夜から早朝にかけては、衰弱が進み大分心拍数が下がってしまい、かなり危険な状態だったようです。

 

 昼頃、聖体拝領を受け、側近なども含め最後の挨拶を交わすと、再び意識を失い、殆ど昏睡状態に陥ってしまいます。この時、殿下に意識がなくともダグマール姫とサーシャ大公はずっと傍に居て、長いこと三人だけの時間があったようです。

 

 夜六時頃、家族は一度食事を摂る為に病室から離れ、戻ってくると、殿下は意識を朦朧とさせ、息を荒げ苦しんでいて、サーシャ大公曰く、「その後彼はもう僕(大公)のことを認識してくれなかった」とか。

 

 深夜、日付が変わり24/12日になった頃、呼吸が途切れがちになり、その後一時間も経たないうちに世を去ります。よく勘違いされていますが、命日は24/12日ではあるものの、日付が変わって間もない時刻に亡くなっています。

↑ 24/12日の朝撮影。亡くなって尚も美しい、畏れ入ります。

 

 息子が亡くなった直後、アレクサンドル2世は、姫の父であるデンマーク王クリスチャン9世に電報を打っています。

 深夜0時50分、私の愛するニクサは、神の意志により最後の息を引き取った。

マリーと若き婚約者の態度は立派であった。

 本当に「私の愛する」なのか? という疑問はさておき……。(ちなみに側近の記録では、皇帝は病床の息子に「許しを請うような」眼差しを向け、殿下はそれを「許すように」父を抱擁した、とガッツリ書かれています。殿下自身、父の理不尽な態度には一人涙を零すこともあったそうで、殿下の側近陣は、勿論直接大きな声では言えないものの、皇帝が殿下を救おうとせず、更に無理を強いて死に追いやったと非難しています。)

 「マリー」は殿下の母である皇后マリヤ・アレクサンドロヴナのことと推測できます。

 

 誠に遺憾なことに、殿下が最もこの世に影響を与えたのはその死なので、このように4月23/11 - 24/12日に関しては史料が豊富で、物凄く細かいことまでわかっています。

確かに、殿下の死は悲劇として非常に美しい物語なのですが、殿下自身がこれ以上無く興味深い人物なので、もっと殿下その人に関心を持って欲しいところでもあります。

 更に詳しく知りたい方は、以前連載していたガデンコの資料を読むシリーズの第2回・第3回をご参照下さい。

↑ 前半は彼の病と死に焦点を当てているので、非常に話が重いです。

 

 さて、それでは、実際のお手紙を見て参りましょう。

最初にご紹介するのは、ダグマール姫から彼女の父クリスチャン9世宛てのもの。

二通目は、姫の母である王妃ルイーズから、英国のヴィクトリア女王宛てのものです。どうぞ。

 

手紙 ⒃

1865年4月26日
ニース 

 

私の大好きなパパへ

 

 今手紙を書くことは本当に辛いのだけど、愛するパパを無視して、あなたの哀れなミニーが今どれほど不幸せで絶望しているかを少しも書かないなんて真似は私にはできません。そうよね、パパが書いたように、この最大の不幸は、世界中の誰にだって起こり得ることだよね。

 

 私はもう神に感謝することなんてできないけれど、でも、辿り着いた時には私の最愛の人がまだ生きていて、そしてその最期の瞬間にも私が傍に居るってことをわかってくれていたことに、私がどれほど深く神に感謝しているか、想像できないでしょう。

彼の傍に行って、彼と目が合った瞬間に湧き上がった感情は、絶対に、絶対に忘れることなんてできない、ええ、絶対に!

 

 可哀想な皇帝と皇后! ご両親だって辛いでしょうに、私にとても優しく接してくれました。

そして可哀想な彼の弟たち、特に最年長のサーシャは、彼のことを単なる兄弟としてだけではなく、唯一の、そして最高の親友として深く愛していたから、このことは彼にとって恐ろしい打撃となりました。その上、可哀想に、今やその最愛の兄の代わりを果たさなければならないなんて! 彼にとって、なんて悲惨で、困難なことでしょう!

 ああ、なんて悲しく辛い日々が私を待ち受けているんだろう。短くも幸福だった日々、そして数日間だけでとても愛着が湧いた、この愛すべき家族と離ればなれになってしまうなんて!!

 

 愛するパパ、あなたの優しくて感動的な手紙は私にとって大きな慰めです。ではパパは、あの急報は全く予想できなかったわけではなくて、この悲劇に備えていたのね(勿論私はそうではなかったけれど……)。 

 私がどれほどパパに会えることを待ち侘びているか、でもそれと同時に、こんな状態の私と再会して、あなたがどれほど落ち込むかを考えると怖くて!!

 

 フレディと一緒に行くことを許可してくれたことにも心の底から感謝します。このような時に、彼がずっと一緒にいて支えてくれたことが私にとってどれほど励みになったか、想像できないでしょう。

勿論、言うまでもないことだけれど、私のこの最大の不幸の中で、大好きなママがしてくれた全てのことに関しても感謝しています。ママが今私にしてくれているようなことは、私にはできそうもありません。

 

 でももうペンを執り続ける元気がないから終わりにします、さようなら、私の唯一のパパ。

もうすぐ会えるけれど、悲嘆に暮れている私が近くにいることによって、パパも酷く辛い思いをすると思う。だけど、私は愛するパパが既に他の沢山の悲しみを抱えていることを知っているから、できるだけ自分をコントロールするように努めるね。

 

 さようなら。心の中であなたを抱き締め、あなたの不幸なミニーであり続けます。

 

手紙 ⒄

(ルイーズ王妃からヴィクトリア女王宛て)

1865年5月4日
ニース

 

 あなたの共感は、私にとっても、未だこんなにも若いのにも関わらず、これほどまでに残酷な試練を受けた娘にとっても、大きな慰めとなりました。

彼女は、短くも幸福だった日々を、何があっても絶対に忘れないと言っています。

 そして、皇帝に手を引かれて娘が病床に行ったときの彼の表情を、私は生涯忘れないでしょう! 彼は最高に純粋な幸福を湛えていて、生死の境を彷徨いながらも、彼女が傍にいることを常に認識していました。彼は彼女に別れを告げ、キスして、そして息を引き取るまで彼女の手を堅く握っていました。

 四日四晩掛けて旅をした後、彼女は彼の病床から決して離れず、一昼夜中跪いていました。深夜一時頃、彼女が彼にキスした時に、彼は息を引き取り、若き命を散らしてしまいました!

 私は彼を深く愛していましたし、可哀想な若き花嫁の幸福の全てが喪われるのを見るのは、私にとって酷く辛いものでした。

 

 ミニーはダルムシュタットに数日滞在し、彼の両親と会う予定です。

愛すべき家族は、皆彼女に優しく、愛情を持って接してくれるので、この別れは彼女にとって二重の悲しみでした。

 

解説

 二通連続でお送りしました。連載の後半はいつも内容が重たい。

 

 「王子様のキスで眠りから目覚めるお姫様」の対極を行く、「お姫様のキスで眠りに就く王子様」という、全反転『白雪姫』(或いは『眠り姫』)です。これではダメですか、グリム兄弟並びにウォルト・ディズニー御大?

 

 姫が寝室に入って来たときの殿下の表情に関しては、その場に居合わせた人が文字通り全員言及しているので、相当印象的だったのだと思われます。見たいが?

ちなみに、サーシャ大公は「完全に満ち足りた様子(совершенно счастлив)」、女官チュッチェヴァは「直ぐに彼の顔は喜びで輝いた(Тотчас лицо его озарилось радостью)」と書いています。

 

 ところで、我々はコロナ禍で嫌と言う程学びましたが、殿下の患っていた結核飛沫感染します。

殿下の死因は肺結核ではなく肺結核ですが、解剖の結果、最終的には肺にも転移してしまっていたことがわかっているので、肺にも病巣があったものと思われます。

 飛沫感染といえば、咳やクシャミを思い浮かべますが、肺外結核の場合は体液が NG になります。

殿下は、末期になると薬が飲み込めずに泡を吹くようになるので、ロマンのない話ですが、無闇矢鱈と唇を重ねるのは感染症対策という意味では完全にアウトです。現代では医師からストップがかかると思います。

それでも(メンタル以外)ピンピンしているお姫は、正に健康優良児……。

 

 姫が手紙を出している4月26/14日は、殿下の遺体が納棺されてベルモン荘から教会に移された日ですね。

この教会で行われた葬儀を以て、姫は二度と殿下を見ることは叶わなくなります。葬儀の参加者の記録曰く、彼女は泣いていて、顔色は蒼白だったものの、取り乱したりすることはなく、自分の番が来ると、棺の中の婚約者の唇や手にキスして、永遠の別れを告げた、と書かれています。一方、サーシャ大公は、本人も書いていますが、大泣きして大変だったらしい

   とはいえ、婚約者が事切れた直後は、姫も彼の名前を叫んで、遺体にしがみついて離れなかったとか。湯灌の為に医師が無理に彼女を引き剥がそうとすると、彼女は気絶してしまったといいます。

 

 姫の手紙にも書かれているように、ニースにも訪れた彼女の兄フレディ王太子は、殿下の葬儀関係の殆ど全てに、デンマーク王室代表として参加することになります。王は国務で忙しく、姫は鬱状態になってしまった為です。

 殿下の遺体を載せた蒸気船アレクサンドル・ネフスキー号は、北海の航海中、濃霧の為に航路を外れ、デンマークの方へ向かってしまったと言います。これまたできすぎた話ですが、それは、あたかも殿下が自身の恋を実らせた土地に行きたがったかのようであった、と同時代人は皆書いています。死して尚ロマンしかないな……。

この時も、フレディ王子はデンマークに寄港した同汽船に乗り、追悼に参加したとのことです。

また、その後ペテルブルクへ赴き、埋葬にも立ち会っています。ちなみにこの時もサーシャ大公は公衆の目も気にせず大号泣して大変だったとか

 フレディ王太子からしたら、殿下は妹の恋人である以前に、同い年の友人であり、次期君主仲間なんですよね。同職の同い年の友人の突然の死、怖すぎませんか。彼らはまだ21歳ですし……。

フレディ王太子も、殿下の死に関して手紙などを認めているようなのですが、国王を務めたにも関わらずお姫以上に情報が出ないのがフレゼリク8世ですので、読めておりません。読みたい……。

 

 姫の父クリスチャン9世が、何を以て「殿下の死に備えていた」とするのか、という明確な理由は不明ですが、ニースの新聞を読んだり、ロシア皇家と文通をする中で、姫よりも先に殿下の死病に気が付いたのではないか、と考えられています。

前回を見ても明らかなように、姫が殿下の体調について無知すぎるところを見ると、2-3月の段階で、悲しいニュースは娘の目に入らないように配慮していたのかもしれませんね。

 

 二通目のお手紙の宛先が、あの英国ヴィクトリア女王というのも凄い話ですよね。

尚、殿下の訃報に際し、彼女は日記に「可哀想なダグマールにとって、なんて惨いことでしょう……。可哀想な両親と花嫁を、最も深く哀れむべきだ(How terrible for poor Dagmar... the poor parents and bride are most deeply to be pitied.)」と書いています。

面識がない殿下のことは、極稀に「ツァーリの息子」と言及されるのみですが(勿体ない)、ダグマール姫のことは可愛がっていたので、この悲劇にも関心があった模様です。

 

 姫が、殿下が亡くなった直後のお手紙で、サーシャ大公に言及していることは示唆的です。

サーシャ大公の方も、単なる政略結婚であって愛などないと決めつけていた二人を、実際に自分の目で見て、互いに深く愛し合っているということがわかった、という旨を書いています。尤も、「ニクサは僕と話している時よりも、ダグマールが来た時の方が嬉しそうだった」みたいな書き方をしているので、また嫉妬しているかもしれません

 正に殿下の死の床が二人の初対面になったわけで、こちらにも限りない物語性を感じます。殿下は23/11日、長い間右手に大公、左手に姫の手を握っていて、三人きりになる時間もあったようです。殿下は気を失っている時間も長かったので、二人で言葉を交わすこともあったでしょうか。

 殿下が亡くなった後、二人で散歩をしながら殿下のことを語ったりもしたそうで、これらは翌年の布石となっていきます。

 

 さて、次に、殿下が亡くなった4月から、翌年66年の間の手紙をご紹介します。

デンマーク語の姫の伝記には、この期間の手紙がかなり沢山載っていて、供給に平伏している次第です。デンマーク語の勉強を始めて本当に良かった……(※その恐るべき切っ掛け)。

 とはいえ、内容が重複するものも多いので(主に「殿下が亡くなって○日が経過、辛い」「誰それからのお悔やみが来ましたどうもありがとう」云々)、この中から二通をピックアップします。

 一通目は、姫が殿下の母マリヤ・アレクサンドロヴナ皇后に宛てて書いたもの。

二通目は、姫の母ルイーズ王妃が、同じく皇后に宛てて書いたものです。

それではどうぞ。

 

手紙 ⒅

1865年6月11日
ベルンストルフ

 

親愛なるお母様、

 

 素敵なお手紙をありがとうございました。数日前にサンクト・ペテルブルクとモスクワのご婦人たちにお返事を書いたのですが、どうやら行き違いになってしまったようです。

フィンランドからもお手紙を受け取っています。愛するニクサが理事長を務めていたヘルシンキ大学のエクマン教授から、4月24日を追悼する詩と演説を受け取りました。

私は深く感動し、また彼の要望もあって、大学に感謝の言葉を書き送りました。

 暖かな療養地での滞在によって、あなたの健康が快復しますように。

こちらは例年と比べても素晴らしい夏になりました。酷い暑さで、唯一逃れられるのは海水浴の時のみです。ここ数日、気温が20度を超す日が続いています。

 残念ながら、暑すぎて大好きな趣味である乗馬ができません。

ここ数週間、乗馬をするときに愛するニクサのことを考えなかったことは一度もありません。というのも、一緒に乗馬に出掛けて、ギャロップに移行した時に、彼は痛みを堪え苦しそうにしていて、その時初めて、私は彼が本当は速く走りたくないのだということに気が付いて、そのことがとても印象的だったからです。

 私の天使である彼を初めて見てから、もうすぐ一年が経とうとしています。

そして、今や全てが、全てが終わってしまいました……。

 

手紙 ⒆

1865年10月1日
ベルンストルフ

 

親愛なるマリア、

 

 ミニーが今日、自分で手紙を書けるようになるまで、私に手紙を書いて欲しいとお願いをしてきました。親愛なるマリア、娘が素敵なお手紙に感謝しています。

 

 これ以上長く続かないように願っていますが、娘は健康を損なっております。彼女は9日間も何も食べられなかったのですが、先程少し快復し、今日初めてバターを塗ったパンを食べ、ミルクを飲みました。

彼女は何も口にすることができず、高熱が出て、頭痛、胸痛、腹痛があったのです!

 私がとても心配したのは嘘ではありません。自分の子どもが苦しんでいるのを見ると不安になることは、あなたならよくわかってくださることでしょう。特にミニーの場合、2歳から風邪すら引いたことがない娘ですから、尚のことです。

 最初は、単なる風邪で、何事もなくすぐに治るだろうと思っていたのですが、今回は身体よりも、彼女の意志と精神の方が参ってしまっていたようです。

悲しい記念日は、彼女の熱を更に上げ、精神を昂ぶらせました。

彼女は、父と私にだけ傍にいて欲しいと言い、私達二人は彼女を安心させるためにできる限りのことをしました。

彼女がそうして欲しがっているということがわかっていたので、彼女が子どもの頃に熱を出した時のように、私は決して彼女を一人にはしませんでした。

今の彼女には、沢山の平和と静寂が必要不可欠なのです。

そして、神の助けを得て、すぐに快復して欲しいと願っています。

 

 あなたのお手紙は私達の涙を誘い、私達をとても喜ばせたあなたの無限の善意と愛について語り合いました。

そして私達は、あなたのお手紙から受け取ったものと同じ物をお返しできたらと思っています。

しかし、彼女の心の傷は深く、その傷は細心の注意を払って扱わなければとも考えています。

 彼女は私以外の誰とも彼について話そうとせず、他の人が彼に言及しようとすると、直ちに話を遮って、話題を変えてしまいます。

時のみが傷を癒やすことができるでしょう。

 

娘はあなたを深く愛していますし、私はあなたを抱き締めます。

ルイーズ

 

解説

 お疲れ様でした。デンマークからの二通でした。

 

 ロシア皇家のみならず、デンマークの姫の元にも、世界中からお悔やみの文書がどっさり届いたようです。

 勿論名誉職のような形ですが、殿下はヘルシンキ大学の理事長を務めており、このような冠婚葬祭の際は勿論、殿下は時折上層部と文通することもあったようです。

 殿下の幼少期の教育係ヤコヴ・カルロヴィチ・グロートは、元々ヘルシンキ大学の教授でもありました。従って、完全な名ばかり理事長、というわけでもなく、繋がりもあるようです。

 

19世紀の乗馬

 一通目のお手紙で最も興味深いのは、姫の前で殿下が体調不良を隠すことに失敗している、という点です。やはり9-10月にまでなると、隠しきるのは難しかったのか……。

 19世紀では、淑女が乗馬をするのははしたないことだと考えられていました。というのも、妊娠中に乗馬をすると流産しやすい為、不倫などをしていて、堕胎したい女性が行うものだ、という偏見が存在したからです。淑女と乗馬の話は『ミドルマーチ』や『アンナ・カレーニナ』にも示唆的に登場しますね。

 未婚の場合、単にお転婆で快活な娘と受け取られましたが、姫は結婚しロシアに来てからも乗馬を続けたので、このような偏見と憶測で良からぬことを書かれたりもしています。いつの時代も、フェイクニュースには困ったものです。

 

 水泳好きな殿下に対し、姫は乗馬が好きでした。彼女もスポーツ全般を愛好していて、中でも乗馬は最も好きな運動であったようです。

↑ 馬に乗るダグマール姫。白馬の王女様である。

 そんな彼女ですから、恋人を乗馬デートに連れ出したのも自然の成り行きでしょう。

殿下の方も、同時代人から「乗馬の名手」と書かれる腕前であり、更には騎手として競馬のレースに出る程ですから、乗馬はかなり得意であった模様です。ちなみに、父アレクサンドル2世は乗馬が下手だったらしい

 しかしながら、ご承知のように、この時彼は病に蝕まれていて、特に背骨に鋭い痛みを抱えていたので、この時の乗馬は彼にとって非常に苦しいものでした。

事実、この直前に訪れたベルリンでは、珍しく軍事演習を休みたいと申し入れている程です。尚、父に却下されて参加を強いられ、早朝から夕方まで、一日中馬上で過ごすことになってしまいます。体調不良での欠席を断固拒否するって、普通に虐待では?

 そうしてベルリンでも無理を重ねた殿下は、姫とのギャロップに着いていけず、痛みを隠しきることに失敗したようです。

ただ、この時は姫からの追求を免れているので、上手いこと言い訳したのでしょうね。

 

 それにしても、このエピソード、ロシア文学クラスタとしては、勿論『現代の英雄』を想起しますよね!

 主人公ペチョーリンが公爵令嬢メリーと乗馬で出掛けたとき、令嬢は途中で具合が悪くなり、馬上でバランスを崩してしまうのですが、ペチョーリンが彼女を支え、抱き寄せてキスする、という劇的なシーンです。一気にグッと恋が進展する、有名な場面ですね。

↑ ドラマ版での該当シーン。ドラマ版『英雄』はいいぞ。有名なシーンなので、挿絵等もよくこのシーンが選ばれています。

 我らがお姫様は、ペチョーリンのように人の体調不良に付け込むような行為はしないでしょうけれど、でもやはり19世紀に二人で乗馬に出掛け、片方が馬上で体調を崩し、……という展開だと、想起してしまいますね。

それにしても、殿下は相変わらずヒロイン枠だな……。

 

 と言いますか、気温20度で「暑すぎる」って、ちょっと、姫様、現代東京に異世界転生する気はありませんか? ほんとうの「猛暑」ってやつを教えて差し上げますよ。

ちなみに、それこそ、コペンハーゲンは現在の気温20度くらいなのだそうです。移住したい……。

 

「ニクサの願い」

 二通目のお手紙からは、1865年9-10月頃に姫が体調を崩してしまったことがわかります。

この丁度一年前、64年10月1日といえば、第2回で殿下が自身の母にプロポーズの成功を報告している手紙を出した日です。

↑ この第7回の後に読むと辛さ倍増。

 つまり、このお手紙での「悲しい記念日」とは、勿論、殿下との婚約記念日を指します。彼女は、一年前を思い出して辛くなってしまったのでしょう。可哀想に……。

 

 北国デンマークの生まれ育ちで、全然風邪を引いたことがない、というのも凄い話なのですが殿下にもその元気さを分けてあげて欲しい、そんな彼女はこの心痛を由来とする体調不良も乗り切ることに成功します。

 続く10月18日付けのルイーズ王妃の手紙には、彼女の体調が回復の兆しを見せた旨が綴られ、以下のような一文が挿入されています。

彼女は未だ愛する人の後を追う準備ができていませんでした。

聞いていますかエカテリーナ大公女!? これが正解ですよ!?

 

 余談ですが、シェレメチェフ伯によると、殿下は他に、従妹のエヴゲニヤ・マクシミリアノヴナ大公女からも恋されていたようです。三人ものお姫様から熱烈に恋されている殿下、流石モテる……。

↑ エヴゲニヤ大公女、愛称はウジェニー。幼少期は物凄い美少女で、某名画のモデルにもなっています。この件に関しては別記事で詳しく書けたらと思います。

 彼女は一時期、本気で殿下と結婚したいと考え、教会にも相談したところ、ロシア正教では従兄妹同士の結婚を禁じている為、モスクワ府司教にそれはもうこっぴどく拒絶されてしまい、泣く泣く諦めざるを得なかったそうな。正に童話のような殿下と姫の恋物語の裏には、恋破れた人達だっているわけですよね。

 そんなウジェニー大公女は結局、殿下の死に耐えきれず後追い自殺したエカテリーナ大公女の兄アレクサンドルと結婚するので、苗字が同じ「オリデンブルクスカヤ」になります。そんなことある?

 ちなみに、殿下の弟と結婚し、ロシアに越してきたダグマール姫は、このウジェニー大公女と親友になり、特別仲が良かったと言われています。ここにも同担の輪が……。エカテリーナ大公女も、この輪に加われれば良かったんですけどねえ。

 

 賢明にも、早逝した婚約者の後を追わなかったダグマール姫ですが、そこには彼女の意志だけではなく、婚約者の遺志も関係していたようです。

彼女は、翌年の1866年、自身の義理の母宛てに、以下のように書いています。

 私はただ、愛するニクサの願いを叶えてあげたい、そして神が彼に決して許さなかったことを、彼の大切な弟にするべきだという思いに突き動かされています。

 「ニクサの願い」とは、ダグマール姫がロシアの皇后になることでしょうか。或いは、死の際に、本当に自身の弟と結婚するように進言したのかもしれません。

いずれにせよ、この一文からは、ロシアの統治者となり、また彼の弟、即ちサーシャ大公と結婚したい、それをするまでは死ねない、という姫の決意が見て取れます。

 結局、彼女は自身の婚約者・夫・息子・孫よりも長生きすることになります。ロマノフ家の男は大層貧弱だとお考えになられているに相違あるまい小柄で愛らしいながら、身体・精神共に強靱なお姫様です。素晴らしい。

 

 殿下は、最早自身がこの世に留まれず、愛する人と結婚してロシアを救うことはできないと悟った後も、一言も不平を漏らすことなく、常に最善を模索し続けた点が、彼を単なる悲恋物語の哀れな主人公ではなく、比類無き傑人としていると思います。

彼の蒔いた種は、彼の死後も成長を止めず、芽吹き、花開き、この世界の歴史に消えない刻印を残すことでしょう。

 

最後に

 通読ありがとうございました。今回は短く終えられるかなと思っていたのに1万2000字超え。何故だ……。不思議です。

 

 先日、21世紀最大の供給クリエイターこと、殿下の研究者メレンティエフ先生が新作の論文を発表して下さいました。やった~!!

主題は「モスクワと殿下の関係性について」で、当時のロマノフ家では珍しく、殿下がモスクワに同情的であった旨が論証されています。殿下が異端枠なことにはもう全く驚きませんが……。特に父アレクサンドル2世はモスクワが嫌いであったらしい

 モスクワの貴族たちは、殿下がモスクワに同情的であることを知り、彼を特に愛し、期待を掛けるようになったと言います(いつもの!)。

そして彼らはなんと、殿下と姫の結婚式を是非ともモスクワで挙げて欲しいと誘致していたそうです。それは……是非とも観たかった……! というか、モスクワでもペテルブルクでも構わないから彼らの結婚式観たすぎませんか。頼むから挙げてくれ。

 そのようなこともあり、ペテルブルクのみならずモスクワでも、殿下の訃報が知らされたときの失望感は凄まじいものであったとか。ですよねー……。

 

 さて、当連載ですが、殿下の死を以て連載終了、としても良いのですが、今回はダグマール姫との恋物語を主軸とし、「婚約を巡る書簡集」と題していますから、もう少し話を続けなくてはなりません。

従って、次回第8回は、最終回エピローグです。殿下の弟アレクサンドル(サーシャ)大公と、ダグマール姫の婚約について扱います。

 

 それでは、今回はここでお開きと致します。最終回でお目に掛かりましょう!

↑ エピローグを書きました。こちらからどうぞ!