こんばんは、茅野です。
渋谷 Bunkamura にて、舞台『アンナ・カレーニナ』の上演が開始されました。来月に席を取りました! 楽しみ。
それに際して、原作を再履しているのですけれども、一度読んでいるはずなのに面白く、電車内で読んでいたら、二回も電車を乗り過ごしました。恐ろしきトルストイ……。
『アンナ・カレーニナ』は1870年代の物語なので、殿下関係でリサーチした知識がとても役立ちます。初読時よりも解像度が大幅に上がり、読むのが大変に楽しいです。ありがとう殿下。
さて、そんなわけで今回は、ロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下と、彼のガチ恋勢親友ヴラディーミル・ペトローヴィチ・メシチェルスキー公爵の往復書簡を読んでいくシリーズです。今回はなんと最終回、第九回で御座います。
↑ 第一回はこちらから。
今回は、殿下から公爵宛の書簡1通、電報を1通を続けてご紹介します。
両方フィレンツェからで、前者はロシア語、後者はフランス語で記されています。
最初のお手紙の方には、恐らく二枚目にあたるページが抜け落ちており、内容が欠落しています。その旨、本文中にも注を入れておきます。公爵よ、殿下からの手紙を無くさないでくれ。
それでは、最後までお付き合いの程宜しくお願い致します!
手紙 ⒀
64年12月17/29日
手紙を書き終えるや否や、あなたの12月5/17日付けの手紙を受け取りました。心から感謝します、親愛なる公爵。
奇妙なことに、今夜はあなたのことを考え、あなたの最後の手紙のことを思い出し、様々な思いを胸にそれを読み返して、あなた宛てに支離滅裂な書信を書きました。
まるでそんな私の思いに応えるかのように、あなたからの手紙が届いたのです。
危うく口走りそうになりましたよ、「噂をすれば陰」とね。
嗚呼! お手紙には、あなたの気分がばら色ではないことが認められていますが、それは私が悪いのでしょうか!
わかっています、身体が痛むときは、意識が遠のくことも多くて、……(以下一部欠落)。
(恐らく三枚目の冒頭から)
いつか本当に仕合わせになれるでしょうか!
私の不屈の精神を見くびらないでください、真面目に療養していますから。ニースへ行く際は、ネラトンも招待します。
今の私が懐疑論者や禁欲主義者に見えますか?
医師の腕に身を委ねぬまま、私は独りで充分苦難に耐えました。
ここでは、シェストフや、フィレンツェの有名な医師ブルチらの助けを借りて療養しています。
また薬品の臭いがしてきました!
弟たち、ニコライ・マクシミリアノヴィチや友人、知人は何をして過ごしていますか?
サーシャはまだイタリアの公女様にご執心ですか、それとも既に新たな崇拝の対象を見つけたのでしょうか。
我らが若きヘラクレスは酷く惚れっぽいので、心配しています。
そのことには良い効果もありますが、勿論、それでも危険がないわけではありませんからね。
それでは、詩人の若き娘があなたの胸を打ったわけですね!
一言助言を。理性によって己の感性を押しつぶさないこと、心を読み、傾聴すること!
これでお別れです、もう一度あなたのお手紙に感謝を。
弟たち、ニコライ・マクシミリアノヴィチ(彼は私の手紙を受け取っただろうか?)、コンスタンティン・グリゴリエヴィチの想い出に感謝し、ボリス・アレクセーヴィチ・ペロフスキー、ボーク、ニコライ・パーヴロヴィチ・リトヴィーノフにも頭を下げます。
祖国へ、心からの挨拶を!
手紙 ⒁
ヴラディーミル・メシチェルスキー公爵
ペテルブルク
大モルスコイ
カラムジン家
お手紙をありがとう。
お元気で
ニコラ。
解説
お疲れ様で御座いました! 2通連続でお楽しみ頂きました。
今回は早速解説の方に移って参りたいと思います。
原本のコピー
電報の方をご紹介します。フランス語です!
↑ 読める読めないどころの騒ぎではなくて、マジか? ってくらい綺麗なんですが……。
字が……美しすぎる! 殿下のフランス語、ほんとうにカリグラフィのお手本だとしか思えない。小児向けのアルファベット練習ドリルの下書きにして欲しい。
フランス語なので、音写も「ニコラ」にしてあります。一字欠落するだけで大分印象変わりますよね。英語での解説では「ニコラス」と呼ばれているの、未だに馴れません。
手紙 ⒀ について
お手紙の方から考えて参ります。
病床が相当退屈であったのか、なんと殿下の方から、公爵宛てに四連続でお手紙を出していることがわかります。なんて恵まれているんだ公爵閣下。
前回、第八回のお手紙(手紙 ⑿ )を書いた後、公爵からの返事を待たずに手紙をもう一通書き(散逸しているため今連載では扱っていません)、更にそれを書き終えた途端に公爵からの返信が届いたのでそれを確認した後、この手紙 ⒀ を書いています。
つまり、手紙 ⑿ を書いた翌日にもう一通を、そのまま今回の手紙 ⒀ を書き、そして更にその翌日に手紙 ⒁ を書いているのです。毎日書いてる……。
手紙 ⒀ は、2ページ目が欠落しています。もしかすると、二枚以上欠落している可能性もあります。
「身体が痛んで意識を失うことが増えてきた」なんていう恐ろしい文章の途中から途切れています。もしかしたら永遠に確認する術はないのかもしれませんが(見つかって欲しい)、その先にはどんな恐ろしいことが綴られていたのやら……。
三枚目(推定)の内容から考えても、この二ページ目には、再び己の病状について綴られているものと推測できます。
また、前回のお手紙を読んだ方なら公爵に限らずそのような返信をするものと思われますが、公爵からのお手紙は、返答の内容から鑑みても、殿下の体調を心配する内容であったと考えられます。恋い慕っている相手が激しい発作を起こして倒れたと言っているのに平然としているとしたら、寧ろ気が違ったと思うでしょう。
従って、「公爵の気分がばら色ではない」のは、殿下のせいというか、原因であるのは間違いない一方、本人は何も悪くないしな……というところが答えでしょう。
史実の結末を知ってしまっている分、「いつか本当に仕合わせになれるでしょうか」という一文に、大幅に精神を削られました……。そんなこと言わないでくれ…………。
医師への不信
殿下は、「医師に頼らず独りで苦しんできた」と綴っています。文字通り死ぬほどの大病に冒されながら、それを医師にさえも隠し続けるというのは、何度考えても常軌を逸した精神力です。自ら「不屈の精神」を名乗るだけのことはある。夢特性: ふくつのこころ。
殿下が「体調不良を意識的に隠している」ということを自白している、非常に珍しい記述です。言質取れましたね。
無理しないで欲しいのですが、彼自身、既に己の病状には手の施しようがないことを悟っていたものとみえます。
スケフェニンフェンに於いても、「医師に率直に打ち明けたところで真面目に取り合っては貰えないだろう」という旨を発言しています。
↑ 最早死別系悲恋ものの恋愛小説にしか見えないスケフェニンフェン編。映画化しろ。
前回でも簡単に確認したように、殿下に施された「治療」というのは、想像を絶する酷いものです。
公爵が散々罵倒しているように、主治医のシェストフは特に殿下の病状を軽視し、寧ろ彼に苦痛を与えています。
一方、手紙でも名前が出て来るフィレンツェの医師ブルチは、殿下の存命中に唯一、彼が患っていた病は脊椎結核であると見抜いた医師です。
死の前日になり、オポルツァー医師が結核性髄膜炎と正しい診断を下しますが、脊椎結核の方を見抜いたのはブルチ医師だけでした。
しかし、病名がわかっても、対処はいい加減であり、何の効果もないどころか、寧ろ苦痛を増やすだけに終わります(詳しくはこちらの記事を参照下さい)。おお、19世紀…………。
殿下は飄々と書いていますが、彼の秘書官オームによれば、フィレンツェでの無益な "治療" は酷い痛みを伴うもので、殿下は処置を施される間、頻繁に泣いていたといいます。
その涙にも関わらず、そして明らかに痛がっていることを指摘しても、医師達は何も辞めようとはしなかったとか。オームは『回想録』に、「あの著しい痛みを伴う "治療" は彼の命を縮めたため、彼をより早く肉体の苦痛から救うことにはなっただろう。」と皮肉っぽく書いています。
詩人の若き娘
今回、面白いことに、殿下が公爵に対し、恋愛と思しきものに対するアドバイスをしています。殿下の方が4-5歳年下なんですけどね(年的には4つ違いだが、公爵は1月生まれ、殿下は9月生まれのため)。
ゾーラブ先生によると、ここでいう「詩人の若き娘」は特定しきれないそうですが、最も可能性が高いのは、詩人ジュコーフスキーの娘、アレクサンドラ・ヴァシリエヴナ・ジュコーフスカヤではないか、とのことです。
↑ 殿下の一歳年上で、1842年生まれ。
殿下の母である、マリヤ・アレクサンドロヴナ皇后の女官で、アレクサンドル大公の恋人であるメシチェルスカヤ公女の同僚でした。
後に彼女は、殿下の弟(アレクサンドル2世の四男)である、アレクセイ大公とのロマンスを経験することになります。父皇帝に叱責されたため(陛下よ、それは特大ブーメランなのでは……?)、貴賤結婚は叶いませんでしたが、隠し子がいたとか……。
公爵が殿下に対し、どのような書き方をしたのかはわかりませんが、恐らく詩の題材に選ぶくらいのことで、厳密には恋愛感情は抱いていないものと推測できます。
と申しますのも、ここでも誰を指しているのか特定できないくらい公爵には女性関係がありませんし、元も子もないことを言えば、彼はバイセクシュアルではなくゲイであって、第一回から明白なように、当時(色々な意味で)最も愛していたのは、正に殿下であるからです。ちなみに、彼が男性を好むのは男子校時代の名残であり、「性欲を満たすため」というかなり最悪な理由であったために、周囲から獣扱いされていたようですが。
寝室への不法侵入者も複数人いますし、度々わたしは殿下の貞操が割と真面目に心配になるのですが……、姫、どうしましょう!?
尚、殿下の「助言」は、当連載の第六回にて、公爵が殿下に宛てた助言と殆ど内容が同じですよね。
↑ 珍しく年上の頼れる友人枠に収まろうとしている公爵を観測できます。
ブーメラン的にお返し、というわけですね。ここでも殿下のアイロニーが炸裂しています。
祖国へ
このお手紙の結びでは、祖国に対する一言で締められています。
フィレンツェ滞在からニース滞在の間、弟アレクサンドル大公や、彼の側近リトヴィーノフ中尉、そしてこのメシチェルスキー公爵などへ宛てた手紙の中で、「祖国、故郷(Родина)」という単語が多用されるようになってきます。
これはまたいつか別の企画でご紹介できたらいいなと思っていますが、恐らく殿下が人生の最期に書いた文章は弟アレクサンドル大公に対する手紙だと思われます。
こちらは1865年の3月末(グレゴリオ暦では4月始め)に書かれたもので、最後の二文は「家にいられないことが何故だか僕には恐ろしいんだ。ああ、祖国!……(Мне страшно как-то не быть дома. Ах, родина!..)」となっており、正に最期に書いた単語であることがわかります。皇太子の鑑がすぎる。
手紙自体が短く、筆跡が酷く乱れており、もしかしたら書きかけでさえあったかもしれません。
アレクサンドル大公は、それに対し、「今の君の状態では北に行くだなんて無茶だ(но так как это в твоём теперешнем положении невозможно и думать ехать на север,)」と書き送っていますが、その手紙に返答が来ることはもうありませんでした。
祖国を深く愛した彼は、最期に祖国を一目でも見たかったのだろうし、そこで死にたいと思っていたのでしょう。
ペテルブルクの公爵の家
哀しい話を書いてしまったので、気分を変えましょう。
手紙 ⒁ こと、後者の電報の方には公爵の家の住所が記載されています。というわけで、159年越しの特定をしてみました。流石に良いですよね?
Google Map 御大に場所を入力してみた結果、ここになりました。どうぞ。
↑ 一等地すぎる!
殿下が冬の間住まっていたのが「エルミタージュ美術館」とあるところ(冬宮)です。また、亡くなった殿下の遺体が埋葬されているのが、川の向こうの「ペトロパヴロフスク要塞」になります。
ペテルブルクの中心も中心に住んでいたわけですね。冬の間は、殿下の元にも通いやすかったことでしょう。
メシチェルスキー公爵という人物
さて、今回でこの連載も最終回です。
今まで、『回想録』シリーズに当「往復書簡」シリーズと、ヴラディーミル・ペトローヴィチ・メシチェルスキー公爵に纏わる連載を二企画やって参りました。「列伝」シリーズにも登場しているので、破格の扱いと言っても過言ではないでしょう。
そこで、改めてこの人物について振り返っておきたいと思うのです。
わたくしの記事だけを追いかけて下さっている方は、彼のことを、ちょっとキモいけど熱心で好ましい人物、くらいに捉えておられる方もいらっしゃるかもしれません。
実は、ロシア史では、彼は「いかがわしい人物」として知られていて、果ては「ラスプーチンの先駆け」とさえ呼ばれることもあります。
と申しますのも、彼は「唯一、官職に就いていないのにも関わらず、皇家と著しく親しい人物」であったからです。
公爵は、当時では禁じられていた同性愛者であり、更には男性の買春をしていたり(所謂「枕営業」というやつで、寝た男は絶対に出世させると請け負っていたらしいです)、主に性的な関係が思わしくなかった為に、社交界から疎まれていました。
更に、前述のように、単なる一介の政治評論家、新聞編集者でしかないくせに、絶対的な権力を持つ皇家、更に言えば年若く、周りからの影響を受けやすい大公達に接近したことで、政界からも憎まれていました。
殿下の教師の一人であり、後の宗務院総裁となるポベドノスツェフは、公爵について、「汚らわしい男だ。何をしても信用ができない。」と吐き捨てています。また、弟のアレクサンドル大公と結婚し、ロシアにやってきたダグマール姫も、公爵は何か彼女の気に触ることを言ったらしく、早々に夫に対し「あの男に宮殿の敷居を跨がせないで!」と訴えています(そのせいで、公爵は大公に会う時は、宮殿の裏口から侵入していたとか……)。
フィルソフやクロポトキンらも書いているように、我らがニコライ殿下は社交的で友好的な人物であり、非公式の場では「尊敬すべき殿下」などと仰々しく呼ばれることを嫌い、単に「ニコライ・アレクサンドロヴィチ」と呼ばれることを好みました。
一方、弟のアレクサンドル大公は社交嫌いで知られ、人付き合いを好みませんでした。
従って、側近や教師以外に、彼を「アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ」と敬称抜きで呼ぶことができたのは、正にこのメシチェルスキー公爵だけであった、というのです。
周囲は、そんな公爵を怪訝な目で見、皇家とよからぬ付き合いがあると噂し、嫉妬さえしていたといいます。
当時から、そして後世になってロシア史に関心を持つ人々の間でも、「何故そんなメシチェルスキー公爵が皇家と親しくあれたのか?」ということは大きな疑問でした。
正しくこのことを論題とした論文を、ロシア史・ロシア文学研究者であるゾーラブ先生やチェルニコワ先生も書いています。
彼女らの論文では、「アレクサンドル大公がメシチェルスキー公爵と親しくなったのは、兄のニコライ大公と彼が親しかったから、その一点に尽きる」と断言されています。
公爵によれば、それがどれだけ本心なのかは知りませんが、最初に殿下に近付いた理由は、「彼が寂しそうに見えたから」なのだそうです。
彼が「"大宮殿の監獄" の中で、学友もなく独りで学び育ち、家族と会う時間もごく短く、周囲にいるのはずっと年配の教師と側近ばかりで、彼には心を休める時間がまるでなかった」ことが気に掛かり、「彼が気を許せる友だちに、もし自分がなれたなら」と考えたといいます。
そして、「独りで自習をしている時の寂しそうな横顔」を見た公爵は、宮殿に乗り込む決意を固めるのです。
殿下は、最初そんな公爵を警戒し、「私との友情を築くのは容易ではありませんよ。あなたはまだ私が如何に他人を信頼しない疑り深い男であるか、ご存じないでしょう。」と厳しい言葉を投げ掛けたといいます。
今回の往復書簡でも、殿下は「全てを棄てて自分の元から去れ」と警告していたりだとか、他にもアレクサンドル大公の側近が、普段はごく慇懃な殿下が公爵に面と向かって罵倒している場面に遭遇して度肝を抜かれただとか、波乱ある関係性であることが伺えるエピソードが散見されます。
それでも、今回の連載からもわかるように、メシチェルスキー公爵は殿下の最も親しい友人の一人になり、それは彼の死後、弟に引き継がれてゆきます。
公爵は、最終的に、正に彼が望んだように、殿下の心を開かせ、(ある程度)気を許すことができる友人の座を得ることに成功したわけです。
では、殿下は何故そんな胡散臭い人物であるメシチェルスキー公爵に心を許したのでしょうか。その答えは、正にこの連載にあったと思います。
つまり、何だかんだと言って、公爵は殿下のことを深く愛していたのであり、彼のことを理解しようと努め、彼の助けになろうと努めたことがその理由でしょう。
殿下の人生はいつでもオペラ的ですが、つまり、こそばゆい言い方にはなるものの、「愛」が鍵になったということではないでしょうか。『トゥーランドット』か?
頭脳明晰がすぎて、最早未来が視えているのではと訝るまである殿下のことですし、どこまでが計算の内なのかわかりませんが、彼の没後、メシチェルスキー公爵は、新たに皇太子となったアレクサンドル大公の良きメンターになったといいます。
役者不足ではありましょうが、公爵が、殿下の謂わば「代役」を務めたことは、公爵もアレクサンドル大公も双方認めていることであり、殿下の没後の数年間は、二人の関係性は最も良好でした。後に疎遠になってから、二人してこの時代を懐かしんでいます。
従って、殿下は、弟に対し、ある程度自分の代わりを務めることができる、頼りになる年上の友人を遺したことになるわけです。
尚、公爵の殿下への愛は、これまでも見てきたように、現代からでも鮮明に確認することができます。
これまで、『回想録』、そして往復書簡を確認してきましたが、他にも、当時の日記や、果ては殿下の伝記まで書いています。公爵による殿下の言及だけを集めたとしても、ごく分厚い書籍を編纂することができるでしょう。
殿下の伝記は、1865年末に完成させており、遺族となった父や弟に捧げられています。
殿下の従兄であるニコライ・マクシミリアノヴィチ大公には、「幾ら優秀でも、何の功績も残さず早逝した人物について、主観的にならずに書けるものか」と懸念を表明されたとか。余りにも正論過ぎる。
それでも公爵は批判にも負けずに書き上げました。
殿下の伝記は、彼の研究者であるメレンティエフ先生によると、没とした草稿だけでも120ページを越えるそうで、公爵の恐ろしいまでの熱意を感じます。
今のところインターネット上では読むことができないので、拝読が叶ったらご紹介したいと思います。いやしかし、読むのが楽しみなような、怖いような……。
「完成の極致」の二つ名を戴く殿下はともかくとして、人間というのは「いい人 / 悪い人」では二分できないものです。
メシチェルスキー公爵は、複雑で屈折した人物であり、多面的な顔を持ちます。興味深い人物として、これからもロシア史を彩っていくことでしょう。
最後に
通読ありがとうございました! 8500字強です。
いやー、終わってしまいました。寂しいですね。
しかしもう暫くの間公爵とはお別れしたいところでもあります。キャラが立っていて、めちゃくちゃ面白い人物だとは思っているのですが、ちょっとカロリーが高い。胃もたれしますほんとに。
感想等頂けたら喜びますので、気軽にコメント、DM、マシュマロ等お投げ下さい。お楽しみ頂けていたら幸いですね。
次の連載は何をやろうかな、と思案していますが、単発の他に、ダグマール姫との恋愛に関して少し書きたいなと思っています。折角デンマーク語を始めて、デンマーク語の資料も色々入手しましたのでね。
わたくしは無償のリクエストは受け付けていないのですが、どうやらやはり、才色兼備の王子様とお姫様の恋物語については需要も高いようですし。
但し、政治的な内容であれば学術的に検討できるからよいものの、全くの恋愛話となると、故人のプライベートを無闇に暴き立てるようで、好ましくないと感じています。
そもそも日記や手紙を読むこと自体に罪悪感があったくらいなのですが、わたくしのそんな主義主張を吹き飛ばす程に殿下という人物は魅力的で、ほとほと困っております。
王朝結婚兼恋愛結婚となると、政治とプライベートの線引きが非常に難しいので、どのように折り合いを付けるか思案しているところです。どなたか名案を……。
書きたい単発も溜まっているので、色々書いていけたらと思います。気長にお待ち下さい。
それでは、ここでお開きにしたいと思います! 長々とお付き合いをありがとうございました! また別の記事でお目に掛かれれることを心より願っております。