こんばんは、茅野です。
先日の記事にも書いたのですけれども、なんでも、我らが殿下がモデルの小説が文学賞を受賞したとかで……。そんなことある?(最早口癖)。
しかし、拝読させて頂いたら、結構わたくしが書いた文章がそのまま流用されていて、思うところは無きにしも非ず。こんな無防備な、しかも一私人のしがないブログですけれども、著作権法第二条並びに第四八条に接触する場合は、こちらとしても不愉快ながらも、「お声掛け」差し上げざるを得ないので、事前に連絡! そして出典は正確に明記!! ですよ!!(本来は「著者名. “ Web ページのタイトル”. Web サイトの名称. 更新日付. URL, アクセス日」が正しい記載法)。
誤訳まみれだろうし、需要のないものであろうと思って、インターネットの海にそのまま放流しておりますけれども、それは不肖わたくしの誠意と、そして皆様の誠意によって成り立っている行為でありますので、ご協力を宜しくお願い致します。
敷居を高めるためにこんなのでも有料にするかとか、色々対策を考えなければならなくなってしまうので……。あ、記事の最後に投げ銭箱(codoc)は置いているので、もし気が向きましたら資料代を奢って下さい、宜しくお願いします(?)。いつもご支援下さる方には最大の感謝を……。
今回に関しては、作者さんに連絡を頂き、お話させて貰って、対応に関しても当事者間で合意をしたので、もう何か特別申し上げるつもりはないんですけれども、今後また自分の与り知らぬところで何かが起きていたら怖いのでね。一応注意喚起をば。
商業利用や批判目的など、何か特別の事情がない限りは、原則快いお返事をする用意がありますから、正当な手順を踏んで頂ければ、無碍にはしませんので……。
わたくしは結構蛮勇な人間なので、普段は自分の著作に関する言及を見つければ自分から突撃するんですけれども、直談判をすると、最終的に意外と相手方と仲良くなれること多いんですよね。不思議。コミュニケーション大事。
まあ、きっと相手方もわたくしの文章に何か美点を見つけて下さったが故の行動なのだろうし、こちらとしても、自分の文章に関心を持って頂けるのは心底嬉しいですからね。
いやしかし、フィクションの世界でも殿下は強いかぁ……。それがシンプルに嬉しくてですね。現代日本にわたくし以外にも殿下を愛してくれる方がいるという事実も喜ばしい。
日本語で殿下のことを書くのは殆どわたくしだけなので……。わたくしの人間性が腐敗しているばかりに彼のイメージを下げることだけはしたくないので、彼に肖って、なんとか徳を積んで参りたいところ。
前置きが長くなりました! 最近は衝撃的な事件が続いたものですから、色々単発をこさえておりましたが、今回はいい加減連載に戻りますよ。
というわけで、我らが殿下こと、ロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下と、彼の友人ヴラディーミル・ペトローヴィチ・メシチェルスキー公爵の往復書簡を読んでいくシリーズ、第七回になります。
↑ 第一回はこちらから!
今回を含め、残すところあと三回となりました、今シリーズ。以後は全て、殿下から公爵宛てのお手紙となっています。
第七回となる今回は、フィレンツェからの一通をご紹介します。
それでは、お付き合いの程宜しくお願い致します!
手紙 ⑾
ロシア大公ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ
ヴラディーミル・ペトローヴィチ・メシチェルスキー宛
親愛なるヴラディーミル・ペトローヴィチ
フィレンツェでの最初の朝に受けた初めての印象は、あなたからのお手紙でした。親切で心のこもったお手紙に、心からの感謝を送ります。
あなたから私への気持ち、いつでも変わらないあなたの友情、そして私の精神的な状態に共感し、そして遂に(ある程度は)理解を示して下さったことに感謝します。
少なくない人がこのような恩知らずな仕事を己に課してきたでしょうが、誰も直視しようとはしなかったのです。
それでもあなたの視線は、愛と同情を以て暗闇を刺し貫いて下さった。これは知恵でどうにかなる問題では決して無く、あなたが正しかったのです。
私を苦しめる軛を振り払ってからでも、幸せになるのに遅すぎるということは無いのではないでしょうか。そして、もしそれが成功したなら、その主犯はあなたですよ。
これが私達の友情と、将来の関係の主な抵当です。
私が未だ空疎な状態にあるうちは、有益な闘争さえ始まらないですからね。
不幸の原因は、根深いのです。精神的な頽廃が罪の意識の背後にあり、私を苦しめます。
ええ、親愛なるヴラディーミル・ペトローヴィチ、この罪の意識は辛いです。特に周囲が幸福と歓喜に包まれている時は。
私は、自分では不釣り合いな人から愛されていると知り、この幸福は私の身に余るものだと感じて、苦しいのです。
しかし、絶望しきったわけではありませんし、一方で己を硬化させるつもりもありません。時間は未だありますし、力も残っていますから―――もしかしたら、私だって良くなれるかもしれませんよね。
さあ、精神世界の話はもう充分でしょう。日常について話を移します。
ニースからコルヴェット艦ヴィーチャシ号でリヴォルノへ行き、そこから、昨晩鉄道でここに到着しました。
航海は楽しかったのですが、私達のコルヴェットは激しく揺れました。
近頃の私達は、一体全体何をしていたというのでしょう。
有益なことは殆どしていません。ダルムシュタットからヴェネツィアまでの間には興味を引かれる点が全く無いので、イタリアに到着したところから始めましょう。
イタリアで最初に私達が足を踏み入れたのは、ヴェネツィアでした。
私のサーシャ宛ての手紙に詳細は記しましたから、あなたに繰り返すことはしませんが、一つ言えることとして、この街の印象は深く残った、ということです。
残念なことに、最初の二日間を除いて天気が悪く、大雨でした。太陽の光の差さないヴェネツィアは、あまりにその魅力を損なっています。
汝、在りし日の栄えある都よ、その栄光からどれほど転落したのか、なんと哀れな汝の運命、侘しい汝の未来よ!
ヴェネツィアは淪落した女性のように、哀れまれこそすれ、愛されないのだ。
サン・マルコ寺院は、私に歓びを運んでくれました。その土地に根付いていて、好感を覚えます。
私の意見では、古代のゴシック様式と比較することはできません。
それらでは誰もが驚き、衝撃を受けますが、サン・マルコでは誰もが宗教的な気持ちを刺激され、祈ります。
ミラノは、西欧的な美しい街として私の気に入りました。イタリアらしい側面は僅かです。
素晴らしいのは、有名な教会の天井部です。壮大な高さを誇る、大理石の森を思い浮かべて下さい。全てに均整と調和が取れていて、細部に至るまで驚くべき完成度です。
ここミラノでは、私のコペンハーゲンでのライバル、ウンベルト王子と知り合いました。魅力的ではありませんが、しかし断じてぱっとしない人物ではありませんでしたよ。
トリノでは、ヴィットーリオ・エマヌエーレ王の晩餐会を除いて、特に印象に残るようなことはありませんでした。晩餐会で、私達は彼の全ての大臣たちと顔を合わせましたが、中には、ラ・マルモラを始め、極めて注目に値する方々もいました。
イタリアは現在、深刻な危機の真っ只中にあり、Re Galantuomo(紳士王)の地位は全く魅惑的ではないとその場で確信しました。
ナポレオンはイタリア政府に、彼をローマには行かせないと通達し、トリノを与え、そして強力な支持基盤を築いていたピエモンテから引き離そうとしています。しかし、彼はローマに戻ると違約し、議会を騙す必要があります。
フィレンツェはイタリアの首都ではなく、ローマへの第一歩に過ぎません。疑問なのは、ローマの門がヴィットーリオ・エマヌエーレに開かれない時、それはどのような一歩となるのか、ということです。有名な条約の力を以てしても。
要するに、ヴィットーリオ・エマヌエーレの大臣達が率直に告白しているように、イタリア政府は最も困難な状況にある、ということです。
フィレンツェ行きの鉄道が洪水により故障した為、私達はトリノからジェノヴァに向かうことになりました。
そのお陰で、数日間ニースに寄り、母に会うことができました。
私はこのことがとても嬉しく、ニースでの一週間を非常に楽しく過ごせました。
皇后は神の御加護により気分が良いとのことでしたが、冬を国外で過ごすこと、また皇帝と離れての生活は、彼女にとっては非常に辛いことなのです。
ニースは美しい郊外に囲われた、見事で新しい街です。北イタリアにはなかった、温暖な気候に恵まれています。
私達は日曜日にニースを発ち、夜八時頃にフィレンツェに到着しました。
そして、再び六週間にもわたる鉄道の故障です。
ローマは、ヴィットーリオ・エマヌエーレその人だけではなく、我々をも永遠の都を征服せんとする容疑者と見做し、その門を閉ざしてしまいました。
ローマに強い期待を寄せていたというのに、それが実現しなかったということは、私にとっては多大な悲しみです。
しかし、永遠と比べたら、それがなんだと言うのでしょうか!
ツァールスコエ・セローでの生活の詳細を伝えて頂き、感謝します。全てが私にとっては想い出深く貴重な記憶で、また全てが心に触れ、興味深いものです。
サーシャが真剣にマリヤに恋してしまうのではないかと恐れています……。彼の性格から考えて、もし本気で惚れ込んでしまったのなら、一気に全てを決心しかねません。
それに、イタリアの公女様は益々美しく、魅力的になってきたと言うではありませんか。
もしこれからも書いて下さるおつもりなら、どうか弟達について教えて下さい―――そのことから何が得られるというわけでもないのに、それでもどうしても知りたいのです。
家に心惹かれています、祖国に帰れたらと幾度も考えます。もう旅にはほとほとうんざりです。
それでは、さようなら、親愛なるヴラディーミル・ペトローヴィチ、もう一度あなたのお手紙に心からの感謝を。
遠くからあなたの手を握ります。
家族や親戚にも宜しくお願いします。
ニコライ
もし文通を続けられるなら、我らがペテルブルクの政界のニュースについて教えて下さいませんか。
私達の元に届くのはただの噂だけで、あなただけが唯一の重要な通信員なのです。
解説
お疲れ様で御座いました! 日本語にすると、約3000字程度ですね。
「負けず嫌い王」の我らが殿下が、とうとう「辛い」とか「苦しい」と人に伝えられるようになりました! これは大きな成長です。
そして、それを打ち明けられる腹心者にまで上り詰めた公爵は、やはりやり手ですね。たまに変質者になるの隠し切れてないですけど……。
殿下の仰る「恩知らずな仕事」というのは即ち、「希死念慮を抱く、或いは死期が近い自分に歩み寄ること」でしょう。彼は、多くの人が挑戦したものの、彼が弱音を吐けるまでの信頼を勝ち得たのは終ぞ公爵だけであった、と賞賛しているわけですね。美しき友情……、美しいだけではない……かもしれませんが……。
「良くなる( хорошего )」とした部分には、物凄く含みがあります。文脈的に「幸福になる」でもよいだろうし、「健康になる」でもよいでしょう。
英語にするなら、 good に相当する語であることからもわかるように、物凄く多義的であり、様々な解釈が可能なので、敢えて暈かしてみました。皆様はどう解釈しますか。
急にヴェネツィアについて詩を詠み始める殿下。どうした急に。まあ、イタリアの都市は、是非とも詠いたくなる題材でしょう。
地味に、「激しく揺れるコルヴェットへの乗船も楽しかった」と仰っているということは、船酔いはしない、ということですよね。流石セーリングや舟遊びを趣味とする水の妖精だ。波にも強い。「なみのり」を Lv. 11 あたりで自主的に習得します。
さて、それでは個別の解説に移って参ります。
原本のコピー
まずは直筆のものから。今回は殿下の字は非常に美しいですよ。わたくしですら普通に読めます。
便箋にはまた Н と А のモノグラム! 素敵です。
また、最後の追記部分は、左側に縦に書いていることがわかりますね。紙面が足りなかったのでしょう。
フィレンツェ滞在
殿下は、このお手紙が書いたのは1864年11月22日(グレゴリオ暦)であると記しています。22日は火曜日です。
また同時に、フィレンツェには日曜日の夜に着いた、と書いているので、このことから、フィレンツェ到着は20日であることがわかります。
殿下は全く触れていませんが、旅に同行し、殿下を溺愛した法学教師のチチェーリンによれば、彼はフィレンツェ行きの鉄道で突然激痛に襲われて動けなくなってしまい、真っ青な顔をして、最早立ち上がる力さえなく、両脇から支えてやらないと崩れ落ちてしまう程であったと言います。
これは、四月の夜にペテルブルクで倒れて以降、殿下が人前で体調不良を全く隠すことができなかった二回目のケースです。
半年間隠していたのがこれまた恐ろしいのですが、傍から見たら「突然の出来事」だったので、側近たちは皆驚いたといいます。
そして、この事件を公爵に宛てて全く書いていないという! そういうところだぞ!!
恐らく、背骨を負傷していた殿下にとって、鉄道の揺れが傷に障ったのだと推測できます。この手紙からも、鉄道の事故や故障が多かったこともわかりますし、当時のイタリアの鉄道はあまり快適なものではなかったのではないでしょうか。
未来の話ですが、殿下の甥のゲオルギー大公(ニコライ2世の弟)も、結核を患っていた為、乗り物揺れのせいで肺が破れ、大量に喀血して喉を詰まらせ、亡くなっています。血は争えないということか……。殺意が高いな乗り物揺れ……。
サン・マルコ寺院
さて、イタリアの旅路を追います。
殿下が感銘を受けたサン・マルコ寺院というのは、ビザンティン様式の壮麗な大聖堂です。
↑ 美しすぎる……。
↑ 聖地巡礼リストに入れておいて下さい。
しかし殿下、もしかして、建築様式などについても詳しかったり……? 旅に出たことからも、教会建築様式は詳しそうです。
ちなみに、ニースの「サン=ニコラ大聖堂」は、モスクワ・ヤロスラヴリ様式ですよ。
「コペンハーゲンのライバル」
今回、衝撃的な語が登場しますし、しかもわざわざ彼自身が下線を引いています。「コペンハーゲンのライバル」です。
殿下は、9月にコペンハーゲンに滞在し、デンマーク王女ダグマール姫に求婚しています。無論、大成功です。
「自分では不釣り合いな人から愛されている」と書いている殿下。当然、ダグマール姫のことです。
「そもそもあなたに釣り合う人類、いる?」と思いつつ(ダグマール姫自身、「なんとか彼に見合う人間になりたい」と書いていて大変に愛らしいです。とてもお似合いの二人ですよ!)、きちんと自分が愛されている自覚があるのが大変宜しいですね。
万人を恋に落とす殿下の魔性の力は今回も勿論健在で、ダグマール姫も彼を大層愛しています。なんでも、最初のキスなど、姫の方からいきなり殿下の唇を奪いにいったそうで……。男前すぎる。惚れちゃう。
そんなことされたら、流石に誰だって「自分は愛されているのだな」と感じますよね! 童話みたいに、「末永く幸せになりましたとさ。めでたしめでたし。」してくれ! 悲劇的な結末!? そんなの知りませんよ!! ハッピーエンドにして!!
しかし、そんなこの恋物語にも、ちょっとした波乱は存在していました。
当時のデンマーク王家は、祖国デンマークの王のみならず、ギリシャ王、イギリス皇太子妃をも擁していたことから、1864年当時、次女ダグマール姫は王家間の政略結婚市場で最も魅力的な花嫁でした。更に言えば、彼女は賢く、美しいお姫様でした。最高です。
そう、つまり、求婚者は我らがロシア帝国のニコライ殿下だけではなかったのです。リアル「ローズ・アダージオ」だ……。
↑ バレエ『眠れる森の美女』の最大の魅せ場の一つ。姫が四人の求婚者の王子と踊る、非常に難易度の高いアダージオです。しかし、マリアネラ・ヌニェスは何度観てもとんでもない。驚異のバランス力に体幹、零れんばかりの輝かしい笑顔……。
そんなダグマール姫への求婚者の一人が、イタリア王国のウンベルト王太子です。
↑ 若い頃のお写真を全然お見かけしないのですが、何故でしょうか。
姫は、ウンベルト王子のことを「魅力的ではない( uattraktiv )」として、お断りしています。この語は、デンマーク語ですが、どちらかというと「容姿端麗ではない」というニュアンスが強いようです。
殿下も彼のことを、この手紙に於いてロシア語で「魅力的ではありません( непривлекательного )」と書いていますが、もしかしたら彼について、二人で意見を交わしたから類似表現になっているのかもしれません。うわっ、リア充、殺意高い!
ちなみに、姫曰く、「ニクサはハンサムで頭がよい」のだそうです。そ……そうですね……。齢16の麗しいお姫様ですもの、格好いい白馬の王子様をご所望されることを、どうして糾弾できましょうか……。
デンマーク王国にとっても、ロシア帝国が同盟を結ぶのに最も理想的な国家でした。従って、両親である国王夫妻も、「できればロシア帝国の皇子を選ぶように」と彼女に伝えていました。
しかし、大切な愛娘の将来ですし、夫婦仲が険悪で子を残せないなどという状況になっては元も子もありませんから、彼女が別の国の王子を愛するならば、それでも宜しいという状況でした。
殿下は、これ以上無いほど魅力的な人物ですが、このような事情から、後に「プロポーズが成功する自信はなかった」と回想しています。ライバルが多かったが故ですね。
両国にとって最も理想的な相手同士が、相思相愛のカップルになる。1864年時点では、最高の展開であったのです。
殿下は、そんな麗しのダグマール姫と婚約し、愛に満ちた幸せな二週間を過ごしたその足で、イタリアに向かいます。そしてウンベルト王子と初対面するのです。殺意高くない?
殿下を招いての会食が開催されましたが、その席で、殿下は彼の国イタリアの法について突っ込んだ質問をし、王子を困らせています。追い討ち掛けまくるの辞めてあげて?
殿下は、聡明で知識欲旺盛な人物でしたから、純粋にイタリア法を学びたかったのだろうとは思います。しかし、この書きぶりから見るに、それと同時に、「コペンハーゲンのライバル」を小手調べしてやろうという、一抹の悪意はあったかもしれないですね。ほんとうに殿下だけは敵に回したくないな……。
ウンベルト王子は、同時代人によると、「好ましい容姿ではない」とか、「知性に限度がある」だとか、かなり厳しい評価をされているようです。
父ヴィットーリオ・エマヌエーレ王とも不仲で、王が殿下と会った際には、「あなたが我が国の王子であったなら」「それに引き替え、うちのは……」と、これ見よがしに嫌味を垂れられています。
殿下は、研究者を以てしても、「彼を嫌う人は一人もいない」と言われた、誰からも愛される、常人離れした人物です。しかし、わたくしが思うに、ウンベルト王子は殿下のこと、嫌いでもいいとおもいますよ、ええ。これは誰も責めないよ。
ラ・マルモラ
殿下からも注目されている、「ラ・マルモラ」氏は、当時のイタリア首相です。
過去のシリーズで既に概説を書いているので、ここでは省略させて頂きます。
↑ 「限界同担列伝」シリーズです。自分で書いておきながら、内容バグってると思う。
彼は殿下に「魅了」されたとのことですが、殿下の方も彼を注目していたのですね。政治的な相思相愛……(?)。
ちなみに、ヴィットーリオ・エマヌエーレ王が「Re Galantuomo(紳士王)」と呼ばれているのは、彼が条約を破らず、約したことは紳士的にきちんと守る王として知られていたからです。
殿下はそんな姿勢を見習おうと思ったものでしょうか。それとも、時には狡猾さも必要だと捉えたでしょうか。
イタリア情勢
今回のお手紙では、1864年秋のイタリア情勢について論じられています。殿下の政情分析は、いつでも簡潔ながら正鵠を射ていて、大好きです。彼にあらゆる地域の分析をしてほしい。欲を言えば、あと3年長生きして貰って、我が国の明治維新の分析をして欲しかった……。
「有名な条約」とは、文脈から察するに、フランス帝国とイタリア王国の間で結ばれた「9月条約」のことでしょう。特に、最初は秘密条約の形で結ばれていた、追加議定書に関する考察ですね。流石、よくご存じで……。
殿下が訪れた1864年当時、王とトリノで会談していることからも明らかなように、イタリア王国の首都はトリノでした。
翌年の遷都先はフィレンツェで、暫くの間、ローマを首都にすることが叶いませんでした。
このことに関して、殿下は、「フランス帝国、ナポレオン3世の策略である」と喝破します。
統一イタリア王国の国民にとって、首都はなんとしてもローマであるべきでした。従って、王であるヴィットーリオ・エマヌエーレは、国民に対し、ローマを確約しなければなりませんでした。
ヴィットーリオ・エマヌエーレ王は、元々サルデーニャ王でした。従って、最も支持を集めていた地域は当然、旧王国領サルデーニャとピエモンテであり、トリノは旧サルデーニャ王国の首都でもありましたから、それは最たるものでした。
イタリアは、ローマに遷都しようとしましたが、直前になって、イタリア統一に手を貸したフランス帝国は、言葉巧みに交渉を進め、「ローマを与えない」ことにしました。
9月条約追加議定書では、遷都の決行を定めていました。王は、自分の支持者の多いトリノからの、ローマ以外への遷都に反対しましたが、当然フランス皇帝はそれを認めませんでした。そうして、支持者の少ないフィレンツェを首都とすることによりイタリアの政情を不安定化させ、外交を優位に進めようとしているのだろう、と殿下は分析します。21歳の外交官、なんたる頭脳だ。なんでこの人半年後に死んじゃうんですか?
そしてナポレオン3世、外交が上手い……。
フィレンツェへの遷都は、国民にとっては不満極まるもので、9月21日には大々的な反対デモが行われました。これは、未来の「血の日曜日」のように、銃により制圧され、死傷者を出したといいます。
余談ですが、殿下のお誕生日、並びに殿下が婚約した日は、その前日の9月20日です。やっぱりウンベルト王子は殿下に怒っていいよ。
「イタリアの公女様」
最後に、「イタリアの公女様」について概説し、終わりにしたいと思います。
次弟サーシャ大公が恋していたお相手に関してです。
彼女の名はなんと、マリヤ・エリーモヴナ・メシチェルスカヤ公女……。そう! 公爵の従妹です。
↑ 美女で有名でした。もしかしてですけど、サーシャ大公、面長のお顔立ちが好み?
公爵の従妹ですから、当然ロシア人ですが、彼女の父は在イタリア・ロシア大使だったので、殿下は冗談めかして「イタリアの公女様」と呼んでいるわけです。
彼女は、殿下兄弟の母、皇后マリヤ・アレクサンドロヴナの女官でした。従って、殿下兄弟と知り合うのは必然でした。
メシチェルスカヤ公女は、殿下兄弟や、彼の副官たち、彼の従兄弟たちと交流する機会が増えて行き、いつしかサーシャ大公の恋のお相手として有名になりました。
それはゴシップやスキャンダルに類するもので、それらを心底嫌う殿下は、この手紙からも伺えるように、頭を抱えていたようです。
サーシャ大公は、兄の存命中は、「世界中の何よりも愛していた」彼の言いつけに従って一線を越えないようにしていましたが、彼の死を経ての帰国後、喪失の苦しみに耐えかねた大公は、彼女の慰めを心の底から必要としました。「彼女がいなければ日々が耐え難い」とまで述べています。
しかし、そうしたことは「皇太子として」望ましいものではありませんでした。すぐにスキャンダルに発展し、両親から「彼女を宮廷から追放する」と脅され、サーシャ大公は文字通り、泣く泣く縁を切った、といいます。
彼女はその後、パーヴェル・パーヴロヴィチ・デミドフという男性と結婚しますが、出産が大変に難産で、この際に命を落としてしまいます。24歳でした。帝政ロシア人、長生きしてくれ……。
彼女は死の前、「皇太子以外は、決して、誰一人として愛さなかった」と言ったと言います。こちらも大変にロマンティックな物語ですね。
最後に
通読有り難う御座いました! 長くなってしまいました。1万字超えです。
いやー、しかし、著作権の問題は難しいですね。こんなこともあろうかと(?)、前に著作権法の資格を取りましたけども、わたくしも編曲などをやる手前、黒に近いグレーゾーンを踏むことは往々にしてあるので、ダブルスタンダード紛いかも……と震えつつ。可能な限り注意したいと思います。
↑ そういえば、過去にこんな記事も書いていました。
この記事を書いた頃は、こんな連載をすることになるとは思いもよりませんでしたが。オープンアクセスのゾーラブ先生の論文に原文の掲載があったこと、また著しく尊厳を侵害する内容ではないと判断したため、今回はこのようなシリーズを展開することと致しました。尊厳という視点では、たまに公爵はダメかもしれませんが()、それは彼が望んで出版した『回想録』とかの頃からそうだしなあ……。
著作権といえば、歴史家イヴァン・ドロノフ先生によるアレクサンドル3世の伝記があるのですが、こちらの第二章の題が「兄弟」。ご想像の通り、殿下のことです。
ドロノフ先生の記述は、少し偏りがあって、懸念点がないわけではないのですが、あまり他ではお目に掛かれない日記や手紙の引用があって、非常に興味深いのです。従って、是非ともご紹介したいところなのですが……。
こちらの第二章、何故かインターネット上で無料公開されており、誰でもアクセスが可能です。現在ロシアへの送金が不可能ですし、こちらは電子書籍にもなっていないので、わたくしも同ページで拝読しました。
しかし、こちら、本来は歴史書の一部なわけで、著作権法第二七条に触れるよなぁこれ……などと悶々としつつ。やっぱりなるしかないか……、プロに(無謀)。
さて、次回予告です。前述の通り、次回も殿下から公爵宛てのお手紙になります。
前半部は、悪化する体調に関する痛ましい報告です。後半は、聡明な殿下がロシア帝国内の政情分析をして下さっています。お楽しみに!
それでは、今回はここでお開きとします。次の記事でもお目に掛かれれば幸いです!
↑ 続きを書きました! こちらからどうぞ。