世界観警察

架空の世界を護るために

婚約を巡る書簡集 ⑻ - 翻訳

 おはようございます、茅野です。

先日話題の『ポケモンSleep』を入れたんですけれども、「ポケモンたちの寝顔を観察しよう!」というコンセプトが、なんだか悪いことをしている気分になりますね(※主に衝立に穴を開けて殿下の寝顔を覗き見し、本人にバレてドン引きされていた某限界同担のせい)。

 合法……なんでしょうか!? ネロリ博士!?

 

 さて、今回は「婚約を巡る書簡集」の第8回。早くも最終回、もといエピローグで御座います。

こちらはロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下と、デンマーク王女ダグマール姫の婚約に纏わる手紙を読んでいくシリーズです。

↑ 第1回はこちらからどうぞ。

 

 エピローグとなる今回は、我らが殿下の弟・アレクサンドル大公(後のアレクサンドル3世)と、ダグマール姫の婚約について扱います。

 手紙ではなく、アレクサンドル大公の日記から引用して紹介して参ります。アレクサンドル大公の日記は非常に涙腺への攻撃力が高いので、屋外で読む時などはお気を付け下さい

 

 それでは、最後までお付き合いの程宜しくお願い致します!

 

 

 最初に、1865年の殿下の誕生日である9月20日翌66年の大公自身の誕生日3月10日の日記から引用します。どうぞ。

 

日記 1865年9月20/8日

 この世界中の何よりも愛していた、未来永劫誰も代わりなんて務められない僕の親友はもういないんだという事実を突きつけられて、酷く虚しくなって、子どものように泣きじゃくった。

僕は彼と喜びや楽しさを分かち合い、彼には何も隠し事はなかったし、彼も僕に対してそうだっただろうと確信している。

弟たちでは、このような兄であり親友だった彼の代わりは務められない。部分的に彼の代わりをしてくれる人がいるとしたら、それは母様か、或いは未来の僕の妻、恐らくは愛らしいダグマールということになるんだろうか。

 

日記 1866年3月10日/2月26日

 これで、僕は21歳になった。今年は何が起こるだろう?

丁度一年前、愛する兄が書いてくれた、20歳の誕生日を祝う手紙のことを思い出した……。

しかし彼はこの世を去り、僕にとっては恐ろしさしか感じない自分の地位を遺して逝ってしまった。

兄さんがもっと早くに結婚して、息子が産まれていたらよかったのに。そうすれば僕は、平穏に生きていけたのに、と思った。

しかしそれは、実現する運命にはなかった。

 

解説

 まずはお誕生日の日記からでした。短いながらも流石の高火力。

今回は、少し節を分けて個別に見ていきます。

 

大公の日記

 アレクサンドル大公は、兄である殿下が愚痴を零しているように、比較的筆無精だったと言われています。

手紙がそうであるなら、日記も勿論同様で、立太子するまで日記を付けませんでした。

 

 転換期となったのが殿下の死です。自動的に帝位継承順が繰り上がり、皇太子となった彼には、やることが山積みでした。

殿下にガチ恋していたことでお馴染みのメシチェルスキー公爵は、殿下に自身の死後弟の忠実な友人になるよう頼まれていたこともあり、大公の支えになろうと彼なりに奮闘することになります。

 彼は大公に、皇太子となる上で必要な心構えや知識などを色々と仕込んでいくのですが、その中で提案したものの一つが、交換日記です。女子中学生じゃないんだから……というところですが、本当に、実際に1865年春から、大公と公爵は交換日記を行っています。

 

 公爵は、仕事柄ロシア各地を飛び回っており、兄の殿下も評価していたように、ロシアの実情を大公に伝えることができました。公爵側の日記は、大公に自国の知識を教える上で役に立ったようです。

 一方のアレクサンドル大公は、上記からも明らかなように、かなり感情をストレートに吐き出すタイプで、彼の心境を理解するのに大いに役立ちます。公爵は、カウンセラーの如く、彼の気分を察知して、コミュニケーションの円滑化に役立てたようです。

また、勿論、後世の我々にとっても、当時を理解する上で大変役立ち、また興味深いです。我々がアレクサンドル大公の心情を知ることができるのは、公爵のお陰です。

 

 彼らは殆ど毎日会っていたので、毎日日記を読み合わせて、内容に関してコメントをし合ったり、そこからお互いの理解を深めたりしていたようです。

 メシチェルスキー公爵は、残念ながら(?)、とても清廉潔白な人間ではありませんし、アレクサンドル大公も自分を偽れない素直で感情的な人物だったので、時に盛大に喧嘩したりもしたようですが(大公は「もう日記も書きたくない!」と怒鳴ったこともあったそうな)、最初の数年は交換日記を続け、後に二人とも「実りある行為だった」と振り返っています。

 

 19世紀の政治家は、殆ど全員が日記を書いていると言っても過言ではありません。それは半ば公開されることを前提に書かれているので、我々もあまり気兼ねなく読むことができます。

 日記の書き方は、かなり書き手の性格が出ます。

 メシチェルスキー公爵は、小説のような日記を書きます(一文が長く、かなり悪文ですが……)。大歴史家・文学者であった祖父カラムジンの孫である自負がそうさせるのでしょうし、また大公兄弟との関わりが深いことなどもあり、人生そのものが小説のようであることも理由でしょう。羨ましい限りです。

 

 大公兄弟の叔父コンスタンティン大公(殿下からは「ココ叔父さん」と呼ばれています。愛称可愛い)や、ニコライ2世の日記は、殆ど全てが事実の列挙のみであることで有名で、読み物としての面白さは然程ありません。

弊ブログの殿下関係の記事を追い掛けて下さっている方は、総理動静などを見る方も多いかと思いますが、あれを本人が書いているようなタイプです。

↑ マジでこんな感じです。公文書や側近の記録と全く変わらないので、正直あんまり面白くないです。

 

 逆に、アレクサンドル大公の日記は、このようにかなり感情的な吐露が多く、読んでいて面白いです。意図して書かれた秀麗な文章よりも、このような素直な文章の方が心を揺さぶられる気が致します。

 立太子後すぐに書き始めた日記ですが、彼は皇帝に即位すると、書くのを辞めます。それが「弱み」になると考えたのでしょうか。玉座に座った後の彼の心情を知ることは困難です。

 

 姫の日記は、ロシア革命前後のものが公刊されており、我々も入手することができます。デンマーク語で書かれたもののようですが、ロシア語訳で流通しています。婚約時前後の日記も読みたい。

彼女の日記もかなり細かく書かれており、公的な生活や、友人の動向なども知ることができます。

 

 そして、我らがニコライ殿下の日記は、未だ全く公刊されておらず、我々は読むことができません。わたくしも読めていません。需要、いや知名度の問題か……。

 但し、殿下が専門の研究者であるメレンティエフ先生の論文では断片的に引用されているので、そこから少しだけ内容を窺い知ることができます。

 先生も高く評価しているように、殿下はその日の自身の行動の詳細を纏めた後、それに対しての分析や考察を書いていることが多く、殿下の思考を追う上でも、また日記としても理想的なものであるようです。でしょうね……。

 断片的に読めるものを読む限りでは、公的な文書ではないので、やはり殿下の「素」の部分が多く現れていて、非常に興味深いです。

案の定、相変わらず自虐的で、自己批判的な分析が多いですし、珍しく「辛い」「怖い」といったような、人間的な心情を吐露していることもあります(そしてその感情に対して、「こんなことで怖がるなんて……」とまた自虐したりしています)

 また、家族や側近の手紙と、殿下の日記を照らし合わせることで見えてくるものもあるようです。旅先で日曜日に教会に行かなかったことが後に母に伝わり、手紙で咎められた時、殿下は、「罪は完全に自分にあり、如何なる弁解も愚かで不適切です。」と返答しているものの、日記の方には、その日酷く具合が悪かった旨が書いてあった、とメレンティエフ先生は指摘しています。このエピソードなども今度詳しく書きたいのですが、しかし体調不良は言い訳ではない……。

 殿下の日記も公刊されると大変嬉しいので、国立文書館並びに出版社は是非とも宜しくお願いします(尤も、今現在は愚かな侵略戦争のせいで輸入ができないので、今公刊されたらそれはそれで泣くんですが……)。

 

大公兄弟の誕生日

 殿下と大公は、当連載第三回でも確認したように、同時代人からも「自由時間は必ず共に過ごした」と書かれる程の仲良し兄弟で、特に弟から兄への感情は「殆ど崇拝と言ってもよかった」と言われており、紛う事なきブラザーコンプレックスの域に達しています。

 大公本人も、日記のみならず、友人メシチェルスキー公や、妻となるダグマール姫にさえ、兄のことを「この世界中の何よりも愛している(愛していた)」と書いています。重い……!

 殿下の死から27年(!)が経った1892年の手紙でも、以下のように書いています。

1892年4月24/12日

 僕の愛するミニーへ、正に今日、ニースでの恐ろしく辛い時から27年が過ぎた!

神よ、どれ程の時が経とうとも、想い出は未だ生々しく、悲しみも癒やされることはない。

あの時、人生の全てが変わってしまい、恐ろしい責任が一気に肩に降り掛かってきて、その先の僕の運命と幸福が決まってしまった!……

 この時、既に皇帝となっているアレクサンドル3世は47歳です。死の2年前にあたります。大公も大公で亡くなるのが早い……。

 

 そんな二人なので、お誕生日などのお祝いの際にはかなり念入りに準備をしたようで、アレクサンドル大公は、「ニクサの誕生日の半年前にもなると、誕生日プレゼントをどうするか考え始めるのが常だった」といいます。その毎年の慣習が無くなってしまったことも、虚しさの一因であると考えられます。

 

 また、この年の9月20/8日は、例年のように殿下の誕生祝いではなく、ペトロパヴロフスク要塞での追悼になりました。大公は、この時の聖歌隊のメンバーや、読まれた福音書がニースでの葬儀の際と同じだった為に、殊更その時のことを思い出させられて泣いた、とも書いています。

 

 この時、アレクサンドル大公は、公爵の従妹であるマリヤ・エリーモヴナ・メシチェルスカヤ公女に恋していました。

従って、ある意味で必然とも言うべきか、1865年-66年前期では、ダグマール姫の名前は必ず殿下と絡めた文脈で登場します。

 65年9月の時点で、ダグマール姫との婚約を「継承」することに意識的であったことがわかる、興味深い記述です。やはり、前回確認した「ニクサの願い」は言語化されていたのでしょうか。

 

 殿下が弟の20歳の誕生日に書いたお手紙は、近々ご紹介しようと思います。明らかに自分が祝うことができる最後の誕生日であることが仄めかされていて、こちらもかなり涙腺に来ますので、覚悟して下さい。

 

1866年、大公のデンマークへの旅

 ここでは、先にこれからご紹介する引用部分の解説をしてから、本文を読もうと思います。

 

 翌1866年、アレクサンドル大公はデンマークへ旅をすることになります。目的は勿論、兄の婚約者であったダグマール姫への求婚です。

 

 5月28日の夜、大公はペトロパヴロフスク要塞の兄の墓へ行って泣きながら祈ったといいます。

翌5月29日の朝に、デンマークへ向けて出発。6月2日正午に同地に到着しました。

 姫と一年ぶりの再会を果たしたその日の日記には、以下のようにあります。

 彼女の懐かしい顔は、ニースで際限なく辛かった時のことや、ユーゲンハイムでの優しく誠実な時間を思い出させる。

再び、彼女と結婚できたら、という望みが自分の中に湧くのを感じた。

 前回でも少し出てきましたが、殿下が亡くなった後、ロシア皇家は祖国に帰る前に、ダルムシュタットに寄っています。ユーゲンハイムはその近郷の街です。

この小旅行にはダグマール姫も同行しており、アレクサンドル大公と彼女は、二人でライン川沿いを散歩しながら、殿下の話をしたそうです。

「ユーゲンハイムでの優しく誠実な時間」はこの時のことを指しているのでしょう。

 

 ちなみに、このユーゲンハイムではじめて、ダグマール姫は皇帝アレクサンドル2世に「それでもロシアに来るように」、即ち「アレクサンドル大公と結婚するように」打診されたようです。

彼女は、深くショックを受けて、「ニクサが亡くなって間もないのに、そんなことはできません。彼に対して不誠実な態度を取ることはできません。」として、断っています。陛下ほんとにさあ……以下略

 

 話を戻しましょう。アレクサンドル大公がデンマークを訪れた時、デンマーク王家側は気を遣って、殿下が訪れた時とは違う場所で持て成すなど、二年前の再現にならないように配慮したといいます。この差

 

 6月4日、姫の兄であるフレディ(フレゼリク)王太子デンマークに戻ってきます。殿下と同い年である彼も忙しく、国外を飛び回っていたのでした。見知った彼の存在に、アレクサンドル大公は大きな安心感を覚えたと言います。

 

 8日、兄のやり方を真似たのか、大公はフレディ王太子に今回の旅についての相談をします。

旅の目的はダグマール姫への求婚ですから、大公と姫は一緒に過ごすことが多かったようですが、大公は躊躇っていました。というのも、大公曰く、「明らかにミニーは未だニクサのことを愛していたから」です。

 前回では、母を除く誰とも元婚約者の話をしたがらなかったという姫ですが、大公とは寧ろ、積極的に彼の話をしたがったようです。しかも、気まずいことに、二人で東屋に行けば「この場所でニクサとキスをした」、湖に行けば「ここで二人で舟遊びをした」などという話を涙ながらにするのだというのですから、正直大公が躊躇うのも無理はありません。

大公は元から恋愛に自信が無かったことも拍車を掛け、こんな状態の姫に求婚をしてもよいものか、と悩んだといいます。

 フレディ王太子は、そんな大公に対し、「ニクサが君のことを深く愛していたことをミニーは知っている。僕は成功を確信しているよ。両親も賛成している。だから大丈夫だ」と励ましたそうです。

 

 王太子からの励ましを受けた大公は、9日、とうとうダグマール姫の父、デンマーク国王クリスチャン9世に求婚の意志があることを告げます。

その日の日記には、以下のようにあります。

 彼は完全に賛同してくれていて、いつでも望む時にミニーと話していい、と許可してくれた。

しかし、彼女を愛せるか、未来に責任が持てるのかどうか、よく考えるようにと言われた。

僕は、その覚悟なしに彼女に求婚することは絶対にしない、と答えた。

その時国王は僕の手をしっかりと握り、僕の大切なニクサを愛したのと同じように、僕のことも愛そうと言ってくれた。

心から彼に感謝し、僕たちは別れた。

 この会話について、研究者のボハノフ先生は、アレクサンドル大公とメシチェルスカヤ公女のスキャンダルはデンマークにも届いてしまっていたので、国王は内心不安だったのだろう、と分析しています。

 

 そしていよいよ、運命の日が訪れます。

舞台は6月11日土曜日、フレデンスボー城、ダグマール姫の部屋でのことです。

 

日記 1866年6月11日

 始めに、彼女の部屋をよく見て周り、次に彼女は手元にある全てのニクサの手紙や写真を見せてくれた。

一通り見た後、僕達は全ての写真アルバムを調べ始めた……。

アルバムに目を通しても、内容は全く頭に入ってこなかった。ミニーにどのように話を切り出すか、そればかりを考えていた。 

しかし全てのアルバムも見終えてしまい、僕の手は震えだし、自分が恐ろしい程動揺しているのを感じた。

 

 ミニーは僕に、ニクサの手紙を読むように勧めてくれた。 

今だ、と思い、僕は彼女に言った。「国王はあなたに、私の提案と会話についてお話になりましたか?」。

彼女は僕に訊いた。「会話って、何のことかしら?」。 

 

 そこで僕は、彼女に求婚した。

彼女は僕の方に身を投げ掛け、僕を抱き締めてくれた。

僕はソファの端に腰掛けていて、彼女は小さな肘掛け椅子に座っていた。

 

 僕は彼女に訊いた。「私の愛する兄を喪った後でも、あなたは他の誰かを愛すことができますか?」。

彼女は答えた。「彼が愛した弟を除いて、決して」。そして僕に強くキスした。

 僕の目からも、彼女の目からも涙が零れた。

そして僕は彼女に、「大切なニクサは今起こったことに関して大変助けてくれたし、勿論、彼は私たちの幸福を誰よりも祈ってくれていると思います」と言った。

僕たちは兄さんのこと、彼の死、そしてニースでの最期の日々について、沢山話した。

 

解説

 アレクサンドル大公は物書きになった方が良いと思います。才能がある。

 

 殿下が二回目にデンマークに訪れた際も、姫は彼を自室に招いています。その場で、同じく自身の「宝物」を見せているのですが、当時はそれは絵やアクセサリーでした。

大公が訪れた際も同じことをしていますが、「宝物」は殿下の写真や手紙となっているところがまた涙を誘いますよね。

 

 こうして彼らは婚約し、ロシア史上のみならず、恐らく世界史上でも最も仲睦まじい皇帝夫妻となるのでした。「最強の皇帝夫妻」が、元々愛し合っていたカップルではなく、このような経緯で誕生しているのは非常に興味深い歴史の悪戯ですよね。

↑ 婚約時に撮られたお写真。相変わらず体格差が凄い。

 余談ですが、この時アレクサンドル大公はスーツを着るのが初めてで(普段は軍服を着ているため)、着方がわからずに大分苦戦したらしいです。ネクタイが結べない大公概念。なんかかわいい。

 

 殿下の手紙を読むタイミングで求婚し、その際にこのような会話をしていることからもわかるように、殿下への愛と想い出は、二人を結びつける絶対的な紐帯であり続けました。そのことは、前述の27年後の手紙からも明らかです。

 女官チュッチェヴァによると、殿下が亡くなった次の日、姫には少し殿下と二人きりで過ごす時間が与えられ、その際に血の通わなくなった彼の指に指輪を嵌めてあげたのだといいます。それはほぼ間違いなく、ダイヤモンドの婚約指輪であると推測できます。そのまま埋葬された殿下は、今でもそれを嵌めていることでしょう。

従って、殿下は今でも姫の婚約者であると言えるのかもしれません。皇帝夫妻の強い絆は、この少し歪な三角関係に負うところも大きいのです。同担婚

 

 再び余談ですが、この時の姫は、殿下の遺品争奪戦で文字通り「力尽く」で遺品を奪取したり、彼の遺体にしがみついて離れず、男性の医師5, 6人掛かりで引き剥がすことになったりと、完全に火事場の馬鹿力を発揮しています。殿下の髪を切ったのも、恐らくこの時でしょうね。17歳の乙女とは思えない胆力だ……。

 

 大公と姫の婚約は、ロシアでもデンマークでも、概ね好意的に受け止められました。

そもそも、政治的な同盟関係として最も好ましい組み合わせであったわけですし、姫は既にロシア国民から受け入れられていたので、彼女がロシアに来ることは歓迎されました。

 

 一方で、批判的な意見がなかったわけではありません。

亡くなった兄の妻を弟が娶ることを、専門的には「レヴィレート婚」といいますが、彼らの関係はこれにあたります。

レヴィレート婚は、文明が発達していなかったり、戦争が多いなどの理由で、男性が早逝することが多い社会では一般的であり、寧ろ奨励されていますが、逆に文明化が進んだ社会では、野蛮であるとして忌み嫌われる傾向があります。19世紀のロシアやデンマークは、後者にあたるようです。

このような結婚の仕方を「気持ち悪い」と感じる人は一定数存在したことがわかります(尤も、それを言うなら王朝政略結婚そのものがグロテスクだと思いますが……)

 

 また、皆様ご承知のように、殿下にはかなり拗らせた過激派のファンも多いので、中には姫の行動は殿下に対する裏切り行為だと感じた人もいました。

その筆頭格は、意外にも殿下の母である皇后マリヤ・アレクサンドロヴナで、長男を溺愛していた彼女は「ダグマールのことは愛しているけれど、彼女を見るとどうしてもニクサのことを思い出してしまって辛い」と吐露しています。

 

 しかし、今回の連載を通して、当事者である彼らが何を考えていたのかはある程度明らかになったと思います。

殿下と姫は相思相愛であったし、殿下は弟と婚約者の結婚を願っていると考えられ、また姫と弟大公はその願いを受けて、幸せな結婚生活を送ります。

その上で、外野がとやかく言えることは無いのではないでしょうか。

 

 この一部の「反対派」にも影響を与えた新聞の社説があります。老舗の新聞『モスクワ報知』の編集者を務めていたミハイル・ニキフォロヴィチ・カトコフが書いたものです。

↑ カトコフ(1818–1887)。

ちなみに彼もかなり強火の同担で、自身が開校した高校に殿下の名を冠しています(帝立ニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子記念モスクワ高校)。なんというか、相変わらずですね……。

 

 今回の連載は、最後にこちらをご紹介してお終いにしようと思います。

 

『モスクワ報知』から

 若き姫君の運命には、筆舌に尽くしがたい共感と、何か深い特別な意味がある。

ロシアの民衆は、彼女を認め、愛し、歓迎した正にその時に、彼女にとっても、また我々にとっても等しく尊い、未だ花開き始めたばかりの人生の非業の最期を、彼女と共に悼むことになった。

そしてその時、ロシアは彼女を永遠に失ったように見えたが、ロシアはそれを信じなかった。彼女は我々の元に帰って来るのが神が定めた運命なのだと、誰もが信じた。 

失われたように見えた彼女は、我々のものとなった。彼女は既に胸の底に根付いた我々の信仰を捨てることはできなかった。彼女は既に第二の故郷と定めた我々の国を見捨てることはできなかったのだ。

 この青年は、まるで神託を告げる夢のように、一瞬だけ彼女の前に現れて、運命を宣告した。同じようにこの国に現れた彼は、神聖な詩として、彼女にも、国にも、未来永劫記憶され続けることだろう。

 

最後に

 通読ありがとうございました! 9500字ほどです。

 

    見切り発車で始めた突発連載でしたが、お楽しみ頂けたでしょうか。書き終わってしまって寂しい限りです。殿下×姫カップルの魅力が伝わっていたら嬉しいですね。

 個人的には、お堅い政治の話や、限界同担たちが犯罪スレスレ(というかアウト)で暴れ狂っている文献も大好きなのですが、童話のように、否、童話以上に美しく愛らしいカップルの物語が書けて、個人的にも満足です。相変わらず、結末は苦みの強いハッピーエンド(……?)ですが……。殿下、長生きしてくれ。せめてあと50年くらい。

 

 いつも通り、感想等頂けると大変喜びます。コメント欄やリプライ、 DM でも勿論歓迎します。

↑ 匿名用。

 

 嬉しいことに、まだまだ殿下関係で書きたい記事は沢山あるので、楽しく書けたらと思います。21年しか生きていないのにネタが豊富すぎる……とんでもない御仁だ。でもいつか枯渇するのかもしれないと思うと既に怖いですね。新情報お待ちしております。まだまだ殿下で狂っていたいんだ。

 

 次回は、殿下とアレクサンドル大公の手紙と日記の一部をご紹介しようかな、と考えております。連載とするかは不明ですが、長くなるので、2-3回分くらいにはなるかな、と思います。

アレクサンドル大公の日記は、殿下関係の文献の中で最も涙腺破壊力が高く、今回にも増して更に高火力なので、バスタオルをご用意してお待ち下さい。

お楽しみに。

 

 それでは、今回はここでお開きとします。また次の記事でもお目に掛かれれば幸いです!