世界観警察

架空の世界を護るために

失恋の証 - 限界同担列伝3

 こんばんは、茅野です。

熱が冷めないうちにどんどん参りましょう。鉄は熱いうちに打て!

 

 というわけで、今回も「限界同担列伝」シリーズです。ロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下(1843-65)のことが大好きすぎて奇行に走る周囲の人を取り上げていきます。

わんさと沸いて出てくる限界同担の皆さん。わたくしとしても、何人ご紹介していいやらわかりません。まだまだおります。

↑ 第一回はこちらから。画家アレクセイ・ボゴリューボフ篇です。

 

 第三回となる今回は、セルゲイ・ディミトリエヴィチ・シェレメチェフ伯爵と、エカテリーナ・ペトローヴナ・オリデンブルクスカヤ大公女を取り上げます。

 殿下は、前回である第二回の記事でご紹介したように、周囲のありとあらゆる人間を己に惚れさせるばかりか、過激派にまでしてしまうという恐ろしい才能の持ち主です。限界同担と化すのは、やはり彼のすぐ傍に長く仕えた側近が多いのですが、何と言ったって「若くて美しく、聡明で親切な洗練された王子様」です、それはもう勿論恋愛のお話だって出て参ります。

 彼は、皇族としてスキャンダルを意識的に避けるという素晴らしい意識の持ち主で、実際、浮ついた話はほぼ全く出てきません。しかしながら、今回は珍しい恋愛のエピソードをご紹介したいと思います。

 

 今回引用するのは、『セルゲイ・ディミトリエヴィチ・シェレメチェフ伯爵の回想録(Мемуары графа С. Д. Шереметева)』です。膨大な量あり、19世紀後半の帝政ロシアの資料としては重宝されています。しっかし、入手困難……心底欲しいんですけどね……金は出すから売ってくれ。孫引きの形になってしまいますが、別所で引用されているものを引っ張ってきています。ご了承くださいませ。

 

 それでは、お付き合いの程宜しくお願いします!

 

 

セルゲイ・ディミトリエヴィチ・シェレメチェフ伯爵

 まずは伯爵の方からご紹介しましょう。

セルゲイ・ディミトリエヴィチ・シェレメチェフ伯爵(1844-1918)は、高名なシェレメチェフ伯爵家出身の貴族です。最終的には政治家として活躍しています。

 「シェレメチェフ」という姓に覚えのある方もいらっしゃるかもしれませんね。そうです、モスクワに「シェレメチェヴォ空港」という大きな空港がありますが、それはこのシェレメチェフ伯爵家から来ているのです。大貴族です。

↑ 筆者も2017年のロシア旅行で利用しました。

 

 生没年をご覧頂くとわかるかと思いますが、伯爵は1844年生まれ。一方で、我らが殿下は1843年生まれと、今シリーズ初の年下です。尚、殿下の弟であり、未來のアレクサンドル3世であるアレクサンドル大公は更に翌年の1845年生まれです。このことから、青年期のシェレメチェフ伯爵はアレクサンドル大公の幼馴染みとして知られていました。

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↑ 若き日のシェレメチェフ伯。

 弟の幼馴染みとあらば、当然兄とも交流が生まれるもの。従って、伯爵は回想録に殿下のことも書き残しています。側近に優しく敬語で語りかけている殿下ばかり見ていると、同年代に対して悪戯っぽく年相応に振る舞う殿下の姿は新鮮かもしれません。

 

エカテリーナ・ペトローヴナ・オリデンブルクスカヤ大公女

 次に、オリデンブルクスカヤ大公女をご紹介したいと思います。

彼女は1846年生まれと、更に年下。殿下とは3歳差です。「大公女」とあるように、オリデンブルクスキー家はロマノフ家の親戚にあたり、殿下とは再従兄妹の関係にあります。愛称は「ティナ(Тина)」。

↑ ティナ大公女。

 幼少より身体が弱く、結核を患っていたといいます。そのせいもあってか、内気で、自宅で読書をすることを好んだようです。特に好きな作家はミハイル・ユーリエヴィチ・レールモントフ。わかります(わたしも大好きなので……)。

聡明なことで知られ、頭脳明晰な少女であったとか。殿下とも話が合ったのでしょうね。

持病があり、更に母や兄二人と折り合いが悪かったようで、大公女でありながらも、あまり恵まれない幼少期を過ごしたといいます。

 

 記事の方向性から察しがついていらっしゃるかとは思いますが、彼女は純粋に、恋愛的な意味で殿下に恋していました。しかし、それと同時に、シェレメチェフ伯爵も彼女に恋していたのです。ここに、恋の三角関係が始まります。

シェレメチェフ伯爵家は高名ですし、オリデンブルクスキー家も皇族に近いということで、シェレメチェフ伯の恋はスキャンダルになりかけ、伯爵はかなり困っていた様子です。

 

 このように、恋愛というセンシティヴな題材ですし、我らが殿下やティナ大公女はこの件についての記録を残して居らず、シェレメチェフ伯爵の一方的な記述のみになるので、どこまで信憑性があるのかという点に関して、疑わしいと考えている研究者もあります。しかし、もう彼の回想録しか残っていないことには致し方ないのですから、取り敢えずはその内容を考えてみましょう。

 

殿下の印象

 最初に殿下の話が出て来る場面を読んでみましょう。同時代人は殿下を褒めすぎなので、もうこのような記述は五万と読んでいて最早マンネリまであるのですが(この時点でおかしい)、いつも通り、殿下は美しく聡明です。

 В эти годы я редко видел Николая Александровича,  бывал у него только с поздравлением по большим праздникам. Он вообще  был вежлив, приветлив и благовоспитан, наблюдателен и осто­рожен в словах и действиях. Худощавый, красиво сложенный, с большими выразительными глазами и слегка вьющимися волосами, он не мог не нравиться, и всякий, кто приближался  к нему, выносил хорошее впечатление. То же испытал и я, но для меня было нечто и большее, и это совершенно по исключи­тельному и особому обстоятельству, никому не известному. Это обстоятельство, хотя совершенно  постороннее,  придавало  несколько иной, хотя еле заметный, оттенок нашим сношениям.

 数年の間、私はニコライ・アレクサンドロヴィチのことは祝祭日にしか見かけず、余り顔を合わせる機会はなかった。彼は概して礼儀正しく、愛想が良くて、観察力があり、言葉や振る舞いに細心の注意を払っていた。痩せた美しい体躯をしており、表情豊かな大きな目と少しカールした茶髪を持つ彼は、出逢った人の誰からも好かれざるを得ず、またあらゆる人に好印象を抱かせた。私も同じく好印象を受けたが、しかし私にとってはそれ以上の何かがあった。それは誰も知らない、極めて特別な事情の為だった。こうした事情は、彼とは全く無関係だったものの、私達の関係に若干の異なった陰を落としていた。

 「それ以上の何か」とは……???

若干濁してますけど、「恋敵」って認識ですよこれは!  ライバル視される殿下、めちゃくちゃレアです。まあ、どう考えても最も敵に回したくない相手ですよね、ええ。

 それでも殿下を賛美するのは、あれなんですかね? 自尊心を傷つけないためとか、歴史叙事詩とかではあるあるの「勝者が自分が打ち倒した敵を誇張して描く」的な側面もあるんでしょうか?  まあ、殿下のことは万人が褒め称えているので、嫌味とかではなく普通に書いてるだけのような気もしますが……。

 

マズルカを共に

 では次に、大公女と殿下のエピソードを見てみましょう。

 Случайно на одном бале в недавно отделанной белой зале Эрмитажного дворца Николай Александрович танцевал мазурку с Екатериной Петровной, с этого дня началось сближение.

 最近修復されたエルミタージュ宮殿の白の広間で、偶然にもニコライ・アレクサンドロヴィチはエカテリーナ・ペトローヴナとマズルカを躍り、そこで親交が始まった。

 あ~~「THE・19世紀の宮廷恋愛」って感じで堪りませんね。

 

 オリデンブルクスキー家は、ロマノフ家と近い親戚とはいえ、ほぼ全く交流はなかったようです。特に、殿下と同年代にあたるティナ大公女の兄ニコライとアレクサンドルは公務や皇家の威信という概念に関心が無く、放蕩に耽っていて、殿下からも厳しい目で見られていました(殿下が明確に他人を嫌うというのもまた珍しいです)。

更に、大公女の母テレーザと、殿下の母である皇后マリヤ・アレクサンドロヴナは不仲で知られ、関わる機会がほぼ絶たれていたのでした。シェレメチェフ伯の描写を読んでも、せいぜい「面識がある程度」でしょう。

 ティナ大公女は内気な読書家タイプで、本来社交や舞踏会は好まなかったらしいのですが、この日を切っ掛けに積極的に宮殿に足繁く通うようになります。Сомненья нет: увы! Тина В Никсу как дитя влюблена...(※『エヴゲーニー・オネーギン』第八章のパロディ。「疑いは晴れた。ああ! ティナはニクサに子供のように恋したのだ……」)

 

 宮廷恋愛に詳しい方はお気づきかもしれませんが、この文章、何が大事かと申しますと、「マズルカ」です。舞踏会ではワルツ、ポルカ、カドリール、ポロネーズ……などなど、様々な躍りが踊られますが、マズルカの扱いは格別です。

そもそも、マズルカポーランド発祥の舞曲で、ロシアには19世紀前半に流入しました。原則的にステップが難しく、頻繁に踊られるにもかかわらず、正確に踊れる人は限られていました。逆に、マズルカが踊れるということは、舞踏会慣れした洒落者の証でもあったのです。

 更に、それだけではなく、舞踏会というのはある程度、所謂「セットリスト」が固定されていて、マズルカは一番最後に踊られることが多かったようです。大トリということで、舞踏中や舞踏後のお話の時間が長く取れることも幸いし、マズルカの相手というのは、恋の本命の相手を選ぶものとされていました。

 舞踏の申し込みは通常男性から行いますから、そのときはまだ個人的に会話をしたことすらなかった殿下に、偶然マズルカのお相手を申し込まれた大公女は、そこで己の恋に気が付いたんじゃないでしょうか。青春だ…………。

 

 尚、「エルミタージュ宮殿の白の広間」というのはこちらです。

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1863年に描かれた絵画。う、美しすぎる……。

 白の広間は、1841年、殿下の両親である皇帝(当時は皇太子)アレクサンドル2世と、皇后(当時は皇太子妃)マリヤ・アレクサンドロヴナが結婚する際に設えられた広間です。「両親の結婚で用いられた場所で」「マズルカに誘われる」、これは、どう考えたって「脈あり」ですよね。

 

しかし、君ではなく

 恋の行方を追ってみましょう。ここで出て来るカギ括弧「」は詩が引用されているもので、実際に行われた会話ではないことに留意してください。

 Он смотрел на нее как на сестру, и она этим довольствовалась,но  сама все сильнее и сильнее поддавалась другому чувству…

« С тобою я б хотела
Быть ласковой и нежною сестрой. »

« Сестрою ли?.. О, яд несбыточных мечтаний,
Ты в кровь мою вошел и отравил ее!
Из мрака и лучей, из странных сочетаний —
Сплелося чувство странное мое. »

 彼は彼女を妹として見ており、彼女もそのことに満足していた。しかし、膨れ上がった別の感情はどんどん強くなっていった……。

「君には愛らしく優しい妹であって欲しいと願ってる。」

「妹?…… ああ、叶わぬ夢の毒よ、お前は我が血に入り込み、そして毒殺するのだろう! 闇と光の奇妙な結合から―――私の奇妙な感覚は固く絡み合う。」

 わたし、これ、『エヴゲーニー・オネーギン』で見た!!! 帝政ロシア貴族男性っていつもそうですね! 乙女の恋をなんだとおもってるんですか!?

 19世紀の帝政ロシア貴族社会というのは恐ろしいところで、自尊心を満たしたいが為に、好意を仄めかせ相手から告白させ、それが確認できたら振る、という「恋愛遊戯」なる文化がありました。

この遊戯が最もよく描写されているのがミハイル・ユーリエヴィチ・レールモントフの傑作小説『現代の英雄』ですが、フィクションのみならず、著者レールモントフ自身、この遊戯で乙女を「征服」していたことがわかっています。怖い!

 

 一方、片方にその気がなくても、恋愛慣れしていない人が洗練された相手に本気の恋をしてしまうという例もあって、それが『オネーギン』のパターンです。『オネーギン』でも、主人公である帝都育ちの洗練された青年オネーギンが、世間知らずの田舎の令嬢ターニャの愛の告白を断りますが、その台詞が、

Я вас люблю любовью брата
И, может быть, еще нежней.

私はあなたを兄のような愛で愛しています

或いは、もしかしたらもっと優しい愛かもしれない。

です! オペラのアリアでも全く同じ歌詞で歌われます。

↑ オネーギン役を最大の嵌まり役とするディミトリ・ホロストフスキー様の歌唱。だいすきです。日本語字幕付きなので、安心してご覧下さい!

 

 殿下が意図的に、「恋愛遊戯」を行っていたのかどうかはわかりません。あらゆる人が認めているように、殿下は礼儀正しい人物ですし、20歳頃「暫く恋はしていませんが……」という手紙を書いていることからも、恋愛自体に興味がなさそうです。

一方、花の盛りのハイティーン、一度くらい気紛れを起こしてもおかしくないよなあ……なんて思わなくもないです。しかし、少なくとも、これは当時のロシア帝国愛の告白を断る最も一般的な定型句であったとも言えます。

 

 さて、ここの後半部で引用されているのは、ミラ・ロフヴィツカヤ(Мирра Лохвицкая)の『しかし君ではなく(Но не тебе)』という詩です。19世紀後半に活躍した女性の詩人で、当時は人気があったようです。

少々専門的な話になってしまいますが、『しかし君ではなく』は、abab/cdcd/efefで脚韻を踏んだ12行詩で、上記のような「定型句」により恋に破れた女性のことを詠った詩です。

Но не тебе

Мирра Лохвицкая

В любви, как в ревности, не ведая предела, —
Ты прав, — безжалостной бываю я порой,
Но не с тобой, мой друг! С тобою я б хотела
Быть ласковой и нежною сестрой.
Сестрою ли?.. О, яд несбыточных мечтаний,
Ты в кровь мою вошел и отравил ее!
Из мрака и лучей, из странных сочетаний —
Сплелося чувство странное мое.
Не упрекай меня, за счастие мгновенья
Другим, быть может, я страданья принесу,
Но не тебе, мой друг! — тебе восторг забвенья
И сладких слез небесную росу.

↑ 全文。太字の部分が引用されています。

 

湖の畔で

 暫くのち、シェレメチェフ伯爵は殿下と二人きりで話す機会に恵まれます。伯爵は心中穏やかではなさそうですが、そんな邂逅の記録を読んでみましょう。

 Мне было все известно, что касалось до Николая Александровича. Нередко приходилось от нее слышать «Говорила с Никсой, — и тогда прибавляла она, — и  о тебе». Екатерина Петровна почему-то нашла нуж­ным сообщить цесаревичу о наших отношениях; он иногда шутя прикидывался ревнивым и спрашивал, кого из двух она больше любит?.. Все это было еще  очень молодо и в жизни не повторяется. При встречах со мною он стал ласковее.

Особенно памятен мне один день. Это было в Царском Селе. Иду я по тенистой аллее парка около озера,и на повороте встречается мне цесаревич. Он остановил меня и предложил пойти с ним вокруг озера. Мы вернулись с противоположной стороны. Все время он разговаривал, расспрашивал, был чрезвычайно приветлив. Говорил он о моих занятиях, о военной академии, об Ольденбургских (причем старшего сына назвал «Блудным сыном»), говорил и о Екатерине Петровне…

 私はニコライ・アレクサンドロヴィチに関することは全て知らされていた。家に訪れた彼女から、「ニクサとはね、あなたのことも話すのよ」と言われることもしばしばあった。エカテリーナ・ペトローヴナは、どういうわけだか、私達の関係を皇太子に伝えなければならないと考えていたようだ。

皇太子は時折、嫉妬を装いながら、冗談めかして、「彼女は僕と君、どちらをより愛しているのでしょうね?」と訊いてくることもあった。全ては若き日々の話で、人生において繰り返されることはない。私との出逢いで、彼はより親切になったように感じた。

特に忘れられない一日があった。それはツァールスコエ・セローでの出来事だった。湖の畔に広がる、日陰になった並木道を歩いていると、曲がり角で皇太子に出会した。彼は私を呼び止めて、湖の周りを一周しないかと誘ってくれた。私達は反対側から元の場所に戻った。ずっと彼が主導的に話し、私に色々質問もしてくれた。彼は総じて非常に親切だった。彼は私の学業のこと、陸軍士官学校のこと、オリデンブルクスキー家のこと(彼は長男のことを「放蕩息子」と呼んでいた)について尋ね、そしてエカテリーナ・ペトローヴナのことを話した……。

   いつの間にか殿下の情報通になっている伯爵の図。恋敵のリサーチにも余念がありません。

 しかも何が面白いって、そこで殿下のことを賛美しているどころか、なかなか "濃い" 表現で描写しているんです。他の文献でもですね、「皇太子のコートから少しだけ顔を出す、その首を覆う白く清潔な襟はいつでも美しく~云々」みたいなことを書いておりまして、着眼点や書きぶりがなんか変態っぽいんですよ(※個人の感想です)。恋敵のリサーチをしているうちに同担になってしまわれたのかな……恋敵を変な心理状況に陥れる我らが殿下であった……。

 

 それにしても、「彼女は僕と君、どちらをより愛しているのだろう」とは……、いやそんな乙女ゲームみたいな……。気が無いくせに嫉妬を装うとは、やっぱりこの人、「恋愛遊戯」を楽しんでいるな? この伊達男め!

 それから、大公女には彼を「ニクサ」と呼ぶ権利があったこともわかりますね。殿下の愛称は確かに「ニクサ」なのですが、家族以外はこの名で呼ぶことができませんでした。親しい友人でも、やはり敬意を表して「殿下(Ваше Высочество)」と呼び掛けたり、日本語で言うと「さん付け」くらいに相当する名前+父称呼び(殿下の場合、「ニコライ・アレクサンドロヴィチ」)しています。彼らは再従兄妹の関係なので、身内扱いになったのでしょう。

 ロシア語の人名の愛称形(略称形)というのは原則決まっていて、ニコライさんなら「コーリャ」が一般的です。「ニクサ」は殿下特有の愛称で、他にこの名で呼ばれる人はいません。ロマノフ家は同じ名前の人が大層多いので、ニコライさんはそれぞれ、「ニックス(ニコライ1世)」「ニキ(ニコライ2世)」などのように、固有の愛称を持っています。

 

 尚、「ツァールスコエ・セロー」と申しますのは、ペテルブルクの中心街から少し離れた場所のことで、ここにあるエカテリーナ宮に殿下も住んでいました。普段殿下の研究を趣味でしているくせに、「宮殿に住んでいる」という事実を突きつけられて漸く「そっか……王子様だもんな……」と実感します。皆様もですね、皇族を推しに持つと、「ああ、宮殿? 推しん家ね。」と言えるようになりますよ!(?)

 湖というのは、恐らくエカテリーナ宮の前に広がる大きなものを指していると思われます。

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↑ 黄金の秋に染まるツァールスコエ・セロー。湖の畔は散歩道として高名でした。

 

 「何の話をしたか」に留められ、「具体的に何を言ったか」がわからない会話ですが、その暈かし方が巧妙で、恋愛小説であれば素晴らしい描写であると褒め讃えたいところです。彼女について、二人はどのような意見を交わしたんでしょうね。

 

殿下の死

 結末は皆様ご存じの通りです。

1864年、殿下はデンマークを訪れ、ロシア帝国と親密な関係を築くのに申し分のない国家であるデンマークの王女であり、更に聡明で快活な美女として知られるダグマール姫に求婚。我らが魅力的な殿下と、才色兼備の姫。政略結婚ながら、直ぐに相思相愛となって、幸せな時を過ごします。

ところが、その半年後の65年4月、不治の病である結核髄膜炎に冒された殿下は、フランスのニースで愛する婚約者に看取られ、その短すぎる生涯を終えます。

 ニースで起きた悲劇は、当然遠きロシアで失恋に苦しんでいた大公女にも著しい影響を与えました。読んでみましょう。

 Но вот в 1865 г, заболевает цесаревич, и 12 апреля в Ницце его не стало. Это был последний удар. Вижу его похороны, вижу ее у большого зеркального окна кабинета, головою она упиралась на стекло и пристально глядела на крепость (Екатерина Петровна не была ни на выносе, ни на погребении по болезни).

 Между тем сестра поправилась, а положение Екатерины Петровны ухудшалось, особенно после форточки. Как все это допустили — не знаю, как могло это случиться — не понимаю. Ясно одно, что она не хотела жить. 

 しかし1865年、皇太子は病に冒され、4月12日にニースで帰らぬ人になった。これは最後の打撃となった。彼女が私室の大きい鏡のような窓から、ガラス越しに要塞での彼の葬儀をじっと見ているのが見えた(エカテリーナ・ペトローヴナは病の為、彼の出棺にも埋葬にも立ち会うことができなかった)。

 その間に、妹の病は完治したが、エカテリーナ・ペトローヴナは更に悪化していった。何故そのようなことが許されたのか、私は知らない。何故そのようなことが生じたのかも、私にはわからない。しかし、一つ明白だったのは、彼女はもう生きることを望んでいないということだった。

 元々結核を患っていたティナ大公女は、失恋と、その相手である殿下の死という二連続の打撃によって酷く体調を崩しました。そのせいで、殿下の死に纏わる一切に参加することができなかったといいます。

 1865年の7月を舞台としているドストエフスキーの傑作『罪と罰』によれば、この年の7月は異例の猛暑に襲われたとありますが、5月のペテルブルクはまだ寒かったようで、窓際に長く座っていただけにも関わらず病状は悪化していったとか。

 

 ちなみに、彼女の妹は猩紅熱に罹っており、一時は危ない状況でしたが、無事に回復。

一方で、大公女は生きる気力を削がれ、回復するものもしなくなっていったと言います。更に、薄着で外に出るなど、意図的に体調を崩すような行動を繰り返し、病状はみるみる悪化。

シェレメチェフ伯や、彼女の家族によれば、これは「消極的な自殺」であったと表現しています。殿下の死に耐えられず後追い自殺。ティナ大公女は同担の中でも最もハイレベルであると申し上げて差し支えないでしょう。流石に一生勝てません。

 

失恋の証

 最後に、この悲しい恋愛物語の結末を追って、お終いと致しましょう。

 Когда-то цесаревич Николай Александрович подарил ей бирюзовый перстень, она с ним никогда не разлучалась.  В завещательном письме своем она этот перстень оставила мне.

 かつて、ニコライ・アレクサンドロヴィチは彼女にターコイズの指輪を贈ったことがあり、彼女はそれを肌身離さず身につけていた。遺言状で、彼女は私にこの指輪を譲ってくれた。

 前述のエピソードで、ティナ大公女の恋が破れたことは既に触れました。

大公女は、どうやら本当に殿下に愛の告白をしたようなのですが、殿下は彼女のことを恋愛対象としては見ていませんでしたし、皇太子という立場上、身勝手な恋愛をすることは許されず、「オネーギンのアリア」でその愛を拒絶したことがわかります。

彼女はその返答を受け入れましたが、「せめて、これからも友人でいてください」と殿下にお願いをしました。その際、殿下は「友情の証」として、彼女にターコイズの指輪をプレゼントした……と、こういう成り行きがあったようです。

 当時、ターコイズの石は現代で言う「石言葉」とか「パワーストーン」のような感じで、「幸運の石」として知られていたようで、殿下はそれをわかっていてプレゼントしたのでしょうね。

 

 しかしながら、殿下は病に冒され、激しい痛みで酷く苦しみながら他界。

    殿下の心を射止めたダグマール姫にしても、結婚を目前にして、目の前で最愛の人が息を引き取るという悲劇を経験することになりました。

 殿下の死で精神的な打撃を受けたティナ大公女は、「消極的な自殺」を行い、持病の結核を悪化させて、殿下の死の翌年の66年、二十歳にもならずして亡くなります。

 シェレメチェフ伯にしても、恋する相手も恋敵も、一気に失う結果となりました。

 この恋愛物語は、結局のところ、誰もが幸せになれない結果に終わったのです。若者の間の愛と死が立て続けに起こり、さながらオペラのリブレットのようですが、実際に起こった出来事でした。

 

 シェレメチェフ伯は、74年間生き、当時としてはかなりの長寿でしたが、殿下が大公女に贈ったという「友情の証」たるターコイズの指輪を、生涯特別に大事にしたといいます。シェレメチェフ伯にとって、それは友情の証でもなんでもなく、連鎖的に起こった苦い「失恋の証」であったことでしょう。

 殿下に対し、始めは好印象を抱きつつも、次第に恋敵として嫉妬を滲ませながら見つめ、しかし憎みきることもできず、愛憎混じった複雑な心情を抱えていたシェレメチェフ伯。後年、この指輪を見つめるとき、何を想い、何を考えていたのでしょうか。

 

最後に

 通読ありがとうございました。13000字です。

オペラの悲劇じみた悲しいお話でしたが、大公女の「自殺」は殿下大好き限界同担ファミリーの中でも随一です。流石にちょっとヤバい。

 前述したように、こちらはシェレメチェフ伯の一方的な記録ですし、誇張表現なども色々あると考えられ、信憑性に関しては研究者の間でも意見が割れます。しかし、これしかもう資料が残っていないので、こちらを検討すること自体には意味が生じるでしょう。

 しっかし、推しが推し作品(『オネーギン』)の主人公ムーヴをするとか! どれだけこのわたくしを沼の底に沈めようとすれば気が済むんでしょうね、この伊達男さんは!? 困ります! このままだとわたくし自身が限界同担列伝に載ってしまう!(?)

 そんな心配をせずとも、同担はまだまだ沢山おりますのでご安心下さい。まだまだ続きます。限界同担たちの殿下への甘い愛で胸焼けする前に、しょっぱいものでも用意しつつお待ち下さい。

 それでは今回はお開きとさせて頂きます。次の記事でまたお目にかかれれば幸いです!

↑ 第四弾が上がりました。ボリス・チチェーリン教授篇です。