世界観警察

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映画『サントメール』 - レビュー

 こんばんは、茅野です。

先日、Filmarks というアプリを導入したので、映画のレビューはそちらですることにしても良いかなあ……と思ったりしました。

↑ 現在上映中の映画、一応こちらで雑感を書いています。

 しかし、「これは記事にせねば……」という映画も色々ありますわけで、内容に応じて使い分けていこうかな、と思います。

書籍では読書メーターを利用していますし、そこまで長くならなそうならば Filmarks も活用していこうと思います。宜しくお願いします。

↑ こちらは読書メーター。便利です。

 

 そんなわけで、今回は映画レビュー記事になります。先日は話題のフランス映画サントメール』にお邪魔しました。

↑ まだ上演しているので宜しければ。

ポスターなどが上がった段階から、「これは観ねば……」と思っていた作品です。

 

 今回はこちらの雑感を記して参ります。それでは、お付き合いの程宜しくお願い致します。

 

 

キャスト

ラマ:カイジ・カガメ
ロランス:ガスラジー・マランダ
裁判官:ヴァレリー・ドレヴィル
弁護士ヴォードネ:オーレリア・プティ
リュック・デュモンテ:グザヴィエ・マリ
監督:アリス・ディオップ

 

雑感

 Bunkamura が改装につき一時閉鎖となり、初めての渋谷宮中。「場所知らないところ行くの面倒くさいなあ……」と気乗りしなかったのですが、Bunkamura よりずっと駅前だし、洒落ていて綺麗だったのでもうずっとこっちでいいよ、と思ってしまいました。ダイナミック手の平返し。

 足を完全に伸ばしても前の席に爪先すら届かないスペースの広さ。素晴らしいですね。文化会館は見習って下さい。


 個人的には、『プライマ・フェイシィ』以来の裁判ものです。

↑ マジモンの一人芝居です。余りにも強すぎる……。

こちらもジェンダー(女性)が主題となっているものでしたね。相性良いんでしょうか。

 

 『サントメール』は、実際の裁判記録をそのまま台詞にしたという、画期的な映画です。ドキュメンタリーやノンフィクションとは言わないまでも、かなり史実(元ネタ)に忠実なフィクション、というところでしょうか。そういうのとても好きです。

 実際の事件も、セネガルからフランスに留学した非常に優秀な女性が、年の離れた男性と恋仲になり、子を産み落とすも、精神を病み、その子を波打ち際に放置して殺してしまう、という、今作と全く同じ状況です。ちなみに、現実では、被告の名前はファビエンヌ・カブー氏、亡くなった女の子はアデレード(アーダ)ちゃんというそうです。

 鑑賞後、軽く調べてみたところ、確かに作中で言われていた台詞が当時のニュースにもなっていますね(英語ですが、例:"It was so dark the moon was like a spotlight.")

↑ 当時のニュース。

 年代から察するに、カブー氏は未だ服役中のはずですし、関係者など、権利関係どうなっているんだろう……と思ったり。

 

 カブー氏≒この映画のロランスは、女性であり、母であり、移民であり、学生であり、インテリ層のエリートであり、有色人種(黒人)であり、超年齢差恋愛をして社会的に不安定な状態にあり、精神を患っています。殆どの要素が「マイノリティ」です。この映画を観たり、この記事を読んでいる方の中でも、何一つとして当て嵌まらないという方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 そんな中で、重要になってくるのが、もう一人の主人公ラマの存在です。必ずしもロランスと境遇が完全に一致するわけではない(かといって全てが異なるというわけでもない)彼女がロランスと自分を重ね合わせることによって、いい意味でマイノリティ性を薄めていて、ロランスを普遍的な存在として昇華させています。

誰だってロランスのようになる可能性がある、ということを明示しているのです。

 

 公式サイトなどでは、「真実はどこにあるのか?」のようなミステリ調に広告しているようですが、本作はミステリではありません。最後に全ての真相が明らかになって、スッキリ、めでたしめでたしというエンディングにはならないからです。

 かといって、手に焦る法廷劇、という感じもしません。極一部を除いて激論を交わすわけでもなく、淡々と裁判は進んでいきます。

 ロランスの供述は文学的で、本物の裁判記録とは思えない程美しく、これは見所の一つでしょう。しかし、一番はやはり、「母になるとはどういうことか」「彼女に誰が、どのように手を差し伸べるべきであったか」というような、倫理・社会哲学・政治的な側面でしょう。


 当ブログでは何回か言及していますが、わたしは小坂井敏晶先生の論考が好きで、強い影響を受けています。特に、『責任という虚構』は、精神が疲弊した際の聖書だと思っています。

↑ 小坂井先生の著書はいいぞ。他の書籍もオススメです。

↑ 過去に何度か布教しています。

 ここでは、責任というものは本当は存在せず、社会を円滑に動かすための装置として導入されているに過ぎない、ということが説かれています。

 罪というのは、一人(或いは複数)の人に全て被せてスケープゴートにしてしまうことが、社会としては「都合がよく」、社会を構成する大多数とは無関係としてしまう方が「楽」なのかもしれません。

しかし、犯罪というものは、全て一人の思想・行動によって引き起こされるものでしょうか。それは周囲や、生い立ちや、社会には関係がなく、それらには罪がないのでしょうか。

かつて、19世紀の思想家アレクサンドル・ゲルツェンは『誰の罪か?』という小説を書きましたが、この問いは21世紀になっても健在のようです。

 小坂井先生は、パリ第8大学で教鞭を執っておられる方ですから、必然的にフランスとの関わりも深く、エッセイ系の本ではフランスでの生活などについても触れられています。フランスの法形態や、価値観の違いなども感じられて興味深いです。

しかし『サントメール』作中の裁判では、女性や移民、有色人種に全く無理解な発言も飛び出し、フランスでもこの程度か……と失望してしまいますね。人類の意識改革の道程は長そうです。

 

 タイトルが「サントメール」なのも示唆的であると感じます。普通ならば、このような内容の場合、主人公の名前をタイトルにしそうなものですが(要は『ロランス・コリー』みたいな)、裁判が行われた地「サントメール」というのは変わった命名だな、と思います。尤も、実際の裁判が元となっているので、創作キャラクター名を題に使うのは憚られたのかもしれませんが……。

 監督がどのような意図でそう題したのかはわかりませんが、これが一人の女性の物語ではなく、社会問題であるという意識からなのかもしれません。

 

 ロランスもラマも、教養あるインテリ女性です。「教養ある女性なら、フランス語くらい流暢に話せて当然よ。」というような台詞もあり、身をつまされる思いですが……。

 ラマは、この裁判を題材に、「難破したメデア」という小説を書こうとしています。作中では、「メデアはアカデミックすぎる、もっと人口に膾炙した表現を用いる方がよいのでは」「そう? メデアは充分有名でしょ」というような会話も出てきます。

  確かに、「メデア」が何かわからないと、何を言っているのかわからず、つまらないかもしれません。メデアはギリシア神話に登場する女性で、彼女には夫に棄てられた復讐として二人の息子を殺害する物語があります。メデアはロランスと同じように、我が子を深く愛しています。それなのに殺してしまうのです。これは矛盾でしょうか? 愛が足りないのでしょうか? 何故なのでしょうか。

 メデアの物語はオペラにもなっています。昨年始めて鑑賞しましたが、とんでもない作品です。機会があれば観てみてください。

↑ ラドヴァノフスキー氏、ほんとにとんでもなかったです(語彙力消失)。

 ロランスをメデアに喩えるのは秀逸だと思いました。

 

 これは日本でもよく話題になりますが、出産・子育てに於いて、父に比べ母の負担が大きすぎるという点は、是正していかねばならない問題です。パートナーのリュックの協力があれば、ロランスが精神を病んで可愛い我が子を手に掛けることはなかったでしょう。

 また、彼女は実の父とは縁を切っており、母は娘に過度な期待を寄せる、所謂「毒親」に近いこともわかります。

 更に、大学では移民・有色人種に対する偏見があったこともわかります。ロランスはフランスで、リュック以外に助けを求められなかったのでしょう。

 ロランスが「フランスで哲学を学びたい」と思ったことは、傲慢で、身の程知らずなことなのでしょうか? そこで、唯一助け船を出してくれた男性と恋に落ちることは、不自然なことでしょうか? 恐ろしい子殺しは必ずしも彼女の罪、或いは彼女 "だけ" の罪でしょうか?

 周囲、社会、地域、国家が、どこかで彼女に手を差し伸べられなかったのか、手を差し伸べるシステムを構築できないのか、このままでは彼女のような人を増やすばかりではないか。我々には考えるべきことが沢山あります。

 

 最後のロランスの弁護士ヴォードネの演説は見事です。この演説に関しては、是非とも劇場で原文を聞いて頂きたいので、深く触れることはしません。

(しかし、これが名演説であればこそ、「それでもあんたのママは私一人よ!」の恐ろしさが際立つと申しますか。やはりとんでもないオペラだ。誰もが母と繋がっていて、逃れられない以上、まずは母を救わなければならないのかもしれません)

 劇場でお楽しみ下さいませ。

 

 現実で行われた裁判の記録をそのまま台本とし、そこに被告に共感する女性ラマを置くことで、現実の我々との距離を更に近づけた構成となっている映画です。

大スペクタクル! 技巧的! というような作品ではありませんが、静かに、しかししっかりと、我々に問いを投げ掛け、行動を促す社会派の名作です。

 

最後に

 通読ありがとうございました。4500字程です。

 

 この記事を書くにあたって、映画の公式サイトを拝見したら、ロランス役のガスラジー・マランダ氏は、アメリカ製のロマノフ家のらくBドラマに端役としてご出演なさっているらしいです。流石に笑いました(※わたしは普段ロマノフ家の某皇子を執拗に追い掛けている)

僭称者特集の創作ドラマらしいです。三周回って気になるけれど、笑わずに観られる気がしない。どなたか鑑賞会しましょう。

 

 次回の映画レビューに関してですが、我らがミッシェル・オスロ監督の新作『古の王子と3つの花』が公開となりました! アフリカのフランス植民地繋がりで御座います。

次はこちらを観に行きたいと考えております。楽しみ。

 

 それでは、今回はここでお開きと致します。また次の記事でもお目に掛かることができましたら幸いです。