世界観警察

架空の世界を護るために

婚約を巡る書簡集 ⑷ - 翻訳

 こんばんは、茅野です。

昨日、面白いツイートを拝見しました。

そんなことあるんですねえ。デンマーク語の学習が役に立った(?)、比較的貴重な場面でした。

 日本は島国ということもあってか、外国に憧憬や偏見を抱きやすい傾向があるかと思いますが、安易な外国人設定で、その国や地域の文化や言語を蔑ろにしたり、ステレオタイプを助長させるような行為は頂けないですね。

グローバル化が進んだ時代ですし、出版社などが、この辺りはセンサーを尖らせていて欲しいな、と願うものですが……。

 

 さて、それでは、そんなロシア人やデンマーク人のステレオタイプとは恐らく大分異なる実在の人々を追って参りましょう(ロシア人やデンマーク人のステレオタイプってどんなものか、正直よくわかっておりませんが。皆様はどんな人を想起しますか?)。

 今回は「婚約を巡る書簡集」の第4回ロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下と、デンマーク王女ダグマール姫の婚約に纏わる手紙を読んでいくシリーズです。

↑ 第1回はこちらからどうぞ。

 

 第4回となる今回は、少し寄り道をして、書簡ではなく関連する回想録を見てゆきます。デンマーク側と、ロシア側双方からの記録を見てみましょう。

最初に、デンマーク王クリスチャン9世(ダグマール姫の父)の秘書官であったイェンス・ピーター・トラップの回想録から、殿下のデンマーク滞在中の抜粋を読みます。

次に、補足として、殿下の友人(?)セルゲイ・ディミトリエヴィチ・シェレメチェフ伯と、殿下の秘書官であるフョードル・アドルフォヴィチ・オームの回想録の一部を読んで参ります。

 

 今回もお楽しみ頂ければ幸いですね。

それでは、お付き合いの程、宜しくお願い致します!

 

 

トラップの回想録より

(前略)

 8月24日、イタリアのウンベルト王子がベルンストルフにやって来た。

もし歓迎の意が示されたら、彼は間違いなくダウマー姫に求婚していただろう。しかし、前述のように、当時人々の目はロシアとの関係に向けられていた。

その上、彼は魅力的な人物ではなかった。コルセットでも締めているかのような歩き方をしていて、地味で、気品もなかった。

 

 9月2日、ロシアのニコラウス大公がフレデンスボーに来た。夏の間、宮廷はベルンストルフからこちらに移っていた。ウンベルト王子の存在が、彼の到着を急がせたと言われている。

 

 9月6日には、プリンス・オブ・ウェールズ夫妻が到着した。

ロシアとイギリスの皇族が同席しているのを見るのは、何だか奇妙な感じがした。

 ある晩、常に落ち着きがなく、意気軒昂なプリンス・オブ・ウェールズは、歴史ある椅子取りゲームをアレンジしたものを企画し、彼とその仲間達はそれを比類無き執念で練習した。国家財産に思いを馳せる私は、彼らによって次々と破壊されていく古い椅子を震え上がる思いで見ていた。ロシアの紳士達は、完全に困惑してしまっていた。

 プリンス・オブ・ウェールズ夫妻が到着した翌日、王妃の誕生日が盛大に祝われた。

 

 9月16日、クリスチャンボー城の大広間で盛大な晩餐会が開かれた。プリンス・オブ・ウェールズ夫妻はこれに参加した。

大公は7日に既に出国したが、クリスチャン王に対し、ダウマー姫に求婚する許可を皇帝から得る心積もりであることを仄めかしていた。

 数日後、私は王室の告解聴聞僧であり、非常に高名なパウリ教区長と話をした。

彼は、ロシアの法律によれば姫は改宗しなければならないと知り、大公との結婚に大きな不安を抱いていた。

「何が待ち受けているのか、彼女に話さねばなりません」、とした上で、無邪気にこう付け加えた。「しかしまあ、どうにも姫様は彼を好いているご様子なので、何の問題もないでしょう」。

このことから、現代では宗教のためにドイツ王位を拒否したソフィーエ・ヘゼヴィの時代とは如何に異なっていたのかがわかる。

 しかし今日(72年10月28日)、メクレンブルク=シュヴェリーン王女が、宗教を理由にヴラディーミル大公の求婚を拒んだ、と新聞で読んだ。ロシア宮廷は譲歩したらしい。しかし、彼は帝位継承者でもなければ、皇帝でもなかった。

(中略)

 

 父からの温かい承認を示す手紙を携えて、大公が戻ってきた。9月28日の朝、ベルンストルフ庭園を歩いていた時、殿下自ら求婚された。

 晩餐会では、全ての酒瓶が飲み干された。

古いロシアの伝統によれば、婚約のパーティで誰かが「ワインが酸っぱい」と言うと、それを甘くするという名目で新郎が新婦にキスするのだという。

大公の若い同行者がこれをロシア語で言い、若き大公は立ち上がり、躊躇いも無く小さなダウマー様にキスしたのだが、私達にはその理由がすぐにはわからずに混乱した。

 

 翌日、祝言があった。私は花婿の姿をもう少し近くで見ることができた。

彼はかなり背が高く、痩せていて、胸板が薄く、顔色は優れなかったが、やや突き出た、しかし非常に知的な瞳をしていて、鷲鼻で、美しく親しみやすい笑顔の持ち主だった。

彼は現在の帝位継承者である弟とは比べものにならないほど聡明だったが、肉体的な頑健さと宴会好きに関しては後者に分があるだろう。

 

 30日、ベルンストルフで大宴会があった。

ダウマー姫は、皇帝からの10万ダーラーもする六連の真珠のネックレス、大公からのダイヤモンドのブレスレット、そして皇后からの最高級の美しい大粒の真珠でできたブレスレットで自身を飾り立てていた。

その姿は、即位式で麦藁帽子を被り、小さな十字架を掛けていた在りし日のダウマー様とはどれほど異なっていたことだろう。しかし、彼女はあの日と同じように、愛らしく、親しみやすく、自然体だった。今日という日にそうあるならば、今後もそうあり続けるだろう。私達は改めて、ここにも婚約が行われた理由があることを見て取ったのである。

 

 一方その頃、プリンス・オブ・ウェールズ夫妻は、カール王夫妻に会うため、ストックホルムに旅行していた。

この二人、スウェーデン王とプリンス・オブ・ウェールズは、気が合うようだった。私には、どちらがより厄介者か判断することはできない。

 

 10月9日、オスカル王子夫妻が再びフレデンスボーにやって来た。宮廷はこちらに移っていた。

この席では、五つの王国の王位継承者が一堂に会していた。即ち、デンマークスウェーデンノルウェー、ロシア、イギリス、そしてヘッセン=カッセルである。後者は、現在王位継承の見込みが無さそうだが、この時は誰にもそのことはわからなかった。

(後略)

 

解説

 お疲れ様でした! デンマーク宮廷視点の殿下のエピソードをお送りしました。

 

 一回目の訪問後の時点で、殿下のことが好きであることが教区長に丸バレなお姫、可愛すぎます。その場に姉アリックス皇太子妃もいたわけですし、色々恋バナなどしたのかもしれません。

 先日、追加で資料を探していて偶然知ったのですが、殿下が二回目にデンマークに訪れた際、殿下が到着するや否や、ダグマール姫はまず彼を自分の部屋に招いたのだそうです。積極的すぎんか?

そこで彼女は、自分の宝石箱や、自分で描いた絵などを彼に見せ、「私が大切にしているものを、あなたに知って欲しい」というような旨を発言したとか。素敵です。

 それで、第2回でのお手紙で、殿下は「ダグマールはまるで長年の親友のように接してくれて動揺した」と書いているわけですね、納得しました。それは動揺する。

 うら若き乙女が年頃の青年を自室に連れ込んで二人っきり、19世紀の風習的にもなかなか事案の臭いがしますが、殿下は非常な紳士なので助かりました。オネーギンさんだったら絶対お説教始めるところですよここ。

寧ろ、殿下は紳士的すぎるので、常にお姫がリードしている感じしますよね。尚、弟も非常に奥手なので、このような関係性は継続です。がんばれロマノフ家。

 このことからも、殿下はプロポーズ成功の確信を深めたでしょうね。

 

 「あの」スケフェニンフェン滞在の後であることからもわかるように、またお写真からも察することができますが、デンマークに着いた頃には既に、殿下は大分窶れてるんですよね。この時が初対面となるデンマーク人たちは、彼の容姿について、顔色が宜しくない旨などを記している人も多いです。

 最初、「胸が薄い」ってどういう意味だろう、先に「痩身」だと書いているのだから、別に重ねて書かなくても……、鳩胸が流行したのって40年近く前では……? などと悶々と考えていたのですが、これはきっと「扁平胸郭」を指しているのだろうな、と後になって察しがつきました。確かに、殿下は扁平胸郭かもしれない。

 

 そして最後の会合の豪華なこと! わたくしは国際政治の研究会に属していたので、政治の国際会議は自分の領分であり、大好物です。潜り込みたすぎる。議論してくれ……。

 

 さて、それでは少しずつ見て参ります。

 

イェンス・ピーター・トラップ

 こちらの回想録を書いたのは、当時クリスチャン9世付き君主秘書官であった、イェンス・ピーター・トラップです。

↑ トラップ(1810-1885)。

 フレゼリク6世、クリスチャン8世、フレゼリク7世、クリスチャン9世と、四人の王に仕えました(フレゼリクとクリスチャンの応酬なんですね……、その次も姫の兄、フレディことフレゼリク王子ですので……)。

 

 この「君主秘書官」というのは、デンマーク独自の制度であるようです(英国にも類似のものがあるそうで、訳語もここから借りたのですが)。

宮内大臣官房長官を合体させたような職で、国王に次ぐ権力を持つようです。強すぎる。

 

 この他にも、地図協会会長だったり、幅広く活躍されているようです。

今回引用した回想録も、19世紀デンマークの宮廷・政治史を紐解く上で歴史的に重要なもので、全文は非常に長いです。

……という人物の目から見た殿下はこんな感じ、ということですね。

 

ウンベルト王子

 冒頭はウンベルト王子に関してです。殿下とお姫の恋物語では、完全に噛ませ役になってしまっていることでお馴染みです。可哀想すぎる。

↑ 弊ブログでは割とお馴染みの存在になってきたウンベルト王子(1844-1900)。

 人気者のダグマール姫に求婚しようとしていた王子の一人で、イタリアの王太子です。

 

 何回でも言いますが、同じ人間とは思われないような非凡さの塊である殿下と比較するのがまず間違いなので、比較は無益なのですが、そうでなくても、彼は母国でも結構散々な評価されているようです。まさかデンマーク人からも煽られていたとは……。

 殿下とお姫の間でも、度々話の種になっていたようですが、火力の高いことを言っていそうな気がして、部外者ながら怖いですね……。

 殿下はウンベルト王子を「恋のライバル」としてきちんと認識していたようなので、トラップの読みも強ち間違いではないのかもしれません。

 ここミラノでは、私のコペンハーゲンでのライバル、ウンベルト王子と知り合いました。魅力的ではありませんが、しかし断じてぱっとしない人物ではありませんでしたよ。

大公殿下と公爵の往復書簡 ⑺ - 翻訳

 

 19世紀の新聞をひっくり返していた際、「殿下が姫に求婚した時、ウンベルト王子もコペンハーゲンにいた」という記事を読み、「何故わざわざこの時期のコペンハーゲンに!? リア充に焼かれて死にたいのか?!(?)」とか思っていたら、本当に同時期に彼女にアプローチしていたのですね……。怖……マジで乙女ゲームでは……。

 まあ……前述のように、殿下が相手では致し方がないので……、いやこれ辛いだろうな……。

尚、殿下がデンマーク宮廷にいる間、ウンベルト王子は顔を出さなかったそうなので、彼らの初対面はこの後のイタリア編になります。ほんとうに容赦ないな殿下……。

 

ソフィーエ・ヘゼヴィ

 教区長パウリとの会話で言及されるのが、近世デンマークの姫君ソフィーエ・ヘゼヴィ王女です。

↑ ソフィーエ・ヘゼヴィ王女(1677-1735)。

 彼女には、かの神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ1世との縁談があったのですが、ルター派からカトリックへの改宗が嫌すぎて断固拒否。それが罷り通るのも凄い話なのですが……。

その後も幾つか縁談があったものの、結局いずれもお気に召さず、生涯を独身で過ごされた、とのことです。

 

 王朝政略結婚では、必然的に国際結婚になる関係上、高確率で夫妻の何れかが改宗する必要性が出てきます。ここで破談になったり、渋々同意は得たものの非常に嫌がられるケースが多いので、各国王家の悩みの種でもありました。

 殿下と姫のカップルが類い稀なケースであるだけで、王朝政略結婚は愛がない関係の方が多かったことも、この原因の一つでしょう。

「全然知らない国に行って、好きでもない相手に嫁ぎ、信仰の自由もない」となると、気乗りしないのも当然の話だと思います。

 教区長にも殿下への想いがダダ漏れている愛らしい姫ですが、ロシア正教というカトリックよりも離れた宗教への改宗について、彼女自身がどのように捉えたかは、連載の後半で出て来ますのでお楽しみに。

 

ヴラディーミル大公の婚約

 次いで語られるのが、ヴラディーミル大公の婚約に関してです。何を隠そう、この人物、殿下の弟です。サーシャ(アレクサンドル)大公の下の弟、三男になります。

↑ ヴラディーミル大公(1847-1909)。幼少期から肥満気味だったようで、家族からは「おでぶちゃん」という愛称で呼ばれていました。

陽気で喜怒哀楽のハッキリしたお調子者であったようです。

 

 彼は、1872年、メクレンブルク=シュヴェリーン家のマリー大公女に求婚しますが、彼女にロシア正教への改宗を断固拒否されます。

結局、文中にもあるように、ロシア側が折れて、正教への改宗なくして嫁ぐことが決まりました。これは異例ですが、別に皇后になるわけでもないので……という理由で許可されたのでしょうね。

かなり後になって改宗し、マリヤ・パーヴロヴナという名を得ています。

↑ マリー大公女(1854-1920)。

 この他にも、己の権益を守ることに長けた、かなりワガママというか、したたかというか……というような性格の女性であったようです。

 

カール王とオスカル王子夫妻

 「厄介者」と凄い書かれ方をしているのが、隣国スウェーデンの国王、カール15世です。

↑ カール15世(1826-72)。お写真が撮られたのは1865年とのこと……。

 簡単に調べた程度では、そんなに気性難というイメージは抱きませんでしたので、恐らくトラップ独自の意見でしょう。

スウェーデン王カール15世は、丁度この頃デンマークが大敗を喫した第2次スレースヴィ・ホルステン戦争にて、デンマークに支援する、と公言していたのですが、結局プロイセンに圧力を掛けられて何もできなかったようです。

デンマーク政府高官のトラップは、この時に、「くそ、思わせぶりなこと言いやがって……!!」と感じたのでしょう。事実、この敗戦はほんとうに悲惨なものだったので、当時のデンマーク愛国者にとっては辛い裏切りだったでしょうね。

 

 そんなカール王と仲良し(?)とされているのが、前回も登場した、プリンス・オブ・ウェールズバーティ皇太子です。

「間引いた椅子を破壊する、新・椅子取りゲーム」を考案したようです。流石に DQN 荒っぽすぎる。しかもイギリス王家の椅子ならば兎も角、それデンマーク王家のものですし! トラップさん、さぞかし胃が痛かったことであろう。

 殿下を含めたロシア代表団は完全に困惑していたそうで……。殿下は真面目だし、まあそうなるでしょうね。寧ろ、いきなりゴキブリを手渡されても一切動揺しなかった殿下を宇宙猫にしたバーティ皇太子は、ある意味凄いかもしれない……(?)。

 他にも、チチェーリンによると、「私のアヒルを買いませんか?(Will you buy my duck?)」という、イギリス発祥の伝言ゲームをやったらしく、こちらも殿下は強制参加させられた模様。

殿下がこのゲームを楽しめたのかどうかわかりませんが、少なくともチチェーリンは「何が楽しいのか全くわからない。」と書いています。

 

 一方のオスカル王子夫妻。オスカル王太子(後のオスカル2世)は、カール15世の弟で、男児が夭折してしまって後継者がいなかった兄を継いで、スウェーデン王となります。

↑ オスカル王太子(1829-1907)と、その妻ゾフィア(1836-1913)、そして子ども達。こちらも1865年撮影。

 彼の治世では、対デンマークは兎も角、対ロシア関係はちょっと微妙だったみたいですね。国民からは人気のある王であったそうです。

 

 

 さて、次は、回想録の断片を二篇お楽しみ頂こうと思います。

先程のトラップの中で、「古いロシアの伝統」について述べられていますが、ここをロシア側の視点から掘り下げてみようと思います。

シェレメチェフ伯とオームの回想録を、続けてご覧頂きます。どうぞ。

 

シェレメチェフ伯の回想録より

 船シュタンダルト号の司令官であった Д. З. ゴロヴァチョフは、祝宴に同席し、そこで国王クリスチャン9世に向かって、「陛下、ワインが酸っぱいです!Sire, le vin est aigre!」と言った。彼はその意味が理解できなかった。

皇太子ニコライが制止するよう合図を送ったにも関わらず、彼は再び、頑固に「ワインが酸っぱいのです!Le vin est aigre!」と繰り返した。

国王クリスチャン9世が侮辱されていると感じ始めた時、「これはロシアの古い慣習なんです」と囁かれた。若者たちは公衆の面前でキスをした。

 

オームの回想録より

 この喜ばしい出来事を切っ掛けに、次々と祝宴が催された。

次の日、国王は晩餐会を開いた。この時の食卓で、ゴロヴァチョフは再び突飛なことをやらかした。

シャンパンが注がれ、新郎新婦に乾杯の辞を述べると、一口飲み、顰めっ面を作って、「ワインが苦い」と言った。チチェーリンは苦笑した。

国王は、その渋面に気が付き、尋ねた。「どうかされましたか、司令官?Qu'est-ce qu'il a le capitaine?」。

その時、ゴロヴァチョフは少しも尻込みせずに答えた。「これが酸っぱいんです!C'est aigre! 」。

別の瓶を持ってくるように!Qu'on donne une autre bouteille!」と、陛下は言いつけた。

皇太子は、何が起きているのかを理解し、テーブルの向こうのゴロヴァチョフに、「茶番は辞めなさい」と仰った。

 それから? 新たにシャンパンが注がれ、国王が自分の表情を注視していることに気が付いたゴロヴァチョフは、再び言った。

まだ酸っぱい!C'est toujours aigre!」。

王妃は皇太子に、どういうことなのかお尋ねになった。

殿下は、この愚かな茶番に明らかに不服な様子だったが、ロシアの風習では、このような祝宴の乾杯の機会に於いて、新郎が新婦にキスするまで、ワインは苦い、或いは酸っぱいと捉えられているのだと説明された。

あら、いいじゃない。キスなさいよ!Qu' à cela ne tienne, embrassez-la!」と王妃は答えた。

皇太子は、このような気まずい状況を打開するため、姫の頬にキスした。

これで甘くなった!Maintenant c'est doux!」と、恥知らずのゴロヴァチョフは叫んだ。

 しかし翌日、ストロガノフ伯爵は彼に不作法な行いに対して説明を求めた後、今後もしこのような愚かな行為を繰り返すのなら、ペテルブルクに送還するか、殿下の側から排除し、二度と宮廷に招かれることもない、と説教した。

 

解説

 お疲れ様でした! 祝宴でのエピソードでした。

 

 オームは、殿下の秘書官だったということもあって、描写が細かくて良いですよね。殿下は姫に許可を取ってから頬にキスしたらしいですが、その後お姫の方から大分いちゃついていたらしい。可愛い。

いずれ彼の回想録も訳出したいなあと思っております。今までやっていなかったのは、単純にめちゃくちゃ長いからです。情報量凄いです。

 

 ちなみに、この「ワインが苦い(酸っぱい)!」と叫ぶ風習は、今でもあるそうです。

 当人達は気恥ずかしいかもしれませんが、人前でいちゃつく免罪符になるから、良いかもしれませんね(?)。ご馳走様でした。

 

 それでは、少し登場人物の確認をして参ります。

 

シェレメチェフ伯

 1つ目の回想録を書いたのは、お馴染み(?)、セルゲイ・ディミトリエヴィチ・シェレメチェフ伯爵です。「限界同担列伝」第3回の主人公でしたね。

↑ 殿下のことが好きすぎて頭がおかしくなった人々特集、「限界同担列伝」シリーズです。ここに出て来る人は全員ヤバいです。

 殿下に熱烈に恋していたエカテリーナ・オリデンブルクスカヤ大公女に恋をしており、三角関係になっていたことで知られています。

 

 そう、シェレメチェフ伯は、殿下の婚約時にコペンハーゲンにいたのですね!! そんなことある?

恋敵が別の女性といちゃこいてるのを見るのって、どんな気持ちなんでしょうね。複雑そう。140字以内でお答え下さい。

 

 とはいえ、シェレメチェフ伯は、殿下への尊敬・友愛の念も棄てられなかったが故に、この三角関係でも苦労したようです。

 彼の回想によると、幼少期は殿下兄弟に会うのが楽しみで仕方なく、招待状が来るのを毎日心待ちにしていたのだとか。

 しかし、10代半ばに差し掛かると、大公家の友人たちの中では年少だったシェレメチェフ伯は、必然的に背が低く力が弱かったので、この友人グループの中で所謂イジメの対象になり、酷い時には殴る蹴るの暴行に遭ったとか……。大貴族の子女の間でもイジメとかってあるんですね。

サーシャ大公、ヴラディーミル大公は、イジメには参加しないまでも、このグループでの遊びには頻繁に参加していたそうですが、兄の殿下は一切関わらず、そもそもこのグループに来ること自体が極稀になり、「あらゆる遊びに無関心であった」と書かれています。ティーンエイジャーが「あらゆる遊びに無関心」であるとは……、いや、しかし殿下だしな……。

 このことから、伯爵は大公家に行くことが耐え難くなってしまうのですが、丁度この時殿下が16歳で成人を迎え、宮廷では大きな変化が生まれます。それに伴い、この遊びのグループは解散させられることになりました。

以降、暫くシェレメチェフ伯は大公家との関係を絶ったものの、殿下にだけは度々挨拶に行ったそうな。

 伯爵は、常にこのような遊びやイジメからは距離を置き、また間接的とはいえ窮状から救ってくれた「ニコライ皇太子のことは、いつも愛し、尊敬していた(цесаревича Николая, которого всегда любил и уважал.)」と書いています。

 ……ヘルマン・ヘッセか何か……? 史実か…………。

 

司令官ゴロヴァチョフ

 この騒ぎを起こした人物は、ディミトリー・ザハーロヴィチ・ゴロヴァチョフ司令官です。

↑ ゴロヴァチョフ(1822-86)。

 

 彼は帝国の蒸気船シュタンダルト号の司令官でした。シュタンダルト号は、ロシア帝国が誇る、超豪華客船です。

↑ 「限界同担列伝」シリーズのトップバッター、画家ボゴリューボフの描いたシュタンダルト号。手前の方です。

 これまでの記事に登場したものだと、殿下がゴロヴィーンに恐ろしい質問をした舞台でもありましたね。

↑ 無邪気にフランス語で「革命家に憧れていらっしゃる?」と訊いてくる帝位継承者(15)、余りにも怖すぎます。

 殿下は、デンマークに行く際、この船を使っていたようです。当時のロシア帝国の国力を見せつけられて、デンマーク政府もビックリしただろうなあ……、とんでもない豪華客船なので……。

 

 殿下の教育責任者、ストロガノフ伯爵にお説教を喰らうゴロヴァチョフ。外交の場で自国の風習を押しつけるのは無礼にあたるので、無理もないのですが。

このゴロヴァチョフの物語には、続きがあります。同じくオームの回想録からですが、少し読んでみましょう。

 9月30日(10月12日)、私達はコペンハーゲンを発ち、夜にコアセーに到着した。そこから、停泊中の我らがシュタンダルト号で出航する手筈になっていた。

誰もが再びロシア社会に戻れることを喜んだ。しかし、司令官が出航の準備が整ったことを報告しに来たその時、一人の士官がすっ飛んできて、蒸気管の破裂により船を動かすことができないと報告した。

哀れなゴロヴァチョフは、へたり込んでしまった。

しかし、皇太子は全く冷静で、シュタンダルト号の隣に停泊している汽船に乗れば一時間半から二時間でキール港へ着けることを突き止めると、自らゴロヴァチョフを宥めようとされた。

汽船ジェルモンド号の蒸気を噴かし、その船に我々の荷物を積んでいる間、私達はシュタンダルト号でお茶を飲んでいた。

殿下は、ゴロヴァチョフが沈み込んでいるのに気が付いて、彼に親切に接したが、殿下のご厚情を賜ったにも関わらず、彼の顔は晴れなかった。

皇太子は彼を脇に呼び出し、こう話し掛けた。

「陛下のお怒りを恐れていることはわかりますよ。しかしあなたは、これは防ぐ余地のない事故であったと、私が陛下に説明できないとでもお考えなのですか。私は自分が恥ずかしい、ディミトリー・ザハーロヴィチ、あなたはそれほどまでに私への信頼を失ってしまったのですね!」。

 

 ダルムシュタットに到着すると、皇太子は両親と親戚から祝福を受けた。

駅に着いたばかりの時、彼は皇帝に、ゴロヴァチョフをダルムシュタットに呼び寄せ、彼に自ら今回の不幸な事故の原因を釈明する機会を与えて貰えないかどうかお尋ねになった。それは許可された。

 これがこの皇家の青年が人々を自分に惹き付けて離さないやり方だった。このような配慮によって、自然と、完全に、人々は彼の最も信頼できる下僕になってしまうのだった。

 既に皇太子が亡くなった後のことだったが、この出来事を切っ掛けに、ゴロヴァチョフは侍従武官に昇進した。その際、皇帝が以下のような言葉を賞賜したことを覚えている。「死んだ息子が君のことが好きだったのはわかっているよ」。

そんなことされたら誰でも好きになっちゃうじゃん!? ……なんだこの人タラシは……全く恐ろしい……。

迷惑を掛けられ、「次はないぞ」と脅された数日後に早速やらかした司令官を、自ら助けてあげちゃったわけですか……。聖人だ……。

 

 ゴロヴァチョフの昇進は1865年5月25日ですが、これは殿下の遺体がペトロパヴロフスク要塞(皇家の墓所)に安置された日ですね(埋葬は三日後)。このことから、オームの「このことを切っ掛けに」という記述が正しいこともわかります。

以後、彼は殿下の弟(四男)であり、海軍に勤めたアレクセイ大公の忠実な部下になったといいます。弟たちに忠実な友人や部下を引き継ぎまくっておられる……。

 殿下の人柄の良さがよく現れているエピソードでした。

 

最後に

 通読ありがとうございました! 1万1000字強。今回も沢山書いてしまいました。

 

 先日、殿下の弟や従兄の変顔写真をプチバズらせてしまいました。

↑ 珍しく時事ネタに便乗してしまって、正直ちょっとスマンと思っている。

 上から順に、殿下の従兄コーリャ(ニコライ・マクシミリアノヴィチ)大公、弟のヴラディーミル大公、サーシャ大公、友人のアルベルト・ザクセン=アルテンブルクスキー公ですね。

お察しの通り、殿下の死後に撮られた写真です。それも恐らく、数ヶ月から一年後くらいです。殿下は真面目で厳しいので、彼の目が黒い(青い?)うちは絶対こういうのやらせて貰えなかったでしょうからね……。プリクラ感覚。

コーリャ大公って、殿下と一緒にいる時は、「病弱な理系のインテリ」みたいなイメージ強いんですけれど、そうでないときにはこんなファンキーな変顔とかするんだなあと、ちょっとビックリしますね。

 

 さて、次回予告ですが、次は書簡に戻ります。

お姫や殿下の、ドイツとの外交関係に着目した政治的な内容のお手紙を見ていく予定です。普段は愛らしいカップルでも、彼らも王家の人間ですからね。今回の連載の中では、比較的硬めかな、と思います。でもお姫は可愛いので、柔らかめの内容が好きな方もご安心下さい。

お楽しみに。

 

 それでは、今回はここでお開きと致します。次回もまたお目に掛かれれば幸いです!

↑ 続きを書きました! こちらからどうぞ。