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皇太子殿下の古語の手紙 - 翻訳

 こんにちは、茅野です。

正に本日、『Victoria 3』というストラテジーゲームが発売されまして、友人たちから散々「お前の推しが出るかも」と言われ、大変にそわそわしております。目撃情報お待ち申し上げております。

 

 さて、というわけで今回も続きまして、「推し」ことロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子殿下(1843-65)の記事を。

↑ 関連記事群はこちらから。

 今回は単発です。

 

 前回の記事から、「大公殿下と公爵の往復書簡」と題しまして、我らがニコライ殿下と、彼のガチ恋友人ヴラジーミル・メシチェルスキー公爵の書簡を訳していくシリーズを開始しました。

↑ 第一回はこちらから。「味の濃さ」だけは保証できます。

 

 今回も、殿下によるお手紙を読んでいくのですが、宛先は公爵ではなく、弟のアレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公です。

殿下直筆のお手紙の中でも、人気が高く(?)、非常に興味深い一葉なので、是非ともご紹介したいと思います。翻訳はめちゃくちゃ大変でした、先に申し上げておきます。

 

 それでは、お付き合いの程宜しくお願い致します!

 

↑ 殿下の旅に同行した限界同担画家、アレクセイ・ボゴリューボフ画『ヤロスラヴリの十字行』(1863)。正に殿下の旅で描かれた作品です。

 

 

手紙について

 先に、何故このお手紙が重要なのかということについて、簡単に説明をします。

 

 前述のように、このお手紙は、弟(四男)のアレクセイ大公に対して書かれたものです。殿下は、愛称としてアリョーハと呼んでいます。

↑ 兄のアレクサンドル大公(アレクサンドル3世)もこの椅子でお写真撮ってますよね。体格の差を感じる……()。

↑ 出ました、ツインテール顎髭。

 

 アレクセイ大公は、1850年生まれで、殿下とは6歳半差。

今回のお手紙が書かれたのは1863年7月なので、殿下は19歳、大公は13歳です。

彼は、最終的に叔父である「ココ叔父さん」ことコンスタンティン・ニコラエヴィチ大公を継いで、海軍省長官になります。

殿下が存命の頃から既に、海軍で訓練を積んでいたので、海や海軍に特別関心があった殿下は、彼を色々気にかけていたのかもしれません。

 

 この手紙は、1863年、殿下が国内査察旅行に出掛けた際の旅先で書かれています。

旅について書かれた内容も興味深いのですが、関心を惹くのが、文体です。

手紙の構成は、
正に「慇懃無礼」のお手本とも言うべき、馬鹿丁寧な敬語

古典ロシア語

再び馬鹿丁寧な敬語

親しみに満ちたタメ語
という順になっています。

 

 原文を一読すれば一目瞭然なのですが、中間部は古めかしいロシア語で書かれており、一人称が я ですらないという……。

殿下は、昔習った古典文法をよく覚えていて、旅先の船のなかで、辞書も使わずに、さらさらと古典的なロシア語を書いてしまったとのことです。改めて恐ろしいがすぎる。

必ずしも皇帝に必要な能力ではないと思うのですが、語学力と文才までも備わった帝位継承者を、教師陣や側近たちも絶賛しています。

 63年の旅に同行した画家ボゴリューボフは、「何と美しく、文彩に富んだ文章」「ロシア語に対する優れた理解と愛情を示す、真珠のような書簡」と褒めちぎっています。

↑ こちらに対訳を載せています。どうぞ。

 

 従って、今回は、翻訳するにあたって、「古めかしい日本語」を採用してみました。

そもそも殿下は、日本で言えば江戸時代末期に生きた人なので、今の我々からしたら常に古い訳語を用いてもよいくらいなのですが……。

 余りにも本格的な古文にすると、再翻訳が必要になりそうですし、そもそもわたくしにそのような「真珠のような」文章を書くスキルは備わっていないので、「ナンチャッテ古日本語」です。辞書を引かずともなんとなくで読める、古めかしい日本語風……くらいのノリで書いております。

文学的才能に恵まれぬわたくしが、ノリでゴリ押しした訳なので、文法上の誤りがあれば、それは原文からの反映ではなく、全面的にわたくしの能力不足です。

 

 殿下の日記によれば、弟のアレクセイは「ロシア語の読み書きが下手」。

未だ13歳だし、ある程度は致し方が無いことなのでは……、と思うのですが、「完璧」な殿下は、自身と身内にはかなり厳しい傾向があります。

 実際、研究者によれば、アレクセイ大公の日記には、ロシア語の文法上の酷いミスなどは見つからないそうなので、「並」程度では許さない、向上心の高い殿下の手厳しさが出ているものと考えられます。

 殿下は、「読み書きが苦手」な幼い弟に、敢えて難解な古典ロシア語を書き送ることで、彼に勉強を促しつつ、からかっているわけですね。

ただでさえ皇族の生まれというだけで困難が多いのに、優秀すぎる兄を持つのは大変そうです。

 

 また、冒頭と後半の、馬鹿丁寧な敬語ゾーンも面白いです。

我らが殿下の研究者であるメレンティエフ先生は、この手紙について、「今までは古典的なロシア語を書く能力が備わっていることばかりが取り沙汰されていたが、私は寧ろ、一人の19歳の青年の性格を知る上で興味深いと思う。」というような旨を書いておられます。

先生はまた、「歴代の皇太子の中で、最も自虐的な性格なのは彼だろう。」と指摘します。確かに、手紙の中でも、自虐や皮肉が炸裂しています。

 

 最後にタメ口になるのが、ツンデレ感があって非常に愛らしいですね。必見です。

 

 改めて、今回の「肝」は文体、口調になりますので、可能な限り、殿下の意図するニュアンスを反映できるよう、試行錯誤したつもりです。楽しんで頂ければ幸いですね。

 それでは、本文をぞうぞ。

 

本文

汽船「パスペーシニイ」。
ニジニ・ノヴゴロド
1863年7月8日。
月曜日。

 

 殿下!!!
私の偉大な弟、
アレクセイ・アレクサンドロヴィチ!!!!!!

 

 ご機嫌麗しゅう! そして、御多幸のあらんことを!!!

貴殿の兄、不肖ニコラーシカ(訳注: ニコライの愛称形。ここでは謙ったニュアンス)は、貴殿に平伏し、末永い御健勝を願い奉ります。

 

 貴殿に於かれましては、長兄のことなどすっかりお忘れでしょうから、鵞鳥の羽根ペンを取り、この無教養な書き付けを認めている次第で御座います。

私は、神助に与り、生存を許され、健康であり、そして順調に旅を進めております。

 悪く取らないで頂きたいのですが、貴殿は読み書きに不案内ですから、新聞や、私が他の弟たちに宛てた手紙には目を通しておられない事と存じます。従って、私から貴殿に直接近況をお伝えし、暫しの閑談にお付き合い頂きたい次第なのです。

 

 今我は「パスペーシニイ」号といふ蒸気船に航行したれど、此は「速く進む」といふ心ぞ。吾等雄大なる母なるヴォルガを航行せり。

に、殿下、広き哉!

海こそあらめ、ヴォルガこそいう也。斯くて、数多の魚! 正に八百万やおよろず

蝶鮫や小蝶鮫にすら、素手に捉へらるる也。

けふ、一匹の蝶鮫(重さ三プード、全長二アルシン、実に鯨の如かりき)贈られき。彼の肋骨下の体腔に銀の耳飾り付けやり、ヴォルガのかいなに解き放ちき。さて彼が吾等物語るべく。ヴォルガの王子と貴族ども、母なるヴォルガ河の自在なる水に、彼を泳がせり。

殿下、岸辺はさても情熱やうならむ! ペテルゴフの小川よりも、なほ清き也。流れとく、広大也。いつまでとて歩みたられむ。

吾等オカ川を航行せるほど、船止め砂州を歩みき。狩りにゐで、白鴨、しぎかもめ撃ち抜きき。

ニジニはめでたき街と注進差し上ぐべし。麗し、さてありてせちなる街に、富みたりて……総てありき。

ヴォルガには村(歴史あり)のあることも一様なり注進す。ルィビンスク、ヤロスラヴリ、コストロマ―――せちなる街々也!

ヤロスラヴリはなかんづく麗しく、豪商どもはここにゐ、ニジニ・ノヴゴロドの定期市に売買を行ふ也。

此ら都の名を挙げたるは、地理の得意ならぬきみが、我がアメリカやアフリカを散策せりと誤解たまふまじくするため也。

まあ、正直に告白すれば、私だって精確な地理を知っていたわけではないのですが、実際に脚を運んで、今や理解しましたよ。

 

 私達の従弟、ニコラが貴殿の元にいらっしゃったと伺いました。彼に私からも宜しくとお伝え下さい。

同じく、貴殿の先生方(訳注: コンスタンティン・ニコラエヴィチ・ポシェト、ニコライ・グスタヴォヴィチ・シリング)や、勿論妹(訳注: マリヤ・アレクサンドロヴナ大公女)にも、私からご挨拶とキスを。

彼女にも、私がどこで何をしているのかということ、上手くやれているということを、ご報告差し上げたいのですが。(間違ったことはしていませんよ、本当です)。

私の弟であらせられる貴殿が、先生方や貴殿の兄たち(訳注: 次兄アレクサンドル、三兄ヴラジーミル・アレクサンドロヴィチを指す)の助けを借りなくても読めるように、大きな字で書いておきましたからね。

 

 それでは御免下さいませ、ご機嫌よう。

必ずお土産をお贈りしますから、このようなところで勘弁して下さい。それから、不肖私のことと、私の醜い顔を忘れないように、個人的なものもお送りしておきましょう。

 

 それじゃあね、アリョーハ!(訳注: アレクセイの愛称形)

君のお兄ちゃん、ニクサ。

もう一度、さようなら!!!!!

そして、僕のこと忘れないで。

 

解説

 お疲れ様で御座いました! 如何でしたでしょうか。皮肉っぽさと文才が炸裂しておりますよね。読むのも訳すのも大変でしたが、楽しかったです。これだから殿下のオタクは辞められない。

それに、ビックリマークの数ですよ。テンション高いのは珍しくて可愛いですね。

 

地理

 概要は既に記しましたので、当節では細かい点を数点。

まずは地理に関してですが、ルィビンスク、ヤロスラヴリ、コストロマと、ヴォルガ川沿いを進んでいることがよくわかります。

↑ お馴染み、現代の地図から。

 

単位

 単位に関して。

重さ「プード」は、ソ連時代までロシアで使われていた単位で、1プードが 16.38kg なので、3プードで 49.14kg ということになりますね。お、重い!

長さの単位「アルシン」も同様です。1アルシンが 0.711m なので、2アルシンで 1.422m 。

 

チョウザメ

 チョウザメは、ロシア料理では頻繁に登場するお魚です。卵のキャビアで有名ですね。

そういえば、「イクラ」が元はロシア語ってご存じでしたか。ロシア語では鮭に限らず「魚卵」全般の意で、ロシア語でキャビアは「黒いイクラ(чёрная икра)」といいます。

 

 一応、「そんな巨大なチョウザメおるんかい」、という話ですが、話を盛っているわけではなく、大きなチョウザメは 1m を越えるようです。

種によりますが、現代では、超BIGサイズになると、3m を越すものもいるとか……。

↑ いきなり川からこんなのが現れ出たら怖い。

 殿下の旅の記録の特徴は、参加者達が認識をきっちりと共有していることで、日記や手紙で書かれる内容に、殆どズレがないという点です。

この出来事に関して、当然このような文体ではありませんが、側近のリヒテルも殿下の父である皇帝に対して報告しており、「地元の人々から殿下に、3プードもある巨大なチョウザメが贈られ、彼はそれに銀の飾りを付けて川に戻してやった」、と書いています。

 

定期市

 「定期市」は、19世紀を通して非常に重要な商いの場でした。ここで、国内のみならず、輸入品なども売買されていました。

ニジニ・ノヴゴロドのものは、特に規模が大きく、ロシア帝国の経済を考える上でも重要です。

殿下がヴラジーミル市の定期市に参加した時の文献などもあるので、また別の記事でご紹介したいと思います。殿下が慣れないことをして、珍しくちょっと焦っている愛らしいエピソードがあります。

 

ニコラ大公

 最後の方に出て来る「ニコラ」は、前述の海軍省長官、「ココ叔父さん」ことコンスタンティン・ニコラエヴィチ大公の長男、ニコライ・コンスタンティノヴィチのことです。

 

 概要は過去の記事にも書いているので、宜しければ。

↑ 詳しくは「ニコラ大公のスキャンダル」の節をどうぞ。

 

 今回出てきて気付いたのですが、皇帝アレクサンドル2世と次弟コンスタンティン大公は、年齢が離れていることもあり、彼らの長男同士と言えど、殿下とニコラ大公も年が離れており、後者は皇帝の四男であるアレクセイ大公と同い年。つまり、殿下とは同じく7歳差ということになります。

 

 成長したニコラ大公は、やんちゃと放蕩の限りを尽くすので、殿下とは性格が合わなそうだな……と感じていたのですが、幼いニコラ大公は、なんと我らが殿下に大層懐いていたそうで。流石殿下、全員恋に堕とす能力は健在か。

幼いニコラ大公は、従兄である殿下が外出をする際、涙を浮かべて寂しがったそうなので、流石の殿下も彼を甘やかしたことでしょう。たぶん。

 

マリヤ大公女

 殿下の代は男兄弟が多く、唯一の妹がマリヤ・アレクサンドロヴナ大公女です。実に8人兄弟、男6人、女2人。

マリヤ大公女は、アレクセイよりも下の妹で、1853年生まれ。殿下と丁度10歳差ですね。

↑ 兄弟の写真。左から、三男ヴラジーミル、次女マリヤ、次男アレクサンドル(後のアレクサンドル3世)、五男セルゲイ、長男我らがニコライ殿下、四男今回の宛先アレクセイ。

夭折した長女(殿下の姉)アレクサンドラ、末弟のパーヴェルは写ってません。

 

↑ 殿下の代の唯一の「ロシアのお姫様」ですね。

 

 成長後はかなり傲慢な性格だったと言われ、あのヴィクトリア女王に嫌われていたとか。

しかし、我らが殿下、そしてマリヤ大公女の父であるアレクサンドル2世と、イギリスのヴィクトリア女王は、若い頃にラヴロマンスがあったそうなので、私怨込みかもしれません。

 

 殿下とヴィクトリア女王は恐らく面識がないのですが、息子の縁談の場では殿下をライバル視し、強く警戒していた様子が見られます。確かに、殿下が恋のライバルとなれば相当に手強いでしょう。

 尚、殿下がフランスで亡くなり、船でロシアに遺体が送還される際には、同船がイギリスの岸に補給の為に立ち寄っており、没後ではありますが、ヴィクトリア女王の治めるイギリスの地に、殿下は一応は滞在したことがあることになります。切ない。

 

お土産

 メレンティエフ先生による説明によりますと、殿下が「必ず贈る」と申し出た「お土産」とは、舟だったとか(!?)。恐るべき皇族の財力。

舟とはいっても、ボートのような小舟だったそうですが、彼はそれを弟の為に自腹で購入し、ペテルブルクに届けているそうです。恐ろしい。

 やはりこの選択というのも、海軍に由来するものなのでしょう。

 

 また、殿下が贈った「個人的なもの」というのは、自身のお写真だそうです。なるほど、「顔を忘れないように」ということですね。

しかし、謙った書き方がしたいのは重々承知で訳しておりましたが、自らを指して「醜い顔」って。皮肉にも程がある。

 

結びの言葉

 今回の手紙に限らず、殿下のお手紙の結びの言葉は、「私を忘れないで。」という旨のものが大半です。

友人、側近、家族、誰に対しても、表現は違えども類似の内容で締め括っています。

 

 特に存命の頃、殿下のような存在感ある人物を忘れるようなことがあるものか、と思うものですが、何か我々にはわからぬ、思うところがあったのかもしれません。

特に、殿下は早逝されてしまうことを考えると、何か含みがあるようにも思えます。

今年は没後157年ですが、極東から史料を掘り起こしておりますので、ご心配なく! と返答を差し上げたいところです。

 

最後に

 通読ありがとうございました! 7000字ほどです。

 

 文才までも持ち合わせている殿下、畏怖しか感じないですね。恐ろしいです。書いていて怖かったです。

この間、殿下に関する英語の論文を読んでいたところ、「彼は gifted だろう」と書かれていました。

昨今の「ギフテッド」に関する議論は、何だか胡散臭いなと感じてしまって敬遠していたのですが、確かに、殿下はそれに該当するのでしょう。

尤も、少し古い論文ですし、英語の "giftedness" と完全に対応しているか、というと微妙なところですが、そのような視点で捉えたことがなかったので、何だか新鮮な心持ちが致しました。

 それにしても、独裁・専制体制の次期君主が天才というのは、ほんとうに心躍ることです。是非とも統治して欲しかった……。ロシア帝国に、黄金の時代を……(今のどん底まで落ちたロシア連邦に嘆息しながら)。

 

 それでは、今回はここでお開きと致します。殿下関連では、次はまた連載に戻ろうかと思います。

次の記事でお目に掛かれれば幸いです。