世界観警察

架空の世界を護るために

メシチェルスキー『回想録』1865年36節 - 翻訳

 こんにちは、茅野です。

寒暖差が激しい今日この頃、皆様もお身体にはお気を付けください。

 

 さて、今回は、いよいよ最終回メシチェルスキー公の『回想録』を読むシリーズ第七弾です。

↑ 第一回はこちらから。

 奇しくも前回の「限界同担列伝」シリーズも全七回でした。この数字には縁があるのかもしれません。なかなか縁起が良い数字で良いですね。

 

 前回、ダルムシュタットで殿下と再会した公爵は、彼の弟ヴラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公と共にペテルブルクへ帰還します。

一方殿下は、その後イタリアへと向かい、外務や査察を続けてイタリア宮廷を熱狂させるものの、フィレンツェでとうとう限界が来て倒れ伏してしまいます。

上体を起こすことすら難しく、三週間もの間伏せってしまった為、急遽殿下は母皇后も滞在していた療養地ニースへ向かうことになりますが―――。

 

 どうしても暗い話になってしまいますが、最終回、最後までお楽しみ頂ければ幸いです!

 

 

36節

 始まりと同じように、冬が過ぎ去ろうとしていた―――春が来る。

 

  イタリア、次いでニースから届く皇太子についての知らせからは、寧ろ全てが順調に進んでいるように見受けられた。

彼から私宛ての八ページにも渡る手紙、友人でもある弟アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公への明るく生気に満ちた手紙を読めば、皇太子の健康状態は寧ろ改善しているのだろうと推論できた。

大公は、最後の手紙の中で、所見のみならず、未来のことを話していた。彼の夏の後ろ向きな考えは捨て去られ、活力が戻ってきた感覚があり、全てのことに生き生きとした関心を向けていると言うのだ。

己の弟に宛てた手紙にも、いつも冗談や気の利いた洒落が息づいていて、快い精神状態にあるのだろうと思わざるを得なかった。

 

 嗚呼、それは嵐の前の静寂に過ぎなかった、それは彼の人生の白鳥の歌だったのである。

彼の更生の始まりは婚約だった。この良好な状態は十二月、一月と、そして三月へと続いているように思われた。しかし、三月末、彼からの手紙は突然途絶えた。

 

 その後、ある晩に私が宮殿へ立ち寄ると、涙を零すアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公に出会した。

ニースから届いた皇后の電報には(彼女は冬の後半をこの地で過ごしていた)、皇太子が危篤状態に陥ったという致命的な知らせがあった。この時になって、私は皇帝と大公たちがニースへ向かうことを知ったのだった。

 

 近頃はすっかり活気付いていたペテルブルクに、突然暗雲が立ち籠めた。

皇太子の死病についての知らせは、まるでよく晴れた日の雷鳴のように、皇帝の長男たる愛息の美しい姿が至る所で見られたこの首都を襲った。

ペテルブルクの全てが、陽気な春の陽のように、愛しい若き勇士のように、彼に微笑みかけていたというのに―――それなのに、不吉な電報がそれを破ったのである。

 

 皇太子の危篤を知らせる最初の電報以降、少しでも希望を抱けそうな続報は一通も無かった。

朝には我々は希望を持って目覚めるのに、その朝に届く電報は、我々の希望を容赦なく打ち砕いてしまった。

 

 致命的な状況を前に、偉大なオポルツァー博士をはじめとする、著名な医師達がニースに集められた。

皇太子の婚約者を連れて、デンマークの王妃も急いで同地へ向かった。彼女たちがコペンハーゲンを発つのと同時に、アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公もペテルブルクからそこへ旅立った。

嗚呼、到着した医師たちは、皇后が「脳と脊髄の炎症」と呼んだ病、つまり結核菌が脊髄を通って脳に流入したのだということに同意をすることしかできなかった。

 

 四月六日から、電報を手に入れることができた。

 

 四月六日。

夜はかなり容態が安定し、目を覚ますことも稀だった。危険な状態であることに変わりはないが、重篤な兆候は乏しい。

意識は明瞭、記憶力も申し分なく、返答も淀みが無い。しかし己の状況を意識しようとはしない。

夜。状況変わらず。胃は正常。

ズデカウエル来着。ピロゴフを招待。

 

 四月七日。

容態は悪い、しかし幾らか快復(午前五時から)。深夜は落ち着かず。熱はやや上昇。脳への圧迫は僅か。四肢の動きに問題なし(午前十時)。

ズデカウエルはこの状況が極めて危険であると判断。希望は神にしかない。彼は病を「meningite cerebro-spinale(脳脊髄炎)」と診断。

 

 四月八日。

夜は容態が安定せず、その後譫妄状態。脳炎の症状が増大し、危険も増す。オポルツァーの到着を待つ。

 

 四月九日。

危険な状態が続く。この夜が峠。処方薬によって一時的に平静。睡眠は譫妄によって中断。意識は常に朦朧としているが、時折覚醒。危険は変わらず。

 

 四月十日。

夜は譫妄があり不安定。思考力は申し分ないが、若干の言語障害。危険は非常に大きい。酷く衰弱。これ程の衰弱は致命的。

皇帝の来着。皇太子への面会叶わず。デンマーク王妃とダグマール姫、次期皇太子到着。

夜十時。皇帝が皇太子を慰安。病人は父を見て微笑み、彼の手に優しく口付けた。

 

 四月十一日。

僅かに不安定な状態。急速に衰弱。二十四時間不眠。今朝、ダグマール姫と弟たちと面会。危険は増す一方。

 

 それが病身の彼についての最後の電報だった。

 

 続くペテルブルクへの知らせは、ロシアが愛した皇太子が、嘆き悲しむ両親の腕の中で、静かに息を引き取った由を伝えるものだった……。

 

 この六日間は、生きることが耐えがたい程辛かった……。

 

 冬宮の教会で行われた最初の追悼式では、最も剛毅な人々でさえ涙を流した。この異常なまでに辛い絶望の涙に混じって、心底理解出来ない問いがあった。「どうして?」。

 

 その後、死の際の皇太子の詳細を知り、僅かに心が慰められた。死に瀕した皇太子が、明確に、従順にその死を受け入れたこと。どのように彼が痛悔をして、領聖を受けたか。どのように彼が己の婚約者と己の跡継ぎに、象徴的な別れを告げたか。どのように彼が両親に別れを告げたか。そしてどのように、瀕死の彼が己の病床の周囲に明るく穏やかな雰囲気を作りだしたか……。

 

 こうして斯くも希望と期待に満ちあふれた生涯は閉じてしまった。満開に咲き誇る盛りの瞬間に、その花は落ちたのだ。

 

 皇帝は、逝去した皇太子の病床の傍に家族を呼び集め、彼への希望と愛を、新たな帝位継承者に託すように命じた。

父と子の涙が一つになった。皇帝は己の新しい帝位継承者を祝福し、誰もが敬虔な気持ちで満たされた。

皇后は魂を引き裂かれたかのようで、最初の一時間は悲しみのあまり泣くことすらできなかった。その姿には皆が心を痛めた。

彼女は茫然自失して石のように固まってしまい、まるで自身が消え入るかのように、永遠の眠りに落ちてしまった最愛の息子を眺めることしかできなかった。

 

 悲劇が起きたニースから帰還した人々から、亡くなった皇太子に関する奇妙な運命の巡り合わせについて聞いた。彼は、死病の致命的な発作を起こす直前の数日間は、これ以上無く快活且つ聡明で、何時間も政治的な問題について話したという。驚くほど論理的であり、思考や発言も明晰で、彼の話を聞いた人は皆彼の知性に驚かされた。

彼は恐らく己の死期が迫っていることを悟っていたのだろう。彼の知性は、その瞬間に間に合うように、急激な発展を遂げたのだ。

 

 四月十二日以降は何日も、皇太子をよく知る、彼を愛した近親者で集まって、彼を偲び、彼について話した。

 

 私達一人一人が、この困難な問いを前に、全く困惑して立ち竦むしかなかった。「どうして?」。

私達は誰一人、ロシア国家の人生に於ける、この統治の準備の整った美しい帝位継承者の喪失という悲しい事件に秘められた意味を理解することができなかった……。

 

 月日は流れ、時間はまるで雨雲のように、この悲しみの上に多い被さった。ロシアの帝位継承者に対する、約束された困難な人生と、彼に対する厳しい要求は、一八六五年四月一二日に起きた事件の謎、及び当時私達を苦しめた「どうして?」という問いに対する、かなり明確な答えを提示した。

 

 二つの器は、清く有益な液体でなみなみと満たされていた。しかし、一つは繊細で砕けやすく、もう一方は密度が高く、頑丈であったということだ……。

後になって私は、砕けやすい水晶の器が、多くの人々の拙劣で乱暴な扱いによって、打ち砕かれてしまう危険に瀕していたのだということを理解した。一方、同じように清い器でも、より固く堅牢であれば、人間の手など恐れるに足らない―――ロシアの神意は、より堅固で危険の無い道を選択したのだ。

 

 私には、永眠した皇太子は統治をする準備が整っていたことがわかっていた。しかし、随分後になってから、私は彼が冷酷な時間が過ぎ去るのを待つには、余りにも繊細すぎたのだということを理解したのだった。

彼の弟は、帝位に就く準備ができていなかったが、しかし、時間に対してただ持ちこたえるだけではなく、それに打ち勝ち、引導していく準備ができていた……。

 

 新しい皇太子と二人の弟は、皇帝よりも早くロシアに帰還した。哀れな皇后が、人生の新たな局面を少しでも受け入れやすくする為に、両陛下はロシアに戻る前に、一旦ダルムシュタットに立ち寄ることに決めたのだった。

 

 私は大公に会うためにシヴェルスカヤ駅へ向かった。

国際列車が到着し、私は大公の車両に入った。侍従に取り次いで貰うように願い出ると、アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公は私の所へ来て、出会い頭に私を抱き締めた。そのことはとても忘れられない。

乗車中ずっと、彼は私にニースでの滞在のこと、彼が経験した一連の出来事について、どんなに些細なことでも仔細に語ってくれた。

私は貪るように彼の言葉一つ一つに聞き入った。そして新しい帝位継承者の顔を見つめた時、私は彼の顔に起こった変化について驚かざるを得なかった。

最初は、一時的な動揺によってそう見えるだけだと自分に言い聞かせたが、しかし彼の顔を注意深く見つめると、実際に変化は起こったのだと強く確信させられた。

私はその時、ニースの死にゆく兄の枕元で、彼が実に深刻な一幕を経験したのだということを思い知らされたのだった。

帰還した彼の顔つきは変化していた。彼は優しさと穏やかさに満ちた魂を反映した、明るい表情で旅立った。その時は、私には深い苦悩の念は感じられなかった。

 

 ニースからの知らせを受け、涙を零す彼を見たあの運命の夜、彼の顔には計り知れない悲しみが浮かんでいた。真の悲しみがそこにはあった、しかしそれは幼稚な悲しみだった。それは彼の顔全体に拡がっていた。

時折、怒りや不満が現れることもあったが、それは単に少し表情を曇らせる程度のことであって、瞬時に新たなる灯火が浮かんだ。

 

 しかし、車両で一時間半会談した際には、新しい表情が現れ出ていた。

幼稚な暢気さは消失し、額に、目の傍に、鼻梁に皺が生まれ、心からの苦悩と精神的な不安を反映した顔つきになっていた。

その時、彼が経験した悲劇から、今後更に深く刻まれるようになる額の皺の萌芽を私は見たのだ。

目つきも変わった。彼の本質を映し出す、清い明るさはそのままに、しかし晴れた空に掛かる薄雲のように、憂鬱な影が絶えず現れるようになった。

その後、幼稚で暢気な快活さが永久に消滅したことを私は悟った。

会話中、新しい皇太子の頬に二、三度涙が伝い流れた。私は、その時彼が吐露した言葉に深い感銘を受けた。

「この悲劇は、喪失に衝撃を受けた全ての人に対するものであると同時に、私一人に対してのものでもあります」。

「私の上には」、皇太子は続けた。「一度に二つの災厄が崩れ落ちてきました。私は突然、恐ろしく困難な地位に就かねばならなくなりました。こんなことは夢にも思わなかったのに。そして同時に、私のたった一人の親友、指導者、人生の伴侶が奪われてしまったのですから!」。

 

 ツァールスコエ・セローに到着した。

駅で、私は亡くなった皇太子のことを思い出していた。この場所から彼が国外に旅立って、既に一年も経つ。彼は別れの際、私に己の弟を託す旨を告げていた。そのようなことを考えていると、新しい皇太子の声で現実に引き戻された。

彼は私に近付いて言った。「是非とも一緒に来て頂けたら嬉しいのですが……。もしよければ、あなたにできるだけ良い部屋を用意しますから。迎えに来てくれて、ありがとうございます」。

この言葉は、私が今は亡き皇太子から託された神聖な依頼の実行を開始する契機となったのだった。

 

 彼の遺志が私の人生に於ける運命の指針となった。私は一つの考え、一つの感情に身を全て委ねた。私の人生の目的、私の人生に於ける全ての良いこと、全ての悪いこと、全ての光、楽しさ、そして全ての悲しみが、この考えと感情に基づいていた。

これ以上無く神聖な目標が実現しようとしていた。意識的にも、無意識的にも、それは以前よりも明確になり、そして個人的なものとなった。その「何か」は、私が以前には持ち得なかった、人々に対する新たな態度を要求した。

私にとっては、アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公の新たな地位は、彼の精神的な特徴や美点を変更するものではなく、彼の本質の価値を変更するものでもなく、彼に酷く神聖で責任ある義務を負わせるものでしかなかった。

しかし、他の人々にとっての大公の地位の変更はそうではなかったようだ。彼は、昨日までは彼のことなど気にも留めなかったのに、今日には彼に注目されたい、彼に褒められたいという激しい欲求に充ち満ちた人々に取り囲まれていることに気が付いたのだった。

彼は既に、以前のように偶然の、何気ない態度で人々から接されることはなくなっていた。この突然地位が変わった青年に、人類が一丸となって襲い掛かって来たのだ―――斯様なおぞましい態度で!

 

 過ぎ去った冬のこと、私はある出来事をありありと思い出せる。それはアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公の部屋でのことだった。

彼自身は皇帝の所に居た。彼を待つ間、私は彼の二人の側近と話をした。二人のうち、一人は教師で、もう一人は侍従だった。

話題は大公のことになった。

一人が、彼の兄の皇太子の知性と比較して、大公を能の無い人物だと罵倒した。私はこの論争の後、不愉快になって退席した。

まだ続きがある! 新しく皇太子となった彼がニースから帰還して一ヶ月も経たない頃、正に同じ相手とツァールスコエ・セローで鉢合わせた。その人物は私を脇に差し置き、たった一年前には彼を侮辱したその口で、アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公のことを賛美し、彼の個性を値踏みしたことは間違っていたなどと平然と言ってのけた。

悪辣な風刺は、頌歌へと変わった。

この新しい皇太子に対する狂喜的な反応に、私は無意識にも彼に答えていた。「そうですよね、人間というのは、ころころと意見を変えるものですからねえ」。―――嗚呼、どうやら私は彼を敵に回してしまったようだ。

 

 数日間に渡り、私はツァールスコエ・セローの宮殿の庭に面した小さな部屋で、大公の客人として静かな時を過ごした。

開花した春の自然は、その時の惨めな気分の皇太子の心境とは少しも調和しなかったが、しかし、それでも彼は、己を少しでも慰める為に、亡き兄の好きだった散歩道を選ぶのだった。

少しの間、彼は鬱ぎ込んで喪心していた。しかし、彼の素晴らしい精神の全てを信じる私は、彼を励まし続けた。この環境は、私が彼を元気づける無限の機会を与えてくれたのだった。

 

 皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチの亡骸が搬入され、埋葬されるという困難な日々がやってきた。

貴い棺を乗せた汽船がクロンシュタットに着いた朝、ネヴァ川の堤防には、誇張抜きに全てのペテルブルクの住民が押し掛けた。

夜、私は棺の傍で当直を勤めた。

静寂がその場を満たしていた。司祭が福音書を読む声だけが響く。

突然、衣擦れの音がして、私達は皇帝が棺の傍に皇后を連れて来る様を見た。

彼女は棺の傍に立ち、若く、保存状態の良い息子の死に顔を長いこと見つめていた。その時の母が息子の相貌を見つめる眼差し、彼の美しい顔に祈り、十字を切った時の表情を、忘れることなどできない。

 

 その後、他にも忘れられない瞬間が訪れた。

 

 埋葬が終わり、墓前には当直の宮内大臣アレクサンドル・ヴラジーミロヴィチ・アドレルベルク伯爵しか居なくなった頃、私は亡き皇太子の教育責任者セルゲイ・グリゴリエヴィチ・ストロガノフ伯爵の顔に目を向けた。

彼は押し黙り、屈従の彫像になったようだった。

微動だにせず、顔色一つ変えず、じっと彼はその墓を見つめていた。

その姿勢が、彼の魂に生じたことに対する表現の全てだった。この墓石の下には、この老人が己の全てを捧げた、世界の希望の全て、努力、成功、輝かしい光、未来が、物言わぬ骸となって埋まっているのに!

そして、この何の感情も読み取ることができない、灰色の大理石のような顔を見ていると、私は皇太子が彼に優しく、用心深く彼の長男の死を告げたスケフェニンフェンの朝のこと、そしてストロガノフ伯爵が己に不変の仮面を被ることを強いたことなどを想起させた。

一年の時を経て、私は同じ仮面を目撃したのだった。彼が皇太子と呼んでいた、愛するニコライ・アレクサンドロヴィチの墓前にて。

 

解説

 通読お疲れ様でございました! 本文は7000字弱です。

ヴラジーミル・ペトローヴィチ・メシチェルスキー公爵の『回想録』は、この36節で第一巻が終了します。

 

 『椿姫』……でしたね。途中から『椿姫』の二次創作か? と思いながら書いていました。名前は人魚姫なのに……肌の白さは白雪姫なのに……(姫から離れて)。

椿は、桜のように花弁が散っていくのではなく、満開の瞬間に花の首元からボトッと落ちるので、縁起が悪いとされ、若者の急死によく喩えられます。今回も正しくでした。

↑ 原作もオペラもバレエも名作。

 

 豆知識を。実は、本文、なんと正に "Цесаревича(皇太子の)" という単語で終わるんです。

ロシア語は日本語と同じように、語順はある程度自由なのですが、原則的に語末に一番大事なことや伝えたいことを書くため、それを少しでも反映したくて、二文に分けてみました。如何でしょうか。上手い訳が書けるようになりたい。

 

 他に翻訳でこだわったポイントとしては、前半の表現ですね。改めて、公爵は本当に文才があるなと感じたのですが、前半には "жизненнаго участия(生気のある)"、"живой(生き生きとした)"、"дышало(息づく)"など、「生きる」と紐付けられる単語を意識的に多用しているんですよね。それを可能な限り反映するようにしています。

 

殿下の病状

 公爵は、前半に、殿下からの手紙は明るく生気に満ちていて、寧ろ健康状態がよいのではないかと推測せざるを得なかった、と書いています。公爵がその殿下の手紙を公示していないので詳細は不明ですが、弟アレクサンドル大公などの手紙などを拝見しても、手紙に明るいことばかりが書かれていたことは事実なのでしょう。

 しかし恐ろしいことに、別の資料などを照らし合わせると、この時の殿下の病状は正に最悪で、殿下がペテルブルクの友人や弟を欺いていることがよくわかります。

 

 公爵とやり取りをしていた三月、殿下は激しい頭痛に苦しめられて夜は全く眠ることができず、不眠症になってしまいます。日中も、頭痛からくる吐き気で食事が喉を通らず、無理に食べてもどうしても戻してしまうなど、栄養も不足していました。

不眠栄養失調により、更には低体温症(深部体温35度以下。雪山などだけではなく、平地でもこのような場合には発症することがある)まで併発してしまい、酷く衰弱していました。

 脊髄の病に罹っていたことや、臥せっていた期間が長いことから、主に脚の筋力が落ち、支えが無くては一分も立っていることができなくなります。

 ニースで数年ぶりに殿下に再会した皇后の女官フレデリクス男爵夫人は、窶れ果て、おぼつかないふらついた足取りで近付く彼に暫く気付かず、声を掛けられて初めてそれが「私達の愛するニコライ・アレクサンドロヴィチ」であると理解し、衝撃を受けた、と書いています。

 

 手紙の内容自体は明るいものだったようですが、我々が当時を知る手がかりとなる手紙には、興味深い特徴があります。書いている言語が違うことや、宛先の違いなどから単純な比較はできませんが、普段カリグラフィのお手本のような字を書く殿下の筆跡が、晩年になると乱れるんです。

 ここで、少しだけその例をご覧に入れたいと思います。直筆の手紙の最後、結びの言葉と署名です。

1864年12月、弟アレクサンドル大公の側近、リトヴィーノフ宛。ロシア語。『Не забывайте любящего Вас. Николай. / あなたを愛している人のことを忘れないで。ニコライ』。

↑ 1865年、婚約者ダグマール王女宛。フランス語。『À Vous seule pour la vie. Nicolai. / あなただけに人生を捧げましょう。ニコライ』。

 前者のロシア語の手紙が恐ろしく美しい筆跡なのに対し、後者のフランス語の方は、悪筆という程では全くないものの、少なくとも走り書きなのがわかります。

 このようなことは、もしかしたら、手紙を書くこと自体、身体的にも、精神的にも酷く辛かったのでは無いか、と想像させられます。

 

 殿下は、4月5日に危篤状態になり、6日以降毎日電報で容態の報告があり、12日に亡くなっていることがわかります。

この5日に何があったのかと言うと、朝、殿下の様子を伺いに、幼少期から彼に仕える老侍従コスティンが寝室を訪れると、瞳孔が開ききって焦点が合わず、意識も朦朧とした状態の殿下を発見します。

明らかに様子がおかしいと、急いで側近リヒテルを呼ぶと、彼は更に、半身麻痺の状態になってしまっていることなどに気付きます。殿下は脳出血を起こしていたのでした。

 ここに来て初めて、周囲は全員殿下が危ない状態にあることを悟る始末でした。皇后はペテルブルクに電報を打ち、後は本文にあるような悲劇が展開されてゆきます。

 

 6日の電報に「しかし己の状況を意識しようとはしない。」という表記がありますが、これもなかなか闇が深い話です。

殿下は、コスティン、リヒテルに発見された後、数時間昏睡状態に陥りますが、深い眠りから覚めた後は、麻痺も解け、意識もはっきりとし、一時的に快復したようです。

意識を取り戻した殿下は、いつもの明るい調子に戻り、「それで、本日は何を着て、どこへ行けば良いのですか?」と尋ね、外務や社交を続けようとします。

側近たちは唖然として、リヒテルは「何を仰いますか、あなたはたった数時間前に酷い脳出血を起こしたばかりなのですよ」と説教されています。

 このようなことが、「しかし己の状況を意識しようとはしない。」の真相であると考えられます。

 

 10日の電報には、「若干の言語障害。」とありますが、こちらもとんでもない話です。

そもそも、言語障害には、構音障害失語の二つがあります。

殿下は一時的に半身不随となるので、顔や喉の片側の筋肉を動かすことが全くできなかったため、この時には呂律も回りづらくなり、構音障害となります。

一方、失語は、目の前の物体の名前がわからなくなる(例えば、「枕」とか「机」とか)ことなどが主なのですが、天才というのは病を患っても恐ろしいものだなと心底思いますが、殿下の場合はロシア語やフランス語などの日常的な言語が出て来なくなり、ラテン語などの古語を喋り始めたというのだから、末恐ろしい話です。

 

 前記事などで述べております通り、殿下は元から身体が弱かったわけではなく、病は外傷性です。それを、周囲が彼に無理をさせ、悪化させてしまったという意味で、公爵が「周囲の拙劣で乱暴な扱いによって壊れてしまう」と表現したのは非常に的確であると感じます。

 尤も、殿下に代わって皇太子となったアレクサンドル大公、即ちアレクサンドル3世も、死因となる病は外傷性だと言われています。彼は列車事故の際に負った傷が元となった腎臓炎によって亡くなります。

殿下が亡くなるのが早すぎて感覚が麻痺しますが、アレクサンドル3世自身も49歳で亡くなっており、決して長い生涯とは言えません。

その後のロシア史を考えると、そんなところまで兄の真似をしなくてもよいのに! と思ってしまいますね。

 

電報

 公爵が読んだ電報は、一部は現代でも見ることができます。こちらは、殿下の死を告げる12日の電報です。

速報、

内務大臣より4月12日午後12時半に受領。

 

 ニース、4月12日午前2時。至高の神は決断を下された。深夜12時50分に、神は己の民数記に、我々の皇太子である大公を召し上げられた。皇帝と皇后は、知る由もない神の御意志を前に、順良に、従順に、我が身に降り掛かる災難を受け入れておられる。

侍従武官長アドレルベルク伯爵の権限により署名。

1865年4月12日

 訃報ですが、表現が一々洒落ていますね……。

 

公爵の思惑

 「彼の遺志が私の人生に於ける運命の指針となった。私は一つの考え、一つの感情に身を全て委ねた。私の人生の目的、私の人生に於ける全ての良いこと、全ての悪いこと、全ての光、楽しさ、そして全ての悲しみが、この考えと感情に基づいていた。」というとんでもない一節が挿入される36節。

 

 公爵は、12日以降殿下と親しい人々と殿下についてずっと語らっていた、と述べていますが、一方アレクサンドル大公宛の手紙には、「誰にも自分の想いを打ち明けることができずに大変辛い」ということを書いています。

↑ 原文の一部はこちらなどに。

 一見矛盾しているようにも思えますが、同性愛が禁じられていたロシア帝国にあって、強い想いを表明することができなかったのだ、と読むことができると思います。

 

 後年、公爵は政敵に同性愛的傾向を摘発されて大スキャンダルになるのですが、その際はアレクサンドル3世を恋い慕っているという風刺もありました。この『回想録』を読めば、どうしてそうなったのか、そしてその指摘がどのように誤っているのかを簡単に指摘することができます。ちょっと惜しいですね。

現代ロシアに於いても、同性愛者に対する偏見は根強いので、その点は解消されることを願うばかりです。

 

ストロガノフ伯爵のその後

 感情を表に出さないストロガノフ伯爵。

埋葬時の伯爵のことは、「大改革」の立役者で、軍事改革である「ミリューチン改革」で知られるドミトリー・アレクセーヴィチ・ミリューチンもメシチェルスキー公爵とほぼ同様の描写をしており、彼の姿は埋葬に立ち会った人々の心に深く刻まれたようです。

 

 公爵も描写していますが、老伯爵を慕っていた殿下は、彼が長男の死に際してこのような態度を取ったことが相当気懸かりだったようで、自分は己の家族にこのような気持ちにはさせまいと、直接別れを告げるまでは死ねないと思っていたようで、実際、家族と出会った晩に息を引き取っています。

 

 発作を起こす直前の殿下が異様なまでに聡明だった話ですが、それは秘書官オームらも述べている通りで、こちらの記事で引用・翻訳を行っています。

 『回想録』を読んでいればなんとなくお察しかと思いますが、ストロガノフ伯爵はかなりプライドが高い人物だったようで、彼がここまで褒めるというのはかなり珍しいことです。

 

 殿下は深く慕っていたようですが、ストロガノフ伯爵は物凄く厳格、スパルタで厳しい人物で、敵もそれなりに居ます。

万人に愛される殿下ですが、この殿下ラヴァーの間では、「ストロガノフ伯爵が殿下を過労に追い込み殺したのだ」という意見も強く、この陣営とストロガノフ伯爵は殿下を巡って大喧嘩したことも。

 近々、このエピソードについてもご紹介することができればと思います。

 

 優秀な弟子を喪ったストロガノフ伯爵は、その後、新皇太子、アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公の教育に取り掛かります。殿下とは異なり、こちらはかなり難航したようで、伯爵自身、いつもの毒舌が炸裂していますが、それはまた別の物語。

 

最後に

 通読お疲れ様で御座いました!! 12000字ほどです!

これにて、ヴラジーミル・ペトローヴィチ・メシチェルスキー公爵の『回想録』を読むシリーズは完結となります。お付き合いありがとうございました。

 

 『回想録』は、殿下以外に関する描写も非常に興味深く、文才に溢れ、面白いので、いずれしっかり読み込むことができればと想います(400ページ超えなので流石に一気に読むのは辛い……)

 

 完走してしまい、寂しくなりますが、そんなことも言っていられないように、すぐまた別の翻訳・解説記事を書ければよいなと思っております! 面白く、興味深い史料は尽きる気配がありませんので……。

またそちらでもお付き合い頂ければ幸いです。

 

 それでは、今シリーズはこれにて完結となります。また感想等頂ければ大変喜びますので、是非とも宜しくお願い致します。

改めて、お付き合いありがとうございました!