こんばんは、茅野です。
三月も後半なのに降雪の東京です。こんな日は引きこもって記事を書く以外にないですね。
さて、わたくしはロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下について調べるのが好きで、幾つか記事を書いているわけですが、最近、わたくしの記事から殿下に興味を持ったという方が幾人か! 更にはマシュマロや DM でご意見・感想等を頂けるようになりまして……。
日本で殿下のことを話題にしているのはほぼわたくしくらいしかいないので、これは非常に嬉しいですね。ありがとうございます! 殿下沼へようこそお出で下さいました。もう逃がしません。
↑ 殿下関連記事はこちら。殿下についてご存じない方は最初の「考える」からどうぞ。
そんなことを言われてしまっては、リサーチにも熱が入るというもの。今回は一次資料を中心に調べていたところ、メシチェルスキー公爵の『Мои Воспоминания(回想録)』がインターネット上でも読めることがわかりました! 当然旧正書法で書かれていますが、ロシア語は19世紀からあまり変化がないので、200年程度前の文章であれば、特別に古典文法を勉強しなくとも、あまり気にせず読むことができます。ありがたい。
というわけで今回から、この『回想録』の殿下に纏わる部分を訳出していく連載を開始しようと思います。最初に訳した本文を掲載し、その後、訳注のような形で簡単な解説を入れてゆきます。
メシチェルスキー公爵といえば、以前連載していた「限界同担列伝」シリーズ第5回目の主人公。
↑ 特濃殿下語りに酔え! 胃もたれ注意。
公爵は、殿下に対する溢れんばかりの愛を綴った日記や書簡を、同担の中でも特に大量に残していることで知られており、研究者の間でも困惑重要視されています。
「列伝」シリーズでは、主に『旅行記』と書簡を引用しましたが、今回は1912年に出版された『回想録』です。『回想録』第一巻は1850年から1865年までとなっています。
ご承知の通り、殿下が亡くなるのは1865年です。もうおわかりですね。『回想録』も「特濃」です。1865年まで、とありますが、第一巻は殿下の遺体がロシアに返還される65年の5月までです。公爵自身、第一巻は「殿下語り本」として消費されることを理解しておられるのではないか、というほど。その意志、わたくしが引き継いだ!
『回想録』は、「○○年」と一年毎に章が分かれており、その中で、「✕✕について」と内容で節が細分化されています(節は通し番号です)。殿下に出逢って以降は、一年のうちに1~2節ほど「殿下について」というド直球の節が出現するようになるので、こちらを読んでゆきます。
第一回となる今回取り上げるのは、公爵と殿下の初対面について語られる1861年第19節からの抜粋です。殿下が17歳、公爵が22歳の頃ですね。若い。
ロシア語初学者が長文読解の勉強がてらに書いているものなので、誤訳がありましたらすみません(ロシア語に明るい方は是非原文でお楽しみ下さい)。また、翻訳は通常の執筆よりもずっと時間が掛かるため、更新が比較的遅くなることが想定されます。こちらもご了承下さい。
それでは、お付き合いの程宜しくお願い致します!
1861年 19節
(前略)
これがストロガノフ伯爵との最初の邂逅であり、それは半時間近くにも及んだ。彼の印象は強く残り、この立派な人に対する崇拝の念が私を満たした。
彼は皇室の養育者について何も語らなかった。フランス語で一言、「ニコライ・アレクサンドロヴィチはあなたと知り合いたいと言っていました」と告げただけだった。
別れを告げた後、伯爵は私に言った。「いつでもお出でなさい。喜んでお出迎えしましょう」。
伯爵の発言とほぼ同様のことを、ツァールスコエ・セローでリヒテル大佐に言われたことがあった。しかし、私は未だ決断を下せていなかった。そのことが彼に与える影響、大公の迷惑にならないかを恐れていたからだった。
けれども、一度だけ、ツァールスコエ・セローでヴャーゼムスキーと食事をした後、列車に乗る前にオットン・ボリソヴィチ・リヒテルの元に立ち寄った。彼は帝位継承者の部屋の隣の小さな二部屋を使っていたのだった。
彼は読書中だった。20分程度、頭を寄せて内緒話をしていると、隣の部屋から拍車の付いた軍靴の足音がして、そして帝位継承者が入ってきた。
私は立ち去ろうとした。しかし、大公はとても親切に、「私はあなたに会いに来たんです」、そう私に言って、ソファに座り、紅茶を持ってくるように命じた。そして私は、この三人での会談にたっぷり一時間以上費やしたのだった。
この初対面の夜で、若い帝位継承者が、ペテルブルクの事情に通じていることを明確に感じ取った。故に、会話は無限に膨らんでいった。
最初の発言から、皇太子がフランス語で言うところのエスプリを備えていることを知った。ロシア語には近い表現がないのだが、つまり、機知に富む、或いは少々皮肉っぽいのだ……。後々私は確信した。帝位継承者の知性の特徴は、ストロガノフ伯爵によって促進されたものであること、そして、 オットン・ボリソヴィチ・リヒテル特有の美点に感化されたものであろうということに。
会話で受けた印象から、最初の一分で、私は彼と話す際には限りない誠意を込めなければならないと痛感した。それは、命令でさえも自然に美しく表明する皇室の対話者が、誠実で親切な話し方に価値を置いていることが目に見える形で現れているからだった。私はすぐにそのことを見て取った。
当時の『日記』には、このようにある。
『その時関心があったことについて何でも話した。大公は私に沢山の質問をしたが、私が答える前の彼の発言から、それが専門的な詰問ではないこと、そしてその話題について彼が関心を抱いていること、少なくない知識を持っていることが見て取れた。どんなに若くとも、修道僧のような者であっても、彼の言葉を借りれば、「大宮殿の監獄」の中で、彼が世間というものを学び始めているということがわかるだろう……。
落胆や失望は一切なかった。ただ、鋭い批判が一度ならずあり、彼の知性の矢は次々と、精確に標的を撃ち落としていった。
私達は大学の暴動について話した。大公は非常によく動向を注視しており、「背後にいる指導者は、何も崇高な目的などなく、ただ秩序を乱したいだけなのでしょう」と言った。それを受け、私はストロガノフ伯爵から聞いたことを話した。「ええ」、大公は答えた。「もし彼ら学生が、ストロガノフ伯爵のような方の指導下にあるのなら、反乱を起こそうなんて気は起こさないでしょうにね……」。
私がヴァルーエフの元で勤めることになったことを認めると、帝位継承者は、彼が自分自身についての話を聞くことが好きだという評判を繰り返した。
私は大公に、『ペテルブルク報知』で私が書いた、皇帝・皇后両陛下が聖山へ訪れたことに関する記事について話した。大公は驚嘆した。「本当に、そんなことが……」。
晴れやかで明るい彼の表情が曇ってゆき、額に皺が寄るのを私は見た。しかし、心のこもった声で彼は言ったのだ。「あの二月十九日から数ヶ月が経った今、その件について伺うと慰められます」。
ああ、悲しいことに列車の時間が来てしまった。二十分が、まるで一分しか経っていないかのようだった。私は立ち上がって、別れの挨拶をしなければならなかった。大公は私に言った。「またお目に掛かれることを期待していますよ」。
オットン・ボリソヴィチに見送られながら、私は、自分の言葉で率直に打ち明けた。大公と、このような親密な場で、時折お話がしたいと心底願っていること、けれど同時に、押しつけがましいのではないかと私は本当に恐れているのだということを。オットン・ボリソヴィチは、私に優しく答えてくれた。「怖がることはありませんよ、いつでもおいでください。この時間なら私もいつもいますから」。』
この時の会話は、今とは異なった意味を有することを注釈せねばならない。今では、会話の殆どが新聞からの情報を咀嚼することで成立しているが、当時は新聞は会話の端役ですらなかったのだ。当時の会話というのは、日々の人生の出来事や、その印象によって成り立っていたのである。
解説
お疲れ様で御座いました! いや、もう、「副題: 初恋」って感じでしたね(?)。というかこちら、1897年に執筆されたものなので、36年後ですよ。それでここまで初々しい文章が書けるって、もうそれはある意味才能な気がしてきます。
公爵の文章はとても文学的なのですが、その分語りがヒートアップすると凄まじいことになります。こちらは『回想録』なので、まだマシな方です。リアルタイムで書かれていた日記や書簡はもっと酷い。
さて、ここからは、内容について軽い解説をしてゆきます。
ストロガノフ伯爵
最初に出逢っている「ストロガノフ伯爵」は、殿下の教育責任者です。当時のロシアでトップクラスの知識人で、教養に溢れる厳格な方だったようで、殿下も深く尊敬しています。公爵の言うように、殿下の素晴らしい知性の醸成は、ストロガノフ伯爵の教育の賜物でもあるでしょう。
↑ 「列伝」シリーズ第四回でも少し登場。よかったら。
ヴャーゼムスキー
また、一回だけ名前が出て来る、公爵が共に夕食を摂った「ヴャーゼムスキー」とは、ロマン派の詩人で、皇帝政府にも近い存在です。彼も、殿下が亡くなった際に『ベルモン荘』(殿下が亡くなったお屋敷の名前)というエッセイを書いた同担でもあります。『ベルモン荘』は過去に既に訳出しているので、良ければ併せてご覧下さい。
↑ 今までで一番大変だった記事。
リヒテル大佐
オットン・ボリソヴィチ・リヒテル大佐といえば、「列伝」シリーズ最終回の主役を飾った伝説の変質者同担です。
↑ ふつうに犯罪だと思う。
確かに、殿下のお部屋のお隣に住んでいて、殿下の側近を務めています。詳しくは上記の記事をどうぞ。
暴動
「大学の暴動」とは、当時の情勢を指しています。1861年には、殿下も仰っている「2月19日」に、農奴解放令が出されました。これを受け、良くも悪くも社会が変化。その変化を快く思わなかった人々による暴動が頻出します。特に、若きインテリゲンチャの集う大学に於いて顕著で、酷い場合は放火が起きたりしました。
1860年代には、殿下のご指摘通り、「改革の何が悪いのか」「どう変えたいのか」「その為に何ができるか」という具体案が全く無いままの暴動が多くありました。組織化していくのはもっとずっと後のことです。この時代については、ドストエフスキーの傑作長編小説『悪霊』にもよく現れています。
↑ 舞台は1869年。殿下の没後ですが、当時の情勢を理解する上でも重要ですし、当然、単純に物語としても面白い作品です。オススメ。
『ペテルブルク報知』
新聞についてです。メシチェルスキー公が寄稿していた『ペテルブルク報知』は、当時からしても由緒正しい新聞で、現在まで続いています。創設300年近い老舗です。
↑ 今はプロパガンダとか書かれてるんでしょうか……。
そんな老舗の新聞に、公爵が若干22歳で寄稿したことに、殿下は驚いているわけですね。殿下を愛する我々としては、「公爵=限界ガチ恋勢」の理解が先行してしまいますが、我らが優秀な皇太子殿下の友人になれるということからも明らかなように、公爵もほんとうは頗る優秀な人なのです。覚えておきましょう。
ヴァルーエフ
公爵の上司「ヴァルーエフ」は、当時のロシア帝国内務大臣のピョートル・アレクサンドロヴィチ・ヴァルーエフを指しています。
↑ クラムスコイ画。いつも思うんですけど、このよくわからん形の髭、なんで流行ってたんですかね。
ヴァルーエフも沢山の記録を書いていることで研究者から重要視されている人でもあります。わたくしも簡単に1861年の彼の日記を漁りましたが、殿下とも何回かお食事をしていますね。機会があれば、そちらもご紹介します。
政治の世界は複雑怪奇であり、単純に振り分けることはできないのですが、ここでは本題から逸れるため、語弊を恐れずに簡単に申し上げれば、ヴァルーエフは少々思想に二面性があり、しばしば別の陣営対立していました。その関係で、公爵とは思想の違いがあったのです。従って、内務大臣という高位の人物に目を掛けて貰っているという事実にもかかわらず、「彼の元で勤めることになったことを "認める" 」と、消極的なニュアンスを帯びているわけです。
尚、省略したこの19節の前半では、主にヴァルーエフについて語られています。曰く、「堂々としていて気持ちの良い人物であることは事実だが」「農奴の娘を一人も見たことがないような世間知らずなのだ」と、批判しています。
また、酷く虚栄心が強い人物としても知られていて、殿下が揶揄しているのはその点に関してです。
聖山
「聖山」とは、今ニュースを賑わわせているドネツクにあります。当時はロシア帝国領です。
↑ 空がウクライナ国旗カラー。
修道院の建ち並ぶ歴史ある聖なる場所で、殿下の両親である皇帝・皇后両陛下も何度か訪れていました。殿下は、暴動の止まぬ帝都と、静謐な聖地の美しい思い出の対比に、思うところがあったのかもしれません。
最後に
通読お疲れ様で御座いました! 6000字です。
今回からは、このような形で連載を進めていこうと思います。宜しくお願い致します。
ご感想など頂けると、わたくしのモチベーションが上がるので、こちらもお気軽に頂けると幸いです(コメント欄、 Twitter のDM 、マシュマロ 等)。
しかし、「大宮殿(ツァールスコエ・セロー)の監獄」とは……。皮肉半分とはいえ、やっぱり殿下も羽根を伸ばしたかったのかなあなどと考えてしまいますね。
今回は初対面ということで比較的短めでしたが、どんどん殿下語りはヒートアップ・長文化してゆくので、途中で力尽きないようにがんばりたいと思います。
それでは、初回はここでお開きとさせて頂きます。また第二回でお会いしましょう!
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