世界観警察

架空の世界を護るために

大公殿下と公爵の往復書簡 ⑻ - 翻訳

 Godaften! Hvorden har du det?(こんばんは! 如何お過ごしですか?)

Jeg hedder Kayano, og er begyndt at lære dansk.デンマーク語を学び始めた茅野といいます)。

Jeg vil også læse noget dansk materiale!デンマーク語の資料も読んでいきたいですね!)

 

 ……はい! 改めましてこんばんは、茅野で御座います。

こんな感じで、最近デンマーク語をやっているわけですよ。これくらいは書けるようになってきました。

今のところ楽しく進めておりますが、デンマーク語をやっているとロシア語を勉強する時間が無くなってですね……。これは由々しき問題です。このままだと、元から低いロシア語運用能力が更に落ちる。

 

 ……という事情などもあり、少々間が空いてしまいましたが、今回は連載の続きです!

ロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下と、彼のガチ恋親友ヴラディーミル・ペトローヴィチ・メシチェルスキー公爵の往復書簡を読んでいくシリーズです。今回は第八回となります。

↑ 第一回はこちらから。

 

 寂しいことに、今回は準・最終回です。

第八回となる今回は、殿下から公爵宛ての書簡を一通読みます。

前回同様、フィレンツェからのもので、病が重く、滞在が長引いてしまったことがわかります。内容が重くなりつつありますが、最後まで宜しくお願い致します。

 

 それでは、お付き合いの程宜しくお願い致します!

 

 

手紙 ⑿

ロシア大公ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ
ヴラディーミル・ペトローヴィチ・メシチェルスキー

 

フィレンツェ1864年12月16/28日

 

親愛なる公爵

 

  遅くなりましたが、私に多くの喜びを運んでくれた、あなたの11月21日(12月3日)付けの親切で興味深いお手紙に心から感謝申し上げます。

あなたのお手紙を感謝の念を込めて受け取り、そして好奇心を持って読んでいます。お手紙の中で、直接の利害だけではなく、私が大切にしている、古い友情を保ってくれているからです。

何度となく申し上げているように、あなたとの会話は私に真の利益を齎してくれました。

例えば、覚えておいででしょう、あなたがスケフェニンフェンを発つ前夜の会話のことは?

全てが私の人生に於ける素晴らしい期間の貴重な想い出です。しかし、この期間は間もなく終わりを告げ、異なる期間に譲らねばなりません。

もし新しいものが古いものよりも優れていると確信できなかったなら、私は神の前で罪を犯していたでしょうか? 当然ですね。しかし、過ぎ去った善き平穏な青年時代の日々のことも追想しましょう。

仕合わせな、黄金の時代よ! 学び、人生の準備をし、初めて人々と知り合う時代よ。

ええ、昔は辛いことよりも、仕合わせなことの方がずっと多かったのです。

私に善い影響を与え、そして多少なりとも堅固になった交友関係も、素晴らしいものに含まれます。

それらは本当に崩れ去ってしまう運命なのでしょうか? 勿論違いますよね。

少なくとも、私の方は、友情を破壊する原因を作ってはいないと信じているのですが。

ですから、親愛なるヴラディーミル・ペトローヴィチ、古き善き交友関係を継続しようではありませんか!

 

 残念ながら、今回はあなたに何一つとして面白い話をお伝えすることができません。ずっと体調が悪く、寝室から出られなかったのです。

腰の痛みは横暴で耐え難いものになり、痙攣発作、鋭い痛み、舞台上には温湿布にスパニッシュフライが現れ―――要するに、甚だ遺憾なことに、私を被害者役として、医療ドラマが演じられているわけです。

まるで危篤患者のような激しい発作を起こした後、快方へ向かい、今では痛みも引き、寝台から起き上がって、自由に動くことができます。

もしこの状態が続くなら、早いところニースに越したいと思っています。かの地の気候は、この種の病に有効であると評判ですから。

 フィレンツェの滞在は、私にとって喜ばしいものではありませんでした。最初の一週間は脚が動かず、最早自由に歩くことができなかったので、家に篭もらざるを得ませんでした。

何度か車椅子で外出しようと試みましたが、この試みは無駄にならずに済みました。

 その日、私は完全に疲れ果ててしまって、痙攣を抑えることができず、そこからはどんどん悪化してゆき、最終的には恐ろしく激しい発作を起こしてしまいました。その時のことは、今となっては思い出すだけでぞっとします。

どのようにして私が衰弱しているのか、ご理解頂けましたか。まあ、どれもこれもどうでもよいことですが、しかし極めて不愉快です。

このまま放置すれば悪い結果になることは目に見えています。ニースへ行って、真面目に療養しなくてはなりません。

 

 これでは最早、手紙ではなく病気の報告書ですね。きっとあなたを冗談抜きに辟易とさせていることでしょう。

 

 最新の政策については可能な限り注目していますが、この度の3つの法令は、私を心から喜ばせました。ポーランド修道院改革、グルジアの司法改革及び農奴解放に関してです。

 

 前者に関しては、見事ですし、打撃は適切で賢明です。

後者に関しては、勿論、法令が発布されただけでどうにかなるものではありませんが、しかしそれはなんと重大な決定でしょうか!

私達の社会生活に多大な影響を及ぼす、これらの重大な仕事の成功を心から祈ります。

ただこの改革が我々の土地に組織的に広まり、誠実で賢明な実行者を見つけることが課題です。

絶望には及びません。

グルジアでの農奴解放は、得がたい宝物であるカフカースの内部整備に於ける重大な一歩です。

カフカースは誰が何と言おうと、宝です。

 

 最近は如何お過ごしですか、親愛なる公爵? 我らがペテルブルクでは、友人や知人はどのように暮らしていますか。

手紙を待っています、それさえ待ち遠しいのです。

 

さて、あなたに別れを告げ、私の書信を終わりにする時が来ました。

 

あなたの幸福と健康を祈ります。

 

時折思い出して下さい、友好的に

あなたの手を

握る人のことを

 

ニコライ。

 

解説

 お疲れ様で御座いました! 日本語だと2000字ほど。

 

 64年夏からの公爵との書簡で度々現れるのが、「期間の移行」に関してです。

これは、殿下が、勉学に勤しんだ青春時代から、婚約・結婚を経て一家の長となり、また政府の重役に就くことになる、という意味ですが、別の未来を知り、そしてそのことに彼自身が勘付いていることも知っている我々からすると、どうにも含みがあるように感ぜられます。

 

 特に、「仕合わせな、黄金の時代よ!( Счастливое, золотое время! )」の下りは、明らかに辞世の句っぽいし、何かを想起しますよね……。

Куда, куда, куда вы удалились, Весны моей златые дни?

どこへ、どこへ、どこへ去ったのか、我が青春の黄金の日々よ?

↑ オペラ『エヴゲーニー・オネーギン』の中でも最も有名なレンスキーのアリアの歌い出し。レンスキーはこのアリアを歌った後、決闘に敗れ死亡する。

殿下はオネーギン役の方が似合うと思ってました。でも儚げな魅力も強いし、レンスキーもいけそうですね。

我々は彼の声を聞くことは叶いませんが、ちなみに殿下は声楽もとてもお得意であったとかで(最早驚きませんが……)、たまに余興で合唱に混ざっていたとか。テノールだったのかな、バリトンだったのかな。どちらだと思いますか?

 

 それにしても、中間の痛々しさですよ。素直に報告できるようになって何よりですが、真相が辛すぎます。

殿下は己の体調ながらに素っ気なく「どうでもよいこと」と一蹴していますが、最早公爵にとっては政治よりもあなた一人の心身の状態が何よりの関心事項であったのではと思うのですが!

 

 公爵は『回想録』の方で、婚約後の殿下は明るく快活であった、と述べていますが、これを読む限りではまだ大分弱気になっているように見受けられます。

↑ 『回想録』最終回(第一巻最終章)。

それでも依然皮肉っぽく、飄々としているところは最後の意地なのか。

 

原本のコピー

 さて、それでは今回も直筆のものから見てみましょう。

 体調が落ち着いた時に書かれたのか、とても美しい筆致です。フィレンツェに辿り着いてからこの字が書けるようになるのに、一ヶ月掛かったわけですね……。

 

 便箋の方は、殿下のお名前の頭文字である Н が四つのモノグラム。何枚くらい便箋持って来ていたんでしょうね。

 

病状に関して

 殿下自身が「病気の報告書」と自虐しているように、今回のお手紙のメインパートを占めるのは彼の病状についてです。

 

 側近の記述を読み合わせると、殿下が重篤な痙攣発作を起こして倒れた「その日」というのは、フィレンツェ到着から四日目であったことがわかります(※精確には三日目と書かれているが、恐らく到着日は夜遅くであった為にカウントされていない)。即ち、グレゴリオ暦11月23日であると推測できます。

前回、第七回のお手紙が書かれたのは11月22日なので、その翌日に相当します。

 今回のお手紙が書かれたのは12月28日です。返信の遅れを詫び、面白おかしく病状について綴っていますが、丸一ヶ月もの間、筆さえ執れない状態であったことがわかります。恐ろしい。

 

 殿下は、64年の5月頃から、何度か痙攣発作を起こしては倒れています。一番酷かったのがこのフィレンツェ滞在中の「その日」です。

調べてみると、痙攣や手足の麻痺(「脚が動かず」という記述から)は、殿下が患っていた結核髄膜炎が進行する上で、高確率で起こる症状であるようです。

ニースで殿下を診察した医師ズデカウエルによれば、髄膜炎の症状が重く出始めたのが11月頃なのではないか、と推測していますが、これらの書信を読み合わせると、それは確かでありそうです。

腰、つまり脊椎結核の方も痛みが激しかったようですし、剖検によれば、結核は肺にも転移していたそうで……。満身創痍がすぎる。

 

 また、「医療ドラマ」こと、温湿布(芥子泥)やスパニッシュフライに関しては、大分前に記事に纏めたことがあるので、ここでは繰り返しません。余りに恐ろしいので、もう書きたくないですね、正直。

↑ こちらを参照してください。

一つ言えるとしたら、殿下の白い肌を意図的に傷を付けた者は極刑を覚悟せよ、という気持ちであるということです。

舞台上で演じられるドラマであるならば、良かったのですが……。

 

ポーランド修道院改革

 後半はロシアの政治に関してです。

秘書官オームの回想によると、一ヶ月もの間病臥せざるを得なかった殿下は、本人曰く「暇を持て余し」(素直に休息して欲しい)、祖国の政治について調べ、側近や教師たちと議論するのは勿論のこと、イタリア語の勉強をし始めたり、肖像画のモデルを務めたりと、可能な限り時間を有意義に使おうとしたようです。お勉強熱心すぎる。

それでも、最も心待ちにしたのは家族や友人、そして勿論恋人からのお手紙であったようで、それはこのお手紙の結びからも伺えます。

 ちなみに、「列伝」シリーズには載せていませんが、この秘書官のオームは非常に良心的な人物で、心から主を愛しており、彼が病床で退屈しないように、常に気を配っていたようです。

オームは、公爵とは異なり回想を読めば読むほど好感度が上がる人物なので、今後詳しくご紹介できたら、と思います。

 

 1863年1月、ロシア帝国の支配に対し、ポーランド人が立ち上がりました。「1863年ポーランド蜂起」、或いは「1月蜂起」と呼ばれる出来事です。

ポーランド側が別の勢力の援助をあまり得られなかったこともあり、ロシア側は軍隊を以てこれを鎮圧。ポーランド側を押さえ込みました。

1864年は、ロシア帝国にとって、この「内乱」の処理の時期でもあり、ポーランドが二度と「反抗」しないようにと、皇帝政府が対策を練っていました。

 

 この処理に於いて、最も有名なのが「絞首刑執行人ムラヴィヨフ」。

ロシア帝国に楯突く数多のポーランド人を処刑し、ポーランド人は勿論、諸外国や、一部のロシア人からも大変に恐れられました。過去の記事にも登場しましたね。

一方、彼によって恐怖による静寂が訪れ、ある意味で秩序が戻ったと捉えることもできます。

 

 このような苛烈な弾圧も行われる中、皇帝政府が取ったポーランドへの「懲罰」の一つが修道院改革です。

その内容と意義について簡単に確認します。

 

 第一に、ロシア正教ポーランドカトリック教会は歴史的に対立関係にあります。

近代では表立った衝突は減りましたが、プーシキンの歴史戯曲『ボリス・ゴドゥノフ』などで描かれるように、中世に於いてはその対立は根深いものでした。

そこで、ポーランドのロシア化も進めるべく、カトリック教会を攻撃した、と考えられます。

 

 第二に、教会は多くの人が集まる場所である、という点です。

従って、意思疎通や煽動などが行いやすく、教会は革命の本拠地と成り得ます。要は、結社法の抜け穴となる可能性があったのです。

実際、セメネンコ先生らの最新の研究によると、ポーランドカトリック教会が反ロシア運動の拠点となったことは事実であったようです。

 

 第三に、経済に関してです。

世界史を学ばれた方はよくご存じでしょうが、歴史的に、教会は巨額の金銭を貯め込む傾向がありました。それは、土地の収入であったり、信徒からの寄付であったりと、財源は様々ですが、当時のポーランド修道院も大いに潤っていたようです。

そこで、教会が不正に金銭を貯め込まないように、財政面に切り込んだ、という側面もあるようです。

 

 殿下は、ポーランド蜂起に心を痛め、動向を注視していました。

普段は流血を好まない彼も、今回の反乱に対しては治安維持の為に武力行使もやむなし、と結論を出したようです。この連載でも嫌という程見てきたように、なかなか本音を話さない殿下のことなので、本心はわかりませんが、少なくとも表向きは、父や叔父が決定した武力行使に賛成しています。

 一方、この修道院改革については、「適切で賢明」であると述べています。それは、この改革では余計な血が流れず、またロシア帝国国益を鑑みて効果的であるという判断からでしょう。

 

グルジアの司法改革と農奴解放

 もう一つが、グルジアジョージア)に関してです。

ちなみに、この地名に関してですが、「グルジア」というのはロシア語読みです。そして、「ジョージア」は勿論英語読み。現地語では「サカルトヴェロ」といいます。

この「サカルトヴェロ」人が、数年前に「ロシア語読みされるのは嫌だ」と申し立て、現在日本では「ジョージア」表記を一般化しようとする動きが見られます。

当記事では、殿下はロシア人であり、このお手紙はロシア語で書かれていますから、意図的にロシア語読みで「グルジア」と表記しています。ご了承下さい。

 個人的な意見を申せば、当人たちがそんなにもロシア語読みが嫌だと言うのならば、その気持ちは尊重したいと思います。

一方で、現地語読みで「サカルトヴェロ」に統一するのならばともかく、英語読みにする、というのがなんとも不可解であると感じます。ロシア語だけを排斥したい、というのは、キャンセルカルチャーのように思えるからです。

更に言えば、アメリカにはジョージア州があり、同一の表記にすることは単純に紛らわしいと感じています。

まあ、近代も近代ですけれど(前述のポーランド弾圧とかえげつないですし)、現代のロシア連邦も言うに及ばずですから、ロシア語表記は嫌だという心理も充分理解できますけれどもね……。

難しいですね。

 

 さて、そんなグルジアでは、農奴解放が1864年10-11月頃より徐々に進められました

大ロシア(偉大な、という意味では無く、中心的な街々を擁すロシア北西部のことを伝統的に「大ロシア」と呼称します)での農奴解放と同様、完全に農民の自由を約束するものではありませんでしたが、殿下の仰るように、確かに「重大な一歩」ではありました。

 また、大ロシアでの農奴解放の「失敗」も踏まえ、グルジアでのものは幾分マシではあったようです。それでも、有力地主への配慮なども踏まえると、どうしても完全な解放とはいかなかったようですが……。

 

 殿下の素晴らしいところは、先を見据えているところですよね。

「法令を出して終わり」ではなく、実行に関してまでしっかりと考えが及んでいます。実際、フィレンツェでも人事について側近達と議論をしているようです。

 

 殿下に「絶望には及びません。」と断言されると、本当になんとかなりそうな気がするのが頼もしいところです。

しかしながら、我々は半年後、正に絶望に追いやられようとしています。

 

最後に

 通読ありがとうございました! 7000字程です。

 

 殿下は、人生が酷く短いので(21年7ヶ月)、毎度のこと連載の終盤になると話が重くなってくるのが厄介ですね。彼は最期まで気高く美しいですし、ドラマティックですが、皆様の負担になっていないかだけが少々不安です。

尤も、わたくしのブログを追って下さる方はオペラファンも多いでしょうし、「愛と死」はお好きですよね! きっと! そう信じます。

 

 さて、4ヶ月ほど続けた当連載も、大変寂しいですが、次回、最終回になります。

殿下のお手紙を一通と、電報を一通ご紹介する予定です。お楽しみに。

 

 それでは次回最終回、最後までお付き合いを宜しくお願い致します! ありがとうございました。

↑ 最終回を書きました! こちらからどうぞ。