世界観警察

架空の世界を護るために

大公殿下と公爵の往復書簡 ⑸ - 翻訳

 こんばんは、茅野です。

ユリウス暦でのことになりますが、殿下、名の日おめでとうございます。12月6日は、「聖ニコラオスの日」です。お祝いの準備は万端ですか?

 公爵は63年にシガーケースを贈っていますが、毎年どれくらい貢ぎ物を貰うんでしょうね、あの方は……。恐ろしいです(※ちなみに、査察に出たときは「蒸気船に乗せきれないくらい」だったとか。怖。)

 

 さて、そんなわけで、続けて連載を進めて参ります。当連載は全九回を予定しておりますので、折り返し過ぎた辺りで御座いますね。

ロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下と、ヴラジーミル・ペトローヴィチ・メシチェルスキー公爵の往復書簡を読んでいくシリーズです。今回は第五回

↑ 第一回はこちらから!

 

 今回は凄まじいですよ。恐らく今シリーズの所謂「神回」に該当するはずです。わたくし自身、書きながら大爆笑でした。自らハードルを上げているような気が致しますが、面白いのはわたくしではなく、公爵なので……(?)。

 今回は、公爵から殿下への書き付けを一通、次いで、公爵からの書き付けとそれに対する殿下の返答、最後に、殿下から公爵への電報を一通と、計三通をご紹介します。

どれも非常に短いのですが、その分、恐ろしく内容が凝縮されております。お楽しみ頂ければ幸いですね。

 

 それでは、お付き合いの程宜しくお願い致します!

 

 

手紙 ⑺

殿下
麗しく貴いニコライ・アレクサンドロヴィチ!

 

 あなたは、私があなたに会いに行くことを禁じていますね。

あなたの意思を尊重します。けれども、本日私は、あなたにお伝えしないわけには参りません。聖礼の聖餐式おめでとうございます。そして、昨日あなたに直接お伝えしたいと願ったように、本日も同じことを願っており、そして明日も願うことでしょう!

私は二人きりの場であなたにささやかな贈り物を差し上げかったのです。夕食の後にあなたの元に伺うことを許して頂けると思っていたので、正直に言って、私は残念な気持ちを隠すことができません。

あなたのご意向に沿って、この計画を今晩から明日へ移したいと思います。

無益な無駄話をしないように気をつけますから!

 

 あなたを深く尊敬し、魂の全てを以て殿下に心酔している、
В. メシチェルスキー公爵

 

解説

 ……これ、ヤバくないですか? いや、全てがヤバい。元から無い語彙力消し飛びました。

 出禁だし、また貢ごうとしてるし……。今度は何を贈るつもりだったのか、少々気になります。

 

原本のコピー

 原本のコピーを見て参ります。今回は最後の方を。

↑ 読めん! 辛うじてロシア語であることはわかる。

 手書きの字すらヤバい。ゾーラブ先生、どうやって解読したんだ……。

 

出禁

 出から凄いんですけど、何って、出禁で御座います。そんなことある?

 

 貴族には、一種のプライバシーがまるでありませんでした。当然 SNS どころか電話さえ無い時代ですから、普段であれば、顔見知りはアポイントメント無しにいきなり家に出向くことも不可能ではなかったのです。

とはいえ、勿論セキュリティチェックはありますので、門番や侍従に名乗り出て取り次いで貰い、主人からの訪問許可を得る必要はあります。

 

 この際、侍従に「お館様はあなた様にはお会いにならないそうです」とか、「奥様はお加減が悪く、本日の訪問はお断りしております(つまり仮病)」などと言われ、拒否されることも勿論あります。

 公爵は、このような形で、少なくとも数日間、殿下に訪問を拒否されていたことがわかります。

 

手紙が送られた日

 ゾーラブ先生は留保していましたが、内容から考えて、わたくしはこのお手紙が送られたのは1864年5月1日(ユリウス暦4月19日)で間違いないと思います。何故なら、この日が1864年のパスハの日であるからです。

 

 文中の「聖礼の聖餐式」は、パスハを指していると思われます。

パスハは、「復活大祭」とも呼ばれ、ハリストス(キリスト)の復活を祝うもので、正教の行事の中で最も重要なものです。西方教会イースターに相当します。

公爵は、どうしてもこの復活大祭の日に、殿下に直接お祝いを言いたかったものと考えられます。

 

殿下が拒んだ理由

 この手紙が送られたのがユリウス暦4月19日であれば、殿下が公爵の面会を拒否した理由が見えてきます。

何故なら、このたった数日後に、殿下はとうとう病を隠しきれなくなって、倒れ伏してしまうからです。

このことから、希少な休憩時間に、痛む身体に鞭打って公爵に会う余裕など既に無かったのだと推測できます。

 

 恐らくは、殿下は体調不良を理由に公爵の面会を断ったものと考えられますが、前述のように、この理由は仮病としてもよく使われましたし、殿下は日中の公式行事には病を隠し無理を押して参加していたので、公爵は本格的に自分が殿下に嫌われたものと思ったのかも知れません。

それは仮病ではなく、事実を伝えるものであったはずです。

嫌われた訳では無さそうで、良かったですね公爵!(?)(まあ、あまりのしつこさに辟易とはされていそうですけれども……)。

 

 公爵は、殿下が倒れるまで、彼の体調不良には全く気付かなかったと述べています。そんなに好きならもっとよく見ろ。

或いは、殿下がとんでもない名優であったのかもしれません。天才的な演技力まで兼ね備えておられるのですか、あなたには幾つの分野の天賦の才があるのですか。

 

 公爵は、殿下が倒れた翌日にお見舞いに行っていて、『回想録』ではその時の描写もあります。曰く、顔色が酷く蒼白で、二日間は起き上がることすら叶わず、殆ど寝たきりの生活であったとのことです。そんな状態になるまで無理をしないで下さいというか、させないで下さいというか。

↑ 該当部です。

 

 衝撃的なお手紙で御座いました。

 

続きまして、第八の書簡は、再び公爵の面会を求める書き置きと、その殿下の返答についてです。

 

手紙 ⑻

 本日の午後か、或いは明日の朝に一時間ほどあなたの所に伺っても宜しいでしょうか?―――

 

あなたに忠実な、
メシチェルスキー公爵

――――――――――――

9時半に来て下さい
待っています
ニコライ

 

解説

 ごく日常的な、簡単なやり取りです。

 恐らくは、先程の手紙 ⑺ から数日後のものであると推測されます。どんだけ殿下に会いたいんだこの人。

 

 内容だけ見ると、あまり研究的価値がないもののように思われますが、ゾーラブ先生がわざわざ論文内でこのやり取りに言及しているのには理由があります。

 

原本のコピー

 それは、直筆の文字を見るとよくわかります。

前半が公爵の字、後半が殿下の字です。

↑ !?

 公爵の字はいつも通り超・丸文字でカワイイながらも判別がしづらいのですが、問題は殿下の字です。

文字の書き方など(特に д, ь や数字の書き方は顕著)、筆跡は明らかに殿下のものではありますし、内容の識別も容易なのですが、普段と比べて、明確に歪んでいます

左下の文字列は最早よく読めないし、サインの後にはインクを零した跡も……。

 

 ゾーラブ先生は、「ニコライの筆跡は、彼の心身の状態を明らかにすることがある(Sometimes Nikolai's handwriting reveals his physical and mental state)」と指摘します。

この手紙の字が「不揃い(uneven)」であることを確認した上で、「彼は恐らくアルコールか鎮痛剤の影響下にあったのだろう(he might have been under the influence of alcohol or pain killers)」と推測しています。

そう思って見直すと、痛々しいが過ぎます。そんな方の時間を奪いに行くな公爵よ。

 

 事実、この64年4月辺りから、殿下の手紙の中には字が乱れたものが出現し始めます。明らかに普段の字とは異なるので、具合が悪いのが丸バレだと思うのですが、周囲はそれをあまり気に留めていないようにも思われます。何故。相変わらず上手いこと誤魔化していたのかもしれません。

 

 内容だけではなく、直筆の文字を見ることの重要性がよくわかる一枚です。

 

 最後に、ごく短い殿下から公爵宛のテレグラム(電報)を見てみます。こちらは、フランス語で書かれたものです。

 

手紙 ⑼

電報、14407号。

 

ポツダムへ発送、24日10時10分、426号。

到着時刻、24日午前10時15分。

 

メシチェルスキー公爵

ロシア大使館

 

想い出をありがとう。コペンハーゲンに行きます。

ニコラ

 

オテル・リシュモン

 

解説

 こちらは電報用紙に書かれたもので、電報の形で出されたもののようです。

フランス語で書かれており、ポツダムにいた公爵へ送られたものであることがわかります。

 

 内容からして、出された日付は 1864年8月24日(恐らくグレゴリオ暦でしょう。

 

原本のコピー

 殿下直筆のものを見てみます。殿下のフランス語!

キリル文字だけではなく、アルファベットもとんでもなく綺麗な殿下の字であった。

縦に細長いのが特徴です。アルファベットでも相変わらず、頭文字の飾りが素敵。これは是非ともフォントとして欲しいレベル。

 

 こちらを見ると、やはり先程の字がどれだけ乱れていたのかがよくわかってしまうのが、殊更悲しいところです。

 

 ちなみに、今回のサインは「Nicolas」ですが、フランス語のお手紙では、他にも「Nicolaï」と綴っていることも。

「Nicolas」だと、フランス語の男性名と同形ですから、語末の子音は読まず、発音は「ニコラ」に。

Nicolaï」ですと、ロシア人であることが強調され、ロシア風に「ニコライ(厳密には、ロシア語だとアクセントの音を伸ばす+アクセントのない о を「ア」と発音するルールがあるので、ニカラーイになるのですが)」と読ませる形になります。

 

ポツダム

 『回想録』を読み合わせても、何故公爵がポツダムにいたのかがよくわかりません。恐らくはただの観光です。

 

 殿下に誘われてのスケフェニンフェンで、初めてロシア国外へ出た公爵は、その後仕事でイギリスに行き、殿下の従兄であり義兄(養子として皇家に引き取られている)でもあるニコライ・マクシミリアノヴィチ(コーリャ)大公の元に身を寄せます。

 その後、大陸に戻り、スイスやドイツの各地を巡っていたようなので、このタイミングではたまたまポツダムにいたものと思われます。

 

 ちなみに、殿下は8月28日にポツダムに着いているので、もしかしたら入れ違いだったのかもしれません。

殿下は二回目のコペンハーゲンに行く前にポツダムに寄っています。

彼はそこで休むこと無く宮廷・外交行事に参加することになり、過労で病が悪化し、再び体調を崩してしまいます。

 そんな中、父皇帝にプロイセンの軍事演習に参加するように強要されるのですが、殿下は一度体調不良を理由に欠席を申し出ています。しかし、こちらはロシア・プロイセン間の軍事的な紐帯を強める大事な外交行事であったことや、誤診もあって息子の体調に理解がなかったこともあり、その要望は認めて貰えず、更に無理を重ねることに……。殿下は最早、以後自ら体調不良を訴えることは無くなってしまいました。

 

 尚、調べたのですが、「オテル・リシュモン(英語読みをするならリッチモンド・ホテル)」がどこなのかよくわかりません。皇族である殿下が御宿泊になるほどですから、一級の超高級ホテルなのは間違いないのですが。現存していない可能性もあります。勿論、日本のビジネスホテルのことではありません。

 

コペンハーゲン

 ゾーラブ先生はこのお手紙が1864年の8月か9月に書かれたものであろうと見ていますが、「コペンハーゲンに行く」と言っているので(厳密には、文法的には直説法現在ですが、意味上未来形的な役割を有す)、時期的に8月でしょう。9月の24日には、彼は既にコペンハーゲンにいたはずです。

 細かいことを言えば、文法上 pour や à などの前置詞が必要だと思われるのですが、こちらは電報なので、意図的に文字数を減らしているのだと推測されます。

 

 8月後半に「コペンハーゲンに行く」ということは、それは即ち二回目の訪問であるはずです。つまり、プロポーズしに行く、と言っているわけですよ、この電報!

 

 殿下は、8月の半ばに初めてコペンハーゲンに赴き、デンマークの王女・ダグマール姫と知り合います。政略結婚を見越したお見合いでしたが、両者とも魅力的な人物だったために、お互い殆ど一目惚れで好感を持ったようです。童話か?

殿下の最初の滞在は一週間ですが、出掛けるときは常に一緒で、お食事の席もいつもお隣であったとか。側近たちは、誰もがその成功を確信したというのだから余程のことです。

 彼は一度コペンハーゲンを離れ、両親のいたダルムシュタットへ赴き、求婚の許可を取ります。両陛下とも大喜びであったとか。

 その後、外交のためにベルリン、ポツダム(前述のエピソードはこのタイミングです)に寄った後、コペンハーゲンに戻り、ロシアの皇后にならないか、とお誘いを掛けるわけですね。

 

 細く流麗な文字で、非常に短い文面ですが、そこに秘められた内容や思いはかなりのものがありそうです。

 

最後に

 通読ありがとうございました!比較的短く、5500字程です。もしかして感覚バグってきてますか、そうかもしれません。翻訳とはいえ、すぐに長文を書いてしまう。飽きずに追って下さる皆様のお陰です。

 

 さて、次回予告をしてお終いにしたいと思います。

次回は、公爵から殿下宛のお手紙を一通ご紹介する予定です。その手紙なのですが、恐ろしく長いです。本文だけで、ギッチリ100行あります。書きすぎだろ!。公爵閣下は、わたくしなんぞよりもずっと恐ろしい文字書きです。

 従って、少々お時間を頂くことになると思います。頑張って書きます。

 

 それでは、今回はお開きと致します。次の記事でもお目に掛かれば幸いです!

↑ 続きです! 宜しくお願いします。