世界観警察

架空の世界を護るために

自称・最強の同担 - 限界同担列伝5

 こんばんは、茅野です。

早くも10月ということで驚いています。昨日、新国立劇場の新シーズンがスタートし、ロッシーニのオペラ『チェネレントラ』を観て参りました(感想ツイート)。落ち葉が秋雨に濡れる肌寒い季節が始まろうとしています。

 

 さて、連続して今回も「限界同担列伝」シリーズです。ロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下(1843-65)のことが大好きすぎて奇行に走る周囲の人々を紹介していくシリーズです。

↑ 第一回目の画家ボゴリューボフ篇はこちらから。

 

 後のリサーチによって増えるかもしれませんが、今のところ全7回を予定しており、後半戦に突入しています。というわけで、今までも過激派な同担をご紹介して参りましたが、今回は「自称・最強の同担」にご登場頂きましょう。

 第五回となる今回は、ヴラジーミル・ペトローヴィチ・メシチェルスキー公爵を取り上げます。彼は殿下の友人なのですが、膨大な量の怪文書記録を残しており、研究者の間でも困惑重宝されています。

わたくしは勿論、殿下のことが好きでこの限界 "同担" 列伝シリーズを執筆しているわけですが、メシチェルスキー公の文書はですね、もう訳していてこちらもしんどかったです。読んで頂ければその意味、ご理解頂けるかと思います。

 

 今回引用しますのは、いずれも一次資料から。公爵自身が執筆した『旅行記(Путевые заметки)』と、アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公(殿下の次弟で、後のアレクサンドル三世)宛ての書簡を用います。『旅行記』の方は心の底から欲しいのですが、入手困難なため、再びいつものタチシェフ先生の学術歴史書『アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公の幼少と青年時代(Детство И Юность Великого Князя Александра Александровича)』から引いています。

 後者なんですが、ロシア(Лабиринт)から取り寄せました。わたくしが欲しかったのは、殿下が存命の時代である上巻だったのですが、その際……。

と、サイトのミスで戦々恐々としていたのですが、目出度く!

というわけで、この記事を執筆することが叶いました! よかったです!!

 では早速読んで参りましょう。お付き合いの程宜しくお願いします!

 

 

ヴラジーミル・ペトローヴィチ・メシチェルスキー公爵

 今回の主人公をご紹介します。

ヴラジーミル・ペトローヴィチ・メシチェルスキー公爵は、高名なメシチェルスキー家出身の貴族で、将来的には政治家、新聞作成者として活躍する人物です。

 生まれは1839年で、殿下の4歳年上。同年代と言って良く、殿下とは友人関係です。今回見てゆくエピソードは主に1864-5年のものになるので、25-6歳ということになりますね。

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↑ 若き日のメシチェルスキー公。

 

 若さに反して文学的素養のある優れた知性を持つ人物で、皇后らからも気に入られていたと言います。一方、結構抜け目のない性格だったとかで、生まれと頭の良さとを生かし、殿下に近づいたのも己の出世のためだったという説もあります。しかし、カウンターアタックと申しますか、殿下に魅せられてしまい、ガチ恋勢に至ります。近づいた人間を全て恋に落とすのが殿下ですからね!

 

 ……はい、ご覧の通り、メシチェルスキー公爵は男性です。また、ロシア帝国では、刑法995条及び996条にて同性愛が禁止されています憲法がないのに刑法が1000条越えている恐ロシア帝国

 しかし、メシチェルスキー公は、恐らく、文字通りの意味で、殿下にガチ恋をしていたと考えられます。晩年、メシチェルスキー公は同性愛的傾向を告発され、政敵に散々いじめ抜かれ、一時政界を追放されかけたほどでした。その際、当時の皇帝アレクサンドル3世が彼を守ったわけですが、これから見てゆく書簡を見れば明らかなように、皇帝は、公爵が彼の亡き兄にガチ恋していたことを知っていたため、その事実を知った上で、揉み消したのでしょう。

彼は自分が同性愛者であることを自覚しており、同じく同性愛者であった作曲家チャイコフスキーとも交友があり、支援していたようです。殿下とチャイコフスキーが好きとは……趣味が良いな……わたしと同担か……?(※そうです)。

 

 ちなみに、殿下は当然(?)同性愛者の方々からも愛されました。例えば、バイエルンの国王であり、「狂王」として知られるルートヴィヒ2世は、殿下の2歳年下なのですが(1845年生まれ)、彼がドイツに訪れるとそれはもう殿下にべったりくっついて離れなかったとか。殿下はドイツ語も堪能で、年長者であることや、同じ皇太子という立場から、ドイツ語でよくお悩み相談に乗ってあげていたらしく、ルートヴィヒ2世は「外でも家でも彼と長く会話して過ごした(Проводя в беседах с ним долгие часы дома и на прогулках)」そうな。

 

 また、こちらも余談じみてしまいますが、最後には繋がるのでお付き合い下さい。

ロシア文学史上最初の同性愛文学はゴーゴリの『別荘の夜』だと言われていますが、こちらはほぼ自伝で、同性愛者であった作家ゴーゴリが、当時22歳のイオシフ・ヴィエリゴルスキー伯爵の結核による死を看取った話をそのまま書いたものです。数ページの短い作品で、ほんとうにただ看取るだけの内容であり、同性愛要素はほぼないに等しいのですが、ゴーゴリが実際に彼を愛していたという側面から、このように受け取られています。20代前半で結核菌による死ということで、殿下に通ずるところもありますが、それだけではありません。

 実は、このイオシフ・ヴィエリゴルスキー伯爵、殿下の父のアレクサンドル2世の幼馴染み。アレクサンドル2世の学友で、彼よりも優秀だったため、陛下はよく「彼を見習え!」と言われて育ち、内心複雑な思いを抱いていたようです。アレクサンドル2世も我らが殿下と同じく、皇太子時代の20歳頃、国外外遊の旅に出掛けました。その際、ヴィエリゴルスキー伯爵も同行していたのですが、持病の結核を悪化させてローマで喀血して倒れ、戦線離脱。そこで知り合ったゴーゴリに看取られて亡くなります。外遊中にイタリアで倒れるってところまで一致している。怖い。

 一方、我らが殿下に学友はおらず、原則として一人で学びました。その理由には様々なことが挙げられていますが、中には、父であるアレクサンドル2世にとって、彼のことがトラウマになっていたことも挙げられるかもしれません。

尚、ヴィエリゴルスキー家は、当然皇帝の学友に選出されるレベルですから超名家であり、ロマノフ家とも長い付き合いがあります。我らが殿下がオランダに滞在していた際、前回の記事でもご紹介した殿下の教育責任者であるストロガノフ伯爵の長男が亡くなってしまい、父である伯爵は殿下の元から一時的に離脱することになりました。その際、皇帝は彼の代わりとして、自身の幼馴染みイオシフ青年の叔父であるマトヴェイを殿下の元に向かわせています。繋がるものですね……。

 

 余談が長くなってしまいました。公爵に話を戻しましょう。

メシチェルスキー公爵はそれはもう膨大な量の文献を残しており、1863年から1868年のアレクサンドル大公宛への手紙だけで600ページ近い量があります。尚、そのうち、殿下の言及回数は80回を超えています

 第三回でご紹介したエカテリーナ大公女なども恋に生を捧げた限界ガチ恋勢ですが、彼女の自筆の文献は残っていない分、どことなくインパクトに欠ける側面がありました(?)。一方、メシチェルスキーは、膨大な量の推し語りを遺している上、妙に文才がある為、美しい文章が余計に変態っぽく(※個人の感想です)、色々な意味で読み応えがあります。

 

 ほんとうに殿下のことが好きだったらしく、殿下が亡くなってから何年何十年後になっても無限に殿下の話をしていますが、今回は厳選に厳選を重ね、幾つかの記述をピックアップしました。どの文章も"濃く"、選ぶのは骨折りでした。やはり、死というもののインパクトが強いので、今回は死の前後の記録を中心に見てゆきます。

 

魂の秘密

 1864年7月、殿下はオランダのスケフェニンフェンに一ヶ月滞在します。この時、殿下はずっと隠していた脊椎結核が悪化しており、心身共に優れない状態でした。殿下は同地にメシチェルスキー公を招待し、己の秘密を打ち明けます。かなり長くなりますが、殿下の本心を捉える上でも重要な文献なので、読んでいきましょう。

 Он заметно похудел и побледнел, был в мрачном расположении духа, скучал и хандрил. Таким нашел Наследника посетивший его по приглашению в Скевенингене один из молодых его друзей, князь В. П. Мещерский.
Однажды, гуляя с ним по берегу моря, Цесаревич сказал: "Я иногда думаю о смерти. Разве она такая страшная вещь?  Мне кажется, что она должна быть переходом от чего-то тяжелого к чему-то легкому". "Не Вам об этом говорить, -- отвечал ему собеседник, -- когда впереди столько причин любить жизнь". Но Наследник настойчиво повторял: "А я думаю потому, что иногда мне кажется, что я недалек от смерти".
 Накануне отъезда из Скевенингена после проведенных там трех недель в непосредственной близости Цесаревича князь Мещерский имел с ним другую продолжительную и знаменательную беседу во время гулянья по морскому берегу в холодный вечер под унылый звук морской волны.

Беседу эту князь в следующих словах занес в свои "Путевые заметки": 
"Уезжаю с невыразимою грустью в душе. Мы беседовали с Цесаревичем более часа, и каждое его слово звучит в душе невыразимою болью. Несомненно, что в нем скрытая какая-то болезнь, которую доктора не видят и не подозревают. Он ее чувствует, но скрывает свои страдания. И если к этому прибавить то, что Павлик и я, мы замечаем, а другие как будто не замечают того, что Великий Князь то тает, как горящая свеча, то становится страшным.

Никогда так нежно и ласково не говорил со мною Цесаревич. "Вы не поверите, как я Вам благодарен за то, что Вы приехали к нам скучать в такое захолустье".

А когда я сказал, что благодарить ему не за что, ибо я ничего не испытал, кроме приятного для души, то Цесаревич сказал мне: "Если бы Вы могли знать, что у меня подчас делается на душе, Вы бы поняли мою к Вам благодарность... "Я Вас понял, и понял, что и Вы меня понимаете. Мне становилось легче, когда я с Вами говорил откровенно..." Взволнованный этими словами, я спросил Цесаревича: что он испытывает, чем он страдает? На это он мне ответил: "Трудно передать. Бывают минуты, когда я ужасно страдаю: наступает бессонница, тоска гложет, не знаешь, куда деваться, выступает холодный пот, бред какой-то начинается в голове, и когда это проходит, является предчувствие смерти... Но это как будто легче", -- прибавил Цесаревич.
-- Отчего же вы ничего не говорите доктору? Ведь тут есть хорошие доктора.

-- Не стоит! Они скажут, что это нервы, действие морских купаний.
-- Так позвольте я поговорю с Шестовым, с Оттоном Борисовичем.
-- Нет, ни в коем случае. Ваш долг быть конфидентом только моей души... 
Может быть, это все и пройдет и я опять молодцом стану...
Я совершенно невольно стал ободрять Цесаревича теми мыслями, которые приходили мне в голову, приписывая это мрачное настроение просто действию моря, тем более что и сам его испытывал.

"Может быть, и так, -- ответил Цесаревич, -- но все-таки я предчувствую что-то нехорошее. Не браните меня за это. Я говорю что чувствую... А теперь поговорим о другом. Вы увидите в Англии Колю..."
Цесаревич дал поручение к другу своему Герцогу Николаю Лейхтенбергскому, и разговор стал как будто веселый. "Но Боже! -- восклицает князь Мещерский в своих "Воспоминаниях", -- как в душе было далеко от веселья и как томительны были эти последние четверть часа прогулки, когда приходилось говорить обо всем, думая о другом.

Подойдя к дому, Цесаревич остановился, протянул мне руку и крепко ее пожал. "Все-таки, -- сказал он, -- спасибо Вам за дружбу, спасибо Вам за скевенингенское свидание"... Какую мучительную ночь пришлось провести, думая все о том же. И ветер так зловеще выл".

 彼はめっきり痩せて青ざめ、憂鬱な気分になり、退屈し、鬱ぎ込んでいた。彼の若い友人の一人であるヴラジーミル・ペトローヴィチ・メシチェルスキー公爵は、彼に招待されて訪れたスケフェニンフェンで、このような帝位継承者を見つけた。

 ある日、彼らが海岸を散歩していたとき、皇太子は言った。「時々死について考えます。果たしてそれはそんなにも恐ろしいものなのでしょうか? それは私には、何か辛いことから、何やら楽な方へ移ることに違いないと思われるのですが」。「そんなことを話すのはあなたの為になりませんよ」と彼に答えた。「これからの人生を愛す理由がこれほどあるときに」。しかし帝位継承者は根気強く繰り返した。「けれど、私は死からそう遠くはないと、時々思うものですから」。

 スケフェニンフェンを発つ前日、皇太子の近くに三週間滞在したメシチェルスキー公爵は、波音のする寒い陰気な夕方、二人で海岸を散歩しているときに、長く重要な会話をした。公爵は『旅行記』で、ここでの対話について次のような言葉から始めた。

『筆舌に尽くしがたい悲嘆を魂に負ったまま去ります。皇太子と一時間以上話しましたが、彼が言葉を発する度に、私は魂に筆舌に尽くしがたい痛みを感じました。疑いなく、彼は医師が見つけられない、得体の知れない病を隠しています。彼はそのことに感づいていながら、己の苦痛を隠しているのです。そしてそれにパヴリク・コズロフと私は、観察して、大公が尽き掛けの蝋燭が溶けるように窶れてきたこと、それなのに他の誰もがそのことにまるで気が付いていないことに気が付いたということを付け加えさせてください。もしこれが正しいなら、恐ろしいことになります。

皇太子が私にこれほど優しく、親切に語りかけてくれたことはありませんでした。「私達のいるこんな退屈な僻地まで来て下さって、私がどれほどあなたに感謝しているか、ご存じないでしょう」。私は「感謝する必要はありません、何故なら私は今以上に楽しく過ごせたことなどないのですから」と言いました。

その時、皇太子は私に言いました。「もしあなたが、時々私の魂の中で起こることをご存じなら、私の感謝の気持ちを理解して頂けるとおもうのですが……。私はあなたを理解していますし、あなたが私のことを理解して下さっていることも理解しています。あなたに率直に打ち明けたとき、幾らか気持ちが楽になったものだから……」。それらの言葉に心がざわめき、私は皇太子に問いました。「何があったのですか、何に苦しめられているのですか?」。これに対し、彼は答えました。「正確にお伝えするのは難しいですね。恐ろしく苦しい時が度々あるんです。眠れなくて、絶望感に苦しめられ、どうしたらいいのかもわからず、冷や汗が溢れて、ある種の譫妄が頭の中で始まって、それが治まる頃には、死が頭をよぎるんです……。でも、楽になったみたいです」―――と皇太子は付け加えました。

「一体何故お医者様に話さないのですか? ここには良いお医者様が沢山いらっしゃるのに」。

「必要ありません! 彼らは海水浴からくる神経症だとか何とか言うに決まっています」。

「では、シェストフとオットー・ボリソヴィチに話すことをお許し下さい」。

「いいえ、決して。あなたの義務は、私の魂の秘密を打ち明けられる人であることだけです……。きっと、この不快感は全て過ぎ去って、私はまた上手くやれるはずなんです……」。

私は全く思いがけず、頭に閃いた考えで皇太子を励ましました。それは暗い気分を単に海のせいにすることでした。実際、それは私自身も経験したことだったのですから。

「そうなのかもしれませんね」と皇太子は答えました。「しかし、それでもやはり、私には何か悪い予感がするんです。そのことで私を怒らないで下さいね。ただ予感したことを話しているだけなのですから……。さあ、話題を変えましょう。イギリスでコーリャに会うんですってね……」。

皇太子は彼の友人であるニコライ・レイフテンベルクスキー公爵についてお尋ねになり、会話は全く楽しげなものになりました。「しかし、神よ!」―――彼の『旅行記』の中でメシチェルスキー公爵は絶叫している。「別のことを考えながら話すとき、どれほど私の魂は快活さから離れた場所にあったことでしょう、どれほど散歩の最後の15分間に疲れたことでしょう。

家に近づくと、皇太子は立ち止まって、私に手を差し伸べ、しっかりと握りしめて下さいました。「それでも」彼は言いました。「あなたの友情に感謝を、あなたとスケフェニンフェンで会えたことに感謝を」……。同じことばかりを考え、なんと苦しい夜を過ごさねばならなかったことでしょう。風は不吉に吠えていました。』

 その予感は正しい……。いや、それにしても、また別の記事でご紹介しようかと思っておりますが、殿下の勘は百発百中なのです。未来見えてるんですかね? それともやっぱり人生周回勢?? 美しく聡明で出自も性格もよい上に、勘まで当たるとはどうなっているんだ……本当にわからん……殿下研究3年目ですが、本気でわかりません……。

 

 このエピソードからは、わかることが沢山あります。情報の宝庫です。ありがとう公爵閣下! 世に必要なのは優れた同担!

 まずは、殿下自身が、己の病が治療不可能且つ予後不良のものであることを認知していたという点です。その上で、取り乱すことなく、その事実を押し隠して、明るく振る舞っていたというのだから、改めてその精神力には驚かされます。

 そして、殿下が医療を信用していないという点です。当時の医療は今では考えられないくらいに杜撰で、「医師に殺された」と言っても語弊にあたらないような場合が数多くありました。実際、別記事で既に取り上げましたが、殿下に施された「治療」も、寧ろその死を早めるだけに終わっています。殿下には、そのことがわかっていたのでしょう。

↑ 殿下に施された「治療」を解説した記事。読んでいるだけで色んな所が痛くなってくるので、心して読んで下さい。

 そして、少々腹立たしいことに、メシチェルスキー公爵は殿下に深く信頼されていた、という点です。殿下は、ここで、苦痛からくる悲痛な希死念慮を打ち明けていますが、そのことについて、本当に罪の意識を抱えていたらしく、最期の痛悔機密でも殿下は「自分の罪は希死念慮を抱いたことにある」と述べています。実際、キリスト教では自殺は御法度ですし、間違っても「皇太子が死にたがっている」なんて漏れた日には大惨事です。恐らくは、殿下は公爵が己のことを深く好いているのがわかっていて、その上で、自分のためにそのようなことは言わないだろうと踏んで、彼に打ち明けたのだろうと思います。

実際、他の文献を読み合わせても、メシチェルスキー公爵は、少なくとも殿下が亡くなるまでこの「魂の秘密」を守りました

 

 コーリャというのは、レイフテンベルク公ニコライ・マクシミリアノヴィチ・ロマノフスキーのことで、殿下の従兄(父の妹の息子)です。

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1860年頃の大公。

 同じく名前が「ニコライ」ですが、愛称は「コーリャ」と最も一般的。殿下と同じく1843年生まれで、殿下より2ヶ月ほど早く生まれています。

殿下とは仲がよく、よく一緒に遊んだり勉強したりしていたようです。レイフテンベルクスキー公は大変身体が弱かったそうですが、スポーツに興じたり、7歳頃には二人で詩を書いたりしています。科学の才能があり、鉱物学を修めており、沢山の研究論文も書いている他、彼の名を冠した鉱物まであるそうです。

 

 尚、メシチェルスキー公と殿下は、この後も文通を続けています。メシチェルスキー公の書きぶりでは、第二回でご紹介したグラッベ将軍と過ごした際、殿下は彼に「将軍に温かく歓迎して貰い、非常に嬉しく思っている」というような旨も書き送っていたようです。

 

二人きりになれるなら

 次に、アレクサンドル大公宛の書簡を紹介して参ります。最初は1865年4月6日のものです。同月4日、殿下の弟であるアレクサンドル大公が、殿下のいるニースに着きます。殿下は結核髄膜炎を患い、ニースで療養していましたが、いよいよ危ないということで、彼のことを大変慕っていたアレクサンドル大公は父皇帝に願い出て、一足先にニースへ向かいます。

こちらは数行の短い手紙ですが、濃いので一文見てみましょう。

 Если возможно и Вы будете наедине с Вашим братом, скажите ему, что каждое мгновенье сердце рвется к одру его в порыве беспредельной любви! 

 もしあなたが、あなたのお兄さんと二人きりになれるなら、彼への無限の愛で私の胸は裂けそうですとお伝え下さいね!

 伝えるか!!! 仲介人にされるアレクサンドル大公の気持ちもちょっとは考えて下さい。それに「二人きりの時」と指定しているのが殊更ヤバい。一応そこには羞恥(?)の念とかあるんですね……? 最後のビックリマークもじわじわきます。

 

脅迫

 次を見てみましょう。11日、ほぼ一週間後のものです。アレクサンドル大公から返事がなかったらしく、公爵は追撃を開始します。どうぞ。

 Писать Вам нечего, но Вас умоляю и убедительно прошу написать несколько строк о том, видите [ли] Вы Вашего бедного брата, и на этот раз сообщить мне несколько Ваших впечатлений.
Вы знаете слишком хорошо, как я люблю Вашего брата: подумайте о том, что здесь я так далек от того места, где бы так хотелось быть, и, кроме депеш, ничего не знаю; прибегаю к Вашему доброму сердцу, сжальтесь над моим тяжелым одиночеством и напишите несколько строк, а буде не можете, попросите об этом доброго Ник[олая] Павловича [Литвинова], который, верно, не откажется от этой дружеской услуги! 

 あなたに書くことは何もないかもしれませんが、それでも私はあなたの不幸なお兄さんについてのあなたの印象を数行でも書いて頂けないかと懇願するものです。あなたは私がどれほどあなたのお兄さんを愛しているか、よくご存じのはずです。考えてみて下さい、私は遠く離れた場所にいて、電報から以外は何も知りようがないのですよ。あなたの善良な心に訴えます。私の辛い孤独を哀れんで、数行書き送って下さい。もし不可能なのであれば、忠実なニック・ペトローヴィチに頼んで下さい。どうか友人としての奉仕をお断りにはならないで下さい!

 先程の手紙に返事を出さなかったら追撃としてこれが来る、あまりにも強すぎます。お願いというより脅迫です。

「あなたは私がどれほどあなたのお兄さんを愛しているか、よくご存じのはずです」って、アレクサンドル大公に何を言ったんですかね……?? 恋愛相談でもしていたんでしょうか?

 

 尚、ニック(ニコライ)・ペトローヴィチというのは、リトヴィーノフ中尉のことで、アレクサンドル大公の側近です。事実、殿下の死の前後をよく観察しており、記録に纏めています。歴史書などで最もよく引用されるのが彼の手記ですが、殿下ではなくアレクサンドル大公の側近という点で、その記述は死に纏わるものに限られます。殿下ファンとしては、殿下の側近の記述ももっと読み、掲載して頂きたいものです。

 

アレクサンドル大公からの手紙

 結局、アレクサンドル大公は我らが殿下が亡くなるまでメシチェルスキー公に手紙を出しませんでした。一応、彼の名誉のために付け加えておくと、大公自身も限界ブラコン同担の一人であるため、別の文献によれば「お手洗いとお食事の時以外は」片時も病床の殿下から離れなかったので、お手紙を読み書きする時間すらなかったのでしょう。あれ? 限界同担だと暴露することが名誉になったのかどうか、わたしにはよくわかりません、すみません。

 それでは、今度は殿下が亡くなった日のメシチェルスキー公宛てのアレクサンドル大公からのお手紙の一部を読んで参りましょう。

 Депеши я Вам не написал, потому что Владимир передал мне Ваше письмо только сегодня, за которое я Вас и благодарю. Ваше письмо к Наследнику я не мог ему отдать, потому что он был уже очень плох, когда я приехал.

 Вы меня простите, если я Вам признаюсь, что прочёл письмо Ваше к умершему брату. Я хотел рыдать, когда читал его, но у меня слёзы теперь трудно идут, это ужасное чувство.

 あなたにお返事を書きませんでしたが、それは今日になってヴラジーミルが私にあなたのお手紙を手渡してきたからです。お手紙を下さって感謝しています。あなたの帝位継承者宛のお手紙を、彼に渡すことができませんでした。何故なら私が着いた時には、既に彼はもう危篤状態だったからです。

 亡くなった兄に対するあなたのお手紙を読んでしまったことを告白しても、あなたは許して下さいますよね。読みながら泣きたいと思っていたのですが、今ではもう涙さえ乾いてしまいました。恐ろしい気持ちです。

 一体全体、殿下宛てのお手紙に何を書いたというんだ……。限界ブラコンのアレクサンドル大公の涙を枯らす超火力のお手紙だったに違いありません。

 

 これはあくまで推測なのですが、メシチェルスキー公は後日、「殿下に私の厚い友情の念を伝えられなかったこと」を大層悔やんでいるので、つまりは「そういう内容」だったのではないかと考えています。もしかして: ラブレター。真相は謎のままです。

 

 「着いた時には危篤状態だった」という話が出てきますが、少し語弊があります。原則的に殿下は亡くなる直前まで意識があって、激しい頭痛に反して知的な会話まで可能でした。しかし、これまで見てきたように、殿下は人前で無理をする性格で、医師たちもそのことがわかっていたので、家族であっても、無闇に彼に近づけないようにしていました。殿下も弟がニースに来ていることはわかっていて、ずっと会いたがっていたのですが、それが許されたのは数日も経った後のことだったのです。病は悪化していく一方なので、そのせいで危篤状態に近かった、ということです。

「最期なんだし会わせてやれよ」という意見は尤もですし、わたくしもそう思いますが、医師たちの言い分自体は理解もできて、実際、父帝や婚約者のダグマール姫が来着した際、殿下は上体を起こして笑顔で彼らを迎え入れ、冗談まで口にして楽しげな会話になるよう心懸けたそうですが、死の二日前ということで体力も限界で、数分後に前のめりに昏倒、数時間意識が戻らなかったらしく、その姿を見てアレクサンドル大公は激しく泣いたとのことです。

 

 ヴラジーミルというのは、殿下とアレクサンドル大公の弟(三男)のことです。

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↑ アレクサンドル大公とヴラジーミル大公が若い頃から恰幅が良いことを考えると、ほんとうに殿下は体型からして突然変異ですね……。

殿下の死に際して、父皇帝、婚約者ダグマール姫、その母デンマーク王妃ルイーズと共にニースに来ていました。例のリトヴィーノフ中尉の記録によると、殿下が亡くなった際、一番声を上げて泣いていたのは彼だったとか。

 

自称・最強の同担

 先程の手紙を受け取ったメシチェルスキー公は、同日中にアレクサンドル大公に返事を書きます。

 Но не мог: все прошедшее явилось предо мною со всеми его сладкими впечатлениями, с всеми надеждами на предстоявшее счастье Наследника, с всеми теми воспоминаниями, которых свет хранила в душе моей моя любовь к Нему, и потом мысль, что все это минуло навсегда и нет между нами Того, кого я любил с такою беспредельною и благоговейною любовью, мысль эта охватывала как бы всю душу, и ужасная тоска овладевала мною.

 Еще раз благодарю Вас от всей души, дорогой Александр Александрович, за Ваше письмо! Я несколько раз перечитывал его с умилением: со слезами прочитал я те слова, в которых Ваша душа выразилась вполне: «Этот день останется лучшим днем моей жизни»! Прошу Вас от всей души, в минуты, когда Вам захочется говорить о печали Вашей и о покойном брате, пишите мне: не во многих Вы найдете столь живого отголоска на Вашу любовь к нему и на Вашу тоску по нем!

 Еще раз прочитал Ваше письмо перед закрытием моего: благодарю Бога, давшего Вам быть свидетелем прощания с жизнью Вашего брата и наполнившего Вашу душу и горем и сладкими впечатлениями!

 しかし私にはできませんでした。私の前に過去の彼の甘美な印象が現れて、帝位継承者への来たるべき幸福への希望も、心からの彼への愛に彩られた想い出も、全て永久に過ぎ去ってしまいました。私が限りなく、敬意を込めて愛した方はもういらっしゃらないのだという考えに、恐ろしい絶望が私の魂を占領しました。

 今一度、お手紙を書いて下さったことに心から感謝申し上げます、親愛なるアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ! あなたの魂の全てが現れた言葉に胸を打たれながら何度も読み返しました。心からのお願いですが、あなたの悲しみや、亡くなったお兄さんについて話したくなったら、是非とも私に書いて頂きたいのです。あなたの彼への愛と、そして絶望に、これほどまでに共感しているのは私くらいでしょう。

 この手紙を書き終える前、今一度あなたのお手紙を読みました。あなたがお兄さんの人生の最期に立ち会えたこと、そしてあなたの魂を悲しみと甘美な印象で満たして下さった神に感謝します。

 オレが最強の同担なので、推し語りしてくれ(要約)(大体あってる)。アレクサンドル大公も相当な限界同担なのですが、確かにメシチェルスキー公も最強クラスの限界同担です。しかし、これまでご覧頂いたように、殿下大好き限界同担ファミリーの層は厚く、激戦区ですよ。公爵閣下はストーカーや不法侵入者に勝つことができるのでしょうか?(余計な心配)。

 

 文中に«тоска»という語が出てきますが、こちらはロシア語の中でも翻訳が難しいというか、対応する日本語がないと言われている単語で、意味的には『「悲しみ」「苦しみ」「不満」「鬱」などを超越した何か』みたいな感じです。一応は「絶望」と訳出していますが、恐らくそれを超越した何かであると付け加えておきます。

 

親切の理由

 殿下が亡くなって2週間強経った同月28日、アレクサンドル大公はロシアへと戻ってきました。メシチェルスキー公爵は彼に、3ページにわたる長い手紙を書きます。いつでもどこでも推し語りを展開している公爵ですが、なかでも強烈なので、一部を少し長めに引用します。

 О! если бы Вы знали, чем было для меня испытанное горе; если Вы лишились в Вашем возлюбленном брате единственного друга, на всю жизнь незаменимого, и в этой роковой разлуке утратили так много надежд, то многого, увы! лишился и я, много в моем уединении пролил я слез и тяжело пострадал в эти 3 недели, тем более тяжело, что некому было из близких к Нему поведать свое горе.
Теперь, что уже Его между нами нет, могу сказать Вам, что никого в жизни своей не любил такою чистою, беспредельною и священною любовью.
Сознание, что Он мог только долею дружбы платить мне за мою всеобъемлющую душу любовь, давало ей еще большую силу.
Минуты, когда он бывал с мною откровенен и искренен, были для меня лучшими минутами моей жизни: я их берег как святыню и в благодарность за них дал себе перед Богом тайный обет всю жизны мою, все труды моей жизни, все доброе во мне посвятить Ему с одною лишь заботою быть Ему по мере сил полезным! 

  Но перед Вами и перед Богом скажу, что потерял в Нем все, все лучшее в моей жизни. Теперь я упал духом и гляжу на жизнь безотрадно.

  Но простите мне за это излияние душевных чувств: впервые открываю свое горе перед человеком, никому, кроме Вас, оно недоступно и не понятно! 
Но что значат мое горе в сравнении с Вашим, мои слезы перед слезами брата и друга в такие тяжелые минуты, как нынешние? Как я уже сказал Вам, мысль о Нем всегда неразлучна в душе моей с мыслию и заботою о Вас, дорогой Александр Александрович.

Если суждено им быть неприкосновенными, то, кажется мне, мы поймем друг друга, ибо над нами и между нами будет всегда присуща возлюбленная и дорогая память Вашего брата, который сказал мне однажды: «Будьте другом моему Саше».
Да, дорогой Александр Александрович, я буду счастлив, если Вы поверите моей дружбе и моему желанию быть Вам, насколько могу, полезным! 

 あなたが私の悲しみを知っていたら! もしあなたが愛する兄と掛け替えのない唯一の友人を同時に喪ったのだとしたら、この運命的な喪失によって私も希望を失いました、嗚呼! 私は孤独に多くの涙を零しました、特にこの3週間は、身近にこの悲しみを告げられる人がいなかったので、特に辛い思いをしました。

 彼が私達の元から去った今言えるのは、私は人生に於いて、斯くも清く、無限の、気高い愛で人を愛したことはなかったということです。

 私は魂が感じた印象を誰かにぶつけることを己に許したことはありませんでした。あなたは始めて私が己の悲しみを打ち明けた人です。他の人には理解できないでしょう。

 しかし、私の悲しみをあなたの悲しみと比べることに何の意味があるのでしょう。このような困難な状況で、彼の弟であり友人であるあなたの涙の前に、私の涙が何の役に立つというのでしょう? 既にお話したように、私の中で、彼への想いと、あなたへの、親愛なるアレクサンドル・アレクサンドロヴィチへの想いと心配は不可分なのです。

もしそれが運命であるのなら、私達は互いに理解し合えると思うのです。何故なら、かつて愛するあなたのお兄さんが私に、「私のサーシャに親切にして下さいね」と仰った尊い記憶が私達を結びつけているからです。ええ、アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ、私の友情と、少しでもあなたのお役に立ちたいのだという気持ちを信じて頂けたら嬉しいです。

 そういうのは本人が生きているときに直接言ってあげて欲しい……。いや、殿下はそんな愛の言葉はもうウンザリするほど言われ慣れてるとはおもうんですが、ここまで熱烈であればきっと喜んで頂けると思いますよ。あ、ドン引きされる可能性については考慮していません。

 

 それから、急に我に返るのやめてくれ。びっくりします。「何の意味があるでしょう?」って、そんなの、ねえ……。更に言えば、アレクサンドル大公と親しくする理由は、殿下にそうするよう言われたからって、それだけなんですね!? すんごいなこの人……いや前々から存じ上げてはいたものの……しかもそれ本人に言うんですね……。

 

 そして、「人に理解できない悲しみ」というのは、恐らくは、同性愛的なニュアンスを込めているのかなと感じます。ロシアは同性愛に大層不寛容な国なので、彼はカミングアウトできなかったのでしょうね。それにしても、それを唯一許したのが「推しの弟」「皇帝」というのが凄まじすぎます。

 

殿下が愛される理由

 殿下の遺体がロシアに返還され、葬儀、埋葬されたのは5月28日ですが、その3日後の5月31日の手紙を読み、この記事を終えたいと思います。

 Ваше Высочество Дорогой Александр Александрович! 
Знаете ли Вы, что вчера утром я бежал из Царского, ошеломленный внезапною переменою Вашего обращения, и бежал, признаюсь, с намерением никогда в него не вернуться.
Все лучшие надежды рушились в одно мгновенье и разлетелись как мечты, и мечты безумные больного воображения! Сегодня буря утихла, я много передумал, был утром на могиле Вашего брата, долго и горячо молился за Него, за Вас и за Россию и вернул себе в душу молитвою покой.

Подумайте о том, что все взоры обрашщены на Вас, вся Россия ждет от Вас того, что дал ей Покойный Наследник,-светлые надежды на будущее! 

 親愛なるアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ殿下!

昨日の朝、あなたの態度の急変に驚いて、私が二度と帰って来ない気持ちでツァールスコエから出て行ったことをご存じですか。最高の希望は崩壊し、幻のように一瞬にして消し飛び、酷く狂気染みた空想と化しました!  今朝、私は何度も考え直し、あなたのお兄さんのお墓に行って、彼のため、あなたのため、そしてロシアのために長く熱心に祈り、漸く平静を取り戻しました。

 全ロシアがあなたを注視していることがおわかりにならないのですか。彼らは、亡くなった帝位継承者が与えてくれていたもの、つまり明るい未来の希望を待っているのです!

 激おこです。アレクサンドル大公側からの記述が残っていないので、精確にはわかりませんが、何があったかはある程度推測できます。

 殿下が亡くなった後、メシチェルスキー公は«тоска»を抱きつつも、「自分がこの大公を立派な皇帝にしてみせるんだ!」と、年長者として、友人として支えてゆく決意をします。彼に対し、「皇太子になる以上は、こういうことをした方が良い」「こういう癖は直した方が良い」など、有用なアドバイスを沢山書き送っていることからも、それは明らかです。

それに対し、「最愛の兄且つ唯一の友人」であり、「何よりも、誰よりも愛していた」殿下を喪ったばかりで、更に二日前には埋葬があり、そこでも大号泣して精神的に参っていたアレクサンドル大公は、全てを拒否。「優秀だった兄の代わりになれるわけがない」「皇帝なんかなりたくない」「愛人と貴賤結婚して国外に逃げてしまいたい」、果ては「あなた(メシチェルスキー公)に手紙を書くのももう面倒なんです!」とまで言い放ったようです。それに酷くショックを受けた公爵が書いたのが、上記のような手紙です。それにしても、ここまで言われて、殿下の墓前で祈るだけで平静を取り戻せる公爵のメンタルも凄いですね。それだけ殿下のことが好きだったのでしょう。流石、自称・最強の同担です。

 

 尚、この手紙も鬼のように長くてですね、この後、「何故、殿下が国中の人から好かれていたのかわかりますか?」と、お説教なのか推し語りなのかわからない迷文が5ページにわたって続きます。めちゃくちゃ要約すると、「ロシアの、ロシア人民のことを常に考え」「彼らのためだけに生き」たことがその鍵なのだそうです。確かに、殿下は彼の言う通り、そのような生き方をしていましたが、もう少し己を労ってもよかったのではないかと感じてしまいます。しかし、それだけに、支持率ほぼ100%という偉業を達成していた殿下でもありました。

 

最後に

 通読お疲れ様でございました。シリーズ最長、2万字超えです。失礼しました。いや、これでも当初より削ったんですよ! メシチェルスキー公の推し語り、ほんとハンパじゃなくて……。一番大変でした! 色々な意味で凄く体力使いましたね、ええ。

 今回は「自称・最強の同担」ことメシチェルスキー公を取り上げましたが、いよいよ、満を持して、次回は当記事で準主役を演じてくれた、アレクサンドル大公にご登場頂こうと考えております。

 それでは、長くなりましたのでお開きとさせて頂きます。次の記事でお会いしましょう!

↓ 第六回の記事が上がりました。こちらからどうぞ。