おはようございます、茅野です。
先日、めでたく(?)、我らが殿下が「髪の毛一房43万円の男」に成り仰せてしまいました。そんなことある?
↑ 世の中には殿下の髪フェチというヤベー奴趣味のお宜しい方がいっぱいいるらしい。致し方ない、殿下の髪は美しい。
友人には、「お前まで競りに参加していれば『髪の毛一房100万円の男』になってたよ」と言われました。そうかもしれません。
それにしても、髪の毛一房が43万円なら、その他の遺品が出てきた場合、どうなってしまうんだ。そんな、ディアゴスティーニじゃないんだぞ。
殿下の髪が入手できなかったことよりも、己のリサーチ能力の低さにショックを受けたわたくしは、リサーチ能力を強化することを決意。より強いオタクになって戻ってきますので、暫し待たれよ!
宜しいか、わたしは己の失態をそのまま放置しておくような愚かな人間では無いのだ、可及的速やかに基礎文法くらい身につけてやるからな、覚えておけよデンマーク王室 pic.twitter.com/vJoeC9hszi
— 茅野 (@a_mon_avis84) December 14, 2022
↑ 友人には「やっていることは賢いのに、性格が脳筋すぎる」と呆れられました。
あれから数日、負け惜しみのように、我らが殿下こと、ロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下関連のリサーチを積んでいました。特に、婚約者のダグマール姫、後の皇后マリヤ・フョードロヴナ陛下を中心に調べました。
その結果、とても興味深い情報を得ることができたので、今回は単発で、この出来事についてご紹介できればな、と思います。
ロシア帝国とオーストリア帝国は、歴史的に関係が冷え込むことが多かった隣国同士です。それでも、最低限の礼節を以て接するのが当たり前でした。
しかし、オーストリア帝国に「最愛の婚約者である殿下を侮辱された」と感じた姫は、同国に対し、「最もスマートでエレガントな復讐」を思いつきます。その驚くべき、黒く眩い一夜とは。
それでは、お付き合いの程宜しくお願い致します!
「黒の舞踏会」
それは殿下が亡くなって24年もの歳月が過ぎ去った、1889年2月7日(グレゴリオ暦)の夜のことでした。
ペテルブルクのアニチコフ宮殿では、黒の燕尾服に身を包んだ男性たちと、黒のドレスに身を包んだ女性たちが、微笑みを交わしながら身体を寄せ合って、とても楽しそうにワルツを舞い踊っています。
この夜は、通称「黒の舞踏会」と呼ばれ、ロシア帝国の社交界史に残る、最も美しい舞踏会の一つとして、国内外で有名になりました。
↑ 「黒の舞踏会」の様子。上の絵の中央が皇后、右から三人目が皇帝でしょう。似てる。
この舞踏会を主催したのは、24年前にはお転婆で可憐な姫であった、デンマーク王女ダグマール姫。今ではすっかりロシア帝国に馴染み、国民から広く愛される、大帝国の偉大なる主、皇后マリヤ・フョードロヴナ陛下となっていました。
眩く輝く沢山のダイヤモンドを縫い付けた漆黒のドレス。夜会に降臨した社交界の華である彼女は、この晩、「夜の女王」と呼ばれたと言います。
↑ この日のお写真では無さそうですが、こんな感じかと。殿下を中心に追いかけていると、10代の頃のお転婆お姫様時代を見る機会の方が多いので、成長された姿に少し驚きますね。お年を召されても愛らしい。
「夜の女王」とは、言い得て妙なものです!
夜の女王は、モーツァルトのオペラ『魔笛』に登場するキャラクターの名前でもあります。彼女の歌う最も有名なアリアは、「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」。
そう、この舞踏会は、侮辱に対する報復、正にオペラのような、洗練された復讐劇でもありました。正にこの夜の皇后も、このような心境であったのです。
ただ美しいだけではない、この夜に込められた意味とは、彼女の意図とは何でしょうか。
それは、この夜の数日前、オーストリアで起きた大事件が関係していました。
マイヤーリンク事件
わたくしのブログを覗いて下さる方は、歴史好きの方や、バレエ好きの方が多いと認識しております。
現在、Royal Opera House のライブビューイングで、史実の「マイヤーリンク事件」を題材とした、マクミランの傑作バレエ『Mayerling』を上演中です。わたくしも観に行こうと思っております!
↑ この『オーベルマンの谷』のオーケストラアレンジが狂おしい程に好き。脳から変な液体出そう。
↑ 拝見して参りました! レビュー記事になります。
『Mayerling』の主人公、オーストリア=ハンガリー帝国のルドルフ皇太子は1858年生まれで、殿下とは15歳差。ギリギリ同時代人なのです。二人とも早逝してしまいましたが、生き長らえることがあれば、同時期に大帝国の君主であったことでしょう。
そんなルドルフ皇太子は、1889年1月30日、自国オーストリアの保養地であるマイヤーリンクで、恋人マリー・ヴェッツェラ男爵令嬢と共に拳銃で心中を図ります。有名な「マイヤーリンク事件」の発生です。
↑ 資料によると、マリーはかなり綺麗な最期だったようですが、皇太子の方は、包帯が物語っているように、脳味噌が【検閲により削除されました】な感じになっていたとか……。怖い。
大帝国オーストリア帝国の帝位継承者、あのハプスブルク家の皇太子の死。しかも、死因は拳銃自殺。更には、若い恋人との心中事件ときた! ―――余りにもスキャンダラスな事件に、全ヨーロッパの宮廷社会は震撼しました。
いずれの王制国家も、ハプスブルク家に哀悼の意を表明し、半旗を掲げ、全ての祝祭行事を慎みました―――北東の隣国、一国を除いて。
24年越しの復讐
19世紀では、フランス大革命の余波により、王国・帝国と共和国の対立が生まれ、強大な共和国勢力に対抗するべく、王国同士は結託せざるを得なくなりました。歴史的に不仲であっても、王国同士の結びつきが強化されたのです。
王家同士は政略結婚を繰り返し、殆どの王家は、遠縁ではあっても血縁関係がありました。
このことから、王家・皇家から死者が出ると、全ての王制国家は哀悼の意を表明し、暫くの間宮廷行事を慎む、という慣習が生まれました。
どれだけ関係が冷え込んでいても、戦争中でさえなければ、この慣習は適用されました。
しかし、1865年、この慣習を無視した国がありました。
1865年4月24日(グレゴリオ暦)、ロシア帝国の皇太子であったニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下は、フランスのニースにて、結核性髄膜炎という進行の早い不治の病に冒され、ダグマール姫との結婚を目前に、21歳の若さで急逝します。
ロシア帝国は大喪を宣言。歿地となったフランスを筆頭に、各国は哀悼の意を表し、半旗を掲げました。
特にこのフランス帝国の対応は、当のロシア帝国をも驚かせるものでした。当時、クリミア戦争によってロシア―フランス関係は冷め切っていたにも関わらず、皇帝ナポレオン3世自ら、故人の父である皇帝アレクサンドル2世を弔問して慰め、ニースに数千人もの儀仗兵を遣わし、殿下の死に際して最大級の敬意を払いました。
正にここからロシア―フランス関係は改善されてゆき、後にあの露仏同盟に発展します。
殿下の死が、露仏同盟の足掛かりの最初の一歩になった、とする研究すら存在する程です。おい聞いているかどこぞの国家、これが弔問外交だぞ。
超大国イギリスも同様です。同じくクリミア戦争のことなどもあり、ロシア―イギリス関係も芳しくなかったばかりか、ロシア皇帝アレクサンドル2世とイギリス女王ヴィクトリアには、プライベートでの「とある確執」もあり、とても関係が良いとは言えませんでした。
しかし、それでも勿論、ロマノフ家には弔意を伝え、殿下の棺を載せた軍艦がイギリスに寄港した際は弔砲を撃ち鳴らし、無償で燃料補給を請け負い、ロンドンの教会でも追悼式が行われたといいます。
ヴィクトリア女王は以前、故人の婚約者であったデンマーク王女ダグマール姫を、自身の次男アルフレートに嫁がせたいと考えており、可愛がっていました。「ダグマールがロシア皇帝の息子に取られてしまったらどうしましょう。」といった日記を書いたこともあるそうな。
他にも、日記に、殿下の訃報に際し、「なんて惨い、可哀想なダグマール……。哀れなご両親と花嫁に、深く同情せざるを得ない。」と書いています。「うちの息子に嫁いでおけばな~!」的な気持ちが多少ありはしないか?
そんな中で、オーストリア帝国は、殿下の訃報を「無視」し、華やかで煌びやかな宮廷行事を続行しました。美貌で知られるエリーザベト皇后も、明るい色のドレスを纏い、楽しく「お祝い」をしたそうな。
ロシア―オーストリア関係が冷え切っていたことは事実です。しかし、戦時中だったわけではないし、関係が冷えていたのはフランス・イギリスも同様でした。それにも関わらず、同二国がロシアに対しどのような対応を取ったのかは前述の通りです。
この慣習は、皇家・王家の一員であっても、遠縁であれば、流石に宮廷行事が優先されることもしばしばありました。
しかしながら、この度の訃報は、隣接する大帝国の皇帝の長男、帝位継承者、皇太子だったのです。
オーストリアのこの行動は、国内外でスキャンダルになりました。それは明らかに、ロシア帝国、ロマノフ家に対する「挑戦」でした。
外交的なことを抜きにして、普遍的な人間感情で考えても、自分の家族の一員が悲劇的な死を遂げ、周りも皆弔意を示してくれているというのに、訃報を知る筈の近しい一家が、自分の目に付く所で楽しくパーティをしていたらムカつくものでしょう。
……しかし、他国の皇家の訃報による宮廷行事のキャンセルは、あくまで「慣習」であり、国際法などではありませんでしたから、ロシア帝国はその無礼に憤りつつも、特別何か行動に移すことはできませんでした。
この時、その「敵対行動」に、ロシア帝国民や皇家ロマノフ家以上に怒った少女がいました。亡くなった殿下の婚約者であった、ダグマール姫です。
彼女は、オーストリア帝国の行動が、最愛の婚約者や、彼の葬儀で涙を流す自分に対する侮辱であると感じました。その仕打ちを、何年経っても絶対に忘れませんでした。
祖国デンマークは、プロイセン・オーストリア連合との戦争に敗れたばかりで、彼女は生涯反独・反墺感情が強かったといいます。
オーストリアの敏腕宰相・メッテルニヒは、関係の悪いロシア帝国に優秀な政治家が台頭することを恐れ、裏工作をしていたことでも知られています。
彼らは、オーストリアにとって史上最大の政敵になり得た殿下の早逝を、もしかしたら喜びさえしたかもしれません。少なくとも、彼女の目にはそう映りました。
「マイヤーリンク事件」の知らせを聞いた各国の宮廷は、全ての舞踏会をキャンセルします。
一方、24年前に涙と怒りに暮れた姫は、今や堂々たる皇后となっており、彼女は舞踏会の参加予定者に公布しました。―――「三日後、予定通り舞踏会は執り行れたし。黒いドレスで来るように。しかし喪服ではないのだから、ダイヤモンド等で飾り立てて来るといいわ!」。
「夜の女王」の復讐の始まりです。
オペラ『魔笛』の夜の女王は、最も有名なアリアの中で叫びます。「お前がザラストロに死の苦しみを与えないならば、お前はもはや私の娘ではない!」。
↑ 超絶技巧で知られる、「夜の女王のアリア」こと「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」。
一方、19世紀、漆黒のドレスに身を包んだ「夜の女王」、我らが皇后は、こう宣言したわけです。
「貴国が私の婚約者の死を悼まないのならば、貴国はもはや友好国ではない!」。
舞踏会では、主催者がドレスコードを決めました。ドレスの色合いなどを指定することが多かったようです。
黒といえば、喪服。舞踏会のドレスコードで、黒が採用されることは滅多にありませんでした。ここからも、特別な意味合いを持つことが見て取れます。
「喪服風のドレスでパーティをする」ことにより、ハプスブルク家の訃報を、当て擦ったわけです。
しかも、いざその舞踏会が開催されると、参加者はその曲目に驚き、そして直ぐに納得しました。
舞踏会で踊られる曲目は、全てが、ウィンナー・ワルツや、ハンガリーのチャールダッシュなど、オーストリア=ハンガリー帝国に関係する曲だったのです。
嫌味がすぎる!!!
前述のように、この夜は、後に「黒の舞踏会」と呼ばれ、ロシア帝国の社交界史に於ける、最も美しい夜の一つとして有名になりました。
漆黒のドレスは、アニチコフ宮の白い壁と素晴らしいコントラストになり、美しい女性達の白い肌を引き立たせました。ドレスに縫い付けられたダイヤモンドは眩く光り輝き、まるで夜空に瞬く星々の如くでした。
舞踏会は大成功で、深夜の三時半まで大盛況だったと言います。
当然、ロシア帝国のこの行動も、国内外でスキャンダルになりました。
「24年前」を知らない当時20歳のニコライ皇太子(後のニコライ2世)は、母のこの行動に割とドン引きしたらしく、この舞踏会を欠席した、といいます。
皇后の夫であり、殿下の弟である皇帝アレクサンドル3世は、それがオーストリアに対する「敵対行動」であることを理解した上で、これを黙認。それどころか、彼は社交嫌いで知られ、舞踏会に参加することも殆どなかったというのに、前掲の絵からもわかるように、彼は妻主催のこの復讐劇に自ら足を運んだのでした。
若い世代が、普段の柔和で愛らしい皇后からは考えられない苛烈な行動に驚き、首を傾げる中、24年前に殿下の墓前で人目も憚らず泣き崩れていた現皇帝夫妻を知る年配の人々は、皇后の「意図」を正しく理解しました。
彼らは、「黒の舞踏会」を、「最もエレガントな復讐」と呼び、寧ろ賛意を表明したといいます。
当の皇后は、この黒の舞踏会で、公然とハプスブルク家を嘲笑していた、と言います。こ、怖い!
オーストリア皇帝夫妻が、それが「復讐」であることに気が付いたかどうかはわかりません。
しかし、当時ダグマール姫=マリヤ・フョードロヴナ皇后が、オーストリア帝国に己の婚約者を「侮辱」されたことに激しい憎悪を抱いていた、ということはある程度有名であったのか、事情を知っていた諸外国は、ロシア帝国の行動を咎めることはなかった、といいます。
まさかの全世界的に因果応報扱い……。尤も、オーストリアは怒ったそうですが。当たり前だよ。
今年に入って、ロシアのファッション誌『コスモポリタン・ロシア』で、このエピソードを紹介する記事が投稿されました(わたくし自身その記事でこのエピソードを知り、そこから論文などである程度裏付けを取った後にこの記事を書いています)。
記事の最後に、次のような読者アンケートが置かれていました。
「マリヤ・フョードロヴナは侮辱を忘れるべきだったと思いますか?」
「はい」―――17%、「いいえ」―――82%。
圧倒的!!
個人的な意見を申せば、確かに殿下の死に対するオーストリア宮廷の行動は挑発的であると思います。しかし、殿下が亡くなった時、ルドルフ皇太子は未だ6歳だったのであって、彼に罪はないでしょう。
罪のない人物の死を嗤うのは、可哀想だし、些か悪趣味であるように感じます。
…………、…………それはそれとして、わたくしも殿下のことが好きですし、彼に対する侮辱は許し難いので、思わず「いいえ」に一票入れちゃいましたけどね!!
皆様はどうお考えになりますか?
最後に
通読ありがとうございました! 7500字ほど。
恋する乙女を怒らせるとめちゃくちゃ怖いということがわかりました。殿下が万人から深く愛される方なのはよく存じ上げておりますが、どうしてこう、皆が皆、過激派になってしまうのだろう……。愛が重い……。姫も凄まじかった……。
デンマーク王室のオークション情報を得られなかったことが大層悔しかったわたくしは、ここ数日ダグマール姫周りのリサーチを強化しているのですけれども、初めて知る興味深い情報が沢山出てきてとても楽しいです。
姫は、我々が想像するよりもずっと殿下のことが大好きであったようで、大変愛らしく思います。
殿下宛てのお手紙に、「あなたがどれ程私の思考を占めているか、想像もつかないでしょう。」とか、「これ以上あなたからのお手紙が来なかったら私は生きていけません。」と書いていたりだとか(殿下の返信が遅いのは、ひとえに病が重かったからなので許してあげて欲しいのですが、殿下は婚約者に病のことを隠していたので、姫の心情も理解できます)。
殿下が亡くなってから54年(!)後の命日の日記には、「54年前のこの日、これ以上無いほど魂が押し潰され、私の人生に於ける光は消えてしまって、私の人生の幸福は永遠に潰えてしまったのだと感じていた。」と書いています。
近々、二人の関係性に関しても何か書けたら良いなと思います、準備しておきます。
オークションといえば、前掲の「黒の舞踏会」の絵、あるじゃないですか。
はい、ご想像の通り、なんとですね……、あったんですよ。オークションに。そのお値段、聞いて驚け、なんと50,000イギリスポンド、つまり、約837万円!!
買いません(迫真)。
……やっぱり、43万円ってお買い得だったよなあ……(感覚麻痺)。
バレエ作品『Mayerling』が好きなので、殿下と絡めた記事を書けてよかったなと思っています。また、ライブビューイングが終わる前に脱稿できたことも幸いです。
殿下とルドルフ皇太子は、同時代人とはいえ、15歳差。殿下が亡くなってしまうのが余りに早いので、接点は無いと思っていました。
しかし、姫のお陰で奇妙な接点ができていました。面白すぎる。これだから殿下のリサーチは辞められない……。
単発ばかり書いていますが、普通に連載に戻りたいと思います。連載も書きたいんだけれども、また面白い情報を得てしまったので、つい。流石にこのエピソードに関しては、一筆やりたいじゃないですか? 楽しんで頂けていたら幸いなのですが。
連載の方も宜しくお願い致します。
それでは、今回はお開きと致します! ありがとうございました。『Mayerling』、是非観て下さい。
↑ 何故か続きました。24年前についてです。宜しければ!
参考文献: РУССКИЙ БАЛ XVIII - НАЧАЛА XX ВЕКА , Самый странный бал: месть императрицы Марии Федоровны австрийскому двору .