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1865年5月のオーストリア - 歴史雑記

 おはようございます、茅野です。

昨晩、衝撃的なマシュマロが届きました。

↑ ゴミみたいな返信をしてしまってめちゃくちゃ恥ずかしいのですが……。

 わたくし、今年、殿下関連で「そんなことある?」しか言っていないような気が……。そんなことある???

 過去の記事で、

 従って、「殿下の人生を題材に物語を創作したとき、果たしてそれは面白いのか?」という疑問は、個人的に常にあります。

戯曲『プリンセス・ダーグマル』 - レビュー

などと書いていたのですが、フィクションの世界でも、我らが殿下は通用するらしい……。強すぎる……。

 

 そんなわけで、今回も、没後157年にして話題沸騰中の殿下関連です。

前回、我らが殿下こと、ロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下と、オーストリア帝国皇太子ルドルフ殿下の奇妙な繋がりを知ってしまったので、記事に纏めてみました。題しまして、『「夜の女王」の復讐』です。

↑ 恋するお姫様は最強(最恐)だった!

 今回は、こちらの記事の続編になりますので、前回をご覧になっていない方は、是非ともこちらから目を通されることを強く推奨致します。

 

 『「夜の女王」の復讐』は、普通に単発として終わらせるつもりだったのですが、一つの疑問が全く解消できていないことに気が付きました。

それは、「1865年4月24日以降に、オーストリア皇家は何をしたのか」ということです。

これほどまでにダグマール姫、後のマリヤ・フョードロヴナ皇后に激怒され、苛烈な復讐を仕組まれるようなことを、彼らは行ったのでしょうか。それとも、それは反墺精神の強い彼女の言い掛かりに過ぎなかったのでしょうか。

 今回はこちらを検証するべく、1865年5月のオーストリアについて考えます

 

 それでは、お付き合いの程宜しくお願い致します!

 

 

リングシュトラーセ開通パレード

 ダグマール姫が激怒したのは、「婚約者ニコライ殿下の死の直後に、本来であれば慎むべきであった祝賀行事を行ったこと」に関してです。

つまり、彼の死の直後に、何かお祝い事をしているはずなのです。彼女は、それが己の婚約者の早逝を喜んでいるように見えて、怒り狂ったわけなのですから。

 

 その答えは、検索を掛けると簡単に見つかりました。寧ろ、現代でも、1865年から「○年記念」として、何度も記事になっている程です。

 はい、確かに、それはそれは盛大な祝賀パレードを行っていました。通称「リングシュトラーセ開通パレード」です。

↑ パレードの様子。言い訳の余地の無い、紛う事なき「祝賀」……。

 これは怒られるって!! ダメだって!!!

 

 しかも、それは1865年5月1日殿下の死から7日後のことでした。わぁ……(絶句)。

 

 「リングシュトラーセ」とは、ウィーンの環状道路のことです。ウィーンの旧市街をぐるりと囲む、正に街の中心部の大通りです。

↑ お馴染み現代の地図から。

↑ 赤線がリングシュトラーセ。確かにこれはリング(指輪)……!

 

 19世紀中頃は、帝都の大々的な都市改革が行われた時期でもありました。

有名なのは、パリの「オスマンの大改革」。こちらも同時期、1850-70年代に行われたものです。

 中世時代から続く、細く薄暗い道が張り巡らされた首都は、不衛生で見栄えも悪いものでした。それを憂いた各国の皇帝は、自国の首都を大帝国に相応しい美しいものに建て直すべく、都市改革に乗り出します。

 1860年代は、その過渡期にあたります。1865年、パリの方では、現在ヨーロッパで最も利用者が多い駅である「パリ北駅」の駅舎が完成しています。

↑ 1900年に撮られたお写真。1865年12月完成の駅舎です。

 

 一方、ウィーンでは、このリングシュトラーセの敷設事業が進んでいました。

↑ 1865年に撮られたお写真たち。大規模な建築の様子が窺えます。

 リングシュトラーセの周りには、国会議事堂、国立図書館、国立歌劇場と、国立の壮麗で豪奢な建物が連なります。

周りの建物は未だ建築途中でしたが、道路が完成し、開通したのが、1865年5月1日だったのです。

 

 これを記念し、皇帝フランツ・ヨーゼフ帝は、皇后エリーザベトを伴い、大々的な祝賀パレードを敢行。

大帝国の帝都の大通りですから、国民からも歓迎されたようです。

 

 国家の一大事業の一つの節目ですから、盛大にお祝いしたい気持ちはとてもわかります。商業的な利益も潤沢に出るでしょうし、国民からの支持率だって上がるはずです。寧ろ、盛大にお祝いするのが筋であると思います。

 しかし、隣国の事情が隣国の事情なので、せめてあと1ヶ月でも延期していれば、24年後にこんなにも手酷いしっぺ返しを喰らうことはなかったのではないのかな……と考えてしまうのです。

「黒の舞踏会」も、ルドルフ皇太子の死から8日後の開催です。そんなところまで意識されているというのか……。

 

 恐らくは、オーストリアに我らが殿下を嘲弄する意図は無かったと思います。全く無関係でしょう。

それでも一方で、各国がロシア帝国に敬意を表し、半旗を掲げる中で、訃報からたったの7日後に、このような大祝賀パレードを行っているとなると、ダグマール姫が激怒してしまうのも無理はないな……とも思ってしまうのです。

 特に彼女の祖国デンマークは、1864年終戦の第2次スレースヴィ・ホルステン戦争で、プロイセンオーストリア連合に、なんとその国土の40%もの領土を奪われていました。敗戦による損失は尋常ではなかったのです。

 その半年後に、祖国にとって強力な後ろ盾となることは間違いないロシア帝国の皇太子、そして何よりも愛する婚約者の喪失を、彼らが「喜んでいるように見えた」としたら……。

彼女が「どれほど自分を愚弄すれば気が済むのか!」と激怒するのは、寧ろ自然なことではないでしょうか。

 

 これはシンプルに、オーストリアの外交的な失敗であるように感じられます。いえ、それが意図的なものだとしたら、素晴らしい「挑発」であったでしょうか。

婚約者であったダグマール姫はその筆頭として、殿下は国民人気が非常に高い人物でしたから、彼のことで挑発をするのは、得策ではなかったのではないかな……と思ってしまいます。誰も止める人いなかったんだろうか、オーストリア帝国首脳部……。

……それにしても、「黒の舞踏会」は、悪意が強すぎるとは思いますけれどもね!

 

純白の皇后

 オーストリア皇后エリーザベト(シシィ)陛下といえば、絶世の美女として知られています。日本でも最も人気の高い歴史上の皇族の一人ではないでしょうか。

 

 そんな美貌の彼女の最も有名な肖像画は、フランツ・ヴィンターハルタという画家によって描かれたものです。一度は目にされたことがあるでしょう。

 こちらの二枚の肖像画は、なんと丁度1865年に描かれたものです。

 

 それに合わせてか、例えば1865年4月にはファッション誌『Godey’s magazine』が、同年5月には『Les Modes Parisiennes』誌が、皇后のトレードマークである髪型の編み方の解説や、白いドレスについての説明を載せています。

 そう、こちらも殿下の死と同時期のお話だったのです。

 

 オーストリア皇后が純白のドレスを華やかに纏う一方で、我らがダグマール姫は、1866年までの一年間、漆黒の喪服を着続けました

↑ 1865年10月撮影。必ずしも殿下の咎ではないにせよ、17歳の乙女をいきなり未亡人にしてしまうとは……。

 当時は白黒のお写真しかないので、濃い色のドレスは全て黒に見える……と言われたら仰る通りなのですが、文献から照らし合わせても、複数残っている1866年までの姫のお写真は、全て黒いドレスを纏っていることがわかります。

 

 デンマーク王女三姉妹、アレクサンドラ、ダグマール、ティーラの三人も、美女として知られていました。

彼女たちよりも10歳程度年上だったエリーザベト皇后は、「美しい姫」「美しい皇后」の先駆けといった先輩格で、従って、デンマークの三姉妹はエリーザベト皇后とその美貌を比較される機会も多かったのです。

 「隣国の美貌の皇后エリーザベトのように美しい」という「賛辞」を送られる時、ダグマール姫はどのような心境であったことでしょうか。

今のところ、姫が皇后をどう捉えていたのかについての具体的な記述は見つけられていませんが、これらのエピソードを見た後だと、どうにも、少なくとも仲が良かったようには思われません。

 

6歳の春

 最後に、復讐の餌食にされてしまったルドルフ皇太子の5月について確認して、終わりにしたいと思います。

 

 殿下が亡くなった1865年4月当時、彼はたった6歳でした。

↑ 4歳の頃のルドルフ皇太子。このいたいけな幼児が……ああなるのか……。

 

 ルドルフ皇太子は、凄惨な幼少時代を過ごしたことで知られています。

近親相姦的な婚姻を繰り返したことにより、ハプスブルクの血はあまりにも濃くなりすぎていて、彼は生まれつき酷く虚弱体質でした。

 太后ゾフィ陛下は、この時皇帝夫妻よりも強大な権力を握っており、皇太子の教師を任命したのは彼女でした。

↑ 1866年の皇太后のお写真。

 

 皇太后が任命したのは、オポルト・ゴンドルクール伯爵という人物。

 このゴンドルクール伯、かなりとんでもない人物です。

 

 彼は皇太子の虚弱体質を憂い、超・厳格なスパルタ教育を開始します。

その内容が、ここまでくると意味不明で、性教育に魚を用いた(?)(これわたくしとしても普通に意味不明なんですけど、どういうことですか?)とか、早朝に雪山に捨て去るとか、殆ど虐待紛いのことをしています。怖すぎる。

 

 そのせいで、丁度この1865年5月、ルドルフ皇太子はかなり重い病気になってしまった、とのことです。

 三ヶ月後の8月24日(24日!)、エリーザベト皇后はこの惨状に耐えかね、夫の皇帝に「ゴンドルクールか、私か!」と迫り、息子の養育権を奪取した、といいます。

しかし、幼いルドルフ皇太子の心に染みついたトラウマを取り払うことは叶わず、一生の心の傷になってしまいました。

 幸せな結婚とはなりませんでしたが、彼と結婚したステファニー皇太子妃によれば、「彼の心の病の始まりは、このゴンドルクール伯時代に遡る」とまで書かれています。

罪深きゴンドルクール伯……。

 

 確かに、「虚弱な皇太子を強く育てたい」という欲求は、各皇家にあったようです。

その考えは勿論、我らがニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下にも及んでいます。

殿下は、幼少期には身体が弱く、よく貧血を起こしていたといいます。側近の記録にも、結構な頻度で「皇太子は体調不良で臥せっていた」という記述が登場します。

幸いなことに、ロシア帝国では逆に、幼少の殿下は当時としては丁重に育てられたといいます。

 虚弱気味な殿下と、頑健な弟アレクサンドル大公(後のアレクサンドル3世)の体格差は歴然としており、彼らは1歳半の年の差がありますが、幼少期から既に、単純な力比べでは殿下が負けることが多かった、と言います。

ご承知のように、幼少期の1歳半の差は大きいですから、これはよっぽどのことです(尤も、アレクサンドル大公は幼少期から体力面・力の強さでは全く非凡な人物であり、兄の殿下は彼を「ヘラクレス」と呼んでいる程なので、これが参考になるのかは少し怪しいのですが……)。

 

 このことから、彼の父・皇帝アレクサンドル2世は、後になって、「長男を甘やかしすぎたのではないか?」と考えるようになります。

時を経るにつれ、殿下は美少年に成長しますが、それは、10代中頃までは「髪を伸ばせば女の子に間違われるのでは?」というくらい、中性的なお顔立ちでもありました。

「皇帝は男らしくあるべき」と信じる皇帝は、息子の容姿を「女々しい」と非難。必要以上の軍事演習を課すようになります。

↑ 10代中頃の殿下。カワイイから別によくないですか???

 このことは、「もう少し経験を積ませれば、どの分野でも天才として名を遺すだろう」とさえ評される殿下に惚れ込んだ教師陣に、「これ以上の軍事演習は不要です! 私の担当する科目を学習させる時間を増やして下さい!」と猛反発を喰らうのですが、皇帝は取り合いません。

また、とんでもなく負けず嫌いな性格な殿下自身も、「それが自分の弱点であるならば」と、のめり込んでゆきます。

 

 成長した殿下は、最早虚弱体質ではなくなっていましたし、スポーツも愛好する文武両道な人物になりましたが、過労を疑われる程のスケジュールを詰め込んだ状態での軍事演習は、度重なる怪我を招きました。

 それが彼の「アキレス腱」であったのか、何度も背骨の同じ箇所を負傷した殿下は、最終的に椎骨を3つも潰してしまい、その傷から入った結核菌が原因となって、命を縮めてしまいました。

 父アレクサンドル2世はそのことを非常に重く受け止め、彼の死について責任を感じていた、といいます。

 

 このように、皇太子に対するスパルタ教育は、悲劇しか生んでいません。

これから育児をされる方がもしいらっしゃいましたら、「鞭は愛情」とは考えず、全力で子どもを可愛がってあげてください。

 

 

 1865年5月のオーストリア皇家の動きを確認して参りました。

改めて、「黒の舞踏会」の是非を問いたいところです。如何お考えになりますか?

 

最後に

 通読ありがとうございました! 6000字強です。

 

 わたくしはあまりドイツ語圏とはご縁がないので、書いていて勉強になりました。ドイツ語は全く読めないので、リサーチは少し難航しましたけれども……。

オーストリアにも行ったことがないので、いつか訪れてみたいですね~。しかし、リングシュトラーセ、このことを知った後、真顔で歩けるものでしょうか。

当時からは大分街並みも変わってしまっていることでしょうが、パレードの順路をなぞってみたいものです。悪趣味ではないと信じる。

 

 わたくしはロシア帝国のオタクなので、ついつい同国を贔屓目で見てしまいますし(現在のロシア連邦は全く話が別ですし、農奴制などの人権侵害政策を擁護しているわけではないことは注記しておきたいのですが)、そうやって心理的にものめり込んでいる時に楽しさを感じます。しかし、それと同時に、公平な視点で物事を見るようにもしたい、と考えています。

オーストリアにはオーストリアの事情があるのでしょうし、それを蔑ろにしたくはありません。

 様々な視点で、時に熱烈に感情移入し、時に冷静に注視できることが、歴史政治学の楽しみであるとわたくしは確信しています。これだから辞められない!

皆様は、歴史政治学の楽しみはどこにあると感じられますか。

 

 それでは、今回はここでお開きと致します。いい加減連載に戻りたいです。次の記事でもお目に掛かれれば幸いです!

参考文献:Die Errichtung der Ringstraße , 1865 – FRANZ XAVER WINTERHALTER, THE EMPRESS ELISABETH OF AUSTRIA , Crown Prince Rudolf: Life, Politics and Death .