世界観警察

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ガデンコ『皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ』⑷ - 翻訳

 こんばんは、茅野です。

八月も折り返しを迎え、戦いております。

 

 さて、今回はガデンコの『皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ』を読むシリーズの第四弾です。少々ご無沙汰してしまって恐縮で御座います。前回で殿下が亡くなってしまったのでモチベーションが少々低迷しておりますことお詫び申し上げます

↑ 第一回はこちらから。

 

 第四回となる今回は、第三章の全訳出になります。第三章は『皇太子の歿地に建つニースの礼拝堂』という章題となっており、その名の通り、礼拝堂に関しての説明になります。

近いうちに聖地巡礼をしたいと思っているので、その予習に、という企画です。

 

 それでは、お付き合いの程宜しくお願い致します!

 

 

第三章『皇太子の歿地に建つニースの礼拝堂』

 皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチを記念して建設された礼拝堂は、彼が亡くなった屋敷のあった場所に建っている。

 

 巨大な庭園を擁す、ベルモン荘と呼ばれる屋敷は、1865年11月に皇帝アレクサンドル2世によって購入された。

 

 屋敷で皇太子が滞在していたのは、南向きの広くない三部屋で、ベルモン荘の隣には、皇后が滞在していた広大な屋敷(ペリオン荘)があった。

寝台、書机、小物は後々ロシアに輸送されたが、その他の質素な家具はニースのロシア正教会に移された。それに加え、亡くなった皇太子の寝台に掛けられていた、木彫りの枠に入った聖ニコライの聖像も移された(訳注: ロシア正教では、自分と同じ名前の聖人を祀る倣わしがある)

故人の寝台があった場所には、屋敷が取り壊される最後の日まで、ニースに住むロシア人達によって花と花冠が絶えず捧げられていた。

 

 様々な案が出されたが、最終的に、皇太子が亡くなった場所を不朽のものとするために、記念碑的な礼拝堂の建築が決定された。

 以前は、邸宅を家具もそのままに保存し、隣の皇后の屋敷を領事館と僧侶の宿舎にするか、新しく大聖堂を建築するという案もあった。

 

 礼拝堂は、グリム博士の計画と監督の下、1867年3月2日に起工された。建築の責任者は、宮廷侍従スカリャーティン閣下に委任された。

 

 礼拝堂は完全なビザンティン様式で、面積は200平方メートル、高さは19メートル。三つに折り返す27段の階段がある。

内部はギリシャ十字の形をしており、入り口の左右が半円形になっている。

礼拝堂の中は装飾に富み、多彩な色調のカッラーラ大理石が用いられている。下部は明るい灰色で、そこからイコンがある高さ2.5メートルまでは艶消しの純白、そして下部の一帯と上部11メートルには、ビザンティン様式の模様が刻まれた多彩な大理石がはめ込まれている。

円天井には、金地の上に一面に壁画が描かれている。

内部には、ネフ博士の手になる22点のイコンが配置されている。これはペテルブルクから皇帝と皇后が派遣した連隊と、亡くなった帝位継承者が連隊長を務めていた近衛連隊からのものだった。

 

 イコンの他に、皇后は、金、銀、絹で刺繍されたカフカースの女性の手になる豪奢なタペストリーと、追善の為の机に掛ける、漆黒のビロードに銀の刺繍が施されたテーブルクロス、そして四方に十字が刺繍されたカバーを贈った。

このカバーは、皇后自身が縫われたものである。

これらは全て、毎年行われる追善式で用いられている。

 

 1868年3月26日、この為にペテルブルクからやってきた皇太子アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公の立ち会いの下、礼拝堂は聖別された。

この儀式には、無数のロシア人、ニースの権力者や駐留軍などが列席した。

聖別式は、パリから来着した、亡くなった皇太子の懺悔を聴聞したプリレジャーエフ長司祭と、当時のニースの教会の主任司祭だったレヴィツキー長司祭が担当した。

 

 毎年、一年に三回追善式が行われる。9月8日20日の誕生日、12月6日(18日)の名の日、そして4月12日(24日)、帝位継承者の命日である。

 

 寄贈されたイコンの場所は、礼拝堂の見取り図から確認することができる。

その場所とは、「A.」で示された、亡くなった皇太子の寝台、及び遺体を納めた棺が安置されていた場所である。

 

 イコン一覧。

1. キリストの復活。
皇帝と皇后から。
皇后の希望で、像の下に以下の碑文が彫られている。「私は復活であり命である。私を信じる者は、たとえ死んでも生きる」。(ヨハネによる福音書、第6章第25-6節)。

 

2. ミラのニコラオス。バーリにある有名なイコンの複製。
近衛連隊員、皇族の狙撃部隊、そして皇后陛下付き近衛胸甲騎兵連隊から。

 

3. 聖母降臨祭。
全親衛隊の司令部から。9月8日の皇太子の誕生日に。
皇后の希望で、像の下に以下の碑文が彫られている。「汝、女の中で祝福され、その胎の実も祝福せられたり」。(ルカによる福音書、第1章第42節)。

 

4. 十二聖像。
近衛騎兵連隊から。

 

5. 聖サヴァティとゾシマ。
皇后陛下付き近衛狙撃兵連隊、ツァールスコエセロー狙撃兵隊から。

 

6. 殉教者聖イエロフェイ。
胸甲騎兵近衛連隊、黒海コサック大隊から。

 

7. 聖マルティニアン。
皇帝陛下付き近衛槍騎兵連隊から。

 

8. (上部)。聖使徒ペトロと聖パウロ
ケクスホルム擲弾兵連隊から。

 

8. (下部)。受胎告知。
騎砲兵近衛連隊から。

 

9. 生神女進堂祭。
セミョーノフ近衛連隊から。

 

10. (上部)。三位一体。

イズマイロフ近衛連隊、対壕兵隊から。

 

10. (下部)。主の昇天。
ウラン近衛連隊から。

 

11. 殉教者聖ユリアン
皇后陛下付き近衛胸甲騎兵連隊から。

 

12. 殉教者聖アルテモン。

擲弾兵近衛連隊から。

 

13. 聖スピリドン。
フィンランド近衛連隊から。

 

14. 聖ザカリヤと聖女エリザベータ
近衛騎兵連隊から。

 

15. 殉教者聖ミロン。
ガッチナ近衛連隊から。

 

16. 聖女オリガ。
グロドノ軽騎兵連隊から。

 

17. 大天使聖ミカエル。
モスクワとリトアニア大隊から。

 

18. キリストの変容。
プレオブラジェンスキー近衛連隊、全大砲兵近衛連隊、そしてサンクト・ペテルブルク擲弾兵連隊から。

 

19. 聖アレクサンドル・ネフスキー
パヴロフスキー近衛連隊、皇太子殿下付きアタマン近衛連隊から。

 

20. 聖エヴティヒー。
ウラル・コサック大隊から。

 

21. 懺悔者聖パーヴェル。

皇帝陛下付き近衛軽騎兵連隊から。

 

22. 殉教者聖フリサンフと聖ドロフェイ。
竜騎兵近衛連隊から。

 

 各イコンの前には、古代の様式の灯が掛けられている。

 

解説

 通読お疲れ様で御座いました! 本文は以上です。

今回は、イコンの名前や連隊の名前がずらりと並び、翻訳としては楽でしたが、一々固有名詞を調べたりしてリサーチが骨折りでした……。

 

 さて、それではいつも通り簡単に解説を入れて参ります。

 

礼拝堂

 今章は殿下の歿地に建つ礼拝堂についてで御座いました。外観はこんな感じです。

↑ 恐らく聖別式の様子。アレクサンドル大公を探せ!(わたしも正解わかりません)。

↑ 手前は間違いなくオレンジの木でしょう。殿下はあの可憐な白い花がお好みだったようですけれど、実も好きだったのでしょうか。

 礼拝堂の中は、写真撮影が禁止で、ネット上でも出所の怪しい画像しか見つからないので、今回はご紹介は差し控えさせて頂きます。ニースで実際に自分の目で確認されたし。

 

 余談ですが、丁度十年前の2012年、お隣の聖ニコライ大聖堂の100周年を記念し、礼拝堂の傍に殿下の胸像が設置されまして……。

↑ 本当にお顔立ちが整っていらっしゃる。台座も黒地に金で洒落ています。

 こちらは高名な現代ロシアの彫刻家、アレクサンドル・ニコラエヴィチ・ブルガーノ氏の作品だそうです。

 ブルガーノフ氏は、ごく現代的で抽象的な作品も創られるのですが、わたくしが蒙愛している韻文小説『エヴゲーニー・オネーギン』の著者、「ロシアの詩聖」ことアレクサンドル・プーシキンと彼の妻ナターリヤの像など、近代の人物の写実的な像を造ることも多いようです。

 

 今年は没後157年なんですけれども、今なおロシアやニースで殿下は愛されているようで、日本の弱小オタクと致しましても何よりで御座います。加わりたい。

 

スカリャーティン

 宮廷侍従スカリャーティン閣下は、恐らく、ニースのもう一つのロシア正教会、サン=ニコラとサント=アレクサンドラ正教会(殿下の祖父母を記念した教会)の建築にも携わった、アレクサンドル・ヤコヴレヴィチ・スカリャーティン氏のことではないかと目されます。

 

カッラーラ大理石

 イタリアのトスカーナ州にあるカッラーラは、大理石の産地として高名で、ここで採れるカッラーラ大理石は、大理石のなかでも最高品質なのだとか。

ミケランジェロも愛用しており、かの有名な『ダビデ像』や『ピエタ』像もカッラーラ大理石で造られたものなのだそうな。

↑ こんなに美しい採掘現場があってもよいのか。

↑ 『ピエタ』像。

 

画家ネフ

 教会に沢山の作品があるという「ネフ博士」は、画家のティモフェイ・アンドレーヴィチ・ネフ氏のことでしょう。

 このように、彼は歴史画や宗教画も描くのですが、特に、とにかく美しい女性の肖像画で有名で、現代でも人気の高い画家の一人。

最も有名なのは恐らく『天使』という絵ですが、皇族の女性の肖像も色々描いており、殿下の母である皇后マリヤ・アレクサンドロヴナの肖像画も評価が高いですね。

↑ 『皇后マリヤ・アレクサンドロヴナの肖像』(1864)。美女がすぎる。

司祭たち

 本文中にある長司祭たちについて簡単にご紹介を。

1867年当時にニースの主任司祭を務めていたのがヴラジーミル・イヴァーノヴィチ・レヴィツキー長司祭です。

 その後にはフィレンツェに移り、そちらでも主任司祭を務めていたという優秀な方だとか。

 

 もう一人、1865年当時にニースの主任司祭だったのがヴァシーリー・アレクサンドロヴィチ・プリレジャーエフ長司祭ですが、こちらはお写真見つからず。

 本文中にもあるように、プリレジャーエフ司祭は殿下の懺悔(要は告解)を聞いた人物です。殿下は「未だ罪を告白する準備が整っていない」として、懺悔することをずっと嫌がっていたのですが、死の約一週間前に行う運びとなりました。

守秘義務とかどうなってんの?」という疑問で一杯ですが、殿下は大凡以下のことを仰ったようです。

「恐らく、私は病に伏している間、我慢が足りなかったと思います(※希死念慮を抱いていたと解釈するのが定説)。しかし、我が身に降り掛かった苦難の運命に、不平を漏らしたことは一度もありません」。

「どんなに長く熱心に祈ったとしても、私は神の慈悲には値せず、今後も神が私に慈悲を掛けて下さることはないでしょう」。

≪ Быть может, я во время своей болезни не был достаточно терпелив, но что, во всяком случае, я никогда не роптал на выпавшие на мой долю страдания.  ≫

≪ Как бы долго и искренно ни готовился я к этим таинствам, я никогда не был бы и не будет достоин милосердия Божия. ≫

 とは言いながらも、前回、そして前々回で描写されるように、譫言で「私を許して下さい」と呟き、身体的な病苦に加えて、罪の意識から精神的にも酷く苦しんでいたという殿下。懺悔を行いたくなかったのも、己が赦されるはずがないと考えていたからでしょう。

 これらの懺悔と祈りに、プリレジャーエフ神父は「こんなにも深い信仰に溢れた若者は見たことがない(никогда не встречал в юноше такой глубоко прочувствованной веры. )」と言い、「この青年は聖人だ(«Этот молодой человек - святой.»)」と叫んだとのことです。わかる(?)。

 

イコンと連隊

 最後にずらりと並ぶイコンの名前。

わたくし自身も気になるのですが、前述のように、内部のお写真を撮ることができない為に、実体は謎に包まれております。もう少しリサーチを深めた後、聖地巡礼をして実際に確かめてみたいと思います!

 

 軍隊の方にも明るくないので、今回は苦戦しました。

プレオブラジェンスキー近衛連隊、セミョーノフ(スキー)近衛連隊は、特にエリート集団として有名ですね。

 アタマン連隊は、歴代の皇太子がアタマン(将軍)を務めることになっている連隊で、「限界同担列伝」シリーズでご紹介した、このお方が副将軍を務めている連隊でもあります。

↑ 何回読んでもこの日記すごい。

 

 グロドノ軽騎兵連隊は、殿下が好んで袖を通された紺色の軍服の連隊ですね。宣誓式の時など、よくお召しになっているのがわかります。

 

最後に

 通読有り難う御座いました! 今回は短めに5500字ほど。

 

 次回、当連載もいよいよ最終回です。最終回となる第五回は、『皇太子の歿地に建つ新しいニースの大聖堂』という章になります。

最後までお付き合いを頂けますと幸いです!

 

 それでは、最終回でお会いしましょう!

↑ 最終回書きました。こちらからどうぞ!