世界観警察

架空の世界を護るために

殿下の部屋の床下から遺体が見つかった話

 こんばんは、茅野です。

以前の記事で、現代ロシアの同担ガチ勢同業者にメッセージを送ってみた話を書きました。

 こちらからは、まず何よりも素敵な作品に感謝し、自分も我らが殿下が好きである旨、当方は日本のオタクであるがこちらでは近代ロシア政治史のオタクにはそうそう出逢えないこと、作品に関連した史料の提供、また使用した資料についての情報開示のお願いなどを記載していました。

 

 その後、なんと返信が来ました!

簡単に纏めますと、非ロシア語圏から読解の挑戦を受けたことに驚愕され(まあ600ページ越えてるしな……)、その点に関し賞賛を頂き、執筆の動機などを話して下さいました。また、良い資料が見つかったらメールしてくれるとのこと!!

う、嬉しすぎる。真の意味で初めての「同担」との交流を果たしたことになります。それがまさか強火のロシア人になるとは思いませんでしたが……。現実は数奇なり。なんとか win-win の関係になりたいところです。

 以上、ご報告になります。時には蛮勇さも大事であるということがよくわかりました。

 

 さて、改めまして、今回は単発記事を一筆やろうと思います。

勿論、我らが殿下こと、ロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下に関してです。

↑ 近代ロシア政治史オタクたちを虜にする魅惑の次期君主の概説はこちらから。

↑ 関連記事群はこちらから。いつの間にかめちゃくちゃ書いていて怖い。

 

 今回は、ちょっとホラー回(?)かもしれません。タイトルで出オチしてる感凄いのですが……。

ロシアの宮殿を巡る数奇な物語です。

 

 それでは、お付き合いの程、宜しくお願い致します!

 

 

床下のミステリー

 その驚きの物語については、史料を漁っていた時に偶然発見しました。

1858年10月22日(ユリウス暦)の、アレクサンドル・ヴァシリエヴィチ・ニキテンコの日記の引用です。どうぞ。

 Это, наконец, оказалось справедливым, что в Царском Селе при переделке комнат наследника в одной из них, между полом и сводом, на котором пол этот настлан, найден скелет женщины.
Кто она, живая или мертвая сюда заложена, кем и когда неизвестно.
Все на ней и сама она истлела.
Остались одни кости и бриллиантовая серьга, которая вдета была в одно существовало.
Все это ухо, когда ухо еще рассказал мне граф Блудов.

 ツァールスコエ・セローの帝位継承者の部屋を改築する際に、彼の部屋の一室の床とその下の円天井の間から、女性の骸骨が発見されたことが遂に判明した。

彼女は誰なのか、そこが塞がれた時に未だ生きていたのか既に死んでいたのか、誰が、いつ閉じ込めたのか、何もわからない。

彼女が身に付けていた全てのものも、そして彼女自身も朽ち果てていた。

残ったのは、一片の骨に、かつてはその片耳が存在していた時に付けていたのだろう、宝石のついた一つの耳飾りだけだった。

これらの話は、全てブルードフ伯爵が私に語ってくれたものである。

ど……どういうことなの(困惑)

これだからもう、殿下周辺は面白い話(と言ってしまうと不謹慎なのかもしれませんが……)が尽きないと日頃から申し上げている次第でして。次から次へとこういうの出てきますからね。

 

 1858年秋ということは、殿下は14-5歳です。成人(16歳)前の美少年時代だ……。

自分が生活していた部屋の床下から、身元不明の白骨死体が出て来るって、結構精神にダメージ入りそうで心配なのですが、大丈夫なんでしょうか!?

 

 それではこちらの記述を元に、色々と確認して参りましょう。

 

ズボフスキー棟の歴史

 「ツァールスコエ・セローの宮殿の殿下の部屋」という記述から、それはエカテリーナ宮殿ズボフスキー棟と呼ばれる建物の2階であることであることがわかります。

もしも帝政ロシアにタイムスリップして殿下にお手紙や贈り物を届けたい場合は、住所としてこちらを記入することになる可能性が高いです。

 

 ズボフスキー棟は、1779-80年に掛けて、ユーリー・マトヴェーヴィチ・フェルテンという建築家によって建設されました。

↑ フェルテン(1730-1801)。肖像画からして近世感溢れています。

 

 ズボフスキー棟は、皇帝の為というよりも、その親族や側近が生活する建物として利用されてきました。

1841年、当時の皇太子夫妻である殿下の両親、アレクサンドル・ニコラエヴィチ(後のアレクサンドル2世)と、マリヤ・アレクサンドロヴナ(後の皇后)の為に、増改築されます。

 設計を担当したのは、イッポリト・アントノーヴィチ・モニゲッティという、イタリア系ロシア人の建築家です。

↑ モニゲッティ(1819-1878)。20歳の頃の肖像画らしいです。目キラッキラ。

 

 1841年の増改築の後、アレクサンドル皇太子は1階、妻マリヤ皇太子妃は2階を使うことになりました。

彼らの間に息子、つまり我らが殿下ことニコライ・アレクサンドロヴィチ大公が生まれると、彼の部屋は母の部屋の隣に割り当てられ、こうして彼の部屋はズボフスキー棟の2階になるのです。

 

↑ 19世紀のズボフスキー棟。外装は比較的シンプル。……感覚麻痺してますか?

↑ 現在のズボフスキー棟。確かに絵のままだ……!

 

 ちなみに、ソ連時代の大祖国戦争(所謂「独ソ戦」のこと)でズボフスキー棟の2階は破壊されてしまい、非常に残念なことに現存しておりません。しかし、正に現在進行形で修復工事が行われています

 計画では、去年辺りに復元が完了する予定で、当時のものではないとはいえ、完了し次第ペテルブルクに聖地巡礼の旅に出掛けようと思っていたのですが、この度の侵略で予算を取られたのか、押しているようですし、そもそも侵略戦争て……。この……、全く……(以下略)

 

 復元が完了し、情勢が落ち着いたら(いつ!?)、足を運びたいと思います。可及的速やかになんとかしてくれ。

 

殿下の部屋

 それでは、棟の中でも殿下の部屋についてです。某徹子ではないです。

 

 ズボフスキー棟は、彼が毎年春と秋を過ごした場所なので、この部屋やその周囲が舞台となったエピソードは数多いです。

例えば、以前の連載で扱ったものだと、ヴラディーミル・メシチェルスキー公爵が初めて殿下と出逢った時なんかも、このお部屋のお隣ですね。

目と目が合う瞬間好きだと気付いた

 

 非常に残念ながら現存しないズボフスキー棟の殿下の部屋の様子については、宮廷画家エドゥアルド・ハウが絵画に描き遺しています。

 殿下が急逝してしまった後、父である皇帝たっての願いで、彼の部屋をキャンバスに収めることになったとか。素晴らしい指示です。

 

 書斎と寝室の絵があるので、順番に見て参りましょう。

↑ 明るい木材と群青の布で統一された書斎。ここであの頭脳が培われたわけですね。

↑ 書斎のドアからも覗いている寝室。相変わらず寝台が狭い。深緑の差し色が美しいです。

 豪華ながら、落ち着いた雰囲気も併せ持っていて素敵ですよね。

 

 書斎の絵は、Twitter でもお世話になっている読者様には見覚えがあるかもしれません。

↑ 「ヘッダーの書斎の持ち主」、つまりそういうことです。

元々ツイ廃なので、Twitter が瀕死でわたしはとてもとても哀しいです。

 

 こちらの二部屋の何れかの床下から、遺体が発見されたものと思われます。ほんとうにどういうことなの……。

 

ニキテンコ

 ここで、こちらの日記の著者をご紹介します。アレクサンドル・ヴァシリエヴィチ・ニキテンコは、ペテルブルク大学で教鞭を執ったり、検閲官を務めた人物です。

↑ ニキテンコ(1805-1877)。

 さぞかし裕福なエリートなのだろう……と思いきや! なんと農奴出身。ある意味で、真のシンデレラストーリーの持ち主です。

しかも、何が面白いといって、「あの」シェレメチェフ家の農奴でした。マジで言ってんのか。

↑ 指折りのウルトラ名家であらせられるシェレメチェフ家ですが、殿下との関わりで「シェレメチェフ伯」といえば、勿論セルデイ・ディミトリエヴィチ。三角関係の恋と、友愛・尊敬の間で揺れ動く、ロマン主義恋愛小説も斯くやという間柄です。

 

 ちなみに、ニキテンコは、実は既に弊ブログの過去の連載でも登場済み。殿下の病と死について纏められたガデンコの資料で、長々と引用されていました。第三回です。

↑ 殿下の最期と埋葬についての、殿下関連記事群の中でも最も重たい記事。

 ニキテンコは、彼の葬列や葬式に一市民として参加していて、その時のことを日記に書き記しています。

なかなか愛が深いのですけれども、葬式に不法侵入する某不審者などとは異なり、常識の範囲内であると思います、はい。

 

 日記を読む限りでは、ニキテンコと殿下は面識があるのかどうかさえわかりません。少なくとも、直接会話をした記録は無さそうです。

 しかし、殿下に歴史を教えていて、生徒を溺愛していたスタシュレーヴィチ教授やソロヴィヨフ教授らと親しかった関係で、彼の動向はよく追っており、暖かい愛を抱いて見守っていた様子。

日記には、定期的に殿下についての記述があります。今回はその一つです。……待てよ、ストーカー一歩手前か……!?

 

ブルードフ伯爵

 ニキテンコにこのエピソードを語ったという、ディミトリー・ニコラエヴィチ・ブルードフ伯爵

↑ ブルードフ伯(1785-1864)。

 法務大臣も務めたことがある人物で、1858年当時は農奴解放令編纂委員会のメンバーでした。

この頃、ニキテンコとは職務の関係で時間を共にすることが多かったようで、日記にも頻繁に登場します。

 

 恐らく、この床下遺体発見事件は公にはされておらず、宮廷に近いメンバーの間だけで知られていたのだと推測できます。

まあ、明らかに事件性ありますもんね……。

 

チュッチェフの手紙

 公にされてないとはいえ、誰か他の人もこの事件について言及していないものか、と思いリサーチを進めたところ、運良く見つけました。

 高名な詩人・フョードル・イヴァーノヴィチ・チュッチェフが、妻エルネスティナに宛てて書いた1858年9月17日付けの手紙の一部です。

 それでは引用、翻訳します。どうぞ。

Петербург, 17 сентября <18>58 
<...>
Теперь расскажу тебе нечто о Царском Селе, что мне передавали последний раз, когда я там был. 
Ты, может быть, помнишь в том же нижнем этаже дворца, где жила Анна и теперь помещается Дарья, квартиру, которую занимала княгиня Салтыкова и устраиваемую теперь для Наследника Цесаревича... 
Так вот, несколько недель тому назад, при ремонте свода, находящегося под полом этой квартиры, нашли замурованным в камне скелет женщины с кольцами и браслетами на руках, которая, по всем признакам, должна была быть замурована живой. 
Одна рука скелета указывала своим положением на последнее усилие отчаянной борьбы, а одна серьга вдавлена была в кость черепа. Одним словом, совершенно так, как в романе, который ты могла прочесть в русском журнале “Старые годы” за прошлый год. 
Говорят, что есть основание предполагать, что это событие относится к эпохе, предшествовавшей царствованию Екатерины II, и могло бы случиться в эпоху знаменитого Бирона, любимца императрицы Анны Иоанновны, которая, как уверяют, занимала эту часть дворца. 
Какая находка для романиста! Дюма может этому позавидовать...

(18)58年9月17日 ペテルブルク

(前略)

 それでは、私が最後にツァールスコエ・セローに滞在した時に聞いた話をしようか。

以前にはアンナが、今はダリヤが住んでいる宮殿の一室を、きっと君は憶えているね? その丁度上の階をサルトゥイコヴァ公爵夫人が借りていたんだが、今は帝位継承者の為に設えているんだ……。

そこで、数週間前の話なんだが、床下の円天井の修理をしていた時、女性の白骨死体が埋められていたことがわかったんだよ。腕には指輪とブレスレットが嵌められていて、それらの特徴を総合して考えると、どうにも生きたままそこに閉じ込められたようなんだ。

骸骨の片腕には、在りし日の壮絶な格闘の跡が見受けられるし、片方の耳飾りは、半ば頭蓋骨にめり込んでいた。

言い換えれば、昨年君がロシアの雑誌で読んだ『古い年月』と、そっくりそのまま同じ、ということだよ。

噂によると、エカテリーナ2世の治世よりも前の時代、恐らくアンナ・イオアノヴナ女帝のお気に入りである、有名なビロンの時代に事件は起こったのではないか、と推測されている。ビロンはこの宮殿の一部を借りていたのだから、ということだ。

なんてロマンティックな発見なんだろう! デュマが羨むに違いないよ……。

 いや、ロマンティックて。言いたいことはわからなくもないですが、自分の部屋の床下から死体が見つかった少年の気持ちも考えて差し上げて欲しいですね。

そして引き合いに出される大作家デュマに笑います。確かに、彼がこのエピソードを書いたら面白そうです。現実に起きた話なんですけれども。

 

 生きたまま天井と床下の間に閉じ込められて死亡って、考えるだけで嫌ですね……、殿下の部屋の床下とはいえ……。『アイーダ』第4幕かよ……(※オペラ『アイーダ』では、主人公カップル二人が地下牢で生き埋めになって幕となる)

 

 ニキテンコの記述よりも詳細で助かります。事件の輪郭が朧気ながらも見えてきましたね。

順番に見て参りましょうか。

 

チュッチェフ家

 フョードル・イヴァーノヴィチ・チュッチェフは、「頭でロシアはわからない」などで日本でも有名な詩人です。

↑ チュッチェフ(1803-1873)。お顔を見たことがある方も多いかも?

 高名な人物ですが、なんと殿下を題材にした作品も幾つかあります。有り難い。

そのお陰で、チュッチェフの研究者が殿下について研究することがあり、その点も有り難い(近年、チュッチェフ研究者の手になる殿下の論文が出まして……、嬉しい!)

 

 宛先のエルネスティナは彼の2番目の妻です。名前からもわかるように、ドイツ系。

↑ 黒髪黒目が印象的な美人さんですね。

 

 手紙の中の「アンナ」「ダリヤ」は、どちらも自身の娘を指しているものと推測できます。尤も、エルネスティナとの間の娘ではなく、前妻との間の子なのですが……。

 二人とも宮廷付きの女官であったため、父であるチュッチェフもまた宮廷に近かった、と言えます。

 

 姉のアンナは、殿下の母であるマリヤ・アレクサンドロヴナ大公女の女官を長年務めていた関係で、幼い頃からの殿下の記録を多く書き残しているため、弊ブログでの登場回数も多めです。

 前述のガデンコの連載第3回でも手紙が非常に長く引用されていますし(更に言えば、恐らく宛先が後述のダリヤなのでしょう)、前回の殿下の「予言」に纏わる記事でも日記を引用しました。

↑ 「ヴラディーミルという名前の男が皇帝になる」―――。成る程、170年近い時を超え、それはある意味で実現されつつあるのかもしれません。

↑ アンナ(1829-1889)。ちなみに殿下の教師ストロガノフ伯とは犬猿の仲。

 

 一方、妹のダリヤも宮廷付き女官です。

ちゃんとした裏を取れていないのですが、曰く、殿下の父であるアレクサンドル2世ガチ恋勢だったとかで、スキャンダルになりかけて、周囲は大変だったとか……。

↑ ダリヤ(1834-1903)。姉妹であまり似ていないかもしれないですね。

 

 殿下の部屋の床の、更にその下の円天井があった方、つまり殿下の部屋の真下に居住していたようですね。

ニースでは、殿下の真上の部屋から聞き耳を立てていた変態も登場するのですが(どうして殿下の周りにはこんなにも変質者が多いのだろうか……)、ペテルブルクでは無事であったのかどうか。そうであると願いたいところです。

 

サルトゥイコヴァ公爵夫人

 殿下がこの部屋に住む前(つまり生まれ、ある程度成長する前)、この区画にはサルトゥイコヴァ公爵夫人なる人物が居住していた、と記されています。

 それは恐らく、殿下の母の女官であった、エカテリーナ・ヴァシリエヴナ・サルトゥイコヴァ公爵夫人のことでしょう。皇太子妃・皇后付き女官ということで、彼女のすぐ隣に居を構えていたのだと思います。

↑ サルトゥイコヴァ公爵夫人(1791-1863)。お写真は見当たらず。

 当時、社交界ではかなり影響力の強い女性であったとか……。

 

 ちなみに、前世紀には同姓の拷問狂・殺人鬼がいるのですが(名はダリヤ・ニコラエヴナ)、全く無関係です。

 

ビロン伯爵

 文中の「ビロン」とは、エルンスト・ヨハン・ビロン伯爵のことであると思われます。

↑ ビロン伯爵(1690-1772)。1600年代生まれ!

 

 ロマノフ朝の初期の女帝アンナ・イオアノヴナの愛人であったと言われている人物で、彼女の治世の間に実権を握っていました。

↑ アンナ・イオアノヴナ帝(1693-1740)。帝位継承法制定前だ……。

 

 但し、前述したズボフスキー棟の建築及び増築時期と、ビロンの活躍した時代にはズレがあるため、この噂が正しいとする保証はどこにもなく、寧ろ怪しいのですが……。

被害者の遺体も朽ちていて、犯人も十中八九死亡しているため、何も、何もわからない……。

 

『古い年月』

 チュッチェフの手紙の中に、『古い年月』という作品の記述と全く同じだ、という旨があります。

確かに、この事件の前年、即ち1857年に発表された『古い年月』という短編小説の中に、以下のような描写を見つけました。

 最もドラマティックな部分のみの抜き出しとなってしまい恐縮ですが、ネタバレも何も邦訳が存在しないことですし、取り敢えず引用、翻訳して参ります。

<...>

   В павильоне было пять или шесть комнат. Пройдя три, князь ударил в глухую стену и сказал:
   -- Здесь!
   Мы принялись за работу; часа через полтора стена была пробита. Князь зажег свечи, и мы пролезли в темную, наглухо со всех сторон закладенную комнату.
   Среди развалившейся и полусгнившей мебели лежал человеческий остов...
   Князь перекрестился, заплакал и тихо проговорил:
   -- Упокой, господи, душу рабы твоея.
   -- Старик сказал правду! -- прибавил он, немного помолчав.
   -- Что это? -- спросил я, немного оправившись от первого впечатления.
   -- Грехи старых годов, Сергей Андреич... После все расскажу; теперь помогите собрать это...
   Бережно собрали мы кости и положили их в ящик красного дерева. Князь запер его и положил ключ в карман. Когда мы собирали смертные останки, нашли между ними брильянтовые серьги, золотое обручальное кольцо, несколько проволок из китового уса, на которых кой-где уцелели лохмотья полуистлевшей шелковой материи. Серьги и кольцо князь взял к себе.
   Утомленные трудом и сильными впечатлениями, вынесли мы ящик из сада.

(前略)

 そのパビリオンには、5つか6つの部屋があった。3つ目の部屋を通った時、公は塞がれた壁を叩いて言った。

「ここだ!」

私達は仕事に取り掛かった。一時間半が過ぎた頃、壁は貫通した。

公は蝋燭を灯し、私達は暗闇を抜け、四方をがっちりと塗り固められた部屋に辿り着いた。

半ば腐って崩れかけた家具の中に、人間の死体が横たわっていた……。

公は十字を切って、泣きながら静かに言った。

「神よ、汝の僕に安息を与え給え」。

「爺さんの言ったことは本当だったのだ!」―――と、暫しの沈黙の後に付け加えた。

「これは一体?」 第一印象から幾らか我に返った私は尋ねた。

「遠い昔の罪だよ、セルゲイ・アンドレィチ……。後で全て話すから、今はこれを集めるのを手伝ってくれないか……」。

私達は慎重に骨を拾い集め、マホガニー製の箱に収めた。公はそれを施錠し、鍵を懐に入れた。

遺骨を集めている間、半ば腐った衣服だったものの中から、宝石の付いた耳飾りと、金の婚約指輪、幾らかの鯨の髭でできたコルセットワイヤーを見つけた。耳飾りと指輪は、公が持って帰った。

労働と強い印象で疲れ果てながら、私達は箱を庭に運び出した。(後略)

          "Старые Годы ". П. И. Мельников-Печерский(拙訳) 

 未訳の小説の翻訳を書いたのは初めてで、ちょっと緊張しました! なんなら、ロシア語の散文小説の翻訳を書いたの自体初めてかもしれません。いつもは資料なのでね……。

というか、このシーンだけでも滅茶苦茶面白くないですか? 良い小説だ……。

 

 確かに、これは状況が殆ど同じですね……! 凄い、予言者なのか……?

気になるこの小説の著者に関してですが、驚くべきことに、我々の知らない人物ではありません。

なんと、以前の単発記事にも登場した小説家、パーヴェル・イヴァーノヴィチ・メリニコフ=ペチェルスキーなのです!!

↑ 我らが殿下を拉致しようとした今回ばかりはガチ犯罪者不届き者が現れた!? 事件の謎を追う記事です。

 こちらの記事に書いていますが、少し復習すると、彼はこの小説の執筆やこの事件から数年後の1861年、殿下のニジニ・ノヴゴロドでの旅に同行してガイドを務めました。

そこで殿下と親しくなり、殿下に「必ず読むから、故郷についての小説を書いて欲しい」とお願いされます。後に、実際に殿下の言葉を題に採って小説を書くのですが、既に時遅く、殿下は亡くなってしまっていた―――、という、哀しいエピソードをご紹介しました。

 

 「その」メリニコフです。そのメリニコフが、殿下の部屋の床下について予言していた……!?

どういう巡り合わせなのでしょうか。もう本当に殿下の周囲は理解の範疇を超える。ドラマティックすぎて怖い。現実は小説よりも奇なりとか最早そういう次元では無い。

 数あるロシアの小説家の中で、まさかのメリニコフ……! 事件自体が恐ろしいですが、更なる驚愕の事実の発覚に、わたくしも調べながら大興奮で御座いました。これだから殿下のオタクは辞められないのである。

 

 纏めます。

1. 1858年秋、ツァールスコエ・セローの宮殿にある、殿下の部屋の床下から女性の白骨死体が発見された

2. 状況から、生きたままその場所に閉じ込められたと考えられるという。

3. 当時の人々はロマノフ朝第4代皇帝アンナ・イオアノヴナの時代からあると推測したが、正しいとする保証は一切ない。被害者、犯人、動機など、全てが不明

4. 後に殿下の言葉を元に傑作長編小説を書くことになる小説家メリニコフは、この事件の前年に、殆ど同じ内容を「予言」する小説を執筆していた

5. 殿下自身がこの事件をどのように受け止めたのかは不明(文書館の日記に記述がある可能性は高い)

 

 以上です! 名探偵読者様は、この事件をどのように読み解きますでしょうか?

 

最後に

 通読ありがとうございました! 1万1000字超。

 

 人間の死体が白骨化するまでに掛かる時間は、周囲の状況にもよりますが、この場合は恐らく数年程度で可能と思われます。従って、いつその女性が亡くなったのかも、全く見当が付きません。

しかし、白骨化するまでの段階で異臭などはなかったのであろうか。

 殿下の周囲には、彼への熱烈な愛を拗らせる余り、覗き、盗み聞き、ストーカー、不法侵入者などの不審者が非常に多いので(本当にアウトだと思うのですが)、そういう類いの人物であったらどうしよう……と心配してしまいました。

その路線も有り得ないわけではない、というところが恐ろしいところです。これが「おそロシア」か……(?)。

 

 毎度申し上げておりますが、殿下の資料は本当に宝の山で、掘れば掘るほど面白いエピソードを発見することができます。無駄骨になった経験が無いという、非常に恵まれた沼です。感謝しか無い……楽しすぎる。

沼底でお待ち申し上げております!

 

 次回の殿下関連記事ですが、特に決めてはおりません。が、ぼちぼち連載の準備も整ってきたので、開始してもよいかな、とも考えております。気長にお待ち下さいませ。

 

 それでは今回はお開きと致します。また連載でお目に掛かれることを期待しております!