世界観警察

架空の世界を護るために

御用船への潜入 - 限界同担列伝1

 こんばんは、茅野です。

最近は帝政ロシアの文献ばかり読んでいます。語学力がないので、精確に読めている自信は皆無なのですが、それはそうと楽しくて致し方ない今日この頃。外国語が読めると QoL が格段に上がりますね……、もっと精進します。

 

 さて、というわけで今回は帝政ロシアに纏わる記事です。前々回の記事で、わたくしの趣味の研究対象推しであるロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下の側近たちについて簡単にご紹介しました。

この記事の中で、「側近たちが殿下のことが好きすぎてヤバい」ということを書いているのですが、本当に側近たちの記録が面白すぎる! ということで、側近・友人らを一人ずつ丁寧にご紹介してゆこうと思い立ちました

題しまして、「限界同担列伝」です。直球すぎる? すみません。

 そもそも殿下ってだれ?という方はこちらをどうぞ。↓

 

 ニコライ殿下は大変に非凡な人物なのですが、その類い稀な才能を世に役立てること適わず、早逝してしまいます。このことから、彼がこの世界に及ぼした最大の影響はその死であり、資料もそれに纏わるものが大半です。

事実、殿下を猛プッシュしているわたくしが執筆しているにも関わらず、今までは弊ブログでも死に纏わるものばかりご紹介して参りました。

 今後は、打って変わって、美しく聡明な殿下と、彼に恋い焦がれる拗らせた周囲の人々の興味深くも抱腹絶倒な文献をご紹介してゆきたいと思います。

これらを一読くだされば、何故わたくしがこんなにも殿下研究に入れ込んでいるのか、きっとご理解頂けることと思うのです。殿下の優秀さ、また彼を愛した周囲の奇行の記録をお楽しみ下さい。

 

 第一弾となる今回は、1863年に行われたニコライ殿下の国内査察の旅に同行した画家、アレクセイ・ペトローヴィチ・ボゴリューボフ『Записки моряка-художника(海兵画家の手記)』を見ていきます。

かなり長いので、殿下に纏わるエピソードの一部を抜粋し、対訳形式でご紹介します。その後、わたくしが面白おかしく突っ込んだり補足解説をしたり致しますので、肩の力を抜いて、楽しく読んで頂ければ嬉しく思います。

 それでは、長くなりますがお付き合いの程宜しくお願い致します!

 

 

画家アレクセイ・ペトローヴィチ・ボゴリューボフ

 まず、ボゴリューボフという画家についてご紹介しようと思います。19世紀後半に活躍した帝政ロシアの画家は、「移動派」と呼ばれる学派を代表に、ロシアの雄大な自然を写実的に描いた画家が非常に多いです。

中でも、高名なイヴァン・コンスタンティノヴィチ・アイヴァゾフスキーに代表されるように、「海洋画家」といって海を多く題材に選んだ画家がありました。ボゴリューボフもこの一人で、海軍に勤めながら絵を描いていた過去があります。

 

 喜ばしいことに、2019年に日本で行われたトレチャコフ美術館からの絵画を展示した『ロマンティック・ロシア』展でも、ボゴリューボフの絵画がありました。この展覧会の図録から、彼の経歴を引用します。

ボゴリューボフ、アレクセイ・ペトローヴィチ

Bogolyubov, Alexey Petrovich

1824年 ポメラニエ――1896年 パリ

 風景画家、海景画家としてロシア艦隊の歴史を主題にした作品を描いた。作家で民主主義者、自由思想家であったアレクサンドル・ラジーシェフの孫にあたる。

サンクトペテルブルクの海軍幼年学校の学生として学び、美術アカデミーの風景画と戦争画のクラスに通いながら、将校として数年間海軍で勤務した。1853年、美術アカデミー卒業後に退役し、海軍参謀本部の画家に任命される。1854年から1860年にかけて美術アカデミーの派遣留学生としてジュネーヴ、パリで学び、イタリア、ギリシア、オランダ、トルコを訪れた。

1861年から1865年まで、美術アカデミーで「俸給のない自由教授」の資格で教育に携わる。移動展覧会協会の会員であり、風景画の教育システムの抜本的な改革に関わった。

宮廷とも近い関係にあり、アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公と後のマリヤ・フョードロヴナ皇后に絵画を教え、皇族のロシア国内、ヨーロッパへの旅にもしばしば同行した

1872年以降はローマ、パリで暮らし、ボゴリューボフのパリのアトリエではレーピン、ポレーノフ、クラムスコイ、ヴィクトル・ワスネツォフらが制作した。ボゴリューボフの主導で、サラトフにロシア初の公共美術館であるアレクサンドル・ラジーシェフ公共美術館(現在のラジーシェフ記念国立サラトフ美術館)が1855年に、素描学校が1897年に創設され、ボゴリューボフが大いに誇るところとなった。

                         『ROMANTIC RUSSIA』p.144

 ここにもチラッと書かれていますが、彼は殿下の旅に同行し、アルバムを作成しています。この記事でも何点かご紹介しますが、非常に美しい風景画を描く画家です。

 

 手記を読む限りでは、何と申しますか……、被害妄想が激しいというか、人付き合いに結構難がある人なのかな? という印象を受けます(※個人の感想です)。事実、殿下の側近たちの一部とは相当に折り合いが悪かった様子です。それでも(いやそれゆえか)、己に優しくしてくれる殿下の強火の同担です。

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1861年の肖像。

 

 『海兵画家の手記』は、1824年から1885年という長い期間を纏めた回想録です。日記ではなく、後になって書かれた回想録なのですが、ごく細部までもよく描写されており、資料的価値は高いです。今回の記事では、殿下と関わりがあった1863年と1865年の記述から一部を抜粋してご紹介します。

 

1863年

殿下との出逢い

 ボゴリューボフは、1863年に約5ヶ月にわたって行われた殿下の国内査察旅行に同行し、絵画アルバムを作成しています。殿下の旅については、側近であるポベドノスツェフとバブストによる、600ページ近い記録(!)に詳しいです。しかし、旧正書法で書かれた600ページを読むのは流石にちょっとしんどいですね……。いつか抜粋だけでもご紹介できればいいなと思います。

 さて、ではまず初めに画家と殿下の出逢いについての記述を読んでみましょう。今後も同様ですが、長いパラグラフでは、適当なところで改行します。

 Наутро я впервые заговорил с Его Высочеством, причём счёл долгом спросить его, что он от меня желает и в чём состоит моя обязанность.

"Делайте, что хотите, Алексей Петрович, - сказал он ласково. - Вы настолько опытный художник, что мне нельзя вас учить. Одно буду вас просить, хочу писать часто письма к Государыне императрице, и мне бы очень хотелось, чтоб вы делали виньетки тех местностей по вашему выбору, которые найдёте интересными. И, далее, опять скажу - я буду всем доволен".

 - "Я имею в виду, - сказал я, - составить вам альбом всего, что будет вами замечено, а потому позвольте вам иногда сделать вопрос, нравится ли это вам или нет, ибо желаю так же написать вам масляными красками несколько этюдов наших городов, а альбомные рисунки буду делать всеми способами - акварелью, пером, углём, тушью и пр. пр.".

И после этого я уже не стеснялся и делал всё, что мог, к тому же у меня был хороший запас этюдов моего путешествия по Волге, а потому я заполнял свободное время карикатурами на всех и на вся, где более всего страдала наша свита.

 翌朝、私ははじめて殿下にお声がけしました。彼に私の任務は何なのか、私に何を望んでおられるのかをお尋ねするのが私の義務でした。

「あなたの望むまま、好きなものをお描きなさい、アレクセイ・ペトローヴィチ」、彼は優しくそう言って下さいました。「あなたほどの熟練した芸術家に、私から教えることなんてできませんよ。一つお願いがあるとしたら、私はしばしば皇后にお手紙を書きたいと思っているのですが、その際にあなたが興味深いと思ったその土地のヴィネットを描いて頂きたいのです。改めて申し上げますが、私はそれで全てに満足します」。

「成る程、」私は言いました。「アルバムを組み立てる際、その絵がお気に召したかどうかをお尋ねしても宜しいでしょうか。私は都市を題材とした幾つかの油絵のエスキースを描いて差し上げたいと思っています。また、アルバムには、水彩画や鉛筆画、木炭画、墨絵などなど、全ての方法を用いた絵を入れたいと思っています」。

このやりとりがあった後は、遠慮することなく自分のやれることを全てやりました。私には既にヴォルガへの旅で描いた素晴らしいエスキースのストックがあったので、後は空いた時間にあらゆる人の風刺画を描いていました。中でも難しかったのは、側近たちのものです。

 ここに爆誕、19歳のパトロンです。10代で「お好きにどうぞ」と言える懐の深さ、偉大です。写真を撮ることも難しかった時代のこと、更に非常に美しい風景画を描く画家が相手です、わたしだったら絶対「あれ描いて! これも描いて!!」と我が儘垂れまくると思います。

 

 少し補足してゆきます。まず、この会話が行われたのは、「シュリッセルブルクの近く」で、「ネヴァ河右岸の工業地帯」という別箇所の記述から、この辺りではないかと推測できます。

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↑ 現代の地図。オレンジの丸の辺り。

 

 次に、「ヴィネット(vignette)」と申しますのは、便箋や本の扉などにある唐草模様の装飾のことです。そうですね、わかりやすい例を出すとしたら、この辺りでしょうか。

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↑ 直撮りすみません。岩波文庫様の表紙は正にヴィネットですね。この本ですか? 勿論、筆者の趣味です。

 

古ロシア語

 次に、オネガ湖(ちなみに上記の『オネーギン』の名の元はオネガ河です)でのエピソードを見てみましょう。

......

 Язык этого краснобая был точно художественный, речь плавная, с возрастающим напевом, что очень нравилось Великому Князю, ибо он сам прекрасно писал и говорил иногда древнеклассическою русскою речью.

После на пути как-то К.П. Победоносцев достал одно из его писем к В. Кн. Александру Александровичу, писанное им с этим пошибом, и надо было видеть всех нас, с каким вниманием мы слушали его слово и как оно было красиво и фигурально по-русски писано.

Жаль, что такие перлы, свидетельствующие о прекрасном знании и любви русского языка, останутся навсегда, пожалуй, неизвестными, как семейные документы. Но, право, следовало бы их собрать и предать печати, чтоб знал наш народ, что так рано погибший Цесаревич готовился его любить и изучать глубоко древний и современный его язык.

(前略)

 この美しい言葉は正に芸術的で、流暢な話しぶりは調子を上げる一方でした。大公はこの言葉をとても気に入っていました。何故なら、彼自身流暢にこの古代のロシア語を書いたばかりか、時折話しさえしたからです。

帰り道、コンスタンティン・ペトローヴィチ・ポベドノスツェフは、皇太子が古典ロシア語で書いたアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公(殿下の弟、後のアレクサンドル3世)宛ての手紙を取り出し、私達全員に見せてくれました。何と美しく、文彩に富んだ文章だったことでしょう。私達は彼の言葉を全神経を集中して聞きました。

ロシア語に対する優れた理解と愛情を示す、真珠のような書簡が、ただ家族間の書簡として恐らくは永遠に知られないまま葬られてしまうというのは悲しいことです。しかし、当然これらの書簡は集められ、出版に付されるべきでした。そうすれば、我々国民は、余りに早く亡くなった皇太子が、如何に古代の、そして現代の言語を愛し、深く学んでいたかを知ることができたでしょう。

 唐突な殿下つよつよエピソードです。殿下にできないことはありません。唯一できなかったのが長生きすることなので……。

 

 こちらは、オネガ湖近辺の査察に行った際、盲目の老人クズマ・イヴァーノヴィチがこの地域に伝わる古代の叙事詩を暗誦していたのに出会した殿下一行のお話です。

別の文献によれば、殿下もこの叙事詩を丸暗記しており、老人の暗誦に合わせて詠ったところ、老人は驚き、「共に詠っているのは誰だ。この詩を語り継いできたのは儂一人で、 極少数しか知らないはずなのに」と尋ねました。

殿下の側近の一人が、「皇太子殿下ですよ」と伝えると、彼は目が見えないものですから、「嘘だ、馬鹿にするのはやめろ!」と立腹。そこで殿下が自ら、「いいえ、私です。他にも色々な叙事詩を存じ上げていますよ。次は何を詠いましょう?」と優しく声を掛けたそうで、老人は「ツァーリの子息が我々の愛する詩を詠ってくれるだなんて!」とボロ泣きしたとか。殿下、人タラシが過ぎます。つまり、いつも通りですね。

 

 お手紙に関してですが、確かに現代でも原則的に殿下の書いたお手紙というのは公開されておらず、わたくしも論文などで引用されているのを拾い読みすることが関の山となっています。読みたいというオタク心を募らせつつも、人権が守られていて良いことだとわたくしは思います。尚、お手紙はロシア国立古文書館に60点以上所蔵されており、もしかしたら行けば読めるかもしれません。

 しかしながら、幾つかのお手紙はオークションに出されており、競り落とすことが可能です。いいのかそれ? というかわたし以外に需要があるのか……? 現代にも同担が……!? えっ、わたしが落としてもいいやつですか!?

こちらはネット上で既に公開されてしまっていますし、内容的に著しく尊厳を損なうようなことも書かれていないので、例として一つご覧頂こうかと思います。

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こちらは殿下が13歳の頃、母皇后に宛てたお手紙です。字、綺麗すぎんか、13歳……?? そういえば殿下はカリグラフィ(習字)の成績もよいのでしたね。ロシア語の筆記体に苦手意識があるわたしでもある程度読めるレベル。サインも「Твой Никса(あなたのニクサ)」になってますね。可愛いか。そんなお手紙頂きたい人生だった。

 

 ちなみに、確かに殿下は弟のアレクサンドル宛てにしばしば手紙を書いています。その中には、前述のような古代ロシア語で書かれたものや、難しい政治の議論を吹っ掛けるなど、高度な内容のものも多くあります。当時弱冠19歳である。

しかし、別の文献によれば、本当はこのお手紙はアレクサンドルではなく、別の弟アレクセイ宛であったとのことで、ボゴリューボフの記憶違いが指摘されています。

↑ 件のお手紙を翻訳してみたので、こちらからどうぞ。

 

ゴヤヴレンスキー修道院

 さてお次は、コストロマのボゴヤヴレンスキー修道院での出来事を読んでみましょう。

  Надо было видеть внимание и любовь Великого Князя к этой старине... 

Опять с каким вниманием Цесаревич оглядывал стены храма и почерневшую старую живопись, так просто отрадно было смотреть. Его очень удивил рассказ губернатора, что вековые кирпичи, из которых была выстроена окружная галерея, пошли на постройку частных домов. При входе в усыпальницы родовитых наших князей, в подвале (Хованских и других) мерзость и запущение его тоже волновали.

И тут в нём зародилась мысль всеобщего возрождения этого храма, что он и сделал, написав свои впечатления державному отцу, так что через 6 месяцев Святейший Синод приказал исполнить мысль Цесаревича, дабы храм составлял алтарь (то есть святая святых) и новое здание церкви к нему прильнуло. Мало жил дорогой наш Цесаревич, но эта святыня всегда будет говорить, что она обязана ему своим возрождением.

 大公がこれら古代のものに注意し、愛している姿を見るべきです。(中略)

再び皇太子は教会の壁や黒ずんだ絵画を仔細に見ていましたが、その様を見るのは単純に喜ばしいことでした。彼は、区の回廊に用いられていた古い煉瓦が、個人の邸宅を作るのに再利用されているという話に非常に驚いていました。また、名門であるホヴァンスキー家などの地下室では、放置され荒廃した忌まわしい様子に動揺していました。

そこで、彼の頭にこの教会を全面的に復興させるべきであるという考えが生じました。彼は皇帝である父に己が受けた印象について手紙を書き、それを通じて、宗務院は皇太子の考えを実行するために祭壇(至聖所)を作り、それを含む新しい教会を建設するように命じました。私達の愛する皇太子は、ほんの僅かしか生きられませんでしたが、この教会は常に、彼に恩義があるのだと語り継いでいます。

 若くして亡くなった殿下の功績を語るボゴヤヴレンスキー修道院でのエピソードです。流石トップダウン式、決定から実行までが早い。

 

 ボゴヤヴレンスキー修道院(神現修道院)は、ロマノフ朝の初代君主であるミハイル・ロマノフが戴冠したイパチェフ修道院の向かいにある修道院です。ボゴリューボフ自身が絵に残しています。

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↑ 対岸に見える、見覚えのある屋根の形。

 ボゴヤヴレンスキー修道院は、1863年当時、火事で焼失してしまい、廃墟のようになっていたそうな。

殿下が訪れる前、チェックに出掛けた側近リヒテルは、「とても殿下をお連れできるような場所ではない」と言っています。しかし、ボゴリューボフの「ロシアでは如何に歴史が軽んじられているのか、殿下に見て頂くべきだ」という意見が通り、殿下も訪れることになりました。

廃墟然としながらも、焼け残った絵画などを丹念に見つめる様子に、彼を案内したボゴリューボフは感銘を受け、自分の選択は間違っていなかったのだと思ったのでしょうね。

 

 尚、この後殿下はコストロマの貴族達に夕食会に招かれ、交流を深めたりします。

この地で殿下が滞在していたのは、この工業地帯の工場のオーナーである貴族の館ですが、彼は朝食時に殿下と言葉を交わし、その際「あなたが我々の文化や社会に関心と深い理解を示して下さり、嬉しく思います。また、それにも関わらず、謙虚にも『学んでいる』と仰ってくださったのが大変に嬉しいのです」と言っています。

時に大胆に、時に謙虚に振る舞い、人をタラシていく殿下のコミュニケーション能力の高さが伺えます。実際、この「地域社会の知識のひけらかし」によって決闘にまで至った例もあるので、計算された立ち振る舞いであると言えます。更に言えば、こういうエピソードこそ、「皇太子」という肩書きではなく、殿下個人の性質を知るエピソードとして、興味深いものです。

 

 ちなみに、前のエピソードにも登場した、側近ポベドノスツェフは、将来的に今エピソードで出て来る宗務院の総裁になります。総裁になってからは「全ての改革に反対する」という超保守的な態度を崩さず、誰からも嫌われ、影の権力者として、またその陰鬱な印象と青白い顔色から「灰色の枢機卿」と揶揄されたポベドノスツェフ。

しかし、1863年、殿下の側近を務めていた頃は、親しみやすく、思想的にも左派に近かったそうで、殿下からも愛されていたと言います。完全に人が変わってしまったかのようですが、その理由の一つには殿下の死も大きく関係しているのではないかと考えられます。と申しますのも、殿下の死後、思想が大きく保守に傾いた政治家は多く、父である皇帝もその一人でした。

史書などでは、「民衆が改革の意義を理解せず、政府に反抗したことが原因である」とよく書かれていますが、確かにその通りではあるものの、それだけではなく、「将来的に改革を継ぐはずだった殿下が亡くなり、保守的な弟アレクサンドルが帝位を継ぐと決まったこと」が、改革を推し進める意義や意欲を大きく損なわせたと考えられるからです。殿下は、今や歴史に埋もれ余り語られなくなってしまった存在ですが、多くの人々の思想をねじ曲げてしまった人物でもあるのです。

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↑ 若かりし頃のポベドノスツェフ。殿下が生きていればロシア自体の歴史が大きく変わることになりますが、彼もまた陰鬱な人物としてではなく、愛想の良い有能な政治家として名を残していたのかも知れません。

 

御用船への潜入1

 次に、面白いエピソードをご紹介します。何回読んでも意味がわかりません。それでは、どうぞ。

 Ездили в село Иванове смотреть мануфактуры и вернулись опять в Кострому, где на пароходной пристани произошёл следующий анекдот, или истинное происшествие.

Пароход шумя пускал лишний пар. Всё было готово к отъезду, как вдруг на пристани слышен крик женщины: "Хочу видеть красное солнышко, сынка царского, пустите, пустите!". Баба была сильная и пробилась к сходне. Это была пожилая горожанка, чисто и даже роскошно одетая, с головою, укрытою платком. Доложили О.Б. Рихтеру. Тот к ней подошёл и говорит: "Да ведь мы сейчас уходим, не время делать подношения и говорить лично с Его Высочеством". Но она не внемлет, кричит: "Христа ради, допустите, батюшка". Сцена дошла до Великого Князя. Рихтер объяснил, в чём дело, и её пустили на пароход.

Смело подошла к нему женщина, сперва перекрестила его, потом поцеловала и говорит: "Ведь ты женишься скоро, Цесаревич ненаглядный, так вот тебе коробочка, открой её и пусти их в дом твой, и будет он полной чашей, и заживёшь ты счастьем Божьим с твоею избранною. Возьми эти хлеб-соль также да утиральничек". Хотела она поклониться в ноги, Великий Князь её удержал. Поцеловала его ещё раз и, осеня крестом, со слезами на глазах она удалилась, махая платком вслед отошедшему пароходу.

Но что было в этой коробочке? Четыре жирных чёрных таракана с провизией сахара и извести на целый год. Таково поверье русское - тварь эта есть признак домового счастья. Но полотенце расшитое было, точно, верх совершенства работы в этом роде как подражание древнему шитью по полотну.

 私達はイワノフ村で工場を査察した後、再びコストロマに戻ってきました。コストロマの埠頭では、注目に値する事件が発生しました。笑える話ですが、実話です。

汽船は騒音を立てながら、余分な蒸気を放っていました。出発の準備が整った頃、突然埠頭から女性の叫び声がしました。「美しく尊い人、皇帝の子息に会いたいんです! 行かせてください! 行かせてください!」。その農婦は、桟橋を無理矢理突破して侵入してきました。彼女は中年で、清潔で豪華な衣服を纏い、頭はスカーフで覆っていました。私はオットン・ボリソヴィチ・リヒテルに報告しました。彼は彼女に近づいて言いました。「我々は出発するところなのですから、もう殿下に直接贈り物をしたり、話したりする時間はありません」。しかし、彼女は聴く耳を持たず、「キリストの為に、父よお許し下さい!(訳注: ロシア正教で、懇願する時の定型句)」と叫ぶばかり。この騒動は大公の耳まで届きました。リヒテルが説明を行い、彼女は汽船に乗ることが許されました。

彼女は大胆にも彼に近づき、まず十字を切って、彼にキスしました。「最愛の皇太子殿下、あなた近々結婚するのでしょ。だったら、この小箱を持って行って頂戴。家でこれを開けたら、杯が満ちて、選んだ女性と一緒に神の幸福を預かれるわ。さ、このパンと塩、タオルを持ってって」。彼女は足元に跪き、額突こうとしたので、大公はそれを制止しました。彼女は今一度彼にキスをすると、目には涙を浮かべながら十字を切って、去って行きました。そしてスカーフを振って汽船の出発を見送りました。

果たして、小箱には何が入っていたのか? 四匹の黒い肥えたゴキブリと、丸一年分の砂糖と石灰でした。ロシアの古代の迷信によれば、この生き物は家庭の幸福の証なのです。それにしても、刺繍されたタオルは、古代の刺繍の模倣として完成度が高いものでした。

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 これは……、これはどこから突っ込めばいいんだ……???

 まあまず、農婦が殿下に会いたいがばかりに汽船に侵入してくる、この時点で面白いですね。殿下が優しいので今回はなんとかなりましたが、あ、意外と融通効くんだ……というか、セキュリティのガバさもちょっと不安です。同時代に生まれていれば農婦ですら殿下にキスできるのか……やべえな……生まれる時代と地域間違えた……。

 次に、何が面白いって、お気づきになったかもしれませんが、殿下に向かってタメ口です。当時、殿下は19歳。農婦は年配とのことなので、タメ口なのもまあ……? と一瞬思いましたが、まあ当たり前にそんなわけありませんね。どの文献を読んでも、家族以外は全員殿下に最上級レベルの敬語を使っています。弟ですら一時は殿下に対して敬語だったレベルです。それを、ヒエラルキー最下層の農婦がヒエラルキー最上層の殿下に向かっていきなりタメ口。ヤバすぎます。

 三点目。農婦は「近々結婚する」と言っていますが、このとき、殿下はまだ縁談を組んでいませんデンマークのダグマール姫と面会、縁談が成立するのは翌年の話です。また、殿下はスキャンダルや貴賤結婚を避けるという、実に皇族として立派な考えから、恋愛沙汰はほぼ一切なく、女性に告白されることがあっても毎度丁重にお断りしています。じゃあ、えっ……何を根拠に言ってるんだ……??

 四点目。ゴキブリ。マジか。

 

 補足してゆきますと、確かにロシアでは、結婚する方にパンと塩(とそれを包むタオル)を贈呈する風習があります。また、実際に黒いゴキブリは幸福を象徴するという迷信があるようです。確かに、寒い地域はゴキブリってあんまり出ないそうですから、この虫は希少だったのかもしれないですね。なんということだ、東京にいるゴキブリ全部送りつけたいまであるぞ……。

 

 また、この後の記述によると、この旅で殿下にはとんでもない量の貢ぎ物が贈られたそうで、旅の途中で汽船に積み込めない量にまで達したそうな。その中には有用だったり美しかったりするものもあれば、上記のエピソードのようによくわからない謎のガラクタも多かったようです。貢ぎ物を断るわけにもいきませんし、かといってもう積み込めないので、ボゴリューボフは側近の一人として、この貢ぎ物の山の仕分け作業を手伝うことになりますが、あまりの量に辟易とし、愚痴っております。

 

オレアンダ宮にて

 1863年の旅行篇の最後に、クリミアのオレアンダ宮でのエピソードをご紹介したいとおもいます。

   Влияние Крыма на Наследника было великое, и здесь я увидел, что ему прирождена была любовь к прекрасному и что он просвещённо смотрел на богатую природу. Сидя рядом со мной, когда я писал этюд Аю-Дага, он сказал: "Да, я не удивляюсь, что вы, господа художники, способны просидеть часы за работою. Вот я ничего не делаю и не могу оторваться от этих красот".

 クリミアが帝位継承者に与えた影響は大きく、私はここで、彼が生まれながらにして美を愛し、豊かな自然を見極める目を持っていたことを知りました。私がアユ・ダグのエスキースを描いていたとき、彼は私の隣に座って言いました。「そうですね、あなた方芸術家たちが、何時間も座り込んで仕事を続けられることに驚きはありません。今私は何もしていませんが、このような絶景を前にしては、離れることなどできませんから」。

 アユ・ダグと呼ばれる土地の絶景を前にした殿下のエピソードです。絵を描いていたらお隣に座ってくる人懐っこい殿下が尊い

 

 当時ロシア帝国領であったクリミアは、豊かな自然で知られ、プーシキンを初めとする数多くの詩人、アイヴァゾフスキーを初めとする多くの画家にその美を讃えられています。このとき、二人が見ていた景色というのは、恐らくはこちらです。

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↑ ボゴリューボフの手になるアユ・ダグの風景画。1863年エスキースが描かれたとあるので、ほぼ間違いないとおもいます。

 

 さて、二人がこのとき滞在していたのが、「オレアンダ宮」と呼ばれる宮殿です。19世紀のロマノフ家は、夏になると休暇としてクリミアに出掛けました。有名なのは「リヴァディア宮」という宮殿ですが、このときは工事(増築)中で、殿下はオレアンダ宮の方に滞在されていました。

オレアンダ宮は殿下の叔父(父アレクサンドル2世の次弟)であるコンスタンティン・ニコラエヴィチ大公が所有する宮殿です。殿下は、優れた音楽家であり、開明的で知的な海軍提督である叔父によく懐いていて、叔父の方も優秀すぎる殿下を「完成の極致」と呼んで溺愛しています。

オレアンダ宮は1882年に火事で焼失してしまったのですが、1869年に撮影されたお写真が残っております。

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↑ 二階建ての建物で、美しいお庭があったとか。

 

 オレアンダ宮での暮らしは「愉快なもの(весёлое)」だったようで、楽しげなエピソードも幾つか残っています。殿下は父や弟に似ずかなりの痩身ですが、スポーツも好き且つ得意だったらしく、狩猟や乗馬、フェンシングなどの貴族らしいものから、時には格闘技まで、幅広く行っています。中でも水泳は得意なものの一つで、ボゴリューボフは「皇太子は泳ぎが上手く、概してしなやかで素晴らしい体付きをしていた(Цесаревич хорошо плавал и вообще был по сложению гибок и ловок. )」と描写しています。不敬罪にならない程度に、もうちょっと詳しく説明してください。

 水泳が得意で、セーリングを一番の趣味とし、ロマノフ家の直系では唯一、陸軍よりも海軍を愛した殿下。愛称の「Никса(ニクサ)」は「水の精」を意味しますし、何だか水属性を感じますよね。

 

1865年

殿下の死

 さて、次に1865年の記録を読んでみましょう。65年は、殿下が結核髄膜炎により早逝されてしまうという、我々にとってもロシアにとってもこれ以上無い悲劇の年ですが、勿論そのことについても触れられています。殿下の最期の日々については、こちらなどを併せてご覧頂くと理解が深まるかと思います。

↑ 人生初のロシア語作品丸々一本翻訳。しぬかとおもった……。

 

 1865年の記録は以下の文章から始まります。

  В это время Цесаревич Николай Александрович жил за границею, сперва в Голландии в Шевенингене, а потом переехал в Ниццу, где здоровье его сильно ухудшалось. То же самое постигло и мою милую и дорогую жену. В сентябре месяце мне Бог дал сына Николая, что ещё более ослабило её натуру, и в ночь с 16-го на 17-е марта 1865 года она отошла в вечность! А в апреле месяце скончался в Ницце мой благодетель и высокий покровитель, Цесаревич Николай Александрович. Всё это вместе взятое сильно отразилось на моём зрении и мозге. Я плакал, как дурак, и окончательно расстроил свои нервы.

 その頃、ニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子は国外で生活されていました。まずはオランダのスケフェニンフェンに、その後ニースに渡りましたが、彼は著しく健康を害していました。丁度その頃、私の愛する妻にも同じことが起きていました。(1864年)9月、神は私に息子ニコライを授けてくださいましたが、そのことは彼女の身体には非常に堪え、3月16日から17日の夜に永久の眠りに就きました! 更に4月には、私の恩人であり、最高の後援者であったニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子が薨御されました。これらのことは、私の視力と脳に著しい影響を及ぼしました。私は馬鹿みたいに泣いて、最終的に神経衰弱になってしまいました。

 妻の死と殿下の死が重なるとは……、それは……しんどい。直訳なんですが、「馬鹿みたいに泣いた(Я плакал, как дурак,)」って表現が凄く切実で良い…………。

 

 ボゴリューボフの妻、ナジェージダは、ボゴリューボフ曰く、「美人ではないが繊細な気遣いができる魅力的な女性」とのことです。こちらが肖像画

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↑ えっ、どこらへんが美人じゃないのか教えて欲しいのですが……。

 ちなみに、息子ニコライ君も同1865年6月に、1歳になる前に亡くなってしまいます。こんなに愛する人々の死が重なって、鬱にならない方がおかしい。調べても情報が出てこなかったのでわかりませんが、息子のお名前はもしかしたら殿下に肖っているのかもしれないですね(だから夭折した説……)

 

 「私の視力と脳に著しい影響を及ぼしました」とありますが、その健康被害は本当に酷かったようで、殿下が亡くなり、ロシアでの葬儀を終えた後(65年5月)、日常生活すら送れない程に視力を失ってしまったそうです。画家にとってそれは余りにも致命的すぎます。その後暫く、息子を兄夫妻に任せて、鬱病と視力回復の為の療養に専念することになります。

 

フリゲートアレクサンドル・ネフスキーへの潜入

 続きを読んでみましょう。ニースで亡くなった殿下の遺体はフリゲート艦「アレクサンドル・ネフスキー」によりロシアに返還されるのですが、そこでのエピソードが綴られています。

    В мае месяце на фрегате "Александр Невский" прибыли в Кронштадт бренные останки милейшего Цесаревича. Государь император на пароходе "Стрельна" отбыл с Английской набережной в Кронштадт. Пароходом командовал мой друг и приятель гвардейского экипажа капитан 2-го ранга Леонтий Леонтьевич Эйлер.

Не думая ни мало, я взошёл на пароход и смешался в свите Государя. Тут же ехали Великие Князья Владимир Александрович, Наследник Цесаревич и Алексей Александрович с своим воспитателем контр-адмиралом Посьетом.

Когда пароход уже выходил из устья Невы, ко мне нахально подошёл генерал Грейг (бывший впоследствии министром финансов) и говорит: "Как вы смели сюда прийти, кто вам дозволил?". Я на него посмотрел, хотя с первого разу опешил, но вдруг оперился и говорю: "Моя преданность покойному Цесаревичу, его дружба ко мне дают мне на это право, а теперь что прикажете делать для вашего удовлетворения - выскочить за борт разве?". - "Ваше место на конвоире пароходе "Нева", а не здесь, ежели бы вы меня спросили, я бы вам указал!" Я, конечно, замолчал и отошёл на бак.

Сцену эту заметил мой приятель Константин Николаевич Посьет, знавший меня с корпусной скамьи. Он тихо меня расспросил, в чём дело, отошёл, и вдруг я слышу беготню и топот около меня. Тот же самый Грейг говорит: "Г-н профессор, вас Государь зовёт!".

Я снял шляпу и пошёл на ют парохода, где стоял император. Он протянул мне руку, которую я поспешил поцеловать. И самым душевным голосом сказал мне: "Спасибо тебе, Боголюбов, что ты пришёл поклониться праху Цесаревича, который тебя очень любил, спасибо".

Конечно, после такого приёма Государем я вдруг сделался из ничтожества уже персоной. Все ласково со мной говорили, начиная с Великих Князей и других царедворцев.

 5月、皇太子の遺体はフリゲートアレクサンドル・ネフスキーでクロンシュタットに着きました。皇帝はアングリースカヤ・ナーベレジュナヤから汽船ストレリナに乗ってクロンシュタットに向かいました。この船を指揮していたのは、私の友人であり、二等艦長であるレオンティ・レオンティエヴィチ・オイラーでした。

私は後先考えず、皇帝の従者たちに紛れ込みました。そこにはヴラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公、皇太子、アレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公(訳注: 三人とも亡くなった殿下の弟)、そして彼らの教師である海軍少将ポシェトがいました。

汽船がネヴァ河の河口を離れようとした頃、グレイグ将軍(後に財務大臣となる)が生意気にも近づいてきて、こう言いました。「あなたはここで何をしているのかな。誰があなたに許可したというのです?」私は彼を一瞥して、一瞬我を失いましたが、直ぐに立ち直って言いました。「私の亡くなった皇太子殿下への忠誠と、彼から私への友情が私に権利を与えているのです。さて、私はどのようにすればあなたを満足させられるのでしょうね、ここから海に身投げでもすれば良いですか?」。「あなたの任務は汽船ネヴァでの警備であって、ここにいることではありません。もし私に尋ねてくれていれば、許可を出したかもしれなかったものを!」 。勿論、私は黙って船首甲板に戻らざるを得ませんでした。

この一幕を見ていたのが、軍人時代からの我が友人、コンスタンティン・ニコラエヴィチ・ポシェトでした。彼は私に何があったのか詳しく尋ね、去って行きました。そして突然私の周りで騒ぎが起こり、奔走する足音が響きました。そのとき、私に向かってグレイグが言ったのです。「教授殿、皇帝陛下がお呼びですぞ!」。

私は帽子を脱ぎ、皇帝陛下がいらっしゃる汽船の後部最上甲板へ行きました。彼は私に手を差し伸べて下さったので、急いでキスしました。そして彼は優しい声で私に言って下さったのです。「皇太子の遺体を拝しにきてくれてありがとう、ボゴリューボフ殿。彼は君のことを大層愛していたからな。君に感謝しよう」。

皇帝陛下のこのような歓迎を受けて初めて、私は無から人へと相成ったのです。大公を初めとする宮廷人たちは、総じて私に優しく話しかけて下さいました。

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 殿下の遺体見たさに職務を離れて勝手に船に潜入、怒られたら逆ギレ、更には殿下に愛されていたマウント!! 役満です!! 意味不明すぎます!!! 先程の殿下らへの涙で失明までしたという話での同情心がみるみる萎んでいくのを感じます!!! わたしは彼に終身名誉限界同担の称号を授与したいと思います。こんなにヤバいのに、「一番ヤバい」とは言えないところが殿下だいすき限界同担ファミリーの闇なのですが……(特大ブーメラン)

 

 ……さて、冷静になって、少しずつ考えて参りましょうか。まず地名なのですが、「アングリースカヤ・ナーベレジュナヤ」は、サンクトペテルブルクのネヴァ河沿いにある美しい通りです。

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↑ 対岸から。2017年9月、筆者撮影。詳しくはこちら 。この頃はまだ殿下のことを存じ上げなかったのが悔やまれる……。

 そして、クロンシュタットというのがこちら。小島です。

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何故クロンシュタットかといえば、ここにロシア海軍の軍港があったからです。

 

 そして、汽船ストレリナ。これは皇族御用達の船で、皇帝が船で近くまで出掛けるときによく使われていました。斯く言うボゴリューボフ自身が1868年にこの船の絵を描いています。

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 最後に、財務大臣サミュイル・アレクセーヴィチ・グレイグ。高名なグレイグ家の出身で、その名に恥じない地位に上り詰めていますが、ご覧の通りボゴリューボフとの折り合いは大変悪かったようです。……と言いつつ、この記録はボゴリューボフ側からの一方的なものですし、よく見るとグレイグは正論しか言っていないので、そんなに性格の悪い人物だったのかどうかは保留したいところです。

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↑ 余程嫌いだったのか、ボゴリューボフは彼の肖像を描いていません。こちらは高名な画家イヴァン・クラムスコイによる肖像画

 

フリゲートアレクサンドル・ネフスキーでの葬儀

 最後に、船上での殿下の葬儀の様子についての記述を読んでみましょう。

    Панихида на фрегате была самая трогательная и величественная. Жаль было глядеть на царя и его августейших детей, рыдавших над гробом Цесаревича.

Вернулся я на пароходе обратно с Государем, был, конечно, на Высочайшем таки недисципл завтраке и, выходя с парохода, наткнулся на калифа на час Грейга: "Ну, а вы всё-таки недисциплинированный человек, г-н профессор, хорошо, что дело так окончилось, а то ведь плохо было бы мне и капитану, ежели бы Государь нашёл, что ваше присутствие тут было неуместно".

- "Поверьте, господин Грейг, я знал, что делаю, мои отношения к покойному Цесаревичу были самые чистые и сердечные, что подтвердил при вас же сам Государь, а потому вины за собой я никакой не признаю".

 フリゲート艦での葬儀は、最も感動的で荘厳なものでした。皇太子の棺を前に、号泣している皇帝とその子息達は大変に痛ましく、哀れみを誘いました。

私は皇帝らと共に汽船で戻り、至高の昼食を頂きました。そして汽船から出ようとしたところ、三日天下のグレイグに出会しました。「おや、あなたですか、教授殿。あなたは規律を守らない男ですからね、でもまあ、何事もなく終わってよかったですよ。何しろ、皇帝陛下があなたの存在が不適切であると判断すれば、責任を被っていたのは私と艦長ですからねえ」。

「信じて下さい、グレイグさん、私にはわかっていたんです。私の亡くなった皇太子への心からの、偽りのない情愛は皇帝陛下も認めてくださったところでしょう。ですから、私には何の罪もないのですよ」。

 圧倒的勝利宣言。からの開き直り。そして念押し。この人、一周回ってメンタルが強いんじゃなかろうか。それとも限界オタクの極限の心理状態でこそ成せる秘技だと言うのか。それにしてもグレイグのことを嫌いすぎるだろう……。

 

 さて、例によって少しずつ見ていきましょう。

殿下の父たる皇帝と、その弟たちは葬儀で「号泣(рыдавших)」していた、とあります。早速余談的なお話になってしまいますが、父帝アレクサンドル2世は猛烈に涙もろかったことで知られています。些細なことでもそれはもうぼろぼろ泣くとか。それに加えて、今回は愛息の死という人生に於いてもこれ以上は望めないくらいの悲劇ですから、「号泣」という表現にも頷けます。

 

 朝食について。ロシア帝国はどこぞの「のり弁」が大好きな政府と違って、こう見えて意外と透明性があり有能なので、昼食の献立などの資料もちゃんと残っています。めちゃめちゃ美味しそうです。

 

 最後に、フリゲートアレクサンドル・ネフスキーについて。「フリゲート艦」と申しますのは、「御用船」や「護送船」とも訳すことができることからもわかるように、皇族の足となった船を指します。特にこのアレクサンドル・ネフスキー号は、殿下がよく搭乗していました。「アレクサンドル・ネフスキー」はこの船の名前ですが、中世ロシアを代表する英雄の名前から来ています。

 こちらの船は殿下亡き後も御用船として利用されていたのですが、殿下の死からたった3年後の1868年、難破してしまいます。まるで役目を終えたとでも言うように。

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↑ 『フリゲートアレクサンドル・ネフスキーの破滅 夜景』(1868年)。

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↑ 『フリゲートアレクサンドル・ネフスキーの破滅 昼景』(1868年)。

 殿下の遺体を輸送した想い出の船であるからか、ボゴリューボフは難破したアレクサンドル・ネフスキー号の絵を二枚も描いています。しかし、健在の船の絵がないのは、なんとも皮肉ですね。

 

最後に

 通読お疲れ様で御座いました! 22000字です! 対訳形式にするとどうしても長くなってしまいますね……。お楽しみ頂けていれば幸いです。

 今回はボゴリューボフの手記をご紹介致しましたが、彼が一番「拗らせている」というわけではありません。限界同担は枚挙に暇がないので、今後も面白いエピソードなどを色々ご紹介できればな、と思います。

 それでは、長くなりましたのでお開きとさせて頂きます。また別記事でもお目にかかれれば幸いです。

 

 第二弾、パーヴェル・グラッベ将軍篇はこちらから。↓