世界観警察

架空の世界を護るために

衝立の裏から - 限界同担列伝7

 こんばんは、茅野です。

秋風の心地よい季節となって参りました。素晴らしいお散歩日和ですね。「黄金の秋」が訪れたという、ペテルブルクに心を惹かれております。

 

 さて、今回にて、長く続いた「限界同担列伝」シリーズも、いよいよ最終回となります(リサーチをしていく上で、続編が出る可能性もあります)。

「限界同担列伝」は、ロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下(1843-65)のことを愛しすぎて、奇行に走る周囲の人々を面白おかしくご紹介していくシリーズとなっています。

↑ 第一回、画家ボゴリューボフ篇はこちらから。

 1記事平均1万7000字、投稿ペースは約2日に1回と、怒濤のスピード・量で進めてきた同シリーズ。執筆の速さには定評のあるわたくし茅野ですが、流石にこれは未経験の境地です。

まさか同時代の同担の皆様も、21世紀に日本語で己の推し語りが世に出回ることになるなど思ってもいないでしょうけれども、150年後に極東の島国を生きるわたくしと致しましても、皆様の奇行には驚かされていますので、そこはお互い様です。

 

 第七回となる今回は、長く殿下の側近を勤め上げた、オットン・ボリソヴィチ・リヒテル大佐をご紹介します

リヒテル大佐は、皇帝への報告書を書く義務を負っていたことから、多くの記録を残しています。記録自体は興味深くも、歴代の限界同担の皆々様と大差ありません(※感覚が麻痺していますが、この時点で十二分におかしいです)。

問題となるのは、とある一つのエピソードなのですが……、同シリーズの最終回を飾る、「裏ボス」たる由縁、ご紹介してゆこうと思います。

 

 今回引用しますのは、最早解説不要、いつものタチシェフ先生の学術歴史書アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公の幼少と青年時代(Детство И Юность Великого Князя Александра Александровича)になります。

 それでは、最後までお付き合いの程、宜しくお願い致します!

 

 

オットン・ボリソヴィチ・リヒテル大佐

 今回の主人公をご紹介します。

オットン・ボリソヴィチ・リヒテル大佐は、1830年生まれで、殿下の13歳年上です。没年は1908年と、77歳まで生きました。ニコライ1世、アレクサンドル2世、3世、ニコライ2世と、四代にわたっての統治を見てきたことになります。

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↑ 若い頃の肖像画やお写真が少なく……。

 殿下が15歳の頃(1858年)、父皇帝が「できるだけ殿下と年が近い、頼れる側近を」ということで、抜擢されたのがリヒテル大佐(当時28歳)でした。勤務中に昇進し、少将になりますが、殿下の側近を務めていた時期の大部分は大佐だったこともあり、文献ではよく「大佐」と呼ばれているので、それに倣って大佐と呼ばせて頂きます。

 

 若いながらに優秀な人物で、父皇帝や母皇后、そして勿論殿下からも深く信頼されていました。ストロガノフ伯爵が「教育責任者」なら、リヒテル大佐は「側近頭」とも言うべき存在で、最も近い場所から常に殿下を支え続けました。殿下が亡くなった際も、家族や別の側近らは一足先にロシアに戻りましたが、リヒテル大佐は遺体の輸送も請け負いました。

 

 実は出身はドイツで、ドレスデン生まれ。

出生名もオットー・デメトリウス・ペーター・フォン・リヒターと、長いドイツ風の名前なのですが、ロシア帝国帰化し、殿下からはロシア風に「オットン・ボリソヴィチ」と呼ばれていました。ちなみに、書簡を見るとわかりますが、第五回でご紹介したメシチェルスキー公爵は彼を「オットー」と呼んでいます。

 基本的には「側近」という扱いで、教師ではありませんが、ドイツ出身にも関わらず、殿下にフランス語を教えていたこともありました。

 

 性格もよかったようで、被害妄想が激しく、人見知りする(と推定される)ボゴリューボフも、リヒテル大佐とは上手く付き合えたと言います。しかし、果たして、ほんとうにそれだけなのか―――最後にご紹介するエピソードを読む度、わたくしとしては疑問を抱かざるを得ません。

 

隣の部屋で

 大佐が殿下の側近となった1858年、殿下は冬宮殿で新しい居住区を割り当てられます。その記述を読んでみましょう。

 С переселением Двора на зиму в Петербург Цесаревич занял и в Зимнем дворце отдельное от братьев помещение, устройством и отделкою которого с любовью занималась Императрица. Оно состояло из трех комнат: зала, кабинета и спальной в той части дворца, которая отделяется от главного здания узким проездом с Дворцовой площади к набережной Невы и известна под названием Шепелевского дворца. Рядом с покоями Наследника отведено было помещение полковнику Рихтеру. Великие Князья Александр и Владимир Александровичи продолжали занимать во дворце прежние свои апартаменты.

 冬の間、宮廷がペテルブルクに移ると、皇太子は冬宮殿の弟たちとは違う部屋に滞在した。皇后はその部屋を愛を込めて整え、準備した。それは居間、書斎、寝室の三部屋からなり、本館から宮殿広場、ネヴァ河の堤防までを狭い通路で隔てたシェペレフスキー館と呼ばれる建物にあった。帝位継承者の部屋の隣には陸軍大佐リヒテルの部屋があった。アレクサンドルとヴラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公は、引き続き以前滞在していた部屋を使っていた。

 弟たちを差し置いて、まさかの隣部屋です。側近、強い。

「冬宮(とうきゅう)」と申しますのは、今で言う、エルミタージュ美術館のことです。帝政時代は、皇家の宮殿として用いられていました。

何故「冬宮」と呼ばれていたかというと、皇家が冬の間にこちらに滞在していたからです。他の季節、春と秋は第三回などで軽くご紹介した、ツァールスコエ・セローに滞在していましたし、夏はクリミアに休暇に出掛けました。

 

 実はですね、昨年2020年、殿下の没後155年ということで(キリが良いんだか悪いんだかわかりませんが)、幾つか記事や動画が新しく出ました。その一つがエルミタージュ美術館による殿下のお部屋の紹介動画です。

「えっ、マニアックすぎない? わたし以外に需要ある?」と危惧していましたが、流石の冬宮、4万回再生に1000高評価を獲得しています。みんな同担?(?)。

 この解説、オタクにとっては垂涎ものなのですが、ロシア語音声・字幕無しなので、掻い摘まんでご紹介します。まず、殿下が冬宮で滞在されていたのが、こちらの区画。

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↑ 右側二階の色が薄くなっている部分です。それにしても人間や馬と比べてこの大きさよ。

 こちら、今でも面影が残っているので、実際にペテルブルクにおいでになった方は見覚えがあるかもしれません。現在だと、見切れかけている左側のファサードの部分がこちらです。

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↑ 2017年筆者撮影。彫刻ハンパなかったです(語彙力)。もうちょっと右も写真撮っておけばよかった……(当時はまだ殿下のことを存じ上げていなかった不覚)。

 

 お部屋の間取りは以下のようになっています。

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↑ 「ニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子の住んでいた部屋」。左から、「書斎」「居間(リビングルーム)」「寝室」。

わかりませんが、大佐のお部屋はリビングの裏側辺りでしょうか?

 

 お部屋の絵も残っています。宮廷画家エドゥアルド・ハウは、宮殿の絵を沢山描いていますが、1865年、殿下が亡くなった際、父皇帝が「彼の想い出に」と強くお願いをして、殿下の部屋も書斎と寝室が描かれています。

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↑ 書斎。冬の間はここで勉強していました。扉の奥に見えるのが居間ですが、こちらの様子はわかっていません。尚、本棚の上のお人形のようなものは、日本の甲冑なんだとか! 生まれも育ちも日本のオタク、大歓喜であります。

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↑ 寝室。「王家(皇家)のベッド」といえば、天蓋がある超巨大なものを思い浮かべると思うのですが、殿下のベッド、鬼狭くないですか……? どちらかというと陸軍士官用のものが意識されたのでしょうか。痩身とはいえ殿下も身長190近いんですけど、寝返り打てるのかな……。

 カーテンや壁紙の青が映えます。皇家の男性の私服は原則軍服で、殿下がよく着用していたのはグロドノ軽騎兵連隊の将校服で、こちらは紺ベースに金の装飾があるものです。

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↑ こちらグロドノ軽騎兵連隊の制服図です。肖像画では右のものを着ている場合もあります。いずれにせよ、カラーリングがめちゃくちゃお洒落です。前回の記事でご紹介した写真も、白黒ですが、殿下が着用していたのはこちらの左です。

 第一回でも少しご紹介したように、殿下は水泳や海、船、海軍を好んだこと、愛称が「ニクサ( "水の妖精" の意)」であることなどから、もしかしたら色も青や紺が好きだったのではないかな、と想像しています。

 

王者の楽器

 次に、音楽に纏わるエピソードを見てみましょう。殿下が楽器を演奏するエピソードというのは意外に珍しいのですが、リヒテルが関わるものがあるので、一つ見て読んでみたいと思います。

 Гримм уступил его желанию учиться играть на cornet à pistons, инструменте, на котором играл полковник Рихтер и к которому, по примеру его, пристрастился Николай Александрович. Уроки ему давал известный виртуоз Вурм.

 グリムは彼にコルネットを習わせたいと思った。これはリヒテルが演奏していた楽器で、彼に倣い、ニコライ・アレクサンドロヴィチも夢中になった。有名な演奏家であるヴルムが彼に教授した。

 殿下は管楽器奏者です。

コルネットはトランペットによく似た楽器です。当時、管楽器にピストンを付けるという技術が開発され、急速に発展・普及が進んでいました。

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 グリムと言うのは、アヴグスト・フレデリクスという名を持つドイツ人です。リヒテルと同じく1858年から殿下と関わるようになった人物で、一年間殿下の教育責任者を務めました。同じくドイツ出身の母皇后からは気に入られていたようですが、殿下兄弟からは蛇蝎の如く嫌われていました。

彼は歴史や地理を殿下兄弟に教えましたが、全ての授業をドイツ語で行い、ロシア語を「野蛮な言語」として極力排斥しようとしました。そのことが、ロシアの皇族として生まれ育った彼らにとって、凄く癪に障ったのでしょうね。

 殿下は幼少からドイツ語を完璧に操ったので、彼の授業も成績がよかったようですが、リヒテル大佐曰く、「顔や態度にこそ出さないものの、皇太子ができるだけグリムを避けていることは伝わってきた。温厚な彼も、内心グリムのことを嫌っていたのだろう」というような旨を書いています。殿下にそこまでされるって相当では……そして10代半ばから「大人の対応」を身につけている殿下。

一方、弟アレクサンドル大公は、ドイツ語を「無機質な言語」と嫌った上に、この言語が苦手で、授業の内容が理解できず、叱責され、グリムのことを殴りかからん勢いで嫌ったそうな。このこともあって、大公は生涯ドイツ語に苦手意識を持ってしまったそうなので、グリムの責任は重いです。

このようなことから、彼は一年という短い期間で彼らの教育責任者を解任されました。

 

 グリムは最初、彼らにピアノを習わせようとしていたのですが、殿下兄弟はグリムのことが嫌いだったので、殿下は消極的に、大公は大々的にグリムのやることに反発し、結局その計画は頓挫。しかし、「皇族ともあろうものが楽器の一つも弾けないようでは……」と思っていた所、新たに側近になったリヒテル大佐はコルネットを吹くのが趣味だったわけです。

 同時期に殿下に仕えることになったリヒテルとグリムですが、殿下はリヒテルの方に大層懐いていて、リヒテル自身も述べているように、グリムと共に過ごす時間を極力短くして、彼の元に通いました。勝利宣言かな? リヒテルの好感度がうなぎ登りに上がったことには、グリムが嫌われていたことにも大きく影響しているかもしれません。

 

 トランペットといえば、「王者の楽器」として知られています。結果的に、よい選択になったのではないでしょうか。ちなみに、殿下もよく懐いていた叔父のコンスタンティン大公はプロ級のチェロ弾きとして知られています。つまり……なんでしょう、こんなかんじか……?

↑ 小編成でチェロとトランペットがいる作品って流石に少なくないですか?

 

 ヴルムというのは、ヴィルヘルム・ヴルムというコルネット・トランペット奏者です。彼もまたドイツ出身ですが、超絶技巧が売りで、ロシアで非常に有名な奏者として成功しました。

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 現代でも、「40の練習曲」を初めとする教則本などが残っており、トランペットを練習するには持ってこいのようです。

 

リーバウで

 リヒテル大佐は、殿下の側近として、定期的に皇帝に殿下やその周辺の様子を報告する義務を負っていました。今回は、例としてその一部の記述を読んでみましょう。

 Особенным расположением удостаивал Цесаревич находившихся в Либаве курляндских дворян. Он посетил многие из окрестных благоустроенных дворянских имений, знакомясь с усовершенствованными приемами сельского хозяйства, которое велось в них на рациональных началах, мало еще известных и совершенно не принятых в других местностях Империи.

Три раза устраивали дворяне охоты на диких коз, тетеревов и куропаток, в которых Наследник с видимым удовольствием принимал деятельное участие, и однажды дали в честь его большой народный праздник в либавском общественном саду. На тост за его здоровье Цесаревич отвечал выражением благодарности курляндским дворянам, пил за их здоровье и за процветание края. Хозяева праздника были в восторге от Августейшего гостя, очаровавшего всех.

«До сих пор, — доносил полковник Рихтер Государю, — все в восхищении от Николая Александровича, и надо сознаться, что он обладает тактом, который весьма верно руководит им. Он умеет вовремя заговорить с каждым и сказать приятное. Я уверен, что приятное впечатление, произведенное в Либаве, останется и на будущее время».

 皇太子は、リーバウのクールラントの貴族たちに特に好意を向けていた。彼は周辺の貴族の領地を訪れ、帝国の他の地域では全く知られていなかった改良型の農法理論の原理について学んだ。

貴族達は、野生のヤギ、ヤマドリ、シャコを対象とした狩りを3回開催し、帝位継承者は積極的に参加して楽しんだ。また、彼の為に庭園で大規模な祝祭が開かれたこともあった。皇太子は乾杯の挨拶で、彼らに感謝し、クールラント貴族の健康と、この地の繁栄を願うことを表明することでこれに応えた。祝祭の開催者たちは、この誰もを魅了する皇族の客に歓喜した。

リヒテル大佐は皇帝に報告している。「目下の所、誰もがニコライ・アレクサンドロヴィチに魅了されています。彼には全てを正しく統べる能力が備わっていることを認めざるを得ません。彼は適切なタイミングで気の利いたことを言う術を知っています。リーバウで彼が与えた素晴らしい印象は、長きにわたって続くと私は確信しています」。

 こういう記述を読む度、殿下、統治してくれ~~! と思います……

こちらは1860年7月、殿下が16歳の頃、リーバウ(現在のラトビア、当時はロシア帝国領)に訪れた際の記録です。

諸説有りますが、殿下が病に苦しみ始めたのは60年8月という説が有力で、それ以前の殿下は、いつにも増して、殊更絶好調の極みでした。この頃の記録は読んでいて楽しいものが非常に多いですね。

 

 「乾杯」とありますが、殿下がお酒が好きだったのかどうか、またどのようなものが好きだったのかどうかについては、今のところよくわかっていません。

査察中に国産のワインを増産できないかについての議論をしたりしているので、葡萄酒はお好きだったのではないかと推測されます。また、祝祭や晩餐会でも、やはりワインやシャンパンは頻繁に食卓に上がったようなので、よく飲む機会はあったのではないかと思います。

 

 前述のように、リヒテル大佐は皇帝に報告書を書く義務がありました。

側近の多くが報告書を提出したり、日記や書簡に記録を纏めていましたし、殿下自身家族や友人に近況を報告することもありました。後世の研究者たちがよく驚いているのは、それらの記述に全く矛盾が無いという点です。

大体において、主観が入り交じったり、記憶違いなどで認識がズレていたりするものなのですが、殿下の周囲に関してそのようなことは全く無かったようです。彼らがよく会話をして、印象を共有していたことが伺えます。

 愛らしいエピソードもあります。10代半ばの殿下は、特に親しい側近のリヒテル大佐と長い時間を過ごしていましたが、彼がよく父宛の報告書を書いている様を目にしていました。

殿下はお隣でたまにそれを目にして、半ばふざけて「そんな堅苦しい口調ではなくて、もう少し面白おかしく書いたら楽しいんじゃないですか?」なんて言ったらしく、大佐は少し困りながらも、殿下の無邪気な指示に従って書いたそうで、大佐の記録は他の側近にはない、ユニークさに溢れています。

 

限界! 覗き魔特集

 冒頭で、わたくしはリヒテル大佐は限界同担の「裏ボス」だとご紹介しました。しかし、ここまでの記録は、なかなかマイルドなものであったと思います(感覚麻痺)。

殿下の限界同担は数多く、また、犯罪スレスレ(というか実質アウト)の奇行に走る人も少なくないことはご紹介してきた通りです。しかし、上には上がいます。これが限界同担「裏ボス」たる由縁です。

 1865年4月、殿下が重い病に冒され、ニースの病床にあった時の記録を読んでみましょう。どうぞ。

  Рихтер начал вырезать маленькое отверстие в шелковой тафте ширм, поставленных у постели. Цесаревич тотчас очнулся.
   -- Что Вы там делаете? -- спросил он.
   -- Вынимаем булавки, чтобы не упали на Вашу подушку, -- был ответ.
   -- То-то. А я думал, что Вы вырезали отверстие, чтобы следить за мною.
   -- Да если бы и так, что же было бы в этом дурного?
   -- Как, Оттон Борисович, исподтишка наблюдать разве хорошо, в особенности за беспомощным больным? -- заметил с грустною улыбкой Цесаревич.

 リヒテルはベッドサイドに置かれた布製の衝立に小さな穴を開け始めた。皇太子はすぐに目を覚ました。
「そこで何をしているんです?」 彼は言った。
「あなたの枕に倒れてこないように、鋲を抜いているんですよ」 と返した。
「本当に? 私を監視する為に穴を開けているように思えたのですが」。
「もしそうだとして、それの何が悪いんですか?」。
「何ですって。オットン・ボリソヴィチ、あなたは全く抵抗できない無力な病人をこっそりと覗き見することが、本当に正しいことだと思っているのですか?」。皇太子は悲しそうに微笑を浮かべて言った。

 アウトーーーー!!!!! 一発退場です。可及的速やかに側近を辞任してください。

この時代にストーカー規制法がなくてよかったですね、いや寧ろ殿下の為に捕まって下さい。というか殿下ももっと抵抗していいんですよそこは、普通にダメだろ覗きは

「皇族はプライバシーないから」とかそういう問題じゃありません。「何が悪いんですか?(開き直り)(逆ギレ)」じゃないんですよ、ダメに決まってんだろ!!

 己の限界同担への対処には慣れている流石の殿下も困ってるじゃないですか、オタ活で推しに迷惑を掛けるのはオタクとして最もやってはいけないことでしょ!

 それにしても殿下も、「抵抗できない」「無力な」ってこれまたそんな扇情的な強調も逆効果でしょ! 知らんけど!! というか、ボゴリューボフといい、殿下の側近は何故殿下だいすき限界ムーヴをして、怒られると逆ギレするんですかね??

 いや、それにしても、覗き魔やストーカーが何人居ても、「粗」を出さない殿下は怖すぎます。たまには恥ずかしいことして我々に笑いを提供してくれてもいいのに……そういうエピソード、本当にないんですよね……「完成の極致」、恐るべし。

 

 更に何が恐ろしいといって、別に覗き魔は一人ではないということです。

例えば、前回の第六回でご紹介した殿下の弟、アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公。

第五回で少し解説しましたが、アレクサンドル大公は4月4日(ユリウス暦)にニースに着いたものの、翌5日早朝に殿下が発作を起こして半身麻痺をはじめとする重篤な症状に見舞われたこともあり、なかなか病室に入れて貰えなかったようです。それだけなのであれば、「さぞもどかしかったろう、可哀想に!」となりますが、問題はそのときの記述です。

 曰く、『ずっと隣の応接室にいましたが、彼の苦しげな呻き声が時々聞こえて、酷く不安な気持ちになりました』。苦しむ殿下は哀れですし、何もできずもどかしい思いを抱える大公も可哀想です。

問題は次。『医師たちに止められていたので、布製の衝立から覗くベッドの端と、彼の足を見続けることしかできませんでした』。それは……それはどうなんですかね!? 覗き一歩手前では? いや、リヒテル大佐のエピソードのインパクトが強すぎて感覚が麻痺っているだけで、実際覗きでは?? 本人に悪意が全く無かったとしても、自分の見えない所から一日中自分の足を見てる弟、イヤでは?? 少なくともわたしだったらイヤですが……。

 

 それにしても、布製の衝立、活躍しすぎです。これが演劇やオペラなら、リブレットに絶対指定してあるやつですよ(舞台芸術脳)。寧ろこんなものがあるから覗きの概念が発生しているのでは?

思い返せば、当記事最初のエピソードで殿下の寝室をご紹介しましたね。これは冬宮のものであり、ニースのディースバッハ荘やベルモン荘のものではありませんが、確かに冬宮の方でも布製の衝立がありました。当時はベッドの周りをこちらで遮断する風習があったのかもしれません。

 

 他にも覗き事件はあります。いや、あっちゃだめだと思うんですけど。

殿下は、3月29日(ユリウス暦)にベルモン荘という三階建てのお屋敷に越し、そこで生を終えることになりますが、この建物の二階に滞在していたことがわかっています。

 ベルモン荘は、元々母皇后が滞在していたお屋敷でしたが、母皇后はお向かいの「ペイヨン荘」という建物に移り、殿下の見舞いに来た皇族の一部や側近たちもこちらに滞在していました。しかし、母皇后の女官であるフレデリクス男爵夫人はベルモン荘に滞在し続け、この建物の三階の、殿下の真上の部屋に住んでいたようです。

 これまでに何度もお話してきましたように、殿下は末期の髄膜炎を患っていたにもかかわらず、日中は鋼の意思で無理に無理を重ね、笑顔で政務をこなし、愛想良く快活に振る舞っていました。

しかし、夜になると我慢の限界が来て、青い顔で横たわり、一人泣きながら激痛に耐えていたといいます。可哀想なことに、一睡もできずに苦しむことも稀ではなかったとか。

……ちょっと待って下さい、他人に己の苦痛を見せたがらない殿下が、自ら「昨日は苦しくて一睡もできなくて……」なんて言うはずがありませんよね。であるのにも関わらず、何故我々は彼が夜に苦しみ眠れなかったことを知っているのでしょうか。

 もうおわかりですね、それは「密告者」がいるからです。殿下の真上の部屋に滞在していたフレデリクス男爵夫人は言います。

『夜毎に階下の皇太子の部屋から、苦しげな呻き声、喘ぎ声、付き人のコスティンに助けを求める小さな掠れ声がよく聞こえていました。それは朝まで続くこともありました』。

ベルモン荘、音漏れ激しすぎません? ていうか、男爵夫人、古戸ヱリカか何かなんですかね!?(サウンドノベルうみねこのなく頃に』のキャラクター。エピソード5では、一晩中隣室で耳を欹てて主人公の寝息を聞くという奇行を成し遂げる)。

 

 尚、この殿下が助けを求めていたという「コスティン(Костин)」という男性は、殿下の世話係で、彼が7歳の頃からずっと殿下に付き従った、最古参の従僕であり、初めての男性の側近であると言われています。国内・国外旅行にも同行していたようです。

 とても心優しい老人で、殿下に限りなく忠実に仕え、彼からもこれ以上無く深く信頼されているように見えます。そんな彼にだけは、殿下も己の苦痛を隠そうとしなかったようです。

 老僕コスティンは、フレデリクス男爵夫人が「夜の殿下の様子」について理解していると知り、彼女に涙ながらに「男爵夫人閣下、大公は容態が悪いんです、それも酷く悪いんです! 彼は夜はいつも眠れず、苦痛に涙を零しながら、誰からも見放され、一人孤独に、恐ろしいほど苦しんでいるんです(«Ваше превосходительство, плохо Великому Князю, очень плохо! Он страшно страдает, ночи не спит, часто плачет, и все один, покинутый всеми.»)」と訴え、助けを求めたこともあります。

いやあのほんと……闘病中の夜の殿下の記録、全部がしんどすぎてリサーチの度に釣られ泣きしそうなのですが……。殿下の日中の「演技」が完璧すぎて、実態を知っているはずの後世の我々すら騙されます。本当はずっと苦しんでいたんですよね。

 

 実際のところ、後世で資料を読んでいるわたくしからすると、殿下の「演技」には穴があります。幾ら振る舞いに気を遣っていても、病の兆候を示す身体の変化は隠し切れていません。

64年7月のスケフェニンフェン滞在中は精神的にも参っていて、メシチェルスキー公に希死念慮を打ち明けたエピソードは第五回でもご紹介しましたが、実は約2ヶ月前の4月末、殿下は自宅(冬宮)で突然倒れてしまっています。3日後にはまた日常生活に戻ったものの、側近に体調を尋ねられると、「気分が悪い……(Неважно...)」と返していたそうです。

 

 また、それ以降の殿下は「尽き掛けの蝋燭が溶けるように(メシチェルスキー公談/64年7月)」「枯れ木のように(フレデリクス男爵夫人談/65年3月)」窶れていたといいます。

同夫人によれば、足取りはふらついていて、顔は青白く、支えなしには数分すら立っていられなかったと言います。しかし殿下は、そんな状態でも、亡くなる直前まで正装して外に出ていました。よく「ニースで療養」と書かれますけれど、実際のところ「療養」していたかというと怪しいところです。

 シェレメチェフ伯の言葉を借りるなら、「何故そのようなことが許された」のでしょうか? 老僕コスティンの言う、「誰からも見放されていた」とはどういうことなのでしょうか?

幾ら本人が気丈に振る舞っているとは言っても、普通、どう考えたってそんな状態の人間に無理させませんよね。縛り付けてでも休養させますよね。常軌を逸していると言っても全く過言ではないと思います。

 

 思うに、これが殿下の「能力」の弊害なのかな、という気が致します。

恐ろしいほどの才能に恵まれ、「完成の極致」と呼び慕われ、あらゆる人から愛された殿下は、その分、重たい期待を背負い込んでいました。「この人であれば我々を救って下さるに違いない」という「信仰」は、殿下の身体の不調から盲目にし、殿下だって不死身ではない一人の人間であるという当たり前の事実から目を背けさせることになったのではないかと思います。

それにしたって……、という感じですが、事実、殿下の不調に言及しているのは、苦しんでいる様を目に、耳にした老僕コスティンとフレデリクス男爵夫人、殿下に希死念慮を相談されたメシチェルスキー公爵など、ごく少数に限られる上に、いずれも実際に殿下の不調を目撃しているという共通項があります。

殿下が亡くなった後、死因解明の一環として責任の擦り付け合いのような醜い争いも多少あったのですが、いずれにせよ、全てが手遅れになってからの話でした。それまで、彼らは殿下の不調に全く気付かず、或いは無意識にも「気付かないふり」をしていたわけです。

 

 老僕コスティンやメシチェルスキー公らは、殿下の不調に気付いていましたし、それを皇帝など権力ある人に伝えようと努力もしていました。

しかし、いずれも失敗したのは、何よりも当の本人である殿下が口止めしていたからです。確かに、殿下が患っていた髄膜炎は当時全くの不治の病で、無意味な「治療」を施されるだけ苦痛が増すだけですし、誰にもどうにもできる問題ではありませんでした。

しかし、側近や医師までもが、亡くなる数日前まで彼が苦痛に喘いでいたことすら知らないというのは、正気の沙汰ではありません

 

 殿下の同時代人である音楽家フランツ・リストは、「天才は人々の為に奉仕する義務がある」という名言を残していますが、それを正しく体現していた我らが殿下は、夜に一人で苦痛を泣いて耐えるしかなかったわけです。

 ニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子殿下は、類い稀なその能力と魅力で、同時代人に希望という名の魔法を掛けた天才でした。しかし、その裏には文字通り血の滲むような努力があったことは、もっと知られても良い事実だと思っています。

 

第八の限界同担

 お疲れ様です!!限界同担たちのご紹介は以上となるのですが、お楽しみ頂けましたでしょうか。

いや、しかしですね、翻訳という形で他人の推し語りを書いているとウズウズしてしまってですね、更に最後に少し悲しい話まで書いてしまい、お口直しがてらに当シリーズを執筆して参ったわたくしも推し語りしても宜しいでしょうか? しますね!!(問答無用)。

 

 別記事でもお話しておりますように、わたくしが殿下に出逢ったのは、所属している研究会でのリサーチ中です。

国の代表に扮し、その人の目線から国際政治について議論する活動をしているのですが、1914年7月の第一次世界大戦開戦時の会議で、ロシア帝国皇帝ニコライ2世役を賜り、彼の視点からこの問題を考えました。

 事前準備として、ロシア史、当時のロシア内政・外交、大臣の一覧や経済状況、ニコライ2世自身の日記など、多くの資料にあたり、検討したところ、一つわかったことがありました。そう、彼ではどうしたってロシア帝国は救えない、ということです。

「もし、このときにこういう行動をしていれば!」というターニングポイントは幾つかあります。しかし、「でもニコライ2世はこのような判断はしないだろうな……」という結論になってしまうんです。少なくとも、1914年7月から開始するのでは、絶対に救国は間に合わないということがわかりました。

 

 しかしそこで泣き寝入りするわけにも参りません。ではそれならばと、更に遡って検討を進め、どこまで時を遡ればロシア帝国は救われるのかと、ロシア史の資料をひっくり返しました。そこで辿り着いたのが、我らが殿下でした。

 ありとあらゆる分野で非凡な才能を発揮し、際立って聡明で、外見も魂も美しく、老若男女あらゆる階層から愛され、支持され、何よりも自国への愛と、統治に対するやる気がある

なるほど、「完成の極致」だとわたしも思いました。当時、役柄を演じる上で感情移入をしすぎて、「なんとかロシア帝国を救う方法を編み出さねば」と強迫観念じみた思考に取り憑かれていたので、漸く希望の光を見た思いでした。それは、今思えば、同時代人も同じだったのだろうと思います

 

 彼の痛悔を聞いた神父プリレジャーエフは、「この青年は聖人です(«Этот молодой человек - святой.»)」と叫びました。はい、仰る通りだと思います。

 教育責任者のストロガノフ伯爵は、殿下が亡くなった際、ただ一言、「全てが終わった(«Все кончено.»)」と言いました。その通りです。

 彼の教師の一人であるポベドノスツェフは、「しかし、皇太子のことをよく知る私達は、この喪失が全ての人にとってどのような意味を持つのかも痛切にわかります。彼の中には希望がありました……しかし神は私達からその希望を奪ってしまいました。私達はこれからどうなってしまうのでしょう?(«Но мы, знавшие его, всего сильнее чувствуем, что значит для всех потеря нашего царевича… На него была надежда — И эту надежду Бог взял у нас. Что с нами будет?»)」と書いています。後世から言わせて貰えば、滅びの道を征くしかありません。

 最後に、わたしは盲目的な希望が殿下の死を後押ししていると非難しましたが、そうなってしまうことは、わたし自身調べていてよくわかるなと感じました。

 

 調べているうちに、わたしもその「希望」を見せる殿下の魔法にあてられてしまい、いつの間にやら、所謂「推し」になっていました。本国にはメレンティエフ先生などの殿下を専門とする研究者もいますが、日本でここまで資料を集めているのもわたしくらいだと思います。

 

 それに、このシリーズを追いかけて下さった皆様ならご理解頂けたかと思いますが、殿下の資料、面白いですよね! 周りの人々が皆殿下に絆され、どんどん過激な愛を吐露し、行動に移していくので、読んでいて凄く楽しくて。

正しく「現実は小説よりも奇なり」と申しますか、「そうはならんやろ……」と思わず口に出してツッコみたくなってしまうようなエピソードばかりで、非常に興味深いのです。今回のシリーズで、その一端を見せられたのではないかと思います。

 

 更に言えば、わたしは心底殿下の統治を見てみたかったと思っているのですが、一方で、早逝してしまったからこそ、「もし殿下が……」から始まる無限の妄想が膨らみ、そこにも浪漫を感じることができるのではないかとおもうのです。

「実現しなかった希望」は、現実に於いては果ての無い絶望しか生み出しませんが、150年後を生きる我々としては、一歩引いて、一つの美しい物語として見ることもできなくはありません。

 

 わたしは実は専攻はフランス文学で、作家ヴィリエ・ド・リラダンを研究対象としていたのですが、彼に言わせれば、「至高の幸福とは、実現すると期待した夢にある」のだそうです。

「実現の必要は無く」「ただ、起こり得ると確信した、自身が思い描いた夢」。それを感じることが一番の幸せなのだと彼は説きます。

わたしはその思想を研究していたので、正しく、殿下のことだと思い当たりました。

同時代人たちは、殿下ならばこの国を救ってくれるはずだと期待・確信することで、ヴィリエの言う期待論を実践していたのだと感じました。それは、わたくしも然りなのです。

 

 このシリーズを通読して下さった方は、大分殿下の解像度も上がったのではないかな、と思います。殿下の素晴らしさが伝わっていれば、恐らく過去の同担の方々も喜んで下さるのではないかと思います。彼は今でも、我々の最高の希望です。

 

最後に

 通読ありがとうございました!! 16000字超です。

約2週間で駆け抜けた今シリーズ。シリーズを通してだと、約119000字になります。本当に長々とお付き合いありがとうございました!

 

 オタクには他人の推し語りからしか得られない栄養素があるので、お気軽に感想や質問等お寄せ頂けると嬉しいですね。ご紹介してきた人々の中で、「誰が一番ヤバい」とか、「どのエピソードが一番面白い」とか、忌憚なきご意見を伺いたい次第です。記事のコメント欄、TwitterのDM、マシュマロ、メール等、色々門戸は開いておりますので、是非とも宜しくお願い致します。

 

 「同担が同担を解説する」という、何とも意味の解しがたい、需要が全く見込めない自己満足シリーズのはずでしたが、意外なことに好意的なご感想を頂くこともあり、大変嬉しく思っております。ありがとうございます。

 ロシア語初学者ですし、主に翻訳などで至らぬ点などもあったかとは存じますが、楽しんでご覧になって頂けていれば幸いです。ついでに、殿下に興味を持って頂ければ筆者・オタク冥利に尽きます。

 

 今回は「殿下のことが好きすぎて、奇行に走る同担の記録を読む」というシリーズでしたが、今後また別の視点から殿下の姿を追っていければよいなと思っております。なんたって、「推し」なので!

 それでは、長くなったこのシリーズも、一抹の寂寥を抱きつつ、お開きとさせて頂きたいと思います。ありがとうございました!