世界観警察

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狡賢き「希望」 - 『RiME』考察2

 こんばんは、茅野です。

読書などのインプットも、執筆などのアウトプットも大好きなのですが、自宅にいるとアウトプットの方が能率が高いため、結局執筆ばかりしてしまいますね。読書は図書館や喫茶店の方が捗るタイプです。皆様は如何でしょうか。

 

 さて、今回は『RiME』考察の第二弾をお届けします。大変お待たせ致しました。大方リサーチは終えていますが、モチベーションが上がりきらず書くのを怠るという、いつものパターンですね。書けるときに書く!

↑ 第一弾はこちらから。考察に必要な情報について纏めています。

 

 第二弾では、作中でのパートナー的存在である「キツネ」を取り上げます。物語の序盤から終盤に掛けて登場し、常に主人公を導いてくれるこの動物。最後には、「真の姿」も露わになりますが、そもそも、このキャラクターにはどのような役割があるのか、そして何故この動物が選ばれたのか? 一緒に考えて参りましょう。

 当然ですが、考察記事ですのでネタバレをふんだんに含みます。それでは、お付き合いの程、宜しくお願い致します。

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制作チームの見解

「雄弁な作者の問題」

 『RiME』考察記事の投稿が遅れた理由の一つが、このゲームの考察を書く以上、避けられない問題があったからです。『RiME』は、言語性を排除したゲームで、様々な解釈が可能である一方で、「ゲームの外」で制作者が解釈を提示してしまっています

これは『RiME』に限った問題ではないのですが、作品の受容という観点では由々しき事態です。わたしはこれを「雄弁な作者の問題」と名付け、一筆やらせて頂きました。ケーススタディの2では、『RiME』を取り上げています。

 自分の作品について語りたい気持ちはよくわかりますが、制作者が己の表現したかったこと、表現しきれなかったことを「作品外」で喋ってしまうことにより、その他の解釈の可能性が排除されてしまうことを危惧しています。制作者の発言には強い影響力がありますから、制作者の見解のみが「正解」として受容される危険性があるのです。それは、「作品の受容」として望ましいことではありません。

 従って、今記事では、「制作者の意図」と、「1プレイヤー、考察書きとしてのわたくし茅野の解釈」の二通りを提示します。その上で、ご覧になって下さったプレイヤーの皆様の、ご自身の解釈の一助としてください。

 

「希望」たるキツネ

 以上を踏まえた上で、先に制作者の意図について確認します。制作会社 Tequila Works さんの代表、ラウル・ルビオ・ムナリス氏へのインタビュー記事から引用します。

 最初にご覧頂くのは、プレイヤーに「お前はキツネを殺したんだ!」と憤慨されたというラウル氏の反駁です。

"No! You created the fox, Nana, and the fox has fulfilled her duty to you. ​Her only purpose in life was giving you hope to accept your nature, and the nature of the kid - a shade."

「いや! あなたがこのキツネ、ナナを作ったんだ。そしてキツネはあなたの為の唯一の使命を果たしたんだよ。彼女の唯一の使命は、あなたの姿、そして子供の本来の姿である影を受け入れる希望を持たせることだったんだ」。

      - Rime and reason: beneath the meaning of Tequila Work's artful wonder

 ガッツリ使命が語られています。制作チームの見解では、キツネは見ての通り主人公のガイド役であること、即ち、真の主人公たる父が喪失の絶望を受け入れる為のガイド役であることがわかります。

 また、キツネの名前がナナ(Nanaであるということ、メスである(she/her表記)ということも明かされます。

 

 次にご覧頂くのは、エンディングについての解説です。

You unlock the door to your son's room and look around at the mementos maybe you collected in the game, and the cuddly fox, the representation of the mother in the game, Hope - with the father, the hooded figure, being Guilt, and the boy Loss. 

あなたは息子の部屋の扉を開け、作中で集めたものを見回し、そして「希望」(作中での母)を示すキツネのぬいぐるみ、「罪悪感」(作中でのフードの男)を示す父親、そして「喪失」たる少年を見つけるはずです。

                                   (〃)

 ここから、キツネの現実世界での姿は、恐らくは少年が可愛がっていたのだろうキツネのぬいぐるみ(cuddly fox)であることがわかります。また、作中では、母親を示すということも提示されます。

 4つの白い影に触れるとエンディングが変化し、女性の亡霊が現れることから、この女性=影は、少年の母(父の妻)であること、そして恐らくは故人であることがわかります。

前回の記事で解説したように『RiME』のストーリーのベースには、『En La Profundidad Del Abismo(深淵の中へ)』という作品があると想定されます。この作品では、水難事故から唯一生還したのは父親のみで、妻、そして子供達は全員溺死してしまったことが示されています。『RiME』では、ムービーを見る限り、嵐の夜に船に乗っていたのは少年と父のみと考えられるため、母(妻)は既に亡くなっていたのでしょう。従って、『RiME』の少年一家は父子家庭であり、少年の死をもって、父は完全に孤独になってしまったと推測できます。

 

 インタビューでキツネ(ナナ)の話が為されるのは上記くらいで、何故「キツネ」という動物が選ばれたのか等については明かされません。次節では、この動物が持つ寓意性について考えます。

 

キツネの寓意性

キツネと少年

 キツネは雑食性なことから、都市部にも進出する動物で、古来より人間とも関わりがあった動物です。知能が高いことで知られ、各国の慣用句を見比べても、それを人間がが認知していたことが伺えます。

 

 「キツネと少年」という組み合わせを考える時、真っ先に思い浮かぶのは、やはり世界的に愛されるサン=テックス(アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ)の傑作、『Le Petit Prince星の王子さま)』ではないでしょうか。

 最近、別のゲームで『Le Petit Prince星の王子さま)』のイベントをやっていて、折角なので、久々に「マラソン(関連する作品を片っ端から履修する)」を開催しました。その際、キツネに纏わる論説を色々読み、副産物的にこの記事を書いております。何がどう繋がるかわかりませんね。

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↑ 『RiME』に登場するキツネ、ナナ。

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↑ 『Le Petit Prince』のキツネ。

 尤も、Le Petit Prince』に登場するキツネは、キツネというより実際は、著者サン=テックス自身が飼い馴らそうとしていたという耳の長いフェネックであると考えられているのですが、原文(フランス語)では "renard" と、「キツネ」を示す語が使われていることからも、「キツネ」として翻訳され、認知されています。

 

 『Le Petit Prince』ほど多様な解釈ができる作品も少なく、それが傑作たる由縁の一つとなっていることはご存じの通りです。勿論、「キツネ」に関する解釈も割れています。

 一方では、王子さまに沢山のこと、特に作中で最も愛される名言の一つ、「大切なことは目に見えない(L'essentiel est invisible pour les yeux.)」ということを教えてくれる「友達」として、好意的に解釈されていました。

他方、キツネ側からは一度も王子を「友達」だと表現しないこと、「飼い馴らす(apprivoiser)」という奇妙な単語を用いることなどから、言葉巧みに王子さまを誑かし、自殺に誘った悪者だ、という解釈も存在します。

これは『Le Petit Prince』の記事ではないので、これ以上の深入りはしませんが、このように、正反対の解釈が可能なのです。

 

 『Le Petit Prince』のみならず、サン=テックス作品を考える場合、キリスト教との関連、著者の経験を把握することなど、背景を読み解くのに必要なものは多岐にわたります。この作品に登場するキツネの場合、最初に登場するのが「林檎の木の下」という点、別の動物の主要登場人物が「ヘビ」であるという事などからも、旧約聖書との関連が伺えます

表面的には優しいキツネですが、背景にあるものを考えると、全面的に悪者だとは言い切れないものの、どうにも素直に受け取れない影のあるキャラクターのように思われます。少なくとも、サン=テックスは主要登場人物としてこの動物を選んだこと、そして彼の言い回しから、一筋縄ではいかない影のある印象を与えようとしているのではないかと推測できます。

 

 では、一方で、我らが『RiME』のナナちゃんは如何でしょうか。『Le Petit Prince』のキツネに於ける敵対的解釈のように、ナナも、考えようによっては、最終的に少年を「投身自殺」に導く悪の存在と捉えることも不可能ではありません。この解釈は妥当なのでしょうか。それ以外にどのような可能性が考えられるでしょうか。

次項では、制作会社のあるスペインに於ける「キツネ」を考えます。

 

スペインに於ける「キツネ」

 日本に於いて最も有名なキツネといえば、新美南吉の傑作『ごんぎつね』で間違いないでしょう。小学四年生の国語の教科書に載っていることからも、国民的文学として知られ、特に最後の「ごん、おまえだったのか。いつも、栗をくれたのは。」は広く知られた名文です。

 日本でも、知性溢れる動物、中でも、狡賢い動物として描かれてきたキツネ。しかし、それは日本に限ったことなのでしょうか?

 

 先程挙げたサン=テックスの『Le Petit Prince』は、フランス文学の傑作として知られています。勿論、フランス語で書かれた作品です。しかし、当時著者サン=テックスは第二次世界大戦の影響でアメリカに疎開しており、この作品は英語版と同時にアメリカで初出版されています。

 

 土田知則先生の『『星の王子さま』再読』に詳しいですが、フランスでも、「キツネは狡賢い」という印象が持たれていたようです。

↑ サクッと読めてグッと理解が深まります。オススメ。

 この書籍の中では、フランス語に於ける、キツネに関する膨大な量の慣用句が挙げられていますが、ここでは最初の一つを見てみましょう。

 フランス語の慣用句、«rusé comme un renard» は、日本語だと「キツネのように狡賢い」になりますこれは英語の «cunning as a fox» に相当することから、英語圏でも同じ認識であったことがわかります。

 イギリスでは、キツネはよく街中に現れて悪さをする動物の例として頻繁に登場します。例えば、過去にわたくしも考察対象として扱ったことのある傑作ゲーム『Everybody's Gone to the Rapture(幸福な消失)』の Chapter 5 では、主人公の一人であるスティーヴンが、以下のような独白をします。個人的にも大好きなモノローグなので、長くなりますが引用させてください。

Stephen: When I was a kid,

                my Dad found a fox

                It'd been hit by a car, and couldn't walk anymore.

                My mum went spare of course,

                made him keep it in the shed.

                He was already slipping away from us then.

                He spent hours with that fox,

                telling it all about Italy and the villages they bombed there.

                I was... I was jealous I think.

                That the fox got more of my Dad than I did.

                But it was dying, that was clear.

                So one day, I snuck out, took it a sandwich, for food.

                I was only eight.

                When it bit me, I remember the anger, the shock, the hurt,

                running in screaming from the garden, my Mum panicking about rabies.

                My Dad beat it to death with a spade.

                Later I found him crying.

                "It dunna ken, son",

                that's what he said,

                " It dunna ken it was hurting you.

                It's just a poor, dumb, dying animal".

ティーブン:子供の時 父さんがキツネを見つけた

       車にひかれて 歩けなくなっていた

       もちろん母さんはひどく怒って 小屋に入れさせた

       父さんはその頃よそよそしかった

       何時間もキツネと過ごして爆撃した村のことを聞かせていた

       僕は… 嫉妬していたんだろう

       僕以上に父さんと過ごしていたから

       キツネは 死にかけてた

       ある日 ぼくはこっそりそいつにサンドイッチを持って行った

       まだ8歳だった

       噛み付かれて…

       体に怒りと痛みが走って…

       慌てて庭で叫んでいたら母さんがパニックになっていた

       父さんは鋤であいつを殴り殺した

       その後 泣いていた

       あいつは知らなかった そう言っていた

       お前を傷つけるなんて

       ただの弱ったかわいそうな動物だと

↑ 過去に全ダイアログを纏めています。このモノローグは、作中の状況を示す喩えとしてこれ以上なく優れており、最も感動的なものの一つです。

 『Everybody's Gone to the Rapture』に於いても、日本の『ごんぎつね』と同じく、一般的にキツネは狡賢い醜悪な動物という認知があり、嫌われ者であるとされた上で、善悪の判断がつかなかっただけの、弱った可哀想な生き物として描写されていることは注目に値します。また、『RiME』における主人公の少年は、8歳程度であるとインタビューで示されていますから、『~ Rapture』のスティーヴンもこのエピソードの際に8歳であったというのは、偶然ながらも興味深い一致です。『Le Petit Prince』も含めて、世界的に「キツネと少年」というモティーフは好まれる傾向があるようです。

 

 日本、フランス、イギリスでは、キツネは狡賢い動物だという認知があることがわかりました。では、スペインではどうでしょうか。

 先程の「キツネのように狡賢い」という慣用句はスペイン語にも存在し、«astuto como un zorro» となります。オンライン辞書である WordReference の西英辞典で、スペイン語で「キツネ」を示す「zorro」を引いてみると、以下のような結果が出ます。

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名詞形(n=noun)では「fox(キツネ)」を表しますが、形容詞形(adj=adjective)では、«crafty» «cunning» «sly» と、何れも「狡賢い」を意味することがわかります。

つまり、スペイン語圏に於いても、「キツネは狡賢い」という認知があることがわかります。言語性を排除したこのゲームに於いて、「キツネは狡賢い」という認知が世界中にある、ということは重要な意味を持つのではないでしょうか。

 

 他にも根拠を指し示すことができます。前述のように、スペイン語で「キツネ」は «zorro» です。「ゾロ」と言えば、やはり、アメリカの作家ジョンストン・マッカレーの小説『怪傑ゾロ』、及びその映像化作品でしょう。

 或いは、日本の児童文学として知られる原ゆたか著『かいけつゾロリの方が馴染みが深いかもしれません。

 いずれにせよ、「一風変わった優れた人物」「盗賊」「お尋ね者」「一方で正義の味方」という印象が、「キツネ」、特にのスペイン語である «zorro» には付きまとっている、と考えられます。

 

 以上を踏まえて、『RiME』のナナはどうでしょうか。

制作陣の意見では、純然たる「希望」の象徴であるキツネ、ナナ。しかし、我々プレイヤーは、ギミックを解除して封印されていた彼女を解放しますが、その唐突さ、そして最初に吠えられ、たじろぐ少年……という出逢いから、最初は少し不信感を抱くことになるのではないか、と思います。そのことに、彼女自身が「キツネ」であるということも一役買っていると考えられます。

 結局、物語の最後に、恐らくは少年がキツネのぬいぐるみを可愛がっていたことから、彼女が助けてくれたのだ……ということがわかりますが、そもそも、そのぬいぐるみにしたって、犬や猫でも良いわけです。であるにも関わらず、何故マイナスなイメージの付きまとう「キツネ」を選んだのか。そこには、やはり、「不信感」を忍ばせたいという意図があるのではないか、と考えてしまうのは、全くの見当違いではないはずです。

 今一度ストーリーを考え直しましょう。

少年の旅の目的は、父の喪失の苦しみを救い、自身(少年)の死を乗り越えて貰うことです。それに加え、既に故人となっており、死の世界の住人だったのであろう母という導き手を得て、旅を完遂させてゆきます。

しかし、特に「Chapter 2 - 怒り」で顕著ですが、父は少年の死を受け入れられません。無意識にも、少年の旅を妨害してゆきます。つまり、父にとって、少年の旅の進行は、最終的には救いに変わるにせよ、苦しいものなのです。それを導くキツネの存在は、作中当時では、害悪でしかありません。

 このように解釈すると、プレイヤーにとって不信感を抱かざるを得ない「キツネ」という存在は、最初から、その存在そのものによって、不快感を指し示すものとして暗示されていたのではないか、と読めます。それは、自身も亡くなってしまったことからも、仲良くなり、導かれてゆく少年ではなく、現世にあり、喪失に嘆き悲しむ父にとっての「不快感」であると、最初から気付くのは至難の業でしょう。しかし、その一抹の違和感を与えておくことで、物語の布石とする、そういう風にも読めるのではないでしょうか。

 これはあくまで解釈の一つであり、色々な読み方ができると思います。皆様はどうお考えになるでしょうか。

 

最後に

 通読ありがとうございました。短く纏めるつもりが、またもや8000字……。いつもながら長文ばかり書いております。

今回は、主要登場人物であるナナを、「キツネ」という動物に於ける寓意性という軸に沿って考えて参りました。第三回となる次回は、少年の命を奪った「海」について深掘りしていこうと考えております。

 それでは、お開きとさせて頂きます。次の記事でお会いしましょう!

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