世界観警察

架空の世界を護るために

言葉が死ぬとき、めざめる世界がある - 寺山修司『星の王子さま』

 こんばんは、茅野です。

『Sky: Children of the Light』というゲームにて、「星の王子さまの季節」というイベントを開催しており、先日クリア致しました。

↑ レビュー記事。

 元々作者サン=テックス(アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ)には思い入れがありますが、これを機に『星の王子さま』に纏わる作品に色々触れてみよう! と思い立ちました。というわけで、今回は日本が誇る文豪、寺山修司による戯曲『星の王子さま』について考えます。お付き合いの程、宜しくお願い致します。

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↑ この戯曲集に収録されています。

 

 

寺山修司の問題意識

 一読すれば明らかなように、寺山修司の戯曲『星の王子さま』は、原作の愛らしいメルヘンティックさを除去した、生々しく、グロテスクな作品です。この作品にこの題を付けること自体が冒涜にあたりそうな程ですが、その理由について、彼は冒頭で以下のように述べています。

「何百万の星のどれかに咲いているたった一輪の花をながめるだけでしあわせだ」とサン・テグジュペリ星の王子さまは言っている。だが「見えないものを見る」という哲学が、「見えるものを見ない」ことによって幸福論の緒口をつなごうとしているのだとしたら、私たちは「見てしまった」多くの歴史と、どのようにかかわらなければならないのだろうか?

「大人になった星の王子さまは、何になると思う?」と問いかける度に、女学生たちはいやな顔をした。「星の王子さまは大人になんかならずに、永遠に王子さまのままでいる」と、彼女たちは思いこみたいことだろう。

だが、星の王子さまの大人になってしまった無残な姿はあちこちに見出される。浅草の銭湯の番台や、自衛隊宿舎や、大学の共闘会議や、ゲイバーの片隅に。そしてこうした星の王子さま」を捨ててきた人たち、「見えるものを見てしまった」人たちが、もっとも深く現実原則と心的な力との葛藤になやみながら歴史を変えてゆく力になってゆくのである

私はこの戯曲で復讐をしたいと思った。「星の王子さま」にではなく、「星の王子さま」を愛読した私自身の少年時代に、である。私は、今やバオバブの木に棲む一人である。そして、夜になると出て行って花を食べるヒツジに化ける。

           (『戯曲 毛皮のマリー 血は立ったまま眠っている』 p.216)

 「大人になった星の王子さま」については、多くの読者や文学者が好み、頭を捻った題材でしょう。寺山修司は現代(当時)の地位が低かった人々の中にこの児童文学を見出した点で先駆的であったと言えそうです。

 『星の王子さま』は、伝統的な読み方をすれば、作者サン=テックスと妻コンスエロの関係を王子さまとバラに当て嵌めて読むのが一般的ですが、作者と作品を切り離した読みは当時台頭した受容理論に通ずるところがあります。あくまで物語で描写されるものだけを注視するのであれば、王子さまの「その後」について疑問が湧くのも当然のことです。

 

 確かに、王子さまの「現実を直視せず、想像の世界で理想を描く幸福論」は理想主義的すぎ、「汚いものを見ないというエゴイズム」が多分に含まれますし、汚い現実を生きる我々は、この汚泥を完全に排斥することは叶わず、どうにか折り合いを付けなければなりません。寺山はこの問題に真っ正面から戦ったと言えます。

 作中特に衝撃的なのは、「王子さまは風呂に入るか」「排泄はどこでするのか」「性行為の経験はないのか」と言うような、現実的な疑問が放たれる点です。王子さまが現実を生きるのであれば必ず直面する問題ですが、原作は児童文学ですから、この問いには答えてくれません。寺山は、この作品が現代に通用するというのならば、その現実と理想の折り合いの付け方を証明してみせろ、と喝破します。

 

性の問題

 戯曲『星の王子さま』の登場人物は、同性愛者(レズビアン)、殺人犯、精神異常者と、当時地位が低かった人々を中心としています(現代では、この三つを同列に並べることは人権侵害も甚だしいのですが、当時の認識として)。

 レズビアンが中心となるのは、は前掲の序文に「女学生」の話が登場するように、女性の方がメルヘンティックなものを愛好する理想主義者だろうという考えに基づくと考えられます。ちなみに、現代の恋愛心理学では、男性の方が手に入らない理想を追い求める傾向が強いという統計が示されているそうですが、それはさておき。

 

 レズビアンや異性装(男装)をしている登場人物たちが大半である中で、点子が父(男性性)を求めている、というのは示唆的です。思えば、サン=テックスも幼少期に父を亡くしており、そこに『星の王子さま』のウワバミなどとエディプス・コンプレックスを重ねる読みは、既に山中哲夫先生が行っています。

↑ 個人的には所々穿った読みをしすぎだろうと感じますが、一つの解釈としては興味深いです。

 

メタ性について

 フランス文学に於いては、アンドレ・ジッドが先駆的役割を担った「メタ性」の概念。世界中で愛好されるフランス文学を基とするこの作品に於いても、このメタ性の概念が強調されます。

 最後には観客"役"が口を開き、役者が役名ではなく己の名を名乗り、舞台が崩落します。登場人物たちに「これが芝居である」という認知がある、正にメタ性の概念です。20世紀中頃に流行したこの手法ですが、特に戯曲・演劇の分野では顕著です。

 

 この作品に於けるメタ性はそれだけに留まらず、例えば点子の「ママ」が「パパ」を演じるというような、劇中劇、入れ子構造をしている点にも見受けられます。これはフランス演劇ならばモリエールなどの古典喜劇に非常によく見られる構造で、それを踏襲していると考えられます。

 

メッセージ性

 舞台の上ですら作品をメタ的に「破壊」した寺山版『星の王子さま』。なるほど、これは大々的な「復讐」と言えそうです。しかしながら、最後に行われる合唱の歌詞をよく見てみると、原作に通ずるメッセージを読み取ることができます。

(前略)

言葉が

死ぬとき

めざめる

世界がある

 

お芝居は

終っても

夜空は

終らない

なんとも魂を揺さぶる詩的な句です。

この前パラグラフを読み、この作品が『星の王子さま』であると考えるとき、脳裏に過ぎるのは原作第八章の以下の描写ではないでしょうか。

Il avait pris au sérieux des mots sans importance, et était devenu très malheureux. ...

彼(王子さま)は取るにたらない言葉を真に受けて、大変気が滅入っていた。(中略)
« Je n’ai alors rien su comprendre ! J’aurais dû la juger sur les actes et non sur les mots. ...

「ぼくは何もわかってなかった! バラの言葉じゃなくて、行動で判断するべきだったんだ。(後略)」

正に、この描写こそが、「言葉が 死ぬとき めざめる 世界がある」という詩と合致するのではないでしょうか。更に、後の「お芝居が 終っても 夜空は 終らない」という部分も、それがこの芝居に限ったものではなく、現実世界にも続いているのだと解釈できます。

 豆電球で彩られた紛い物の舞台セットは作中で瓦解します。そして現れるのは劇場の外に広がる大空です。作中では、お芝居が終っても、自分という台本のない演劇は続いてゆくのだと言います。しかし、「現実」という夜空はどこまでも続いています。これが一つ目の解釈です。次点として、寺山版のウワバミは真っ昼間に紛い物の「夜空」を愛でています。「終らない」という語からは、その紛い物の夜も終わらないと解釈することもできます。原作の最後に、王子さまが旅立って行った「夜空」は、紛い物の空と現実の空、どちらに広がっているのか。それこそ、読者(観客)それぞれが、「王子さまのいる空」を求めるのか、「王子さまのいない空」を求めるのかで変わってくるものなのでしょう。

 

 寺山修司は『星の王子さま』を愛読した己の少年時代を糾弾するつもりでこの戯曲を書いたと公言していますが、最後にこの詩を挿入することによって、原作『星の王子さま』で描かれる最も重要なメッセージである「言葉ではなく行動で判断する」「大切なものは目に見えない」ということを直接的に表していると考えられるのではないでしょうか。寺山版では「王子さまがバラとの関係に悩み、旅をする」というメインストーリーがごっそり削られています。では、何がこの作品を『星の王子さま』たらしめているのか。そう考えたとき、このメッセージ性がそれにあたるのではないかと考えます。

 

童話を現実的に解釈する危険性

 最後に、原作を含めたわたくし個人の解釈と感想を少し述べたいと思います。寺山は、『星の王子さま』に排泄や性行為といった現実的な問題をぶつけています。これは、あくまで空想的で理想的な世界にのみ幸福を見出そうとする原作に対する強烈なアンチテーゼであり、その試みは功を奏していると言えるでしょう。しかしながら、そういった無闇に冷笑的な態度が賞賛されうるか、と言えば、返答は厳しいものにならざるを得ません。

 そもそも、『星の王子さま』は児童を中心に読まれることを想定して書かれた作品であり、排泄だ性行為だという描写は原則的に歓迎されるものではありません。又、「如何に現実と折り合いを付けるのか」ということについても、サン=テックス自身の思想は他作品で明瞭に描写されています。確かに『星の王子さま』という作品に於いては宙ぶらりんに思えても、他作品を併せて読むことである程度補えるのではないでしょうか。例えば、『戦う操縦士』では、自身が戦争へ向かう際の信条などについて熱の篭もった文章が綴られています。寺山の言う「見てしまったもの(汚いもの)」の筆頭格にあたるであろう「戦争」を、『星の王子さま』で綴った思想と両立させながら、サン=テックス自身は生きていると言えます。

 寺山は、作品自体ではなく、「この作品を愛読した己の少年時代に」復讐したいと述べています。寺山少年は、無邪気にこの作品の思想に傾倒し、そして後になって、そのことを恥ずかしくおもったのでしょうか。確かに、何度も述べております通り、『星の王子さま』は現実との折り合いの付け方について教授してくれる作品ではありません。しかし、その美しい物語、含蓄溢れる言葉は世界中の人々を魅了し、寺山少年もその一人だったのでしょう。そのことを無闇に否定するのは、少し寂しいことなのではないかとおもってしまいます。それは正に、サン=テックスが描く「大人になる」という悪例をなぞっているかのようです。

 原作の対象層や中心となるメッセージ性を考える時、寺山の指摘や批判は、少し意地の悪いものに思えます。しかしながら、寺山版『星の王子さま』が性の問題やメタ性を筆頭に、技巧の凝らされた戯曲であり、原作の強烈なアンチテーゼとして興味深い作品であることには変わりないでしょう。

 

最後に

 通読お疲れ様で御座いました。5000字弱です。

弊ブログでは、文学作品は解説や時代考証の検証などの記事を中心としており、真っ当なレビューを書くのはほぼ初めてと言っても良い有様なので、このような書き方でよいのかどうか不安ですが、お楽しみ頂けていれば幸いです。

 今後は、暫く『星の王子さま』関連の論文や書籍を読み込みながら、派生作品について検討していく記事を連載しようと考えています。引き続きお付き合い頂ければ幸いです。

 それではお開きとさせて頂きます。ありがとうございました。