世界観警察

架空の世界を護るために

雄弁な作者の問題 - ゲーム考察に於ける受容理論

 おはようございます、茅野です。

皆様ご承知のように、わたくし普段マイナージャンルを根城にする考察書きですが、珍しく書いた先日のメジャージャンル考察記事がそれは見事にバズりまして、メジャージャンルの底力を実感しております。尤も、どの記事も同程度の熱、愛を込めて検証、リサーチ、執筆していますから、題材の知名度によってこうも大きく左右されるのか、という一抹の寂寥の胸に抱きつつ。

↑ 鬼神の如くバズった記事。Twitterでは万バズ、はてなブログの週間人気記事ランキングでは5位を賜りました。ありがとうございます!

 

 さて、今回もゲーム考察に纏わるお話ですが、より包括的且つ根本的な話になります。一年ほど前にこのような記事を書きました。

ゲーム考察を始めたい! が、何をしたらいいのかよくわからない! という入門者の為に執筆した、ガイドのような何かです。

 その中で、このようなことを書きました。

 又、ゲーム外情報に関して、考察勢の間でも大きく意見が割れる問題があります。それは「没データ」「作者インタビュー」の扱いです。これを考察に組み込むか否か、というのは、最終的に個人の好みの話にまでなります。ご利用は計画的に。

ゲーム考察を考察する - ゲーム考察入門書

 と、この記事では「個人の好み」なんて丸投げしておりますが、本当にそれでよいのか? 断じて否! というわけで、今回はこの「作品外の作者の言説」の運用について、文学の世界で行われた議論を援用しつつ、掘り下げてみようとおもいます。それでは、お付き合い宜しくお願い致します。

 

 

受容理論とはなにか

 文学研究の世界では、「作品外の作者の言説」「作者が主体となる理解」の問題は前世紀から取り上げられていました。これらに関する理論を、「受容理論(Reception Theory)」と言います。

 「受容理論」とはなんでしょうか。受容理論研究の大家 R. C. ホルブは、「作者と作品からテクストと読者へと移行してゆく関心の一般的傾向を指す」と定義付けています。つまり、テクストをどう受け取るか、という読者主体の考え方です。彼は言います。

受容は、コミュニケイションの過程の裏側を形成する。文学的テクストを読み、理解することは、その生産と同様、社会的行為と見做すことができる

『「空白」を読む』 - 頸草書房 - p. 172

 20世紀中頃までは、芸術作品の主体は作者であると考えられてきました。作者が何を考え、何を表現したかったのか、そこに力点が置かれていました。しかしながら、ドイツのフランス文学者ハンス・ロベルト・ヤウスらは、それに反旗を翻し、作品の理解は読者が作る、即ち、主体は読者にある、と説きました。ヤウスらのこのような "挑発" は、多くの文学者の議論を呼ぶことになります。

 

ヤウスの「挑発」

 先に、ヤウスの主張を詳しく追ってみましょう。鏑矢となったのが、『挑発としての文学史』という論文です。

作者、作品、公衆という三角形のうち、公衆は受動的な部分であるばかりか、つまり単なる反応の連鎖をなしているのではなくて、逆に歴史形成のエネルギーにもなっている。文学作品の歴史的生命は、その受取人の能動的な参与なしには考えられない。すなわち、読者の仲介があって初めて、作品は、一種の連続を保ち、絶えず変化する経験の地平に入っていくのである。

『挑発としての文学史』 - 岩波現代文庫 - p. 31

 このように、彼は受取人、公衆、読者の存在を軽視しすぎている当時の文学受容の考えにメスを入れたのです。

 ヤウスは、考察・研究に対しても興味深い論述を行っています。彼は、古代ギリシアの「ポイエーシス」という概念を用い、これを説明します。曰く、「ひとの行為のうえになりたち、試行し検証することにより理解と生産を一体にするような行動形態のうえになりたつ認知行為」を「ポイエーシス」と定義付け、これを読者の役割の一つの柱としています。少々まどろっこしい言い回しですが、即ちこれが、文学研究やゲーム考察と同じことを指しているということがご理解頂けるのではないかとおもいます。

 ヤウスは、この「ポイエーシス」を、読者による作品の「再生産」ではなく、「完全さの創造」であると言います。作品とは、読者に受容され初めて完全になる、というわけです。

 

ヴォジチカの主張

 ヤウス以前よりこの手の研究自体は存在しましたし、特に有名なこのヤウスの「挑発」に対する批判や同調、研究も数多く存在するのですが、その中で、当項ではフェリックス・ヴォジチカの主張を取り上げます。

 フェリックス・ヴォジチカは、20世紀中頃に活躍した「プラハ学派」という構成主義の一学派に属するチェコの文学者です。プラハ学派の著名な研究者、ヤン・ムカジョフスキーの弟子であったことで知られています。

 ヴォジチカの主張で興味深いのは、読者の中でも、批評家の役割にスポットを当てた点です。曰く、「批評家の機能は、文学作品の具体化を定着させ、それを文学的な価値の体系のなかに取り込むことにある」と言います。ここでいう「具体化」とは、作品内で提示される抽象的な事物を明瞭化させる、というポーランドの哲学者ローマン・インガルデンの「不確定性」という議論に基づきます。

 「不確定性」をわかりやすく表現すると、例えば、「幼い子供がアイスクリームを食べています。」という文章があったとします。その場面の挿絵でも描くような気持ちで、今思い浮かべてみて下さい。その際、「幼い子供」とは3歳なのか? それとも8歳くらいか? 男の子か、女の子か? その場所は家の中か、それとも海辺なのか? 肌や髪の色、服装は? アイスクリームはバニラ味か? チョコレート味か? など、幾つもの「不確定性」があることがご理解頂けるかと思います。インガルデンが指しているのはこのことです。

 文学作品は、絵画や映画とは異なり、このような「不確定性」が数多く存在します。「不確定性」を「具体化」するときには、読者各々の経験や気分に大きく左右されます。ヴォジチカが言うには、乱暴にも概括すると、批評家の役割は、優れた解釈を提示し、その作品に於ける「不確定性」にある程度の終止符を打つことであると言うことです。

 

  ここで言う「批評家」とは、何もレヴュワーのみを指すのではなく、文学の研究者であるとか、ゲームの場合であれば考察勢だって含まれるでしょう。そう、我々に求められているのは、優れた解釈を提示すること。ゲーム考察の世界では、本業の研究者などは原則台頭し得ませんから、我々がしっかりするしかないのです。お互いに気合い入れていきましょう!

 

 「受容理論」の議論は深く、歴史あるものです。当節では、わかりやすさを重視してかなりざっくりと、横暴な纏め方をしているので、詳しくはこちらなどをお手にとって頂き、理解を深めて頂ければ幸いです。↓

 

理解できない芸術

 このような議論が発展した背景には、芸術作品そのものの推移があります。受容理論の主な論者が生まれたのは19世紀末からです。この頃の芸術は、段々と「理解できるもの」から「理解できないもの」へと変化していました。芸術の前衛化です。

 

 たとえば、わかりやすいので絵画で見てみましょう。こちらは現代フランスの大人気劇作家ヤスミナ・レザの戯曲『芸術 Art』の表紙です。白いキャンバス地に線が三本。

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 戯曲『芸術』では、この表紙になっている絵画を巡ってお話が展開します。主人公セルジュは、この「絵」を、日本円にして約2000万円で購入します。友人マルクにとっては、この「絵」に何の価値があるのか全く理解できません。多くの方にとって、マルクの意見の方が同調しやすいとおもいます。白いキャンバスに線が数本? なにそれ、そんなん俺でもできるだし……2000万とかバッカじゃねーの?…… と。

 

 一方で、こちらの絵は大変「わかりやすい」のではないでしょうか。スペインの大画家ホアキン・ソローリャの傑作『朝の光の中のバレンシアの浜辺』です。

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写実的でありながら、印象派をも思わせる波や砂の筆致、均整の取れた構図、淡い色使い、骨格等に全くの狂いがない人体の描写。何が描いてあるかもちゃんとわかるし、卓越した筆致は誰もが認めるところ。誰がどう見たって名画、つまり、わかりやすく傑作なのです。

 

 後者が、前者へと推移していく過程。そこにまさに「受容理論」の議論は花開きました。芸術に対する理解は可能か。そして、それを行う意義はあるのか理解できない芸術に価値はあるのか。そもそも芸術に於ける価値とは理解する主体とは誰か?…… これらの問いに真っ向から立ち向かったのが、「受容理論」なのです。

 

ケーススタディ1: 『アルマンス』

 さて、当節・次節では、実際の作品を取り上げ、ケーススタディ的に受容理論を紐解きます。当節では、文学作品『アルマンス』の問題点を取り上げ、次節では実際にゲーム作品での受容理論の適用を考えます。

 

 近代フランス恋愛文学の大家・スタンダールの傑作文学『アルマンス』。わたしが「好きな小説を10個挙げろ」と言われたら必ず入れるくらいには愛好している作品です。詳しくは過去の記事でも述べているのですが、今回も『アルマンス』をケーススタディとして用います。大好きなので。引き出しが少なくてすみません。

↑ 過去の記事。

 

 過去の記事『自殺論を考える』とも重複するのですが、改めてあらすじをご紹介します。

 青年貴族オクターヴ・ド・マリヴェールは、聡明で、一種影のある魅力を持った美青年だが、心に深い憂鬱を抱えており、社交を好まなかった。彼の従妹アルマンス・ド・ゾヒロフはロシア人の父を持つ美しい娘だが、財産がなかった。彼女は密かにオクターヴを愛していたし、人間ぎらいのオクターヴも彼女にだけは心を開いたが、オクターヴは己のとある「秘密」の為に決して人を愛すまいと決心していた。

 法改正により、オクターヴには莫大な財産が入ることになり、彼は社交界で注目を浴びることになる。アルマンスは財産目当てで彼に取り入っていると思われることを恐れ、彼を避けるようになる。その態度に傷ついたオクターヴは、既にアルマンスを愛してしまっていることを自覚し、卒倒する。

 些細なことでクレーヴロシュ侯爵と決闘することになったオクターヴは、勝利はするものの己も深手を負い、アルマンスの手当を受ける。死を覚悟し安心したオクターヴは、アルマンスに愛を告げるが、彼女の懸命な救命により一命を取り留める。

 オクターヴの両親は二人の結婚に同意するが、逆にそのことで「秘密」を抱えるオクターヴは悩み、絶望を募らせていく。アルマンスはそんな彼にかえって惹き付けられ、彼を励まし、どんなことでも受け入れることを誓う。そんな彼女に、オクターヴは手紙で「秘密」を打ち明けることを決心する。その折、オクターヴに嫉妬するシュヴァリエ・ド・ボニヴェとコマンドゥール・スービラーヌは、卑劣にもアルマンスの手紙を偽装し、オクターヴを愛していない旨の手紙を書く。それを読んだオクターヴはアルマンスの愛を疑い、投函するはずだった「秘密」を綴った手紙を破り捨ててしまう。

 オクターヴとアルマンスは結婚したが、その後すぐにオクターヴは戦地となっていたギリシアへ出征してしまう。彼はギリシアへ向かう船の中で砒素を仰ぎ息絶える。周りの者は皆病死であると考えたが、アルマンスただ一人は自殺であることを確信する。彼女は修道院に入る。

 わたしの拙い筆で魅力が伝わるものやら不安なのですが、これが実に素晴らしい小説なのです。1827年社交界の描写、如何にもロマン派らしい筋書き、スタンダールの醍醐味とも言うべき恋愛時の心理描写……。処女作ということもあり、課題がないわけではありませんが、スタンダールのエッセンスが凝縮された作品となっています。

 

 この筋書きを読んで、「オクターヴの秘密ってなんだろう?」と疑問に思われたのではないかと推察します。そう、わたしの考えでは、この『アルマンス』の最も優れた点は、最後までオクターヴの「秘密」が描写されないことにあるのです。つまり、インガルデンの言う、「不確定性」が顕著なのです。美しく、財産も知性も備え、恋も成就し、向かうところ敵無しとも思われるオクタ-ヴが、自殺にまで追い込まれるほどの「秘密」とはなんなのでしょう? そこには無限の想像の余地があります。これを「具体化」することこそが、読者それぞれの役割であると考えます。

 

 しかしながら、著者スタンダールは、著者が最も犯してはならない罪を犯しました。友人であり作家・翻訳家でもあるプロスペル・メリメへの手紙で、オクターヴの「秘密」の想定を打ち明けたのです。文学研究界は動揺しました。この手紙を、どのように扱うべきなのか

 従来の考えではこうでした。作中に提示されていなかろうと、作者がそう言っているのであれば、それは絶対的に、盲目的に正しいのだ、と。作者が思い描く世界こそが「正解」であって、それ以外は雑音に過ぎない、と。

 ヤウスらの意見に従うならば、全く逆であって、スタンダールの意見は切り捨てられて然るべきです。それは、「スタンダールが勝手に言っているだけ」。オクターヴの「秘密」は、著者が作中で提示しなかったのだから、我々読者にこそ考える権利と義務がある。幾ら想定があろうとも、それが作中で示されていない時点で、それはただの妄言だ、と。

 一方、ヴォジチカらの意見に従うならば更に解釈は変わってきます。著者は、書き手である一方で、最初の読者でもある。それは即ち、著者とは最も優れた解釈を生み出す個人でもあるということ。著者の「解釈」は、確定事項ではないにせよ、「具体化」の一例として、少なくとも尊重はされるべきである。

 

 勿論、この論争に決着はついていません。わたし個人としては、スタンダールの想定したオクターヴの「秘密」には納得できません。従って、ヤウスらを支持したい気持ちがあります。しかし一方で、ある程度尊重されるべき、というヴォジチカの意見が、落としどころとしてはよいのではないか、とも思います。あなたはどうお考えになりますか。

 

ケーススタディ2: 『RiME』

 最後に、実際にゲーム作品に適用して考えてみましょう。今回取り扱うのは、Tequila Works さんのインディーズゲーム、『RiME』です。

 『RiME』では、ぼつぼつ考察を書いているのですが、本格的なものを書く前に、先にこの話をしておきたくて。

 

 ゲーム『RiME』では、正に前節のスタンダールと同じミスを犯している、と感じました。ゲーム内で語られない事象を、インタビューで制作者が全部話してしまっているのです。考察勢としては、このインタビューの扱いをどうするか、という選択が求められています。この問題を、「受容理論」を応用して考えることはできないでしょうか。

 

 従来の考えでは、盲目的に制作者のインタビューを信じることが求められていました。ゲーム内に一切描写されない事柄であっても、です。

 ヤウスは、受容するプレイヤーにこそ解釈の権利がある、と説きました。作中で描写されぬものなど、無に等しい。無視したまえ。

 ヴォジチカは、プレイヤーの中でも批評家が、即ち、考察勢こそが優れた解釈を示すべきだ、と言いました。それが考察勢の役目なのだ、と。

 

 重ねますが、論争に決着はついていません。しかしながら、ゲーム考察にこの理論を適用する場合、信じ、ついてゆけばいい師は誰なのか、もう明白な気がします。解釈の自由は我らプレイヤーにあるその前提の元、制作者が作品外で述べたことは、参考にするに留め、プレイヤーが独自に解釈を構築すべきである。そのなかで、考察勢が世に広く受け入れられる、優れた説を提示することができたならば、それはそのゲーム受容史の中に記録されるべきである。これが、現段階に於けるわたしの「解釈」です。ご理解、共感を賜れるでしょうか……?

 

最後に

 通読ありがとうございました。7000字超です。

本論でも申し上げました通り、受容理論」の議論は複雑怪奇で、歴史も長いものです。それを滅茶苦茶に端折った上、蛮勇とも言うべき乱暴な概括をしています。従って、これを受容理論の要約として解すのは危険ですから、しっかりと「受容理論」について学びたい方は上記の参考文献などにあたって頂けると幸いです。こちらは、あくまでゲーム考察に適用するための必要最低限のみを記した入門編、と思って頂けると嬉しいです

 昨今では、どうもゲーム考察への敷居が下がったようで、「質より量」の時代になっているな、と感じます。考察勢の人口が増えること自体はよいことですが、クオリティを担保することも重要です。その際、ゲーム考察とはどうあるべきなのか、という根本的な議論を行う必要があると感じました。今回は、文学研究に於ける「受容理論」を検討し、適応可能性を見極めることを目的に執筆して参りました。アカデミックな研究の場で確立された、きちんとした土台がある議論ですから、きっと我らの世界でも礎になってくれる理論足り得ると信じています。わたしの「解釈」が、広く受け入れられ、受容史の一部になれば……なんて大それた夢を見て、この記事はお開きとしたいと思います。

 それでは、別の記事でまたお目にかかれれば幸いです。ありがとうございました。