世界観警察

架空の世界を護るために

愛ある懐柔 - 限界同担列伝2

 こんばんは、茅野です。

怒濤の勢いで、読み書きしています。そんなこんなで9月も終わりそうです。例年通りですね。

 

 さて、先日、新シリーズ「限界同担列伝」を始めてみました。ロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下(1843-65)の側近や友人には、彼のことが好きすぎて、奇行に走る人が余りにも多い! ということで、彼らの記録を読みながら、面白おかしく纏めていくシリーズです。

↑ 第一回はこちらから。画家アレクセイ・ボゴリューボフ篇です。

 

 第二回となる今回は、将軍パーヴェル・フリストフォロヴィチ・グラッベを取り上げます。前回よりも引用は少なめですが、その分一つ一つのエピソードが濃いです。また、今回は殿下自身が、恐らくは意図的に、相手を落とそうと本気を出してくるレアケース。いつもの人タラシに更に磨きが掛かっております。要注目です!

 

 今回の記事では、タチチェフ先生の学術歴史書アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公の幼少と青年時代(Детство И Юность Великого Князя Александра Александровича)と、メレンティエフ先生の博士論文『大改革時の帝位継承者の対ロシア認識の形成について(Формирование Представлений Наследников Престола О России В Эпоху Великих Реформ)』の二つから引用します。この二つは、わたくしが殿下のことを調べる上で最も参考にしている資料で、この二つがなければこの趣味は成立していなかったとさえ申し上げてもよいくらい重宝しています。特に後者は、論文が受理されたのが2018年のようなのですが、丁度わたくしが殿下という存在を知り、ドハマリしたのも同年9月ということで、謎の親近感を覚えております。メレンティエフ先生は、我らがニコライ殿下をメインに研究されているという、今世紀最大の供給クリエイター且つ最強の同担であり、深く尊敬しております。もっとロシア語力を磨いたら、メレンティエフ先生にファンレターを出すんだ……決めてるんだ……。がんばります!

 それでは始めて参ります。お付き合いの程宜しくお願い致します!

 

 

パーヴェル・フリストフォロヴィチ・グラッベ将軍

 まずは、今回の主人公となるグラッベ将軍とは如何なる人物かについて、軽くご説明します。

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1864年のグラッベ将軍。

 殿下とは真逆で、当時としては大変長生きした人物で、生まれは1789年。没年は1875年と、実に85歳まで生きました。今回ご紹介するエピソードは1863年のものになるので、当時は実に73歳ですね! ちなみに殿下は19歳です。うーん、孫……ですね……。

 

 「将軍」とご紹介していることから明白ですが、軍人です。グラッベ伯爵家に生まれ、祖国戦争(ナポレオン戦争)に始まり、第四次露土戦争ポーランド蜂起鎮圧、コーカサス戦争、ハンガリー革命鎮圧と、ロシア帝国の多くの戦争に参加しています。長く生きたことから、19世紀を代表する人々と多く面識があることも興味深いです。例えば、軍人で詩人のミハイル・ユーリエヴィチ・レールモントフも彼と面識があります。

 特に武勲を立てたのは1848年のハンガリー革命の鎮圧です。ここでの功績により、彼は「英雄」とまで称されるに至ります。この功績を称えられ、彼は全ドン・コサック軍の副アタマン(副将軍)となります。何故「副」なのに、「将軍」と呼ばれているかについて解説します。実質的には彼が将軍なのですが、彼とは別に全コサック軍の将軍」の位を持つ人が居るのです。そうです、それが皇太子である、ニコライ殿下です。

 コサック軍のアタマンは、法令により、1827年から代々皇太子が任命されることになりました。殿下は軍事演習にも参加し、軍事学でも優秀な成績を収め、少将の位を持っていますが、実際にコサック軍を指揮した経験はありません。また、それは殿下が亡くなった後に皇太子となった、弟アレクサンドルも同様です。従って、実質的なトップであるグラッベは、「将軍」と呼ばれることが多いのです。

 

 グラッベ将軍の性格ですが、大変な人格者として知られています。分け隔て無く公平に接する姿は多くの人々からの支持の理由となっています。

 国防の「英雄」にして、人格者。わたくしも、彼のことを偉大な素晴らしい人物だと認識していました。そう、殿下に纏わる文献を読むまでは……。

 

皇帝政府とドン・コサック

 実際に資料を読み進めていく前に、当時のロシア情勢について簡単にお話しておきたいのです。

 ロシア中央政府とドン・コサックは、常に絶妙な距離関係にありました。コサック軍はロシア帝国に組み込まれ、勇猛果敢で強力な騎兵隊となりましたが、度々大規模に政府に反抗し、反乱を起こしたため、政府は扱いに困っていたのです。

 その危機は1860年代初頭にも訪れていました。切っ掛けは、ニコライ殿下の父である皇帝アレクサンドル2世が開始した「大改革」です。コサックたちをなんとか懐柔するため、皇帝政府は彼らには課税を行わない特別な制度を導入していました。しかし、「大改革」が始まると、ありとあらゆる行政の制度が見直されます。このとき、政府高官曰く実際にはそんな計画はなかったとのことですが、少なくともコサック達は、「この特別な制度が解消され、自分たちも重い税に苦しむことになるのではないか」と訝しがりました。このことで、1860年代初頭は、コサックたちは皇帝政府に懐疑的な目を向け、関係は冷えていたと言います。

 

 そこに派遣されたのが、我らが殿下でした。前回の記事でご紹介したように、殿下は1863年にロシアの各地を査察する旅に出掛けます。この際、ドンも訪れることになったのです。

ロシア帝国はドン・コサックの反乱により何度も痛い目を見ており、今回は「緊急事態」に近いもの。本来であれば、皇帝が直接出向くべき局面ですが、「大改革」を行っている手前、皇帝も忙しく外遊に出掛けるのも難しい時期でした。

殿下は、ごく少数の側近(前回のボゴリューボフもこの一人です)を引き連れ、皇帝政府の代表として、彼らと対峙することになります。政治的緊張の走る一幕。未來の大帝国の皇帝は、この難局を如何にして乗り越えたのか? 殿下の政治的手腕、必見です。

 

殿下の演説

 それでは殿下の素晴らしい活躍をご覧に入れましょう。1863年、当時19歳の殿下は、ドン地方へ趣きます。そこでの演説についてのエピソードです。

 Несмотря на переживания по поводу несостоявшейся встречи с отцом, цесаревич Николай  Александрович оказывал особые знаки внимания донскому казачеству.
«Верьте, храбрые донцы, что вы близки моему сердцу», — говорилось в приказе наследника престола по войску  Донскому, текст которого цесаревич Николай Александрович самостоятельно сочинил. Эти  слова и поведение наследника престола нашли отклик в сердцах казаков.
«Вообще я был  поражен тем личным к нему сочувствием, которое я нашел везде по пути, где он два года тому  назад проехал», — сообщал И.С. Аксаков А.Ф. Тютчевой в 1865 г. об отношении донских  казаков к цесаревичу.
В целом же путешествие наследника престола убедило представителей  Императорской фамилии в лояльности казачества.
Цесаревич Николай Александрович писал  отцу: «Нас принимают очень радушно, видно, что это от души, а не по заказу».

 ニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子は、父に会えないことを憂慮しながらも、ドン・コサックに特別な注意を払った。

「信ぜよ、勇敢なるドンの民よ、我が心は諸君と共にあるということを」。このドン・コサック軍の前で放たれた命令は、ニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子が独力で書いた原稿である。この帝位継承者の言葉と振る舞いはコサックの心に響いた。

1865年、イヴァン・セルゲーヴィチ・アクサーコフは、アンナ・フョードロヴナ・チュッチェヴァに向け、ドン・コサックの皇太子に対する態度をこう伝えた。「彼が2年前に通った道を通ると、道中至る所で彼に対する個人的な同情を抱いた人々と出会います。その様子に、私は感動しました」。

皇太子の旅は、概して皇室の代表者にコサックの忠誠心を確信させるものとなった。

ニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子は父に手紙を送っている。「我々は非常に歓迎されました。これは見せかけのものではなく、魂からのものであることは明らかです」。

 ???「政敵が刃向かってくるなら、己に惚れさせればいいじゃない」

ここなんですよ、殿下の数多ある才能の中でも最も恐ろしいところは。誰からも愛される、そしてそれを自分で自覚していて、効果的に使ってくるんです。絶対に勝てません。敵を敵ではなくする、それが殿下の戦法、無血の「愛ある懐柔」です。

 

 殿下の演説ですが、何が凄いって、いきなりの命令文から開始するところです。幾ら皇太子殿下とは言え、実際は中性的な顔立ちの、痩せた19歳の小僧っ子です。そんな彼が、もしかしたら自分たちに敵意を持っているかもしれない、数十数百の、戦闘実績もある屈強な軍隊の前で口を開く。そこでいきなり、冷静に、しかし堂々と「信じなさい」と始めるわけです。まあ、度肝を抜かれるでしょうね! 興味を抱くことでしょう。彼は何を言うのかと、どんな統治をするのかと!

殿下が父に書き送った「勝利宣言」は、皇帝政府を痛く喜ばせました。

 

 途中で2年後の1865年の話が出てきますが、これはどういうことかと申しますと、殿下がこの65年に21歳の若さで急死してしまうという悲劇を指します。一時は政敵とも思われたドン・コサックたちは、皇帝政府の使者に対し、揃って殿下の死に対するお悔やみを口にしたというわけですね。皇太子という肩書きではなく、殿下個人の人望の厚さが偲ばれるエピソードです。

 

 ちなみに、アクサーコフというのは宮廷勤めもしていた詩人で、上記のように殿下と関わることもあったようです。一方、チュッチェヴァは、母皇后の女官で、殿下の幼少期の教育係・世話係をしていた女性。殿下の死の際には、殿下が痛みを堪えて無理をしていることにいち早く気付いた一人でもありました(詳しくはこちら)。この二人ですが、なんと、殿下の死から一年弱の1866年1月、めでたくゴールイン。実質的な仲介者となった殿下なのでした。

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↑ 1865年のアクサーコフ。

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↑ アンナ・チュッチェヴァ。

 

グラッベ将軍の日記

 敢えての命令文で軍人たちの心を掴んだ殿下。しかし、それだけで終わるわけではありません。「鞭」の後にくるのは、勿論……。それでは、グラッベ将軍が殿下に対してどういう感情を抱いていたのか、追ってみましょう。

 На Калачевской пристани атаману всех казачьих войск приготовлена была торжественная встреча от Войска Донского. Там ожидал его окруженный своим штабом наказной атаман донцов, герой венгерской войны, генерал-адъютант граф Граббе со всем войсковым начальством.

 За три года перед тем Граббе являлся к Наследнику и вынес из свидания и беседы с ним самое благоприятное впечатление. «До этого мне случалось нередко видеть его в разных парадах, выходах, — занес он в свой дневник, — а теперь в первый раз одного как хозяина у себя. Как он прекрасен! Какой симпатичный голос! Какая умная и скромная приветливость! Любуясь им, пролетела во мне мысль, какие судьбы готовит Провидение созданию, украшенному лучшими его дарами, и к приятным вообще впечатлениям примешалось как будто что-то похожее на сострадание».

Неотлучно находясь при Цесаревиче во все время, проведенное им в земле Войска Донского, наказной атаман мог убедиться, в какой степени Царский первенец сдержал все, что обещал.

 カラチェフスキーの埠頭で、全コサック軍のアタマンはドン軍の歓待を受けた。そこには、ハンガリー革命鎮圧の英雄でありドン軍の副将軍であるグラッベ伯爵をはじめとする全軍司令官が、自軍の隊長らに囲まれて待っていた。

 3年前、グラッベは帝位継承者に出逢い、会話したことがあったが、このとき彼に対してこれ以上無く好ましい印象を受けていた。「以前にも、閲兵式などで度々彼を見かけることがありましたが、今回は初めてホストとして彼を受け入れることになりました」。彼は日記に書いている。「なんて彼は美しい人なのでしょう! なんて気持ちの良い声音なのでしょう! なんて賢く、謙虚で慇懃なのでしょう! 彼に見惚れていると、最高の天賦の才を与えられた彼が、創造主によりどのような宿命を負わされているかについての思考が頭を過ぎり、快い印象の中に、一抹の同情の念を覚えてしまいます」。

ドン軍の土地で過ごす間、彼は片時も皇太子の傍を離れなかったので、皇帝の長男が全ての約束を守りきったことを確信することができた。

 いや、あの…………、ガチの推し語り来たな

これ、意訳しているわけじゃなくて、マジなんですよ。なんなら英語で見てみると、「Как(How) он(he is) прекрасен(beautiful)! 」ですからね(英語だと語順違いますが、ロシア語に合わせてあります)、ええ。初めてこの文章読んだときに笑いが止まらなくて、声出してゲラゲラ笑いましたよね。いやー、自宅でよかった。不審者になるところだった。

それに加えて、「彼は片時も皇太子の傍を離れなかったので」ですからね! いや~~もう、100点満点中120点の同担です。恐れながら、将軍閣下にも終身名誉限界同担の称号を授与したいと思います。

 3年前(16歳の頃)から自覚的に「布石」を打っている早熟な殿下に畏怖を覚えつつ、3年前から殿下を追っている記述には微妙に気味悪さすら感じますね。

 いやー、しかし、声についての描写がありますが、殿下はテノールだったのか、バリトンだったのか……。当時は録音技術がないために、こればっかりはどうにもわからないのが悔やまれます。少なくとも、マイクがない時代に大人数の前で演説ができるような通る声だったことは間違いないですね。ここ以外でも、例えば翌年にアムステルダムに滞在したときの記録でも彼の声を賛美する描写などが見られるのですが、具体的な形容がなく謎のままです。

 

 尚、「宿命」の話が出てきますが、これは皇帝になることを意味します。ロシア帝国の皇帝というのは激務で、過労が祟り比較的若くして亡くなるケースが多かったからです。そのことに思いを馳せ、早くも悲しみの念を覚えてしまう同担というわけですね。しかし、真に創造主が用意した「宿命」というのは、早すぎる死でした。

 

性善説

 次に、ドン地方滞在中に生じたちょっとした議論の記録について読んでみましょう。

 Во время визита на Дон наследника цесаревича Николая Александровича в 1863 г. зашел спор о том, каким родится человек, добрым или злым. Наследник высказал свое мнение, что человек родится добрым, и разные неблагоприятные обстоятельства жизни вынуждают его на злые дела. Атаман Граббе вскочил со своего места и громко произнес: «И останьтесь, ваше высочество, с таким убеждением на всю жизнь. Вы будете благодетелем своего народа».

 1863年にニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子がドンに訪問した際、人間は善人として生まれてくるか、それとも悪人として生まれてくるかという論争が生じた。帝位継承者は、人は生まれながらにして善良であり、人生の様々な不都合な状況に応じて悪に染まってゆくのだという見解を示した。グラッベ将軍は、その場で飛び上がって大声で叫んだ。「その信念を貫いて下さい、殿下! あなたは国民の恩人となることでしょう!」。

 おじいちゃん!! 落ち着いて!!! 座って!!!

73歳の将軍が飛び上がる姿、ちょっと見てみたいですね……。

 それはさておき、殿下が敬虔なキリスト教徒であることを思い起こさせる一幕です。議論といえば、殿下は法の議論に滅法強かったらしく、素早く条文を引用して反論するため、現役の政治家ですらたじたじになった、という恐ろしい記録の保持者ですが、哲学・神学系の議論では、対話者の心を掴む術も心得ていたようです。

 また、性善説を信じる人が統治をすることに異様なまでの喜びを見出すのは、グラッベ将軍が人格者であることも関係しているのでしょう。

 

 ちなみに、殿下がドン地方で滞在したのは「アタマン宮(アタマンスキー・ドヴォレツ)」という豪奢な宮殿なのですが、こちら、現存しております。機会があれば、是非行ってみて下さい。

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↑ 白を基調としたシンプルながらも美しいお屋敷です。映っておりませんが、手前には噴水があります。

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↑ 当時の室内の様子です。掛かっているのは父帝アレクサンドル2世の騎馬姿の肖像。

 

食後の一幕

 次に、面白いエピソードをご紹介します。将軍閣下、ここでも拗らせております。それでは、どうぞ。

 «Граббе, — читаем в воспоминаниях Оома, — вошел как бы в нашу семью и, несмотря на преклонные лета, на высокое положение свое и держа себя с необыкновенным достоинством — даже в осанке его и в манере выражаться он был рыцарем в полном смысле слова — сумел с первой встречи обворожить всех. Цесаревич привязался тотчас же к нему всею душою и был к нему в высшей степени внимателен.

Обедали мы в Нижнечирской станице. После сладкого блюда Цесаревич вышел из комнаты и, тотчас возвратясь в столовую с трубкою и горящим фитилем, предложил старику закурить трубку. Глубоко тронутый таким вниманием, он никак не хотел, чтобы Цесаревич держал фитиль при закуривании трубки.

«Как Ваше Высочество? Вы ходили за трубкой для меня! Этого внимания я не заслужил. Благоволите закурить ее Вы сами, я же подержу фитиль». «Нет, Павел Христофорович, — ответил Наследник, — молодой казак с удовольствием служит почтенному наказному атаману своему. Вы не имеете права отказать мне в этой услуге». Старик прослезился и принял предложение».

 フョードル・アドルフォヴィチ・オームの回想録によると、このようにある。『グラッベは、我々の家族のようなものです。老年で、高い地位にあり、並外れた長所を持っているように見えるにも関わらず、文字通りの意味で騎士道精神に満ちた人で、初対面から全ての人を魅了しました。皇太子も即座に彼に惹かれ、細心の注意を払って親切に接しました。

私達はニジニ・チルの村で食事を摂りました。デザートの後、皇太子は部屋を出ましたが、直ぐにパイプと導火剤を持って戻って来て、老人に喫煙を勧めました。その配慮に彼は大変感激しましたが、彼は喫煙の為の火を皇太子から貰うことは決して望みませんでした。

「殿下、何と! 私の為にパイプを持ってきて下さるとは! 私などはそのような配慮に値するような者ではないと言いますのに。どうぞご自分で吸われて下さい、私が板を持ちましょう」。「いいえ、パーヴェル・フリストフォロヴィチ」、帝位継承者は答えました。「若いコサックは、尊敬すべき将軍殿に仕えられることが嬉しいのですよ。私の奉仕をお断りにはならないでしょう?」老人は涙を零し、その提案を受け入れました』。

 限界同担、殿下にタバコの火を付けて貰っただけで泣く。いやほんと、グラッベ将軍、強火の同担すぎて好感度めちゃくちゃ高いです。

それにしても「私の奉仕をお断りにはならないでしょう?」という挑戦的で蠱惑的な問いですよ。何だかんだで自分が愛されている自覚がある殿下は、たまにこういう言い回しするんですよね。可愛いかよ!!

 

 謙虚にも下手に出て、且つ、己を「コサック」と呼び一体感を示す。そして、本来は己が「将軍」だというのに、副将軍であるグラッベを「将軍」と呼ぶ。完全に落としに掛かっていますね。オームが言うように、将軍自身もとても素晴らしい人物だったようですが、一枚上手だったのは、孫のような年頃の殿下でした。

 

 ちなみに、将軍閣下はパイプ派のようですが、殿下は葉巻を好まれたようです。紙巻きタバコは1840年代ロシア発祥という説が有力ですが、こちらは好きではなかったよう。

 

 尚、ここでの導火剤についての謎が解けましたので、こちらからどうぞ!

 

愛ある懐柔

 今度は視点を変えて、皇帝政府の役人が殿下のドン査察をどのように受け止めていたのかを見て参りましょう。

  «Такая грамота, — вспоминал  гр. Д.А. Милютин, — была желательна для того, чтобы успокоить казаков и положить конец распущенным между ними ложным толкам о мнимом намерении правительства упразднить казачество и обратить Донское войско в податное состояние на общих основаниях».

 ドミトリー・アレクセーヴィチ・ミリューチンは回想している。「このような証文は、皇帝政府がコサック制を廃止し、課税しようとしているという虚偽の噂に終止符を打つのに望ましいものであった」。

 殿下の功績が高く評価されています。我が事のように嬉しいですね。

 「このような証文」と言いますのは、殿下の前述の「勝利宣言」を受け、ドン・コサックの忠誠を確信した父皇帝が「恐るるに足らず」というような旨を書いた書簡を指します。強気ですね。

 

 ミリューチンは「大改革」期を代表する政治家です。陸軍大臣を務めた他、「大改革」時には大規模な軍制改革を実施し、これは「ミリューチン改革」と彼の名を冠して呼ばれています。殿下が、このような「大改革」期の政治家たちにも、ただ可愛がられるだけではなく、政治的な実力を買われているというのは興味深いです。

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↑ 1865年頃のドミトリー・ミリューチンの肖像。

 

   殿下がもし仮に生き長らえていれば、当然諸外国の君主や政治家と議論する機会があったはずです。当時の諸外国の政治家には、あのビスマルクや、ナポレオン三世などが居ました。彼らとバチバチの論戦を繰り広げる可能性は非常に高かったわけです。聡明な殿下は、経験豊富で老獪な彼らが相手であっても、法を引用し、ロジックを構築し、それを流暢なドイツ語やフランス語に乗せながら反駁して、互角に渡り合えたことでしょう。そう考えるとますます、殿下の早逝が悔やまれます。

 

ペテルブルクより愛を込めて

 最後に、旅を終えたあとのエピソードを一つご紹介して閉めたいと思います。アフターケアも充実している殿下の「懐柔」策でした。

 Как бы то ни было, цесаревич Николай Александрович на всю жизнь сохранил особое  расположение к донским казакам.
Отвечая в 1864 г. на поздравление Граббе с новым годом,  наследник писал Павлу Христофоровичу: «Прошу Вас передать донцам, что дни, проведенные  в среде их, никогда не изгладятся из моей памяти, и что я всегда буду вспоминать их радушие и  хлебосольство».

 いずれにせよ、ニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子にとって、生涯を通じてドン・コサックは特別な地位にあった。

1864年、パーヴェル・フリストフォロヴィチ・グラッベから贈られてきた新年を祝う手紙に対し、帝位継承者は以下のように彼に書き送っている。「どうぞドンの方々にお伝え下さい。我々を温かく歓迎して下さったことを私は常に想い出し、あの想い出の日々を忘れることは決してないのだということを」。

 明かされる、地味に推しにニューイヤーカードを送っている同担の姿。何やってんすか……、でも返信が返ってくるというのは実に羨ましいことです。

 しかし、この翌年の1865年の新年には、殿下はニースの病床にあり、更に翌年には既にこの世を去っていますから、最初で最後の文通でのやりとりだったかもしれません。

 

 殿下は、己がしたたかで、言うなれば狡猾な性格であることに自覚的であり、そのことに対してかなりの自己嫌悪の念を抱いていた様子も窺えます。一方で、敬虔なキリスト教徒でもあり、性善説のエピソードなどは実際に本心から出た言葉だったのだろうと推測されます。偽りの愛は、往々にして見破られます。殿下が誰からも愛される人物だったのは、何よりもまず、殿下が人々を、自然を、芸術を、国を、そして世界を心から愛すことができる人だったからなのではないでしょうか。

 

最後に

 通読ありがとうございました。12000字です。

なんだか良い感じの纏めを書いてしまいましたが()、まだまだ「限界同担列伝」シリーズは続きます! 限界同担はこんな程度では終わりません。わたしは、同担の奇行の記録を読む度、「今後一生これ以上面白い文献には出逢えないだろう」と心の底から思うのですが、数日後には既に覆されます。これが限界同担の世界です。今後も面白いエピソードをご紹介していこうとおもいますので、お付き合い願えれば幸いです。

 それでは、お開きとしたいとおもいます。次の記事でお会いしましょう!

↑ 第三弾が上がりました。シェレメチェフ伯爵とオルデンブルクスカヤ大公女篇です。

引用元・参考文献