こんばんは、茅野です。
新シーズンが始まり、劇場通いをしているので、レビュー記事を大量に投下したいのですが、如何せんほぼ毎晩出向くために、執筆が間に合っておりません。
そもそもレビューは書くのに苦手意識があるので、モチベーションを上げづらい上に、執筆速度が遅く。なんとか克服して参りたいところ。
近頃、珍しく(?)実生活がバタバタしており、文字や音符の書き物は数週間休止状態に。
一昨日の晩、痺れを切らして、「オタ活をするぞ!!」と検索エンジンを開き、我らが殿下こと、ロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子殿下(1843-65)のリサーチをしてしまいました。
殿下については、日頃からリサーチをしているはずなのに、出るわ出るわ、面白資料が……。これだから辞められぬのです、殿下のリサーチは……。
↑ いつの間にか、色々書いていました。沼が深すぎる。
というわけで、突然ですが新連載です。
書きたい連載や単発は他にも幾つかあるのですけれども、不本意ながら(?)、今回もまたメシチェルスキー公爵関連です。
↑ 公爵ってだれ? という方はこちらで概説しておりますので宜しければ。「限界同担列伝」シリーズ第五回です。
今回は、我らがニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子殿下と、ヴラディーミル・ペトローヴィチ・メシチェルスキー公爵の往復書簡を読んでいくシリーズとなります。
近年、殿下の弟である、アレクサンドル3世(アレクサンドル大公)宛てのメシチェルスキー公爵の書簡は、二巻本として出版されました。
↑ ロシアの書籍通販サイト、Лабиринт。よくお世話になっていたのですが、ウクライナ侵攻の影響で、ロシアへの送金が不可能になっているため、現在は日本からは実質的に利用不可。ほんといい加減にしてロシア連邦政府……。
上記の記事では、こちらの資料を引用して執筆しています。
しかし、我らがニコライ殿下は、早逝してしまったこともあり、あまり研究が進んでおりません。
殿下当人に宛てたお手紙が読めるのなら、より「濃い」内容に仕上がっているのであろうな……と思っていた矢先!
イレーナ・ゾーラブ先生というニュージーランドのロシア文学研究者が、英語圏のジャーナルにて殿下と公爵の関係性を取り上げた論文を執筆しており、そこに殿下と公爵の往復書簡の原文を発見したので、今回はこちらを日本語訳していこう、という企画です。
ゾーラブ先生は、普段はドストエフスキー研究をされている方なのですが、実はドストエフスキーは、一時期メシチェルスキー公爵の新聞『市民』の編集者をしていたことがあり、その関連から、同論文を執筆するに至ったようです。
メシチェルスキー公爵に関しては、以前、殿下限界オタク語り本『回想録』の抜粋を翻訳してゆく連載をしていました。全七回、完結済みです。
内容が対応していることがあるため、合わせて読むとより理解が深まるかと思います。
散逸してしまった、或いは一般公開されていないものがあり、手紙は全てが遺っているわけではありません。
現在確認できているのは、全14通で、殿下から公爵宛てのものが10通、公爵から殿下宛てのものが4通です。
時系列順に、一記事一通を原則としますが、短いものは纏めて一本にしてしまいたいので、今のところ、連載は全9回を予定しております。
それでは、お付き合いの程宜しくお願い致します!
手紙 ⑴ に関して
今回は、殿下から公爵に宛てた、最初の一通をご紹介して参ります。
殿下と公爵の文通は、殿下がロシア国内の査察旅行に出て、ペテルブルクを離れる1863年から開始されるのですが、公爵から殿下に宛てて書かれた物が最初だったようです。しかし、その手紙は散逸してしまったのか、わたくしは確認できておりません。
従って、今回ご紹介する手紙は、内容のわからない公爵の手紙の返信として書かれており、一部文脈が不明瞭な部分があります。
この殿下の手紙は、以前の連載「メシチェルスキーの『回想録』を読む」シリーズ第三回で引用されています。
↑ こちらの中盤です。
しかし、精査してみると、『回想録』での殿下の手紙の引用は、殆ど間違いなく意図的に、公爵が幾つかの殿下の文章を抜いていることがわかります。
手紙の大部分は、上記の連載第三回と同様ですが、今回は、その省略されている部分をオレンジ色で書き足しておいたので、是非読み比べてみてくださいませ。
詳細は後述の「解説」に譲ることとし、まずは本文を見て参りましょう。
それでは、どうぞ。
手紙 ⑴ ニコライ大公からメシチェルスキー公爵へ
帝位継承者ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ
ヴラディーミル・ペトローヴィチ・メシチェルスキー宛
1863年6月4日、「アタマン」号から。
ドン、蒸気船アタマン号にて。1863年6月4日 日曜日。
親愛なる公爵!
シェイクスピアの助言に従い、あなたが最初の望みを手放さなかったのは喜ばしいことです。あなたが私に対しての思いでこれ以上悩むことがありませんように。
お言葉ですが、私は「どんな些細な行動にも侮辱的な汚名を着せるような人」の部類には入らないと自認しています。
ずっと前から、あなたが何かに悩んでいること、そしてそれを私に隠していることには気付いていました。特に、あのツァールスコエでのお別れの時に、私がそれに気付かないはずはないでしょう。
私はあなたの想いを理解しましたし、全てを口にしたくはないというあなたの気持ちも理解します。―――しかし、人には言葉を介さずとも、お互いを理解できる瞬間がありますし、それはあの時の私達にも同じことが言えるのではないでしょうか。
遅かれ早かれ、明らかになることではあると思っておりましたが、手紙を交わしたことによってはっきり致しましたね。そして、あらゆる誤解が解けるとよいのですが。
ニコライ・マクシミリアノヴィチの宣誓も誕生日も祝うことができず、どれほど悲しい思いをしていることか。私は彼が宣誓を行うということすら知り得なかったのです。
恐らく、私が出発した後に決まったことなのでしょう。誰もそのことを教えてくれなかったので、ヴォルガからの手紙でも彼にお祝いの言葉を書き損ねてしまいました。
フィンランド湾の岸辺で、ささやかな農園を営むあなたの平和な生活を羨ましく思います。旅に不満があるわけではないのですが、至るところに幸福がある家の方が、より良いでしょうから。
私の旅について何をお伝えしましょうか? 既にあなたは少なくないご意見をお持ちでしょう。一つ言えるのは、旅をするにあたり、これ以上適した時期はないだろうということです。そのわけは余りに明白であり、お伝えするまでもありませんね。
目下のところ、全てが上手くいっています。もし私の旅について詳しく知りたいとお考えなら、弟に私が書いた手紙を読むように言って下さい。
アストラハンとその近郷は特に気に入りました。今私達は静かなドン川を航行しており、その岸辺は絵画のように美しいです。
ツィムリャンスク村では、我々は単に楽しく過ごすことができました。山々、草原、庭、葡萄畑、騎馬で駆け抜けることの素晴らしさ、山の麓の快適な小屋……。小屋の御主人は非常に理知的な方で、私達を厚くもてなして下さいました。彼は我々の知的好奇心を存分に満たしてくれました。
我々がツィムリャンスク産の素晴らしいワインを賞味したこと、是非ニコライ・マクシミリアノヴィチにお伝え下さいね。御主人は酒蔵を持っていて、様々な種類のもの―――40年代物、20年代物、赤、白、甘口、辛口―――が揃っていました。
美しく暖かい夜、広く小綺麗な踊り場のある階段に腰を掛け、御主人の持ってきたワインを試飲するのです。ニコライ・マクシミリアノヴィチは詩の愛好家としてこの情景を理解するでしょうね。私は無意識にもバッカスの饗宴を想起してしまいましたが、そのことが彼を不快にしていなければよいのですが。
これで、私達も葡萄酒の神の崇拝者になりましたよ、無論、ささやかながら。
その翌日は、この旅で最も愉快な一日となりました。
私達は朝五時に起きて紅茶を飲み、馬に跨がって出発しました。朝の心地よい涼しさ、地平線を覆う夏の濃霧は、暑い一日となることを予感させます。
私達はドン川の岸辺を行きました。この地上から、これ以上に美しい場所を選び出そうとするなら、苦労を強いられるでしょうね。左手には優美なカーブを描くドン川と未だ薄暗い遠景が、右手には果樹園や葡萄畑に覆われた山々があり、異なる景色と色彩を一望できます。私達は静かな朝のひとときを楽しみました。時折、砂利の多い道で、騎手を落とさぬよう、脚を踏み外さぬようにと、鞭が空気を切る音が聞こえるのみでした。
場所によっては、自然にできた並木が道に影を落としていました。10ヴェルスタ(露里)ほど進んだところで、馬に休息を取らせる為に、一度葡萄畑に降りました。太陽は既に熱気を放っていました。
コサックの庭師の老人がやってきて、簡素ながらに美味なワインを差し出して下さり、私達はそれを喜んで頂きました。私達はすぐに再び出発しましたが、太陽は酷く照り、灼熱の光から逃れることは叶いませんでした。
家に着く頃には、汗と埃まみれになっていました。
その日は最も暑い日の一つでした。
概して私達はドンが気に入りましたし、勿論、彼らは私達を厚くもてなして下さいました。
さて、そろそろ終わりにして横になろうと思います。想定よりも長く書いてしまいました。これが親愛なる公爵への私からの最初の書信となりますね。私が常に尊重しているように、心からのお手紙を下さったこと、感謝申し上げます。
弟たち、ニコライ・マクシミリアノヴィチ、コンスタンティン・ゲオルゲヴィチ、そしてボリス・アレクセーヴィチ・ペロフスキー伯爵に、私から宜しくとお伝え下さいね。顔を合わせることがあれば、コンスタンティン・ゴルチャコフにも。
私はあなたのツァールスコエ・セローでの交友関係を、特に好意的に捉えているわけではありません、残念ながら!
あなたのクシェレフ=ベズボロドコ伯爵夫人への崇拝の念に共感することはできません。
サーシャが、あまりツァールスコエ・セローの美女たちにのぼせ上がらないとよいのですが。彼にこのことをお伝え下さい!!!
さようなら。
敬具 ニコライ。
解説
お疲れ様で御座いました!
簡単な解説に入ってゆこうと思います。旅の内容に関しての解説は、前述の記事を参照して下さい。
原本のコピー
まずは、殿下直筆のもののコピーがありますので、それを見て参りましょう。冒頭部です。
手紙が長いこともあり、比較的走り書きですが、読み手への配慮のある、読みやすく美しい筆跡です。
『回想録』との違い
一点、些細な点ですが、公爵の見間違いか、誤植なのか、原本と『回想録』では、手紙が書かれた日付に違いがあります。
殿下は、明らかに 4-го Июня 1863 と書いているので(画像右上参照)、6月に書かれたものと見られます。
『回想録』では、8月となっています。
『回想録』から削除された部分(冒頭)
『回想録』で削られているのは、冒頭と終盤の二カ所です。当節では、前者から見て参ります。
公爵がわざわざ削っているということは、その内容は公爵から見て彼に利さないものである、と考えて差し支えないでしょう。
事実、削除された部分は、精神的な、含みのある内容となっているように見えます。
公爵は、『回想録』で、己が最初に出した手紙に関して、
私は、最初の手紙で、己の考えたこと、感じたことを率直に彼に書き送った。
と述べています。
それに対する返答が、冒頭の削除された部分なのであることは明白です。
明確なのは、最初の手紙で、公爵が殿下のことを「どんな些細な行動にも侮辱的な汚名を着せるような人」なのではないか、と糾弾したのであろうことです。
何故そのような批判をするに至ったのでしょうか。
公爵は、殿下と交友関係を持ち、宮廷に出入りするようになってから、宮廷に数多くの敵がいました。
政敵たちは、メシチェルスキー家が所謂没落貴族であって、経済的に困窮していたことや、ヴラディーミル・ペトローヴィチが当時は法で禁じられていた同性愛者であり、そのことを特別隠そうとはしていなかったことなど、公爵のあらゆる言動に難癖を付け、社会から締め出そうとしていました。
彼は、当然ではありますが、この誹謗中傷に心を痛めていて、「あなた(殿下)も同類ではないのか」、と問いかけているように見えます。
「ツァールスコエでのお別れの時」や、公爵からの最初の手紙に書かれた「己の考えたこと、感じたこと」、彼が殿下に隠していた「悩み」や「思い」の精確なところは今となってはわかりませんが、ゾーラブ先生は、最初の手紙で、公爵が殿下に対し、「愛と献身(love and devotion)」を表明したのではないか、と推測しています。
確かに、「私に対しての思い」という記述もありますし、信憑性は高そうです。
実際、今日の研究では、「大公に対する、このメシチェルスキーの愛の告白は、専ら性的な意味で解釈されている(Meshchersky's declaration of love would be interpreted in exclusively sexual terms)」といいます。いや、それは色々と大丈夫なのか!?
前回の連載でも、冗談半分に「恋文では」と書いておりましたが、ほんとうにラブレターであったか……。別れ際も、相当思わせぶりな行動をしたのでしょうね。
それにしても、このオレンジ字の部分が「愛の告白」に対する返答なのだとしたら、なんと温情溢れるお言葉でありましょうか。オネーギンもびっくりですね(※ロシアの高名な韻文小説『エヴゲーニー・オネーギン』では、主人公オネーギンが、ヒロインの愛の告白を拒否し、「あまり己の感情を表に出しすぎない方がよいですよ」とお説教する場面がある)。
『回想録』で、公爵は、殿下の教育責任者であるストロガノフ伯爵に「あなたは悪いクルティザン(плохой куртизан)だ」と言われた、と書いています。
そして、自らのことを、自虐的に「宮廷(主に殿下、殿下の従兄コーリャ大公、殿下の側近リヒテルのうちの誰か)からの招待状があるかどうかに一喜一憂する私は、確かにクルティザンだった」と回想しています。
元となったフランス語の単語「クルティザン(courtisan)」は、「宮廷人」や「廷臣」を意味しますが、転じて「おべっか使い」というような、悪い意味合いで使われることが主です。ロシア語の「куртизан」には、「漁色家」「好色家」という意味もあるようです。
更には、女性形で「courtisane」、ロシア語では「куртизанка」となると、意味は「高級娼婦」となり、殊更含みが出てきます。
ストロガノフ伯爵が、そして公爵自身がどのような意味合いで「クルティザン」という語を用いているのかはわかりませんが、無論悪口に当たりますし、こちらも性的な含意のある言葉であることは留意に値します。
『回想録』から削除された部分(終盤)
続いて、終盤の部分を見て参りましょう。
ここは、殿下が公爵に対して釘を刺しているので、削除されたものと思われます。
公爵の「ツァールスコエ・セローでの交友関係」に関しては、かなり怪しげなものもあります。
例えば、前述のように公爵は同性愛者であることを隠しておらず、謂わば「ゲイ・サークル」のようなものを主催しており、そこに彼の法学校時代の親しい後輩でもある、あの大作曲家ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーを連れ込んだりしていた事実も確認できます。
現代では、差別であると逆に糾弾されそうですが、当時は同性愛がソドミー法として禁じられていたので、公爵のこのような行動はかなり煙たがられており、「いかがわしい人」なる不名誉極まる渾名まで付けられています。それが、手紙にもある「侮辱的な汚名」の一つなのでしょう。
しかし、殿下の書きぶりを見ると、ここで槍玉に挙がっているのはそのようなものではなく(というか、愛する皇太子殿下にそのようなことまで大っぴらにしたりはしないでしょう、流石に)、主に女性関係であることがわかります。
手紙に名前が出て来る、エリザヴェータ・イヴァーノヴナ・クシェレフ=ベズボロドコ伯爵夫人は、お写真や肖像画が見つからないのですが、当時美女として高名だった女性のようです。
殿下によれば、ティーンエイジャー時代の弟、サーシャ大公(後のアレクサンドル3世)は、所謂面食いで、非常に惚れっぽい性格であったといいます。
女性たちからしても、皇家の青年との「関係を持つ」ことは、概ね望ましいことであり、両者の接近には「危険」が付き纏いました。
帝国では、貴賤結婚の禁止の原則があり、自分と同じ階級の相手としか結婚することはできませんでした。殿下兄弟は皇族ですから、同じ皇族或いは王族、即ち国外のお姫様との婚姻以外は認められません。
ただでさえ、皇族の恋愛事情は醜聞となってしまいますし、貴賤結婚を行ってしまうと、家族からの籍を抜けさせられ、酷い場合には、更に国外追放の憂き目に遭ったりします。
兄として、友人として弟を深く愛していた殿下は、彼がそのような危険に直面する度に頭を悩ませ、自身が旅に出るなど弟の近くにいられないときは、公爵に関係の清算の手伝いを依頼しています。さながら『椿姫』のジェルモンです。父ではなく兄ですが……(※オペラ『椿姫』では、主人公の父ジェルモンが、息子の恋人の高級娼婦ヴィオレッタに、「息子との関係を絶ってくれ」と迫る場面がある)。
実際、サーシャ大公が「貴賤結婚をしたい」と言い出したことが一度だけあります。
しかし、それは当の兄が亡くなった直後のことで、その痛ましく耐え難い喪失を、彼女が支えてくれたから、というのだから、なんとも因果なものです。
して、その女性というのは……、以後の連載で明らかになりますのでお楽しみに。
殿下は、帝位継承者として、このような恋愛的なものも含め、弟よりも多くの「誘惑」に晒されていたはずですが、公爵によれば、殿下はこれらを自らの意志で退けていた、といいます。
しかし同時に、私は、皇太子が意識して人を惹き付け、役割を演じ、奔走していることに気が付いた。彼は、帝位継承者として、一見しても、実際にも、理想的な地位にあることが己の義務だと考え始めていたのである。(中略)
これら全てが共存していることが、彼を惚れ惚れする人物にしていた。このような魅力的な人物が22歳で帝位継承者の高みにあるとき、周囲からの崇拝と共に忍び寄る数々の誘惑にどれほど晒されたかは余りに想像に容易い。彼はこれら多数の誘惑に屈することがないよう、他に心を明け渡さず、常に己の精神の主であり続けた。
これが「完成の極致」……。
最後に、省略されていた人名を二人確認してお終いとします。
コンスタンティン・ゲオルゲヴィチ・レービンダーは、殿下の同い年の従兄(父の妹の長男)であり、義理の兄(養子として皇帝一家に引き取られていた)であり、親友でもあった、ニコライ・マクシミリアノヴィチ大公、通称コーリャ大公の教師兼側近です。
1863年当時は少将で、最終的に大将にまで上り詰めます。
もう一人は、コンスタンティン・アレクサンドロヴィチ・ゴルチャコフ公爵で、世界史の教科書などにも登場する、長らく外務大臣を務めた、有名なアレクサンドル・ミハイロヴィチ・ゴルチャコフ公爵のご子息です。
彼は1841年生まれと、殿下の2歳年上で、同年代。交友関係があったものと思われます。
肖像画からも察せられるように、当時は美男として鳴らしていたそうですが、かなり性格に難があったとか。
二人の名前が書き漏れているのは、単純にミスなのか、或いは、公爵が意図的に抜いているのか。新聞の編集者であったメシチェルスキー公爵が、このようなミスを起こすとは考え難いので、恐らくは後者だと推測できますが、何故なのでしょうね。不仲だったのか。
我々は推測をすることしかできません。
最後に
通読お疲れ様でございました! 以前の連載と重複する部分があったとはいえ、初回から8500字と、長くなってしまいました。
いきなり衝撃的な内容が明らかになってしまいました。大丈夫なのか、色々と(二回目)。
わたくしも驚いたので、突発的に連載を始めてしまいました。大丈夫なのか、色々と(三回目)。
殿下関連に関しても、その他に関しても、書きたい記事が溜まっているので、今連載は緩やかなペースで進められたら、と思います。
しかし、大半が殿下の手で実際に書かれた文章ですから、モチベーションも上がりますし、誤訳やニュアンスの表現など、いつも以上に緊張致しますね。
精進して参りたいと思います。気長にお付き合い頂き、今後も楽しんで頂ければ幸いですね。
さて、次回となる「手紙 ⑵」も、殿下から公爵宛てです。お楽しみに。
それでは、今回はここでお開きとしたいと思います。第二回でまたお目に掛かれれば幸いです。
↑ 続きを書きました! こちらからどうぞ。