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大公殿下と公爵の往復書簡 ⑶ - 翻訳

 こんばんは、茅野です。

公演評などの執筆に追われて、連載の更新がままなっておりません。今回は漸く投稿できて何よりです。

 

 というわけで今回は、我らがニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子殿下と、メシチェルスキー公爵の往復書簡を読んでいくシリーズの第三回です。

↑ 第一回はこちらから。

 

 今回は、どれも短いので、お手紙を三通ご紹介します。一通は公爵から殿下宛残り二通が殿下から公爵宛です。一通毎に軽い解説を挟んで参ります。

 今回は主に、殿下の名の日の祝いに関してです。お楽しみ頂ければ幸いですね。

 

 それでは、お付き合いの程宜しくお願い致します!

 

 

手紙 ⑶

1863年12月5日

 

殿下

 

 心からのお祝いの気持ちと共に、何か素敵で、且つ有益な品を差し上げられないかと考え、目新しいものではないのですが、シガーケースを同封することにしました。

喫煙がどれほど有益であるのかはわかりませんが、一般的にシガーケースは喫煙に有用であると考えられておりますからね。

 

 このささやかな贈物に、二つのお願い事を付け加えたいと思います!

打ち棄てずに、たまには懐に入れて持ち歩いて欲しいのです! そして、束の間の休息に喫煙する時、退屈でしょうから、たまには優しい気持ちで私のことを思い出して欲しいのです!

 

 心の中で祝杯を掲げ、あなたの健康と、あなたが幸福でありますようにと心の底から神に祈りを捧げます。これでお願い事は以上です!

 

 あなたを深く尊敬し、魂の全てを以て殿下に耽溺している、
В. メシチェルスキー公爵

 

 明日の朝、直接お祝いに伺うことは可能でしょうか?

 

解説

 お疲れ様で御座いました。まずは第一のお手紙から。

公爵が殿下にお祝いの品を差し上げる際の書き置きのようですね。結構図々しいお願いをしてよる。

 

原本のコピー

 まずはいつも通り原本のコピーを見て参ります。今までは殿下から公爵宛のものばかりでしたので、今回は初めての公爵直筆のものですね。最後の部分です。

 見て下さいこの女子高生もビックリの丸文字! グルジアジョージア)語か?

 

 なんだか愛らしいですが、実は、メシチェルスキー公爵はとんでもない悪筆として研究者の間では悪名高く、いつも大変お世話になっている殿下の研究者、メレンティエフ先生に至っては、「(公爵の)直筆の文章を読んだというだけで偉業だ」とさえ書いています。どんだけだよ。

 最近は、本国ロシアにて、メシチェルスキー公爵を専門とする若手の研究者が出てきたようで、メレンティエフ先生も褒めちぎっていました。公爵研究が進むと、付随して殿下研究も進む可能性が高いので、そちらも是非とも頑張って欲しいなと影ながら応援している次第です。偉業。

 

 正直に申し上げて、今回はゾーラブ先生が活字に起こしてくれたのでわたくしも拝読が適いましたが、これだけポンと出されたら、読めないですね。無理です。偉業(二回目)。

 

名の日の祝い

 さて、内容に関して。

公爵は殿下に何のお祝いをしているのかと申しますと、ロシアではお馴染みの「名の日の祝い」です。

ロシアでは、己の守護聖人(基本的には自分の名前の由来となった聖人)の誕生日や命日などの記念日をお祝いする文化があるのですが、こちらを「名の日の祝い」といいます。

 殿下はニコライ(Николай, より原語に近く音写するならニカラーイ)さんなので、「聖ニコラオスの日」をお祝いします。その聖ニコラオスの日と定められているのが、12月6日なのです。従って、12月5日に「明日」と言っているわけですね。

 「名の日の祝い」は、友人を招いて少し豪勢な食事会を開いたり、プレゼントを貰ったりする風習があるので、基本的にはお誕生日パーティのようなものだと思って頂いて結構です。

 

シガーケース

 公爵は殿下に、「シガーケース(портсигар)」を贈っていることがわかります。こちらは、葉巻用なのか、紙巻用なのか判然としません。「シガー」とはありますが、「シガレット」でもこの語を使う為です。

 

 別の文献によれば、当時の価値観に合致するものであるとは思いますが、殿下は紙巻煙草を「粗悪品」と考えていることがわかります。従って、葉巻用であるような気もしますが、酷く多忙な殿下に、「葉巻を吸える程の長い休憩」は殆ど存在しないため、携帯性に優れ、手軽な紙巻用の方が可能性は高いかとは思います。

我々が一ヶ月に一回くらいはジャンクフードが食べたくなるように、殿下も紙巻煙草が吸いたくなる日だってあるかもしれません。多分。

 

 さて、当時のロシア帝国の煙草事情をごく簡単にご紹介します。

主流なのは、「葉巻煙草」「パイプ」そして「パピローサ」です。パピローサはこの後の手紙でも出て来るので、覚えておいて下さい!

 

 「葉巻」は、皆様ご存じであろうと思います(吸ったことがある方はあまりいらっしゃらないかと思いますが)。

実はわたくし、この間葉巻を初体験。殿下の時代、 19 世紀中頃のお作法にもチャレンジしてみたので、良ければ参考にして下さい!

↑ горящий фитиль の謎が解け、大満足。

 殿下は、旅先などで煙草を吸う際は葉巻を好まれていることがわかります。

 

 もう一つが「パイプ」。こちらも現代に残っているのでご存じでしょう(入門のハードルは高めですが)。

 殿下は、自宅で時間がある時にはパイプを吸うことが多いようです。殿下の基本的なタイムスケジュールでは、昼食の後に休憩時間があるのですが、彼はこの時間に珈琲を飲みながら、パイプを吸い、そして新聞を読むことが多かったようです。珈琲、パイプ、新聞。ダンディズム三種の神器。まだ10代だけども(注: 19世紀とは異なり、現代日本では10代の喫煙は法律で禁じられています。法定成人年齢と喫煙可能年齢は異なるので気をつけましょう)

 

 最後の「パピローサ」というのは、紙巻煙草の一種で、現代のシガレットの前身のようなものです。見た目はシガレットそっくりなのですが、少しだけ吸い口が長くフィルターがないことが特徴です。

↑ こちらがパピローサ。手前の部分が吸い口です。

 このパピローサはロシア発祥です。物資に乏しい兵隊が、葉巻煙草が手に入らなかったため、刻んだ煙草を新聞などの粗末な紙に巻いて代用したのが最初であると考えられています。

公文書上では、殿下が生まれた直後、1844 年に初登場し、以後煙草文化の一翼を担う存在になってゆきます。

 

 公爵が殿下に贈った「シガーケース」がどのようなものなのかは判然としませんが、同姓同名の彼の甥であるニコライ2世のシガーケースは遺っています。なんか悔しい。

↑ 金の内装がお洒落。

こちらはパピローサ、或いはシガレット用であった模様です。

 

 現在では、煙草は身体に悪いものとされ、禁止する方向に動いています。

しかし、当時は学説的にも曖昧で、アルコール同様、寧ろ身体に良いといった意見も根強く、色々と医学上の見解も割れていました。「喫煙が有益であるのかどうか~」という下りは、そのことを指していると考えられます。

 

 殿下の弟、アレクサンドル大公(後のアレクサンドル3世)は、「アルコール中毒」と言っても全く過言ではない程の大酒飲みになりますが、殿下はアルコールよりもニコチン派であったようで、飲酒をしている描写よりも喫煙をしている描写を目にする機会の方が多い印象を受けます。

 

 さて、それではこのお手紙に対する殿下の返信を見てみましょう。

 

手紙 ⑷

ロシア大公ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ

ヴラジーミル・ペトローヴィチ・メシチェルスキー

 

1863年12月5日

 

親愛なる公爵

 

 帰宅すると、机の上にあなたの書き置きと、その傍に小包を見つけました。素敵な書き置きと、立派なシガーケースに、二倍もの感謝を申し上げます。私にとっては、あらゆる高価な品よりも、心からの気持ちの方が嬉しいものですから、特に前者に感謝を。

 

 とはいえ、シガーケースの方も私に多大な歓びを与えてくれました。と申しますのも、私は意識して質素な品を持つように心懸けているからです。このような素晴らしいものであれば、尚更のことです。

 

 改めまして、心からの感謝をあなたに。正直で、誠実で、有益であることを標語とした私達の現在の関係が、末永く続きますように。

 

敬具
ニコライ

 

 明日お越しになりたいのなら、朝八時に来て下さい。確かに早朝ですし、もしかするとあなたには早すぎる時間かもしれません。しかし、唇には祝いの言葉を並べながらも心は空虚な人々に囲まれるよりも、あなたは少人数の場の方が良いのでしょう?

 

解説

 殿下からの返信でした。高価な品は贈られ慣れているのだろう皇太子殿下らしいですね。

 

原本のコピー

 信頼と安心の殿下直筆レターを見てみましょう。冒頭部です。

↑ 公爵の字を見た後だと、殿下の字の綺麗さの有り難みが染みる。

 

 ところで、殿下がいつも使っている、皇家御用達の便箋、洒落ていて素敵ですよね。商品化して欲しい。恐れ多くて書けないですけど。この紙にサインしていいのは、殿下の血族だけなので……。

 

贈物

 公爵から殿下へ送った品は、なかなか上等の品であったようです。そりゃあ、皇太子殿下に粗末な品は献上できませんからね。

 メシチェルスキー家は、所謂没落貴族の方に属し、かなり経済的に苦労する面もあったようで、政敵からは「皇家に近付いたのは、金を毟り取るためだ」と悪意ある批判をされたこともあります。

しかし、公爵の行動を見ていると、寧ろ殿下に貢ぎ物をすることの方が多いような。所謂「ホス狂」を想起するのはわたくしだけですか?

 

『回想録』にて

 これらのエピソードに見覚えのある方は、わたくしの記事をよく追いかけて下さっている熱心な読者さんかもしれません。

そうです、このメシチェルスキー公の書いた『回想録』の、31 節前半の内容が正にこのことに関してでしたね。

↑ 内容が対応しているので、併せて読むと情報が補完されますよ!

 『回想録』の方によれば、朝早くを指定した殿下ですが、どうやら「すっぽかし」ている模様。翻弄なさる。

 それにしても、公爵は散々「できるだけ少人数で」「できれば二人きりで」と言い続けてきた甲斐があったみたいですね! 多少図々しいくらいの方が、人生上手くいくのかもしれません。知りませんけど。

 

 最後に、その約十日後に送られた殿下から公爵宛の手紙を読みたいと思います。

 

手紙 ⑸

ロシア大公ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ

ヴラジーミル・ペトローヴィチ・メシチェルスキー

1863年12月16日

 

ヴラジーミル・ペトローヴィチ・メシチェルスキー公爵へ

 

12月16日

 

親愛なる公爵

 

 今回はあなたの予感は外れましたね。弟を連れて、単にご挨拶とパピローサを一服する為にあなたの所へ寄りました。夕方には戻ると期待していますよ。

 

 あなたの即興詩は大成功です、私はクシェレワ伯爵夫人と知り合いましたよ!!!

 

それではまた。
ニコライ

 

 あなたは、「俺の詩と К(クシェレワ。以下同様)伯爵夫人と知り合うことにどんな関係があるというのだ? 単に一貫性がないではないか。何か矛盾していないか?」とお考えでしょう。

 

 しかしこういうわけなのです。私達はクレインミヘリ伯爵夫人の展覧会に居ました。車輪は(嗚呼、不運なことに、早急に) К 伯爵夫人に手渡されました―――とうとう、私は彼女に紹介されましたよ。

―――サーシャはとろけださんばかりでした。二ヶ月も彼女に会えず、漸く!! ……でしたからね。

 

 私自身の感想は後ほど。

 

解説

 お疲れ様で御座いました! 殿下からのお手紙でした。

 

 こちらのお手紙は、やはり彼らの日常に紐付いていて、暗黙の了解がある事項も多いのでしょう、仔細な文脈などがよくわからないため、判然としない点も幾つかあります。

 

原本のコピー

 例に倣い、直筆のものを見てみます。今回は後半部です。

↑ я から伸びた尻尾。

 

 皆様は、殿下の性格を一言で表すなら、どのような語が当て嵌まるとお考えになりますか。

同時代人によれば、勿論様々な意見がありますが、もし一言で表すのなら、「冷静」な人物、と評されることが多いです。C が上がって S が下がります。

 そんな「冷静」な殿下が、エクスクラメーションマークを三つも付けているの、ヤバくないですか。テンションが高い。愛らしいですね。

 

公爵の家

 前半は、殿下が弟(ほぼ間違いなくアレクサンドル大公)を連れ、公爵の家へ訪れたことが語られています。公爵の家は、冬宮のすぐ近くにあるので、殿下たちが冬宮に滞在されている間は、寄りやすかったのではないかと思います。

「パピローサ」というのは、前述の通りの品です。

 ……それにしても、わざわざこのように書いているのは、殿下による「あなたの贈って下さったシガーケースをきちんと使用していますよ」という、そこはかとないアピールなのかもしれません。本当にやることがあざとい。

 

クシェレワ伯爵夫人

 「クシェレワ伯爵夫人」というのは、第一回でも登場している名です(ちなみに、『回想録』では公爵が削除している箇所)。

エリザヴェータ・イヴァーノヴナ・クシェレフ=ベズボロドコ伯爵夫人は、当時社交界で大変な美女として高名だった女性のようで、若かりし頃は所謂「面食い」だったアレクサンドル大公の恋のお相手だったようです。

 自身や弟のスキャンダルや、貴賤結婚(皇族の場合は、家族からの籍を抜けさせられ、国外追放になることも……)のリスクを恐れる殿下は、オペラ『椿姫』のジェルモンさながらの活躍をみせ、皇族たる弟に、恋しい伯爵夫人とは顔を合わせぬよう厳命していたことがここからわかります。

今回は偶然、殿下も彼女に紹介される巡り合わせとなり、頭を抱えている様子です。

 それにしても、「とろける(таял)」って。相変わらず文才があるなあと言うか、もうそれはわかりやすい反応だったのでしょうね、と言うか。

 

クレインミヘリ伯爵夫人

 ゾーラブ先生のご意見でも、この女性がどなたであるのかよくわからないようです。と申しますのも、当時「クレインミヘリ伯爵夫人(或いは伯爵令嬢)」を名乗ることができることができる人物は何人もいたからです。

 

 わたくしの意見では、わかりませんが、恐らくはピョートル・アンドレーヴィチの妻、クレオパトラ・ペトローヴナ(旧姓イリインスカヤ)のことではないか、と考えます。

↑ 1811年生まれ。没年は1865年で、殿下と同じです……。

 根拠としては、彼女の夫ピョートルが、国家事業としてのニコラエフ鉄道敷設の監督者であったためです。

殿下の手紙をよく見てみると、「展覧会」で展示しているものに「車輪」があり、こちらの展覧会は美術品や骨董品を展示しているというわけでは無さそうであろうことがわかります。

もしこの「クレインミヘリ伯爵夫人」が鉄道敷設事業の責任者の妻なのだとしたら、「車輪」が「展示」されていることに納得がいくため、個人的には彼女のことなのではないか、と予想しています。

 

 また、ヴラジーミル・ペトローヴィチ・メシチェルスキー公爵は、あの大作家兼大歴史家ニコライ・ミハイロヴィチ・カラムジンの孫ということで、ジャーナリズムのみならず、詩作にも力を入れています。それにより、流麗な文章で綴られる高火力殿下語りが凄まじいことに。

従って、文脈がないので何ともわかりませんが、この展覧会にて、何か詩を出品していたのではないか、と推測できます。

 

 ちなみに、このクレオパトラ・ペトローヴナ・クレインミヘリ伯爵夫人の三男ヴラジーミルは、なんとエカテリーナ・ペトローヴナ・メシチェルスカヤ公女と結婚します。

 彼女は、父称と苗字からも察せられる通り、ヴラジーミル・ペトローヴィチ・メシチェルスキー公の妹です。なんて狭い世界なんだ。ちなみに殿下と同い年。

↑ エカテリーナ・ペトローヴナ・メシチェルスカヤ公爵令嬢、或いはクレインミヘリ伯爵夫人。

 

 ちなみに、クレインミヘリ伯爵家は、長男ニコライ、次男アレクサンドル、三男ヴラジーミルで、皇家と命名が丸っきり同じです。

1830-40年代生まれでは、このような命名が非常に多いです。何故なら、当時の皇帝が、殿下の祖父ニコライ1世、皇太子が殿下の父アレクサンドル2世であった為。皇家に肖っての命名というわけですね。

殿下自身、「偉大なる」祖父の名が(敢えて括弧書きにしておきますが)、名の由来になっています。

 

最後に

 通読有り難うございました! 7500字強。

 

 最近、ふと思い立ち、クリスマスというか、サンタクロースのリサーチをしています。キリスト教徒ではないので、「無宗教の日本人にとっては、クリスマスはケーキを食べて『くるみ割り人形』を観るだけのイベントだろう」くらいにしか思っていませんでしたが、今年こそは詳しくなってやろうかと。

 と、申しますのも、サンタクロースは、シンテルクラース、シント・ニコラス(オランダ語)が訛った名前……つまり聖ニコラオスじゃん!? 殿下の守護聖人! と気が付きまして(今更)

殿下は敬虔な正教徒ですから、オタクであるわたくしもその勉強をしておかねばならぬと思った次第なのです。

↑ まずは教文館で見つけたこちらから。非常に平易で、入門向きだったので助かりました。

↑ 続けてこちらを。聖ニコラオスに関する章があります。

 従って、今回の記事は特に、殿下の「名の日」、12月6日までに脱稿したかったのですよね(尤も、こちらはユリウス暦なので、現在のグレゴリオ暦では12月19日なのですが)。間に合って良かったです。

 サンタクロース、特にその元ネタの聖ニコラオスに関して、お勧めの書籍や論文などありましたら、コメントやマシュマロなどでお気軽に教えて頂けると有り難いです。

 

 さて、次回は、殿下から公爵宛のお手紙を一通ご紹介する予定です。

今回ご紹介した手紙群から数ヶ月空いています。この間に、殿下は具合が悪化してしまったようで、精神的にも不調であることがわかります。

そして同時に、そのような不調を見せるくらい、公爵を信頼し始めてきているということもわかります。精神的で、少し哲学的な内容のお手紙です。本業である政治のお話もあります。お楽しみに。

 

 それでは、今回はここでお開きと致します。また次の記事でお目に掛かれれば幸いです!

↑ 続きを書きました。こちらからどうぞ!