世界観警察

架空の世界を護るために

特効薬は忠誠心 - 限界同担列伝4

 こんばんは、茅野です。

アウトプットに注力しすぎて、積ん読がド偉い事になってきた今日この頃です。また手が滑ってロシア史の学術書を買ってしまった……。

 

 はい、というわけで今回も「限界同担列伝」シリーズになります。ロシア帝国皇太子のニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下(1843-65)のことが大好きすぎて気がおかしくなりかけている周囲の人々を面白おかしくご紹介していくシリーズです。我ながら凄い勢いで書いているなあと思いますが、シリーズ企画を思いついたのが一週間前というだけで、リサーチ自体は3年掛けてしているので、正直あとは書くだけなのです。それにしても書いても書いてもわんさと湧いてくる限界同担の方々をなんとかして欲しい!

↑ 第一弾はこちらから。画家ボゴリューボフ篇です。

 

 第四回目となる今回は帝政ロシアを代表する法学者ボリス・ニコラエヴィチ・チチェーリン教授を取り上げます。殿下は、ロシア史上最も優れた帝王教育を受けましたが、「苦手な科目」という概念が存在せず、あらゆる科目で最良の成績を叩き出している化け物です。しかし、彼は次期統治者ということで、特に法学に関心がありました。聡明さに更なる興味が加わるとどうなるのか? 勿論、殊更天才的な能力を発揮しました。チチェーリン教授は、そんな殿下に正に法学を叩き込んだ人物です。

殿下の教師陣は誰もが、貪欲に知識を吸収し、それを応用し活躍する優れた生徒に惚れ込みましたが、特に優れた能力を発揮した法学を教えたチチェーリン教授の殿下への惚れ込みようというのは凄まじいものがありました。今回は、そんな教師と生徒の関係を追ってみようと思います

 

 今回引用しますのは、第二回グラッベ将軍篇でも用いたタチチェフ先生の学術歴史書アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公の幼少と青年時代(Детство И Юность Великого Князя Александра Александровича)と、エヴゲーニー・ペトローヴィチ・トルマチェフ先生の『アレクサンドル3世とその時代(Александр III и его время)』、そしてアレクセイ・カラムルザ氏の書籍フィレンツェに纏わる著名なロシア人(Знаменитые русские о Флоренции)』です。後者は、「○○(地名)に纏わる著名なロシア人」シリーズとして、色々な場所のものが刊行されています。今回用いるのはフィレンツェ編です。ちなみに、こちらは600ページある大著ですが、中にはドストエフスキーチャイコフスキーなども載っているので、ご興味ある方は是非読んでみて下さい(邦訳はありませんが、原文は電子書籍版で簡単に入手できます)。

 それでは、お付き合いの程宜しくお願い致します!

 

 

ボリス・ニコラエヴィチ・チチェーリン教授

 今回の主人公、チチェーリン教授について簡単に見てゆきましょう。

生まれは1828年、ニコライ一世統治下の時代です。没年は1904年で、75歳まで生きました。今回見てゆくエピソードは主に1864年のものになるので、当時は36歳ですね。側近の中でもかなりの若手です。

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1873年頃の教授。この肖像画めちゃくちゃよくないですか??

 若くしてモスクワ大学の法学教授となり、教鞭を執りました。その優秀さは宮廷でも評価され、1863年から殿下に法学、特に憲法を教えることになります。

 ロシア帝国には当時憲法がありませんでした。しかしながら、だからこそ、カリキュラムでは「憲法とはどういったものか」「諸外国ではどのような憲法が導入されているか」「ロシアに憲法は必要か」「また、必要ならばどのようなものをいつ発布するべきなのか」というような、将来の統治に密接に関わる諸問題を教えていたといいます。

 法に関心があった殿下の知識の吸収スピードは異様で、「スポンジが水を吸い取るかのように(教授談)」、法を覚えてゆきました。1年以内に予定されていた内容を覚えきり、チチェーリンは殿下の類い稀な記憶力と知性に完全に惚れ込み、溺愛するようになります。

 

 チチェーリンは、コンスタンティン・ドミトリエヴィチ・カヴェーリンと共に、19世紀半ばを代表する政治思想家・法学者であり、ロシアに於ける保守自由主義を確立した人物です。農奴の解放、言論の自由、全階級への教育などのリベラルな施策を、「上から」推し進めることを目指していました。これは殿下の父であるアレクサンドル2世が「大改革」で為そうとして、道半ばで挫折した道でもあります。彼は我らが殿下に、この美しき人道的な道を敷設して欲しいと願っていたわけですね。殿下は、この段階では、彼の望みを見事に叶えました。

チチェーリンとカヴェーリンの思想について詳しく知りたい方は、杉浦秀一先生の論述を読むとよいとおもいます。オススメです。(『チチェーリンにおける国家と社会』『カヴェーリンにおける「人格」と「民族性」』)。

 

 資料を読んだ感想ですが、チチェーリン教授は割と剽軽な人だったのかなという気が致しました。結構テンションが高いイメージがあります。尤も、彼に会ったこれまた高名な帝政ロシアを代表する政治思想家アレクサンドル・イヴァーノヴィチ・ゲルツェンによれば、「彼は冷たい目をしていて、声音は挑発的だった」そうですから、殿下の前でだけ「親ばか」ならぬ「教師ばか」になっていた可能性も否めません。

 

殿下の憲法に関する考え

 最初に、チチェーリン教授の教えを受けた殿下が、憲法についてどのような考えを持っていたのかについて見てゆきたいと思います。彼は以下のような結論を導き出しました。これは殿下が書いた友人メシチェルスキー公爵宛の手紙の一部です。

 «Некоторые говорят, что людей создает конституционный образ правления. Я об этом не раз думал и кое с кем разговаривал. По-моему, вряд ли это верно... 

 Мне представляется, что неограниченный монарх может гораздо более сделать для благасвоего народа, чем ограниченный, потому что в каждой палате гораздо более интересов личных и партийных, чем может их быть в самодержавном государе».

 『立憲制こそ統治の在るべき姿だ、と仰る方々も居ます。私もそのことについて何度も考え、何度も議論しました。私の考えでは、これは疑わしいのではないかと思うのです……。

 これは私の確固たる信念であり、何人たりとも私の見解を変更させることはないことを望みます。制限無き君主は、国民に対し、制限のある君主よりも遙かに多くのことを成せるのではないかと私は考えます。何故なら、各議院には、専制君主よりも遙かに多くの、私的な、或いは党派的な利害対立が発生するからです。』

 君主が優秀だったら、別に憲法とか要らなく無い?(真理)。

あの、殿下、ちょっと宜しいですかね、僭越ながら申し上げたいのですが、それができるのあなただけなんで……他の人には絶対に無理なんで……。「君主が優秀だったら」の条件を己で満たしているのが恐ろしすぎます。「殿下ならできるに違いない!」とおもわせてしまうところが、この人のヤバいところです。更に言うなら、この手紙を書いていたとき、殿下は19歳です。

 

 省略していますが、殿下は、当時のロマノフ朝史の中で最も開明的だったエカテリーナ2世時代と、最も保守的だったニコライ1世時代の統治をあらゆる角度から比較し、検討する論文を書いており、この手紙でもこの二時代の考察がなされています。更に、殿下は諸外国の憲法やロシア国内法をほぼ丸暗記しており、外遊では各国の首脳に憲法について議論を持ちかけ、その国の君主たちよりも深い理解を示していることで驚愕されています。

その上で導き出された結論がこれだと言うのなら、もう従う他ありません。「自分ならそれができる」という自信も素晴らしい。更に言えば、こんなことを言いつつ、リスクヘッジとして、特にイタリアのサルデーニャ憲章(アルベルト憲章)をベースに、「もし憲法を導入するのなら、内容はこんな感じ」という草案のある程度の雛形まで頭の中にあったらしいというのだから、もうあなたに反論できる人はいないと思われますよ、殿下。

↑ オタクを拗らせているので、殿下が特に関心を持っていたアルベルト憲章は邦訳済み。こちらからどうぞ。

いや、そりゃチチェーリン教授だって惚れますよ……。

 

ヴェネツィアにて

 この「限界同担列伝」シリーズ第一回ボゴリューボフ篇、第二回グラッベ将軍篇では、63年に行われた殿下の国内査察旅行のことを主に執筆致しました。チチェーリン教授は、この国内旅行には携わっていないのですが、64年に行われた殿下の国外外遊の一部に同行し、共にイタリアとフランスに訪れています。10月の半ば、彼らはヴェネツィアに到着しました。しかし、殿下の身体の不調は色濃く姿を現し始めます。それでは、チチェーリン自身が書いた記録を読んでみましょう。

 «Цесаревичу очень понравилась Венеция, однако болезнь давала о себе знать... Бедному юноше не суждено было вспоминать очровательную Венецию на берегах Невы. Здесь в первый раз появились признаки той болезни, которая должна была свести его в моглу. Он почувсвовал сильную усталость и в последние дни уже с видимо ослабевшим интересом осматривал картины. Мы приписывали это всем предшествующим волнениям и не придавали этому особенного значения, тем более что доктор был совершенно спокоен...»

 『皇太子はヴェネツィアを大層気に入っていましたが、しかし病が姿を現し始めました。哀れな青年は、ネヴァ河の畔で美しきヴェネツィアを想い出すことは無かったのです。ここで始めて、彼を墓に引き摺り下ろすことになった病の兆候が現れました。彼は酷く疲労を感じており、最後の数日には明らかに眺めていた絵画に興味が薄らいでいました。』

 「始めて病の兆候が現れた」と言うのは、あくまでチチェーリン教授視点での話であり、実際の発病自体はもっとずっと前のことです。殿下自身が無理をして病を隠そうと努めていたので、実際にいつから患っていたのかは特定できませんが、3年近く前(17歳の頃)まで遡れるのではないかという説が有力です。

以前に特に症状が重く出たのは同年64年の7月のオランダ滞在中で、その頃の殿下は元から痩身なのに大幅に痩せ、顔色が悪かったといいます。しかし、殿下は無理に気丈に振る舞い、その外遊での任務であった外交も申し分なく完璧にこなしていました。それまではほぼ隠し通せていた身体の不調ですが、とうとう我慢の限界が来たのが10月、ヴェネツィア滞在中でした。

 

 「絵画を見ていたって、単純に遊び? お休み?」とお思いかもしれませんが、こちらも重要な外交上の任務でした。確かに、殿下はシリーズ第一回で確認したように、古物や絵画を見ることが好きだったようですが、単に遊んでいるわけではなく、それは次期皇帝となる殿下自身の学びの為であったり、素晴らしいものがあれば購入してロシアの文化発展に寄与するなど、色々な意味がありました。

ちなみに、女帝エカテリーナ2世は、所謂「ここからここまで買い」をして、イタリアから大量の芸術品を輸入したことがわかっています。どんな財力だ、ロマノフ家……。

 

伊露会談

 次に、わたくしが大好きな第二回伊露会談のエピソードをご覧に入れたいと思います。いや、本当に好き。ヴェネツィアを離れた殿下一行はミラノでイタリア王子ウンベルトと会食を行います。ここでのエピソードも滅茶苦茶面白いのですが、今回はチチェーリン教授が主人公ということで、その後に訪れたトリノで「イタリア統一王」として高名な王ヴィットーリオ・エマヌエーレと会食を行った際のエピソードを取り上げます。

 Король Виктор Эммануил принял Цесаревича в Турине запросто и, когда увидел, что гость его и вся его свита явились к нему в парадных мундирах, до того смутился своим небрежным и совершенно домашним туалетом, что, вырвав у дежурного камергера складную треугольную шляпу, положил ее подмышку, хотя сам был в простом пиджаке.

Он также дал в честь русского Наследника обед, к которому были приглашены все министры и даже несколько дам. После стола Цесаревичу представлены были все присутствующие, и всех он поразил разумом и тактом своих речей. Тогдашний итальянский первый министр, известный генерал Ла-Мармора, до того был очарован Наследником, что сказал находиящемуся поблизости Чичерину: «Надо отдать справедливость Великому Князю. Этот молодой человек — совершенство. Как вы должны гордиться им!»

 ヴィットーリオ・エマヌエーレ王は、トリノで格式張らずに皇太子を受け入れたが、客人とその側近たちが軍の礼服で正装しているのを見て狼狽えた。彼は無頓着で全く家庭的な己の服装を恥じ、当直の侍従の洒落た礼式三角帽子を奪い取って脇の下に挟んだ。彼は無地のジャケットを着ていた。

また、彼はロシアの帝位継承者を歓迎する晩餐会を開催し、全ての大臣と数人の女性を招待した。食事の後、皇太子は全ての出席者に紹介され、そして彼は知性に溢れ機転の効いた演説で皆を感心させた。当時のイタリア首相であった有名なラ・マルモラ将軍は、皇太子に魅了されて、傍に居たチチェーリンに言った。「大公に正義を尽くさなければなりません。この若者は完璧です。あなた方はどれ程彼を誇りに思っていることでしょう!」。

 教授のドヤ顔が目に浮かぶようだ……。殿下の渾名の一つは「完成の極致(верхом совершенства)」ですが、本当に彼のことを「完成」とか「完璧」だとか呼ぶ人の多いこと。わたしもそう思います。

 

 「イタリア統一王」ヴィットーリオ・エマヌエーレは、それまで分裂していたイタリアの再統一(リソルジメント)を成し遂げた偉大な王で、イタリアで今でも愛されている優れた人物です。

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↑ お髭がハンパない。

 王太子ウンベルトが当時20歳で、殿下の一つ年下ですから、殿下からしたら完全に親世代です。イタリア王は、殿下に出逢って、愚鈍な息子に嘆いたと言います(ちょっとそこまで言うのは可哀想なのでは……殿下ファンとしては気持ちもわからなくはないですが……)。

 

 イタリア首相ラ・マルモラは、イタリア王国第6代・7代首相です。このエピソードは64年10月ですが、第2次ラ・マルモラ内閣は9月28日に発足したばかりでした。64年当時60歳で、長年にわたり戦争大臣を務めていた経歴があり、交渉が上手く、特に緊急事態時に戦局を見極められる非常に優れた政治家でした。

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↑ この肖像画も滅茶苦茶いいですよね……。

そんなラ・マルモラ首相を「魅了(очарован)」した(この単語、「悩殺する」という意味もあって笑ったのですが、流石に自重しました)殿下、相変わらず恐ろしい。

 

 色味が微妙にわかりづらいですが、イタリア王国軍の礼服は上記の二人が肖像画で身につけている、緑がかった美しいマリンブルーの外套のものです。尤も、王はこれをお召しにならなかったそうですが!

一方で、殿下一行が纏っていたというロシア帝国軍の礼服は、黒に近い深い緑の外套で、肩章やモールなどの金と、襟などにある差し色の赤の対比が非常に美しい制服です。白黒写真ですが、殿下が着ているものがあるのでご紹介します。

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↑ 礼服を纏った10代半ばの殿下。いっつも思うけど、その一房だけ垂れてる前髪はなに……。"わかって" いらっしゃる。

 

 それにしても、側近の中でもよりによってチチェーリン教授に言うとは。たまたま傍に居たのがチチェーリンだったようですが、それもまた運命の悪戯。

 

フィレンツェの悲劇」

 トリノで王との面会を果たし、イタリア滞在中最大の外交任務を遂行した殿下は、次の滞在先のフィレンツェでとうとう倒れてしまいます。読んでいるだけで痛くなってくるような記述が続きますが、読んでみましょう。

 Когда поезд остановился, Николай Александрович с трудом приподнялся, жалуясь на острую боль в спине. Чичерин и Оом накрыли его пледом и, поддерживая за руки, помогли ему выйти из вагона.

 На другой день наследник-цесаревич ииел еще силы поехать осмотреть картинную галерею в Palazzo Pitti - но это был его первий и последний выезд во Флоренцим. На третий день он слег, жалуясь на ту же боль в спине, на которой появилась краснота с небольшою опухолью.

 列車が止まったとき、ニコライ・アレクサンドロヴィチは背中に鋭い痛みを訴え、立ち上がることにすら酷く苦労を要した。チチェーリンとオームは、彼を外套で覆い、両腕を支えて車両を出るのを手伝った。

 翌日、皇太子はピッティ宮殿の絵画を観に行く体力があったが、しかしそれがフィレンツェでの最初で最後の外出になった。三日目には彼は倒れ、背中の痛みを訴えた。そこには赤く小さな腫瘍ができていた。

 これまで色々な殿下の死に纏わる文献をご紹介してきた弊ブログですが、苦しむ姿を捉えたのは始めてかもしれません。何でも良いから休め!!

こちらをご覧になった皆様におかれましては、「脳とか肺じゃなくてたかが背痛?」とお思いかもしれません。当時は医療が発達していなかったので、当時の医師や側近たちも同じような認識でした。しかし、殿下の死後、遺体を解剖した医療記録が残っているのですが、その中に「脊椎が壊死していた」とあります。(«Костный некроз достиг мозговой оболочки.(骨の壊死が髄膜に達している)»)。殿下はひたむきに隠し続けていましたが、実際は脊椎結核を患っていたのでした。

 最終的な殿下の死因は結核髄膜炎ですが、オーストリアの医師ズデカウエルによれば、「発症は死の半年ほど前だろう」とのことです。殿下が亡くなったのは4月末。つまり、そう、この11月のフィレンツェ滞在中に脊椎の壊死が髄膜に達し、結核菌が転移して髄膜炎を併発した、と考えられます

結核髄膜炎は医療設備の整った現代でも予後不良の病ですが、初期症状は頭痛に発熱など、一般的な風邪と大差ないもので、発症に気付くのが遅れることも致死率を高めている理由の一つです。実際、他の文献と照らし合わせると、フィレンツェ滞在中は頭痛や発熱の症状もあったようなので、このことを裏付けていると言えます。初期の軽い頭痛なんかより、背痛の方がずっと酷かったのでしょう。そりゃあ壊死なんかしてたら尋常じゃ無く痛いに決まってます。

 

 殿下の記録を読んでいると、誰でも「彼は愛想が良く」「親切で」というようなことを書いていますが、それは勿論、殿下が意識的にそのように振る舞っていたからです。逆に言えば、殿下は「人前で皇族が不機嫌だったり、不親切だったりしていてはならない」と考えていたわけで、その中には明らかな体調不良や卒倒も含まれていました。従って、その信条を心得ている側近のチチェーリンやオームは、具合が悪い人物がロシアの皇太子であるとは悟られないように、外套(マント)で覆った、という次第なのでしょう。

 

 「ピッティ宮殿」と申しますのは、フィレンツェにある宮殿で、ウフィツィ美術館という巨大な美術館と繋がっており、主にルネサンス期の美術品が多量に飾られていました。ラファエロボッティチェリルーベンスなどの作品を収蔵しています。

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↑ ピッティ宮。歴史を感じさせる豪奢なお城です。

殿下は、画家ボゴリューボフも褒め称えていたように、美術にも関心があり造詣が深かったのですが、当時は痛みでそれどころではなかったことでしょう。時期が悪かった……。

 

特効薬は忠誠心

 殿下の病は悪化する一方で、側近たちはこれ以上の外交任務を一時停止し、彼を療養地ニースに送ることに決めます。一方、何の因果か、チチェーリン教授も同地フィレンツェで、ほぼ同時期に倒れてしまいます。仲良しですね……(?)。

 教授は、イタリアの地でチフスに罹患していました。伝染病ゆえ、病身の殿下からは隔離されて別棟に移り、一人高熱に魘され、一時は危ない状態だったと言います。殿下とは異なり療養先としてローマが選ばれ、そこで暫く療養することになりました。ところが……。

 それでは、少し時を進め、12月にニースに移った殿下の記録を読んでみましょう。

 Все вечера проводил он дома, не видя никого, за исключением обычных своих спутников: попечителя графа Строганова, полковника Рихтера, адъютантов Козлова и князя Барятинского, доктора Шестова и профессора Чичерина, поспешившего тотчас по выздоровлении приехать из Рима в Ниццу. С ними он играл в шахматы и вел оживленные беседы о самых разнообразных предметах. Телесные страдания нисколько не повлияли на ясность его рассудка и здравомыслие высказываемых им суждений.

 彼はいつも夜は家で過ごし、一部の例外をのぞいて誰にも会わなかった。それは自分の側近で、世話役のストロガノフ伯爵、陸軍大佐リヒテル、副官コズロフ、そしてバリャチンスキー公爵、医師シェストフ、そして病を克服しローマからすっ飛んできたチチェーリン教授だった。彼らと共に、彼はチェスをしたり、多種多様な話題で盛り上がったりした。肉体の苦痛は、少しも彼の明晰さと判断の正しさが反映された分別ある発言に影響しなかった。

 忠誠心でチフスを治す男、ボリス・チチェーリン。殿下への愛はそのうちコロナにも効くようになります(※真に受けないでください)。

当時、チフス予後不良の病で、悪化した際には医者も諦めかけたほどだったと言います。それが、殿下の容態は酷くなる一方という報を受け、1ヶ月後には全快し、ニースに駆けつけます。『病は気から』、とは言ったものですね。いや、それにしてもどうかとおもいますけど!

 

 殿下は歴史も美術も大好きだったので、ローマで過ごした教授に、病床でローマの話をせがみ、羨ましがったと言います。「イタリアに行ったのにローマに行けなかった」と、とても残念がっていたそうです。ミシェル・ビュトールの『心変わり』も真っ青ですね(※フランス文学。筆者は実は仏文専攻なので、この作品でもレポートを書いたことがあります。ローマに纏わる旅の物語です。

 

 ちなみに、ここで出て来る「家」というのが、ディースバッハ荘であり、ベルモン荘です。

↑ ベルモン荘での殿下の死の前後を描いた詩人ヴャーゼムスキーのエッセイ。ディースバッハ荘の解説もこちらにあります。

 

教授陣を越えて

 最後に、ニースでの1エピソードをご覧頂き、閉めたいと思います。チチェーリン教授は、前回である第三回の二人とは違い、純粋な意味で殿下を誇りに思っている様子が伺え、同担としてもきもちのよい人物だなと感じます。それでは、どうぞ。

   "Граф Строганов, -- повествует Ф. А. Оом в своих воспоминаниях, -- часто вызывал Наследника выразить мнение о прочитанной им книге.  Вызов этот делался незаметно для юного воспитанника тем, что почтенный старик, сам прочитав книгу, высказывал нарочно мнение совершенно противное его убеждению, приготовившись, однако, заранее к защите такого взгляда. Цесаревич тогда чуть не выходил из себя, но цель графа достигалась. Цесаревич с жаром излагал свое мнение, которое большею частью было не только верно, но подкреплялось аргументами и дополнениями, которые отличались основательностью воззрений, доказывая многосторонность образования, память и зрелый ум. Слушая его, невольно приходилось сравнивать мозг царственного юноши с сокровищницею, из которой он по мере надобности выдвигал ящик со сведением, ему нужным в данную минуту...
 «А как Вы полагаете, Борис Николаевич, — продолжал он, обращаясь к Чичерину, — ведь Николай Александрович по уму перещеголял нас с Вами». Чичерин рассмеялся: «Да неужели, граф, Вы только сегодня заметили это? Дайте этому юноше то, что мы приобрели годами, опытность и начитанность. Это был бы гений».

 フョードル・アドルフォヴィチ・オームは、己の回想録の中で物語る。『ストロガノフ伯爵は、読んだ本についての意見を表現させる為にしばしば帝位後継者を呼び出しました。呼び出しでは、若い教え子に気付かれないよう、尊敬すべき老練家が、自ら本を読み、事前に反論の準備をしてから、故意に信念とは全く相反する意見を述べました。皇太子はそのとき危うく我を失いかけましたが、しかし公爵の目的は達されたのです。皇太子は熱っぽく己の意見を述べました。それは正しいだけではなく、論理を補強し、正当な見解を際立たせ、多方面にわたる教養深さ、記憶力、そして円熟した知性を立証していました。彼の話を聞いていると、この皇族の青年の頭脳を、必要に応じて知識を取り出せる宝庫と比較せずにはいられません。』(中略)

 「貴方はどう思われるかな、ボリス・ニコラエヴィチ」とストロガノフ伯爵はチチェーリンに向けて続けた。「ニコライ・アレクサンドロヴィチは私や貴方よりも智力で勝る」。チチェーリンは笑い出した。「伯爵閣下、本気ですか? 貴方は今日になって漸くそのことに気付いたと仰るので? 我々が長年培ってきた経験や知識をこの青年に授けましょう。間違いなく天才になります」。

 本当に今頃気付いたんですか!?(殿下の死の2週間弱前)。時期が時期なので言葉が重いと申しますか、切ないの極みです。

この最後の発言は、歴史書などで殿下が紹介される際、よく引用される台詞です。出典はこのエピソードなんです!

 

 このエピソードで語られる殿下の反論ですが、死の二週間弱前に行われた議論では、殿下からの反論だけで1時間半あり、彼はこの間延々伯爵に反論し続けたらしいです……怖……。わたくしは国際政治について討論する研究会に属しており、議論をすることは大好きですし、比較的得意な方だとも自認していますが、殿下とやりあったら5秒で負けそうです。

ちなみに、こういう議論になると、チチェーリン教授は途中で自分を抑えられなくなって、殿下の肩を持って議論に参戦しちゃうらしいです。なんか可愛いですね。その際、側近の一人で、記録を纏めて皇帝に提出する義務を負っていたオームに「勿論教授は皇太子の味方だった」みたいな書き方をよくされていて、笑えます。そうでしょうとも。

 

 また、ここでストロガノフ伯爵は「二コライ・アレクサンドロヴィチ」と殿下のことを呼んでいますが、この名前+父称呼びは、日本語で言うと「さん付け」くらいに相当します。前回、殿下のことを「ニクサ」と呼ぶことができたのはほぼ家族に限られた、とご紹介しましたが、「ニコライ・アレクサンドロヴィチ」と呼ぶことが許されたのも、側近と友人に限られていましたそれ以外の部外者は、「さん付け」ですら不敬にあたるわけです。やはり「殿下」呼び安定ですね。

 

 セルゲイ・グリゴリエヴィチ・ストロガノフ伯爵は、皆様もよくご存じのお料理「ビーフ・ストロガノフ」でお馴染みの超高名なストロガノフ伯爵家出身の貴族です。殿下の教育責任者で、当代一の知識人でした。責任者且つ高齢ということで、殿下の側近たちの中でもリーダー的存在でした。

 教育者及び側近の一人として、彼もまた殿下のことを深く愛していましたし(しかし突飛なエピソードはないので、今のところこのシリーズでご紹介する予定はありません)、殿下も慕っていました。

一方、このエピソードなどでもわかるように、少々スパルタ気質らしく、高名な詩人のフョードル・チュッチェフなどは「ストロガノフ伯爵が殿下に過労を強いたのだ」と根拠も無く糾弾しています。確かに、ストロガノフ伯爵は厳しい人物だったようですし、少々配慮が足らないところがあり、且つ、殿下が過労だったのも客観的に見ても事実でしょう。しかし、殿下に纏わる文献を読む次第では、伯爵もまた殿下のことを愛し労っていましたし、少なくとも故意にそのようなことをした事実はありません。

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↑ 1865年のストロガノフ伯爵の肖像。老練な政治家という感じ。

 

 この記事では、殿下の教師陣の中でも特に熱狂的に殿下を愛していた法学担当のチチェーリン教授を取り上げましたが、他の教師たちも皆殿下を愛していました。

 例えば、世界史を教えたミハイル・マトヴェーヴィチ・スタシュレヴィチ教授は、1865年、殿下がニースで闘病していた時のこと、ペテルブルクの晩餐会で、乾杯の際に殿下の健康を願い、彼を讃える同席者たちの熱狂的な叫び声が5分以上続いたとかで(その時点で怖いのですが)、突然涙が止まらなくなり、隣に座っていた商人にこのように問いかけられました。

— Видно, вы очень любите наследника?

— Да, — отозвался Стасюлевич, — потому что знаю его хорошо: я был его учителем.

 Стасюлевич, который три года преподавал историю наследнику, говорил, что цесаревич учился очень хорошо и вообще был прекрасным существом. Стасюлевич, как отмечал Никитенко, не мог вспоминать о нём без глубокой скорби и умиления.

「見るに、あなたは大層皇太子のことを愛しているご様子ですね?」

「はい」スタシュレヴィチは答えました。「彼のことをよく存じ上げているものですから。私は彼の先生だったんです」。

 スタシュレヴィチは皇太子に歴史を三年間教えていた。彼によれば、皇太子は非常によく学び、概して立派な人だったという。(文学史家の)アレクサンドル・ヴァシリエヴィチ・ニキテンコによれば、スタシュレヴィチは深い悲しみと感動無くして彼を思い出すことができなかったという。

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↑ スタシュレヴィチ教授。

 

 他にも、こちらもよく歴史書で殿下が紹介される際に引用されるものですが、ロシア史担当だったセルゲイ・ミハイロヴィチ・ソロヴィヨフは以下のように言います。

 Соловьев говорил, что если бы из Московского университета выходил раз в десять лет один студент с познаниями русской истории, какие имел цесаревич, то он считал бы своё призвание исполненным.

 ソロヴィヨフによれば、モスクワ大学で10年に1人でも、皇太子ほどのロシア史の知識を持つ学生を輩出すれば、自分の使命は果たされたと思う、と語った。

 「モスクワ大学」といえば、日本で言う「東京大学」に相当するわけで、当時から国内最高峰の学府でした。その上でこの発言がくるわけですから、殿下はどれだけロシア史に詳しかったんだ……という話になります。

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↑ ソロヴィヨフ教授。

 

 殿下にロシア文学とロシア語を教えた高名な小説家イワン・アレクサンドロヴィチ・ゴンチャロフは、優れた小説家ではあったものの、人に教えた経験が全く無く、殿下の教師になることに尋常では無い不安を抱えていました。できる限りの力で準備した講義は、殿下に大層愛され、週2回の予定だった授業は、殿下たっての希望で3回に増やされました。

 殿下に教える為の講義ノートは、殿下が亡くなって15年が経った後でも、彼の机の引き出しの取り出しやすい位置に入っていたと言います。

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↑ 作家ゴンチャロフ

 

 これだけでも、まだ「一部」で、まだまだ沢山あるのですが、キリがなくなるので終わりにしようと思います。教師達からも深く愛された殿下でした。

 

最後に

 通読ありがとうございました! 15000字強です。この記事は比較的短く纏める予定だったのに、もれなく失敗しましたね。

 教師陣を一気にご紹介して参りましたが、教師以外にも限界同担は沢山いるので、次は教師以外の限界同担をご紹介したいと思います。ほんとに、何人いるんだ……。

 それでは、長くなりましたのでお開きとさせて頂きます。次の記事でお会いしましょう!

↑ 続きが上がりました。メシチェルスキー公爵篇です。