世界観警察

架空の世界を護るために

メシチェルスキー『回想録』1864年33節(後編) - 翻訳

 こんばんは、茅野です。

もう梅雨入りでしょうか? 信じられない……。

 

 さて、今回は、メシチェルスキー公の『回想録』を読むシリーズ第六弾です。

↑ 第一弾はこちらから。

 

 第六弾となる今回は、前回の1864年編第33節の続きになります。

前回は、オランダのスケフェニンフェンでの逢瀬についてでした。この後、公爵はロンドンへ赴きます。このロンドン編は割愛させて頂きますが、こちらもこちらで興味深いです。

公爵は出費を抑えるために身分を偽って行動するのですが、現地のロシア貴族が偉そうでムカつくので、「私はここにスケフェニンフェンから来たのですが(=皇太子と親しいのですが)」とナチュラルにマウントを取り、相手が突然に恭しくなったのを見て笑う、という面白エピソードなどが紹介されています。

 このイギリス編の後に展開されるのが、これからご紹介する33節後半です。こちらでは、ダルムシュタットでの最後の逢瀬と対話について綴られています。

 

 それでは今回も、お楽しみ頂けると幸いです。

 

 

33節

(前略)

 スイスとドイツの一部を巡り終えると、既に晩秋になっていた。私はロシアに帰国する途中、皇家の滞在していたダルムシュタットへ寄った。そこには、デンマークから、婚約を終えた皇太子も来ていた。

 

 私が到着した時、小さなダルムシュタットの街ではロシアの従僕や伝令たちが駆けずり回っており、私にはそこがツァールスコエ・セローになったかのように思えた。

 

 ホテルの一室で夜を過ごし、朝になると私は庭へ散歩に出掛けた。そこで皇帝に出逢い、親切にも彼の方から声を掛けられた。

私は皇帝に、皇太子の婚約について祝いの言葉を述べた。

「君もおめでとう」、皇帝は喜びで輝いた顔で私に言った。

 

 夜、宮殿での茶会への招待を受けた。そこで、私は皇太子に再会した。

喜びに満ちた自然な笑顔、爽やかで落ち着いた雰囲気の彼を前にして、私は言葉にできないほどの喜びを覚えた。

 

 「日中、私のことは捕まえられないでしょう?」、彼は私に言った。「ですから、お茶会の後、私の所へ来て頂けませんか。以前のようにお話しましょう……」。

 

 茶会は、ツァールスコエ・セローの中国の間のような雰囲気の中進んだ。

皇后が丸い茶席に腰掛け、茶を注ぐ。皇帝は仲間達―――アドレルベルク伯爵、イヴァン・マトヴェーヴィチ・トルストイ、そしてシュヴァーロフ伯爵―――とトランプに興じる。

新顔はダルムシュタットの宮廷の人々だけだった。五十歳程の尊敬すべき年配の大公、大公夫人、アレクサンダー王子、皇后の兄弟と王女、そして若い公爵たちであった。

そこで、ヴラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公が、明日、一緒にロシアに帰らないかと誘ってくれた。

 

 茶会の後、私は皇太子の元へ赴いた。

 

 これが、嗚呼、彼との最後の会話になってしまった。

彼は冬にイタリアか南フランスを訪問することが決まっていたので、翌日には南へ旅立たねばならなかった。

私が彼の部屋に入ると、皇太子は扉に近付いて施錠し、そして言った。

 

 「さて、これで内緒話ができますね……」。

 

私の質問を待たずして、皇太子は告げた。

「さあ、ヴラジーミル・ペトローヴィチ、あなたは今の私になら満足して頂けますね。何せ、私は今幸福を感じていると申さざるを得ないのですから……」。

皇太子は私に、花婿としての彼の新しい美麗な心情と、デンマークでの滞在についての一部始終を語ってくれた。彼が言葉を紡ぐげば紡ぐほど、彼の語る新しい世界とその印象の地平が拡がり、私の魂は幸福で満たされていった。

「私は今、岸辺にいるわけです」。皇太子は私に言った。「冬の間のイタリアでの休暇、それから婚礼、そしてその後、家庭や勤めなどの新しい生活を、神が与えて下さいます……。漸くその時が……。もう浮ついた生活にはうんざりしていたところです……。

スケフェニンフェンでは、暗黒の考えで頭が満たされておりましたけれど、デンマークでそれは振り払らわれて、ばら色の考えに差し替わりました。フィアンセのお陰と言っても間違いではないと思うのです、その時から私は未来を夢見るようになったのですから……。私は、彼女と家庭を築くこと、共に仕事をし、共に生きる理想的な人生を思い描き、願っています……。

それから、私の意見にきっとご満足頂けることと承知しているのですが、―――私が更生するに至った原因となった一人が、あなただということです。あなたは私の良い面を見出し、絶えず私の根気を呼び起こして下さったでしょう。

スケフェニンフェンで私をお叱りになったこと、覚えておいでですか?

ええ、ヴラジーミル・ペトローヴィチ、あなたとご一緒していたあの日々は、私には苦しかった。しかし、神がお望みになるなら、よりよい日々を与えて下さるはずです。

さて、それでは、あなたの旅の印象について伺っても宜しいですか? あなたからのお手紙を拝見する限りでは、イギリスがお気に召したようですが。私ですら、イギリスを愛せるのはイギリス人だけかと思っておりましたよ」。

 

 私は皇太子に、私の得た印象の本質について伝えた。

 

 私はそれを伝えるのが恥ずかしかった。何故なら、秩序と人材という点で、イギリスはロシアよりもずっと勝っているというのが主な印象であったからだ。

そして、それぞれの政界は全く独立していた。

イギリスは国会、フランスはイギリスに似た憲法の下に立憲君主制、スイスでは共和制の元、それぞれ優れた政治を行っていた。

 

 「ええ、仰る通りです」。皇太子は私に答えた。「私はあなたよりも遙かに知見が狭いでしょうけれど、同じような印象を抱きましたから。しかし私は、その分我々には将来性があるのだと、自らを鼓舞しています。

ここヨーロッパには、夏が訪れています。一方、我らがロシアは無秩序な春に留まっています。しかし希望があり、最初の芽吹きに目覚めた人々がいる春なのです。すべてはこれからですよ」。

 

 「あなたがヨーロッパを夏に、ロシアを春に喩えたのは非常に的確です」、私は皇太子に答えた。「しかし、私には一つ疑問に思っていることがあります。それは、人々について、或いは人々の欠如についてです。我々には果たして統治の才ある人材がいるでしょうか? 彼らは天才ではありませんが、ヨーロッパにもそんな者はいないのだから、それは問題になり得ません。不幸なのは、私が思うに、彼らがロシアに感心がないことです。彼らは自分の仕事やら、自分の国家やらに夢中になっていますから」。

 

 「それもまた然りですね」、皇太子は言った。「しかし私には、探し出せていないだけで、そのような人材はある程度既にいるのではないかと思われます。昨年のロシアの旅で、有能且つ興味深い人々とどれほど出逢ったことでしょう。私は、例えば、地方統治機関を活性化させれば、人材を育成することができるのではないかと考えます」。

 

 「但し、今はただ結婚したいんです……。今までは万里の長城の外側で暮らしていたようなものですから。

この冬、サーシャと共に出掛けましたけれど、無駄骨でしたよ、ゴシップに次ぐゴシップで、全く……。私が結婚したら、自分の家庭を持つことになりますから、このような長城は崩壊し、人々を探し出し、そして受け入れることができますからね……」。

 

 「立憲制こそが在るべき姿だ、と仰る方々もいらっしゃいます。私もそのことについて何度も考え、何度も議論致しました。その上で、私にはこの考えが正しいとは信じがたいのです……。

エカテリーナ帝の時代を思いだして下さい……。この時代は、人口の増加が著しかったことを考慮しなければなりません―――増加は我々の所だけではなく、ヨーロッパ全体で起こりましたよね。

そしてニコライ帝の時代はどうであったか……。彼の周囲に、どれほどの素晴らしい人々が集っていたことでしょう……。

ともすれば、優れた人材の形成に、統治形態が直接関係するわけではないということが証明できるのではないでしょうか。

これは私の堅固な信念であり、何人も私の見解を変えさせないことを期待しています。私には、制限のない君主は、制限された状態よりも遙かに国民に対して善を行えるように思えます。何故なら、各党は専制君主よりもずっと、一身上や、党派の利益を追求しようとしますから……」。

 

 これらの言葉は非常に印象深かったため、私は当時の日記に書き込んでいた。

私は大公よりも四歳年上だったが、正直に言って、彼は私に権威ある影響を与えた。当時勢いを増していた自由主義の影響を受け、私は政治上の信念の土台を揺らされたばかりか、信じてもいない考えの主であるとさえ感じることがあった……。私が幼時から親しんできた、カラムジン家の信念と敵対するプロパガンダを発する人々が、より権威があり、賢く見えることが度々あったのだ……。

 他にも、ここでの会話では次のようなことについても記録を取った。

人々について、大公は凡そ以下のようなことを言った。「そうですね、人が居ない、と信じることは、私にとっては罪深いように思われます。ストロガノフ伯爵のお陰で、私は尊敬すべき、そして価値ある人々に出逢うことができました。その事実を否定することは愚かしいでしょう?

ストロガノフ伯爵が限られた地域から私の先生方を選び出したのだとしても、勿論、優れた方々は広大なロシアにもいらっしゃるはずです……。

いずれにせよ、これらのことが私の今後の教育制度についての希望―――つまり、将来の基礎となっています」。

 

 私がこの会話から我に返ったのは、道徳的な館の人々が全て寝静まった、深夜二時のことであった……。別れの時が来てしまった……。

大公は、「さようなら、また春に……」という言葉と共に、私のことを抱擁してくれた。

「弟(アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公)に宜しく言って下さい」―――これが彼から受けた最後の言葉だった。「私が幸せであるところを見たと、また私が幸福を信じているということを彼に伝えて下さい。それから、何でも構わないからもっと頻繁に手紙を書くように言ってやって下さいませんか。私は彼について仔細に知りたいと考えていますから、どうか、彼の忠実な友人になってあげて下さい。神があなたと共にありますように……」。

そうして私達は別れた。

 

 翌朝八時に、私はダルムシュタットを発った。

 

 三日後の夕方五時に、ツァールスコエ・セロー駅に到着した。弟に会いに、アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公がやって来た。

 

 ヴラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公はペロフスキー伯爵のカリャースカ(馬車の一種)に搭乗したが、アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公は、己のカリャースカに私を乗せ、共に連れて行ってくれた。この思いがけない親切に、私は深く感動したのだった。

 

解説

 お疲れ様で御座いました! 本文は4000字ほどでした。

 

 今回の殿下、いつにも増してあざとくないですか? 初手からワードチョイスがあざとい。全力に堕としに掛かっている……。

殿下は、やはり、その能力の高さに裏打ちされた負けず嫌い精神が旺盛なので、公爵にスケフェニンフェンで悲しい思いをさせたことが自分で許せなかったのでしょう。殿下自身も、十中八九、公爵が己に対してのガチ恋勢であることに気付いているので、自分が幸せだという、公爵が一番喜ぶ状況を演出し、アピールした……というところのようです。

 

 とはいえ、後述しますが、殿下と婚約者は相思相愛で、理想的な若いカップルとなっていたので、仰っていることは本心だと推測されます。但し、その幸福は長くは続きません。

婚約者と公爵は、殿下に生きる希望を植え付けた旨を本人が述べていますが、そのことは彼にとって果たして良いことであったのかどうか。葛藤を深めただけではあるまいか、などと邪推もします。

 

 公爵も文才豊かですが、殿下って表現力ありますよね。自分の状況を岸辺やら万里の長城に準えようという発想は常人には出て来ない。しかも、じっくり考えながら書ける小説とは異なり、会話ですからね。これが教養人の頭脳か……。

ちなみに、自らを帆船や小舟に喩えるのは、殿下の愛した詩人ミハイル・ユーリエヴィチ・レールモントフの常套手段(レールモントフの先祖が仲間と小舟で大海を渡った際、嵐に遭い、一人だけ助かったという家族の歴史を元にしている。詩『白帆』は特に名高い)で、そのようなところから着想を得ているのかな、と考えます。まあ殿下自身も「水の妖精」ですし、海や岸などの比喩はお気に召したのかもしれません。

 

 さて、ここからはいつも通り、項に分けて簡単に解説を入れて参ります。

 

ダルムシュタット

 この物語が展開された都市ダルムシュタットは、当時ヘッセン大公国の首都です。将来的にドイツ帝国に併合されます。

 殿下の両親の皇帝夫妻は、度々ダルムシュタットへ訪れていました。何故かといえば、殿下の母・皇后マリア・アレクサンドロヴナの祖国であったからです。従って、ヘッセン大公一家は、殿下の近い親戚(伯父母・従兄姉など)にあたります。

 

 公爵に「五十歳程の尊敬すべき年配の大公」と描かれている、当時のヘッセン大公はルートヴィヒ3世のことで、ロシア皇后マリア・アレクサンドロヴナの兄、つまり殿下の伯父に当たります。ルートヴィヒ3世が長男、マリア・アレクサンドロヴナが末娘なので、18歳差と、下手したら親子並に年齢が開いていますが……。

↑ ルートヴィヒ3世。

 一方、「大公夫人」がどなたを指しているのか、よくわかりません。ルートヴィヒ3世の妻、マティルデ・カロリーネは既に他界していますし、その後貴賤結婚をしますが、それは1864年以降のことであるからです。

ちなみに、この貴賤結婚のお相手は、なんと殿下より3歳も年下です。つまり、40歳差の結婚ということに。Любви все возрасты покорны(恋に齢は関係なく)とは申しますけれども……(※オペラ『エヴゲーニー・オネーギン』のグレーミンのアリアの歌い出し。同オペラの中でも人気の高いアリアの一つ)

 

 「アレクサンダー王子」は、皇后の一つ上の兄を指します。ヘッセン大公家はロシアと縁が深く、彼はロシア軍に所属し、キャリアを築いていたため、ロシアの貴族からも馴染み深い人物であったと推測されます。

↑ アレクサンダー王子。

 尚、このアレクサンダー王子と、殿下の母マリア・アレクサンドロヴナは、実は不義の子であり、先代ヘッセン大公ルートヴィヒ2世(※勿論かの有名なバイエルン王とは無関係)の血を継いでいません。従って、ロシア皇帝夫妻の結婚には反対も多かったのですが、若き愛の力で無理矢理結婚にこぎ着けたと言われています。

 

殿下の婚約

 伝統的に、ロマノフ朝の皇太子の花嫁はドイツの小国の王女から選ばれました。殿下の母の祖国、ヘッセン大公国は特にロシアと近しく、選出回数も多かったことで知られています。

 しかし、後にドイツ帝国が誕生することからもわかるように、1860年代はプロイセンが台頭し、ドイツ諸国とロシアの関係にも変化がありました。そこで、当時皇太子妃を選ぶ上で、ロシアに最も相応しい同盟国と考えられていたのが、ヨーロッパ中の王家と血縁関係のある王家を擁し、ロシアに念願のバルト海の出入り口を提供する、デンマーク王国でした。

 他方、「誇り高きロマノフ家の男性は結婚を強制されてはならない」という、政略結婚の強制を忌避する伝統も存在し、「殿下がもしドイツの王女を愛すならば、国家的な第一希望からは逸れるけれども、それでも構わない」と考えられていました。

 真面目で色恋沙汰にはあまり関心が無く、祖国や国民が第一という信条の殿下の性格を考えれば、解答は確認するまでもありません。当然、殿下はデンマークの王女を選びました。

 

 前回、公爵も書いていたように、殿下の国外旅行は、婚約をするということも重大な目的の一つでした。その旅の前、殿下の前には当時の結婚適齢期の王女の写真やプロフィールがずらりと並べられ、ある程度の目安付けが行われました。

 殿下は、一人の王女の写真に目を留め、「可愛らしい女性ですね。実際にお目に掛かったことはないけれど、彼女になら恋をしてしまいそう」という旨を述べ、両親や弟を驚かせました。彼女こそ、デンマークの王女ダグマールだったからです。

↑ このお写真、大変素敵なのですが、何故お衣装が黒かと言うと、殿下に対しての喪服らしく、何だか申し訳ない気持ちに。1865年10月撮影。

 その時殿下が、彼女がデンマークの王女であることをどれくらい意識していたのかは、今となっては知り得ません。弟アレクサンドル大公は、「それは余りにも都合が良すぎる(そんなことを言ったら、殿下の存在そのものが都合が良すぎるくらいですが)、思考が政略結婚に侵されているんだ」と考え、初期の頃は兄の選択を非難していたくらいです。

 

 王女ダグマールは、デンマークの「美人王女三姉妹」の次女として知られていました。

長女アレクサンドラは、中でも「最も美しい」と評判で、大帝国イギリスへ嫁ぎました。殿下と婚約したダグマール姫は、姉妹の中でも「賢い」ことで知られ、実際に、その愛らしさと立ち振る舞いで、将来的に最も愛されるロシア皇后となります。末娘(三女)ティーラは、「優しい」女性で、ハノーファー王国へ嫁ぎます。

このように、デンマークは、結婚によって国家の安定を実現していました。

 

 殿下はスケフェニンフェンを発った後、夏にコペンハーゲン郊外に一週間滞在し、ダグマール王女と知り合います。その際は簡単な相互の自己紹介程度に留め、特に進展はありませんでした。しかし、この時点で既に、いわゆる両片思いになっていたようです。

王女は「彼は私に(恋愛、結婚に関することは)何も言って下さらなかった」と不安になり、殿下の方も「(国家にも関わることなので)即座に求婚することはしないけれど、こんなにも心は彼女を愛している、熱烈に愛していると叫んでいるのに、どうして幸せになれないなんてことがあるだろう」と母皇后に書き送っています。

 殿下はそれが政略結婚であることをきちんと理解していました。従って、彼は一度デンマークを離れ、両親に会い、直接「彼女に求婚しても良いですか」と尋ねました。

両陛下は、「デンマークとの同盟がロシアにとって最も望ましいし、愛する息子がその王女を愛し、そして幸せならば、親としてもこれ以上のことはない」と勿論快諾。この両親や、殿下の甥(ニコライ2世)がほぼ駆け落ち状態で結婚していることを考えると、やはり殿下の礼儀正しさというのは異端なんですよね……。

 秋頃、殿下は再びデンマークを訪れ、今度は二週間滞在します。殿下は、ダグマール王女本人に告白する前に、彼女の両親に、「あなた方の愛娘の運命を、私に託してくださいますか」と尋ねます。王女の母ルイーゼ王妃は、「娘の心は誰のものでもありません。彼女が了承するのなら、私達は祝福しましょう」と応じました。

 万人を恋に突き落とす魅力を持つ殿下ですが、「本命」の攻略でも、その力は遺憾なく発揮されています。数日後の9月20日、王女と二人きりの時、フレデンスボー城の庭園で殿下は求婚し、王女は少しの間驚きと喜びで固まっていましたが、それを快諾したとのことです。

デンマークのフレデンスボー城。

 婚約が成立した後は、逢瀬を重ね、二人で長時間話し込んだり、舟遊びをしたり(※19世紀のデートの定番)、美術館巡りをしたりと、相当恋人らしく楽しんでいたようです。省略されていますが、「デンマークでの一部始終」については、このようなことを公爵にも語ったのではないかと推測できます。若く美しい恋人同士は、誰の目からも好ましく映ったようで、ロシア・デンマーク双方の側から、賞賛と祝福の言葉が残っています。

 デートの途中、王女は「ロシアのことを余り知らない」という旨を発言しました。それに対し、殿下はロシアの歴史のこと、文化のこと、芸術のこと、宗教のこと、国民のことをそれはもう喜々として語り、「きっと君もロシアのことを愛してやまなくなるよ」等と言ったようです。王女は「ニクサがどれほど深く祖国を愛しているのかということに驚かされた」と言います。また、ロシアに愛され、ロシアを愛した皇后となった後、「ロシアのことを最初に教えてくれたのも、その愛を教えてくれたのもニクサだった」とも書いています。

 

 ダグマール王女は、求婚されたことについて、兄ヴィルヘルム(後のギリシア王ゲオルギウス1世)に宛て、

 「神様が私に慈悲を掛けてくださったことにどれほど感謝していることか。今はただ、ニクサに相応しい存在になって、愛する彼を幸せにする力を私にお与え下さいと祈るばかり。ああ、もし兄様が彼と知り合っていたら、私が彼の妻なんだって言えることがどれほど至福なことか、わかってもらえるんだけどなあ」。

 «О, как благодарна я Господу за его милость ко мне; я молюсь теперь только о том, чтобы он ниспослал мне силы и дал возможность сделать его, возлюбленного Никсу, таким счастливым, каким я желаю ему быть от всего сердца, и стать достойной его.  Ах, если бы ты только видел и знал его, то мог бы понять, какое блаженство переполняет меня при мысли, что я могу назвать себя его невестой». )

と書いています。め、めちゃくちゃ良いお手紙だ……。

 

 一方の殿下も、プロポーズが許諾されたことについて、父皇帝に対し、

 「ダグマールがこんなにも愛らしい人だったとは! 彼女は私が期待していた以上です。私達は二人とも幸せです。私達は激しくキスをして、固く手を握り合い、それからはどれほど簡単に事が進んだことでしょう。私はこの素晴らしい始まりを神が祝福して下さるように願い、心の底から祈りました。これは一人の力で成し遂げたものではありません、神は私達をお見捨てにならない」。

 «Dagmar была такая душка! Она больше, чем я ожидал; мы оба были счастливы. Мы горячо поцеловались, крепко пожали друг другу руки, и как легко было потом. От души я помолился тут же мысленно и просил у Бога благословить доброе начало. Это дело устроили не одни люди, и Бог нас не оставит». 

と書き送っています。謙虚だ……。

 

 しかし、その影で病は進行していました。公爵も書いているように、殿下は快活で明るく、元気そうに振る舞っていましたが、顔色の悪さだけはどうしても隠すことができなかったといいます。

 また、前述の、両親に求婚の許可を取るため一度ダルムシュタットに寄った際は、晩餐会に舞踏会に祝賀会に閲兵式にと非常に忙しかったようで、病身の殿下は疲弊し、再び体調が悪化してしまいます。本文中の「浮ついた生活」は、主にこれらのことを指していると推測できます。

それを見て、誤診もあって病状をよく知らない父帝は、彼を労るどころか、「ニクサは虚弱で、ぐったりしている」と叱責。殿下は、反論することもなく、最早誰にも病について打ち明けることもせず、静かに痛みを隠して耐える覚悟を固め、死期を早めてしまいました。父は、息子の死後、そのことを悔やんだといいます。

 12月、ニースでの療養中には、楽しげに殿下の将来について語る側近に、

 「あなたは、もしかしたら、私がフィアンセについてあまり語らないことを不思議に思うかもしれませんね……。私が彼女をどれほど愛しているか、あなたもご存じでしょう。けれど、それは余りに心を刺しますから……ほんの少しでも彼女のことを話題にされるのは、私には辛いんです……」。

 «Вы, наверно, удивляетесь, что я сам редко говорю о моей невесте… А ведь вы знаете, как я ее люблю, но это слишком интимные чувства… Малейший разговор о ней может меня задеть…».

と、やんわり牽制しています。殿下は、「神が与えて下さるはずの幸福な日々」が訪れないことを本当は悟っていたのでしょう。それでいて、毎日のように婚約者からは恋文が届き、それに返信を書かないと不審がられたので、殿下も山のように愛の言葉を書いています。そのことが、どれほどの葛藤を呼び起こしたか、察するに余りあります。

 

アドレルベルク伯爵

 さて、ここからは『回想録』に立ち戻り、登場した人物を簡単にご紹介して参ります。

 アドレルベルク伯爵家は非常に高名なお家柄ですので、著名な人物を多数輩出しています。1864年当時は、特にヴラジーミル・フョードロヴィチが有名ですが、ここでの「アドレルベルク伯爵」は、恐らくその息子アレクサンドル・ヴラジーミロヴィチの方でしょう。

↑ 丁度1864年頃のお写真。髭ヤバい。

 父ヴラジーミル・フョードロヴィチは先帝ニコライ1世の寵臣で、その子アレクサンドル・ヴラジーミロヴィチは宮廷と非常に近い場所で育ちました。

同名の皇帝アレクサンドル2世の最も親しい友人の一人として有名で、職務としては、1864年までに検閲委員会や軍事評議会の主要議員を歴任していました。

 

イヴァン・マトヴェーヴィチ・トルストイ

 ロシアの高名な貴族といえば、ストロガノフ伯爵家も然りですが、トルストイ家もまた非常に高名です。

トルストイといえば、一般的には作家のレフ・ニコラエヴィチを指しますが、彼以外にも、トルストイ家は多数の高名な作家を輩出しています。それと同時に、政界での活躍も目覚ましく、基本的には「トルストイ」という姓だけでは誰を指すのか特定することは非常に困難です。

 ここで紹介されているのはイヴァン・マトヴェーヴィチ氏。

 アレクサンドル2世が皇太子時代に行った国外旅行に同行し、非常に親密な関係となったようです。殿下で言うところのバリャティンスキー公爵、コズロフ枠ですね。

 

 外務大臣や初代郵政大臣を歴任したエリートです。また、彼だけ貴族号が付いていませんが、後にその功績を称えられ、伯爵の位を受勲します。

 

シュヴァーロフ伯爵

 次いで登場する「シュヴァーロフ伯爵」は、ピョートル・アンドレーヴィチ・シュヴァーロフ伯爵のことでしょう。

 皇帝アレクサンドル2世の寵臣の中でも若手で、彼よりも年下です。主に軍務と外務で功績を挙げ、1864年当時はバルト三国の総督を務めていました。

 

 1865年には未来ある息子が亡くなり、そしてその翌年には初めての自らを標的とした暗殺未遂事件が起こるなど、1860年代中頃は皇帝アレクサンドル2世の心労が絶えなかった時期でした。疲弊しきった皇帝は、鬱病になり、統治への関心をほとんど失ってしまいます。そんな皇帝が、国家の舵取りを任せたのが、このシュヴァーロフ伯爵でした。

 似たような事例はロシア帝国史に既に刻まれています。皇帝の伯父アレクサンドル1世も、晩年には皇帝という立場に嫌気が差し、寵臣アラクチェーエフに全てを投げ出します。この時代を「アラクチェーエフ体制」と呼び、ロシア帝国史の中でも特に陰惨な暗黒時代だったと言われています。

歴史は繰り返す。シュヴァーロフ伯爵は優秀な人物でしたが、いきなり皇帝に代わっての全面的な政務は混乱を来たしました。彼は「第二のアラクチェーエフ」と陰口を叩かれ、酷く苦労したようです。

 

カラムジン

 ニコライ・ミハイロヴィチ・カラムジンロシア文学・ロシア史を学ぶ人は絶対に避けては通れないビッグネームです。

『オネーギン』を著したアレクサンドル・プーシキンが「ロシア文学の父」なら、カラムジンは「ロシア語の父」とでも申しましょうか。彼ら二人が近代ロシア語とロシア文学の礎を創り上げたと言っても、過言ではありません。

 18世紀後半から19世紀前半に活躍した人物で、それ以後のロシアの文学者は全員が彼の影響と恩恵を受けています。

文学の分野では、邦訳ではあまり読む機会がありませんが、代表作は『哀れなリーザ』など。また、歴史や政治の世界でも多大な影響力があり、彼の著した大著、その名も『ロシア国家史』は当時の知識人必読の書でした。

 

 実は大変優秀で家柄も非常に良い我らがメシチェルスキー公爵。なんと彼、カラムジンの孫なのです。つまりカラムジンはメシチェルスキー公爵の祖父。なんてこった!

メシチェルスキー公爵の母、エカテリーナ・ニコラエヴナはカラムジンの娘(二人目の妻の次女)。彼女はピョートル・イヴァーノヴィチ・メシチェルスキー公爵と結婚し、その間に生まれたのが、我らがヴラジーミル・ペトローヴィチです。

 公爵が生まれた頃には既にカラムジンは他界していましたが、祖母は健在でした。従って、公爵にとっての、「幼少期に過ごした祖父母の家」こそ、カラムジンの家のことなのです。

 

 このシリーズの前の方で確認したように、公爵は知り合う前から殿下の方からも興味を持たれていた、とマウントを取って書かれています。それはきっと、同年代の聡明な友人を求めて、ということもありましょうが、「あのカラムジンの孫」という肩書きも影響していたのではないか、と推測します。

 

公爵の思想

 ヴラジーミル・ペトローヴィチ・メシチェルスキー公爵は、アレクサンドル3世時代に活躍した言論人としては保守派で知られていました。この時代では、極右ほど極端ではないにせよ、常識的な範囲内で最も保守的な一人であったとさえ言ってよいです。

 しかし、その事実を踏まえると衝撃的なことに、1864年時点では、左傾化していた旨を本人が書いています。これは個人的にもかなり意外でした。

 

 確かに、1860年代前半は、「大改革期」にあたり、皇帝アレクサンドル2世主導の下、あらゆる制度や組織が見直され、再編成されたことから、ロシア社会全体が左傾化する傾向が認められました。しかし、あのメシチェルスキー公爵までもが。

 

 そんな公爵を再び保守の道に連れ戻したのは、殿下その人であると綴られています。

殿下は、当時の評価では、「リベラルな思想の持ち主(左寄り)」だと考えられていたことを踏まえると、このことは意外に感じられるかもしれません。

 ここからは、「右左」と簡略化すると見えてこない面を深掘りしてみます。

殿下は確かに、全階級への無償教育を目指したいと考えていたり、当時のロシアには無かった人権の概念に近いものを実現しようとする面を見ると、非常にリベラルな思想の持ち主に見えます。

しかし、特徴的なのは、彼はそれを、「自分の力で」成し遂げたかったのです。つまり、「皇帝が国民に対して提供する、トップダウン式・上からの改革」をしようとしていました。

この様な姿勢を「保守自由主義」と呼び、現代の政治学では、基本的に「中道右派」に分類されます。

 

 ロシア国家の統治運営のシステムは、専制であることが軸になっていました。現代を生きていると、「憲法基本法があるのは当たり前、独裁君主制専制なんて野蛮」とお考えになるかもしれません。

しかし、二人が議論しているように、当時のロシアの識字率は恐ろしく低く、優秀な人物も政治とは無関係な仕事に追われている場合が多く、地方自治制度(ゼムストヴォ)の改革も始まったばかり。議会を開くなんて考えは、とてもではないにせよ実現性を欠いていました。ロシアには未だ、「万能のツァーリ」の存在が必要不可欠だったのです。

 殿下は、全ロシアが嘱望した「万能のツァーリ」の理想形でした。

本文中の殿下の発言や思想をごく簡単に纏めると、

「確かに立憲制にも優れたところはあるが、現在のロシアは未だツァーリ専制を必要としており、導入するにしても、少なくとも時期尚早である。

優秀な人材はいないわけではないが、少ないことは否定できない。今は彼らを登用して無理矢理議会を運営させるよりも、自分たち皇帝政府に統治は一任し、彼らには特に地方での教育、人材育成を担当して欲しい。その為の制度を今整えているところである。

その代わり、彼らが必要とする自由や人権は、可能な限り私(未来の皇帝)が与えよう」。

……というような形に纏めることができるのではないかと思います。こうして、彼は八方美人のようなその場限りの出任せを言っていたわけではないのにも関わらず、右派と左派双方からの熱烈な支持を得ていたのです。強すぎる。

 

 後のアレクサンドル3世の「忠実な友人」となるメシチェルスキー公爵は、殿下の思想に感銘を受け、この思想を引き継ぎながらも自己流に変更を加えていきました。彼は保守的な言論人として、何よりも皇帝の友人として、彼の権利、つまり専制を死守することを目標に定めます。この権利を手放そうとしたアレクサンドル2世、実際に手放したニコライ2世に何が起きたかは、皆様ご承知の通りです。

 

 ところで、本文を読む中で、人材登用と関連して、殿下が結婚にこだわっていることを不思議に思われたかもしれません。このことは、とあるエピソードが元になっていると推測できます。

 殿下は、1863年の国内旅行で、地方の学校の査察も行っていました。学校の設備を点検したり、実際に一緒に授業を受けてみて、何を教えているのかを調べたりなど、いつも通り非常に真面目に査察をしていたといいます。

 事件が起こったのはペトロザヴォーツクの女学校の査察に出向いた時。女学校、という時点である程度察しがついた方もいらっしゃるかもしれません。

女学校では、殿下は黄色い叫び声に翻弄され、大勢に恋する瞳で見つめられ、しかしそれは純粋な好意や善意から来るものなので無闇に否定することもできず、非常に困ってしまったらしく、後日に母皇后に対し、「女学校の査察はきらい。あんなに恥ずかしい思いをするのは二度と御免だ……」という旨を書いています。

 殿下はどうやら、「結婚をして妻帯さえすれば、このような女生徒からの熱烈すぎるアプローチを受けずに済むのでは無いか? そのことによって、査察がもっと楽になるのでは?」と考えたようです。

実際、婚約後に同校に査察に訪れた弟アレクサンドル皇太子は、殿下よりも恥ずかしがり屋な性格だったにも拘わらず、このことを言及していないことを見るに、やはりこのような歓待は受けなかったようで、殿下の読みは正しいのではないか、という研究があります。

 

 教育と人材育成、登用については、殿下のことを題材にしたボリス・ミハイロヴィチ・フョードロフの詩で知られています。この詩については、また別記事で詳しく書ければよいな、と考えているのですが、ここで描写される殿下のかっこよさは異常なので、散文訳になりますが、後半についてだけ、簡単にご紹介させてください。

 1861年、殿下が18歳の頃、ニジニ・ノヴゴロドに出向いた際に出逢った、学校へ向かう途中の少年との会話を元にした作品です。

(前略)

「卒業したら、何になりたいの?」

皇太子は親しみを込めて尋ねた。

「国家公務員になりたい!」

少年は答えた。―――明らかに、

彼には未来の希望が見えていたのだ、

勉励―――それは成功への架け橋になる。

―――「そっか、その時はペテルブルクに来なよ

僕の所に、ね」 帝位継承者は言い足した。

«Окончив ученье, чем хочешь ты быть?»
Спросил цесаревич приветно; 
В гражданскую службу хочу поступить!
Ответствовал мальчик. — Заметно,
Что много в нем было надежд впереди,
Усердье — к успехам посредник.
— «Ну, так тогда в Петербург приходи
Ко мне» — тут прибавил наследник.

 おお、我らが殿下よ、見知らぬ少年まで口説かないでくれ。

彼がその後どうなったのかまではわかりませんが、これだけで非常に物語性がありますね。ここから寵臣になっていたらシンデレラストーリーとしては完璧だったのですが! 

 

カリャースカ

 最後に、アレクサンドル大公が公爵を乗せて帰ったという、「カリャースカ」という乗り物についてです。

 カリャースカは四輪で小型の幌馬車のことで、短い距離の移動にはよく用いられていたようです。

↑ 確かに小型。

 ゴーゴリの『死せる魂』などでよく登場します。

 

最後に

 通読ありがとうございました! なんだか筆が乗ってしまい、いつのまにか15000字を超過しておりました。いつもお付き合い有り難う御座います。

 

 さて、次回、いよいよ最終回です。寂しくなりますね。

最終回は、ご想像の通り、1865年編、殿下の死を描きます。実は、このメシチェルスキー公爵の『回想録』第一巻の最終章でもあります。やっぱり推し語り本ではないか……。

 文量としては、今回の倍になるので、最後まで気合い入れて取り組んで行こうと思います! 今回は本文が短いからといって、解説を楽しく書きすぎました。

 

 それでは、今回はお開きと致します。最終回までお付き合い頂ければ幸いです!

↑ 最終回書きました! こちらからどうぞ!