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NTLive『プライマ・フェイシィ』 - レビュー

 おはようございます、茅野です。

引き続きレビュー執筆マラソンです。筆が進みますね。

 

 さて、先日、National Theater Live さんの『プライマ・フェイシィ』を鑑賞して参りました!

 

 その前に上演していた『リーマン・トリロジー』にドハマリしてしまったので、こちらも楽しみにしておりました。テーマが硬めの少人数劇はよいものだ……。

↑ レビュー記事。色々リサーチも深めて参りたいところです。

 

 というわけで今回は、『プライマ・ファイシィ』の雑感を極簡単に纏めておきたいと思います。

それでは、お付き合いの程宜しくお願い致します。

 

 

キャスト

主演:ジョディ・カマー

脚本:スージー・ミラー

演出:ジャスティン・マーティン

音楽:レベッカ・ルーシー・テイラー

上演劇場:ハロルド・ピンター劇場

 

雑感

 本作の末恐ろしい点の一つが、一人芝居であるということ。しかし全く飽きさせません。2時間弱、とんでもない早口で喋り倒します。改めて、俳優さんの頭の中どうなってるんだ……。

 

 上演前には対談の様子を上演して下さるんですけど、そこでの主演:ジョディ・カマー氏には驚かされました。作中とイメージが全く違うのです。そしてとんでもなく美女。

↑ 右。この時は声も控えめで可愛らしい印象を受けました。

↑ ≪ ALL RiiyyySE!! ≫。本作の主人公テッサ役の時。歴戦の弁護士感滲み出てますね……。

 これが……これが「演技力」……!!

 

 本作のテーマは、「法と性」に関して。

英国の法制度に関しては、丁度小坂井敏晶先生の『神の亡霊』を再読していたところで、個人的にはタイムリーでした。

↑ 別章に関してですが、こちらの記事でもご紹介しております。

↑ 推薦図書。

 『神の亡霊』第四章では、大陸法とコモン・ロー(英米法)の違い、成り立ちや仕組みに関しての解説があり、非常にわかりやすいです。少し引用します。

 英米法における裁判の目的は真実究明ではなく、人々の利害調整をする場として裁判が機能する。

共同体を代表する陪審員が犯罪性を認めなければ、あるいは被告人を赦すべきだと判断すれば、裁判の目的は達成される。被告人の人権を保護し、冤罪を防止する策として検察官上訴を禁止しても、このような裁判理念においては、論理的な不都合は生じない。また被告人が有罪を自ら認めれば、罪状の事実認定は公判にかけられない。

真相解明が目的ではないからだ。

                      『神の亡霊』. 小坂井敏晶. p. 116

 このようなコモン・ローの理念を知っているか否かで、作品への理解にも少し差が出るのでは無いかと感じました。

テッサが、真実の究明よりも法手続を遵守することなどに重きを置いていることは、この辺りの思想を土台としているからであると考えられます。

 

 従って、この『プライマ・フェイシィ』の題材、「性犯罪を人が裁くということ」それ自体は世界共通の問題である一方で、舞台が英国であることは、単に著者が英国人だった、ということではなく、この物語を考える上で最も適切な舞台であったと言うことができるのではないかと思うのです。

きっと、隣国であっても、たとえば裁判では寧ろ真相究明の方を重要視するフランスが舞台であれば、同じ「女弁護士」が主人公であろうと、同じ「裁判」が題材であろうと、そして結末が同じであろうと、また少し違った物語となるのではないかと感じました。

 

 大陸法には大陸法の、コモン・ローにはコモン・ローの良さがあります。しかし、確かに、特に「性犯罪」という問題では、コモン・ローとの相性は悪いのかも知れない……と感じられました。

今後、どのように法改正が為されていくのか、注視しておきたいポイントでもあります。

 

 『 Prima Facie 』という題自体も良いですね。法律用語で、「一応の証拠」、要は反証されない限りは正しいものとして扱う、ということです。

 

 このように、話のテーマ自体は硬く重たいのですが、コミカルな描写もあり、見てて疲れさせません。 ≪ fai↑led↓! (やらかした~)≫ 、めっちゃすき。

前半のコミカルな描写が好きすぎて、寧ろこれだけで全編見たいな……暗くならなくていいよ……と思うほど。テッサの健やかな日常をもっと追いかけたい。

 

 戯曲に有効的な繰り返しの台詞も巧妙。≪ And I'm standing here now. (そして今私はここにいる。)≫ のような連続して繰り返されるものに加え、「左を見て、右を見て」のように、寓話的に差し挟まれるものも。

 

 また、「法廷ゲーム」が前半と後半でひっくり返るのも、演出の妙を感じます。

個人的には会議や議論の世界には親しみがあり、勝敗を賭けてゲーム感覚で楽しんだこともあれば、感情移入しすぎて胃が痛くなった経験もあるので、双方共感の嵐でした。

 

 音楽に関しては、よく言えば統一感がある、悪く言えばあまり代わり映えしない印象を受けました。

↑ 主題歌(?)。

 でも、冒頭の曲『 The Winner 』のシャウトはめっちゃ格好良くて好きです。

 デジタル・サウンドや、ドラムなどのリズムがメインで、旋律が採用されることは稀。それらは速い鼓動のような印象を与えます。

それがとても緊張感を生むのですが、前述のコミカルなシーンでもそれは変わらないので、「わたしはこれは劇場にいたら音楽に影響されて笑えないだろうな……」と感じてしまいました。観客の笑い声は沢山入っていましたが。

 

 驚いたのは、劇場がかなり狭いということ。個人的に普段 4, 5 階建てのオペラハウスにばかり通っているせいもあるのでしょうが、プレイハウスってこのようなサイズ感なんだ……と衝撃を受けました。この演劇であれば、もっと客入りそう。

 

 そして最後に、何よりも、ジョディ・カマー氏の演技が素晴らしい。一人でこの劇場と映画館と観客の心の全てを支配する力。

対談の時のように、素は落ち着いた可愛らしい人なのでしょうに、威圧的でさえある好戦的な「法廷ゲーム」の主役テッサ、年頃の女性テッサ、被害者となって以降の不安定だが真の意味で力強いテッサなど、沢山の優れた演技を浴びることができます。

流石の演劇大国である英国です。毎度のことながら、NTL に感謝。

 

最後に

 通読ありがとうございました。3000字ほどです。

 

 「痴漢」などを代表に、日本でも性暴力問題は根深いです。わたくしは幸運にも「 3 人のうちの 2 人」の女性ですが、友人には「 3 人のうちの 1 人」が多く、よく相談されては、学生であったこともあって特に助けにはなれず、己の無力感を感じていたことを思い出しました。

 しかし、冤罪の問題をくぐり抜けながら、可能な限り被害者の心理的負担にならないように、性犯罪を立証し、裁く、というのは、実際に非常に難易度が高いように思えます。この点に関しても知識を付けなければならないなと痛感しました。

 

 さて、次回作はシェイクスピア演劇ですね。オペラやバレエではお世話になっておりますが、地味にきちんと演劇で観る機会はなかったので、伺うことができればと思っております。

 

 それでは、今回はここでお開きとしたいと思います。また別記事でお目に掛かれれば幸いです。