世界観警察

架空の世界を護るために

精神救済図書の勧め

 こんにちは、茅野です。

ここ数年、七月後半~八月前半になると運勢が大凶に傾くらしく、宜しくないことが立て続けに起こります。何故。大凶をアニュアルイベントにしないでくれ。

 

 そして、学生の皆様におかれましては既に夏休みでしょうか。コロナも流行しておりますし、酷暑でも御座いますし、おうちでまったり読書などは如何でしょう。

 

 というわけで今回は、「精神救済図書の勧め」と題しまして、心の救いとなるような書籍を幾つかご紹介したいと思います。夏休みの課題図書モドキとして頂けたら幸いですね。

 

 わたくしは特別読書家というわけでもなく、知識も偏っています。ほんとうはそんなに大逸れたことをする器ではなく、寧ろお勧めの図書を教えて欲しいくらいなのですが、明確に「この本に救われた!」という感覚がある本が数冊あり、我が "聖書" をご紹介することは有益であると判断しました。わたくしの支えが、皆様の支えにもなれば嬉しいですね。

 

 わたくしは大学ではフランス文学を専攻しており、デカダン(頽廃主義)の暗~い自殺文学ばかり扱っていました。近代文学のレポートでは、実に提出した 7 つの期末レポート中 6 つの作品で主人公が自害或いは心中しているという偏りっぷりでした(※わたくしの好みというより、そもそも仏文にはそういう話が異様に多いのである)。

 しかし、そんなものばかり読んでいても気を病むだけなので、同じく近代フランスの哲学思想を中心に、「心救われる」書籍も幾つか心得ているつもりでありますので、今回はそちらを簡単に概説できればと思います。

 

 それではお付き合いの程宜しくお願い致します!

 

 

全ての「やらかした」人への処方箋

―『責任という虚構』 小坂井敏晶

 わたくしは、「やられた~……」と、他人から害を被ることよりも、「やらかした~!」と、望まずとも自分が危害を加えてしまったり、失敗してしまうことの方が圧倒的に多い人間です。ロールプレイはいつでも悪役。

 そこで、「でも、まあ、わざとじゃないし?」と開き直ってお終いにできる程は、図太くありません。自分が与えてしまった被害を目視してはオロオロします。

 

 罪を犯せば、罰を得ます。罰がない時には特に、自ら自罰感情を背負い込むことにもなるでしょう。因果応報と言われればそれまでですが、人生は原則として長いもの。いちいち些細な失敗に病んでいては成り立ちません。加害者は一生救済されることはないのでしょうか?

 

 その問いに、一つの答えを出してくれるのが、小坂井敏晶先生の『責任という虚構』です。

 同書では、何度も、力強く、「責任なるものは虚構である」と断言してくれます。それが非常に気持ちが良いのです。痛快なのです。

 一冊を掛けて、「責任とはなにか」「虚構であるはずの責任とやらが何故存在してることになっているのか」「"責任を取る" とはどういう意味か」「個人の罪とはなんなのか」「主体である個人とは、"私" とは?」―――などなど、人々が思い悩む疑問に、スパッと答えてくれます。

 

 生半可に、根拠もなく慰められるよりも、「自由意志など存在しないのだから、責任なんて存在し得ない。」と、淡々と論理的に延べられる方が、「救われた」という感覚を得やすいとわたくしは感じました。

それは、外部からの声掛けではなく、読書という「再生」行為によって、自分の中に理解が落とし込まれ、自分で自分を説得することができるからだと思うのです。

 

 この本は、全ての「やらかした!」と感じて絶望した人に対する処方箋足り得ると感じます。非常に心が軽くなります。わたしには最早聖書代わりです。

個人的な意見を言えば、精神が迷ったときに一番「効く」のは、小坂井先生の本だと信じています。

 

倫理の思想の宝石箱

―『神の亡霊』小坂井敏晶

 小坂井先生の本はどれも素晴らしくて、お勧めできるのですが、お題に沿って、今回は続けて『神の亡霊』をご紹介したいと思います。

 全12回の連載とその膨大な注を一冊に纏めたのがこちらの本です。

 

 特に、個人的に感銘を受けたのは第1~3回で、こちらでは死生観や死の倫理について扱っています。

中でも魅力的なのは、哲学者ヴラジーミル・ジャンケレヴィチの「一人称の死・二人称の死・三人称の死」という概念について非常にわかりやすく纏まっている点です。

 こちらは、ジャンケレヴィチの『』というド直球なタイトルの書籍に記された思想ですが、『死』は難解な哲学書であり、読み進めるのは困難です。

 日本では、この「○人称の死」の概念は柳田邦男先生の『犠牲』という書籍で紹介されたことで知られていますが、『犠牲』はノンフィクション作品で、若くして自殺に踏み切ったご自身の次男についての苦い物語であり、レビューには「エっグい」「読むのが辛い」という意見が乱立するものなので、名作ではありますが、少なくとも今回ご紹介するには荒療治が過ぎると判断します。

↑ わたくしが読みながら考えたことを綴った、書評というよりエッセイ。

 

 「一人称(自分)の死」は、本人は知覚し得ません。先に意識が無くなり、知ることができないものだからです。従って、本来恐れるべきものではないのです。末期の苦しみに関してなど反論もありましょうが、その議論は同書に載っております。ここでは簡略化のために捨て置かせて下さい。

 「三人称(赤の他人)の死」は、物凄く乱暴な言い方をすれば、どうでもよいただの数字でしかありません。その死を知らなくとも、我々は平然と生きていくことができます。

 問題は、「二人称(家族や友人など近しい人)の死」です。それこそが、否、それだけが、我々にとって問題となる、知覚し得る、恐るべき死なのだ、というのが要点です。

 ここから、同書では、「代替可能な、或いは不可能な死」について考えたり、脳死の問題死体の扱いの問題など、簡潔ながらも多方に議論の羽根を伸ばしてゆきます。

 

 わたくしは今のところ、この考え方に凄く納得がいっていて、後述の別書で説かれる思想と絡めて、死を捉えています。

死は生きる者全員にとっての神秘であり、畏怖の対象であるものですが、一つ確立した思想を魂に根差しておくと、動揺の度合いは薄れると感じています。

 しかし、そうですね、大事なのは「一人称」ではなく「二人称」であることを考えると、どうにも自己犠牲に踏み切るキャラクターなどが陳腐に見えてきてしまう、という二次的な問題がありますね。そういったキャラクターが好きな方にとっては、留意するべき点かもしれません。

 

 また、小坂井先生の書籍は、前述のように、断定的にズパッと豪快に喝破して下さるのが非常に気持ちがよいことが特徴の一つです。

一方で、例えば、「死にたくなれば、死ねばよい。」とか、「(死体は)時間が経てば、腐って悪臭を放つ。食べ残しのトンカツと同様、単なる生ゴミだ。」というような、そこだけ切り取ったら炎上間違いなしの強烈な文章がぽんぽん飛び出すので、その点だけご留意くださいませ。

勿論、その後には「しかし、」と、素晴らしく論理的で興味深く、納得のゆく反論が為されるので、ご安心を。初見では、余りのパワーワードに思わず笑いながら読んでおりましたとも。

 

 ところで、小坂井先生ご自身は、パリ第八大学で教鞭を執っておられるという、とんでもなく優秀なお方です。

わたくしは大学でフランス文学を専攻していたので、近代フランス思想には縁があり、先生がフランスの思想を探究されていることはよく伝わりますし、個人的にも馴染みがあって受け入れやすいです。

 小坂井先生のご著書から近代フランス思想に関心を持たれた方には、こちらの『社会統合と宗教的なもの』という書籍を一読されることをお勧めしております。

 特に、編者・著者のお一人の伊達聖伸先生は、ライシテ(政教分離)の研究者であらせられ、個人的に尊敬している先生でもあります。現代日本でも丁度政教分離の問題は取り沙汰されておりますから、これを機に知識を深めるのも一興かと存じます。

 

 近代フランスは、神、特にカトリックを否定してフランス大革命を起こしました。「理性」や「人権」の概念を、新たな神として祭り上げ、旧来の神を放逐したわけです。神は死んだ。

 しかし、超自然的な存在である「神」に対して、「理性」や「人権」は力不足であることがあります。個人の自由を謳うこれらの概念は、自己 "責任" 論なる誤った概念を導き出し、我々の精神に負荷を掛けます。

 人間は感情的な生き物です。わたくしは無宗教者ですが、宗教、或いはこの本の題にあるような「宗教的なもの」が精神を救うのであれば、それに頼るのも悪くないと考えています。勿論、カルトはダメですけれどね。

 

突然降り掛かった災厄に立ち向かうために

―『ありえないことが現実になるとき』ジャン=ピエール・デュピュイ

 皆様は、「そんな馬鹿な……」「こんなことが現実に起こるだなんて……」と思った経験がありますでしょうか。わたくしはあります。

わたくしは、この「ありえないこと」との遭遇で、一時期結構悩んでおりまして、そんななか神保町をふらふらしていた時に見つけ、即座に購入したのがこちらの『ありえないことが現実になるとき』。当時のわたくしにとって、余りにもドンピシャなタイトルでした。

 「想像すらし得ないことを覚悟せよ」。一見矛盾した命令ですが、我々が行わなければならないものです。

常に想定外は起こり得る。それに如何に立ち向かうべきか。思考停止では立ち止まれない時に、どう心の整理をつけるべきか

 

 こちらの著者であるデュピュイ氏も、フランスの哲学者です。哲学者の本ということもあって、本書はかなり歯応えのある、難解な本です。読書慣れしていない方は、途中で心が折れてしまうかも知れません。正直に言えば、わたくし自身も咀嚼しきれていない部分があることも事実です。

 しかし、本書の議論は非常に興味深く、「想定外」と対峙したことがある方には是非とも勧めたいと考えています。

噛み砕くために、敢えて結論をザックリと申し上げれば、「目を逸らしてはならない。"ありえない" 破局は必ず訪れる。従って、それを受け入れた上で行動せよ」ということです。この結論へ向け、12章かけての思考の旅が始まります。

 

 後半は、予防外交など、かなりスケールの大きな話になって参ります。わたくしは政治にも関心があるので非常に楽しめたと申しますか、思わぬ収穫に喜んでおりますが、あくまで個人的な問題として捉えたい方には、前半の熟読を推奨します。

 

 ところで、「突然の悲劇」と「予期された悲劇」がフランス語で論じられているものとなると、個人的に思い出すのがカミュの『幸福な死』です。

 同書では、殺人或いは自殺が「自然な死」で、病死が「意識された死」であるという非常に興味深い話があり、フランス哲学と申しますか、カミュの思想の一端が垣間見えるようです。

 尤も、カミュの思想はどうあれ、一般的に『幸福な死』は結構胸糞が悪い物語とも読めるので、今回の「課題図書」には不向きかもしれませんね。

 

「過去は変えられる」ということ

―『物語は人生を救うのか』千野帽子

 もうタイトルがそのままで御座いますね。物語に救われたい!

 一時期話題になった物語論の本です。これまで挙げてきた本と比べても格段に読みやすいことは間違いありません。

 

 前節にて、「責任は虚構である」ということをご紹介致しました。しかし、我々はあたかも「責任」が存在しているように振る舞っています。虚構であるならば、何故それは霧散しないのでしょうか。

 それは、「虚構」というものが、すぐさま消え去るものではないからです。我々が、その「虚構を受け入れて」いるからです。

「虚構」という言葉に違和感があるのなら、いっそのこと、こう読み換えてみては如何でしょうか、「物語」「ストーリー」、と。

 

 人間は物語を求める生き物です。それは本能的な渇望とさえ言ってもよいでしょう。

我々はありもしない因果関係を構築します。たとえば、「きょう先生の機嫌が悪いのは、きのうボクがママのプリンをこっそりたべちゃった悪い子だからだ。きのうそんなことをしなければ、先生はニコニコしてくれたのに」、のような。

この喩えでは、先生の機嫌と、ママのプリンは実際には何の関係もないのですが、幼い頃にこのように思って不安になった方が大半なのではないでしょうか。

これはわかりやすい幼少期の例だとしても、今でももっと複雑な形で、このような誤謬を信じてしまうことは頻繁にあるはずです。

この「ありもしない因果関係」は、「物語」と呼称することができるでしょう。

 

 「過去」は、現在の自分の認識で成り立っています。記憶違いや、何を重要事項として取り上げるかによって、「過去」そのものが変質するのです。

ここでは、虚言や歴史修正だと恐れないで下さい。嘘を塗りたくらなくたって、この「変質」は可能なのですから。

 

 人間は、いやなこと、恥ずかしいことばっかりを思い出してしまう生き物ですが、本来は記憶力というのは然程優れてはいません。従って、「これまでの人生のどの部分を重要視するか」によって、その人の感じる幸福度は大きく左右するはずなのです。

 

 夭折のSF作家、伊藤計劃先生の代表作『虐殺器官』には、以下の非常に有名な台詞があります。

「ぼくは無神論者だ。だから、地獄うんぬんについては気の利いたことは言えそうにないな」

「神を信じていなくたって、地獄はありますよ」

アレックスはそう言って、悲しそうに微笑んだ。

「そうだな、ここは既に地獄だ」(中略)

しかし、アレックスはそうじゃないと言って自分の頭を指差した。

地獄はここにあります。頭のなか、脳みそのなかに。大脳皮質の襞のパターンに。目の前の風景は地獄なんかじゃない。逃れられますからね。目を閉じればそれだけで消えるし、ぼくらはアメリカに帰って普通の生活に戻る。だけど、地獄からは逃れられない。だって、それはこの頭のなかにあるんですから」

                        ―『虐殺器官』. 伊藤計劃. p.52

この「地獄は頭の中にある」というテーゼは、第二部の冒頭や、第三部の「死者の国」などで繰り返し登場します。

 多少のネタバレをお許し頂くならば、作中でこの思想を説くアレックスは、この「頭の中の地獄」に耐えられなくなり、敬虔なカトリックながらに自死を選んで、主人公クラヴィスに衝撃をを与えます。

彼は、頭の中に「幸福なストーリー」を築くことができなかったのでしょう。本人の言っているように、地獄は頭の中にあり、それを形作るのは他ならぬ自分自身なのですから。逃げられない。

 作中では、前述のジャンケレヴィチの思想の話は出てきませんが、彼の「二人称の死」の概念を用いると、理解が深まる一節があります。

 理由を告げずに逝くことは、残された者を呪縛する。自分はなぜ気がつかなかったのか、自分が悪かったのではないか、自分が他ならぬその死の理由なのではないか。死者は応えない。だからこの呪いは本質的に解かれることはありえない。忘却というものがいかに頼りないか、誰でもそれを知っている。夜、寝入りばなに突如襲いくる恥の記憶。完璧に思い出さずにいられるような忘却を、ぼくらの脳は持ち合わせていない。ひとは完璧に覚えていることも、完璧に忘れることもできない。

                        ―『虐殺器官』. 伊藤計劃. p.71

 これをクラヴィスは「呪い」と称しています。そうして地獄は引き継がれる。

 

 この「地獄は自分で形成するものである」という思想は、古典文学の中でも窺えます。たとえば、文豪の筆頭格、ドストエフスキー御大の『罪と罰』の一節。

«Что, неужели уж начинается, неужели это уж казнь наступает? Вон, вон, так и есть!» .

「何事だ、本当に始まったのか、本当に罰が始まっているというのか? そうだ、そうだ、そうに違いない!」。

        ― ≪Преступление и наказание≫. Достоевский. /Часть II/Глава I

 ここは、殺人を犯した主人公ラスコーリニコフが、殺人の痕跡を消しながら呟く台詞です。

 この誰もが知る名作の原題は ≪Преступление и наказание≫ で、実は、こちらはより精確に訳すなら、『罪と罰』ではなく、『犯罪と刑罰』になります。どちらも社会制度的な意味合いを内包する単語なのです。英語に直すなら、『Crime and Punishment』。

 一方、ここでラスコーリニコフが用いているのは、題にもある「刑罰」 наказание ではなく、別の казнь という単語で、こちらこそが日本語でいう「罰」なのです。

ラスコーリニコフの「犯罪」は未だ発覚しておらず、「刑罰」は行われていません。しかし、彼自身が、己の頭の中で、「自罰」を開始する。これこそ正に、「地獄は頭の中にあり、逃げられない」ということでしょう。

 『虐殺器官』のアレックスとは異なり、『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフは、迷い悩み悶えながらも、最終的に「頭の中の罰」を克服し、警察に自首して、真っ当に罪を償うことになります。こちらが正解例でしょう。

 

 文学作品で描かれてきたように、この「地獄」やら「呪い」やら「罰」やらというのは、非常に凶悪な存在です。立ち向かうのには決然とした覚悟を必要とします。

 わたくしの考えでは、これら巨悪に立ち向かうに相応しい武器こそが、この「過去を変質させる」こと、「責任という虚構に惑わされないこと」など、当記事で扱ってきた思想なのです。

 

 地獄を天国に変える方法が一つだけ存在します。それは、自分の意識の変革です。

地獄が頭の中にしか存在しないなら、天国も頭の中にしか存在し得ません。そして、その何れの世界にも、他者は干渉することが叶いません。

しかし、自ら己を大事にしてくれる周囲の意見を取り入れたり思想や倫理、哲学を学んで先人の加護を得ることが、闘いの道標になるのだとわたくしは確信しています。

 

↑ 関連記事。宜しければ併せてどうぞ。

 

自分の現在地を把握すること

―『死ぬ瞬間』エリザベス・キューブラー・ロス

 何やら死生観に纏わる話が続きましたので、その流れでこちらもご紹介させて下さい。今や古典的名著となった、キューブラー・ロス先生の『死ぬ瞬間』。

 この本は、死に面した人、或いは遺族が、自身、或いは大切な人の死を受容する過程について論じられた心理学の非常に有名な書籍です。これを、「死の受容プロセス」と呼びます。

 

 死の受容プロセスをザックリと概説致します。詳しくは前掲書をお読み下さい。

 第一段階が「否認」です。何故私が、何故君(「二人称の死」ですね)が死なねばならないのか? 嘘だ、そんなことは絶対に「ありえない」(「ありえない」ことは現実に起こるんでしたね)。断じて受け入れられない。

 第二段階が「怒り」。死を否定することが難しくなってくると、次第にそれは怒りに変わります。自分を、大切な人を奪うだなんて、許せない。救えなかった医者も、理不尽な神もみんなみんな呪ってやる!

 第三段階が「取引」。怒る力も衰えてくると、それは神への懇願に取って変わります。「取引」というとなんとなく漠然としていますが、多少の語弊があるものの、わかりづらければ「祈り」「神への懇願」などと言い換えてもよいかも知れません。君を蘇らせるためなら私はなんだってするのに、どうして、なんとかしてよ……。

 第四段階が「抑鬱」。そのうち、どうしたってそれを直視せざるを得ない日が来ます。その無情な現実を前に、人は心を閉ざし、絶望します。もうだめだ、どうにもならない。破滅だ。

 最終段階が「受容」です。このプロセスを経た人が辿り着く最終目的地点であり、それは生暖かいながらも幸福なものです。我々は皆ここを目指さねばなりません。

 

 受容の境地に至るのは、とても難しいことです。実際、『死ぬ瞬間』には、最期まで受容することができなかった人々が沢山でてきます。

 しかし、この書籍を読むことができるわたしたちは幸運です。少なくとも、死の受容プロセスの知識があれば、今すぐには受容できなかったとしても、「自分はいまこの場所にいるんだ」という、地図の役割を果たしてくれるからです。

死の受容プロセスは、凶悪な悲劇を突きつけられたとき、冷静になる一助と成り得るのではないでしょうか。

 

 ところで、「自分や周りは今のところ死とは全く無縁だ」という幸運な方もいらっしゃるはず。

 死の受容プロセスは、前述の通り、今や古典となっています。文学作品やゲーム作品などの物語の土台となっていることも少なくなく、特に死とは無縁であっても、一読の価値は間違いなくあると思います。

↑ 過去に遊んでレビューを書いたゲームでも、二つも死の受容プロセスがテーマになっているものがありました。

 

 ちなみに、このような素晴らしい著作を出版されたキューブラー・ロス先生ですが、他にも多数の類似作品を出版しています。

しかしながら、晩年になると、心理学からかなりスピリチュアルに寄っていくので(たとえば、「死後の世界を "視た" 」というような記述が増えるなど)、取り敢えずは『死ぬ瞬間』をお手に取ることをお勧めしますね。

 

「私」を問い直す

―『空白を満たしなさい』平野啓一郎

 最後に、現代小説を一篇ご紹介して終わりにしたいと思います。現代日本が誇る平野啓一郎先生の『空白を満たしなさい』です。

 上下巻と少々長いですが、サクサク読めます。

つい先日、実写ドラマ化もされて話題になりましたね。

 ドラマ版は拝見できていないので、機を見て履修したいと思います。

 

 『空白を満たしなさい』は、死亡した人々が、その瞬間の記憶を欠落したまま蘇生するという少しファンタジックな世界です。個人的に、一時期蘇生譚にのめり込んでいた時期があり、その一環で辿り着きました。

↑ その痕跡。

 

 『空白を満たしなさい』は、ストーリーとしても非常に面白く、更に特に後半は平野先生の思想がよく現れていて、完成度の高い作品となっています。純粋にお勧め。

 

 平野先生といえば、「分人主義」思想。

 「分人主義」とは、こちらの新書の副題にもあるように、人間一人を、「個人」という一つの枠に押し込めるのではなく、「分人」という複数の存在を保とう、という思想です。

 わかりづらいと思うので、例を出します。たとえば、前節での例にも出した男の子。彼はママの前では「息子の自分」。先生の前では「生徒の自分」。友達の前では「友達の自分」……というように、ロールプレイと申しますか、それぞれの場所で与えられた役割があり、それに準じていますよね。これを「分人」と呼んだらどうか、というのが、平野先生の思想です。

 

 これは何も、多重人格というような話ではないのです。もう一つ例を出しましょうか。

たとえば、幼い娘を持つ父親がいたとしますね。彼は愛娘の前では、自分の一人称は「パパ」だし、「かわいいでちゅね~」のような、赤ちゃん言葉だって使うかも知れません。

しかし彼は日中は会社員。上司に「パパがんばりまちゅよ~」とは絶対に言いませんね。彼は良識的な社会人として敬語で上司と話すはずです。

「パパ」な彼も、「会社員」な彼も、同じ人物ですが、少し違う。これを「個人」ではなく、「分人」とします。

 

 『空白を満たしなさい』も、例に漏れず生死に纏わる物語です。ここで説かれているのは、「個人」という、一枚岩であるという虚構に彩られた不確かな存在ではなく、誰か「二人称」の存在に認められた「分人」をそれぞれ擁立することで、一人の「分人」が危ぶまれても、他のところで建て直そう、ということです。

 

 同じ例で続けましょう。先程の最愛の愛娘が、幼くして旅立ってしまったとします。その時、彼は「パパである分人」を、娘と共に亡くしているわけですね。しかし、「会社員である分人」や「夫である分人」を同時に無くしたわけではありません。娘がいなくなろうとも、彼は別の存在にとっての「二人称」であり続けます。

 

 わたくしがこの頃死を捉えるときの思想としては、この「人称の死」と「分人主義」を混ぜ合わせたような考え方をしています。

人間にとっての死とは、二人称(家族、友人、愛する人など)の死のことです。人は、その人と接するとき専用の「分人」を持ちます。その相手が死んでしまうと、同時に自分も、「その人と接している時の自分」をも喪うことになるわけです。そう考えると、「身を切るような思い」というような慣用句もとても的を射ているように感じられます。これが最近のわたくしの思想です。

 

 特段死に限らずとも、他者と離れることで現れなくなる自分がある、そういう認識を持てるだけでだいぶ気持ちの持ちように差が出るのではないでしょうか。

わたくしの周りでは、最近親しい友人の遠方への引っ越しが相次いでおり、どんどん友人と遊ぶ機会が減っています。彼らと共に「彼らの友人であるわたし」がいなくなってしまうので、わたくしは寂しい思いをしているわけですね。たまには帰って来んかい。

 

 ちなみに、平野先生もフランス思想を学ばれた方で、『空白』の中でもその示唆があります。

この「 "自分" なるものは肉体に宿るのでは無く、社会的な関係に宿るものである」という考え方は、近代フランス哲学思想に共通するものです。ここまで挙げた書どれも根底に同じ思想があると言えます。

 「神を否定した」フランス。神の死んだ世界で、精神の安定を保つことは難しいことです。絶対的な存在はおらず、全てを自分で、自分達で律しなければならなくなったとき、何を信じれば良いのか? 彼らの思考の蓄積が、そこにはあります。

 

 今回ご紹介したものが、少しでも心の救済になれば筆者冥利に尽きます。

 

最後に

 通読ありがとうございました! すっかり長くなってしまって、11000字超えです。こんなはずでは……。

自分の好きな書籍を沢山ご紹介できて個人的にはとても満足致しました。オタクは推し語りが好きな生き物でありますから!

 

 わたくしと致しましても、皆様が「心救われた」書籍が何であるかは大変関心がありますので、是非ともコメント欄(↓)や、マシュマロTwitter の DM などでご教授願えれば幸いで御座います。勿論、挙げた作品の書評も大歓迎。

 

 それでは、長くなりすぎてしまいましたので、今回はこの辺りでお開きとしたいと思います。また別記事でお目に掛かれれば幸いです。