世界観警察

架空の世界を護るために

大公殿下と公爵の往復書簡 ⑵ - 翻訳

 こんばんは、茅野です。

最近は「レビュー執筆マラソン」をコツコツと続けているのですが、半数を超えましたので、一旦息抜きを。昨日は「良い推しの日(11/04)」ということなので、わたくしもオタ活をば。

 

 というわけで今回は、ニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子殿下と、ヴラジーミル・ペトローヴィチ・メシチェルスキー公爵の往復書簡を読んでいくシリーズ第二回です。

↑ 第一回はこちらから。

 

 第二回となる今回も、殿下から公爵宛て。公爵から殿下へは、「長大な手紙(殿下談)」を送っているようなのですけれども、ゾーラブ先生の論文には掲載なし。

今回はその返答となっており、比較的短めです。

 

 それでは、お付き合いの程宜しくお願い致します!

 

 

 今回は、早速本文をご覧頂こうと思います。後に簡単な解説を付けます。それではどうぞ。

 

手紙 ⑵

ロシア大公ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ

ヴラジーミル・ペトローヴィチ・メシチェルスキー

 

サンクトペテルブルク1863年11月28日

 

親愛なる公爵

 

 あなたの興味深く、長大なお手紙に対する返事が遅れてしまい、申し訳ありません。

私達は全員、非常に興味深く読み、あなたがヴラジーミル(訳注: ここでは人名ではなく地名)の集落や村を旅する様子を想像しました。

あなたの今の仕事ぶりや職が、ロシアをよく知りたいと望んでいる人間にとって、最も有益であることに疑問の余地はありません。

公職(Официальность)は、あなたに幾らか有用な威信(веса)を与えるでしょうけれど、しかしそれはあなた自身や、他人を威圧するようなものではないでしょう。―――従って、好条件な仕事、というわけです!―――

 

 あなたの描写する郷の状態、特にパニン伯爵の領有地には好奇心を唆られます。

あなたが酷い悪路を行き、ありとあらゆる防寒具を掻き集めながら、(勿論、このような困難な時にのみ)官吏の仕事を呪う姿がありありと思い浮かびました。ペテルブルクを離れずとも知識を得ることが可能で、そして私室からもっと楽(легко)に統治することもできるのに、何故あなたが、快適な閑職、いとも簡単に良心との和解を果たしてしまう幾らかの官吏たち(そして大臣たち)とのペテルブルクでの生活を見捨て、ロシアの様々な場所を渡り歩くのかは、神がご存じでしょう!

 

 哀れなヴラジーミル市長が、招かれざる、願わしくない客を閉じ込める場所に困り、絶望しながら髪の毛を掻き毟る様が、目に浮かびましたよ。

 

 最後に、悪名高いヴラジーミルのホテルでの災厄に関して、心底同情の念を抱くあなたのことを想像しました。

 

 あなたが旅に出て、観察し、研究を進めている間、私達はツァールスコエ・セローで平穏に暮らしていました。24日に冬の住居(訳注: ペテルブルクの冬宮殿、現在のエルミタージュ美術館に越したこと以外には特に何もなく、つまらない生活を送っています。

私はと言えば、あなたが出発した日曜日から、殆ど丸一週間も臥せっていました。

日曜日に、狩猟で右足を痛めてしまって、腫れていたのです。

月曜日には歩けなくなり、次いで腫れてきたので、ツァールスコエ・セローでの最後の一週間は、何も羨まれるような状態ではなかったのですよ。更に、篭もってばかりで外にも出られず、運動不足で痩せました。

24日の日曜日には、なんとか引っ越しに参加できましたが、それで終わりというわけではありませんでした。その後二日間は健康に過ごすことができたものの、昨日には同じ足に新たに別の腫瘍ができてしまい、今日にはまた負傷者に逆戻りです。

耐え難いことに、いつになったらこのしつこい病のパロディから解放されるのか、わかりません。

 

 天気は殆ど暗く、物憂げで、極寒というわけでもなく、雪も降りません。

今や氷が張り始め、恐らく、そろそろネヴァには冬の間の恒久的な橋が掛かることでしょう。

昨日は、気紛れな自然により、暖かく、乾燥していて、明るい晴天でした。

しかし、本日は再び忌まわしい天候(положению)です。

 

 暗くなってきて、書くのに支障が出てきたので、終わりにしようと思います。

―――あなたがどこにいらっしゃるのかわからないので、あなたの指示に従って送ります。

 

 それではまた、親愛なるヴラジーミル・ペトローヴィチ、もう一度あなたの手紙に感謝し、心の中であなたの手を握ります。

 

ニコライ

 

N. B. (訳注: Note bene の略。「注意せよ」という意味のラテン語)。

下線を引いた語は、あなたに対する私の思いを全て、簡潔に表しています。

 

解説

 お疲れ様で御座いました!

例によって、簡単に解説を入れて参ります。

 

原本のコピー

 最初に、今回も殿下直筆のものを見てみましょう。最後の方です。

↑ 殿下の書く Д (一番最初)がめちゃくちゃ好き。美。

 本当に字が綺麗すぎる……。

 

日付に関して

 このシリーズでは、彼らの実際の直筆のお手紙を元に翻訳していくので、書かれている日付は、国内でやりとりされているものに関しては、ユリウス暦となっています。

従って、殿下がお手紙を出しているのは、現在我々が用いているグレゴリオ暦で12月10日です。真冬!

道理で、「あらゆる防寒具を掻き集め」たり、「冬の間の恒久的な橋(川が完全に凍り付いて対岸へ渡れるようになるという意味)」ができたりするわけですね。それにしても、後者の表現のお洒落さよ。

 

 それでも「極寒ではない」と書き切るところが、ロシアの民だ……恐ろしい……風邪引かないで欲しい。

 

公爵の仕事

 今回のお手紙は、殿下がペテルブルクから、"ヴラジーミル市" にいる "ヴラジーミル" ・ペトローヴィチに書き送ったものです。ヴラジーミル、ヴラジーミルへ行く。紛らわしい。文法問題かと思いました。

 

 メシチェルスキー公爵の仕事は、当時の内務大臣ヴァルーエフ伯爵直轄の部下で、帝国内のあちこちに旅をし、現地調査をする、というもの。1863年冬は、ヴラジーミルに飛ばされたようですね。

 

 殿下も公爵も、上司のことがあまり好きではなかったようなので、殿下が「快適な閑職、いとも簡単に良心との和解を果たしてしまう幾らかの官吏たち(そして大臣たち)」と揶揄している中には、正にヴァルーエフ伯のことも含まれるのでしょう。

↑ 1865年のヴァルーエフ伯の肖像。

 ヴァルーエフ伯は、「大改革」期に活躍した主要な政治家の一人です。

基本的にはリベラル寄りだったようですが、政治的なバランス感覚に長けており、意見調整が上手い政治家であったと言われています。それを肯定的に取るか、「カメレオン的」と取って否定的に見るかは人それぞれのようですが。

 一方で、この時期にこのことを述べるのは心苦しいのですが、彼はウクライナ弾圧に積極的な政治家でもあって、1860年代にウクライナ語による出版を禁じる法令を作ったのも彼です。重く受け止めてゆかねばならない事実です。

 

 メシチェルスキー公爵は、貴族として暮らしていくには、少なくとも殿下ら皇族との交友関係を保つには、経済的に苦しかったと言われています。従って、官吏の仕事に励まざるを得ませんでした。

 彼は帝国法律学校のエリートで、内務大臣ヴァルーエフに直々にこの職にスカウトされたとのことです。奇矯な振る舞いが目を引きますが、実は優秀な人なんですよね。

 尚、ヴァルーエフには、公爵と同い年のピョートル・ペトローヴィチ、二歳年下のアレクサンドル・ペトローヴィチという息子がおり、彼らも同校に在籍しており、公爵の親しい友人だったと言われています。つまり、真偽の程はわかりませんが、「そういう関係」だったという説もあったり……。息子のセフレを起用する父親、どうなん?

 

 殿下は、手紙からも伺えるように、公爵のこの仕事を高く評価していたようです。散逸している公爵からの手紙も然りだったのでしょうが、公爵が仕事の愚痴を漏らすときは、彼はかなり積極的に慰めています。

 殿下は、その立場上、籠の中の鳥にならざるを得ず、「大宮殿という監獄(殿下談)」に蟄居させられていました。

従って、致し方がないことであって彼自身にはどうすることもできなかったわけですが、彼は、ロシアという大帝国の主になる予定なのに、特に地方に関する自国の知識が浅いことを恥ずかしがっており、事ある毎に公爵に対し「ロシアの現在の姿を教えて下さるのはあなただけです」、「私もお忍びで地方に研究の旅に出られたら良いのに」、「あなたは私の情報員です」などと仰っています。

 

 殿下は、皇太子という立場ですし、大変魅力的な人物ですから、それはもう当然、友人は沢山いました。その中でも、メシチェルスキー公爵が突出した存在になることができたのは、この仕事の為だったと言っても過言ではないでしょう。

帝都に縛り付けられている殿下にとって、公爵からの情報は価値あるものでしたし、公爵もそのことに気付いており、それを「武器」としていた様子が窺えます。

 

 それにしても、今回の旅での公爵の役どころは、「政府から来た厄介なお目付役」なのでしょうから、然もありなんというところではありますが、殿下にすら「招かれざる、願わしくない客」呼ばわりされているのは流石に笑えます。

 

ヴラジーミル市

 公爵が飛ばされていた、ヴラジーミル市の地理を確認してみます。と、遠い!

↑ お馴染み現代の地図から。

 このシリーズではありませんが、単発でご紹介した記事の中で、殿下が滞在していたルィビンスク、ヤロスラヴリ、コストロマニジニ・ノヴゴロドなどの地名も見えますね。

↑ こちらの記事です。殿下の博識さと皮肉っぽさが爆発!

 

 ところで、公爵はもうそれは膨大で長大な『回想録』を書いているのですが、そこに今回のヴラジーミル滞在の話は出てきません。これはかなり意外です。殿下のお言葉は逐一メモっている公爵が、旅について書き漏らすなんてことがあろうか。彼にとって前者の方がずっと大事であったことは、わたくしも重々承知ですが……。

↑ 『回想録』の中から、殿下に関する言及を抜いて翻訳したシリーズです。殿下関連だけで連載七回分になるのだから凄まじい。

 何か書けない事情があったのか、何か嫌なことでもあったのか、果たして……。

 

 従って、情報を補強してくれる資料がないため、殿下の言う「パニン伯爵」が誰なのか、その領地がどうなっていたのか、というところはよくわかりません。

しかし、名前からして、こちらは十中八九、ヴィクトル・ニキーティチ・パニン伯爵のことであろうと思われます。

 殿下の生きた時代を殆どカヴァーする、長く法務大臣を務めた人物です。しかしどうやら彼は、農奴制の廃止や体罰の禁止に反対する、「ウルトラ極右」であったようです。怖い。

ちなみに、ロシア語でも「ウルトラ Ультра」という表現があるんですよ。公爵も『回想録』で使っていました。

 

怪我

 「平穏な生活」と言いながら、全く歩けない程の怪我を足に負っている殿下。己の不調を表沙汰にしたがらない傾向の片鱗が、既に伺えます。

 

 殿下は、持病を持っていたり、病弱というわけではないのですが、事故に遭ったり怪我をしたりすることが多いように見受けられます。

彼は中性的な美貌の持ち主で、体格も細身だったので、我々からしたら「美人で良いじゃないか」と思いますが、軍人として育てられる手前、それらは寧ろ障害となったようです。

父や教師から「男らしくあれ」と散々言われ、激しい運動や厳しい軍事演習への参加を強要されることが多かったので、その分怪我も多かったのではないかと推測されます。

 彼の美しい容姿を知っている身からすると、嫌味だとしか思われないのですが、このような事情から、彼自身は己の容姿にかなりのコンプレックスがあったものと見受けられます。一度など、弟に「僕の容姿はそんなにも威厳がないのかな。」と、冗談や自虐交じりに書いています。10代から威厳を求めんでも宜しい。

 

 殿下の死因となるのは結核髄膜炎ですが、この病は殿下が怪我をしたときに、その傷から結核菌が侵入して脳に至ったものです。従って、発端は外傷です。

前述のように、殿下は怪我が多いので、具体的にいつできたどの傷から始まったのか、という特定は未だに為されていません。

最も有力視されているのは、16歳の時の障害物レース時の落馬事故ですが、ゾーラブ先生は、今回言及されている狩猟時の怪我の症状(腫れなど)が明らかに感染症に罹患した際のものであり、こちらの方が原因ではないか、と推測しています。

いずれにせよ、気をつけて欲しいし、大事にして欲しい……。

 

 それにしても、肥満には「運動不足で痩せる」という概念がわからないのですが……。筋肉質な肉体だということですよね。流石だ。

あの豪勢な宮廷の食生活を送っていて、家族は病弱な母を除いて皆肥満気味(或いはガッツリ肥満)なのに、どうして一人だけその体型を維持できているのか謎です。日々机に向かって勉学に励んでいたので、自由時間も殆どなかったようですし……。殿下七不思議の一つ(?)。

 

注意せよ

 サインの後に、追記のようにあるのが、注意を促す一文です。

下線部の単語が、殿下が公爵に対して抱いている感情だ、と仰るのです。そんなお洒落な(二回目)。

 

 本文の翻訳では、文脈に合わせて訳語を選んでいるので、一応下線部は原語も併記しておきました。

これらを最初から順に並べ、一般的且つ、人への評価とする訳語を選ぶとするならば、「政府の」「威信ある」「快活な」「地位」となるでしょうか。

何か隠語のような含みがあるわけではないのであれば、何だか随分素っ気ないような気も致します。

あくまでも「ビジネスライクな関係」ということでしょうか……? 公爵よ、前の手紙に今度は何を書いたというんだ……。

 

最後に

 通読ありがとうございました! 6000字ほどです。

殿下の記事は書くのが楽しくて、それはもう勢いよく書いてしまいます。特に解説は一気書き。そしていつの間にか早朝に……(いつもの)。

 

 この間、19世紀の閣僚名簿を作り始めました。

19世紀の政治には強い関心がありますから、19世紀中頃の全世界の閣僚名簿資料を手に入れていたのですが、図鑑のような巨大な本で、持ち運びはできないし、役職ごとに纏められているので、時系列で纏めたものが欲しいな、と思い、自分で作ることに。一生図を作っているな……。

殿下の晩年前後のロシア帝国の官僚は主に以下の通り。

見慣れた名前がいっぱい! ですね!

視認性に優れたものが欲しいと思いこのようにしたのですが、如何でしょうか。改良の余地のポイントなどありましたら、ご教示頂きたいです。

↑ 趣味で作っている19世紀史の年表です。宜しければ。

 

 さて、次回は、纏めて 3 つの書簡をご紹介しようと思います。どれも短いので、纏めてしまおうと思います。

いよいよ(?)、公爵から殿下宛てのお手紙もあります。当然ですが、ド濃いです。もう言い訳の余地はないです。お楽しみに。

 それでは、今回はここでお開きと致します。また次の記事でお目に掛かれれば幸いです!

↑ 続きを書きました! こちらからどうぞ。