世界観警察

架空の世界を護るために

大公殿下と公爵の往復書簡 ⑷ - 翻訳

 こんばんは、茅野です。

この間、友人の家でお泊まり会をしたのですが、夜にディズニー映画の鑑賞マラソンを敢行しました。最終日にディズニー映画の中でも人気の高い名作『リトル・マーメイド』を観て、「なるほど、確かにこれは頭一つ抜けているな……」と分析をしたり。

 その流れで、「やはり原作を読まねばならぬ!」と思い立ち、とうとうアンデルセン全集を購入しました!

岩波文庫のセット。箱入りでお洒落!

 デンマーク童話作家であるアンデルセンは、なんと殿下の婚約者であるダグマール姫に読み聞かせをしていたこともあります。当時からの人気作『人魚姫』も読み聞かせて貰っていたことでしょう。

その彼女が、同じドイツ民話を元とした「水の妖精」の愛称を持つ男性と婚約したというのだから、なかなかの因果を感じるものです。

 

 さて、そんなわけで連載の続きです。我らがニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子殿下と、友人ガチ恋ヴラジーミル・ペトローヴィチ・メシチェルスキー公爵の往復書簡を精読するシリーズ第四回です。

↑ 第一回はこちらからどうぞ。

 

 第四回となる今回は、殿下から公爵宛のお手紙を一通読みます。公爵からは多数の手紙が届いていたようですが、殿下は返答を怠っていた様子。精神的な不調が伺える、哲学的な内容の一通になっています。

 

 それでは、お付き合いの程宜しくお願い致します!

 

 

手紙 ⑹

ロシア大公ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ

ヴラジーミル・ペトローヴィチ・メシチェルスキー

( 1864 年 3 月?)

 

親愛なる公爵

 

 あなたの好奇心を唆る、興味深いお手紙に心から感謝します。それと同時に、長い間沈黙していたことをどうかお許し下さい。

私達は、我らが南西ロシアについて殆ど何も知らないのだから、当然今知ろうと努めるべきなのです。

あなたの手紙は、私を未知の世界に引き込んでくれます。私もお忍びであなたのいる土地へ行けたら良いのに。

本来、私達はもっと頻繁に同地へ赴くべきなのです、それもお忍びではなく。そして、同地の現状を厳しく判断しなければなりません。

チェルトコフの運命が如何に悲劇的であっても、如何に惨いものであっても、私は彼を羨ましく思います―――それは私達の最高の人材に相応しい活躍であり、全ての祖国への奉仕の中でも、恐らく最も尊敬すべき仕事の一つでしょう。

このような人が、指で数えられる程度しかいないというのは悲しいことです。彼らの少なさに反して、私達の指は余りに多すぎるのです!

 

 あなたが斯くも興味深い旅に出ている間、私達はペテルブルクでただ静かに座っているだけです。私は街から一歩も出ず、どこにも行っていません。狩りにすら一度も出ていません。

斎戒期の最初の一週間は、皆で断食を行いましたが、二週目には大斎の通常の生活に戻りました。

特別楽しかったとも、特別退屈であったとも言えません。何と申しますか、何も感じないのです。

特に悪いこともしませんが、かといって良いことも殆どしていません。何となく勉強する、何となく怒る、何となく楽しむ……一言で言えば、意欲というものが全くないのです。

私は恋もせず、憤ることもなく、失望することもありません。私の心の平穏は揺るぎませんし、未だ無気力な人間と罵られたり名誉を毀損されたりもしていません。

「もっと何かないのか! 」―――間。―――あなたは呟くでしょう。「何だこの濁った水は、色彩のない絵は。こんなものは人生なんかじゃない」。

私は心の中で答えます。「ああそうさ、こんなものは人生などではない。返事はそれだけか、って? ええ、今はね」。

「他には本当に何もないのか?」。

「忍耐は大事ですよ、ヴラジーミル・ペトローヴィチ!」。

 

 政治についてご紹介しましょうか? 真新しいことは何も起きておりませんよ。

相変わらず全シュレースヴィヒは未だ公国のままだし、ナポレオンは各地を混乱させているし、イギリスはそれに手を貸しているし、それからゴルチャコフ公爵がイタリアの大臣を啓蒙しています! 何て愉快なのでしょうね。

 

 しかし結局の所、人生とは、参加とは、行動とは、力とは何なのでしょうか?

それらには何かしらの意味があるはずなのです、それらのない人生なんて、価値がありませんから。

ええ、我らがロシアには全てがあります、しかし私は中国の皇帝よりも酷い生活をしているので、どれ一つとして手に入れられていないのです。

私の返答はこうです。「自分が悪いのだ、自分の人生をより良くすることだってできたはずなのだから」。

釈明。「しかし月からでは地上のウハーは飲めないだろう(訳注: 日本語でいう「鏡花水月(目視できたとしても手に入れることはできない)」のような意味か)」。

そうでしょう? 明白なことです。

 

 さて、あなたが私の気が違ったと解しかねないので、この辺りでお終いにしたいと思います。

それにしても、こんなものは手紙とは呼べません、我ながら呆れたものだ!

あなたが正しいのです……。
敬具
ニコライ

 

 同日の晩に追記

親愛なる公爵、このような無意味な手紙をお許し下さい。

私が長く沈黙を貫いている間、あなたは何通もお手紙を下さった。あなたは内容ある長い返答を期待する当然の権利があります。しかし、受け取ったのはこのような取り留めの無い、訳のわからない書き付けだけ……。

あまり厳しく非難しないで下さい。あなたには書くべき無数の考えが、無数の印象があるでしょうけれど、私にはないのです。

無論、こんなことは言い訳にすらなりません。次の手紙で償えると良いのですが。

お利口さんにならなきゃ、ですね!

 

 今し方、コンサートから帰ってきたところです。音楽は素晴らしいですね。死者をも蘇らせるようです。

 

さようなら。
あなたの手を握り、心からあなたの幸福を祈ります。

 

解説

 お疲れ様で御座いました! 殿下からのお手紙でした。

 

 今回は明らかに精神的な不調が伺えるお手紙でした。今回のお手紙の特徴は、内容も然ることながら、一文の短さです。

殿下は所謂悪文書きという訳では全くないのですが、普段であればもっと一文が長い傾向があるかと思います。ここまで書いてきた感触です。このようなことが肌感覚でわかるのが、翻訳書きの楽しさですね。

 

 途中から、公爵を批判者と見立てた架空の議論が始まり、軽く散文小説風になるのも興味深いです。殿下が他にこのような書き方をしているのは、現段階では見たことがありません。

 連載の後半でも公爵が指摘していますが、殿下は自分に物凄く厳しいです。従って、今回もこのような文体で和らげつつも、自責しています。

 

 一方で、特に愛らしいのは最後の文で、「お利口さん(пай)」なる大層あざとい語が選択されています。

こちらは、親が幼児に「コラッ、お利口さんにしてなきゃメッ、でしょ?」と言うようなお説教をする時に使うような単語で、普通は大人同士の会話では登場しません(尤も、この時殿下は漸く二十歳になったばかりですが)。

 今回は一人称で使われているので、「(私は)お利口さんにならなきゃ」というようなニュアンスでしょう。殿下のいつもの自虐ですね。

もしかしたら、殿下も幼児の頃はこの単語でお叱りを受けたり、褒められたりしていたのかもしれないですね。

 

 ところで、最後のコンサートでは、具体的に何を聴いたのでしょうね。割れれば、すぐにでも研究するのに。

「死者をも蘇らせる力がある」と書いていますが、これではオルフェウス神話のようですね。個人的にオルフェウス神話が好きなので、色々記事を書いていたりもします。

↑ オペラや詩、映画やゲームなど、様々な媒体で描かれ続けてきた神話について考えます。

 しかし、この場合、殿下の役回りは冥界に囚われた若き乙女エウリュディケですよ。

殿下って、物凄くカリスマ性があって、背が高く活動的で、充分男性的な魅力も持っていると思うのですけれども、線が細くお顔立ちが中性的であることや、若くして病死してしまうという儚さゆえか、毎回役回りがヒロイン側ですよね。(少なくとも病を患った身体以外は)か弱い存在では全くないのですが……。

渾名も妖精ですし。文字通りの「王子様」なのにな……「お姫様」ではなく……。いえ、個人的には「ジェンダー役割」という概念が嫌いなので、全く構わないのですが……。寧ろお転婆お姫様なダグマール王女の方が勇ましいまであります。何故。

 オルフェウス神話では、死したエウリュディケは地上に戻ることができませんので、そのような深読みをしてもバッドエンドですね。『白雪姫』くらいのハッピーエンドになって欲しいものです。

 

原本のコピー

 今回も直筆のお手紙を見てみます。冒頭部です。

↑ 字、綺麗すぎ(毎度の感想)。

 

 今回の便箋、王冠の下が Н と А が組み合わさったモノグラムですね! これは殿下の名前の頭文字なので(Николай Александрович)、もしかしたら殿下専用の便箋なのかもしれません。素敵すぎます。

 

公爵の旅

 こちらのお手紙は、旅に出ているメシチェルスキー公爵に宛てて殿下が認めたものであることがわかります。

 

 公爵は、当時の内務大臣ヴァルーエフの部下として、1864 年 2 月にキエフに出張に行っていました。

殿下が「何通も手紙をくれた」と書いているので、その出張での出来事を殿下に大量に書き送っていたものと推測されます。

 

 今も恐ろしいことになってしまっているキエフですが、19世紀でも恐ろしいことになっていました。

研究によれば、農奴制下で、最も苛酷な状況に置かれたのはウクライナ地方の農奴であったといいます。賦役の労働量が多く、また体罰などの直接的に心身を害する私刑が横行していました。

 皇帝政府は、それを是正するべく、 1861 年に農奴解放令の発布に踏み切りますが、これはご承知の通り不十分な法令であり、地主貴族・元農奴双方から非難される結果となってしまいました。

 内務大臣ヴァルーエフは、農奴解放令発布から三年が経ったこの 1864 年 2 月に、己の部下であるメシチェルスキー公に対し、解放令後の農民はどのような生活を送っているのかについての査察を命じました。

 

 殿下がプライベートのお手紙で「私達(Мы)」と複数形で語る場合、基本的には兄弟を含めて指すことが多いです。

しかし、今回の「私達」は、ペテルブルクの政治家を全て含めていると考えられます。殿下は、自分も 1863 年に査察の旅に出た経験から、ペテルブルクの政治家が「机上の空論」に基づいて政策を練り、地方ロシアの実態を全く直視していない事実を大変懸念しておられるのです。また、謙虚に、自分も知識が足りていないから、実地調査がしたいと仰っているわけですね。

 

チェルトコフ

 殿下がお手紙で言及しているチェルトコフとは、ミハイル・イヴァーノヴィチ・チェルトコフ総督のことであると思われます。

↑ 1889 年の肖像画

 彼は主に軍隊で活躍した人物で、ヴォロネジ総督を経て、1864 年 2 月当時はヴォルィーニ(現ウクライナ総督を務めていました。ヴォロネジでは、非常に優れた地方行政を行っていたとのことです。

素ではかなり皮肉っぽい殿下が手放しに褒めるほどなので、さぞかし優秀であったのでしょう。

また、公爵がウクライナ地方のキエフにいるということで、彼の名を挙げたのだと推測できます。

 

 彼は殿下の教育責任者セルゲイ・グリゴリエヴィチ・ストロガノフ伯の甥(妹の息子)でもあるとのことです。次期君主である殿下の教育責任者を務めていることからもわかるように、ストロガノフ家は当時のロシア貴族の中でも指折りの名家ですから、血縁も広いのです。

 

 「悲劇的な運命」が何を指すのか、調べてもあまり有益な回答は得られないのですが、ゾーラブ先生によりますと、結婚関係についてであるとのことです。

曰く、彼はオリガ・イヴァーノヴナ・グリケヴィチ=グレボフスカヤという女性と結婚するのですが、当時では珍しい恋愛結婚であったようなのです。

グレボフスカヤは、このチェルトコフと結婚するために、前の夫と離縁したとのことです。そのことが、当時「離婚」という概念に未だ馴染みが無かったロシア社会でスキャンダルとなり、政府から白い目で見られる原因となった、と先生は書いています。

 このヴォルィーニ総督という職も、ある意味で左遷のような扱いだったのかもしれません。総督なので、然程悪い地位には思われませんが……。

 

 殿下は「(自分は)恋もせず」と書いていますが、どの時代や地域でも人の興味というものは然程変わらぬもので、恋愛関係のスキャンダルやゴシップは、下世話な人々の格好の餌でした。

彼は、優秀な人物がこのような、ある意味では「くだらない」理由で身を滅ぼすことに、思うところがあったに違いありません。

 

大斎

 手紙では、大斎について触れています。大斎(だいさい、おおものいみ)とは、キリスト教に於ける大事な行事です。四旬節というと聞き覚えがあるかもしれません。

 

 大斎は、復活祭前日までの 40 日間を指す期間で、この間は断食(肉食を慎むことが主、敬虔な方は水のみという日も設ける)をしたり、性行為を慎んだり、お祈りの回数を増やしたりと、神と真剣に向き合う時期になります。

 この断食などは、最初の週と最後の週に特に厳しく行う傾向があり、殿下が「最初の週は断食をした」と書いているのは、それに基づくものと思われます。

 

 ロシア帝国の標語は「専制、正教、民族性」ですし、王制や独裁の研究をしている方には馴染み深いかと思いますが、独裁者は精神的に孤独であり、信心深くなりがちとも言われます。

皇家も原則的に皆信心深く、特に皇后が熱心な信徒であったと考えられています。

 皇家の「断食」がどの程度のものであったかはわかりませんが、国民に示すべき模範として、率先して行っているのだと思われます。

 

 大斎は、年によって日付が違うので、調べるのが大変です。1864 年の大斎は、恐らく 3 月の頭から(ユリウス暦であるようです。

 ゾーラブ先生は「この手紙が書かれたのが 2 月か 3 月かわからない」という旨を書いていますが、大斎の期間と照らし合わせるならば、 3 月以降であると考えられます。

 ……ともすると、殿下は 12 月から 3 月まで公爵に手紙を出さなかったということに。尤も、実際に顔を合わせる機会があり、手紙を出す必要が無かった期間も長いでしょうから、全くの筆無精というわけではないのでしょうが、少なくとも 1 ヶ月半程度は音信不通であった、ということになりそうです。

 

ゴルチャコフ公爵

 文中で登場する「ゴルチャコフ公爵」は、第一回にも登場した、コンスタンティン・アレクサンドロヴィチ・ゴルチャコフ公爵の父、アレクサンドル・ミハイロヴィチ・ゴルチャコフ公爵のことであると思われます。当時の外務大臣です。

肖像画だと、ほんとうにそこら辺にいそうなおじいちゃんなんですけどね。

 

 彼は大変保守的な政治家でウルトラ保守主義、皇帝に忠実であったと言われています。一方で、これはわたくしの意見ですが、資料を読む限りでは、特に晩年はあまり有能な人物であったようには見受けられません。

特に、 1878 年のベルリン会議でロシアが大きく国益を損なったのは、このゴルチャコフ外相の責であると言われており、殿下の父である皇帝アレクサンドル2世も、大いにご立腹であったとか。

 

 殿下は、当時建国されたばかりで政情不安定であったイタリアを揶揄しているものと思われます。

今回のお手紙に於ける中国も然りですけれども、殿下は持ち前の皮肉っぽい言い回しで、己や身内のみならず、他国を揶揄することも結構あります。今回も炸裂で御座いますね。

 

 尤も、「イタリアの大臣」が誰を指しているのかは不明ですが、大臣の中の大臣とも言うべき、イタリアの内務大臣ラ・マルモラは、殿下が同 64 年の秋にトリノに訪れると、「この青年は完璧です」と彼を評し、また「(ロシアの人々は)彼をどれほど誇りに思っていることでしょう!」と大絶賛しています。いつも通りの「征服」っぷりです。

 このエピソードは、今回のお手紙よりも後のことですが、真の「啓蒙する権利」を手に入れたのは、外務大臣ではなく、ご自身、つまり皇太子殿下であったようですよ。

 

ウハー

 釈明文に登場する「ウハー」とは、ロシア料理の一種で、魚のスープのことです。ポケモンではありません。

↑ 一般的なのはこんなようなもの。

 

 スープとは言っても、具だくさんで、どちらかというとシチューなどの方が近いかもしれません。

ロシア語では、スープは「飲む」ではなく「食べる」と表現し、具材が少ないものはあまり好まれない傾向があります。

 

 ウハーは、特に多くの決まり事があるわけではなく、魚(蝶鮫や鮭など)と野菜(玉葱、人参、ジャガイモなど)を煮込んだだけのシンプルなものが多いです。魚が入ったスープは全部「ウハー」。カテゴリ広すぎ案件ですね。

19 世紀では既に、農民から皇族まで、広く愛される国民食の一つでした。

 

 日本でも簡単に手に入る食材で作れるので、宜しければ挑戦してみて下さい。

↑ レシピの例。

 

ロシアの冬

 この手紙で殿下は、「無気力」であり、「自分の人生には価値がない」というような投げ遣りな言葉もあり、かなり精神的に不調であるように見受けられます。カップケーキでやる気を上げましょう。

 

 考えてもみてください。最高気温が氷点下のこともあるペテルブルクの冬です。

ずっと引き篭もっていて、太陽光も録に浴びられていないでしょうから、雪国では不足しがちなビタミンDが更に不足して、更に鬱々とした気分になっているのだと推測できます。

更に、断食までしているわけで……。

 

 加えて、3 月の段階では未だ隠し通せているものの、殿下は既に具合が悪く、翌 4 月にはとうとう倒れてしまいます。

身体的な不調が、精神にも影響を与えていることは疑いようがありません。

 

 そんな中、公爵から長文高火力のお手紙が続々と届くわけですよね。返事を書くのが億劫で、大分先延ばしにしていたのかもしれません。

 

最後に

 通読有り難う御座いました! 8000字です。

 

 もう今更すぎるのですが、 64 年以降の殿下は文字通り痛々しいですよね。しかし、殿下の文献は 63 ~ 65 年のものが主なので、半数以上はこのようなものになってしまいます。致し方ない。頼むから長生きしてくれ。

 

 次回予告をします。自分で言いますが、面白いですよ。

なんと、とうとう殿下から出禁を食らってしまう公爵(!!)。殊更熱烈に、会いたい会いたいと本人に嘆願書ラブレターを送り続けますが……? 殿下が彼を拒んだ理由とは。どうなる公爵の恋路!

お楽しみに!!

 

 それでは、今回はここでお開きと致します。次の記事でもお目に掛かれれば幸いです!

↑ 続きを書きました。こちらからどうぞ!