世界観警察

架空の世界を護るために

ニクサ皇太子様を考える - 帝政ロシア考察

 こんばんは、茅野です。

当方は国際政治系の研究会に属しており、各国の代表に扮して国際問題を討議する活動をしているのですが、先日の会議では、僭越ながらニコライ2世役を賜り、彼の視点から、「どうやったらロシア帝国は存続できるのか」、即ち、「どうやったらロシア革命が起きず、且つWWIに勝利出来るのか」という議題を延々と思考し、討議していました。設定日時は1914年7月。帝政ロシアのオタクである筆者は得も言われぬほどに楽しかったです。

 結局、ニコライ2世がどう足掻けど、史実通り1914年になってしまっている段階で、ほぼ確実にロシア帝国は救えないという結論に達しました。会議の責任者からも、「勝率は1%に満たない」とまで言われました。しかし、そこで泣き寝入りするのは悔しいので、その後、「1914年よりも前に遡ったらどうなるのか」と色々と調べ、わたしは12通りのロシア帝国救済ルートを考えて呈示しました。バタフライ・エフェクトの影響も凄まじいはずですから、ほんとうにロシア帝国が救えるのか、というの実現性は全くわかりませんが、歴史IFを考えるのは非常に楽しかったです。今回は、この中でも最も胸が熱くなる展開になったものをひとつ、紹介したいと思います。

それはズバリ、「ニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子が帝位に就く」というものです。

 

 

ロシアの希望

 まず、何故このような発想に至ったか、というのを軽く述べさせて頂きます。

「皇太子なのに帝位に就いていない」という時点で、何があったのかはある程度察されたかと思います。そうです、帝位に就く前、21歳という若さで薨御されました。

そして実際に帝位に就いたのは彼の弟である、ご存じアレクサンドル3世です。アレクサンドル3世は「平和構築者」、そしてその治世は「帝政ロシアの黄昏」と呼ばれ、後世から見ると、特に経済・外交的に比較的良い時代だったのは事実です。ですが、その時代に生まれた、主に政府内の確執が元となってロシア帝国が崩壊するのも事実です。よって、ここまで遡ることでどう歴史が変動していくのかを考察することは非常に有用であると考えます。

 それにこのニコライ皇太子様は、恐ろしいほど興味深い人物です。夭折されたので、とても資料が少なく調べるのは大変でしたが……。調べるうち、最早帝政ロシア救済はさておいて、彼の治世をどうしても見てみたかったと心底思いました。

彼の死に際し、当時の新聞はいずれもこう報じました―――「ロシアの希望の破滅」、と。

 

ニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子殿下

 そもそもこのお方はどんな人物なのでしょうか。

名はニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ様で、愛称として、ニクサ(Никса)と呼ばれることが多かったようです(ロマノフ家には「ニコライ」さんが沢山いるので、区別したい際には恐れながら愛称形で表記します)。由来は彼の祖父にあたる ”血の皇帝 ”ニコライ1世から。ちなみに、”最後の皇帝” ニコライ2世とは完全な同姓同名です。この所以については後ほど。

 生まれは1843年。お誕生日は当時帝政ロシアで使われていたユリウス暦では9月8日、現在のグレゴリオ暦で9月20日です。帝位継承者ですから当然長男で、弟アレクサンドル(後のアレクサンドル3世、愛称サーシャ)よリ1歳半年上です。

 父は皇帝アレクサンドル2世、母はその妻皇后マリア・アレクサンドロヴナです。彼らの第二子ですが、長女アレクサンドラは夭折しています。ロマノフ家では、「アレクサンドラ」という名を付けると夭折する、という伝説もこの辺りからです。

 ここまでは何の変哲もない、歴代の皇太子様、という様相。問題は、彼の能力にあります。

彼はウェーブの掛かった茶髪で、背が高く痩せていて、ハンサムで、魅力的で、且つ知的だった。絵画と乗馬が趣味で、誰とでも打ち解ける快活な性格だったが、大胆で不敵な一面もあった。 

恐ろしいほど頭がよく、礼儀正しく非常なジェントルマンで、彼に近づいた全ての人を魅了し、心を束縛した。

                      法律学者・政治思想家 チチェーリン

 ……なろう小説の主人公かな?? それでいて、当時世界一の富豪のロマノフ家・世界第二位の領土を持つロシア帝国の帝位継承者。申し分が無いどころではないですね。

これが世間の評価です。殿下について調べると、どの文献を見てもこのような記述に出くわすはずです。

詳しく見ていきましょうか。

 

 始めに容姿ですが、こんなかんじ。

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肖像画。10代の頃は、かなり中性的なお顔立ちだったとか。

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↑ 17歳くらいの頃のお写真。

 めちゃめちゃな美人!! 帝政後半期のロマノフ家の男性は多くが美形であるというのが当時の評価ですが、殿下は突出しています。

 

 次に頭脳ですが、これがこの歴史IFを考えるに至った理由です。

7歳頃から週45時間の座学と軍事演習からなる帝王教育がスタートし、ロシア語、フランス語、英語、ドイツ語、ラテン語を操ったのは勿論のこと、法学、宗教学、歴史学政治学軍事学、数学、経済学、文学、美術などを修め、その全てで非常に秀でた成績を残したそうな。日曜が社交や典礼に宛てられたことを考えると、実に一日7時間半の授業ですか。空き時間に仏字新聞を読んでいたそうです。

 次期専制君主であることもあってか、特に法学と人道に関心があったようで、18歳の頃、すべての州法を覚え、諸外国の憲法や行政についても造詣が深いことがわかっています。彼と議論を交わした政治家や家族によると、「間髪入れずに条文を引用して反論してくるため、非常に手強い論敵だった」とのこと。ううむ、恐ろしい。

また、当時としてはかなりのリベラル思想の持ち主で、「全階級への無償教育」であるとか、「農奴制の完璧な廃止」や「体罰の禁止」が主な信条です。

 そんな彼の教師たちが言うには、

彼はわたしたちの全てを超える。もし彼にわたしたちほどの経験があれば、彼はどの分野であれ、天才として世に名を残しただろう。 

                              法律教師 チチェーリン 

 もしわたしが10年に1度でも彼のような学生を輩出できたなら、わたしは教師として誇ることができるだろう。

                            歴史教師 ソロヴィヨフ

 と、全ての教師がベタ褒め。ちなみに彼の教師の中には、あの小説家ゴンチャロフも居て、ロシア語とロシア文学を教えていたそうです。

 

 しかし、「皇太子だからリップサービスしてるんでしょ?」と思われるかもしれません。

こんな事実は如何でしょう。例えば、同じ教師陣は皇太子の死後、慌てて帝位継承者となった弟アレクサンドル3世の教育に立ち向かうわけですが、彼を「愚鈍なブルドッグ」と呼んで憚らなかった事実は? 或いは、未来のニコライ2世に対し、「彼はいつも鼻くそをほじっていてまともに授業を聞いていない」と嘆いた記録はどうでしょう?

これらを見ると、わたしはリップサービスとは思うことができません。ほんとうに優秀な方だったのだと推測します。

 

 性格面を見てみましょう。

基本的には社交的で快活だったようですが、稀に大胆な国益重視が見え隠れすることがあります。こちらも皇太子に相応しい性格といってよいでしょう。

例えば、ポーランド蜂起の際、父皇帝や将軍である叔父に対し、

考えてみると、じっと座っていることなんかできません。わたしは心から戦争を忌避しますが、もし戦争になるならば、ただ我々に害を与え、我々の発展を阻害し、新しく平和な市民生活を継続、増大させることを拒む者を誅すべきです。

我々は敵の殲滅を強く願っています。

なんて書き送ったそうな。

 又、日常生活でも皇太子としての立場を理解していて、スキャンダルなども全く起こしませんでした。つまり、ロシア帝国で御法度となっていた貴賤結婚を避けたわけです。浮気しまくったり貴賤結婚禁止の原則を踏み倒したロマノフ家の皆さん、見習って下さい。

 

 そんな殿下についた呼称は「ロシアの希望」「輝かしい青年」「歴代欧州の君主で一番の頭脳」、さらには「完成の極致」。

「完成の極致」ということばをひとりの人間に使うだなんて、未だかつて聞いたことがありません。たしかに、この非の打ち所のなさは「完成」「完璧」のことばこそ相応しい。

 

皇太子に対する評価

 「完成の極致」と呼んで彼を溺愛したのは、叔父(父アレクサンドル2世の弟)のコンスタンティン・ニコラエヴィチ大公です。

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コンスタンティン・ニコラエヴィチ大公。

 大公は自らが帝位を望み、幼い頃兄アレクサンドル2世を退け己が皇帝に望むことを望んだ人です。兄よりも頭が切れ、狡猾だった彼は、かつては兄と仲違いをし、帝位を狙ったこともありました。

そんな彼が今では、皇太子を次期帝位継承者として「完成の極致」と呼んで溺愛したのですから、そこからも彼の人望の厚さというのが伝わるのではないでしょうか。

 殿下の方も、自由主義的な政治思想が似ていたこともあって、大公を慕っていたようで、海軍に勤めていた叔父に憧れてか、セーリングの趣味もあったようです。

 ちなみにコースチャ大公にも同じニコライという名の息子がいたのですが(由来も同じニコライ1世)(愛称はニコラ)、美貌を武器に放蕩に耽り、皇家の威信を限りなく傷つける、という未来が待っています。大公は色々思うところがあったに違いありません。

 

 更に、当然彼の両親も息子を溺愛しました。これは後の悲劇にも直結するのですが、この両親である皇帝夫妻は、アレクサンドル2世がたいへんな浮気性であったことから夫婦仲が冷め切っていたのですが、この愛息への愛でのみ団結していました。

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↑ 皇帝アレクサンドル2世。

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↑皇后マリア・アレクサンドロヴナの肖像。美女過ぎる。

 

 しかし、誰よりも彼を愛した人がいます。弟アレクサンドルです。後のアレクサンドル3世となる彼は、家臣に「頭脳レベルは平均よりも低い」と言われるほどで、取り柄は性格が非常に柔和であることと、力がつよいこと。

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↑ 20歳頃のサーシャ大公。人柄の良さが顔に出ているような気がしますね。 

 そんな彼はこの完成品である兄を狂信的なまでに熱愛したことがわかっています。誰にでも兄を自慢し、自分が何か成し遂げたときは彼に褒め言葉をねだり、いつも影のように付きまとっていたとか。

 殿下の没後生まれた息子にはニコライと名付けましたが(後のニコライ2世)、これは勿論このニコライ殿下を由来としているわけです。たまたま父称も被り、完全な同姓同名となりました。

 今伝わるあのがっしりとした巨人皇帝が、かつてはそんな性格だったなんて、ご存じの方は少ないのではないでしょうか。

 

 視点を拡げてみましょう。

ロシア帝国は反体制文学が花開いた、皇家に優しくない世界です。特に父アレクサンドル2世は何度も暗殺未遂に晒され、その最期もテロリストによる爆弾によるものです。そんな中で、殿下の支持率というのは如何ほどだったのでしょうか。見てみましょう。

 まず、皇家の支持基盤というのは軍隊です。皇太子自身、ロシア帝国陸軍の軍事演習に参加し、少将の位を持っています。軍事演習にも参加し、コネクションを持っていたことからも、軍は引き続きロマノフ家への忠誠を誓ったわけです。

 次に、常に敵対勢力となる左派を見てみましょう。ところが殿下は前述したように、自由主義的な思想を持っています。これがインテリ左派のサロンの間で評価されます。よって、常に皇帝政府にとって邪魔な存在だった左派も彼を支持したというわけです。

 特権階級、裕福層はどうでしょう。彼らへの対応も忘れてはなりません。皇太子は前述のように快活で社交的な性格だったので、社交界ですぐに多数のコネクションを持つことができたようです。「皇家なら当然なのでは?」とお思いかも知れませんが、実はそうでもありません。帝都ペテルブルク社交界は陰湿な場として有名で、ニコライ2世夫妻などは大変に疎まれたという記録があります。紳士達は彼の礼儀正しさに感服し、令嬢たちはこぞって彼に恋をしたという文献が残っています。

 最後に貧困層を見てみましょう。彼は19歳のとき、ロシア帝国内の査察の旅に出かけます。これは皇太子時代に、将来自分が治める国の実態を知るというプログラムで、19世紀後半のロマノフ朝の皇太子は皆行っています。

彼が田舎の村々を訪問すると、農民達は輝かしい皇帝の愛息に群がります。そこで満たされない己が状況を述べ、救いを乞います。前述のように、殿下はロシアの州法に精通していたので、自分の権限で出来る最大の施策を行い、地方行政に貢献したそうで、これにてガッッツリと貧困層のハートをゲットしたようです。

 このように、ほぼ100%と言ってもよいほど、国内からの支持が厚かったというのがおわかり頂けるでしょうか。こんなことがあり得てよいのでしょうか。

彼について調べていて、一ヶ月ほどずっといろいろな言語で資料に当たっていたのですが、彼についてマイナスに書かれた文献を未だに一つも見つけられておりません。一つでもマイナスなことを書いている文献が見つかったらやめようとおもっていたのですが、全く終わりません。これが「完成の極致」。

 

 では諸外国ではどうなのか。

 21歳で訪れたイタリアでは、直前にイタリア統一を果たしていたことから、我らが法と行政に明るい完成の極致様は、1歳年下のイタリア王子ウンベルトに、サルデーニャ憲章についてかなり細かく尋ね、閉口させたとか。

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↑ ウンベルト王太子

驚いたイタリア王子は「あなたの国では皇太子が法や政治を熟知していなければならないのかもしれませんが、わたしたちはそうではないのです」と答えたそうで、その時我らが皇太子様がどのような反応をしたのかは記録に残っておりませんが、呆れたのか、優しく取り繕ったのか、果たして……。

 その後、王子との会談に満足しなかったロシアの希望はイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世とイタリア諸大臣に面会を願い出て、完璧な演説を行い、王を感嘆させたばかりか、イタリア官僚は「彼はなんと完璧なのだろう!もし彼のような人に仕えることが出来るのならなんと幸せなことか!ああ、あなた方はどれほど彼を名誉に思っているのだろう!」と伝えたという記録が残っています。

イタリアの官僚まで虜にするのが我らが皇太子様というわけです。

 

 最後に、婚約者であるデンマークのダグマール姫。これは主に、ロシアから見るとプロイセンを中心とした情勢の変化からくる、そしてデンマークから見ると金銭的な理由からくる政略結婚なのですが、すぐに相思相愛になり、双方の熱烈な恋文が残っています。

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肖像画。こちらも美しすぎる。

ダグマール姫(愛称ミニー)は、当時貧しかったデンマークの姫ですが、姉のアレクサンドラと共に大変な美女として有名で、国王夫妻はこの二人の娘を使って国を建て直そうと考えます。そして長女アレクサンドラは当時の海を支配した大英帝国へ。そして次女ダグマールは当時最も資金力のあったロシア帝国へ、というわけです。

 そういう成り行きで、絶世の美女姫と完成の極致様の縁談が成立するわけです。とんでもないロイヤルカップルだ……。

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↑ ニコライ殿下とダグマール姫。

そんな二人ですからお互いに恋に落ちるのも簡単で、ダグマール姫は殿下をプリンス・チャーミングと呼ぶほど。とうとう童話の王子様になってしまわれたか……。

 

 如何に殿下が非凡な人物か、というのはご理解頂けたでしょうか。

 

ロシアの希望の破滅

 そんな完成品たる彼が、何故その才能を世に役立てることができなかったかを見てみましょう。

実は、ここに関しては資料によって記述が異なり真実は判然としないのですが、少なくとも17歳のときに事故が起き、背骨を強打したことがわかっています。怪我は深刻なものだったにも関わらず、皇太子自身が無理をしたこともあって適切な処置は取られませんでした。

 その後暫くは回復したかのようでしたが、後に背筋を伸ばして歩けないほど悪化。それに対し、何も知らない父帝は皇太子を叱責したのですが、それもあって更に痛みを堪え無理をするようになります。実はそのとき怪我が元で脊椎結核に罹患していたのですが、当時の医療ではその判断すら困難だったようです。

 前述したイタリア(フィレンツェ)滞在中にとうとう卒倒し、もうその後は病床を長く離れることは難しかったようです。しかし、日中は誰にも悟られぬよう快活そうに振るまいながら、無理を押して外交などの政務をこなしており、同時代人の意見では、明らかに過労だったと言います。療養地として高名だったフランスのニースに運び込まれましたが、結核菌は脳に転移し、結核髄膜炎を併発。この病は今でも予後不良の病ですが、当時では全く治療法がなく、救う手立てがありませんでした。

 激しい頭痛と、意識障害・記憶障害が続き、かなり苦しんだようです。この時、譫妄状態に陥ることもしばしばだったようですが、そこで口にしたうわ言がラテン語の章句だったり、オスマン帝国に虐げられる同胞スラヴ民族の苦境だったりと、非常に知的なものばかりだったそうで、その痛む頭脳にどのような知と思考が詰め込まれていたのかが垣間見えるようです。

 1865年4月、ニースに父皇帝、母皇后、弟アレクサンドル、更にその下の弟ヴラジーミル、婚約者ダグマール、そしてその母デンマーク王妃が訪れ、最期の挨拶を交わしました。このときの告解で、自分の主要な罪として、「忍耐力の欠如、つまり出来るだけ早く死ねるように願ったこと」を挙げ、祖国への謝罪の意を表明したそうですから、もう皇太子の鑑と言わざるを得ません。最後まで精神的に落ち着いていて、多くの人を看取った神父さえも感嘆して涙を流したといいます。

 ユリウス暦4月12日、グレゴリオ暦4月24日が最期の日になります。臨終に立ち会ったリトヴィーノフ中尉は日記に「これ以上ないくらい美しく穏やかな顔である」と綴っています。一方、死後解剖と防腐処理を行ったズデカウエルによれば、「どれほどの苦痛だったか考えたくもない。髄膜炎のみならず、脊椎が壊死していた」と書いています。たった21歳でした。

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 彼を狂信的に慕っていた弟アレクサンドルは当然心に穴が開いたかのように嘆いたそうで、父帝アレクサンドル2世は暫く重度鬱状態になり仕事を放棄し誰彼構わず怒鳴り散らすようになってしまったとのこと。破局寸前の所を皇太子への愛で繋ぎ止められていた夫婦関係は壊れ、有名なエカテリーナ・ドルゴルーカヤ(ユリエフスカヤ)との愛人関係が始まってしまいます。

冒頭でも述べたように、ロシア国内紙は「ロシアの希望の破滅」と書き綴り、その死が帝国へ与えた影響は絶大でした。

 

アレクサンドル3世の治世と比較して

 さて、ここまでかなり細かくニコライ皇太子殿下のプロフィールと史実での死を見て参りましたが、彼が生きていたらどのようになっていたでしょう。

史実でのアレクサンドル3世の治世は、冒頭でも述べました通り、必ずしも悪いものではありませんでした。確かにアレクサンドル3世の頭脳は平均以下と言われ、皇家誰もが殿下の死によってもたらされる影響に恐れおののきました。しかし、アレクサンドル3世の時代に活躍した天才政治家セルゲイ・ウィッテが言うには、

彼は確かに頭はよくなかったかもしれない。しかし、長に必要なのは決断力と誠実さだ。彼はそれを持ち合わせていた。

とのことです。あのジョン・F・ケネディも、「我々(行政府)には優柔不断のぜいたくは許されない。我々の責任は決定を下すことである。政治とは選択することだからである。」と述べています。

よって、結果的にアレクサンドル3世は皇帝に向いている人物だった、ということが可能なのです。セルゲイ・ウィッテが天才でしたから、それこそ「神輿は軽い方が良い」ということなのかもしれません。

 

 しかし、ご覧頂いたように、ニコライ殿下というのは非凡な人物です。どうでしょう、彼の治世が見たくありませんか。わたしはとっても見たいです。

というわけで、ここからは想像してみましょう。一体ロシア帝国はどうなるのか?

 まず、無事に旅行から帰ってくることができたなら、その後は皇太子として皇帝政府の重要なポストに就き、父皇帝を支えるはずです。

その頃アレクサンドル2世の支持率はどん底。きっとその優秀な頭脳で助け船を出せたはずだとわたしは信じます。

又、彼が死ぬことさえなければ、父皇帝が重度鬱病になって政治を投げ出したり、愛人を作って後継者争いや派閥争いなどの観点からロマノフ家が分裂することもなかったはずです。そうなれば、暗殺されることもなかったやもしれません。

 

 また、帝位に就いた後も、アレクサンドル3世のように人種差別政策、つまりユダヤ人迫害を敢行することはなかったのではないかとおもいます。

アレクサンドル3世は保守的な施策を行いましたが、ニコライ殿下の方は自由主義的な施策を行う可能性が非常に高いです。元の思想がそちらに寄っているからです。アレクサンドル2世は、農奴解放令にサインしたガチョウの羽根ペンをニコライ殿下に託しました。「続きはおまえが引き継げ」という象徴です。それが、結局はペンを譲り受けなかったアレクサンドル3世の治世になり、改革も途絶えると。そうなると、ナロードニキの運命や革命家たちの動きも大分変わることでしょう。

 

 又、前述のようにスラヴ民族主義的な側面もありますから、アレクサンドル3世のような平和構築の時代ではなく、もしかしたらもっと徹底的なポーランド弾圧や、また露土戦争を開戦しているやもしれません。それはわかりません。

 

 尤も、これらはすべて夢物語なのですが、如何でしょうか。

とても夢のある歴史IFだとはおもいませんか。皆様は彼の治世にどのような未来を思い描くでしょう。是非教えて頂けると幸いです。

 

終わりに

 お付き合いありがとうございました。9000字です。

歴史IFの妄想って楽しいですね。ハマってしまったやもしれません。危険な沼であることを知りながら……。

 それにしてもこのニコライ殿下、ほんとうに実在したんだろうか、というファンタジーっぷりですよね。これが事実は小説よりも奇なりというやつなんでしょうか。現実世界、すごい。

それでは、お開きとします。神よロシア帝国を護りたまえ!

↓ 殿下研究にハマってしまい、色々記事書いてます。もし宜しければどうぞ。

 

参考文献

 かなり色々なところから引っ張ってきたので、主要なものを挙げます。

Государь-наследник Николай Романов, так и не ставший императором

Гончаров как преподаватель у цесаревича Николая Александровича Романова / Православие.Ru