こんにちは、茅野です。
ずっと机に向かっていると腰が固まってくる年頃になってきました。オススメの腰痛改善グッズなどご存じでしたら教えて下さい。
さて、今回は先日より連載を開始したメシチェルスキー公爵の『回想録』を読むシリーズ、第二弾です。
↑ 第一回はこちらから。
第二弾となる今回は、 1862年の22節、1863年の24節の一部を見てゆきます。本人も書いていますが、1862年、1863年前半は、公爵は殿下に会う機会になかなか恵まれなかったようで、記述も少ないです。その代わり、1863年中盤以降は反動とも言わんばかりの文量になってくるので、こちらは「嵐の前の静けさ」。次回以降の執筆にわたくしも震えております。
それでは、早速ですが始めて参ります。お楽しみ頂ければ幸いです。
1862年 22節
(前略)
私は帝位継承者と話す機会に恵まれず、話せたとしても暇を盗んでのたった数分しかなかった。というのも、中国の間やパヴロフスク駅では、真面目な議論などできそうもなかったからだった。しかし、私は一度だけ、パヴロフスク駅で彼に会った。そして、当時の『日記』に彼の意見を書いている。
『「私どもの者は人気取りが大好きですからね」。大公は、放火犯が全く特定されない原因について見解を述べた。「一方で、そのような仕事はやりたくない、というわけです」。』
それが帝位継承者のスヴォーロフ公爵への評価だった。公爵の、滑稽なまでのポピュリストぶりが、その言葉の中には現れていた。
(後略)
解説
初回でも見たように、意外なことに初期は殿下を避けていた公爵。しかし、62年は、互いに多忙で、会いたくとも会えなかったことがわかります。
さて、簡単に解説を入れてゆきます。
中国の間
まずは場所について。「中国の間」という変わった名前のお部屋は、ツァールスコエ・セローの宮殿の一室で、中国風の調度品の置かれた客間を指しています。
↑ ロマノフ家の宮殿は悪趣味なくらいキンキラキンです。わたくしも幾つか実際に足を運びましたが、眩しすぎて目が悪くなるのではないかと思われたほど。
殿下は、普通に「家」と呼んでいますが、それが大宮殿を指すという事実はいつ見ても恐ろしいですね。
パヴロフスク駅
次にパヴロフスク駅について。ロシア帝国初の鉄道、ツァールスコエ・セロー鉄道の駅です。
↑ 綺麗な駅舎。
ツァールスコエ・セロー鉄道は、1837年に開通した鉄道で、ペテルブルク中心街からツァールスコエ・セロー、パヴロフスクまでを結びます。現在は使用されていません。公爵はパヴロフスクが最寄り駅だったようです。
↑ 路線図。上の方がペテルブルク、一番下がパブロフスク。
パヴロフスク駅には、コンサートホールや公園もあり、文化的空間として発展していたようです。
同駅については、我らが Arzamas Academy が相変わらず非常に詳しい記事を掲載しているので、是非どうぞ。
放火事件とスヴォーロフ公爵
放火事件についてです。
19世紀のペテルブルクの建物の枠組みは木造であり、火事が頻発しました。19世紀のペテルブルクは、洪水と火事ばかりの、災害の多い街だったのです。なんだか親近感が湧きますね。
しかし、1862年に関しては事情が異なります。それは人為的な放火事件でした。市民への被害も少なくなかったことから、皇帝政府による捜査が開始されましたが、それは余りにも杜撰であり、放火犯は全く捕まりません。そのことについての対話です。
捜査委員会の中心人物が、アレクサンドル・アルカージエヴィチ・スヴォーロフ公爵(※日本語には対応する語がありませんが、公爵の中でも最高位で、皇族に次ぐ地位)でした。
↑ ロシア帝国陸軍服の色がメチャクチャ好きという話を何度でもしたい。
彼は、あの「奇行の常勝将軍」でお馴染み、アレクサンドル・ワシリエヴィチ・スヴォーロフ大元帥のお孫さん。ちなみに、父アルカージーは26歳の若さで従者を助けようとして溺死したと言われています。
さて、このスヴォーロフ公爵は、1861年よりペテルブルク総督の任に就いていました。それもあって、今回の捜査を担当することになったのですが、総督はこの事件の犯人捜しに関心が無く、捜査は遅々として進まず、結局犯人逮捕には至りませんでした。
確かに政治家は人気商売ではありますが、殿下の仰るように、スヴォーロフ公のそれは群を抜いていたようで、メシチェルスキー公も「確かに彼はペテルブルクで最も人気がある一人だったが、その実、『愛しい我が友よ!』以外の語彙を持っていないのだ……」と痛烈に批判しています。公爵、殿下には甘いですが、批判の言葉がかなり鋭いですよね……。差が酷い。
さて、次に、同1863年編の、24節の最後を見てゆきます。
1863年 24節
(前略)
同じ頃、ペテルブルクでコンスタンティン・ペトローヴィチ・ポベドノスツェフと知り合った。本来の気骨ある知性と、絶えず溢れ出す善良さと快活さが結びつき、素朴ながらに心を惹き付ける話しぶりと博識さに、大いに好ましい印象を受けた。
それは彼の政治人生に於ける、美しい春の日々をもたらした。皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチに教授するという使命に、彼は全身全霊を捧げた。何故なら、彼は己の生徒の若い魂に、思想と知識を植える、豊かな土壌を見出したからである。皇太子の能力と才能は、当時のポベドノスツェフの人生を喜びで満たした。そしてそれは、幾らかの快活さ、好ましさ、若々しさと明るさを彼の思想と感性に与えていたのである。
当時、彼はストロガノフ伯爵の計画に沿って、皇太子のロシア国内大旅行の準備をしなければならなかった。
仕事を終え、ペテルブルクに帰る際、ヴァルーエフのポーランドについての問いが殊更珍妙であったことに気が付いた。何故なら、彼は内務大臣として、この問題に於いてポーランド人よりも、ロシア党のムラヴィヨフやカトコフに怒りの矛先を向けていたからである。
解説
春の庭に喩える公爵の文才が炸裂している一節です。大変素敵。
ポベドノスツェフ
ここでは、殿下の教師であったポベドノスツェフとの出逢いについて触れられています。
「列伝」シリーズでも少し登場していますが、最終的に宗務院の総裁、枢機卿になる人物で、アレクサンドル3世、ニコライ2世と、若い皇帝に絶大な影響力を及ぼしました。
彼のことを簡単に調べると、「超保守派の陰気で頑固な爺さん」というようなイメージが付くのではないかと思います。晩年に関しては、その理解でも差し支えないと思います。
しかし、公爵の言うように、1863年当時(36歳)は、善良で快活な人物であったと言います。そんなにも性格が変わることなどあるのでしょうか。謂わば、「闇堕ち」が発生しているのは何故でしょうか。
わたくしは、その激変の大きな要因を占めるのは殿下の死なのではないかと推測していましたが、公爵の書きぶりでは、彼も同意見のようです。彼は、殿下が亡くなった際、日記に以下のように書いています。
「私達は彼のことをよく知っているので、この喪失がどのような意味を持つのかもよくわかります……。彼の中には希望がありました―――しかし神は私達からその希望を奪ってしまいました。私達はこれからどうなってしまうのでしょう?(« Но мы, знавшие его, всего сильнее чувствуем, что значит для всех потеря нашего царевича… На него была надежда — И эту надежду Бог взял у нас. Что с нами будет? » )」。
殿下の喪失によって、弟アレクサンドル大公に帝位継承権が移り、彼の治世では、保守の時代に戻ります。開明派だったポベドノスツェフは、殿下の死を境に思想を反転、性悪説を盲信し、全ての改革に反対し、テコでも動かない頑固な老人になってゆきます。
ポベドノスツェフは、ロシア史に於いて重要な人物で、日本の教科書にも名前が登場するクラスの政治家ですが、彼の思想に一番影響を与えたのは、彼の生徒、殿下だったのかもしれません。
ポーランド蜂起
最後はポーランド問題に関してです。当時ロシア帝国領内であったポーランドは、独立自治を求めていました。特に、この1863年には大規模な蜂起があり、情勢は極めて不安定でした。
殿下は交渉努力による解決を重要視していましたが、敬愛していた叔父コンスタンティン・ニコラエヴィチ大公がポーランド総督であり危険に晒されたことや、蜂起がもたらす被害から、ポーランドに関しては武力行使もやむを得ないと考えていたようです。
登場する人名を見てゆきます。
ミハイル・ニコラエヴィチ・ムラヴィヨフは、ポーランド蜂起弾圧を決定的にした(ロシア側から見れば)「立役者」です。
膨大な人数を絞首台送りにしたことから、「絞首刑執行人ムラヴィヨフ」と大変恐れられていました。
ちなみに、デカブリストの乱の首謀者の一人の名もムラヴィヨフ=アポストルですが、彼は逆に絞首台の露と消えました。
もう一人はミハイル・ニキフォロヴィチ・カトコフです。有力な政治家の一人で、有名なポーランドに関するパンフレットを書きました。
彼は開明派であり、ヴァルーエフとは意見が合わなかったようです。パンフレットでは、主にロシア側の努力を説いています。
ちなみに、自身が創設した学校に殿下の名を付けてしまうくらいの同担でもあります。
最後に
通読ありがとうございました! 今回は短めに4000字です。
殿下の文献は、政治などの硬派なものから、殿下個人に纏わるエピソードまで、全部興味深く、面白いので、一生辞められませんね。
しかし、問題は次です。次回は、続く1863年25節をお届けしますが、こちら、一節全てが殿下の話で(!)、非常に長いです。宜しくお願い致します。
それでは、今回はここでお開きとします。また次の記事でお会いしましょう!
↑ 続きです! こちらからどうぞ。