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架空の世界を護るために

映画版『かもめ』(2018) - レビュー

 こんばんは、茅野です。

東京は数日間雨の予報。春が近付いてきている証拠でしょうか。花が落ちないとよいのですが。

 

 お天気もご機嫌斜めということで、週末は引きこもることに。というわけで、自宅で映画版『かもめ』を観ました。

↑ フォントもうちょっとどうにかならなかったん?

 近代文学の映像化はもうそれだけで観る価値があるというもの。片っ端から撮れば宜しい。片っ端から拝見します。

 

 今回はこちらの映画のごく簡単な雑感を書きます。それでは、お付き合いの程宜しくお願い致します。

↑ 美しすぎる。

 

 

キャスト

コンスタンティン・トレープレフ:ビリー・ハウル
ニーナ・ザレーチナヤ:シアーシャ・ローナン
イリーナ・アルカージナ:アネット・ベニング 
ボリス・トリゴーリン:コリー・ストール 
ピョートル・ソーリン:ブライアン・デネヒー
マーシャ・シャムラーエワ:エリザベス・モス
エヴゲーニー・ドールン:ジョン・テニー
イリヤ・シャムラーエフ:グレン・フレシュラー
ポリーナ・シャムラーエワ:メア・ウィニンガム 
セミョーン・メドヴェジェンコ:マイケル・ゼゲン
監督:マイケル・メイヤー

 

雑感

 原作はご承知の通り、アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフによる傑作ロシア文学(戯曲)。一方こちらはアメリカ映画です。従って、英語音声になっています。

 何故今『かもめ』を観ようと思ったのかと言えば、この間 National Theatre Live でこちらの作品を観たからに他なりません。イギリスでの公演でしたから、こちらも英語上演。従って、違和感はもう感じませんでした。

↑ NTL 版のレビュー記事。

 最早英語圏の作品と勘違いしそうまであるので、ロシア語での上演が観たくなってきました。図らずも、マラソンを続行することになりそうです。

 

 ストーリーは原作戯曲に忠実で、「有名な作品だし、ストーリーを知りたいけど、読書はきらいで、原作を読むのはかったるい」という人に丁度よさそう、という印象を受けました。個人的には、戯曲を読んで欲しいですが……(※実は戯曲専攻)

↑ 薄いので、恐らく映画を観るより速く読み終わります。

 従って、新規性は全くありません。個人的には、近代文学の映像化作品は幾らあってもよいと思っているので全く構いませんが、「何故この作品を今撮ろうと思ったのだろう?」という疑問は拭えませんでした。

 

 俳優さんに関して言えば、男性陣はこちらの方が、女性陣は NTL 版の方がイメージに近いと感じました。

やっぱりトリゴーリンはおじさんじゃないとダメですよ、中年男性でないと。

↑ トリゴーリンおじさん。ところで、ニーナの後ろ姿が美しすぎる。これは惚れる。

NTL 版の方は、金髪のうら若き美青年であらせられて、それはそれで新たなる解釈の風を感じたのですが、それというのはつまり、従来のトリゴーリン像からは大きく外れましたので……。

 

 NTL 版は、イリーナ役のインディラ・ヴァルマ氏があまりにも嵌まり役すぎて(※褒めています)、映画版は少し見劣りする印象を受けました。これは比較の問題で、映画版が悪いということは全く無く、NTL 版が素晴らしすぎただけなのですが……。

↑ 映画版イリーナ。イギリスの貴婦人感はめちゃくちゃある(注: ロシアではない)

 映画版では、「空気の読めないおばさん」感が全面に押し出されすぎていて、「自分を悲劇のヒロインに仕立て上げてしまう被害妄想の強いママ」感は軽減されています。

一方、NTL 版ではこの塩梅が見事で、中年ながらもまだまだ若々しく、気の強い美人な容姿もイメージにピッタリでした。

 

 ニーナも、NTL 版の方に軍配を挙げたいと思います。

NTL 版のニーナが、世間知らずで純粋で恥ずかしがり屋ではにかみ屋の田舎娘感満載だったのに対し、映画版のニーナはあまり物怖じせず、自分が美女であることをよく知っているな、という印象を受けました。

↑ いや実際えげつない美女なんですけどね、役柄の話です。

「この私なら都会でもやっていける。」という自信を感じさせました。間違いなくやっていけそう(物語上ではいけないのですが)。

 演技だけではなく、それを助長させているのが英語という言語、並びに字幕の翻訳であったと思います。

英語には厳格な敬語の概念がないですし、字幕では年上の有名作家であるトリゴーリンに対してもタメ口になっています。

ロシア語には「敬称」という概念があり、日本語の敬語に相当します。ニーナの台詞の大半は敬称なのに、敬称の存在しない英語という言語、並びにそれに揃えてタメ口で翻訳された字幕があるために、気が強そうな印象を殊更強く受けたのだと思います。

言語って面白いですね。

 

 作中では、何度か「湖が魔法を掛ける」というような表現がされていました。

『魔法にかけられた湖』といえば、アナトーリー・リャードフの管弦楽曲

そこまで演奏機会がある楽曲ではありませんが、隠れた名曲で、実はお好きという方も多いのでは?

 また、もっと有名なものに、『白鳥の湖』があります。こちらの名曲も、『魔法に掛けられた湖』と訳されることがありますね。

↑ 『白鳥の湖』といえばこれですよね。

 

 映画版の湖は、本当に美しいです。これは観光名所になる、間違いありません。観光業に投資しよう。

↑ 実際行きたいもの。

 映画の中の美しい風景は、それだけで癒やされるものですが、『かもめ』の印象からは少し外れるように思います。

 個人的には、『かもめ』という作品で重要なのは「閉塞感」という概念であると考えています。

都会から離れた片田舎で、財産も才能もなく、食べていくことだけならばできるけど、生きる意義は全く感じられない。そんな状況を打開しようと、何かしようにも、いつも何かが足りない。藻掻けば藻掻くほど、精神を病むばかり……。

 映画版のセッティングは非常に麗しいのですが、それがゆえに、このどうしようもない閉塞感を表現できていないように感じられるのです。

広大な湖に広大なお屋敷は、寧ろ「開放感」がある、とすら言えます。

こんなに美しい自然があるのならば、レジャーだってし放題だし、観光業も上手くいきそうだし、何かと明るい希望を感じさせるのです。

観客に「次の休暇はこんなところに滞在したいなー」と思わせるようでは、苦悩し精神を病み出すコースチャに感情移入ができないのも致し方がないことなのではないでしょうか。

 

 先日、特別お題に乗じて、エッセイを一本書いたのですが、その中でトリゴーリンの長台詞の一部を翻訳して遊びました。

 意外と岩波の訳では意訳されているのだなあ、などと発見があって楽しかったです。

その中に、「グランドピアノに似ている雲」が登場するのですが、初読時から、「グランドピアノに似た雲ってどんなんよ?」と、結構疑問でした。

演劇では幾らでも誤魔化しが利きますが、映画版ではそうは参りません。映し出された雲がちゃんとグランドピアノの形に見えて、変に感動してしまいました。グランドピアノだ……!

撮影大変そうですね。グランドピアノっぽい形の雲が現れるまで、待っていたのでしょうか。

 

 また、このシーンの台詞の続きの、「ヘリオトロープ」の字幕が「ハーブ」に。

まあ、ヘリオトロープって、日本だとそこまで馴染みがないお花ですよね。

薄紫色で、濃い甘い匂いを発する、愛らしいお花です。

軽く調べた限りだと、原産はペルーで耐寒性も低いそうですが、ロシアでも育つのですね。品種改良とかされているのかな。

 

 また一部では、対比がはっきりと描かれていたのも特徴的だな、と感じました。

コースチャが中盤で自殺未遂をするシーンは、湖が見える窓の内側に血痕が付着することによって描写されます。

その窓の外の美しい湖と、窓の内の血塗れの惨状のコントラストは壮絶です。

↑ コースチャ。こんなに美男子で何を自分に銃を向けることがあるのさ、とか思ってしまいますけども(※美人だって精神を病むときは病みます)。

全般が美しい為に、コースチャの苦悩にあまり共感できないのも、少々勿体ないポイントかもしれません。

 また、『かもめ』の主役はコースチャであると言っても全く過言ではないのですが、ポスターなどでは陰も形もなくて可哀想。映画版でも主役級であることに変わりは無いのですが、何故。

 

 もう一つは、マーシャとニーナの服の色のコントラストです。

ニーナがいつも白を基調とした服を着ているのに対し、マーシャは喪服のような黒を着用しています。

↑ マーシャ。酒を飲み煙草を吸う現代的な女性です。
尤も、ニーナにもマーシャにも、ハッピーエンドが待っているわけではないのですが……。

 

 

 総評としては、映画版『かもめ』は非常に美しい作品です。

休暇には是非とも出掛けたい、自然豊かで広大な湖と、快適なお屋敷を背景に、美しい俳優陣と、ピクチャレスクな画が続き、眼福な一作に仕上がっていると思います。

 一方で、メッセージ性は弱い、或いは存在せず、何故現代にこの古典的名作を撮ろうとしたのか、ということは全く見えてきません。

 『かもめ』は戯曲であって、メタな構造に溢れていますから、演劇では面白い部分も、演劇以外で表現しようとすると面白くならない、という事態も多いです。その辺りのメタ的な台詞がバッサリとカットされているのも、面白みを半減させている理由の一つでしょう。

 とはいえ、ストーリーには忠実ですから、さらっと物語を追うには最適な作品でしょう。

 

 最後に少し余談を。

戯曲『かもめ』では、かもめは無惨にも破滅させられる哀れな生き物の象徴として登場します。

しかし意外にも、現実のかもめは、結構凶暴です。

↑ あ、アグレッシブ。「生きるためには仕方が無い」という自然界の掟を感じる。

かもめが鯨を殺すようになるとは、モビー・ディックもびっくりである。

時代や地域で変化する生き物の受容と、文学によるイメージの固定なども、面白い研究材料となりそうです。

 

最後に

 通読ありがとうございました。4000字強。

 

 雨の日に自宅で時間が空いたので、ふと思い立って映画を観るなどしました(勉強しろという話)

『かもめ』はロシアの作品ですが、2連続で英語に訳されたものを観たために、もう英語作品のイメージが強くなってきてしまいました。

 全くそういう予定はなかったのですが、このイメージを抱き続けるのもなんですし、ロシア語圏で撮られた『かもめ』も観てみたいな、と思うように。

思いがけず『かもめ』マラソンを走ることになりそうです。

 

 それでは、お開きと致します。マラソンの際には、最後までお付き合い頂けたら嬉しく思います。