世界観警察

架空の世界を護るために

辻村七子『僕たちの幕が上がる 決戦のオネーギン』 - レビュー

 こんばんは、茅野です。

不思議なもので、春は供給が集中します。冬眠していたのでしょうか。三件くらい一気に来たので、順番に書き起こします。

しかし、マイナー沼の住民が、こんなに供給に恵まれていてよいものか?

 

 さて、第一弾は、我らが最愛の『エヴゲーニー・オネーギン』で御座いますよ。弊ブログの読者様はご承知のように、実は殆どの記事に一回は名前が出て来る例のアレで御座います。

 なんとですね、この『オネーギン』を題材としたライトノベルが発売されまして……。そんなことある?

↑ もうド直球にタイトルに名前入ってるもんな……。

 

 完全に想定外であったので、ちょっと困惑しましたが、SNS などを見る限りでは、一緒に原作を購入される方が多そうなので、喜ばしく思っています(※限界オタクなので毎日複数の言語でサーチして監視してます。宜しくお願いします)

見た限り、基本的には池田訳みたいですね。参考文献もこちらですし、最も入手し易いですからね。

↑ ちなみに邦訳『オネーギン』は全八種。共にコンプリートしよう。

 

 個人的には、ライトノベルを読むのは完全に中学生ぶりで、その文化体系やお作法が全然わかっていないので、差し出がましいかとは思いますが、1『オネーギン』オタクとしましては一筆認めておこうかと思いまして。

 

 というわけで今回は、原作『オネーギン』ファンの視点から辻村七子先生の『僕たちの幕が上がる 決戦のオネーギン』について、感想、ファクトチェックなどを書きます。

 それでは、お付き合いの程宜しくお願い致します!

 

 

『オネーギン』以外の部分について

 『オネーギン』の話を始めると長くなるので、先に無関係な点から(※弊ブログの『オネーギン』レビュー記事は1万字を越えることで悪名高い)

 

 『僕たちの幕が上がる』は続き物で、『決戦のオネーギン』は2巻目にあたります。わたくしはこちらから入っているので、前作の内容は把握していません。

そのことによって情報が欠如している側面は大いにあるのだろうな、と思いつつ、こちらから読んでも、「お話が全くわからない」というような不都合はありません。助かる。気になる方はいきなりこちらから入っても問題ないかと思います。

 

 わたくしは現在はオペラ・バレエ鑑賞を愛好していますし、中・高校生時代は演劇部だった上、大学でもフランス戯曲を専攻していたので、舞台とはそこそこご縁があるのですが、どちらかというと旧態依然な体制や、闇深い案件に遭遇して寧ろ嫌気が差すことも多かったので、一部では黒歴史スレスレを突かれるような思いであったことは告白します。

しかし、基本的には若者の友情と成長物語で、なるほど、手軽に「青春」を摂取できます。

 

 不愉快に感じられる場面は殆ど無いと思われます。現代の作品の特徴の一つですが、キャラクターのヘイトコントロールが上手いです。

中盤まではヘイトを溜めまくる未来哉君ですが、後半からは視点を反転させて彼の目線に立ち、生い立ちを開示することでそれを和らげています。ハラスメント行為にも懲罰が下り、円満な結末に。

 地の文は所謂「神の視点」ですが、第一幕は勝君の心理描写、第二幕は未来哉君の心理描写が為されます。第三幕は入れ替わり。

特徴的に感じたのは、「~と、(人名)は~」のように、主語が文中に来るものが多いことで、作者さんの手癖なのかな、などと推測します。普段翻訳文学を読む機会が多いので、なんとなく新鮮に感じました。

 

 容姿の話がかなり主軸に置かれていますが、この間自分でも以下のようなことを書いたばかりなので、思うところがあったりなかったり。

 わたくしは、容姿が優れて美しい方はある意味で損をしている側面があると感じ、時折同情することがあります。

容姿は、その人固有のものですし、最もわかりやすいアイコンですから、やはり印象が残りやすいと思うのです。

その人に、他にどんなに優れた才能があったとしても、「凄い美女、しかも絵が上手い」とか、「凄い美男子、その上頭が良い」といったように、他のことが全て「容姿が美しいことの付属品」として受け止められるようなことが多いように感じるのです。

或いは、例えば、「彼はハンサムだから人気があるのであって、決して才能があるからではない」という逆張り的な評価をされたりだとか(最近は減ってきたと思いますが、オペラ界だと結構そういうの見ます)、それが好意的に評価されるであっても、否定的な評価をされるであっても、いずれにせよ容姿以外での真剣勝負が難しくなる場合が度々あるのではないかと。

その人が別の面を見て欲しくても、容姿しか見て貰えない、人間性に深入りして貰えない、という悩みを抱える機会が多いのではないかな、と思うのです。

ラディゲの原作でも、「金髪の女ばかりを追いかける男というのは、~」という一節があり、わたくしの主張に合致するものであると思います。

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 「決戦」とあるように、一種勝負事の話ではありますが、着地も伏線の張り方も見事です。

簡潔に一本のエンターテインメントとして纏まっていると感じました。

 

 どうでもよいのですが、未来哉君がファンから「殿下」と呼称されていて思わず笑みが。

弊ブログで「殿下」と言えば主にこの方を指すのですが、彼は同ロシア帝国のリアル王子様なので(いつも「帝位継承者」と政治っぽく呼称しているので、「王子様」という表記に驚いたりしますが)知名度が上がるとよいな、と思いつつ。

……いやしかし、それこそ殿下とライトノベルって相性がよいような気も。存在自体も、エピソードも、フィクションの斜め上を行っているので……、史実なんですが。

 

 ところで、ライトノベルの登場人物の名前は難しくなくてはならない、というような規則があるんでしょうか。わたくしは普段「同姓同名パレード」ことロシア語圏を追いかけていることもあって、所謂「キラキラネーム」の文化圏とは大分離れているので、新鮮に思いました。とはいえ、こちらの作品はまだ読みやすい部類かと思いますが……。

 また、容姿端麗な人物しか出て来ない……ということも一点。まあ尤も、原作の『オネーギン』の時点で、主要人物の大半が美形設定なんですけども。その唯一の例外とは―――そう、ヒロインのターニャである。

 

『オネーギン』ファクトチェック

 さて、それではいよいよ、踏み込んで参りますか。

先日、某歴史書を盲信している人を偶然見かけたことに危機感を抱き、同書の一部についてファクトチェックを行いました。弊ブログでは初めての試みです。

↑ 一語ずつ抜き出して、56箇所をチェック! 果たして結果の程は……。

 結構骨折りだったので、「もうこんなことやらんぞ」と思っていたのですが、一ヶ月も経たぬうちにアクロバティック禁反言を行うことになるとは。寧ろフラグを立てていたというのか。

 

 というわけで、当節では二回目のファクトチェックを行います。宜しくお願いします。

 

年齢論争

 まずは「例のアレ」から。

 出会った時、オネーギンは二十五歳、タチヤーナは十七歳。八つも離れているが、当時の価値観からするとどちらも『独身の若者』で、恋愛可能な年齢差だった。

                     p. 32

場面は件の決闘事件から十年近く―――この時系列には矛盾が多く、プーシキンの描写だけを拾ってゆくと大変なことになってしまうため、ヒューバート・ローリンソンは『十年近く』という幅を持たせた表現にしたそうだった―――が経過した、帝政ロシアの首都、サンクトペテルブルクである。

                     p. 184

出た!!!! 年齢論争!!!!!

 ……いや~、ほんとにですね、オネーギンの年齢については書くなと、濁しておけと、わたくしは……あれほど…………。

↑ まだロシア語に入門していない時代に書いた物ですってよ。怖。加筆した方がよいのかしら。

 オネーギンが25、タチヤーナが17と書いているということは、法橋和彦先生説を採っているわけですね。参考にされたのかな。

 

 「オネーギン年齢論争」に関しては前述の記事に纏めてあるので、詳しくはそちらを参照して欲しいのですが、結論から言えば、オネーギンの年齢はわからないし、出逢った時の二人の年齢も判明していません原作に表記はないですし、研究者によって意見がバラバラで、学説も統一されておらず、今でも決着が付いていない問題です。

 どの先生がどの学説を唱えているのか、可能な限り情報収集していますが、まあ本当にこれは酷い。文字通り頭を抱えています。茅野は激怒した。かの乱雑無章のオネーギン年齢論争に終止符を打たねばならぬと決意した以下略。

 このように、オネーギンの登場人物の年齢については、デリケート(?)な問題なので、個人的には明言しないことを推奨しています。何を書いても角が立つ。

 

 ところで、作中で『オネーギン』の英語戯曲版を書いたことになっている、「ヒューバート・ローリンソン」氏の元ネタって、この方でしょうか。

Wikipedia で恐縮ですけども。

 「イギリス人」だし、「俳優」さんだし、名前似てますし……。

 

 論争二点目。

幕が上がると、そこは一八二○年代初頭のロシアだった。

                    p. 180

 『オネーギン』第3章(オペラ版でいう第1幕)は、主に1819年説1820年などがあります。

後者の方が比較的優勢なような気もしますが、前者の場合は「1820年代」にはならないので注意されたし。

 

グレーミンの造形について

 次です。グレーミン(N公爵)に関して。どうでもいいですが、原作でも Князь Н ではなくКнязь N なんですよね。何故なんでしょうね、ちょっと調べておきます。

 さて、グレーミン公爵ですが、『僕らの幕が上がる』では、演じる人物は「還暦」と明言されているものの、原作に於いて、公爵が年老いているという描写は存在しません

公爵は、オネーギンの「親戚で友人( Родню и друга )」であり、「悪戯や冗談( Проказы, шутки )」を言い合った仲であり、寧ろオネーギンと公爵は年齢が近いと推測できます

 

 但し、「グレーミン公爵は老齢である」という誤解はかなり拡がってしまっています。何故でしょうか。

 考えられる発端は、あの文豪フョードル・ドストエフスキーがそのように誤解していた、ということです。彼は有名な「プーシキン演説」で、この "誤読" を披露しています。

 それに影響を受けたのか、チャイコフスキーも同じような誤解をし、オペラでは老齢であることを匂わせる歌詞を歌います。

 この辺りの経緯に関しても、過去に纏めておりますので、適宜参考にして下さい。

↑ そろそろオネーギンと公爵がそっくり、という演出が出てきても良いとおもうんですけれど、如何?

 

オネーギンの容姿について

 我らが主人公について確認します。

オネーギンは黒髪の青年なので、勝は茶味がかった地毛を黒に染めていた。プラスして襟足に尻尾のような付け毛と、それを束ねる黒いリボンがつく。

「原作が好きな人、驚かないかなあ。オネーギンもレンスキーも、原作ではどっちも黒髪なんですよね。でもローリンソンの芸術案だとレンスキーは金髪だから」

「大丈夫です。会場にいる人の九十九パーセントは、原作を熟読してません」

                      p. 167

 では、「1%」の原作熟読勢から失礼します、はい、驚きました

何故なら、原作に於いて、オネーギンが「黒髪である」とされている描写は一切存在しないからです。予防線が斜め上の方向へ行って驚いた……。

 

 ヴラディーミル・レンスキーの容姿については、原作では「肩まで届く黒の巻き毛( кудри черные до плеч )」が強調されています。

これは何もプーシキンの趣味ではなく、ちゃんと意味があって、当時のドイツ・ロマン主義の詩人たちの間で流行した髪型なのです。

↑ 例:ドイツの大詩人・シラー。

 レンスキーは、ドイツはゲッティンゲン留学から帰国したばかりの、ゴチゴチのロマン派詩人です。容姿からして「ドイツ被れ」であることが強調され、このような髪型をしている、ということがわかるのです。

 

 一方のオネーギンさん。

実は意外なことに、彼の容姿に纏わる明確な描写は一点のみ。確認します。

Вот мой Онегин на свободе;
Острижен по последней моде;
Как dandy лондонский одет —
И наконец увидел свет.

我がオネーギンは自由の身になり、
最新の流行に髪を切り、
ロンドンのダンディ風の衣服を纏うと
今や日の目を見るときだろうと。

                  " Евгений Онегин ". А. С. Пушкин. (拙訳)

これ以上の説明はありません。潔い。

 プーシキンは、「最新の流行」「ロンドンのダンディ風」とさえ書けば、それで必要十分だ、と判断しているのです。

 

 「では、流行とかロンドンのダンディ風ってどんなのよ?」という至極真っ当な疑問が生まれる現代人。当時はそれで理解できても、現代では伝わりません。

この点に関しては、Арзамас のイーゴリ・ピーリシチコフ先生の講義がわかりやすいです。ロシア語音声で字幕がありませんが、講義動画を載せておきます。

↑ Арзамас の超マニアック文学解説シリーズ、ほんとに好き。

 結論から申し上げれば、当時の流行を考えても、オネーギンは髪を短く刈っている、と考えることができます。男性でもショートヘアって言うんでしょうか。

 

 髪色については原作で言及がありませんが、帝政時代からの挿絵を順に並べて見ても、多くは金髪であると解釈されることが多いです。

何故なら、「ドイツ風の長い黒髪のレンスキー」の対になるのだから、「イギリス風の短い金髪のオネーギン」とした方が収まりがよいからでしょう。

↑ 例:原作にかなり忠実な描写に定評のあるオペラ映画版。左がレンスキー、右がオネーギン。

 

劇中劇について

 続きまして、作中で描写される「劇中の台詞」について考えます。

 

 いきなり冒頭から飛び出すのがこちらの台詞。

「おじさんは本当に律儀な方ですよ。死んでからも義理を尽くすなんてまあ」

                     p. 7

 原作の方でも第1スタンザの冒頭ですね。

« Мой дядя самых честных правил,
Когда не в шутку занемог,
Он уважать себя заставил
И лучше выдумать не мог.

「叔父は何とも誠実だ、
退っ引きならぬ病を得ると、
一身に尊敬を集めたのは名案だ、
考え得る限りだと。

                  " Евгений Онегин ". А. С. Пушкин. (拙訳)

(『オネーギン』の翻訳難しすぎてやりたくない。)

 オペラでも第1幕第1場でオネーギンが歌います。しかしそのせいもあってよく勘違いされるのですが、オネーギンは叔父を看取っていません

確かに彼は冒頭から「叔父の看病をしたくない、面倒臭い」とぼやいているのですが、到着した頃には叔父は既に亡くなっていた、という導入だからです。

 但し、この台詞からはどちらとも読めるので、「原作と異なる」と断定できるわけではありません。オペラ版では看取ったことになっていて、明確に改変されています。

 

 

 次に行きます。

「いいやあなたの心はあの日のまま輝いている。私には空をわたるひばりのような声が聞こえる。愛をうたう春の鳥の声が! タチヤーナ! 私を愛してくれ!」

                        p. 42

 原作にはない台詞です。例えばヒバリはロシア語で жаворонок というのですが、この語は原作だと一度も出てきません。

 但し、荒っぽい技にはなりますが、バレエ・クランコ版に関しては、こじつけて考えることも不可能ではありません。

クランコ版の音楽についての分析を書いているの自分一人なので、自分で言いますがこの指摘ができるのは自分だけだと思うんですけど、クランコ版の最大の魅せ場の一つ、「鏡のPDD」の元ネタの一部が『ロミオとジュリエットの二重唱』という曲なのですが、この歌の歌詞に жаворонок が登場するからです。

Нет, ангел мой, то жаворонка голос, предвестник утра.

いや、僕の天使よ、これは朝の訪れを告げるヒバリの声だ。

詳しくはこちらを参照のこと。

↑ О, ночь блаженства !!(脳溶け旋律)

 

 また、「私を愛して欲しい」というド直球告白も原作では登場しません。ただ、ロシア詩の愛好家としては、勿論レールモントフの『悪魔(デーモン)』を想起しますよね。

Я дам тебе все, все земное —
Люби меня!..

この世界の全て、全てを君に捧げよう―――

私を愛して欲しい!……

                 " Демон ". М. Ю. Лермонтов (拙訳)

 こちらは、「世界一美しい愛の告白」とさえ言われることもある、悪魔の求愛の言葉の最後の二行です。心の底から好き。是非とも読んで欲しいですね。

↑ 近年新訳も出たので手に取りやすくなりました。デーモンはあかるい夕ぐれに似ていた、晝でもなくよるでもなく、やみでもなく光りでもなかった!……

 

 

 次に参ります。勝君が天王寺さんと稽古をするシーンから。

「ああ夢よ! 私の若さはどこへ行ったというのか! 青春の花冠もじき枯れてしまうだろう。私の生涯の春は、永遠に飛び去ってしまった」

                 p. 50

 これは間違いなく、『オネーギン』の中でも最も有名な一節の一つ、第6章第21スタンザのレンスキーの詩の冒頭ですよね。

«Куда, куда вы удалились,
Весны моей златые дни?

「どこへ、どこへ去ったのか、

我が青春の黄金の日々よ?

 オペラ版にて、チャイコフスキーがこれ以上無く甘美な旋律を付けたことにより、ロシアオペラ屈指の名アリアとなりました。

↑ ついこの間もチューリヒでレンスキー役を務めていたバンジャマン・ベルナイム氏。結構嵌まり役なんじゃないかと思っているんですが、如何でしょうか。

 但し、一点気になる点は、勝君が練習しているということは、これがオネーギンの台詞になっている、ということです。

恐らく、第8章に相当する場面での台詞に置き換わっているのでしょうが、『オネーギン』で「どこへ行った(去った)のか」といえばまず間違いなくレンスキーのアリアですから、原作・オペラファンは混乱するでしょうね。しました。

 そしてどうでもよいのですが、一応戯曲専攻としては、「花冠(かかん)」という、漢字が連想し辛く同音異義語が多い語を台本に使うのは余り頂けないのでは……と感じました。

 

 

 次に行きましょう。

オネーギンの前にタチヤーナが立ちふさがり、どうかやめてとすがりつくが、オネーギンは一顧だにしない。タチヤーナは去ることもできず、決闘を目撃することになる。

                 p. 182

 決闘の場にラーリナ姉妹(『僕たちの幕が上がる』ではタチヤーナのみ?)が現れるのは、バレエ・クランコ版オリジナルですね。

 ここの改変は、恐らく「バレエで男性4人だけで一場やるのが大変だった」というメタな理由なので、ストレートプレイならなんとかなりそうな気も。オペラでは実際男性だけでやってますし。レンスキーが終始湿っぽいこと歌ってるんで、あんまりむさ苦しい感じしないですけどね。

↑ バレエ版についての概説はこちらから。しかし、わたくしなんぞの解説を読むよりも実際に観た方がよろしい。

 

 

 最後に、構成に関してですが、描写を読む限り2幕構成です。オペラもバレエも3幕構成なので、2幕は珍しいと思います。

しかし、「田舎」「都会」で綺麗に分けられるといえば、そうかもしれませんね。

 

邦訳

 細かい指摘を続けます。未来哉君が原作を読むシーンです。

三十分後、未来哉はスマホを充電器につないだ。もう三十分後、眠ることを諦めた後、ネット書店にアクセスし、日本語版の『オネーギン』原作を購入した。ダウンロード後、狭い部屋の隅で、未来哉は活字を追い始めた。どうせ眠れないのなら、本を読むのも悪くないと思えばなんとかなるものだった。

                    p. 98

 電子書籍で読める『オネーギン』の邦訳は、今のところ Kindle米川正夫訳のみです。

 Kindle のみでの販売なので、現状、スマートフォンで池田訳の『オネーギン』を読むことはできません

『僕たちの幕が上がる』世界線では、電子書籍で『オネーギン』が出回っているというのか……? なんとも羨ましい……。現実になれば、わたくしも布教し易いんですけれどもねえ。

 しかし、未来哉君は英語やドイツ語ができるのならば、そちらで読んだ方が宜しいかと思われます。何故なら、日本語で韻文訳をしているのは小澤政雄先生のみですし、小澤訳は現在大変に入手困難であるからです(※古本を1万円で買い取ったオタクの顔)

 

衣装について

 ファクトチェック編、最後に衣装のお話をして終わります。

 

 これはクランコ版からそうなのですが、オネーギンさんが真っ黒の着た切り雀なの、個人的には如何なものか、とか思わなくもないのですよね。

確かに彼は黒がよくお似合いになりますけれど、原作に言う「ロンドンのダンディ」風のファッションセンスを遺憾なく発揮して欲しいのですが。

↑ 一応、何故近代の紳士が黒い燕尾服を着たか、という話はこちらの本などにありますので参考にして下さい。

 また、彼の髪型に関しては、既に触れたのでここでは捨て置きます。短髪なので、時代考証的側面から言えば、付け毛も不要です。

 

 気になるのがタチヤーナのドレス。

タチヤーナは初登場時が薄桃色のドレス、公爵夫人になった後は苔むした庭のような緑色のドレスだった。

                     p. 161

 19世紀の文化史に関心がある方は気が付くかと思いますが、19世紀に於いて「緑色の服を着ている」という描写、非常に怖くないですか?

何故なら、その染料は、当時流行した強い毒性のあるシェーレ・グリーンやパリ・グリーンの可能性が高いからです。

 シェーレ・グリーンやパリ・グリーンには砒素が含まれ、実際にこの染料を用いた衣服や壁紙によって命を落とした人は数知れません。

深読みすれば、「ターニャ早死にフラグが立っているなあ」というところですが、まあ恐らく作者さんにそのような意図はないでしょう。

ちなみに原作では、「ラズベリー色のベレー帽( малиновом берете )」を被っています。

 

物語の主題と『オネーギン』の関係性について

 今度は、この物語と『オネーギン』を絡めて考えて参ります。

 

韻文小説を舞台に乗せるということ

 第一に、先日の演劇『アンナ・カレーニナ』の記事にも書いたのですが、小説を舞台に乗せる意義とは何か、ということです。

 いちおう戯曲を学んでいた身としては、どうして戯曲をやらずに、わざわざ小説を演りたがるかな? と疑問に思います。
戯曲は、正に演劇のために書かれているのですから、「演劇向き」なのは当然のことです。

 勿論、前衛もお手の物の現代芸術ですから、戯曲・小説の枠に囚われず題材を選べば宜しいとは思いますけれど、戯曲の方は演劇の力無くしてはその最大の力を発揮できないのに、既に完成されている小説ばかりが選ばれるのは、戯曲を学んでいた身としてはとても悲しいことです。

シェイクスピアなどの超大御所は別としても、このままだと戯曲は衰退・消滅してしまうのではかろうかと危惧しています。

舞台版『アンナ・カレーニナ』(2023) - レビュー

 例えば、プーシキンをやりたいのなら、彼の数少ない戯曲『ボリス・ゴドゥノフ』を演ればよいのであり、では何故『オネーギン』なのか、という説明が欲しいのです。

 

 チャイコフスキーのオペラ『エヴゲーニー・オネーギン』では、原文に忠実に歌詞が書かれています。

『オネーギン』の最も優れた点は、何と言ってもです。詩や韻文も、口に出してこそ真価を発揮します。

従って、ロシア語での上演であれば、『オネーギン』の魅力を最大限引き出すことができるでしょう。

 

 しかし、外国語に翻訳しての上演となると、そうは参りません。

仮に韻文訳を行ったとしても、それがそのままこの作品の真価として伝わるわけではありませんし、そもそも韻文訳をするのがどれほど困難であるかは、前記のわたくしの拙すぎる筆から伝わっているはずです。

 韻文小説『エヴゲーニー・オネーギン』は、ロシアが誇る国民文学です。一方で、それは同時に、「ロシア語」にある程度縛り付けられた存在である、ということも認識しなければなりません。

 

 では、外国語で『オネーギン』を上演してはならないのか、というと、勿論そういうわけでもないでしょう。

但し、やはり「何故そこでわざわざ『オネーギン』を選んだのか?」という説明を求めたい、とは感じてしまいますよね。

 日本語圏では、そもそも『オネーギン』自体の知名度があまり高くないのに加えて、最も有名な邦訳が散文訳であるために、そもそも『オネーギン』が韻文小説であることを忘れられがちです。

韻文小説とは何か、翻訳した上でこの作品を楽しむにはどのようにすべきか、この作品を「輸入」する上では必ず考えなければいけない問題であると思っています。

 

 硬いことを言いましたが、『オネーギン』の外国語上演も勿論あります。最も有名なのはミュージカル版でしょうか。英語です。

わたくしは未だに怖がって観ていないんですけれども(だってこういうファクトチェック系記事書くことになるのは目に見えているし……)、個人的に最も好きな観劇レビュワー・三島先生がレビューを書いて下さっているので、是非ご覧になって下さい。

↑ 三島先生のキレッキレのレビューが大好きです。的確な上にめちゃ笑えます。最高。

 

 また、ストレートプレイに関しては、某有名人もこの役に挑戦していたり……。

↑ 絶対伯父の方がオネーギン役似合うんだよな、とか思いつつ。

 

解釈論争に関して

 作中で繰り広げられる解釈論争。読者が増えるということは、即ちその数だけ解釈が増えるということ。受容理論ですね。

 わたくし個人の解釈については、既に色々書いているので、ここでは捨て置きます(いや、書きたいんだけども、凄く長くなりますんでね……)

↑ よく政治と絡めて捉えられるオネーギン受容の歴史を考える回です。

↑ ターニャとオネーギンは結局何が好きだったの? という話。

 

 勝君の解釈で、「虚無( nihil )」という語が何度も出てきますが、ロシア文学史に於いては、この語が初めて用いられるのはトゥルゲーネフの『父と子』であることで有名です。

↑ 個人的にはトゥルゲーネフで一番好き。

 『父と子』は1862年発刊なので、『オネーギン』よりも後の作品です。従って、『オネーギン』原作には一度も「虚無」に相当する語は登場しません

 代わって、『オネーギン』で頻出する単語は、「退屈( скука )」です。第1スタンザから « Но, боже мой, какая скука (だが神よ、なんたる退屈)» ですから、もう筋金入りです。

 個人的には、「虚無」は『父と子』を代表するキーワードであり、『オネーギン』のそれは「退屈」なのだと考えています。

↑ そういえばその点も過去に書いていました。伊達に『オネーギン』の記事を70も書いていないな。正直書きすぎだと思う。

 

 

 また、個人的に『僕たちの幕が上がる』で嬉しかったのが、ちゃんと「エヴゲーニー・オネーギン」の話だった、ということです。

オネーギンは、タイトルロールのくせに、いつもタチヤーナやレンスキーに魅せ場を取られてしまう哀れな役どころなので、しっかり「オネーギン」という人物にスポットが当たっているのが嬉しかったですね。

 完全にミリしら状態で読み始めたので、「決戦」ということで、また『ガニュメデスの誘拐』が始まるのか……と懸念しましたが別にそんなことはなかった。よかった(?)。

 

未来哉君のキャラクター造形に関して

 作中でも、未来哉君がオネーギンに似ている、という話が出てきますが、作中で明確に指摘されているものの他も、それを裏付ける描写は幾つかあります。

例えば、序盤では彼はいつも自分の爪を見ています。

南未来哉は興味なさげな顔で、拍手の後には自分の爪だけを見ていた。

                       p. 25

未来哉はさっぱりとした口調で答え、また自分の爪を眺めはじめた。

                       p. 30

 『オネーギン』で爪って言ったら、もう第1章第24-5スタンザじゃないですか、当然。1スタンザ丸ごと爪のお手入れの話ですよ。

Быть можно дельным человеком
И думать о красе ногтей:

有能な人物だって

爪の美しさに気を配ることもあるだろう

                  " Евгений Онегин ". А. С. Пушкин. (拙訳)

 原作を読んでいれば、最初から未来哉君が優秀である伏線に気付けるわけですね。楽しい。

 

 また、主に125-8ページに掛けて、彼が実質的に孤児である旨が記されていますが、実はオネーギンも孤児ですよね。

 彼には母が無く(少なくとも一緒に暮らしていないので、当時の風習から考えても早くに亡くなっていると推測できます)、父も第1章で亡くなっています。

 「オネーギンは孤児である」という点を見逃すと、彼の、いや、「彼ら」の少々捻くれた人物像を掴み損ねるかもしれません。

 

 ただ、一点だけ、「ドイツ帰り」という所はレンスキーですよね。何故ドイツなんだろう、と考えつつ。

ここがフランスかイギリスであれば、よりオネーギンっぽかったかもしれません。敢えてのロシアとかね。ロシアも演劇大国で知られますからね。

 

 オネーギンと未来哉君の最大の違いは何か、というと、「労働」です。

オネーギンは裕福な貴族なので、何もしなくても衣食住には事欠きません。その上、何をするにも政治的抑圧や社会の偏見と闘わねばならず、実質的に「何もできない」状態に押し込まれ、恋愛遊戯に賭博にと、「くだらないこと」で人生を浪費せざるを得ないのです。

 一方の未来哉君は、労働を行わねば生活が成り立たず、俳優業を続けざるを得ませんし、何よりも彼自身がそれを行いたいという意志を持ち、やり甲斐を感じています。

 良い時代になりましたね。

 

現代での上演について

 また、作中では、現在のウクライナ侵攻に伴い、上演中止運動が行われることになっています。タイムリー。

『僕たちの幕が上がる』世界線でもウクライナ侵攻をしているのか、愚かなロシア連邦政府よ。資料が輸入できなくて個人的にも困っているので可及的速やかに停戦してくれ。

 

 現実世界でも、ロシアのキャンセルカルチャーはかなり発生しました。嘆かわしいことです。

その際、「今世界ではロシア作品など上演できていない」という、誤った正義感に駆られた人物たちによるデマがかなり流れたのですが、はっきり言わせて貰えば、それは流石にリサーチ不足が過ぎます。少しは自分で調べたら宜しいと思う。

 たとえば、ダラス交響楽団の声明を過去に翻訳しているので、ご確認下さい。

 The Dallas Symphony Orchestra has Russian composers programmed throughout the 2021/22 season, which was planned in 2020. We believe that these works should continue to be performed; the pieces come from all times in history, from the Czarist age to the authoritarian regime of Stalin. Many of these composers, who are integral to the classical music canon, wrote works in reaction to the oppression and violence of their time living in or being forced to leave the Soviet Union or Russia. These works are reflections of universal human emotions that touch us all. To remove these compositions from the programming is to silence their voices based on tragic events in the contemporary world. Musicians use their art to respond to or transcend politics and reminds us that art has the power to eliminate boundaries and connect us to each other.

 ダラス交響楽団では、2020年に策定されたプログラムに従い、2021/22シーズンに於いてもロシア人作曲家の作品を上演致します。
私達は、帝政時代やスターリン権威主義の時代など、全ての時代から集められたこれらの作品を、継続して上演すべきだと信じています。
クラシック音楽に欠かすことのできない彼ら作曲家の作品は、それぞれが生きたソヴィエト連邦やロシアの圧政や暴力の中で、或いはそこから亡命する中で、それらに反発して書かれています。
これらの作品は、私達の誰もが触れる普遍的な人間の感情を反映したものです。これらの作品をプログラムから外すことは、現代世界の悲劇に基づく彼らの声を封殺することに他なりません。
楽家たちは、その技術を用いて、政治に応え、或いは越え、音楽が国境を消し、私達を結びつける力があることを思い起こさせてくれます。

ダラス響『エヴゲーニー・オネーギン』2022/4 - レビュー

 ……と、このように、現実でも、ロシア作品のキャンセルカルチャーや、それに対する真っ当な声明などは出ています。

 知り合いにオーケストラの広報部に勤めていらっしゃる方がいるのですが、ロシアのプログラムやロシア人演奏家の招聘を行う度に、そもそもクラシックに関心がないような人々からの謎のクレーム対応に追われていて可哀想でした。

個人的にも政治には強い関心がありますし、政治的意見には多様性があって然るべきですが、その行為がどのような意味を持つのか、何の役に立つのか、己の正義感に酔っているだけではないのか、誰が迷惑を被るのか、……等々ということは一度自問した方が宜しいのではないでしょうか。

わたくしも勿論侵攻には反対の立場ですが、侵攻に抗議するのであれば、もっと別の賢く有用性のあるやり方があるでしょう。

 

キャスティングに関して

 舞台では重要なキャスティングに関して。

初日のオネーギンは二藤勝。タチヤーナは檜山菜々。未来哉でなくていいのかと、土壇場までプロモーターは不安がったそうだが、カイトが「最初は勝がいい」と押し通したそうだった。あくまで雇われ演出であるカイトには、できることにも限りがあるはずだったが、それでも主張が通ったのは、主張に理があると判断されてのことらしい。

                  p. 165

 『オネーギン』とキャスティングといえば、念頭に浮かぶのはやはりクランコ財団ですよね。

バレエ・クランコ版『オネーギン』は非常に著作権が厳しいことで有名で、キャスティングの権利も同財団が持っています。そのせいでバレエ団と揉めることも多く……。

特にボリショイ・バレエ団とのトラブルは、バレエ界ではそこそこ有名な話ですね(尚、わたくしはボリショイ初演キャストが大好きなのですが……)

 

 オペラは著作権が切れているので問題がありませんが、バレエは非常に厳しい、ということを考えると、演劇はどうだろう、と考えてしまいます。作中のローリンソン氏は比較的緩め……なのだろうか?

 

『オネーギン』の面白さとは何か

 最後に、大きなテーマを以て終わろうと思います。

作中で、「この劇(『オネーギン』)は何が面白いのか」という話をキャストがしています。

作中の劇は、当然ですが観ることができないので、何とも言えないものの、『オネーギン』が一番面白いと盲信しているオタクとしては、何とも心外な言葉です。

 では改めて、『オネーギン』の良さとは何でしょうか。

 

 過去の特別お題記事で、10項目に分けて『オネーギン』の良さについて語っているので、詳しくはこちらを参照頂きたいのですが……。

↑ 申し訳ないですがこの記事も相当長いです。失礼。

 

 「韻文小説を舞台に乗せるということ」の項でも述べましたが、『オネーギン』という作品は、翻訳によって大幅にその魅力を失う作品でもあります。だからこそ「ロシアの国民小説」なのであり、国外ではドストエフスキートルストイらに知名度で負けてしまうのです。

 更に、原作の『オネーギン』は、緻密な風俗描写が売りで、「ロシア生活のエンサイクロペディア」の異名を持つ作品でもあるのですが、舞台に乗せてしまうと、その部分がごっそりと削られてしまいます。

この「風俗描写」の中には、多くの登場人物が、当時ありふれていた、典型的な人物像であった、ということも含まれています(「都会の紳士」の典型のオネーギン、前半は「田舎の令嬢」の典型のタチヤーナ、等)。

 従って、難しい話ではあるのですが、『エヴゲーニー・オネーギン』という作品を真に楽しむには、プーシキンの原作を、原語で読むしかないのです。だから国外では以下略。

 

 以上のことから、「外国語」で「舞台」で『オネーギン』を、というと、それは全く別のものになってしまう、と認識しています。そこで、前述の、「何故そこでわざわざ『オネーギン』を選んだのか?」という疑問が発生するのです。

 わたくしはこの『エヴゲーニー・オネーギン』という作品を蒙愛していますが、「ストーリーだけを抜き出したとき、果たしてそれは面白いのか」「ストーリーをなぞるだけで『オネーギン』を上演したことになるのか」というと、わたくしは肯定的な意見を述べることができません。

 ストーリーだけ見れば、『オネーギン』は自然主義的で、新規性もありません。それは、原作者本人がエピグラフに書いていることでもあるのだから、言ってみれば当然のことです。

 オペラには官能的で優美なチャイコフスキーの音楽が付きます。ロシア語が全くわからなくとも、音楽だけで充分に楽しむことができると断言します。しかし、ストレートプレイではそれもありません。

 

 原作の『オネーギン』の面白さの中心的な部分は、「韻」と「風俗描写」です。

「外国語」であるがゆえに韻が踏めず、「舞台」であるがゆえに風俗描写も大幅に削られてしまう場合、原作と同じ面白さを追求することはできません。そこには新たなる魅力の創造が必要になってきます。

 

 そこで、作中のキャストたちが『オネーギン』の魅力を見失う、というのは、わからない話でもないのです。彼らには道標となるものがない状態だからです。

 

 では、作中ではその迷路をどのように打開したのか、というと、それは「解釈」です。

確かに、『オネーギン』は、韻文小説であるからこそ、心理描写は少なく、言うなればキャラクターに関して「余白」の多い作品でもあります。

それを、演じる人それぞれが思うキャラクター像を練り上げてゆき、穴埋めしていく、というのは、演劇では必須の要素であると思います。

事実、特にバレエ・クランコ版に関しては、いつも「この人はこのような解釈、演技で来たのだな」と、考えながら拝見しています。

 

 従って、結局のところ、「実際にその劇を観てみないとわからない」、というところに着地しているように感じます。それはある意味で、演劇小説としては正解なのかもしれませんね。

 

 では、斯様な面倒なオタクを納得させる、魅惑の『オネーギン』を、期待しておりますよ。

 

最後に

 通読ありがとうございました! 17000字超え……、やってしまった……いつものことながら……。2万乗っていないので許して下さい。オタクは話が長い。

 

 過去の記事を大量に貼り付けるだけの、読み応えの乏しい記事になってしまいまして反省しております。しかし、『オネーギン』に関しては割ともう既にガッツリ書いておりますし、そうしないと多分この記事、『僕たちの幕が上がる』そのものよりも長くなるので……。オタクは話が長い(二回目)。

 しっかし、好きな作品を語るというのは愉しいことです。健康によい。

 

 本文では触れませんでしたが、作中にこのような対話があり、思わず吹き出しそうになりました。

「『人生の小説を読み終える前に、私のようにオネーギンと別れることができた人は、幸せだ』。この『人生の小説は、『人生という小説』くらいの意味だと僕は思っている」

「……死ぬまでにオネーギンと別れられたら幸せだ、って言ってる?」

「その通りだ。原作はそう結ばれている。そして君にはその言葉の意味がわかるはずだ」

                       p. 95

 いえ、わたくしは墓場まで引き摺らせて頂きます。わたしは墓に降りてゆき、忘却の川レーテに呑み込まれよう、しかし君は、君は……来てくれるね、麗しい作品よ、来てくれ、来てくれ、わたしは君のオタクなのだ!……

 プーシキン御大へ。人の仕合わせは人それぞれです。

 

 前述のように、ライトノベルを読むのが久々すぎておっかなびっくりだったのですが、こんなに文字を書く程楽しませて頂いたので、原作のオタクである方もそうではない方も、読んで感想を教えて頂けるとわたくしが喜びます。宜しくお願い致します。

 

 さて、次回なんですが、なんとまだ『オネーギン』の供給は続くのであった……。『オネーギン』を日頃から摂取できる人は仕合わせである。

というわけで、次回も『オネーギン』のレビューで企画しております。わたくしも拝聴するのが楽しみです。

 

 それでは、今回はこちらでお開きと致します。長々と書いてしまったことを詫び、最後までお付き合い頂いたことに感謝を。次回、またお目に掛かれれば幸いです!