こんばんは、茅野です。
わたくしは植物を枯らすことに関しては自信があるので、ガーデニングの趣味は一切なかったのですが、気の迷いで冬に買ってしまい育てていたアーモンドの木に、昨日花が咲きました。愛らしいピンクの花を付けたことに、妙に感動しています。
そろそろ雪解けの季節なのでしょうか。
さて、次の観劇に備えて、今回はレビュー記事を。
現在上演中の、演劇版『アンナ・カレーニナ』にお邪魔して参りました! 3月10日の回です。
前作は件の『罪と罰』で御座いますよ。
↑ この間、主演様のファンサイトで何故かわたくしの記事が紹介されてしまったようで、著しくアクセス数伸びててビビりました。こわい。
いやー……、はずかしいことばかり書き連ねている弊ブログの中でも最も削除したい記事だと言えるのですが(主に前半伏字。読まなくて結構です。)、戒めとして遺しております。はい。
演劇とは少し縁があったのですが、あんまり良い想い出がありませんで、寧ろどちらかというと日本の演劇鑑賞自体があまり好きでは無いのですが、今回は、前回出向かなかったことの反省ということもあって席を買いました。色々な意味でドキドキで御座いますね。
今回はこちらの雑感を記して参ります。お付き合いの程宜しくお願い致します。
↑ ポスターお洒落すぎ! アンナがリョーヴィンとは背中合わせ、ヴロンスキーとは向かい合わせ、カレーニンとは横並びなのが "わかっていらっしゃる" 。
キャスト
アンナ・カレーニナ:宮沢りえ
アレクセイ・ヴロンスキー:渡邊圭祐
アレクセイ・カレーニン:小日向文世
コンスタンティン・リョーヴィン:浅香航大
エカテリーナ・シチェルバツカヤ:土居志央梨
ステパン・オブロンスキー:梶原善
ダリヤ・オブロンスカヤ:大空ゆうひ
脚本・演出:フィリップ・ブリーン
(公式サイトのキャスト欄にも役名を明記して欲しい。オペラと違って声部で一目瞭然なわけでもないですし、わかりづらいです)。
雑感
Bunkamura には通い倒していますが、シアターコクーンには初めて参りました(前回行かなかったのでね!!)。
今回は U25 席で取っていたので、2階席だったのですが、初めてだとちょっと迷いかけますね。でも、シンプルな作りで、椅子もゆったりしているし、良い劇場だと思います。それでも改装しちゃうんですねえ……。
長い。とにかく長い。1時間40分×2とは。2本分では。
もう途中で正直お腹鳴らしましたもんね。マチネにせよソワレにせよ、しっかりご飯食べてからいらしてください。大事です。まだオペラじゃなくて良かった。
アンナを取り巻く三角関係に終始しがちなメディアミックス版『アンナ・カレーニナ』ですが、オブロンスキーやリョーヴィンの物語もしっかり拾われています。まあ、これだけ尺が長ければね。まさかニコライ兄さんまで出てくるとは思いませんでした。
ただしコズヌィシェフはリストラ。『アンナ・カレーニナ』は政治パートも面白いのに……!!
わたくしは所謂原作厨なので、忠実に、また写実的に描くのが好みですけど、うーむ、しかし物語の表層をなぞればそれでよいということでは無いと思うのですけれども。前作『罪と罰』も然りですけれど。
いちおう戯曲を学んでいた身としては、どうして戯曲をやらずに、わざわざ小説を演りたがるかな? と疑問に思います。
戯曲は、正に演劇のために書かれているのですから、「演劇向き」なのは当然のことです。
勿論、前衛もお手の物の現代芸術ですから、戯曲・小説の枠に囚われず題材を選べば宜しいとは思いますけれど、戯曲の方は演劇の力無くしてはその最大の力を発揮できないのに、既に完成されている小説ばかりが選ばれるのは、戯曲を学んでいた身としてはとても悲しいことです。シェイクスピアなどの超大御所は別としても、このままだと戯曲は衰退・消滅してしまうのではかろうかと危惧しています。
更に言えば、トルストイ、特にこの『アンナ・カレーニナ』は、心理描写を売りとしていますから、殊更舞台には向いていない作品だと思っています。
構成は複雑で、表層的なストーリーを追う上では冗長に思われる場も多くあります。しかし、それが上手く噛み合っているのは、小説という媒体であるがゆえです。
パッチワークのように表層を貼り合わせた演劇だと、相当入念に構成を練り直さない限りは、この『アンナ・カレーニナ』という作品の魅力を伝えきれないように感じるのです。
コズヌィシェフやワーレニカをリストラしたことにより、政治パートと農業パートが殆どカットされています。多少草刈りはしてましたけど。
また、リョーヴィンが無信仰を告白しないために、最初からめちゃくちゃ信仰厚い男みたいになっています。この人いつも祈ってんな?
役者さんというより演出に関してなのですが、オブロンスキーがかなり解釈違いで、そんな情けなくてもいいのかペテルブルク製の金ピカダンディが? とは思いました。この物語自体がそこに焦点を当ててもいるわけですが、当時の女性の権利の無さ、立場の低さを考えると、スティーヴァはもう少し堂々としていてもよいのでは。
わたくしはそもそもが近代帝政ロシア社会の愛好家なので、当時の風習から逸れると気になりますが、現代の価値観に沿わせた方が一般的な現代の観客にはわかりやすいのだろうか、などと考えてしまいました。
一番差が顕著なのは、リョーヴィンの実兄ニコライの愛人マリヤで、「黄の鑑札」持ちの女が貴族の旦那様にそのような口の利き方をするとは……と、驚いてしまいました。原作からも乖離しますし、普通は有り得ないですね(※階級制社会を支持しているわけではなくて、当時の価値観に照らし合わせて考えると、の意)。
原作だと、口調の変化も結構面白いポイントで、同じ二人の会話でも、その時の距離感によってロシア語の敬称・親称、フランス語の敬称・親称の四種を混ぜて使い分けているのが興味深いのですけれども、日本語ではそのような変化は付けられずとも、折角敬語や複数の一人称という面白い言語体系をしているのだから、その辺りをもっと上手く使ってやればいいのにな、などと考えていました。
俳優さんに関していえば、アンナ一強で御座います。圧倒的カリスマ。この作品のタイトルは『アンナ・カレーニナ』なんだぞ、という説得力を感じます。
もう一人だけ発声から何から全てが違う。存在感が段違い。人種が言語が云々と、余計なことを考えなくてよく、ストレスが全くありません。ちゃんとロシアの貴婦人に見える……!
とはいえ、実際の『アンナ・カレーニナ』という作品はかなり複雑な群像劇であって、一人舞台ではありません。群像劇にカリスマが一人混ざると、バランスが崩れる危険性も。
事実、アンナが暫く出て来ないと恋しくなりましたもの。逆にもうアンナの一人舞台でいいよ、という領域。
少し震えたような特徴的な発声で、演劇向けながらに、自然でもあり、これがタイトルロールの力か、と思い知らされました。
立ち振る舞いも優雅で、沢山のお衣装替えがありますが(『罪と罰』のラスコーリニコフ君の気絶も同様ですが、カウントしておけばよかった)、どちらもお似合いになります。
前半の麗しの貴婦人から、立場の不安定さによりモルヒネ中毒や情緒不安定になり、自決に走るまでの疑心暗鬼に囚われた哀れな女までの転身を、これ以上無い説得力で描きます。お見事。
ところで、ロシアとモルヒネといえば……。
↑ 原作・映画化共に良作です……。
ヴロンスキーは、最初出てきて帽子を取った時に、「お……髪の毛ふさふさだ……」と思ってしまってほんとうに申し訳ない(※原作だと「髪が薄くなりかけている」という描写があるので)。
現代の価値観だと、「ハゲとイケメンって両立するの……?」ってなりかねませんけど。突っ込んだら負けなのかもしれせん。髪の毛ふさふさヴロンスキー。
十分に二枚目俳優さんに求められることをこなして貰った印象です。自分の立ち位置をきちんと把握されておられる。
特に前半は、声音が多少一本調子なのが気になりましたが、後半は激するシーンも多いゆえか次第に改善していった印象。
この間こちらも読んで(観て)いたばかりなので、つい比較してしまうのですが、『アンナ・カレーニナ』のヴロンスキー伯爵は、『パルムの僧院』のファブリスと違って、「ちゃんとカッコいい」のがいいですよね。
↑ 顔の良さだけでゴリ押しするファブリスの図。でもジェラール・フィリップじゃ仕方がない。ですよね?
勿論絵に書いたような完璧な人間ではないにせよ、「顔がいいだけのハリボテ」ではなく、きちんと情熱と感情と理性を持っているな、というのが伝わります(顔はよくても髪の毛は如何か?)。
地位ある夫人を篭絡することによって自分の出世の足掛かりにしたり、自尊心を満たすだけで満足するような若者が多い中で、なかなか愛のために拳銃自殺(未遂)を実行したり、キャリアを全て棒に振るような選択はできまい。
しかし、そういったところが、「危険な小説」を読みに読んだアンナに「この人は特別だ」と思わせる原因になっていることを思えば、ある意味で始末が悪く、残酷とでも言えましょうか。
もう一方のアレクセイ、カレーニンの方は、もうド頭から人柄が良い感が凄まじい。どうみても素敵なご主人。
「え、カレーニンがこんな優しそうで誠実そうな旦那様でよいわけ? 寧ろ是非とも結婚したくない? 結婚して下さい(プロポーズ)」という雰囲気をダダ漏らしています。
それゆえ、最初は解釈違いを危ぶみましたが、競馬のシーン以降はきちんと従来のカレーニン像に。いやしかし、そこでも原作とは異なり妻を愛していることが強調されており、「やっぱりめちゃくちゃ良い夫じゃん……」となりましたが……。
尤も、原作からしてカレーニンは割と良い人なんですけれどもね。そこまで嫌いになる要素はないと思っています。
出自にあまり恵まれない中、実力でのし上がった有能な高級官僚、素敵じゃないですか。人の涙が弱点なところも愛らしいとは思いませんか。
アンナに寄り添って描かれるから醜悪に思われるだけで、冷静に観察をすれば、妻に対しても一般的な尺度と照らし合わせればかなり寛容だし、寧ろ哀れみを誘うとさえ思います。
しかしですねえ、シチェルバツキー老公爵の言う「ペテルブルクの金ピカ青年」の魔力は強いんですよ……、よくわかります。それが理解できないのならば、彼らの代表格とか頂点のオタクなんかやってないんですよ。わかりますとも……。
コンスタンティン・リョーヴィンは、準主役級の扱いで、アンナに次いでの存在感を発揮していました。
キャスト表やポスターを見たときに、「二番手はヴロンスキーではなくリョーヴィンなんだ」、と結構驚きましたが、実際に観て納得しましたね。
前述のように、他のメディアミックス作品だと、アンナを取り巻く三角関係のみが重視され、リョーヴィンの物語は蔑ろにされがちです。劇的なアンナの物語に比べて、牧歌的な彼らの物語は、言ってしまえば地味だし、文芸ならともかくとして、特に舞台では冗長になりがちです。しかし、今作では彼らの物語もしっかりと描かれていました。
但し、リョーヴィンの思想などに関する描写が殆どないために、「ただの冴えない(けど誠実な)男」みたいになっているのは少々勿体ないですね。特に彼は、トルストイの思想の代弁者的側面があるので、それがないとどうにも締まりが悪いような気も致します。
個人的には、シチェルバツカヤ姉妹が余りにも俗っぽく描かれすぎているのは好みではありません。21世紀の町娘~ご婦人ならばあれでよいでしょうけれど、19世紀のご令嬢であれでは、余りにはしたないのではあるまいか。そういうキャラクター性でもありませんし。
特にキティは、リョーヴィンのように彼女を神聖視するわけではありませんが、原作のお淑やかさや貞淑さ、良妻賢母感が殆ど無く、それではアンナの対として機能しないのでは、と感じました。というか、19世紀の貴族の令嬢が婚前交渉をしてるって堂々と宣言しているのは普通にアウトでは。アンナの不倫以上に問題では。『危険な関係』もびっくりである。
また、ドリーについては、第二部で馭者に心情を泣き叫んでいて度肝を抜かれました。確かに、あのシーンはダリヤ・オブロンスカヤというキャラクターを考える上では外せないシーンですが、独白である為に舞台では描きづらいシーンでもあります(だから『アンナ・カレーニナ』は舞台向きの作品ではないとあれほど……)。
だからといって、妹の夫の従者に全てを曝け出すのは頂けませんね。激情的すぎます。見苦しい。原作でアンナが己の召使いたちに「噂を立てられないように」と、彼らにまで気を遣って密会をするのは何の為なのか?
わたくしはリョーヴィン一家の物語も好きですが、このようなシチェルバツカヤ姉妹やオブロンスキーの描き方への違和感から、「アンナ……早く舞台に戻ってきてくれ……」と感じてしまいましたね。リョーヴィン君の演技は良かったです。
第一部の最後ですが、いや、そこで終わるんかい。この間の『ヘンリー5世』のときも思いましたけど、人の死(或いは死にかける)で終わらせるの流行りなのだろうか。
どういう気持ちで休憩に入ればよいのかわからないので、こういう幕切れは好きではないのですが、まあ確かにこの物語をどこで一段落入れるか、というのは難しいのかもしれないですね。
第二部は開幕から、ヴロンスキーが半裸で、思わず「カーセン演出か?」と口走りかけました。我ら『オネーギン』オタクは、舞台上に上半身裸の美青年が出現すると、この呪文を唱えなければならないという難儀な呪いに掛かっているのです(※ロバート・カーセン演出のオペラ『エヴゲーニー・オネーギン』第3幕冒頭では、主人公が舞台上でお洋服を着替える、というえっちな有名なシーンがある)。
最初「何故脱いだ?」と思いましたが、自殺未遂でできた銃創を見せる為ですね。古傷フェチの皆様、今すぐシアターコクーンへ走って下さい。
ヴロンスキーの服と言えば、どうでもいいですが、軍服のコートの色が薄すぎるのが不満です。ロシア帝国陸軍のコートの色はもっと濃いです。わたくしは陸軍将校のコートの色がとても好きなのです。あれではイタリア軍か何かです。宜しくお願いします(面倒なオタク)。
最初に原作を読んだのは高校生の頃だったので全く気付きませんでしたが、リョーヴィンがキティにプロポーズする際に行っているのは、これは、もしかしなくても、セクレテールですね……!?
↑ こちらの後半に出て来る遊び。
純情なカップルが愛の告白に使う遊びを、我らが殿下兄弟と、あの変態メシチェルスキー公爵が行っているというのは、なんとも複雑な心境です。殿下はチェスの腕も相当立つそうなので(そうでしょうとも)、セクレテールも強いんだろうな……。
舞台では、黒板とチョークを使って再現していましたが、いくらオペラグラスを構えていても、流石に2階最後方列からでは文字は確認できず。何を書いていたんだろう、平仮名ですか?
リョーヴィンの兄ニコライの死の場では、下手の上にピンク色の字幕で Смерть (ロシア語で「死」)の文字が。いや、流石に露骨すぎるでしょ。謎のネタバレ(物語は知っていますが)。
しかし、字幕出せたんかい! 日本語ですが、できれば字幕欲しいなと思っていたので、出せるなら全部出して下さいよ! と思いつつ……。2階最後方列では聞き取れない台詞がないわけではなかったので。
ネームドキャラの台詞は大体聞こえましたけれど、競馬のシーンなど、大勢が一斉に喋るシーンは全然わかりませんでしたね、正直。原作を再読してから臨んだので、大体予想は付きますが……といったところ。
主要キャラクターでは、一番発声が美しかったのは前述の通り断トツでアンナ、一番怪しかったのはその兄オブロンスキーであったかな、と思います。冒頭のリョーヴィンとレストランに行くシーンから少々怪しかった。
アンナの死の場面では、「電気」とホームドア的なものが上手く組み合わされていて秀逸でしたね。尤も、当時はホームドアとかありませんけれど、勿論。
毎回思うんですけれど、『アンナ・カレーニナ』を観たり読んだりした後、電車で帰りたくなくないですか? 勿論、"変な気" は起こしませんけれど、アンナの死の後、自分の理性を信用せず猟銃を隠して生活したリョーヴィンの気持ちにはやはり共感できるわけです。やっぱり怖いじゃないですか。
馬車で帰ろうぜ、馬車で。
最後、ヴロンスカヤ伯爵夫人が「クリミアをロシア化するという崇高な使命のために〜」とか言い出すので思わず苦笑い。余りにも皮肉がすぎるwww わかっててやっていらっしゃるんでしょう? そうなんでしょう??
まあ、脚本が書かれたのは2019年らしいですし、原作にもある台詞なので、偶然ということも有り得ますが、それにしたって、ねえ。
音楽はバンダスタイル。前作と同じく舞台上に乗っていますが、音楽隊にはマイクが付いているのに、俳優さんにはないことに対するギャップに最初は少し戸惑ったり。
音と言えば、教会のシーンや最後アンナが駅舎に行く前のシーンは、エコーが掛かった特別な音響を用いていましたね。凝っています。
そして司祭様役の方の声が大変に良かった。オペラに関心はありませんか?
演劇は殆ど観に行かないので、客層も未知数でしたが、かなり女性率高めでしたね。
従って、休憩時間の御手洗は長蛇の列。男子トイレ潰せばいいのにとは思いましたね。例えば新国立劇場では客層に合わせて潰します。
脚本に関してですが、前作の『罪と罰』同様、詰め込みすぎの感があり、咀嚼する時間が全く与えらないため、ストーリーを全く知らない人が観たらただただ混乱するのではないか、とさえ思います。ドストエフスキーにトルストイと、誰もが知る名作だからこそ許されているようなものであって、脚本自体の出来としては如何なものか、とは思います。とはいえ、よく3時間強に纏めたな、とは思います。
また、群像劇であるとはいえ、この大作をこの過密スケジュールで行う出演者並びにスタッフの皆様も凄まじいものです。この作品、一日に二回も演ったら病みません? メンタルケアもしっかり行って頂きたいところ……。
力作でした。まだ上演しておりますので、宜しければ渋谷へ駆け込んでくださいまし。
最後に
通読ありがとうございました。8000字ほど。意外としっかり書いてしまいました。
『アンナ・カレーニナ』のメディアミックスに関しては、イギリス映画版と、『ヴロンスキーの物語』は観ています。折角なので、観られるものはマラソンして遊んでみてもいいなあと考えている今日この頃です。
前者は、正直に言って「ロシア感」が全くなくて好きではないのですが(何故ならわたくしが愛しているのはストーリーでも技法でもなく帝政ロシア社会なので)、後者はその点時代考証がしっかりしていてとても好きですね。久々に観返したいところ。
いずれにせよ、レビュー記事を溜めないように努力したいと思います。
それでは、お開きと致します。また次の記事でもお目に掛かることができましたら幸いです。