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新国立劇場『ボリス・ゴドゥノフ』初日 - レビュー

 こんばんは、茅野です。

昨今の供給の多いこと、多いこと……。記事を書くのが間に合いません! 速さだけが取り柄だと申しますのに! ちょっと待った! 時よ止まれ!

 

 先日のゲネプロに続きまして、新国立劇場にて、我らがロシアオペラの一、『ボリス・ゴドゥノフ』を鑑賞して参りました。11月15日、プレミエで御座います。

ゲネプロを観ておりますので、今回のプロダクションは二回目。有り難いことです。

ゲネプロのレビューはこちらから。変更点なども幾つか。

 

 今回のプロダクションは、一回で咀嚼しきるのは厳しいと思いますので、今回は前回気付かなかったこと、新たに思い直したことなどをメインに雑感を記して参りたいと思います。

 

 それでは、お付き合いの程よろしくお願い致します!

↑ 公式 Twitter から。ロマノフ帝冠があるものの(モノマフ帽ではなく)、この画だけで『ボリス』だとわかる人はいるのだろうか。

 

 

キャスト

ボリス・ゴドゥノフ:ギド・イェンティンス

グリゴーリー:工藤和真

ピーメン:ゴデルジ・ジャネリーゼ

シュイスキー:アーノルド・ベズイエン

シチェルカーロフ:秋谷直之

聖愚者:清水徹太郎

ヴァルラーム:河野哲平

ミサイール:青地英幸

女主人:清水華澄

クセニヤ:九嶋香奈枝

フョードル:小泉詠子

乳母:金子美香

フョードル(黙役):ユスティナ・ヴァシレフスカ

指揮:大野和士

演奏:東京都交響楽団

合唱:新国立劇場合唱団

 

雑感

 今回はしっかり音楽を聴く余裕がありました。そう感じました。それだけ、ゲネプロの時は演出に気を取られ、音が右から左になっていたということですね……。お恥ずかしい限りだし、何という演出だ、と申しますか。

 

 今回は U25 席にて、1 階中央最後列。大変素晴らしい席でした。観やすい。とはいえ、今回は音楽を楽しみたかったので、意識的に目を閉じたり、字幕を観たりして、演出に集中しすぎないようにしていました。

 

 GP の時は、冒頭で誰が誰なのかの理解が追いついていなかったので、違和感を抱きつつも指摘していませんでしたが、やっぱりニキーティチのパートをボリスが歌っていますよね? 従って、ボリスは最序盤から出番があるし、台詞としても、それ、自分で言うんかいという形に。

 

 そのボリスですが、声としては、オペラトークで感じたとおり、エンジンを掛けるのに時間が掛かる印象を再び受けました。オペラトークで不安に思い、ゲネプロで「おや、意外といいぞ」と思い、しかし初日で「でもこんなものか?」と思う、なんとも毀誉褒貶激しい感想になってしまいました。

 戴冠の場からフルスロットルで頼みます! わたくしは戴冠の場大好きなので!! もっと酔いたい!!

 アフタートークで知ったのですが、確かに中盤はボリスの出番全然ないよなあ、と思っておりましたものの、40 分間も出番ないのですか! それは……それはタイトルロールとしてどうなんですかねムソルグスキー先生。ロシアオペラのタイトルロールってなんでいつもそうなんですか。オネーギンさんにももっと出番あげてくれよチャイコフスキー御大。

 しかしですね、後半になってくると声の伸びがよくなります。わたくしは、ボリスに関してはもう " Повремените… я царь ещё! Я царь ещё! (待ってくれ……私はまだツァーリだ! 私はまだツァーリなんだ!)" でオケに負けずに全力で叫んでくれたらそれでよいのです。許します。従って今回は満足。ここほど胸が熱くなるオペラなかなかないですよ。声に出して叫びたいロシア語ランキングトップ 5 入り。

 ところで、最後の " Простите… " の字幕なんですけど、日本語だと「さらばだ……」で、英語だと " Forgive...(許してくれ……)" じゃないですか。確かにどちらでも意味通るんですけど、噛み合ってないのが微妙に気持ち悪いというか、ある意味一粒で二度美味しいというか。皆様は彼の最期の言葉を、主にどちらの意味で解釈しますか。

 

  Я царь ещё! といえば、Царь と Император の訳し分けにいつも迷うのですけれども、日本語だと両方「皇帝」とするしかないのでしょうかね。

また、このオペラでも、よく Государь という語が出て来るのですが、こちらもいつも何とするか迷います。英語だと、Sovereign が一応対応する語なのですが、字幕だとこれに加え、 Tsar, Majesty なども使われていました。日本語だと、殆どが「陛下」。

日本は、階級制度が特殊でしたし、国外の王家や皇家に関する語を訳すの、難しいですよね。


 ボリスの歌詞といえば、" Господи! Ты не хочешь смерти грешника, (神よ! あなたは罪人の死を望まないのか?)" という下りがありますが、わたくしはこの台詞を聴く度に、『ウェルテル』の " Lorsque l'enfant revient d'un voyage, ~" の下りを想起するのです(注: 長いので省略しますが、「父は子が予定よりも早く帰ってきたならば、喜ぶではないか? 父たる神よ、私の早い帰還をあなたは喜んで下さらないのか?」というような旨の歌詞)

個人的に、『ウェルテル』ではこのアリアが一番好きということもあって、好んで聴くのですが、いつも素晴らしい詩だなと思います。

神はどのような人間を天に召し上げたいとお考えになるものでしょうか。仮にどんな極悪人であろうと、喜んで迎え入れる父の度量がある神であろうか。

↑ 初めて観たウェルテルがヴィラゾン氏だったので、結局こればっかり聴いてます。お勧めの録音があれば教えて下さい。

 

 ボリスのモノローグは、 " О, сколь безумны мы, когда народный плеск ~ " の方が好きなのですが(注: 主に政治に関して嘆く歌詞)、" В семье своей я мнил найти отраду. ~" の方(注: 主に家庭について嘆く歌詞)でしたよね。つまり、このモノローグは 69 年度版ではなく 72 年度版ということ。

72 年度版の方が、確かに音楽的な盛り上がりが魅力的でもあるのですが、(終わりも " Клянут на площадях Имя Бориса!(民衆は広場でボリスの名を呪っている!)" でドラマティックですし)、69 年度版の歌詞が好きで、毎度可哀想……と思って泣けるんですよ。

 今回の演出では、フョードルとの関係を軸に置いているので、クセニヤの結婚に関する話が先に来る 72 年度版の方が好まれたのでしょうか。

 『ボリス』は然程詳しくないので、どこが 69 年度版で、どこが 72 年度版だ、と即座に理解することができなくて悔しいです。余りに勉強不足すぎる。精進します。

『白鳥の湖』の一部について解説を書いたときも思いましたけれど、色々と版が分かれている作品は研究も骨が折れそうですね。有識者にどういう折衷になっているのか解説貰いたい。結構複雑そうですね今回。

 

 ボリスには、 " Довольно! (もう沢山だ!)" とか、" Душно! Душно! (苦しい! 息が詰まる!)" とか、叫ぶ箇所が結構あるのですが、間延びしないように、しかし力強さも不可欠という塩梅が、絶対難しいよなあと改めて感じましたね。絶妙なバランス。

 

 歌唱に関して言えば、ピーメンが頭一つ抜けていました。ゲネプロでも好調でしたが、今回は更に進化し、文字通りの絶好調で、他を寄せ付けない圧倒的な声量。

ゲネプロの際、演出上かなり照明が暗くなるので、歌唱は良いのに眠くなって頂けない、ということを書いたのですが、「あんなん眠くなるわけないじゃんね、何を聴いてんの、耳掃除してきた?」という領域。今回の上演、取り敢えずピーメンを聴く会であると考えれば宜しい。ピーメン目当てに劇場へ行こう。

この演出は、ゴデルジ・ジャネリーゼ氏の圧倒的な歌唱力を前提として、「演出がどうこうとか言っていないで、歌を聴け!」ということなのかもしれません。生半可なバスでは、「眠れる劇場の観客」になります。バス殺しのトレリンスキ氏演出。

 アフタートーク曰く、大野氏はジャネリーゼ氏を YouTube で発掘したとのこと。国立劇場クラスでもそんなことが有り得るのか。現代のシンデレラストーリーというか、インターネット・ドリームですね。

大野氏、何聴いて彼に惚れ込んだんだろう。やっぱりグレーミンですかね? そうだといいな。実際、YouTube で「goderdzi janelidze」で検索を掛けると、一番再生回数が多いのはグレーミンだしな。

 

 お弟子のグリゴーリー(偽ディミートリー)は、喉で声が萎んでしまっている印象。折角お腹の底で作った声が、喉でキュッと出口が塞がってしまっていると申しますか。

 ロシア語は、母音が多い言語で、比較的歌いやすい言語なのではないかな、と思います。だからロシアオペラもっと流行ってくれと思うものですけれども。

従って、а や я で終わる箇所も多いんですけれども、そこに х っぽい音が混じるのが、そう感じる原因の一つであろうと思います。ロシア語やロシアオペラを愛好する方で、х の音が嫌いな方はいらっしゃらないとは思いますけれども(たぶん)、そうではないと申しますか。

 普段はあまりロシアオペラとご縁がない方なのかな、と思って調べたら、案の定イタリアオペラなどを主なレパートリーとされる模様。なんとなく、今回のためにロシア語お勉強されたのかな、と感じました。" Как я люблю его смиренный вид,(彼の謙虚な姿がどれほど好きだろう)" のところとか。 ロシア語の лю の音、特徴的ですよね。他の言語では殆どこういう音ないんじゃなかろうか。しかしロシア語では頻出。特にオペラでは、言語問わず、この語を含まぬ作品なんて無いのではなかろうか(たぶん)。愛です。
 どうでもいいんですけど、甲冑姿の時の髪型とお化粧はどうなっているんですかね。離れた席でオペラグラスで観ていると、大変失礼ながら麻原○晃にしか見えないんですけどもわたしだけですか。近くで観たら全然違う感じだったらどうしよう。御免なさい。オペラグラスよく磨いとけってとこですよね、失礼しました。

 

 ついでにグリゴーリー周りに関する演出について。

アフタートークやパンフレットによれば、「感情移入も可能で」「もしかしたら好きになれるかもしれないボリス」に対して、グリゴーリーは「完全なる悪」で、「獣」なんだとか。

そういう解釈もあってよいと思いますけれど、個人的には、ロシア文学の魅力は、加害者の心理に寄り添えること、何故凶行に走り、何を考え、どう悔い改めるのかを追うことができる点にあると思うので、「偽ディミートリーは単に獣の絶対悪なので、深く考えなくて結構です」と断言されてしまうと、その良さを殺してしまっているように思えてならないのです。

 原作のグリゴーリーは、ちょっとアホの子っぽいですよね。「お前ならばディミートリー王子を僭称できるはずだ」という教唆に対し、「ちょっと何を言っているのかわからない」みたいなことを返して理解に時間を要したりだとか、愛するマリーナに「実は俺は王子を僭称してるだけで、本当はただの僧侶なんだ!」と本当のことを言っちゃったりだとか。

原作のグリゴーリーは、「死者の名を騙り」「王位を簒奪する」という、卑劣極まりない不貞を働くわけですけれども、こういったキャラクター性で、そこはかとない愛嬌、憎めなさを演出しているように感じられます。それは、ボリス政権に対して良い考えを持たず、彼を倒すグリゴーリーを幾ばくか英雄視するプーシキンの思想が反映された形ではあると思うのですが、一方で、悪人を完全な悪として描かないロシア文学の潮流を感じるのです。

 

 ボリスに関しては、アフタートークでもトレリンスキ氏が「もしかしたら好きになれるかもしれないキャラクター」と仰っておりましたけれど、事実わたくしはボリスが結構好きです。

思えば、史実のボリスは不憫です。血統が最重要視される世界で、実力を頼りに高みを目指す、大変格好良いじゃないですか。

史実では、王子ディミートリーを殺していないという説の方が有力視されていますし、天災など不測の事態に見舞われましたがそれは彼の咎では無いですし。優秀な政治家であったと言われています。

 ボリスが王子ディミートリー殺しの犯人扱いされるようになったのは、恐らく、民衆の噂であり、政敵のプロパガンダであったのだと思います。それが、時を経て、ロマノフ朝の「歴史修正主義」によって完全に悪者に仕立て上げられ、それを信じたプーシキンが歴史に名を遺す名戯曲を書き、更にそれがムソルグスキーの手で名オペラになると。

 ボリスが本当に手を汚していないのであれば、彼が酷く哀れだと思いませんか。尤も、歪められた形であれ、このような名戯曲・オペラのタイトルロールに抜擢されただけ幸運と捉えるべきなのか。

 ボリスは、原則的に善政を行った、或いは行おうとしたと考えられていますが、一方で農奴制を強化した人物でもあります(聖ユーリーの日の廃止)。従って、この点に於いて、農民に責められることはあろうと思うのです。しかし、そこではなく、王子殺害の容疑で反乱が起こるというところに、政府に政策に関する意見を上奏できないこと、また王家に対する崇拝など、専制下の価値観を感じます。

勿論、農奴制の強化も、農民を苦しめるために行ったわけではなくて、中産階級の救済の為であったとされており、王国の上に立つということ、政治の難しさを感じて、改めて、史実のボリスには同情します。

 「罪なき幼子を手に掛けた」という、戯曲上の設定は、その行為自体許されることではないのですけれども、良心の呵責に悩む姿は、共感を呼ぶとは思うのですよね。大野氏らも仰っておりましたように、特にムソルグスキーのオペラでは、その面が強調されていて、ボリスに感情移入しやすいように構成されていると感じます。

 なんだか長々と語ってしまいました(今更)。詳しくは原作を読みましょう。

↑ ちなみに『オネーギン』は第二巻に収録されています。集めよう。

 

 もう少し演出に関して。

アフタートークやパンフレットによれば、今回の演出は、ボリスの心理を描きたかったということですが、そうするならば、 1869 年版を上演すればよいのではないかと思うのです。69 年度版と 72 年度版の違いの一つとして、「ボリス・ゴドゥノフという一人の男の半生を描く」のか、「ロシア国家やその民衆の盛衰を描くのか」という点が挙げられると考えます。ボリスの心理を描きたいのであれば、69 年度版の方が適していると思います。

 また、「ボリスを中心に据えたい」と仰っているにも拘わらず、主人公は息子のフョードルであるように見えます。舞台芸術に於いて、死ぬシーンは最大の魅せ場の一つになると思うのですが、この演出では、息子フョードルの殺害に重きが置かれすぎていて、「えっ、ボリス死んだ? 今? なんで?」みたいな雰囲気になってしまっていると感じられるのです。

台詞としても、含蓄ある統治の極意を説いているのに、その直後に自ら殺してしまうというのも、筋が通っているようには見受けられない。しかしあそこの歌詞、ほんとうに好きです。

 ボリスは、タイトルロールでありながら、出突っ張りで魅せ場も盛りだくさん! というような構成にはなっていないですし、特に今回の演出では、本当に彼が主人公なのか? という印象を受けます。歌唱的にも、ピーメンに喰われていますし。それでいて、「ボリスの心理が描きたかった」と言われても、なんだかちぐはぐであるように感じるのです。このオペラの主人公は誰?

 

 では仮に、演出家の言を一度捨て置き、民衆が主人公であると考え直してみましょう。

ゲネプロの時から感じていましたが、合唱もオケも、戴冠の場( " Слава! Слава! " など)では迫力不足であるように感じます。新国立合唱団としても、都響としても、その実力はこんなものではないと思うのです。

実際、" Хлеба! Хлеба! Хлеба голодным!(パンを! パンを! 飢えた人々にパンを!)" でとんでもない迫力となるので、ここまでは意図的にセーブしているのではないかと思います。

確かに、これこそが、この悲鳴こそが民衆の真の切実なる気持ちなのであって、ここを一番に強調したい、という意図は伝わります。その解釈はとてもよく理解できます。

……でもそれはそれとして、戴冠の場は爆音で酔わせて欲しい。ガコンガコン鐘打ち鳴らして欲しいし、全力で栄光あれ! して欲しい。折角だし。日本で生音で(しかも都響で)『ボリス』を聴く機会なんてなかなかないのですし。

 

 歌唱の方に話を戻したいと思います(脱線が長すぎる)

ヴァルラームの歌唱は、なんと申しますか、欲が出てしまった感じがありますね、色々な意味で。演出的にも。

ヴァルラームの方が一杯一杯なのに、オケがお構いなしに減速して長い息を要求するので、明確に息切れが見えました。大野氏、結構容赦無いですよねそういうとこ。ヴァルラームがんばれ。

演技も一生懸命で大変宜しいのですが、そちらは少し手を抜いて、歌唱の方にエネルギーを回した方がよいかも。喉壊さないようにしてくださいね。

二重唱は良かったと思います。でもミサイールはどこいった? というか、今回の上演、テノールどこいった? 生きてる? 全部バス・バリトンに喰われているぞ。

 

 リトアニア国境の場に関しては、わたくしはもう散々オペラトークなどで「ポーランドシーンは全カットです」と聞かされていたので、そういうものかと思って受け入れておりましたけれど、やはりロシアオペラ愛好家の間では動揺が走っている模様。あれ、歌詞も変えているのですよね? 具体的にどのような処理が為されているのか、有識者のご意見を伺いたい。自分でやれって話ですね。はい。

 原作では、リトアニア=ポーランドは勿論のこと、フランス人やドイツ人が出てきたり、結構国際色豊かですよね。尤も、その分物語が複雑化するのはその通りなので、本筋だけを捉えたい場合はカットするのもやむなしなのかもしれません(それでも、今回の演出の場合は、前述の通り、結局何を主眼にしたいのかよくわかりませんでしたが……)。

 

 クセニヤは本日も健闘。

クセニヤの " Ах, нет, нет, мамушка! Я и мертвому буду ему верна.(ああ、いや、いやよ、ばあや! 彼が亡くなっても、私は彼に忠実よ)" の下りを聴くと、「あぁ~~ロシアオペラだ~~ロシアオペラを浴びているぞ~~」と思うのはわたくしだけですか。単にソプラノ不足なのかもしれない。そうかも。

 

 ゲネプロからの大きな変更点として、終幕での吊られたゴドゥノフの納体袋からの血糊がカット。

本公演しか観ていない方に密告差し上げたいのですけれども、あれでも血糊の量大分減ったのですよ! あれでも!!

 グリゴーリーが、「あれ? 血出なくね?」みたいな感じで二回も刺していて笑いました。それでも口周りは血糊ベッタリでしたけれど。

 

 カーテンコールでは、特にフョードルの黙役の方のところで指笛など拍手喝采。声出し良くなったんですかね? いつの間に?? Bravi.

 

アフタートーク

 15 分の休憩の後、アフタートークが開催されました。新国初の試みに参加している歓び。

 

 案の定英語通訳でした。国際的にお仕事をするのは大変だなあと小学生並みの感想を抱く英語弱者。

 

 内容はパンフレットやオペラトークと重複する点が主でした。両方手に入れている / 参じた身としては、「またその話するんかい」的な所も。いいですけど。

というか、パンフレット値上げしましたね? いいんですけど……内容充実しているし、いいんですけど……、寧ろ新国は価格が良心的すぎるとさえ思っておりましたけれど……(その他がぼったくりすぎなのだよ)、でも少し悲しかった消費者の顔。

 

 パンフレットを読んだ時から思っていましたが、トレリンスキ氏、「ロシアでの伝統的な演出」に随分当たりが強いですね? スタニスラフスキーとかお嫌いなのかな。

「世間知らず」を連発していて、ちょっとギョッとしました。わたくしはトラディショナルな演出、好きだけれどもなあ。

 

 現代の情勢に絡めたお話では、「カリギュラプーチン、偽ディミートリー」と、ここ三人を同じ枠に纏めていて劇場では苦笑いが。まあ、そうなりますわな。

情勢が演出に与えた影響として、「戦争によって演出の残虐性が増した」とのことで御座います。それでも今日は血糊の量が減りました。もっと減らしてもよいですよ。

 

 さて、今回、客席から質問を投下しても宜しいとのお達しが出ておりましたので、不肖わたくしも参加。

内容としては以下のようなものです。不安定な場所で急いで書いたこともあって、汚く読みづらい字で大変に申し訳ない。

そうしましたら、なんと……。

↑ 「三作目」と書くか「四作目」と書くか大分迷った挙げ句に 3 にしました。深い意味はない。

採用、ありがとうございます!

 

 わたくしの問いに関する返答と致しましては、「何故ロシアオペラを上演する運びとなったか」という点に関してのみ。大野御大曰く、上演権取得の問題であるとのことでした。

 今後も、このような情勢に懲りず、ロシアオペラを積極的に上演していきたいとのことで、歓びを隠せない『オネーギン』オタク。

しかし、ここでわたくしの語「ロシアオペラ」ではなく、明確に「東欧のオペラ」と言い直しておられたので、わたくしの予想では、今後プログラムされる作品はロシアの作曲家のものでは無いのではないか、と考えます。

以後 1, 2 年は既にプログラムが殆ど決まっていることでしょうから、ロシアオペラがラインナップされるかもしれませんが、今後新たに増えるとしたら、『ルサールカ』とか『売られた花嫁』辺りなのではないか、と予想するのですが、どうでしょうね。いずれにせよ、東欧のオペラを上演するのであれば、伺いたいと存じます。

 

 また、その際にはトレリンスキ氏と再び組みたいとのこと。その点に関しては、うーん、左様で御座いますか……。まあ、一作だけを観て評価を下すというのも良くないでしょうから……。

 

 いやしかし、あの大野和士先生がわたくしのこの汚い字を目にし、読み上げたのか……と思うと、動揺と申しますか興奮と申しますか。

普段、「故人しか推さない主義」でオタクをやっておりますもので(存命の方だと、直接ご迷惑をお掛けしないかや、相手方が自分を認知するなど距離が近くなりすぎることが恐ろしいと感じる)、このように「お便りを読まれる」といったような経験もないものですから、初めての感情に戸惑っております。

改めて、採用を感謝します。ロシアオペラ、或いは東欧オペラの上演を心から応援しております。

 

最後に

 通読ありがとうございました! 『ボリス』に関しては浅学ながらも、ロシアオペラに興奮してしまって、思わず1万字超え……。

 

 先日、実はわたくしあまりディズニー映画を観たことがないもので、友人と鑑賞マラソンを開催していました。主に「プリンセス系」で御座います。

わたくしは主に 19 世紀のロシア史に関心があり、よく追いかけておりますもので、『ボリス』とは時代が異なるながらも、専制政治に関してはよく考えを巡らす方であると思います。従って、「ツァーリの苦悩」には理解がある方であると自認しています。

そのせいで、ディズニー映画を観ながら、「何故人々は王子・王女に憧れるのか」「そんなにも王になりたいのか?」などと考えてしまいました。王は辛いぞ。王冠は重たいぞ。

 わたくしの意見では、王や皇帝は「なりたくない職業(地位)ランキング」の最上位クラスなのですが、そう申し上げましたところ、「それは茅野ちゃんが普段ロシアの専制君主ばかり見ているからだよ」と指摘を受けました。

そのようなものなのでしょうか!? 皆様は王や皇帝、権力のトップに憧れますか?

 

 もう一点だけ。

わたくしは普段、『ボリス』はこちらの CD を聴いております。69 年度版と 72 年度版が同時に摂取できてお得です。ロシアの楽曲では安定感抜群のゲルギエフです(今彼は大丈夫なのであろうか、色々と……)

↑ 『ボリス』という演目自体にご関心がお有りなら、強く勧められるものであると思います!

皆様のお勧め盤を是非伺いたいのです。ついでに、 69 年度版と 72 年度版、どちらがお好みか、誰の編曲が好きかなどもお伺いしたいです。ご協力宜しくお願い致します。

 

 それでは、本当に長くなりすぎましたので、今回はここでお開きと致します。

これから観劇に向かわれる方は、是非ともお楽しみ下さいませ。

それではまた別の記事でお目に掛かれれば幸いで御座います、有り難う御座いました。