こんにちは、茅野です。
先日、新国立劇場でピーター・ライト版の『白鳥の湖』を観ました。リアム・スカーレット版に似て、ダークな色彩が美しいこのヴァージョン。やっぱり『白鳥』はスペクタクルとして実に完成度が高い!と改めて感じましたね。流石バレエの代名詞的作品です。
しかし、この演出で改めて、一つ疑問が湧きました。それが、スペイン大使団の扱いです。『白鳥の湖』第三幕のディベルティスマンでは、各国の大使団が自国の躍りを披露します。ライト版では、ジークフリート王子の花嫁候補として、各国の代表団が自国の王女を連れてきた設定です。しかし、スペイン大使団だけは、自国の王女を連れて来ず、現れるのは魔術師ロットバルトと黒鳥オディール。スペイン大使団に、一体全体何が……!?
というわけで、今回は『白鳥の湖』に於けるスペイン大使団を考えます。それでは、お付き合いの程宜しくお願いします!
スペイン大使団は闇に墜ちた?
改めて問題提起をします。前述のように、ライト版ではスペイン大使団がロットバルトとオディールを伴っています。あたかも、オディールがスペインの王女であるかのようです。
ライト版に限らず、『白鳥の湖』では、ロットバルトとオディールの登場→『スペインの躍り』、という順序で踊られることが多く、音楽の繋がり的には非常に素晴らしいものの、物語的にいつも疑問に思っていました。これでは、スペイン大使団が悪役のようではないですか。しかし、特にスペイン大使団が悪役だという設定はありませんよね。では、どうしてこうなってしまっているのか。これがなんとなくいつも引っ掛かっていた疑問でした。今回はそれを解きほぐしてみましょう。
『白鳥の湖』研究に係る問題点
『白鳥の湖』は、チャイコフスキーの三大バレエの一角を形成し、全バレエの代名詞的作品ともなっている偉大な作品。一方で、その研究は全バレエ作品の中でも最高クラスと申し上げても全く過言ではない難易度を誇ります。何故でしょうか?
まず、一次資料の少なさです。『白鳥の湖』は初演が失敗した、と言われているように、初演に関する情報はかなり限定されています。
次に、再演時の改変が著しかったことです。再演時は、主に曲順や振付で抜本的な変更がありました。そして、この再演が大成功を収めたことから、「原典とはなにか」「スタンダードとはなにか」という問題が生じたことが、更にこの問題をややこしくしてしまっているのです。
最後に、膨大なヴァージョン違いと上演回数を誇ることです。リバイバル・大ヒットを起こした『白鳥の湖』は、その後膨大な量のアレンジメント、振付、演出が行われ、更に「原典」の存在を希薄にしてしまっており、その素顔を知ることは大変困難になっています。
ついでに言えば、エッセンス的な要素こそあれ、物語に明確な原作が存在しないことも、解釈の難易度を高めています。
そんな『白鳥の湖』に取りかかろうというので、わたくし自身緊張しているくらいなのですが、筆を進めましょう。
初演版と改訂版の違い
前述のように、『白鳥の湖』は1877年の初演版と、1895年の改訂版(プティパ=イワノフ版)には大きな違いがあります。というわけで、まずは初演版と改訂版のロットバルト・オディール登場シーンの最後を聴き比べてみましょう。
↓ 初演版。
↓ 改訂版。
ご理解頂けたでしょうか。
まず、初演版では、ロットバルト・オディール登場シーンの曲(以後『情景』と記します)の後、全く別の曲が挿入されているのに対し、改訂版では、お馴染み『スペインの躍り』となっています。『情景』の最後が大変に盛り上がるので、改訂版の方が音楽の繋がりがよく、盛り上がりますよね!
次に、もう一度『情景』の最後をよく聴き比べてみてください。かなりわかりづらいですが、最後の6小節が、初演版より改訂版の方が半音高いんです!
楽譜を見較べてみましょう。視認性を向上させるため、最もわかりやすい、最後の4小節の第1ヴァイオリンパートを抜き出してみます。まずは初演版。
ヘ短調で進み、最後の5音は C(ド♮)から半音ずつ順番に上昇してゆきます。
次に、ピアノ譜になってしまって恐縮ですが、改訂版を見てみます。
この2小節前から全体的に半音上がっており、従って最後もCis(ド#)から上がる形になります。
『スペインの躍り』は、嬰ヘ短調(fis-Moll)で、最初の音はFis(ファ#)です。
つまり、改訂版は、この『スペインの躍り』に繋げるべく、『情景』の最後6小節から半音上げているわけです。この変更により、順番に半音ずつ上がって行って、最後は綺麗に『スペインの躍り』の最初の音に繋がっています。
↑ わかりやすく鍵盤で示すと、こうなります。⑥が『スペインの躍り』の最初の音です。
誰がスペインに濡れ衣を着せたのか
初演版では曲順が違うことから、スペイン大使団とロットバルト・オディールは全くの無関係であるということがわかりました。一方、改訂版では、より美しい音楽構成を目指して、オディールの登場と『スペインの躍り』が順に繋がっています。
つまり、チャイコフスキーの想定では、『スペインの躍り』は完全なる余興であり、スペイン大使団は無実だということなのです。では、誰がスペイン大使を悪に染めたのか?
改訂版を作成した、振付家マリウス・プティパとレフ・イヴァーノヴィチ・イワノフ、台本を改訂したチャイコフスキーの弟モデスト、そして特に、音楽を再編集したリッカルド・ドリゴによるところが大きいでしょう。
わたくし個人としては、第三幕に関して、改訂版の曲順の方がずっと好きです。物語的にも、スペイン大使団がロットバルト・オディールと共に、不敵な笑みを浮かべて舞台中央に進んでくる様はとてもカッコいいと思います。しかし、それがチャイコフスキーの想定では全く違うものであった、ということは考慮されてよいと思います。
スペインと悪役
『白鳥の湖』に於けるスペイン大使団の衣装は、原則的にフラメンコ風の衣装に仕立て、黒、白、赤を基調とするものが多いです。「白」「黒」の対比がハッキリとしている作品『白鳥の湖』に於いて、この二色を基としていることは特筆に値します。
↑ 色々な劇場の『スペインの躍り』。
特にバレエ作品では、多くの人が「ポーランドと悪役」とか、「ハンガリーと悪役」と言うよりも、「スペインと悪役」という組み合わせにしっくりきてしまうのではないでしょうか。その殊更エキゾチックな雰囲気は、何だか悪役との相性も良いように感じます。
それもそのはず、特に改訂版を振り付けたマリウス・プティパが携わった作品に於いて、スペインが無条件に悪役である作品は多いのです。
例えば、『パキータ』では、スペインの領主やジプシーが悪役となり、フランス人である主人公のパキータとリュシアンに襲い掛かります。
↑ ヴァイオリンのソロが美しい『パキータ』第9ヴァリエーション。
最も顕著なのが『ライモンダ』です。十字軍の物語であることからも明白ですが、サラセン≒スペインの騎士アブデラフマンは、これまたフランスの騎士ジャンに討たれてしまいます。
↑ 『ライモンダ』第二幕の『スペインの踊り』。
特に『ライモンダ』は、『白鳥の湖』の改訂版が上演された3年後の1898年に初演が上演されるなど、制作時期的にも近い為、プティパ自身この繋がりを意識していた可能性があります。
古典バレエ作品では、西欧キリスト教世界=善、東洋の異教的世界=悪、という二項対立で描かれるものが多く、イスラーム化の歴史を持つスペインは、悪役として描かれることが非常に多い存在でした。改訂版以降の『白鳥の湖』では、それを踏襲している可能性が高いのです。
尚、実際のスペイン王国は、古典バレエが振り付けられた19世紀頃、キリスト教国でした。19世紀に断続的に適用されていたスペインのカディス憲法では、第12条でカトリックのみが国教であると定めています。
↑ 全然資料がなく、しょうがないので384条自分で訳しました。
スペインからしたら、毎度悪役に据えられて、いい迷惑だったかもしれません。
また、スペインの敵としてフランスが多いのも、19世紀にはスペインは何度もフランスに侵攻されていることがモデルとなっている可能性があります。
物語との整合性
最後に、物語との整合性について述べたいと思います。前述の通り、『白鳥の湖』には夥しい程のヴァージョン違いがあり、『情景』から『スペインの踊り』に繋がらないものも多くあります。また、最初に『情景』、『スペインの踊り』、『ナポリ』『ハンガリー』……と、『情景』→『スペイン』は崩さずとも、最初に持ってくるパターンもあります。もう何でもアリです。
これらの事柄を、ストーリーの側面から考えてみましょう。『白鳥の湖』には、「原作」という存在がないため、スペイン大使団の扱いはあやふやです。考えられる可能性を列挙してみましょう。
1. ロットバルトたちとは無関係の、本物のスペイン大使団による躍り。
2. これはあくまで『スペインの躍り』という余興であり、スペイン本国とは無関係の、舞台となるドイツ国内のダンサーたちによる躍り。
3. ロットバルトの手下たちで、その突然の登場をカモフラージュするために余興を踊った。
4. 元々は本物のスペイン大使団であったが、ロットバルトに魔法を掛けられ洗脳されて、闇に墜ちた。
皆様はどの解釈がお好みでしょうか? 是非とも教えてくださいね。
最後に
通読お疲れ様でございました! 4500字です。
わたくしは国際政治の研究会に属しているのですが、そこでは一国の代表に扮し、各国の立場から問題を検討します。そのこともあって、わたくしは『白鳥の湖』や『くるみ割り人形』の地域性の高いディベルティスマンには何だか親近感を覚えてしまい(?)、とっても好きなんです。演出毎に、「今回は○○大使団が優秀だなあ」と、研究会にいるときと同じことを考えてしまったりします。個人的に、この間の新国立劇場はナポリ大使団が国益を達成している(最優秀である)のではないかなと思って観ていました。
新国で『白鳥の湖』を観てから、妙にスペインのことが気になってしまい、前述のカディス憲法の全訳を書いたりだとか、いつも通り『オネーギン』の記事を書いたりだとか、色々遠回りをしてしまいました。
↑ 『オネーギン』にもスペイン大使が登場しているって、知ってました? 興味深い論文を発掘してしまい、想定よりも充実した記事を書くことができました。
しかし、一応こちらもなんとか脱稿できてよかったです!
この間、初めてバレエの考察を書き、バレエの考察書くのも楽しいなあと深い沼に沈みつつあります……。また近々何か書けたらいいなと思っています! ネタが枯渇している場合もあるので、何かお役に立てそうなことが御座いましたら、お気軽にお寄せくださいませ。共に考えます。
それでは、お開きとさせて頂きます。また別の記事でもお目にかかれれば幸いです。