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幸福論を考える - 哲学雑記

 こんばんは、茅野です。

レポートを書く合間に息抜きで一筆やろうとおもいます。執筆の息抜きが執筆とはこれ如何に。

 

 今回取り上げるのは「幸福論」です。わたしは別段しっかり幸福論を勉強したわけではなく、哲学の徒でもありませんが、下記に挙げた作品などを読んだりするうちに、「己の哲学」とも言うべきものを練り出したので、文章化してみようかとおもいます。

 

 「わたしの幸福論」をお話すると、「斬新」と評されることが多いのですが、我々が無知なだけで、どうせ既に過去のお偉いさんが編み出しているのではないかとおもいます。わたしはよく哲学カフェに行って議論をしますが、わたしが何か言う度に「それはもうライプニッツが言った」「それももうハイデガーが言ってる」と言われて、偉人と同意見で嬉しいような、新規性が生み出せなくて悔しいような思いをしています。しかしながら、これは一応自分の頭で考えたものですので、その分、平易な表現でご説明できるのではないかと考えています。

 

 暗い時代になったもので、最近よく幸福論をお話しする機会があります。意外と「救われた」などという感想も出て、こちらの方が驚いています。わたしの幸福論は需要があるらしい。そこで、これを記事にする予定はなかったのですが、ネットにも放出してみようと思い立った次第です。

 

 それでは、お付き合い宜しくお願いします。

 

 

前書き

 なんとなく、「哲学」というと高尚な学問で、門外漢にはご縁がないものだとおもっていました。

 Tété (テテ)というフレンチポップスの歌手の楽曲で『Fils de Cham(シャムの息子達)』という歌があります。黒人差別についての歌だと解されていますが、歌詞がとても素敵です。以下はサビの歌詞ですが、訳もくっつけておきます。

Vienne la pluie, l'ami
Tombe la grêle
Je plie mais jamais ne m'oublie
友よ、雨が来る
雹が降り注ぐ
ぼくは膝を折るが、決して忘れない

Le voici, le voilà
Mon avis
La voilà ma philosophie
ここに、正にこの時に
ぼくの意見
ぼくの哲学が生まれるのさ

雨と雹降る悲惨な時代に、己の意見、哲学が生まれる。格好良くないですか??? 大好きなんですよね……。

 これを聞いたとき、「ああ、己の哲学というものは作れるものなんだ」と気が付いたのですよね。皆様も、尻込みせず、己の意見、哲学を錬成してみてください。

Fils de Cham

Fils de Cham

  • Jive Epic
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 ↑ めっちゃ良い歌なので是非とも。アルバム全体もいいぞ。

 

0. 問題提起

  幸福について考えるような人は、大抵そのとき幸福ではありません。では、逆に、幸福でない状況とは何なのか、から考えてみましょう。

 そうですね、多い回答としては、「思った通りにことが運ばない」「貧しい」「失恋した」「外見が醜い」「頭がよくない」「人間関係の構築が苦手」「恥ずかしい失敗をした」……などなどではないでしょうか。これらに共通するのは、自分の理想よりも、現実の自分が劣った立場にある、ということです。

 

 一方、では、考えてみてください。全てが満たされた世界を。あなたは容姿端麗、頭脳明晰で、才能に満ちあふれ、美しい恋人を愛し愛され、余るほどの金銀財宝に囲まれ、誰もがあなたを愛し、失敗など起こりえない、完璧なあなた。そんな世界をあなたは望みますか?

 果たして、「渇望する!」と仰るかもしれません。しかし、わたしの考えでは、このような人は不幸です。

ロシア文学に「余計者小説」と呼ばれる分野があります。中でも、『現代の英雄』では、後者の状態、「完璧」にかなり近しい主人公が登場しますが、彼は概して不幸です。

わたしが趣味で研究している皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下は、まさに後者のような人物で、同時代人に「完成の極致」と渾名された化け物級の完璧超人ですが、彼は告解で「己の主要な罪は、できるだけ早く死ねるように願ったこと、つまり希死念慮にある」と述べています。

 

 このように、一見傍から見たら「満たされている」ように見える人が、「幸福ではない」という現象には興味をそそられます。

 

 通常の幸福論は、「どん底から」始まることが多いです。言うなれば、「どん底から這い上がる為の幸福論」です。一方、わたしの考える幸福論は、正反対、「満たされきってしまった人が幸福になるにはどうしたらよいのか」が出発点です。ここに新規性があるのではないかとおもいます。

 

 全ての望みが叶い、その状態が継続したら幸福なのか。断じて否です。人生には未知の、想定外の出来事、更に上を目指す探究心が必要不可欠。従って、わたしの考える幸福論を、雑に図にすると、以下のようになります。

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順を追って説明していきます。

 

1. ヴェーヌスベルクの不幸

 ひとは楽園を目指します。全てが調和した、満たされた世界。しかし、前述のように、わたしはその世界は決して幸福ではないと述べました。このことを主題とした有名な作品があります。『タンホイザー』です。

  リヒャルト・ワーグナーの楽劇で有名な『タンホイザー』ですが、元ネタはドイツの民間伝説です。グリム兄弟が蒐集した『グリム ドイツ伝説集』に収録されています。楽劇では歌合戦など別の要素も取り込まれていますが、元の伝説はもっと単線的な筋です。要約すると、以下のようになります。

騎士タンホイザーは、それと知らずに美しき妖女(美の女神)ヴェーヌスとその配下の美女たちの住む山(楽園)に入り、歓楽の時を過ごした。

しかし彼は快楽しかない生活に飽き、良心に目覚め、人間の世界に戻ることにした。悔恨の念を抱いたタンホイザーは、ローマの教皇の元へ訪れるが、「わたしが持つ杖の、枯れた木の枝が青い芽を吹くならば、お前の罪も許されよう」と申告される。

その永劫の罰に絶望し、彼はヴェーヌスの腕の中へ、ヴェーヌスベルクへと戻ってしまう。

タンホイザーがローマを発った後、杖は青い芽を吹き、タンホイザーの罪は許されるが、既に時遅かった。

 この伝説の凄いところは、そう、人間(タンホイザー)は、楽園に嫌気が差すということです。一般的に考えられている幸福、即ち、「愛の成就」や「美食」「愛欲」といったような要素は完璧に満たされている環境。にも関わらず、人間は、それを拒絶する! それがタンホイザー伝説の特筆すべき点です。

 これは、前節で申し上げた、「満たされた状態が幸福であるとは限らない」ということをよく示しているとおもいます。

 「天国」とは、宗教宗派にもよりますが、一般的に善行を積んだ死者が訪れるものとされています。わたし個人としては、死後の世界などは信仰していないのですが、それはともかくとして、重要なことは、「少なくとも、生身の人間が "天国" を訪れたところで幸福にはなれないのだ」ということなのです。人間が、人間という精神構造を持つ以上、幸福を実現する場所は、ここ、現世なのです。決して天国とか地獄といった、死後の世界などではありません。幸福になるためには、この現世で戦わなければなりません。何故なら、人間の精神というのは、あなたが如何に不幸を嘆こうとも、ほんとうはこの現世に最も適合する形にできているからです。この現世を生きろ。

 

2. モリエール型ドン・フアンの「攻略」

  「満たされても幸福にはなれない」ということを概説してきました。では、どうしたら幸福になれるのか。

 みなさま、ゲームは好きですか? 何でも良いです。カードゲームでも、RPGでも、恋愛シミュレーションゲームでも良いです。では、ゲームをするとき、どの瞬間が楽しいですか?

「相手を倒した瞬間」とか「目的を達成した瞬間」みたいな回答が多いのではないかと思います。要は「達成感」ですね。わたしも苦戦した相手を倒せれば最高にスカッとします。

しかし、その相手を倒した後、どうしますか? 攻略し終わったゲーム。その後、何をしますか? どうおもいますか?……

 わたくしが申し上げたいのは、こういうことなのです。「目標があって、それに向かって努力をして、それが達成されるからこそ楽しい」。「攻略中こそが楽しいのであり、攻略し終わった後のゲームに用はない」。尤も、わたくしは考察書きであってゲーム攻略後が本番ですし、縛りプレイをするんだ! みたいな方もいらっしゃるとは思いますが、話の趣旨はご理解頂けますね?

 さて、このようなことは過去の偉大なる作品にも記されています。それが、モリエールの『ドン・ジュアン』です。実はこちらの作品、当方昨年度ゼミで精読をした関係で、思い入れがあります。

 

 スペインに伝わる有名なドン・フアン伝説は、様々なヴァリアントがありますが、簡単に言えば数多の女性を追い求める女たらしの騎士の物語です。フランスの有名な喜劇作家モリエールの作もそれに則っているのですが、画期的な点があります。それは、ドン・ジュアンが女性を求める理由です。

 

 原則的に、ドン・フアン伝説では、彼が女性を求める理由は性欲からくるものでした。とんでもない絶倫です。

一方、モリエールドン・ジュアンは違います。彼は女性を口説いて相手の心を我が物にする、正にその過程、「攻略」に重きを置いているのです。ですから、彼のアプローチに応え、愛を返してくれた女性には全く興味が無いのです。一瞬の達成感はあるでしょう。しかし、それが冷めたあとの相手の女性のことは捨ててしまいます。

 酷い男だ! とお思いになるかもしれません。仰る通り、ドン・ジュアンは物語では地獄へ落とされます。しかし、それでいて、どこか共感できるところもあるのではないでしょうか? 特にゲームを好む方は。

 

 ここからも、「満たされた状態」が幸福である、ということのアンチテーゼが見て取れます。『ドン・ジュアン』が教えてくれるのは、「目標に向かってアプローチをするその過程自体に幸福を見出すべし」という教訓なのです。

 

3. 退屈⇔苦痛

 前節にて、『ドン・ジュアン』から「目標に向かってアプローチすることこそが幸福だ」と学びました。

しかし、現代っ子は特に、「努力をするのは面倒!」なんて言いがち。そこで、ショーペンハウアー御大の考えを引いてみましょう。

ショーペンハウアーといえば、『自殺について』などでお馴染みの悲観主義者として知られています。だからこそ、幸福に対する哲学も勿論存在します。『幸福について』第二章では、退屈と苦痛が対になるという考えを示しています。

 

 わたしは最初に、雑な図を用意しました。そこでは、「充足」と「欠乏」を対の概念として配置しました。ショーペンハウアー御大は、ここに当て嵌まる語は「充足」=「退屈」「欠乏」=「苦痛」であるといいます。わたしはその考えに同意します。

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(再掲)。

 タンホイザーはどうしてヴェーヌスベルクを脱出したのでしたか。満たされた状態に飽いてしまったからです。充足は退屈を呼び込みます。だから充足を得ることが難しい人間界に、敢えて戻ったのです。

 

 欠乏の状態は苦痛です。だからこそ、幸福論では、その対である充足こそが幸福である、という誤った考えが蔓延ってしまうのです。ええ、確かに欠乏の状態は苦痛です。それは衣食住の欠乏という身体的なものから、愛の欠乏といった精神的なものに至るまで、欠乏は苦痛に繋がります

 

 だからこそ、上記の図になるわけです。「充足」「退屈」も、「欠乏」「苦痛」も恐ろしい存在です。だからこその中道です。そしてその中道と申しますのは、グラフの真ん中を走る直線ではなく、揺らぎのある波線であるべきです。

 

 ドン・ジュアンは、一人の女性を「攻略」したら、すぐに別の女性へとターゲットを変えます。これを恋愛で行うという倫理の問題はさておき、彼はわたしの考える幸福論という観点で言えば、実にこれをよく理解し、巧みに行っていると言えます。「充足」「退屈」したら、すぐに自らを「欠乏」「苦痛」の状態に落としているのです。

ここに大きな波線が生まれます。彼は常に向上心があり、目的達成のための努力を行う精神力に恵まれています。彼は地獄へ落とされますが、改心することはありません。何故なら、わたしの考えでは、彼は現世にあって、幸福であったからです。

 

 これでは、ハイパー女/男たらしになれ、と教唆している、と誤解されそうなので、対象を変えましょう。確かに、恋愛というものは、自尊心を満たすにはうってつけの遊戯です。が、ここでは例えば勉学で考えてみましょう。

喩えるなら、英検3級合格のための努力(「充足」へ右肩上がりの曲線)→合格(「充足」)→英検準2級の準備(「欠乏」へ)→合格(「充足」へ)……、といったように、目標を作り、努力をし、達成したら新たな目標を立て……、と繰り返していく、このことが「理想的な人生」を形作る波線であると考えます

「勉学なんか大っ嫌いだ~!」という方は、別に勉学でなくとも、ゲームの攻略でもなんでもいいです。とにかく、「努力→達成感」というプロセスを繰り返していないと、「退屈」か「苦痛」のパラメータを振り切って、不幸を感じる場面が増えるのではないかとおもいます。

 

 「努力をするのは面倒」というそこのあなた。努力をすればするほど、その達成感は高まります。そして、あなたがグラフのどの位置に座しているのかは存じ上げませんが、行動しなければ、あなたはその「退屈」或いは「苦痛」の立ち位置から、長い横線を引くこととなるのです。

 

4. 民衆のなかへ

 人生を幸福に過ごすための道筋が見えてきました。 とにかく前進です。

 わたしの考えでは、「欠乏」の状態にあることは、完全なる不幸とはおもいません。「欠乏」の状態は確かに「苦痛」ですが、考えようによっては、寧ろ、そこには絶大な伸び代、躍進のチャンスがあるからです。このようにポジティヴに捉えられれば、人生を好転させる機会にも恵まれるのではないでしょうか。

 

 しかしながら、この世の中には化け物もいて、どんなことでも直ちに習得してしまい、何をしても一瞬で「充足」「退屈」の領域へ迷い込んでしまう天才もいます(わたしの趣味の研究対象などです)。もしかしたらこれを読んでいらっしゃるあなたもそうかもしれません。

そういう天才は、意外と、「退屈」に身を窶して、自暴自棄になったり、発狂したり、自殺したり……なんてケースも多かったりします。才能の充足は、必ずしも幸福には繋がらず、酷い場合には不幸に直結するのです。彼らは精神的に限りなく不幸であると言えます。では、彼らが幸福になるためには?

 

 わたしの考えでは、その答えこそが「民衆の中へ」入ることです。この語は、勿論、世界史(ロシア史)からの借用で、「Хождение в народ」が元ネタです。「ヴ・ナロード」と習った人が多いかもしれません。

 

 自分自身を成長させることに異様に長けた人は、でしたら今度は、周りを、民衆を、世界を動かそうとしてみては如何でしょうか。こちらは結構骨が折れる仕事だとおもいます。やり甲斐あるとおもいますよ。今度は、自分単位ではなく、大規模に、例のグラフを描いていくのです。悲しいかな、愛すべき現世には問題が山積み。きっとあなたを「退屈」させてはくれないでしょう。

 

 わたしは政治、特に中東の政治に強い関心がありますが、何も「政治家になれ!」と申し上げているのではありません。いや、選挙権があるのならば確実に選挙に行くくらいはして頂きたいのですが……。

自分の生を自分の思いのままにできたとしても、民衆は手強い存在。是非とも、自分の要求が通用するかどうか、試してみて下さい。単純に、人と対話するだけでも刺激がありますし、あなたを「退屈」から引き戻し、向上の余地ある世界に連れて行って貰えるとおもいます。尤も、ヒットラーのような煽動家になられても困るのですが……。

 天才であるあなたは、その民衆に失望するかもしれません。だからなんだと言うのですか? あなたが求めているのは、あなた自身が自覚的でなくとも、ほんとうはその失望、つまりは「欠乏」「苦痛」だからです。それは、きっと民衆が与えてくれます。

 

 「流石にそれはちょっとスケールがデカすぎるよ」「もっと具体的に!」と突っ込まれそうなので、わたしのオススメの方法をご紹介します。簡単です。「他人とコミュニケーションを積極的に取ること」です。適度なストレス、刺激になります。

 このコロナ禍に置いては、新しい出逢いをすることは困難で、そうなると、常に会話をするのは、ある程度自分のことを愛してくれている人ばかりになるとおもいます。それは実に満ち足りたことです。しかし、その状態を快しとせず、「充足」と「退屈」を感じるならば、敢えて、反抗的な人間を傍に置いてみると、結構刺激的です。他人、全然ままならんな、と思います。

 尤も、「欠乏」と「苦痛」のどん底にある方には全くお勧めしません。まずは精神の安定を、「充足」に向けて信頼できる人を頼り、我が身を助けてください。これは、あくまで「充足」の境界を突き破った人が「欠乏」の状態を知るための方法です。

 

5. 6 Human Needs

 最後に、「6 Human Needs」という考え方をご紹介します。友人に教えて頂いたのですが、これはなかなか面白いです。「人間が幸福に生きるためには、6つの要素が必要」といった考えで、この6つの要素とは「Certainty(確実性、安定感)」「Uncertainty/Variety(不確実性、多様性)」「Significance(他人からの認識)」「Growth(成長)」「Love/Connection(愛、繋がり)」「Contribution(貢献)」です。

英語ですが、下記のサイトではテストもできます。

ちなみにわたくしがテストをしてみた結果はこんなかんじ。

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「Significance」と「Growth」がカンストしております。きっと「Love」と「Contribution」が高い人が「いい人」だって言われるんだろうなぁ……と穿った見方をしている悪役なのでした。

 このテストを受けてみて、わたしと近い結果が出た方は、きっとわたしの幸福論にもおもうところがあるのではないか、とおもいます。

 

最後に

 わたしの幸福論の特徴は、「満たされた人」から考えることを始めたこと、そして「苦痛」は幸福の為の伸び代、と考える点にあります。 わたしはこの考えを持って生きていて、場合によっては「クレイジーポジティヴ」だとか「マゾヒスト」と呼ばれますが、それでも人生が楽しいならそれに越したことはないのです。

 

 「6 Human Needs」に於いて、「Uncertainty」が高い人はリスクを気にしない傾向が高いようです。しかし、わたしは「Uncertainty」が高い一方で、リスクを負うことは嫌います。一方、何かを始めるには、多少のリスクはつきもの。だからわたしは考えました。要は全ては認識です。ですから、「リスクをリスクだと認識しなければいい」。

仮に一般的に見て失敗と思えるようなことをしでかしても、失敗だと思わなければいいわけです。「何がどう転んでもわたしの勝ち!」と確信するそう思えるような状況を創り上げる。逆に、これが一番簡単な「必勝法」だとわたしは気付きました。認識は変えられます。

 

 通読ありがとうございました。8000字強。ここまでお付き合い下さるなんて、あなたにはなんて忍耐力と読解力があるのでしょうか。是非「Growth」の道を歩んで下さいませ。

わたしの幸福論は、前述のように、既存の作品から影響を受けつつも、自分で考えたものです。穴だらけでしょうし、同意できない点等あるかもしれませんが、この考えが何かの役に立ったらば、筆者冥利に尽きます。

 それでは、長くなりましたのでお開きとさせて頂きます。また別記事でお目にかかれれば幸いです。