世界観警察

架空の世界を護るために

映画『肉体の悪魔』(1947) - レビュー

 こんばんは、茅野です。

レビューを書くのには苦手意識があると日々申しておりますのに、いつの間にやらブログの記事カテゴリーの最上位に位置しております。どうしてこうなった。

今年の春頃から、拝見した舞台芸術については、短くても一筆やろうと心懸けておりましたゆえ……。楽しい劇場通いライフ!

 

 そんなわけで、この度は「ジェラール・フィリップ生誕100年映画祭」に赴き、『肉体の悪魔』を鑑賞して参りました。

↑ 一月半ばまでの上映です。映画三昧!

 

 正直に申せば、わたくしはオペラやバレエなどは愛好しているものの、あまり映像作品には関心が無く、映画も殆ど観たことがないと言ってもよい程でした。しかし文学は好きなので、特に愛好する「長い 19 世紀( 18 世紀末のフランス革命~ 20 世紀初頭の第一次世界大戦までを指す)」の小説の忠実な映像化であれば、寧ろ垂涎する程の大好物なのです。

 今回の映画祭では、こちらのレイモン・ラディゲを始め、スタンダール作品が二作あり、オタクは狂喜乱舞するほかありません。やったあ! 嬉しい! 通うぞ!!

 

 手始めとなった『肉体の悪魔』は、今回の映画祭、即ちジェラール・フィリップ氏のキャリアの中でも最初期の作品です。そうとは知らず、単純に上映時間の関係でこちらから拝見することに決めたのですが、結果的に素晴らしいスタートになったと言えます。運が味方している……。

 

 このような次第で、今回は、映画版『肉体の悪魔』の雑感を記して参りたいと思います。映画祭には通おうと思っているので、近々別作品も拝見した後、一筆認めたく思います。

 

 それでは、お付き合いの程よろしくお願い致します!

↑ 流石に顔が良すぎる。広報でも用いられている少々官能的なシーン。マルトの薬指には指輪が嵌まっているのに、「僕」には無いのがミソですよね。

 

 

キャスト

フランソワ:ジェラール・フィリップ
マルト:ミシュリーヌ・プレール
マルトの母:ドニーズ・グレイ
フランソワの父:ジャン・ドビュクール
監督:クロード・オータン=ララ

 

雑感

 1947 年の映画ってどんなもんだろう、と思っておりましたが、確かに画面は白黒ですけれども、音声もあるし全然気にならないですね。

ディズニー映画の『白雪姫』が 1937 年とのことなので、それよりも十年後、と思えば、確かに然もありなんといったところ。

 

 原作は既読ですが、結構前に読んだのでうろ覚えな部分も。観終わったあと、ラディゲが恋しくなり、急いで読み直しました。 

↑ 何度読んでも良い。短いので、半日でサクッと読了。

 

 映画の大筋は原作通りですが、細かな違いは結構あります。

そもそも名前の登場しない主人公に「フランソワ」という名を与えていること、マルトの職(原作では専業主婦、映画では看護婦見習い)、その他色々なエピソードが削られています。

ちなみに、あの有名な「長い夏休み」の一節も出てきません。原作ファンの方には多少しょんぼりポイントかも。

 削られているエピソードは、主に主人公があまり倫理的でないことをするシーンが多いです(そもそも、「倫理的ではない」と書いて「不倫」なのですが、それはさておき)。

そのせいもあって、映画版主人公=フランソワは、原作よりも無邪気な印象を受けます。

 

 フランスと一次大戦が産み落とした余りにも早熟な散文の天才、レイモン・ラディゲの作品の特徴は、地の文にあります。それを引き立たせるべくと言っても過言では無いほど、ストーリーの方はシンプルで、「よくあるような物語」。

従って、映画という媒体で、あの特徴的な文章に巡り会えないと、何だかとても王道的な印象を受けるのです。

 観た感想としても、「フランス恋愛映画ド直球!」「正にお手本のような」という感じで、筋は同じであるにも関わらず、原作がラディゲである、というような気はあまりしませんでした。一粒で二度美味しい、ということかもしれません。

 どうでもよい私事ですが、所属していた国際政治の研究会では、何故かラディゲが大人気。「ここ、ラディゲ同好会だっけ?」というような、圧倒的な人気ぶりを発揮していました。勿論わたくしも好きです。ちなみに、『ドルジェル伯』よりも、こちらの『肉体の悪魔』の方が人気でした。

彼は、早熟な中学生や、基本的には高校生~大学生くらいの若者に深く突き刺さる物語を書く天才です。無論、大人になってからも楽しめます。

 

 さて、そろそろ映画の方にお話を移しましょう。

前述のように、「THE・フランスの恋愛映画の王道」という印象を受ける作品で、正に基礎中の基礎、オールタイム・ベストと言ったところ。対象を選ばず、「取り敢えず観て」と言える名作であると言えます(年端のゆかぬお子さんにはほんの少し刺激的かもしれません。PG12 指定がかかっているので)。

不倫をテーマにしていることもあり、終始程よい緊張感があり、飽きやダレるシーンがありません。

ストーリーに難解なところはありませんし、原作未読でも全く無問題。短いし、ほんとうに傑作なので、個人的には強くお勧めしますが……。

頭をフル稼働させる必要もなく、映画館のゆったりとした椅子に深く埋もれながら、物語をゆっくりと追い、主人公たちの美しい容姿に酔っているだけで多幸感に包まれることでしょう。

 

 いや、何って、いいんですよ。顔が(直球)。

こちらのジェラール・フィリップ映画祭の触れ込みは、「映画史上最も美しい俳優」。

わたくしは捻くれた面倒臭い人間なので、「いや、美醜は社会的な価値観や個人の好みに大きく左右されるものだし、そもそも俳優というのは演技力が要であって、容姿だけで売り込むというのは云々」とか余計なことを考えておりましたが、わたくしのような人間こそ、映画館に行って、そのような思想を消し飛ばされるとよいのですよ。「はぁ…………(語彙力消失)」ってなりますので。宜しくお願いします(?)。

↑ え、高くないですか? 殺意。

 顔だけじゃなくて、身体付きもすらっとしていて美しいんですけれどもね。

フランソワの方は、作中半裸になるシーンがあり、役柄の設定が高校生ということも手伝って、なんだかいけないものを見ているような気分にさえなりましたが。腕には筋肉があるけれど(所謂細マッチョというやつですかね)、肋が浮いているのでもう少し肉を付けてもよいと思うものの、まだ成長途中の細身の高校生ってこんな感じだよなあ……寧ろ役作りかもなあ……などと悶々と考えつつ。

 マルトの方は、看護婦の制服というフェティシズム全開のお洋服を召すシーンがあるのですが、いやなんですかそのウェストは。待って下さい、あなたがシシィ皇后ですか?(※絶世の美女で知られたオーストリア皇后。ウェスト 50 cm 前後という驚異のスタイルだったことで有名)。お洋服もどれも可愛いです。最初のセーラー服みたいなものも、ドレスも、部屋着も好き。

 なんというか、無性に美男美女がただ戯れているのを観て溜息を吐きたい瞬間ってあるじゃないですか、あると思うんですけど(前提)、そういう欲求を完璧に満たしてくれると思います。

白黒なのが、逆に美を引き立てているとおもうのですが、如何でしょうか。

 

 昨今は、マイノリティ差別撤廃とか、ルッキズム撤廃とか、映画制作に於いて色々な制約が課されています。

それ自体が悪だと言うつもりは毛頭ないし、一方でそれがないから昔の映画はダメだ等と言うつもりも一切ありません。

 わたくしが懸念するのは、このようなムーヴメントが、誤った方向に向きがちであることです。

世の中には、当然、マジョリティに属す人がいて、美人さんだって実在しているわけで、多様性を重視するあまり、ただ前者の人々を排斥することだけが良しとされる方向に逸れてしまうことが恐ろしいのです。

 フランスの恋愛小説は、一目惚れの伝統があります。目と目が逢う瞬間好きだと気付いた。フランスの恋愛小説を読んでいると、物語を動かす原動力としての容姿の美を強く意識する瞬間が度々あります。個人的には、大学でそのことについて論じたことさえあります(※わたくしはフランス文学専攻だった為)

 「だから、これはこれでよいのだ……」と、誰から非難されたわけでもないのに、変に擁護したくなるような気分になりました。複雑な心境。

 

 わたくしは、容姿が優れて美しい方はある意味で損をしている側面があると感じ、時折同情することがあります。

容姿は、その人固有のものですし、最もわかりやすいアイコンですから、やはり印象が残りやすいと思うのです。

その人が、他にどんなに優れた才能があったとしても、「凄い美女、しかも絵が上手い」とか、「凄い美男子、その上頭が良い」といったように、他のことが全て「容姿が美しいことの付属品」として受け止められるようなことが多いように感じるのです。

或いは、例えば、「彼はハンサムだから人気があるのであって、決して才能があるからではない」という逆張り的な評価をされたりだとか(最近は減ってきたと思いますが、オペラ界だと結構そういうの見ます)、それが好意的に評価されるであっても、否定的な評価をされるであっても、いずれにせよ容姿以外での真剣勝負が難しくなる場合が度々あるのではないかと。

その人が別の面を見て欲しくても、容姿しか見て貰えない、人間性に深入りして貰えない、という悩みを抱える機会が多いのではないかな、と思うのです。

ラディゲの原作でも、「金髪の女ばかりを追いかける男というのは、~」という一節があり、わたくしの主張に合致するものであると思います。

 

 いやしかし、世の中には容姿も才能も兼ね備えた美しき才人というのはいるものです。

あの心理描写が売りのラディゲ作品の主演ですよ。ティーンエイジャーの脆くも大胆で矛盾に満ちた内面の機微を、身体だけで表現しなければならぬというのは、並大抵のことではありません。

 前述のように、地の文がないことや、描写のカットがあることもあって、主人公は原作よりは幼く見えます。もう、見るからに高校生です。

第一声が多少上擦っていて意外と声が高めなこととか、走り方が一生懸命なところとか、ボートで寝落ちするシーンとか、容姿が美麗系なのに反し、お茶目で初々しい高校生感がダイレクトに来ます。注意して下さい。

それでも、ふとした瞬間に伏せられる目に思慮深い知性を感じ、フランスの演劇学校で学び育ちながら、このような自然な演技をも若くして体得するとは……と、素直に感心してしまいました(※何もフランスの演劇学校を見下しているのではなくて、フランス演劇のメソッドでは、他地域に比べ、伝統的にわざとらしい演技も良しとされる側面があるため)

 勿論、我々は夭折してしまった原作者ラディゲ本人を知りませんが、もしかしたら彼も、紙上にはその心の内をこんなにも残酷に、冷徹に、それでも情熱的に綴っていたけれど、身体の上ではあどけなさを残していたのかもしれないな……と、思いを馳せました。

 

 原作の主人公は、15, 6 歳(作中で誕生日を迎える)なのですが、映画では 17 歳ということになっています。流石に 16 歳からの情事描写は敬遠されたのか。

この役を演じたとき、ジェラール・フィリップ氏は 24 歳。えっ同い年? 怖……原作基準で考えるなら、役柄と 10 歳近く離れているわけですが、全くそんな感じはしません。若々しさ全開です。もう高校生にしか見えない。恐ろしいです。

 

 「ジェラール・フィリップ映画祭」なので、主演のことばかり綴ってしましましたが、お相手のマルトもそれはもう大変に美しいです。貼り付けた画像からそれはもうわかるでしょう? というところですが、映画館で動いているところも観て下さい。

「私はあなたよりも余りに年を取り過ぎているんだもの」という台詞や、人妻という設定から、現代の観客は、マルトの年齢を三十路くらいに思うかもしれません。しかし、少なくとも原作では、彼女は 19 歳なのです! 10代!! それが当時の結婚観を反映しているようで、切なくもあり、またある意味で恐ろしくもあり……。

 

 『肉体の悪魔』は、一次大戦終戦間際が舞台です。それもあって、幼い頃から残酷なことに慣れてしまい、早熟で、シニシズムを持ち合わせた少年が主人公になるわけです。

原作では、一次大戦が直接的に顔を覗かせるのは、マルトの夫ジャックの帰省に関してのみ。しかし、主人公が余りに当然のことのように死を想うことが多かったり、気が狂った女性が飛び降り自殺をする場を目撃してしまったりと、その異常な時代を仄めかす描写が鏤められており、そのような自然な時代背景の描き方に、これまたラディゲの素晴らしい才能を感じます。

 しかし、映画ではそんな深遠な描写をしている余裕も尺もありませんから、マルトが看護婦見習いという形で、負傷兵を看護する設定に変更することにより、一次大戦下であることを観客に殊更強く印象づける工夫が為されています。映画という媒体に描き直すにあたって良改変。

 

 マルト役のミシュリーヌ・プレール氏もこれまたとんでもない美女で。一番「ヤバい」と思ったのは、自宅を出て行こうとするフランソワを潤んだ瞳で見上げながら、彼の腕を掴んで、 "À demain...(また明日ね……)" と囁くところ。これで堕ちない人類はいない。今彼女の肉体に悪魔が宿っています!! そんな目で見つめられたらおちおち家になんて帰っていられない。そのまま踵を返して寝台に押し倒さないなんて人は禁欲主義者に違いあるまい。

 

 終始美と多幸感で猛攻を掛けてきますが、彼らの愛には後ろ暗いところがあり、その緊張感がまた心地よいのです。背徳感とはこのことか。

いじらしいほどに甘酸っぱく、時に苦く、瑞々しいはつ恋のなんと情熱的で官能的なことか。

 

 なんだか興奮のままに勢いだけで書いてしまいましたが、総括と致しましては、何故この作品が名作として語り継がれるのかということを、身に染みて理解した思いです。

ラディゲ特有の「冷たさ」は影を潜め、若々しい情熱的な恋物語に仕上がっています。これはこれでよい。

取り敢えず "浴びて" 来て下さい(結論)。

 

最後に

 通読ありがとうございました! 余計なこともつらつらと書いてしまったので、6000字強。

 

 結局、映画を観た後に原作を再読することになったので、スタンダール作品は再履してから参ろうと思います。問題は、作品自体が長いこと。上演期間中に間に合って欲しい。

 スタンダールは個人的にも好きな作家ですが、このブログでは何度か触れておりますように、わたくし、彼の処女作である『アルマンス』の結構熱烈なファンでして。

確かに、『アルマンス』は処女作ということもあって、少々課題がある小説でもありますし、あまり名の売れた作品ではありませんが、どうしてジェラール・フィリップ氏はオクターヴ・ド・マリヴェール(※主人公の名前)を演じて下さらないのです。めっっちゃ観たいよ。今から蘇って演ってくれませんか。陰のある魅力が美しい青年貴族という役柄ですから、絶対似合うよオクターヴ。保証する。

…………、実現しない夢を語るのが空しくなってきたので辞めます……。

 

 ラクロとか、モディリアーニの伝記映画にも参りたいですね。後者はミリしらなのですが、予習はせず復習をすることとし、頭空っぽの状態で観て来ようかなと思っています。え、通いすぎでは?…….。楽しみます!!

↑ 観てきました。レビューはこちらから。

 

 それでは、今回はここでお開きと致します。また次の記事でお目に掛かれれば幸いです!