世界観警察

架空の世界を護るために

メシチェルスキー『回想録』1863年25節 - 翻訳

 こんにちは、茅野です。

もう三月も終わろうという事実に慄いております。時の流れの速さよ。

 

 さて、今回は、メシチェルスキー公の『回想録』を読むシリーズ第三弾です。

↑ 第一弾はこちらから。

 

 第三弾となる今回は、前回の1863年24節の続き、1863年25節です。25節は、全文にわたって殿下の話が展開されているので、全文そっくりそのまま訳出してお送り致します。大変だった……。

 

 それでは、長くなりますが、お付き合いの程宜しくお願い致します!

 

 

 

1863年 25節

 年の初めには、毎晩のようにパヴロフスク駅のコンサートホールへ通い、皇太子と、彼の弟である二人の大公と過去一年半よりもずっと親しくなった。その結果、帝位継承者のロシア旅行に随行したいという、幸福な夢に取り憑かれてしまった。実に、それは夢のような話だった。

 

 一度、パヴロフスク駅で彼らに会った時、アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公は、私にこの旅について話した。彼は、「ニクサと一緒に行きたい」と言った。帝位継承者は、「物は試しだ。掛け合ってみなよ」とそれを支持した。この対話も、夢を更に膨らませた。しかし、私は、誰に対してもそのことをお願いする勇気がなかった。

後になって、私が旅に参加できるように帝位継承者が話を通してくれていたことを知った。しかし、時は既に遅かった。随行者は、当然のように、ストロガノフ伯爵の末子と、ペロフスキー伯爵の息子と決まってしまっていた。

 

 それにも関わらず、皇太子の出発の前の期間は、私の人生にとって特に歴史的で、正に特別で精神的な意味を持つものとなった。帝位継承者は、実現しない空想に囚われていた私を慰めるかのように、気を遣って特別優しく接してくれ、私を魅了した。

彼は私のダーチャ(別荘)にやって来て、一緒にシャラバン(馬車の一種)でパヴロフスクを巡らないかと誘ってくれた。その心遣いに、私は深く感動した。しかし、更に私の胸を打ったのは、出発の前日の帝位継承者の言葉だった。

彼は、弟の前で、冗談めかして私にこう言った。「どうか心を痛めないで下さいね、お願いします。私はあなたにサーシャを託しますから、彼らとも親交を深めてみては如何ですか。私共の旅行に加わるよりも、彼らと一緒に居る方が有意義ですよ」。

「はいはい、それはどうだかね」。アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公は、皮肉っぽく簡潔に返答した。これらは『日記』に書き留めた言葉だが、なんと現実はその通りになった! 不思議なことに、私が思い描いたように帝位継承者と共に行くのではなく、正にツァールスコエに居残ったことが、彼の最期まで私が彼と親しく在れた主な理由となったのだった。

 

 皇太子は旅に出た。一方私は、ペロフスキー伯爵の提案で、彼の弟である大公の滞在していたツァールスコエに毎日通うことになった。私達は、朝フェンシングをし、昼食を摂って、散歩し、夕食を食べ、毎日パヴロフスクへ行った。

アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公は、簡単には人を信用しない人だということを知る機会を得た。彼は少しずつ私に慣れてゆき、段々心を開いてくれるようになった。彼が己を晒すにつれ、その好ましい面が見えてきた。帝位継承者が「私のサーシャ」を「素晴らしい人」だと言ったことが真実であることが理解できたのは喜ばしいことだった。

一方アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公の方は、己の兄を心から尊敬し、初めの頃は私達の会話の中心はいつも彼の「ニクサ」のことだった。

アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公の最大の美点は、泉の水のように際限なく湧き出す道徳心にあった。従って、宮廷人や外交官との対話は、第一に彼がそれに耐えられず、第二に本能が拒否するために、不可能なのであった。触ると閉じてしまうあの小さな鐘の形をした薄紫の花のように、アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公の魂は、宮廷の小さな一言で閉ざされてしまう……。この生まれ持った性格が、彼の弱点であった。しかし、それも些細なことであって、この尊敬すべき性格には驚嘆させられた……。

少し面倒臭がりで、非常に頑固―――これが彼のただ一つの明確な欠点であった。彼の意見を無理矢理ねじ曲げようとすることは不可能だし、また無益でもあった。それは彼の反抗心を強める結果しか生まなかった。しかし、彼は非常に親切で優しい心の持ち主であり、何よりも純粋な誠実さが彼の魂の穏やかな特徴として支配していた為、迂回して、彼の心、誠実さ、正直さに訴えかけることによって、この頑固さを克服することが可能であった。

 

 この反感は、宮廷世界、特に教会で浮き彫りになった。これは、嘘を憎む大公の気質が主な要因であり、兄の帝位継承者の宮廷の人々に対する鋭い洞察力と、教育の場での雰囲気がそれを支えていた。

このように養育したのは尊敬すべき真の騎士であるペロフスキー伯爵だった。彼は宮廷の毒の影さえも持たず、この主音に他の養育者たちも従っていた。

同時に、全ての養育者達は一般の人々の生活の雰囲気を持ち込み、大公はその若さにも関わらず、オリンポスに君臨するのではなく、地に足が付いていた。私は、彼が我々の常識を理解していることを知ったのである。

 

 帝位継承者は、私にツァールスコエ・セローの弟たちの生活について詳しく書き送るように頼んでいた。

私は、最初の手紙で、己の考えたこと、感じたことを率直に彼に書き送った。どれほど彼が出発する前にロシアで起こっていた問題について話し合いたかったことか……。

この私の書信に対して、彼はヴォルガから魅力的な手紙をくれた。これが彼から私への最初の手紙だった。

 

 これがその手紙である。

『ドン、蒸気船アタマン号にて。1863年8月4日 日曜日。

親愛なる公爵!』

 

シェイクスピアの助言に従い、あなたが最初の望みを手放さなかったのは喜ばしいことです。あなたが私に対しての思いでこれ以上悩むことがありませんように。』

 

『ニコライ・マクシミリアノヴィチの宣誓も誕生日も祝うことができず、どれほど悲しい思いをしていることか。私は彼が宣誓を行うということすら知り得なかったのです。恐らく、私が出発した後に決まったことなのでしょう。誰もそのことを教えてくれなかったので、ヴォルガからの手紙でも彼にお祝いの言葉を書き損ねてしまいました。』

 

フィンランド湾の岸辺で、ささやかな農園を営むあなたの平和な生活を羨ましく思います。旅に不満があるわけではないのですが、至るところに幸福がある家の方が、より良いでしょうから。』(原注: セルギエフにあるマリア・ニコラエヴナ大公女の長男レイヒテンベルク公ニコラス・マクシミリアノヴィチのダーチャで数日間過ごしたことを、私は大公への手紙に記述していた。)

 

『私の旅について何をお伝えしましょうか? 既にあなたは少なくないご意見をお持ちでしょう。一つ言えるのは、旅をするにあたり、これ以上適した時期はないだろうということです。そのわけは余りに明白であり、お伝えするまでもありませんね。

目下のところ、全てが上手くいっています。もし私の旅について詳しく知りたいとお考えなら、弟に私が書いた手紙を読むように言って下さい。

アストラハンとその近郷は特に気に入りました。今私達は静かなドン川を航行しており、その岸辺は絵画のように美しいです。

ツィムリャンスク村では、我々は単に楽しく過ごすことができました。山々、草原、庭、葡萄畑、騎馬で駆け抜けることの素晴らしさ、山の麓の快適な小屋……。小屋の御主人は非常に理知的な方で、私達を厚くもてなして下さいました。彼は我々の知的好奇心を存分に満たしてくれました。

我々がツィムリャンスク産の素晴らしいワインを賞味したこと、是非ニコライ・マクシミリアノヴィチにお伝え下さいね。御主人は酒蔵を持っていて、様々な種類のもの―――40年代物、20年代物、赤、白、甘口、辛口―――が揃っていました。』

 

『美しく暖かい夜、広く小綺麗な踊り場のある階段に腰を掛け、御主人の持ってきたワインを試飲するのです。ニコライ・マクシミリアノヴィチは詩の愛好家としてこの情景を理解するでしょうね。私は無意識にもバッカスの饗宴を想起してしまいましたが、そのことが彼を不快にしていなければよいのですが。これで、私達も葡萄酒の神の崇拝者になりましたよ、無論、ささやかながら。』

 

『その翌日は、この旅で最も愉快な一日となりました。私達は朝五時に起きて紅茶を飲み、馬に跨がって出発しました。朝の心地よい涼しさ、地平線を覆う夏の濃霧は、暑い一日となることを予感させます。

私達はドン川の岸辺を行きました。この地上から、これ以上に美しい場所を選び出そうとするなら、苦労を強いられるでしょうね。左手には優美なカーブを描くドン川と未だ薄暗い遠景が、右手には果樹園や葡萄畑に覆われた山々があり、異なる景色と色彩を一望できます。私達は静かな朝のひとときを楽しみました。時折、砂利の多い道で、騎手を落とさぬよう、脚を踏み外さぬようにと、鞭が空気を切る音が聞こえるのみでした。』

 

『場所によっては、自然にできた並木が道に影を落としていました。10ヴェルスタ(露里)ほど進んだところで、馬に休息を取らせる為に、一度葡萄畑に降りました。太陽は既に熱気を放っていました。コサックの庭師の老人がやってきて、簡素ながらに美味なワインを差し出して下さり、私達はそれを喜んで頂きました。私達はすぐに再び出発しましたが、太陽は酷く照り、灼熱の光から逃れることは叶いませんでした。家に着く頃には、汗と埃まみれになっていました。』

 

『その日は最も暑い日の一つでした。』

 

『概して私達はドンが気に入りましたし、勿論、彼らは私達を厚くもてなして下さいました。』

 

『さて、そろそろ終わりにして横になろうと思います。想定よりも長く書いてしまいました。これが親愛なる公爵への私からの最初の書信となりますね。私が常に尊重しているように、心からのお手紙を下さったこと、感謝申し上げます。弟たち、ニコライ・マクシミリアノヴィチ、そしてボリス・アレクセーヴィチ・ペロフスキー伯爵に、私から宜しくとお伝え下さいね。

敬具 ニコライ』

 

 1863年夏の帝位継承者のロシアの旅は、その計画と特に細部にわたって、ストロガノフ伯爵の教え子に対する教育史の中で最も輝かしい1ページを構成し続けた..……。

 

 旅の詳細については、コンスタンティン・ペトローヴィチ・ポベドノスツェフが『モスクワ報知』に寄稿した大著によって知ることができる。また、私は皇太子の旅に随行した全ての人から話を聞いた。

ストロガノフ伯爵の計画には、主に二つの目的があった。一つ目は、皇太子に国土の主要な土地を実際に見せること、二つ目は、その土地の人々と知り合うことだった……。この二つ目の目的のために、伯爵は、県知事や有力貴族、工場主、大地主、高名な大学教授など、地方の有権者たちを招待していた。

彼らは小集団を形成し、ヴォルガ川とドン川を航行する間、皇太子と対話した。そこでの標語は、「いつでも真実を話すこと」だった……。

 

 私は大公が彼らを如何に親切に扱ったかを証明するエピソードを覚えている。別れを惜しむ地主の男性に、大公は優しく語りかけた。「もしペテルブルクにいらっしゃることがあれば、私に忘れずに会いに来て下さいね」。

この言葉を額面通りに受け取った彼は、冬に、なんと実際に帝位継承者の元に出頭し、彼の侍従に「地主のだれそれだ」と名乗り出た……。

 

 「恐らく、ヴォルガの旅で出逢ったどなたかでしょう」、皇太子はそう言って、面会を了承した。彼は地主を己の書斎に通し、半時間ほど談話した。面会を終え、書斎から出てきたときの地主の喜びようと言ったら……。

 

 しかし、最も興味深いのは、旅が大公に及ぼした魔法の効力である。この魔法について、大公自身は言っていた。「たった三ヶ月の旅は、三年間ずっと机に向かって勉強するよりも多くのことを私に教えてくれました」。

そして、大公は視野が広くなり、ロシアの生活について新たな視点を得るという、注目すべき精神的な成長を遂げた。顕著だったのは、彼が実際のロシアの生活についての理解を得たということ、そして同様に最も重要なのは、地方のロシアの人々の多様性について、彼が温かい気持ちを抱いていたということだった……。

 

 人々の人生を学びたいという願いに基づき、ロシアを旅することが、知識だけでなく精神にも影響を与えることを実際に目の当たりにした。だからこそ、若き皇太子が、政治家達は地方をよく知ることが必要な時期に、ペテルブルクに居座るだけで問題に対処していない、と非難したのは全く正しい……。

 

 私はヴァルーエフに大公の意見を伝えた。彼は僅かに微笑んで言った。「そのお考えは全く正しいのですが、誠に遺憾なことに、我々には実現不可能なことです。大臣には一番大事なもの――――時間が、足りませんからね! そのご意見に興味がないわけでも、魅力的に感じないわけでもありませんよ。私が思うに、過去33年間で、ロシアの生活に対する疑問は著しく増えましたが、同時に、この33年間で、国家官僚はロシアを旅する自由な時間がないことに、これまで以上に苦しむことになりました……」。

 

 出張に出る際、私は初めての勲章である聖スタニスラフスキー勲章をヴァルーエフから貰った。

ある夜、ツァールスコエ・セローの中国の間で女官や大公たちとセクレテール(単語の冒頭だけで単語全体を当てる言葉遊びの一種)に興じていると、通りすがった皇帝が私の腰掛けていた椅子の後ろで止まり、私の頭を撫でて言った。「君は聖スタニスラフ勲章を得たそうだな。君を老いさせないために、私は聖アンナ三等勲章に差し替えよう」。

 

 それがヴァルーエフの報告に対する、皇帝からの唯一の変更であった。「わかっただろう、宮廷と親密になるというのはどういうことか」。ヴァルーエフは私に言った。「それは美しい薔薇の小さな棘なのだよ」。

 

解説

 お疲れ様で御座いました! 本文だけで5000字超え。書くの骨が折れました……。でも半分くらい殿下ご自身の言葉なので、モチベーションも上がりますね。その分緊張しましたが……。

 

 しっかし、殿下の気遣いというか、ファンサービスの厚さには感動しますね。同時代に生まれたかった。公爵は一度も口に出して「旅に随行したい」とは言っていないのに、一緒に行きたがっていることを察し、更にそれを誰にも言えないことさえもわかっていて、直に皇帝に掛け合うのは流石に優しすぎませんか。しかも、それを押しつけがましく本人に言わず、「後からわかった」っていうのもポイント高すぎませんか。不可能だとわかった後は、そもそも旅の話が口に上っていないので、一日だけ一緒に街を巡る、という提案をして慰めるというアフターケア付き。それは堕ちる、致し方ない。

 また、「列伝」シリーズにも出てきそうな一般地主男性も面白すぎます。しかも、こういうの一人じゃないんだろうなあというのがまた……。

 

 殿下は「あなたが私に対しての思いでこれ以上悩むことがありませんように。」と、余りに優しすぎる言葉を掛けていますが、殿下と政治の話ができるようになったことは喜ばしくとも、殿下のことが好きすぎるという感情は寧ろ増幅されたのであり、根本的解決には至っていないので、残念ながら公爵のその悩みが潰えることはないのだとおもいます。

 

 ちなみに、ロシア語で「敬具」に相当する言葉(本文でもそのように訳しています)は、直訳すると「あなたを愛する」となります。幾ら定型句とはいえ、このように書かれたら流石にドキッとしませんか。わたくしは書いていてドキドキしました。

 

 さて、それでは簡単に解説を入れてゆきます!

 

パヴロフスクのコンサートホール

 パヴロフスク駅に関しては、前回の記事でも紹介しておりますが、今回はコンサートホールについてもう少し迫ってみたいと思います。

↑ 前回の記事。

 

 パヴロフスク駅にはコンサートホールがあり、頻繁にコンサートを行っていました。

↑ 1896年に撮影されたホールの写真。

 列車の音がホール内まで入り込んだりしないのか? この時代の防音設備ってどうなっているのだろう? とか野暮なことを考えたりしますが……。

 シーズンは5月から10月で、ペテルブルク(郊外)に於ける夏の音楽の催しとしては一、二を争う規模だったようです。ホール内だけではなく、野外での公演もありました。

1862年の野外コンサートの様子。殿下や公爵も訪れていたはずです。

↑ 同じ場所のお写真。1896年撮影。

 

 個人的なことですが、つい先日オペラを観に行った際、パンフレットにパヴロフスク駅のことが書かれておりまして……。あまりにもタイムリーなのでひっくり返ってしまいました。

↑ 簡単なレビュー記事。

 歴史的名演もあった、素敵な音楽ホールであったようです。

 

皇太子の旅

 殿下の旅については、「列伝」シリーズなどでもご紹介しているものです。殿下は、1863年夏に3~4ヶ月の国内旅行を行い、続く1864年7月から1年間に渡る国外旅行を行う予定でしたが、その途中で亡くなってしまいます。今回は前者に関してです。

 ロシア旅行では、主要な20州を巡っています。目的や効果等に関しては公爵が仰っている通りです。

 メンバーは殿下を含めて10人で、殿下、教育責任者のストロガノフ伯爵、側近リヒテル大佐、秘書官オーム、医師シェストフ、政治学教師ポベドノスツェフ、経済教師バブスト、画家ボゴリューボフ、殿下と同年代のペロフスキー伯爵の子息(アレクセイ・ボリソヴィチ)、同じく同年代のストロガノフ伯爵の子息(ニコライ・セルゲーヴィチ)、で構成されています。汽船の問題などから、最初から定員は10名と決まっていたようで、公爵は旅に同行することが叶いませんでした。

 

 後半でも言及があるように、ポベドノスツェフとバブストはこの旅について詳しく執筆しているのですが、こちらはなんと600ページ以上もある超大作。前回の記事を書いていても思いましたが、ポベドノスツェフも相当拗らせた同担ですよね……。

 

 ちなみに、サラトフで集合写真を撮っているようなのですが、ネット上だと全然見当たらないので諦め気味です。サラトフのラジチェフスキー博物館に現物があるようです。見たい。また、同博物館は、2006年に殿下がこの旅でサラトフを訪れたことに関しての企画展をやっていたらしく、大層気になっています。

 尚、そのサラトフの一般男性の記録によると、殿下は「少し中性的な相貌の美青年で、全員に魅惑的な印象を与えていた。(Красавец юноша, немного женственный на вид, произвел на всех чарующее впечатление.)」とのことです。顔だけで堕とすな。

 

アレクサンドル大公

 続いて、殿下の弟であるアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公について。「列伝」シリーズ第6回の主人公でした。

↑ 殿下(左)、アレクサンドル大公(右)。

 同記事に詳しく書いていますが、相当にブラザーコンプレックスを拗らせていることで有名です。本人曰く、「世界中の何よりも愛していた」そうな。また、殿下を「ニクサ( "水の妖精" の意)」と呼び始めた張本人でもあると考えられています。

 

 メシチェルスキー公、殿下の時は「失望する点などない」とベタ褒めですが、アレクサンドル大公については現実的な評価を下していますね。それにしても、後の怪力自慢の巨人皇帝を可憐な花に喩えるとは流石の一言に尽きます。

 ちなみに、アレクサンドル大公の初恋の人、マリヤ・エリーモヴナ・メシチェルスカヤ公女は、苗字からも察せられるように、メシチェルスキー公爵の従妹。なんだか複雑な関係になって参りましたね。

 

 公爵も仰っているように、大公は道徳心が強く、特に不倫が大嫌いでした。「愛人100人できるかな」なロマノフ家にあって、恋愛にさほど関心がない殿下と、一途なタイプのアレクサンドル大公は希少な世代です。

父皇帝も叔父コンスタンティン大公も、愛人を持ち、多くの婚外子をもうけていました。アレクサンドル大公はそれが本当に我慢ならなかったようで、いつも怒っていました。

 「不倫に走るのは結婚時に真の愛がないせいだ」と考えていた大公は、本気でメシチェルスカヤ公女との結婚を考えていた時期もありました。この考えは自身に関してのみならず、当然兄にも向けられました。

殿下がデンマーク王女ダグマール姫との政略結婚の縁談を進めていた際、大公は「政略結婚なんて真っ平ご免だ。ニクサまでそれに応じるなんて信じられない」と激怒。側近や友人たち(勿論公爵も含まれていたでしょう)が言葉を尽くして説明しても、「ニクサの口から話を聞くまでは何も信じない」と、いつもの頑固さを発揮します。

殿下とダグマール王女の婚姻は確かにロシアとデンマークの政略結婚ではありましたが、都合がよいとでも申しましょうか、ご承知のように殿下は魅力的な人物であり、またダグマール王女も愛らしさで知られていました。二人は童話さながら、一目で恋に落ち、若い理想的なカップルになっていました。

殿下は、激怒する弟に「本当に彼女を愛しているのか」と詰問され、惚気話を強要され、漸く納得した弟は兄の婚約を祝福した……という、何だか微笑ましいエピソードがあります。

勿論、そんなアレクサンドル大公は、結婚すると王家の婚姻では本当に希少な仲睦まじい夫婦となりますが、それはまた別の物語。

 

ストロガノフ伯、ペロフスキー伯の息子

 先程簡単にご紹介しましたが、旅にはストロガノフ伯、ペロフスキー伯の子息が同行していました。二人は、大成しなかったのか、或いはそれぞれ父が偉大すぎて埋もれてしまったのか、情報がほぼ全く出て来ないので、詳しいことはよくわかりません。

 

 ニコライ・セルゲーヴィチ・ストロガノフ伯爵は、殿下の教育責任者セルゲイ・グリゴリエヴィチ・ストロガノフ伯爵の末子(四男)です。

1836年生まれなので、殿下の7歳年上ですね。それ以上のことはよくわかりません。

 

 アレクセイ・ボリソヴィチ・ペロフスキー伯爵は、アレクサンドル大公の教育責任者であったボリス・アレクセーヴィチ・ペロフスキー伯爵の三男です。1842年生まれで、殿下の1歳年上。肖像画なども極幼少期のものしかないので、本当に何もわかりません。

 ただ、旅のエピソードの一つとして、以下のようなものを確認しています。

公爵は殿下が「ロシアの多様性を尊重していた」と、多民族国家の長として理想的なことを書いていますが、それは旅の随行人全員が然りだったわけではないようです。カルムイクを旅していた際、殿下はカルムイクの人々を「魅力的だ」と表現しました。そのことについて、当時は価値観も違うので、ある程度は致し方ないことではあると思うのですが、ペロフスキー伯は「野蛮人の何が良いんだか」と敬遠していた、とのことです。

 

 彼らは殿下、大公の教育責任者二人の息子であり、現代にあまり記録が残っていないことからも、明らかに「コネ」で随行人に選ばれています。若干22歳で内務省に務め、出世街道をひた走っていたメシチェルスキー公爵が、「そんな人々が選ばれるくらいなら、自分が!……」と考えるのも無理はないな……と思ってしまいました。殿下にしてみても、聡明な公爵の方が友人として好ましいと思っていたのかもしれません。

 父皇帝アレクサンドル2世も、皇太子時代に旅をしました。その際、学友だった二人を連れています(その一人が『別荘の夜』のモデルとなったイオシフ・ヴィエリゴルスキー伯爵)。一方、殿下に学友はおらず、原則的に教師と一対一で学び育ちましたが、「学友を二人連れて旅に出る」という計画自体は踏襲されたようです。

 

シャラバン

 殿下が公爵を遊びに誘った時についてです。ほんとうに心遣いが丁寧すぎます。

シャラバンは馬車の一種です。無蓋で、横並びの席になっています。

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↑ 馭者だけ乗っている状態。後ろのベンチ部に座る形。

 殿下は、公爵が話しやすいようにと、横並び席のシャラバンを選んだのかもしれません。

 

ペロフスキー伯爵

 アレクサンドル大公の教師であったボリス・アレクセーヴィチ・ペロフスキー伯爵について。

彼は、1860年(大公15歳、殿下17歳)よりアレクサンドル大公の教師であり側近を勤めていました。

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↑ 写真がコワモテ+目がキマッていて怖すぎたので()、いいかんじの肖像画で。
 息子と異なり、公爵も書いているように、優秀な人物だったようです。

 

シェイクスピアの助言

 殿下からのお手紙で出て来るシェイクスピアの助言について。書き出しから教養人を滲み出してきていますね。

所謂、「望みなしと思われることもあえて行えば、 成ることしばしばあり」を指しているのだろうと想定されます。殿下は英語も話す上に、言語を問わず戯曲もよく読んでいたようなので、きっと原語で読んだのだと思います。

 

ニコライ・マクシミリアノヴィチ

 お手紙によく登場する「ニコライ・マクシミリアノヴィチ」は、殿下の従兄(父の妹の息子)であるレイヒテンベルク公のことです。殿下は普段「コーリャ」と呼んでいます。

 殿下はこの同い年の従兄と大変親しく、長い時間を共に過ごしました。身体が弱く、幼少期にはこの時代ながらに四回も手術を受けていますが、特に科学の才に恵まれた聡明な人物だったようで、殿下とは大変気が合ったとか。

 「詩が好き」という話が出てきますが、殿下は9歳の頃、彼とフランス語の詩を共作したことがあります。ちなみに、しっかりした12行詩です。神童か……。

 

ツィムリャンスク村

 殿下が訪れたツィムリャンスク村についてです。

実際に、ワインの産地として非常に有名で、あのピョートル大帝も訪れたことがあると言われています。19世紀には既に3万本の葡萄の木が育てられていたと言います。

特に、ツィムリャンスキー・チョールヌィ(ツィムリャンスクの黒)と呼ばれる、紫というよりも最早漆黒の皮の葡萄で知られています。

↑ ほんとうに黒い。美味しそう。

ちなみに、ツィムリャンスクのワインはわたくしが蒙愛している作品、『エヴゲーニー・オネーギン』第五章でも言及があり、ロシアでは非常に親しまれていることがわかります。

 ツィムリャンスクのワインは、美味でありながら、当時の上流階級では「フランス製の高級ワインが買えない貧乏人が飲むもの」というような認識も根強かったらしく、殿下は、皇太子として、国産であるツィムリャンスクのワインがもっと受け入れられるようにならないか、と考えを巡らせていたようです。

 

 また、気温について。ロシア=寒い、というイメージが強いですが、夏は充分暑くなりますし、ご承知のように、とんでもなく広い為、地域によっても当然大きな差があります。参考に、2021年8月のツィムリャンスクの気温を出しておきます。

↑ 普通に……暑い!

30度超えの炎天下を、10ヴェルスタも走っていたら、そりゃあ汗も掻きます。

 尚、古いロシア文学の訳では「露里」と訳されることも多い、「ヴェルスタ」は、ロシア帝国で用いられていた距離の単位です。1ヴェルスタ=1066.8メートルなので、10ヴェルスタは約10kmということになります。

 

バッカス

 「バッカス」とは、ローマ神話に於ける葡萄酒の神のことです。ギリシア神話でいうディオニュソスですね。

バッカスディオニュソスはお酒の神様ですから、饗宴が大好き、酔っ払ったように狂うのも大好き。というわけで、古代に信仰していた人々は、この神を喜ばせるために、饗宴にてワインを浴びるように飲みながら、ほぼ全裸で激しく踊り狂っていました。これを「バッカナール」と呼びます。殿下が言及しているのはそのことについてです。

 ロシア正教徒である彼らにとっては異教の神ですし、ほぼ全裸で踊り狂うのは神秘的でありながら、エロティックでもあり、見方によっては普通に下品なので、「彼を不快にしていなければよいのですが」と仰っているわけですね。

↑ 恐らく最も有名なバッカナールの例。殿下の没後の作品にはなりますが、オペラ『サムソンとデリラ』より。

 いや、殿下がこういう様子を思い浮かべていた、と思うとちょっと面白いですね。それ、ちょっと酔ってません?

 

 流石あのロシアの皇族、と申しますか、弟アレクサンドル大公は大変な酒豪で、ブーツの中にまでお酒を隠し持っていた「アルコール中毒」であることで知られていますが、兄の殿下はあまりお酒を好んで飲んでいたような様子は見られません。勿論、今回の手紙からもわかるように、嫌いではなかったようですが……。殿下の性格から言っても、万一にも人前で酔っ払うなんて醜態を晒したくなかったのかもしれませんね。

 

モスクワ報知

 「モスクワ報知」は、帝政ロシアの大手新聞です。前回の記事でご紹介したミハイル・ニキフォロヴィチ・カトコフが、1863年から編集長を務めていました。

↑ 新聞の一例。

 

勲章

 最後に勲章について。

ロシア帝国の人物の肖像画なんかを見ていると、胸元・首元に夥しい量の飾りを付けていることがあります。

↑ 皇帝となったアレクサンドル大公、改めアレクサンドル3世の肖像。

これらには当然、意味があります。

 

 公爵が最初に受けた聖スタニスラフ勲章は、元々ポーランドの勲章でしたが、ロシア帝国に併合され、ロシアの勲章となりました。ポーランドには散々手こずったロシアらしいと申しましょうか、聖スタニスラフ勲章は、勲章のなかで最も低位のものとされていました。

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↑ 聖スタニスラフ勲章。

 

 変更された聖アンナ三等勲章は、その一つ上の位のもの。長い間、年若い者が得る勲章と知られていたので、「老いさせないために」という発言に繋がるのでしょう。

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↑ 聖アンナ三等勲章。

 ちなみに殿下はこの聖アンナの一等勲章を持っています。

 

最後に

 通読ありがとうございました! 1万2000字超えです。

葡萄やワインの話を書いていたら、恋しくなって、凄く久々に葡萄を買ってきてたべました。久々に食べると滅茶苦茶美味しいですね……。ツィムリャンスク・チョールヌィのワインも、ちゃんと現代でも売っているようので、輸入できるなら飲んでみたいのですが、今ロシアからの輸入は厳しそうなので、暫くお預けですね。

 

 今回はかなりの濃い味で、書いていて楽しかったですが、同時になかなか大変でした……。が、実はこの次が今回よりも長いんですよね! どうしたものか……。何とか頑張りたいと思います。それなりに時間が掛かると想定されるので、気長にお待ち下さいませ。

 それでは、今回はお開きとしたいと思います。また感想等頂ければ有り難いです。それでは次の記事でお会いしましょう!

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