世界観警察

架空の世界を護るために

舞台版『罪と罰』(2019) - レビュー

 こんばんは、実は中学・高校6年間演劇部所属で、現在近世・近代フランス戯曲(演劇の台本)を専攻している茅野です。

どうでもいいですが、演劇部時代は何故か殺人犯の役ばっかり演じていました。サイコパスの役が似合うらしいです、勘弁してください。一番舞台上で人を殺したのは、ユダヤ問題の啓蒙演劇みたいな演劇に出演した際のナチの高官役ですね(白目)。プロパガンダ演説のシーンの長台詞が大変でした。ラスコーリニコフ君は演じたことないです。

 

 さて、今回は「罪罰マラソン」第二弾、ということで、2019年にBunkamura シアターコクーンで上演されていた、舞台版『罪と罰』の映像を鑑賞したので、レビューを書いていきたいとおもいます。

 先に申し上げておきますが、恐ろしく長いです。お急ぎの方は目次のリンクからお目当ての項だけどうぞ。お付き合いの程、宜しくお願い致します。

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「罪罰マラソン」記事 第一弾・ドラマ版(2007)のレビューはこちらから。マラソン概要、『罪と罰』に於けるペテルブルクの詳しい話などもこちらにあります。↓

 

 

前書き

 本題にも関係することではあるのですが、主にごく個人的な話ですし、且つ不快に思われる方もいるかもしれないので、大部分を反転しておきます。筆者の最近の3ヶ月の葛藤に興味がある人だけ見てくだされば結構です。長いです。

 

 いやもう、この時期にこの記事を書いている時点でお察しですよ!! そうじゃないですか? 地獄の3ヶ月であった。折角のブログなので吐かせて貰いましょうか。

 皆様ご承知かと存じますが、7月に我らが主演様の訃報がありましたね。それはもう酷い報道で、バルザックがジャーナリズムを糾弾した時代から何が変わったんだというお話で御座いますよ。『若きウェルテルの悩み』を愛好する後輩の哀しみよ、今回でのウェルテル効果の影響は凄まじいらしいですね。割と本気で憤慨しております。

 それに付随して、個人的なお話になりますが、同じ組織に所属する人間が、当報道に関連して、有り体に言えば、「燃え」ましてね。たいへん胸糞悪い話なので詳細は申し上げられませんが、もしかしたらご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。我々は、人権問題に関しても深く研究し、他人に教示する立場にあるにも関わらず、このような自体に陥ったことに、我々は驚愕し、深い反省を求められたわけです。普段テレビや映画をほぼ全く観ない当方としては、自殺報道マニュアルを完全に無視したジャーナリズムの問題、程度にしか捉えていなかった当報道は、途端に他人事ではなくなったわけです。

 そこで「深く反省の意を~」なんて謝罪で終了すればまだよかった。本当の地獄はここからだったのです。当方は、所謂「歴オタ」に分類されるのだとおもいます。19世紀の帝政ロシアがだいすきで(『罪と罰』もその一部ですね)、趣味で研究をしています。この「燃え」た案件は、その内容からして、我々の趣味の世界に見事に飛び火したのでした。わたしは言った。「数日前に亡くなった人間の尊厳が守れずして、如何にして150年も前に亡くなった人間の人権と尊厳を守ろうって言うんだ?」。見事に火に油。燃料追加。大炎上。ありがとうございました(憤怒)。この問題を、「流れ弾で致命傷」事件、と命名しております。

 「流れ弾で致命傷」。「尊厳」の定義ってなんなんだ? 死者に人権は与えうるか? 生者の功利主義のために、死者の尊厳は侵害されてもよいのか。モーツァルトの例は、カフカの例は? 死者の人権に関する規制は立法しうるか。法源は? ―――こうなってはもう趣味の活動どころではありません。完全に手も足も鎖で雁字搦めにされてしまい、この問題を打破するまでは一切の趣味活動を封じられたわけです。しかし、これは非常に重大な問題であり、真摯に向き合っていかねばならぬ問題でもあります。わたしはこの問題にはずっと心と頭を痛めていて、2018年にも同問題に取り組んでいた形跡があります。

 歴史や故人に関わるすべての人間に考える義務があります。まあ、まさか全然関わりが無かった俳優さんの訃報でこの問題を突きつけられるとは思ってもみなかったわけですが……。正に青天の霹靂でした。

 そこから、わたしはもう一心不乱にリサーチです。精神的にもそれしかできなかったからです。法哲学著作権法、死の定義、文献学、倫理学……、学び、考えねばならない問題が山積みでした。わたしは本気で死者の人権を立法し、それを遵守したかったのです。そうでなくては、歴史をやる権利はないと真剣に考えたのです。普段、リサーチするのは大好きなわたくしですが、もう情緒が狂っていたので、まあそれは苦しかったですよ!! 半泣きになって「何故……?」「おれは一体全体なにをしているんだ……」とか呟きながら、法学の学術書を読み漁っていたわけです。Twitterなどで7月からのわたしを見ていた方は、情緒のバグり具合に「どうしたコイツ、とうとう気が狂ったか」と思ったことでしょうが、真相はこのようなところです。お騒がせしました。もし過去のものに少しでも関わりがあるのなら、どうかあなたも考えてください。その姿勢が、無意識の人権侵害を防ぐのではないでしょうか。

 と、そういうわけで勃発したのが舞台版『罪と罰』鑑賞会です。寧ろ地雷原を開拓することによって克服するのだ。放射能塗れのプランテーションを築いてやれ。更地の精神を耕すのだ。「土のように優しくなりさえすればいい」(『マイケル・K』)。「救いは一歩踏み出すことだ」って、サン=テックスも言っている! (『人間の大地』)。

 ―――このように割と壮絶な決意で鑑賞会を行いました。一人で観る勇気がなかったので、フォロワーに付き合って貰い、某カラ○ケ館のドデカいスクリーンで観ました。部屋に通されたときは「正気かよ」とおもった。耐えました。ドデカい部屋のソファの隅で鞄を抱き、縮こまって観ていました。阿呆かと。そうとも我は阿呆なり。

 

 以上が前置きです。既に3000字書いていて白目剥いてます。お付き合いありがとうございました。それじゃあ、本題入りますね。

 

キャスト

ロジオン・ラスコーリニコフ三浦春馬

ソフィア・マルメラードワ: 大島優子

アヴドーチヤ・ラスコーリニコワ: 南沢奈央

カテリーナ・マルメラードワ: 麻実れい

ポルフィーリー: 勝村政信

ドミトーリー・ヴラズミーヒン: 松田慎也

アルカージー・スヴィドリガイロフ: 山路和弘

上演台本・演出: フィリップ・ブリーン

 

総評

 この舞台、評判よかったんですよ。以前、蛮勇にもドストエフスキーの研究会にお邪魔した時に、この舞台版『罪と罰』の話になり、(名前は出しませんが)研究者先生方にお話を伺ったところ、「この手の類いの作品では大変良かった」「必要なところはしっかり拾っていて、よくあの短時間に収めたとおもう。驚異的」「余計な翻案はなく、珍しく王道」と、お墨付き。そのときに観ておけばよかったんですけどね……。

 東京に住んでいるので、上演中に Bunkamura に行ったこともあります。ポスター掛かってんなぁ~とはおもって見ていました。わたしは原作至上主義を拗らせるタイプの面倒なオタクなので、怖がって行かなかったんですよね……。変な翻案をされると発狂する病に罹患しておりまして……。しかし、今回は、そのときに観ておけば(ry。

 

 わたくしの感想ですが、先生方が仰る通り、まず、「ほんとうによく纏めたな!」と、それに尽きます。三時間超えの舞台ですが、ドラマ版7時間弱ありますからね。半分ですよ、半分。その分、内容がギッチリ詰まっていて、実際に劇場に足を運ばれた方は疲れ果てて帰宅することになったのではないかと推察致します。しかし、上演時間が三時間超えの演劇とは! 相当ですよ。ワーグナーかよ。

 更に言えば、役者さんたちがもう、猛烈に早口ですね。普通の演劇だったら直されるレベル。それを、三時間半。舞台裏の映像では、台本がタウン○ークみたいになっていて「ですよね!!」となりました。何万字くらいあるんだろう。それを全部頭に叩き込んだ役者陣、最早恐怖の領域です。

 原作厨にもかなり配慮されていて、たいへんに有り難いことです。ほんとうにまずそこが一番嬉しいですね、個人的には。一方で、丁寧に筋を追ってくれているものの、やはりドストエフスキーですから、初見の人には情報過多だったのではないかと考える次第ですが、如何なものでしょうか。まず、少なくともキャラクターの名前くらいは覚えてから観ないと混乱しそうですね(ロシア文学は名前が覚えづらいのが大変、という意見がよくありますが、慣れです。わたしは寧ろ日本文学の方が厳しい領域に入っています、慣れです)。

 これは原作に依るところが大きいと思うのですが、やはり「綺麗に纏まっている」というより、「無理矢理詰め込んだ」という印象は免れ得ません。舞台セットの雑多な感じも、その印象に一役買っているかもしれません。

 

演出

 第一印象は「治安、悪!!」です(迫真)。原作→映像→舞台と、メディアミックスが進むにつれて、言語での表現の幅が狭まるぶん、視覚的な表現が過激になる傾向がありますが、正にそれですね。完全にスラム街。

 

 まず、「雑多な感じ」について。舞台セットも然りですが、特筆するべきは民衆の姿です。民衆は、物語序盤ではうるさいくらいに介入してくるのですが、物語後盤になると姿を消します。これはわたしの解釈ですが、ラスコーリニコフ君は物語序盤~中盤、ずっと「一人になりたい」と主張しています。これは、友人ラズミーヒンや、医師ゾシーモフ、家族であるプリへーリヤやドゥーニャに向けて放たれる言葉ですが、実際的な、或いは彼の脳内にある雑念としての「民衆」に向けて放たれた言葉でもあるのではないでしょうか。ラスコーリニコフという名は、「分裂」という意味の語から作られていることは有名ですが、この「分裂」とは、彼の中の「知性」と「良心」、或いは「孤高」と「社会」でもあるわけです。かれは「孤高の知性」を志し、「良心ある社会」との「分裂」に苦しんでいた、過度なまでの民衆描写を、そう解釈することはできまいか。

 「雑多な感じ」を構成するもう一つの要因が、声、音楽です。舞台版『罪と罰』では、舞台上に楽器奏者が乗るのが特徴です。奏者も演技を仕込まれたとのこと。奏者が舞台上に乗るのはそこまで珍しいことではないのですが、やはりこうやって観ると映えますね。わたしが観たのは放送版なので、カメラワークもあって更に違和感なかったです。当方、父がチェロを弾くので、親は父それを目当てに舞台版を観ていたようです。曰く、「音楽と演出は雑多で好みではなかったけど、主演、存在感あっていいね」とのことです。

 

 照明の使い方について。終始暗めですね、まあ、そうあるべきだとおもうのですが。赤い照明の場では、ラスコーリニコフの幻覚、心象世界を表しているのですね。わかりやすい演出のはずなのに、気付くのに少し時間が掛かりました。それだけ、現実の世界と妄執が近いものであるということでしょうか。最後のシベリアへの道では、煌々とした後光が正しく救いを表すようで美しいです。舞台では場面転換の問題が特に難しいですが、舞台版では、ある意味で、「舞台全体が」ラスコーリニコフの棺桶のような部屋、という解釈が出来そうです。棺桶からの脱出、光、生の世界へ、再生、復活―――。

 

 噂の舞台転換について。大体、ラスコーリニコフが気絶したら暗転、そうでないなら明転、というのが基本かとおもいます。暗転の時間が異様に短くて驚いた記憶があります。迅速。半端ない。

基本は下手前にラスコーリニコフのベッド(ソファ)があることから、そちらを中心に展開されます。『オブローモフ』ほどではないですが、ラスコーリニコフもなかなか起き上がらないですからね。ロシア文学の主人公よ、思考を捨てて街へ出よ。

 

 キーとなるシンボルについて。舞台芸術では、基本的になにか一つか二つ、上演全体を通してシンボルになるアイテムを用いることが多いです。例えば、バレエ版の『オネーギン』では、「鏡」と「手紙」が、カーセン演出の『オネーギン』では、「枯れ葉」と「椅子」がキーアイテムになっていますね。舞台版『罪と罰』では、「扉」と「呼び鈴」がそれに該当しそうです。

 「扉」は、明転で役者が頻繁に動かします。それはラスコーリニコフの部屋の入り口になったり、アリョーナ・イワーノヴナの部屋の入り口になったり、晩餐のテーブルになったり……と早変わり。「出口」であり、「入り口」でもある扉には、様々な含意がありそうです。

 一方、「呼び鈴」はラスコーリニコフのトラウマを呼び覚ます、悪夢の象徴です。アリョーナ・イワーノヴナとリザヴェータを殺害したときに鍵を閉め忘れ、コッホらに呼び鈴を鳴らされたときの、あの音です。ラスコーリニコフが気絶する直前には大抵鬱陶しいほどにあの音が鳴り響きます。そして、その音の操り主が終盤でポルフィーリー・ペトローヴィチだと発覚する。巧妙な仕掛けです! 単純に、演出として洒落ているし、見事だなと感じました。

 

 原作との違いは、水晶宮の場全カット、レベジャートニコフ君リストラ、ラスコーリニコフの回想全般や、ミコールカについての話くらいでしょうか。個人的には水晶宮でのやりとりが好きなので、ここがカットされるのは悲しいのですが、観る前から「わたしが演出家なら、カットするのはここだな」とおもっていました。水晶宮でのラスコーリニコフ君かっこよくないですか?? 好きなんですけど……観たかった……。まあ、致し方ない! 予測、当たれり。

 レベジャートニコフ君もリストラされるだろうなとは踏んでいましたが、案の定でしたね。ルージンとレベジャートニコフの対話も帝政ロシア社会学や思想を理解する上では非常に重要なのですが、まあ、筋書きとはほぼ無関係ですし、なによりも、ソーニャがルージンに濡れ衣を着せられた際、ラスコーリニコフとソーニャの関係性を目立たせたい場合は、レベジャートニコフの存在は邪魔でしかないわけです。「ラスコーリニコフがソーニャを助けた」という筋書きを作りたいわけですからね。

 後は、ソーニャの意見に従い、ラスコーリニコフは十字路の大地にキスをした後、「わたしは人殺しです」と宣言をするところでしょうか。演劇では圧倒的にその方が映えますね。そしてその直後、警察署での自白にも繋がるので、お見事です。

余力があれば、原作やドラマ版との対応表をつくって遊んでみたいなともおもいます。

 

 では、お次は、キャラクター毎にちょっと見ていきましょうか。

 

ラスコーリニコフ

 ラスコーリニコフについて、最初におもったことは、「あ、これメッチャ大変そうだな!」というごくメタ的な感想でした(すみません)。滴り落ちるどころか、文字通り滝の如く汗が顎や首を伝い、インナーはぐしょぐしょに濡れ、しかしながら最後のシベリア徒刑になる瞬間まであの厚ぼったいコートは着込んだまま! 1865年7月のペテルブルクは猛暑だったそうですが、これほどではなかったでしょうに。

更に言えば、インタビューで「稽古の1, 2時間前から自主練をすることも」と仰っていて、(演劇やミュージカルに携わっていた自身の経験から、どうせそんなことだろうとはおもって観ていましたが)、これ美談で終わらせていいレベルの労働なんかなとか余計なことを色々考えていました。まあ……舞台芸術界は……ブラックなので……その…………(目を逸らしながら)。しょっちゅうストライキを起こしているパリ・オペラ座を見習ってもいいのよ……(パリ・オペラ座自体もまだまだブラックですが……)。

「三日も食事をしていない貧乏学生」ラスコーリニコフの役作りとしては大変結構なのですが、上体の薄さ、腰の細さは少々心配になるレベル。没入するための役作りなのに、メタ的な心配に上書きされてしまうとはこれは如何に。

 

 衣装・メイクの面もある程度解釈が一致しますが、流石にインナーが現代的すぎでは、ともおもいました。しかし、あれで襟付きの服なんか着ていたら、それこそぶっ倒れそうだ。二幕で着替えたのでしょう、インナーが乾燥していて、そこにまず何よりも安心感を覚えました(?)。

「三ヶ月閉じ籠もっていて」日に焼けていない白い肌と、落ちくぼんだ頬骨の影、深い隈、黒髪、大きく動く黒目、無精髭のコントラストが見事です。髪は原作に反して比較的綺麗に纏められている印象がありましたが、無造作にしていたら目に掛かったり、汗で濡れたりしてまた大変なことになりそうですね。ところで、人類にはどんなに額に玉の汗をかいても頭皮に汗腺通ってないんか、というくらい髪の毛が濡れない人種がいますが(e.g.: ミッシャ・マイスキー)、彼はどうなんでしょうね、っておもって髪の生え際ばっかり見ていたことを懺悔しておきます。

 終始手が血濡れているのもまた良い演出ですね! もうその汚れは取れないのだ。どうでもいいですが、二幕で塗り直していてそこにも安心感が(ry。

 

 原作やドラマ版とはちがい、心情告白の描写が難しい舞台版では、無言の内に心理を表現する必要があります。従って、表情が雄弁ですね! 痩せて更に大きく見える眼球がこれでもかというほどグリグリ動きます。二階席でもオペラグラスを使わずしてよく見えたのではあるまいか。こういうとき、よく「歌舞伎」と揶揄されたりするのですが、個人的には「歌舞伎で何が悪い」と思うのですよね。寧ろ褒め言葉として使ってよいくらいですよ。特に日本演劇の場合はそうではないですか。歌舞伎は表情での演技を非常に重要視するので、これは褒め言葉です(強調)。寧ろ、あの眼球の動かし方、真剣に歌舞伎の「見得」や「睨み」を勉強されたのではないでしょうか? そんな気がします。わたしは俳優さん詳しくないので、ご存じでしたら答え合わせしてください。

 眼球の話をしたので、今度は眉の話を。ラスコーリニコフの演技で特徴的なのは、右眉の動きです。怪訝そうに右眉をぐっと引き上げることが多いのですが、「何故右なのかな」と考えていました。インタビューなんかを見ていると、三浦氏自身の利き眉は左な気がするんです(そもそも両方できる人は俳優さんでも限られるので、やはり相当表情筋を鍛えていることがよくわかります、つよい)。実際、左の方が動くという人の方が多いようです。では、「右眉を上げるのは意図的な演技だ」と考えましょう。そうする意図はなんでしょうか? 舞台序盤、ラスコーリニコフは下手を向いていることの方が多かったので、(我々はカメラワークのお陰でよく見えましたが)、わざわざ見えない方を動かす意図が判然としなかったのが疑問の出発点です。これはわたしの解釈ですが、一般的に、「感情は顔左半面に、理性は顔右半面に出る」と言われます(※諸説あります)。であれば、「知性溢るるラスコーリニコフは、本来ならばそこまで動揺や驚愕の表情を顔に出さない、が、しかし、 "言語を伴わない演技として" 、理性が受け止めた驚愕を、意図的に顔右半面に託したのだとしたら?」―――。深読みでしょうか? しかし、気になる問題でもあります。以上がわたしの仮説です。答え合わせが欲しいですね。

しっかし、表情筋、疲れそうだなあ……。終わった後虚無顔しかできなそう(しかしそうではないのが凄いところだ……)。

 

 またメタ的な話になってしまうのですが、ご容赦。もうこれはほんとうに申し上げなければ終われないのですが、シアターコクーン、プロンプターいないんですか!? 恐怖なんですけれども……。眼球の演技がそれだけ熱入ってるってことは、まさかそういう「大人の都合での目線」はないわけです。いるのかいないのかはともかくとして、全くプロンプター(がありそうな方向)を見ようともしないので、なんか途中からこっちがハラハラしていました()。最後やりきったときは胸をなで下ろしたくらい。よくぞあの長台詞を覚えた……しかもあの細かい演技付きで……尊敬通り越して怖い…………。ヘタに舞台芸術に関わりがあったせいで、メタな緊張感で精神疲れるんですよね、演劇……だからあんまり観ないんです、わたし……どうでもいいですけど……。

 

 次に発声について。たまに、ど偉い姿勢で喋り始めるので度肝を抜かれました。わたしが演出だったら、役者さんにそんな体勢では喋らせませんよ、あれ、やる方辛いので。勿論、プロの役者さんだったら可能ではあるんでしょうけど、辛いので、ほんとに。例えば、仰向けに寝転び、膝を立て、そのまま上体を引き上げるような姿勢(所謂、腹筋を鍛えるときの「上体起こし」の姿勢)。あれ、ほんっとに声出ませんからね。相当強靱な腹筋、背筋、呼吸筋、喉を必要とします。何故あの姿勢で直立姿勢と同等の声が出るのか。異常(※褒めています)。どういうトレーニングをしているのか教えて欲しい……。

 声の表情については、もう少し改善の余地があるような気も致しました。充分、十二分によいのですが、まだ先を目指せるというポジティヴな意味合いで捉えて頂きたいです。と、申しますのも、声音の使い分け自体は上手くて、色々な表情を見せてくれるのですが、少しピンポイントすぎる気もするのです。たとえば、罪の独白、理論の説明など、ラスコーリニコフには様々な長台詞があります。長台詞では、どうも声音が一本調子に思われ、折角様々な声音の使い分けができるのだから、こういうところでメリハリを付ければもっとよくなるのに! ……と考えていました。特に前半は、一本調子なところが多くて、少しの意識で劇的によくなる部分でもあるので、是非、今後に期待、したかっ………………、、、

 気を取り直して。特にサ行の発音に特徴がありますね。演劇初心者がよく躓くのは摩擦音サ行、鼻音ナ行、滑舌が試されるラ行などで、ほんとうに初歩の初歩、基礎の基礎です。今回、ラスコーリニコフはけっこうサ行が /s/ ではなく、 /ʃ/ になっている印象を受けました。もうここまで来ると演技には信頼があるので、まさかこんな初歩の音声学で躓いているとは全くおもわれませんでした。であれば、導き出せることはなにか。「意図的である」、ということです。

/s/ を  /ʃ/ にする意図とはなんなのでしょう。鑑賞中、ずっと考えていました。確かに、ずっと耳に残るような感覚はあります。他に何か理由は考えられまいか。仮説を立てます。ヒントはインタビュー記事。曰く、演出的に「ラスコーリニコフのイメージは蛇」なのだそう。「蛇」で最も連想しやすい音はなんでしょうか。そうです、それこそ、  /ʃ/ ではないですか……。

深読みでしょうか、果たして? インタビューで本人が「子音と母音、どちらを強く発音するか」と話していて、わたしは自分の読みが、強ち間違いではないような気がしております。しっかりと音声学を勉強されたことが伺えます。しかし、そこまで気を配るのか……あの出ずっぱり、長台詞オンパレードの劇で……末恐ろしい。

 

 身体的な演技もお見事です。いやしかし、原作やドラマ版でもそうですが、ほんとうによく気絶すること()。舞台版では、ドラマ版と同じく、暗転という形を取って表現されます。気絶から気絶への間隔が短く、暗転の時間も短いので、かなり唐突な印象を受けます。受け身を取らず背中から後ろに倒れるので、観ているこっちがヒヤヒヤします。上演中の怪我、マジで洒落になりませんので……(色々と思い当たる節がありすぎる顔)。

余力があれば気絶カウンターをやって追記したいとおもいます()。ちなみに、ドラマ版では数え方にもよりますが10回でした。

 

 今回、演出で面白いなと感じたものの一つに、拳銃自殺未遂の描写があります。ラスコーリニコフとスヴィドリガイロフには、あからさまに「対比」があり、生の世界を選んだのがラスコーリニコフ、死を選んだのがスヴィドリガイロフと解されています。その中で、「水」と「炎」という対比も重要です。ラスコーリニコフは、原作だと何度か自死を考える中で、「水はだめだ、みっともない」としたり、最後は「火薬」中尉イリヤ・ペトローヴィチの元へ向かったりします。又、ラスコーリニコフは人(或いはシラミ?……)を殺害するような一面もあるわけですが、火事の中へ飛び込んで、火傷を負いながら子供を救うような一面も持ち合わせています。「水よりも炎」、なのです。

 

 結局、ラスコーリニコフ自死を選びませんから、「もしもやるとしたら?」と考えるならば、拳銃では「火薬」を使いますから、拳銃自殺は大いに有り得そうなことです。しかし、問題は貧乏学生のラスコーリニコフが銃を如何にして入手するのか、ということくらいでしょうか。

 入水みたいなものは舞台でやるには大変なので、拳銃ってメタ的な意味でも有り難いですね。見栄えもいいですし……。「水」と「炎」の対比などをどうやって拾ってくるのだろう、と考えていたので、この演出は総合的に見ても素晴らしいとおもいます。

 そして、拳銃を見つめる目線がまた素晴らしい。側頭に当てた銃と、正面を目だけで交互にグリグリと見やるのですが、最高です。わたしは、個人的に『Mayerling』というバレエ作品を連想したりしていました。めっちゃ似てる。あそこの演技が好きな方にはお勧めしておきます。

↑ マクレイ先輩の眼球の動きも好き!!

 

 長くなりましたが、最後に、ほんとうにお疲れ様でしたという感じですね。いや、舞台芸術関係者として素直に尊敬します。露文演劇に携わって頂いてオタクとしても感謝しかないですね。ありがとうございました!!!!

 

 ちなみにですが、中の人と帝政ロシアの関わりといえば、「お~いお茶」のCMがあります。当方、テレビを観なすぎて寧ろテレビCMが珍しくて魅入ってしまうような人種なので、フォロワーさんに教えて頂きました。ありがとうございます。

 このCMで使われている曲は、帝政ロシアを代表する作曲家の一人であるアレクサンドル・ボロディンの『弦楽四重奏 第2番 第1楽章』で、胸を締め付けるような甘美な旋律が大変魅力的な一曲です。同曲は、第3楽章が一番有名で、第1楽章は一歩劣る、という認識だったのですが、このCMのおかげで知名度が大分上がったようです。ただ、「第一楽章といえば、お~いお茶のイメージ」と言われると、なんとも複雑な心境ですが……。まだ帝政ロシアネタがあれば教えてください。

 

ソーニャ

 ヒロイン・ソーニャ。

まず衣装・メイクについてなんですけど、赤い華美なドレスはなるほど確かに娼婦らしい。しかし、問題点があって、それはなにかというと、そう、「似合いすぎ」なんです!!

大島氏はもう何でも着こなせてしまう美女であらせられて、もう何の違和感もなく似合ってしまっているんですよね。しかし、今回ばかりはそれが問題です。ソーニャはその服が似合っていてはいけないからです。彼女には不釣り合いな衣服だからです。しかし、どう改善しろと? という話でもある。難しい話ですね。いや、可愛いんですけど……そうではなくて…………(葛藤)。

又、肩や腕にある傷(?)のようなものにどのような含意があるのか、読み損ねました。虐待されていることの証左でしょうか……、しかし、彼女の場合、身体が商売道具でもあるわけで……ううむ。ソーニャ解釈、難しいです。

 そもそも、『罪と罰』の登場人物には、多くの場合「二面性」「ひとには曝け出さない自分」「本性」のようなものがありますから、それを演劇という場で表現するのは極めて難しいと目されます。改めて、よく舞台化して下さいました。

 

 全体的なソーニャの印象ですが、小柄だが華があって美しいのですが、ソーニャではないかなという印象を受けましたね。少々気が強すぎる気が致します。もっとビクついていていいですね。

しっかし、ラスコーリニコフと並ぶと身長差がエグいったらないですね。この身長差は解釈一致です。何故なら、彼女は「こども」ですから……。

 

 一番有名な聖書を読み上げるシーン。最初から丸暗記です。流石、ユロージヴィ!

又、聖書はもうちょっと古めかしい訳でもいいんじゃないかなとおもいました。その方が趣きが出る気がするので。

 

 どうでもいいのですが、ラストシーンについて。救済の象徴として、ソーニャがラスコーリニコフにパンを差し出しますが、そこは、もうちょっと、ロシアらしいパンにして欲しかったなぁ……なんて……。なんですかあのホテルの朝食みたいなパンは……貴族様ですか……。もっと、こう……ライ麦パンとか、黒パンとか……なかったんですかね……。舞台映えが悪い? そうかなあ……。素朴な感じが全くなくて、場に似つかわしくない笑いが出てしまいました。

 

ドゥーニャ

 ドゥーネチカ~~~!!!! いや、ドゥーニャ、演技上手くないですか……?(ド直球)。え、超上手い、です……。

何よりも、発声が自然ですね! 演劇人が求めてやまないものを既に手中に収めておいでです! 演劇での発声は、少しくらいわざとらしくたって構わないのですが、勿論「演劇的発声」のまま、自然であればあるほどよいわけです。これを両立するのは大変に難しい! しかし、彼女はもう、超自然ですよ。最高です。演技の質に関して言えば、同上演で圧倒的に一番よかったのではないかとおもいます。素晴らしいです(ベタ褒め)。

 そして勿論、仕草も表情も見事! スヴィドリガイロフを目前に、少し頬を引きつらせたり、決意を固めるような力強い歩み。ドゥーニャの役柄にもよく合っています。原作では全然思いませんでしたが、このドゥーネチカ、推せるぞ。そりゃスヴィドリガイロフさんも惚れますし、ラスコーリニコフ君も彼女を犠牲にすることだけは絶対に辞めたいとおもいますよ、間違いない。説得力があります! ちょっと粗探しするほうが大変ですね……賞賛の言葉しか出てこない……ありがとうございます……。ほんとに好きです……。

 

カテリーナ

 舞台と言えば、そう、「狂乱の場」! やはり舞台化とあっては、カテリーナさんが真のヒロインと申し上げても差し支えありません!!(???)

見事な「狂乱の場」で御座いました! メイクも凄いし演技も凄まじい! やはり舞台芸術はこれがなくては! ナイス発狂!(?)

 

 舞台版のカテリーナさんは威勢がいいですね。最初のほうに、舞台化すると治安が悪くなりがち、と申し上げましたが、治安の悪化が一番深刻だったのはマルメラードフ家かと存じます。話すというより、「がなる」という感じでしょうか?

大股でずかずかと歩き、うるさい野次馬を蹴散らす様は下町のオカン感が凄まじい。

しかし、だからこそ、「大佐の娘」感は全くなかったとも言えます。「大佐の娘」であった頃の習慣は全て綺麗さっぱり消え去ってしまった、という解釈にも取れるのですが、少しはそういう片鱗を残して置いてほしかったな……ともおもう次第です。

 

 又、主要人物の中で最も台詞が聞き取りづらかった気がします。うーん、それは勿論輪にかけて早口であることや、怒鳴るような話しぶりからという面もあるのですが、どちらかというとそれはテクニカルな問題で、音楽や民衆のざわめきとかち合ってしまう回数が一番多かった……という印象です。もう少し調整が可能だった気がしますね。

 

ポルフィーリー

 消え物担当・ポルフィーリー先生。マッチと煙草の消費量は如何ほどでしょうか。お伺いしたいです。

いや、こちらもまた凄まじい!! 原作だと約8ページぶっ続けの長台詞があるのですが(ラスコーリニコフ君が「戦略的沈黙」を保つので……)、まさかの完全再現。何が起きたのですか。恐ろしいです。しかも、ちょこまかと一番動きが激しかったのではないでしょうか。流石、痔!!!(???)

 もう、THE と言わんばかりの老獪な予審判事です。お見事です。そりゃあラスコーリニコフ君も目を逸らして逃げたくもなる。

ただでさえ原作がドストエフスキーですし、予審判事という設定から、「ただ座って喋る」という場面が非常に多いポルフィーリー。それを観客に飽きさせずに魅せるというのは非常に大変なことであったろうと推察致します。声音、せわしない動きから、観客の眠気を誘うことは全くないと言明してよいでしょう。

 

 又、前述しましたが、呼び鈴を操っているのがポルフィーリー、というのも素晴らしいですね。よい演出です。本来は登場しない場面でも、後ろで演技をしているのが細かくてよい。

 

ラズミーヒン

 ラズミーヒンくんはまたいい人そうで何よりです。良心。しかし、原作の伝説の赤ちゃんプレイ(ラスコーリニコフを寝かしつけ、熱いスープをスプーンに掬い、息を吹きかけて冷ましてからラスコーリニコフの口元に運ぶ行為)はやってくれませんでしたね!! ちょっと楽しみにしていたのに!(?) なんたって絵面がシュールですからね!

 

 メイクさんの功績でもありましょうが、やや浅黒いラズミーヒンと、病的なまでに真っ白な肌のラスコーリニコフの対比がまたよいですね。体型に関しても然りです。

 

 又、ドゥーニャへの惚れっぷりが過度で笑いました。やはりラズミーヒン君はほぼ唯一のコメディ要員。こういう役どころ、舞台では映えますよね~~! よいです。

 

その他

 すみません、いい加減長いので纏めさせてください。

 

 序盤におもったのは、「ナスターシャ怖すぎねえ?」ということです。怖い。原作では笑い上戸のやさしい人なのに……。完全に引き籠もりニートな息子を叱咤する母、みたいな感じに見えます。怖い。

 

 スヴィドリガイロフ様のド初っぱなから得体の知れない感じもよかったですね。しかし、あのテッカテカのシルバースーツにシルクハットよ。映えは映えますけど、テッカテカなのが気になりすぎましたね……()。なんだかちょっと安っぽくて……(?)。

 

 プリへーリヤさんは、「ロージャ」と呼び掛けるときの「ジャ」が、жа ではなくちゃんと дя になっていたのが大変よかったです。あれ、慣れるまでは結構難しいですよね。

 

……こんなところでしょうか!

 

最後に

 長くなりすぎました。通読ありがとうございました。脅威の15000字。前置きに3000字取られたとはいえ、何にせよ長すぎますね……。

はじめて演劇のレビューを書いたので、こんなかんじでよいのかどうだか? オペラやバレエはよく書くんですけどね……。久々に演劇をやっていたときのことを思い出し、それもあってか熱が入ってしまいました。そうなのです、前述しましたが、演劇はあまりにもメタ的な意味でハラハラしてしまうので、あんまり観に行かないんですよ、逆に。今後は演劇も真っ当に楽しめるようになればいいな……と思いながら執筆しておりました。

 いや、しかし、予想に反して(※筆者は原作至上主義限界オタクなので原則的にメディアミックスには懐疑的です)、舞台版『罪と罰』よかったですね……。さいわい、映像として残っているので、視聴できる環境にある方には是非観て頂きたいです。

 それでは、もういい加減に長いので、締めたいとおもいます。長い長いと言っておきながら、「罪罰マラソン」自体はもうちょっとだけ続くんじゃよ。もし宜しければ、そちらでもお目にかかれればとおもいます。以上です!

 

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